どんなきっかけで、そういうのを振り返ってみることになったんですか?
それは、新卒で働いていたときに、全然自分の人生の舵を握れていない感覚だなみたいな、
すごい落ち込むっていうか、どうしたらいいのかわからないっていう状況になったっていう話は前にしたと思うんですけど、
そこですかね、そこが人生の中で一番どん底ぐらいの精神状態というか、気持ちになったときだったの。
そのときに、なんで私は自分の人生の舵を握れていないっていう感覚になってるんだろうかっていうことを考えたっていうのが一つきっかけにあるかなと思います。
なるほどね。そこで自分の声かけがどうなってるんだろう、どんなことをかけてるんだろうっていう着眼点になるのはすごいなというか、
どんな経緯だったんだろうって気になりました。
多分その当時いろんな本を読んでいたっていうのもあるんですけど、
一つすごく思ったのが、やっぱり自分の選択によってでしか人生って変わっていかないと思ったんですよね。
その当時の自分の人生の舵を握れていない感覚の人生、生活をするに至った今までの自分の選択ってなんだろうかっていうことに目を向けたんですよ。
その選択をするときに自分はどんな考えを持っていて、何を持ってその選択をしていたのかっていうことを振り返ったときに、
必要以上に私は自分のやりたいこととか、自分がこう思っていることっていうのを否定して、
友人とか親とか、他の人から見られたこういうものがいいよねとか、
でもこんなことは自分にはできないから、ひとまずこれをやってみようみたいな意見を取り入れていたってことに気づいたんですよね。
プロセスとしては、新卒の就職活動でお勧めされるような過去の出来事を振り返って、それに対する判断がどうだったかっていうのを振り返るんだっていうのを、
社会人になってからやったっていうふうにも見えますね。
でも新卒のときって、私も一応やったんですよ。
自己分析も全部自分の年表を書いて、それらしいことは全部やって、いくつか内定をもらって、
就職をしたときは、そうだよな、この会社が私には合ってるんだなって思って入ったんですけど、
自分の判断軸っていうものが果たして本当に合っていたのかって、
その当時はわからなかったものがすごかったなと思って、
そのときに就活をしていたときに、自分が大切にしすぎてしまったものっていうのは、
自分が何をやりたいかではなくて、どう見られるかとか、
社会としてどういうふうにあるのが正しいことなのかとか、
そっちに主眼を置いたものだったんだなっていうのにようやく気づいた感じでしたね。
なるほどね。確かに就職活動のときに振り返る自分の過去って、
学生時代あって部活動とかバイトとか研究とか、そういうところになっちゃうと思うんですけど、
会社入ってからって逃げられないじゃないですか。
すぐに辞めたって言って転職したりとかできないし、
部活とかも学校とかもすぐに辞めたり投げ出したりしてない、
粘り強く頑張った経験だと思うんですけど、
出発点全部自分でやりたいことやってるだけっていうのがあると思うんですよね。
お願いされてやってないっていうのもありますね。
仕事になるとそうじゃないから、結構違う軸で自分のことを見直さないといけないっていうのは、
私も転職の経験があるし、そういうふうに感じましたね。
ノータブルラジオ。
あと、紗友子さんの話を聞いてて、
このセルフトーク、自分にかける言葉っていうのと、
周りからの期待っていう話がすごく密接にかかってるふうの話をしてくれてますけど、
ここらへんってどういうふうに関係してるんですか?
なんか、ここね、たぶんちゃんと分解しないといけないなという気はするんですけど、
女性はもしかしたら多いのかもしれないですけど、
期待されていることにすごく敏感に察知する方って多い気がするんですよ。
今、コミュニティをやっていてもすごく感じるんですが、
会社とかパートナーとか、子供との関係性の中で、他者が自分に何を期待しているのかとか、
自分は他者のために何ができるのかっていうことを、
すごく優先して考える癖を持っている方がとても多いなって感じるんですよ。
私ももちろんその中の一人で、男性がそれがないわけではないんですが、
比較的、特に日本の社会は女性にそれを求めている風潮もあるので、
それがすごく密接な関わりとしてあって、
それが自分自身も無意識のうちに、
イデオロギー的なものなんでしょうかね。
文化とか、そういうものの密接につながっていると思うんですけど、
無意識に自分もこうあるべきとか、こういうふうに相手が思っているんだから、
こういうふうにしてあげなきゃいけないみたいなものを察知して、
それを自分にセルフトークとしてしている方って結構多いんじゃないかなと思うんですよ。
っていうのが1つと、あとはなんか、やっぱりなんだろうな、
これも難しいんですけど、間違っちゃいけないとか、
1回こう失敗したら、もうそこで終わりだとか、
あとはただの会話なのに、無意識に相手に勝とうとしている自分がいるとか、
自分の中で他者との折り合いがつかないさとか、
そういうものもすごく密接にある感じがあって、
それをもとをたどっていくと、やっぱり自分であるというか、
自分が自分のまま受け入れてあげられているか、
需要できているか、間違ってもいいんだよとか、勝たなくてもいいんだよとか、
そういうものを真に自分に話しかけられてあげているかによって、
すごく変わってくるなっていうのは思うんですよね。
なるほどな。前半の、もしかしたら女性に特有かもしれないって言っていた、
相手の期待を敏感に察知して、それに応えようとしてしまうっていう、
献身的なのか、満たそうとするなのかっていう感覚、
僕も少なからずあるんじゃないかなっていうふうには感じていて、
ただ、相手の望んでいることを先回りしてやるみたいな話って、
もう古いけど、サラダを取り分けるみたいな行為が、
女子力高いみたいな表現で、もてはやされた、
やゆされてたのかもしれないけど、
でも、そういう女子力高いって言葉は結構やべえよなっていうのは、
改めて思うわけなんですけれども、
そういう、この場面ではこうするよね、女子力高い人はね、みたいな期待として、
世間にももう、表出してたんだなっていうのを話し聞きながら思いました。
最近、サス級とか言って、
九州、全ての九州の人がそういうわけではないと思うんですけど、
九州という土地柄、そういう考え方を持ってるみたいなのが、
Xですごい話題になりましたけど、
でも、やっぱり私、関東で生まれ育ったけど、
少なからずそういうのあったし、
今の両親とか、それ以上上の方を見ると、
やっぱり女性が何かをして、男性がそれを座って享受するみたいな構造って、
私が幼いときから、本当に当たり前だったっていうのは、本当に感じますね。
女子力っていう言葉も、もちろんそうですし。
確かにな。
私の父はイギリス人だけれども、
食事が配膳されて、下げられてっていうところを積極的に手伝ってた様子は見なかったので、
今思わず、給食って口に出してしまうくらいには、
配膳、食事作ったり、用事したりって母親の仕事なんだ。
僕はほとんど手伝ってなかったんじゃないかな、思いながら。
でも、僕のジェネレーションで僕が親になって、
今やってること、自分が主婦として食事作って出したりって話は、
これ本編と全然関係ないけど、
そういう、何だろうな、
周りの価値観を内在しちゃってるっていうのが問題じゃねっていう話を、
さゆこさんしてくれてますよね。
そうです、そうです。
だから、何だろうな、
すごく覚えている記憶じゃなくても、
日常の中に溶け込んでいる無意識の記憶たちにも、
私たちはすごく影響されていますよね。
相手からの期待とか、
何も言葉を発されていないけど、求められている感覚っていうのを、
やっぱりみんな覚えているから、
それに基づいたセルフトークをしていくと、
なんか、相手に求められた、他者に求められた、
こういうふうであってほしい、あるべきだ、みたいな像をベースとした考え方とか、
選択をしていって、
その先に、自分の人生の、何だろうな、
舵を握れていない感覚になっていくのかなっていうのを思うんですね。
なるほどな。
なんか、セルフトークっていうのが、
自分が、例えば迷った時、
例えば、何だろうな、やめようか、どうしようかとか、
続けようかっていう苦しい時だったり、
あるいは、この難しい判断どっちにしようかなっていう時に、
選ぶ時の、あるいは自分にかける声の前提になっている価値観っていうのが、
周りに、周りの影響で作られちゃってるっていうことに、
まず自覚的でいなければいけないっていう話をしていたんですね。
そうですね、本当に。
あと、たぶん日常的にもそうだと思います。
何だろうな、子供が生まれて、特に私なんかはそうだったんですけど、
やっぱり、子供を中心の生活になっていくので、
普通に私は食べたくないけど、子供が食べられるのがこれだから、
これを分けて一緒に食べようとか、
私はこれをやりたいけど、でも子供がいるから、できないから、
これで我慢しようみたいな、
そういう、何だろうな、少しずつ、
気づかないストレスを自分にかけている回、
何を買うかとか、何を食べるかとか、何を経験するかっていうのも、
小さい決断じゃないですか、
そういうものをするときの、自分に対する接し方、セルフトークっていうのも、
積み重なるものはあるなという気がしていて、
よく、コーチングとかでも、私何がやりたいのか分かんないんですが、
自分は何が強みか分からなくて、
でも失敗が怖くて、人に言うのが怖くて、みたいな方って、
何だろうな、結構しかめ面して話されている方が多いんですよね。
何かこう、間違っちゃいけないなとか、
あとは、これを今言って、失敗したらダサい自分がいるなとか、
何かこんなことを自分は言っちゃいけないって、自分に言い聞かせてる人とか、
何かそういう、自分を一種否定したりとか、
否定まではいかないけど、蓋をしていたりとかする、
何ですかね、しかめ面したりとか、ちょっと苦しそう、
息が詰まってそうな感覚で話されている方って、
何かそういう場合が多いなという気がしていて、
そうじゃなくて、もっと自分に対して受け入れるというか、
失敗してもいいし、できなくてもいいし、
でもやりたいことをやらせてあげようよっていう感覚を持たれてる方って、
何かちょっと体感が違う見え方があるんですよね。
何か表情が少し柔らかかったりとか、それこそ何か胸が開けて、
何か呼吸がしやすそうだなって見えたりとか、
何かその、きっとそのセルフトークで、
自分が今自分に何を話してるか分かんないっていう方は、
自分が自分と何だろう、どういう体感で日々過ごしているのかっていうのに、
ちょっと何か着目してほしいなって思うんですよ。
なるほど、自分が自分とどういう体感で過ごしているか。
何かじゃあ具体的な言葉で何をかけてるのかっていうのを探しにいくっていうよりは、
今気分がいいか悪いかみたいな。
そうそうそう、気分がいいか悪いかみたいなことですね。
何か気分がいいって言うと何か、
ルンルン楽しいって想像するかもしれないですけども、
ルンルン楽しくなくても、何かこう落ち着いててリラックスした感覚で、
あ、私は自分がやりたいことを叶えてあげられる状態にいるなっていう感覚なのか、
それとも何かこうまたダメだなとか、
あーまたこれやっちゃった、これ苦しいなって思っている感覚なのか、
言葉にはならないけど体感には絶対感じてるはずなので、
何かそれにまず気づくっていうのはすごく大きな一歩なんじゃないかなっていう気がしますね。
うん、何か大きな一歩感じしますね。
自分は、私は今日話聞きながら、
なかなかこう自分にどんな声かけてるかあんまりピンとこないところが正直あったんですけど、
ただ、何かいける気がするとか、ちょっと無理そうみたいなことは日々日常で思ってるし、
よくする話で、ジムでね、重り選ぶときとか、今やってみてどうだったかっていう、
セオリーに従うと同じ重さだけど、
何かいける気がするって言って、いける気がしてないときも、
ちょっと上にチャレンジしなきゃ上に行けないみたいな感覚はあって、
そのときって頭の中でまさに自分が自分と喋ってるなっていうのは思いましたし、
そういう会話に、頭の中の会話内容がどうなってるかが自分の調子だったり、
あのー、なんていうの、生き心地?
うんうんうん。
生き心地なんて言葉あるのか。
でもいいですね、生き心地。
そういうものを認識することで、
ちょっと今日は休もう、ゆっくりした方がいいかもしれないとか、
今日はチャレンジできそうっていうところで、
一歩新しく踏み出してみる、
そういう前提になる自分の状態を把握するための一つのヒントが、
自分がどんな対話を頭の中でしてるのかにあるし、
そういう対話を周りから塗り固められた固定観念みたいな価値観で、
ひたえひたえ、引っ張る風に、
そういう力に影響されすぎないように、
やっぱりありたいねっていうのが、
今日のお話なんですかね。
うんうんうん、そうですね、そうですね。
なんか、本当にそうだと思います。
難しいですけどね、自分、固定観念を持たないで生きている人間なんていうのもいないので、
つどつどそれに不要な固定観念にぶち当たった時は、
それを振り返って意図的に変えていくっていうことをしていかなければ、
ずっと苦しいままだと思うんですけど、
その一つ目、気づくのが体感だと思うんですよ。