1. 農業で心も懐も豊かにするチャンネル
  2. #091 バンドマン国際支援そし..
2024-03-28 25:16

#091 バンドマン国際支援そして農業との出会い - 山浦昌浩インタビュー前半

本日から2日間にわたり、友人であり、新しくクラウドファンディングに挑戦している「山浦昌浩」さんのインタビューをお送りします。

本日は、インタビューの前半をお送りします。
前職の農業法人に就職するまで、
東京でのバンドマン、国際支援NGO、トラック運転者、そして中国での農業に携わるなど、数々の経歴をもつ山浦さん!!
その行動の底流に流れるものとは?

【お知らせ】
山浦さんが挑戦している、八ヶ岳の高原を独り占めできるクラウドファンディング✨
開催4日で目標金額を達成し😱、現在ネクストゴールを目指しています!!
八ヶ岳の7000平米の高原で、新しい体験に光が当たります🎶
https://camp-fire.jp/projects/view/745610

#クラウドファンディング
#山浦昌浩
#八ヶ岳
#八ヶ岳ひとりじめ
#キャンプ
#ソロキャン
#ファミキャン
#heartichfarm
---
stand.fmでは、この放送にいいね・コメント・レター送信ができます。
https://stand.fm/channels/63f5d147390e8c58c62a6397
00:06
皆さん、おはようございます。 野菜がつなぐひととひとハーティッチファーム代表もとです。
本日も、農業と学びで心も懐も豊かにするチャンネル、始めていきたいと思います。
この番組は、国内最大手エンジニアイング企業で、17年間世界を飛び回っていた企業選手香川本文美が、
40歳を機に脱サラ収納した経験をもとに、農業、ビジネス、キャリア、学びなどについて話しチャンネルです。
おはようございます。 今日はですね、以前ちょっとお知らせしていた、
私の友人で新しくクラウドファンディングを始めた、山浦さんへのインタビューをお送りしようと思います。
彼がどうしてこのクラウドファンディングを始めたのか、その思いや、彼の経歴から含めてインタビューでお聞きしておりますので、
皆さん聞いてみてください。 今日と明日の2日間にわたって前後半でお送りしようと思いますので、
今日はその前半部分をお送りしようと思います。
はい、それでは次のチャプターから配信しますので、よろしくお願いします。
はい、こんにちは。今日は山浦さん、前ちょっと紹介した山浦さんに、
彼がやっているクラウドファンディングのことをお聞きするインタビューをやろうと思いますので、楽しみにしていただければと思います。
それでは早速山浦さんにちょっと自己紹介から始めていただければと思うので、よろしくお願いします。
はい、今日はよろしくお願いします。
自己紹介というところで、自分は今山梨県の奥都市に在住してまして、
この後経歴もあるかなと思うんで、現状の話になりますけども、
現在道テラスという野望で活動しておりまして、
まだ個人事業にして動いてはいるんですけども、
仕事の話がいいですかね。
うん、いいですよ、プライベート。
仕事は、今個人事業として、
それこそ川上さんと一緒に行ったカウモジャのツアーをやったりとか、農家さんのサポートをしたりとか、
農業系の企業とか会社さんから作業自宅をもらってやっていたりというところで生きてきたんですけども、
先ほど紹介していただいたとおり、クラウドファンディングを今挑戦してまして、
まさかのキャンプ場を開くというところで。
これも新しい企業としてやりたい。
03:01
そうですね。
なんとか子供が3人もいるんで、飯を食わせていかなきゃいけないというところで挑戦しております。
ちなみに、お年を聞いていいのかどうなのか、あれですけど。
ああ、もちろん。
19、2ですね。
どういうこと、10、9、2?
ああ、10歳、9歳みたいな。
ああ、私のお年ってことですか。
43歳の若いものでございます。
43歳の。油が乗り切ってる。一番いいという感じですね。
そうなんですよね。先ほどご紹介していただいた、この前私が配信したカンボジアのツアーも、
山尾さんがコーディネートしてくださって。
あれも、今は毎年じゃないのかな。定期的に行ってらっしゃるんですよね。
連れて行ってるんですよね、カンボジアに。
2018年の全職のときから参ってまして、コロナのとき、2021年だけ行けなかったです。
あ、そのほとんどは毎年行ってらっしゃったんですか。
毎年何かしらの形でお客さん連れて行って、今でも今年もまたやりたいなということで、それも防止。
いやーほんとね、あれね、配信聞いていただいて皆さんわかるかもしれないけど、めっちゃ楽しかったですね。
ありがとうございます。
いい体験できましたよ、ほんとに。
これ聞いてらっしゃる農業関係の方とも、ぜひともカンボジアの世界観もそうですし、何か未来にありそうっていう感覚がいいですよね。
いやーやばいですよね。まだまだこれから感がすごいじゃないですか、カンボジアに。
ほんとに。
そういうチャンスを。
筋脈が眠ってそうですよね。
眠ってます。そうなんです。
そういうカンボジアツアーなども主催していただいてる山浦さんですが、
その辺も含めて、今ちょっと話出ましたけど、前職の頃からとかいうのも含めてなんですが、
今は独立されて道テラスという野望で個人事業主としてやられてますけど、
この前の経歴というところをご紹介いただければと思います。
そうですね。直前の職業は農業法人のサラリーマンと。
一応農家という肩書きではあったんですけども、サラリーマンだったと。
その前で言うと、それこそ高校を卒業して東京に4年間行ってたんですね。
まだ働きたくないし学校にも行きたくないっていうことで、
フリーギターでなんと東京でバンドをやるっていう戦いをしました。
たくましい。素晴らしい。若かったね。
自分で生きていくんだということで、フリーギターをして。
バンドもそこそこやったんですけども、やっぱり東京なんか行くとですね、
06:03
もう上には上というか、能力的なものでなくてですね、
アーティストってこんな感じなんだと思って、
とてもこんなふうには僕はなれないなってすぐ思ったんですよ。
全然なんかもう違うんですか、やっぱり。
僕けっこうちゃんと考えるタイプなんですけど、
なんで昨日20年ってことはないかわからないですけど、
ローンで買ったギターを今日折れるんだみたいな。
あ、もうノリでその、僕のノリで?
ライブパフォーマンスというか。おっちゃんですね。
かわいそうだから僕のギターあげたりしてたんですけど。
これがアーティストというのは、僕はこれにはなれないなと思って。
でも音楽は好きだったんで、続けている中で、
香川さん、我々の世代だとはわかると思うんですけど、911の入力同時サースゼロがあって、
そのときにこれはもう僕の出番だと。
やらなきゃと。
僕が動かなきゃこの世界は変わらんなっていう素敵な勘違いをさせていただいて。
素敵、すごい。
あれを見てそう思う感覚がある意味すごいですね。
いやそんなパッと思ったわけじゃないですけど、
毎晩やってたじゃないですか、毎日朝から晩まで。
何日かずっと冒頭見てたんですけど、
ああそうかと、大変なことが起きたなって言ってるばっかりじゃ多分何も変わらんなと思ったっていうのが本当のところで。
じゃあ世界に行くためにはどうすればいいんだっていうことで、勉強というか調べさせてもらって、
まずは社会人としての経験値も必要だっていうことで。
まず言葉も必要だなと思ったんで、留学をしたいと。
じゃあ外人経験を取りながらお金を貯めようって言って、3年ぐらい働いたんですかね。
そのときはもう介護とかもやってたんで。
そのお金を貯めるときの仕事としては。
最初の社会人は介護でしたね、バイト以外は。
なるほどなるほど。
そんなこんなで、そういうと若かったんでね、遊びながら貯めて。
150万ぐらい貯まったんで、それに握りしめてイギリスに行って留学という形で行ったんですけど、
あまりにも学校が楽しくなくてですね、語学学校というやつが。
語学留学という形で行ったんですね。
そうですね。大学行く頭はなかったんで。
語学留学行ったんですけど面白くなかったんで、どうしようかっていうことで、
まあそうやっても仕事を、そのときイギリスポンドがめちゃくちゃ高くてですね。
タバコが1箱2000円とかするような時代だったんですよね、イギリスでは。
09:01
すぐ150万、もう半年持たんぐらいでなくなりそうになって。
もう怖っ。
そっから仕事だって言ってバイトしたりして、日本食屋とかから始めたんですけど、
やっぱり英語を勉強しに行ったんで、日本食屋って全然学べないですよね。
で、知り合ったのがケータリングの会社、いわゆるフェスで、
テキ屋ですね、みたいな会社に出会って、そこがもうとにかく多国籍で、
タイ人を中心に韓国人もイギリス人もオーストラリア人もキルギスタン人もいろいろ行ってですね。
すごい。
そこで働いてたらやっぱり、仕事なんで、どうしてもわからないじゃ済まされないっていう責任感から、
ある程度そのときに喋れるようになって、2年ぐらいいたんですけども、
じゃあカンボジアだと。カンボジアだとは思って、ちゃんとCNの世界に行きたいなと思いまして。
そっからCNの世界に行くのね。
そうなんですね。それが目的なんで。
で、イギリスのほうから、今回のクララファンじゃないですけど、
かなり50件以上ぐらい、なんとなく目立ってそうな国際CNの人にメールしまくって。
その頃からメールするのは得意だったんですね。
とにかく当たって砕けるタイプだったんです。
そこで引っかかったのがカンボジアだったんですよね。
最初から決してカンボジアっていうのっていうよりは、そうやって探ってる中で行き着いたとこだったんですか。
そうですね。もちろん南米とかアフリカとかも入ってたと思うんですけど、覚えてなくてあれですけど。
結果的にカンボジア良かったなって思ってるんですけど、
たまたまちゃんと対応してくれた方が、
カンボジアだったらインターンとして入れそうなとこあるから紹介するよって言ってもらって、
カンボジアもそこだというところで。
すごい。それでもうカンボジアそこから行って、
もうそこからカンボジアに行ってもう数年ずっといるんでしたっけ。
そうですね。一回ちょっと体裁を整えるために日本に帰ってきて、
1、2ヶ月して荷物を整えてカンボジアに行って。
それでもインターンなんで、2、3ヶ月の予定で行ったんですね。
そしたらですね、2、3ヶ月の間にめちゃくちゃ幸せだった。
孤児院に行ったり、地方農村に行ったり。
香川さんもね、今回地方農村に行きましたけど。
ああいうところで井戸を掘る活動に授かったり、スラムに行ったり。
めちゃくちゃ幸せだなと思っていて。
ただ、インターンだったので、
こういう仕事をちゃんとするためには技術が何かしら必要だっていうのはわかりし、
私たちも一応わかっていたので。
本当は看護師になろうとしてたんですよ。
へー、そうなんですか。
12:00
エリザベス・キューブラー・ロスっていう精神科医で有名な方がいまして、
「死の瞬間と死後のせい」っていう本を書いてる有名な方なんですけど。
その人の本ほとんど読んで、これはちょっと医療というか、そっち側に行きたいと。
ただちょっと医者はハードル高いんで、看護師かなーと思ってたんですけど。
もうひとつ、かもじゃに言って1ヶ月目で今の嫁さんと出会い、2ヶ月目でもう付き合ってたんです。
そのインターンの間に今の奥さんも付き合ってたんですか。
素晴らしい。
ってなったら痛いじゃないですか。
そうだったら痛い。
でもそれが思いが叶ってじゃないですけど、3ヶ月目でそろそろ帰らなきゃいけないし、
考えなきゃいけないなって思ったタイミングで、
ずっと見ていてくれたらしくて、現職スタッフの方が。
僕それまで何も自分で突き抜けた能力ないって思ってたんですけど、
何もないんですけど、何でもできる。
そのマルチさみたいなのをやっていただいて、
社交的な面もあり、国際的には結構音楽とかとの親和性があって、
子供たちも喜ぶんで、ギター弾いて歌う歌うとめちゃくちゃ交流になるというか、
そういう面もありますし。
音楽がそこで活かされたっていうのもあるんですね。
その時は英語も喋れて、
カメラとかも趣味でやってたんで、
いろいろ持ってたんです。手持ちの武器がまあまああって、
それを見てこいつ使えるってなったんだと思うんですけど。
で、よかったらそのままカンボジャにいて、一緒にスタッフやらないかって言われて、
え、じゃあやりますと。一旦看護師を置いておいてやります。
スタッフとして。
そうなってくると楽しいんですけど、
彼女とも同棲したりとか、今の嫁なんで別に何も悪くはないんですけど。
ただやっぱりいろんな支援して、最初はずっと転具というか調子に乗ってるんですよ。
その時でももう27歳とかだったんですけど、
たくさんの人が、少し前とかだと国際支援の学生スタディーツアーみたいなのって
めちゃくちゃ流行ってた時期があったんじゃないかなとは思うんですけど。
いっぱい来て、やっぱり現地に住んでる高生年ということで、
高生年でもないんですけど、がっつり入れてもらえてるから。
なんで、やっぱモテるんですよね。
かっこいいとか素敵とか、海外で働いてるとか。
それはもう男女ともにですよ。
もう既に嫁がいたんでね、なんもできなかったです。
15:00
モテてはいたと。
モテてはいたんです。多分ですけど。
かんさまですよね。モテますよ。
ありがとうございます。
そうなの。ちょっと転具になってたってこと。
転具というか、調子に乗ってて転具になってたんですけど、
ありがたいことにというか、ちゃんと国際支援をしたいっていう気持ちがあったんで、
ちゃんと世界を変えたいとなったときに、
本質的なものが長くいると見えてくるんですよ。
カムジャの闇というか。
政治の闇であったりとか、法律的な闇であったりとか。
要はお金とか、人殺しても大丈夫な国だったりとか、
冤罪とかがいかつかったりとか。
そういうところがだんだんとわかってくるんですね。
わかってきたんですね。
それがカムジャ人の友達とかのレベルで起きたりするんですよ。
ってなってきたときに、これはちょっと今のタラタラしたって言ったら怒られますけど、
今の状況では僕に変えることはできんなと。
もちろん政治的なもんだって、一般NGOであれ変えることは難しいんですけど、
それでもやっぱりちょっと今の自分では力がなさすぎるし、
これは調子に乗ってる場合じゃないなと。
結構絶望に落ちたんですよね。
何度か。これはなんもできんなみたいな。
見えるところだけでは井戸掘ったりとかして、
生活を幸せにさせてそうだけど、
実はもっと深いところでは何も変えられてないみたいな。
変えられてないなと。
本質的に変えるためにはどうすればいいんだろうなっていろいろ考えて、
とりあえず今のままじゃだめなんだなと。
もちろん全てを変えることはできないってことに気づくというか。
それはね。
それと同時に実家の事情とかもあってですね、
実家の会社がいろいろ問題があったりして、
変えらなきゃいけないっていうこともあったんで、
ちょっと一旦変えろうというところで変えて、
じゃあここからどうやって生きていこうかなと。
実家のことはいろいろお手伝いもしたりして、
あれなんですけども。
お手伝いもしたりしてというか、
ぶっちゃけて言うと会社が倒産して、
実家の会社が倒産して、大変な事態になったんで、
そうだ、借金が残っているということで、
大型ドライバーになったんですね、いきなりというか。
すごいよね、その転身というか。
動きがすごい。
お金がよかったんで。
でもやっぱりね、
そんだけいろいろやってこさせてもらったんで、
大型ドライバーは仕事としては全然否定する気もないし、
必要な仕事なんですけど、
やっぱり面白くはなかったんですよ、僕にとっては。
で、めちゃくちゃ悩んでるときに、
カンボジアでの知り合いに、
農業関係でカヤガで仕事をする会社が人募集してるけど、
18:02
興味あるって言われて、
もう興味しかないですと。
もうドライバーになるんですね。
私の出番ですということで、
その当時はまだスカイプとかでしたけど、
スカイプで面接して、
その現場がまず長野県の軽井沢だったんですよね。
農業の畑がある会社が。
もう結婚していて、その当時にはですね。
トラックドライバーになるちょっと前とかに結婚をして、
子供もドライバー中に生まれて、
これは頑張れればっていうところで、
単身生まれたばかりの子供を置いてですね。
嫁を置いて単身軽井沢に行って、
そこで初めて農業と出会ったと。
から農業に繋がっていくわけですね。
それがその前職の会社なんでしょうか。
いや、前職のその前で。
その前か。それがその前だよね。
でもやっぱりその縁で農業に出会って、
それがめちゃくちゃ結果的に良かったなとは今思っていても、
そうですね、15年前ですね。
15年前、10年前ですね。ごめんなさい。
そこで軽井沢でまず農業を一緒にやるっていうことで、
他品目でオーガニックの野菜を高い棟で送ったりとか、
地域に下ろすっていう会社、日本ではその農業をやってたんですけども、
そこで初めてトラクターを乗り、栽培とか、
穴あい作りとかを全部やって、それが本当に楽しかったですよ。
その作業自体が。僕がやっても目が出るんだみたいな。
なんか育ててる感の充実感みたいな。
自分が作ったものを送ったり、誰かが食べてくれるっていうのはとにかく楽しくて、
こんな仕事だったんだな、農業みたいな。
それで軽井沢の夏場の半年間を終えて、
じゃあいよいよ海外ですよねと。
もともとその会社に入った理由は海外が目的で僕は入ったんで。
そうだったんですね。
副産物として農業楽しいだったんで、最初は。
もともとその会社はインドネシアでお米を作ったりしていて、
僕もインドネシア行きたいと。
カンボジア居たんでインドネシアがいいなと思ってたんですけど、
なぜか中国に飛ばされまして。
そうだった。そっかそっか。
中国の上海の近くの昆山っていう日本人の中で誰一人いない町に飛ばされまして。
すげえな、その経験が。
そこでまた圧倒的な孤独っていうことを経験することができまして。
そのときも単身で行かれてるんですよね。
単身です、もちろん単身で。
おじさんと子供が日本で。
そうなんですよね。
21:00
たぶん20ヘクタールあったと思うんですけど、
大ハウス群の中国の会社に入れられて、
日本から来た農業アドバイザーという肩書きで飛ばされましてですね。
収納半年、大品目無農薬なんて適当に作ってただけなんですけど。
こえー。それで20ヘクタールのハウスを買う。こわー。
管理というかアドバイザーなんで、要所要所なんではあるんですけど、
とはいえ素人なんです。
プラスアルファはもちろん中国語がしゃべれない。
中国人の現場レベルにしたらもちろん英語もしゃべれないし、日本語ももちろんしゃべれない。
Google翻訳の精度もまだまだ悪いと。
お互い何やってるのか全然わからないですね、やりながら。
中国語は難しいっすもんね、ほんとに。
僕は言語あんま得意ではないんですけど、特に中国語は伸びなかったですね。
わからない。私も3年ぐらいいましたけど、覚えてない。
そうですよね。
そうかそうですよね、中国。
それが1年ぐらい一応頑張ったんでしょうか。
前の会社は半年軽井沢で日本でやって、半年中国でやったんですけど、
結局中国の、僕もだいぶ病んでたっていうのもありますけど、
最終的にやっぱり中国側との折り合いというか、
こちらが預けていたお金とかがなぜか返ってこなかったりとか、
いろいろ揉めたんですよ、半年ぐらいで。
これはどうですかと、その次の社長にお伝えして、
これちょっと私、全くもうこっから逆転する自信がないです。
というところでいろいろ問題を提起したところ、
ちょっと中国うまくいかないねということで、
一旦撤退の話が出て、
私の力が足りなかったといえばそれまでなんですけど、ちょっと難しくて。
じゃあもう撤退しようって社長が決断してくれたんで、
じゃあそのタイミングで辞めますと。
給料ベラボーに安かったんで。
それで安いのやだ。
そうなんですよ。給料も自分で補助金で稼ぐことをやってたんで。
これはちょっと無理だなと思ったんで辞めて、
で辞めたときに、たまたま以前から知り合っていた長野県のアグレスという、
ほうれん草の大きい農業法人に拾っていただいて、声をかけていただいて、
やっとそこにたどり着いて。
そこは安定した給料ですね。
アグレスだったんですね。
そうなんですよ。
初めて山浦夫婦、そのときは2人でしたけど、
初めて給料を安定してもらうっていう経験を農業でしてです。
よかったねって言って。
そうですよね。それまで単身で中国行って給料も安くてなんていうところまで生活してた。
24:04
ここでやっとアグレスで安定した職につけたと。
し始めたというところですね。
すごい。なるほど。
アグレス、それで私と山浦さんが出会ったのもそのアグレスでの一環で出会ったんですね。
3年前でしたっけ?
そんな前ですか。今となればもう3年前ですね、多分。
加工品を作ったときなんで。
そうですよね。
そこでちょうど私も山浦さんと会って、その頃山浦さんもいろいろな活動をされてた。
ちょっとその辺も含めて、次回のところでお話聞かせてもらおうかな。
そしたら次はアグレスでの山浦さんのいろいろな活動、
そしてクラファン、今回立ち上げるクラファンへの話を続いていく感じで、後半戦に行きますので。
ありがとうございました、前半戦。
はい、ありがとうございました。また次よろしくお願いします。
25:16

コメント

スクロール