2021-10-07 42:50

【GMV 471】無資格で生きる

わたしはなんの資格も持ってません
00:05
おはようございます、グッドモーニングボイスです。
昨日は、すみません。
私、だいぶ最近、カチッと決めてきて、一応、祝日に関わらず土日以外は全部これをやると。
昔ですね、相変わらず私、同じ人の名前しか出てこなくて、これも自分の人間関係の狭さをよく物語ってると思うんですけど、
小橋哲夫さんが、仕事は土日休みで週5回更新とされてたんですね。
当時から、別にどっちでもいいことなんだけど、当時から是非はあったんですよ。
何でも是非はあるんですね。
つまり、毎日更新するべきだと。
個人ブロガーが毎日毎日毎日出し続けることで、その人をフォローする習慣が非常に確立しやすいと。
これはほとんど行動科学の世界ですけど、絶対にチーズの出るレバーを倒すのが、ネズミは学習するのが早いというのとほぼ同じ意味で。
だから、とにかく何でもいいから更新しろという話になりやすかったんですけど。
小橋さんは土日休むというのを確実にやってたんですよね。
これはやっぱりですね、連載持つとわかるんですけど、休むっていうのは結構いいんですよ。
いいことなんです。書く側にとってみれば。
やっぱり休み全くなく書いていると、これは何か投影じゃないけど、でも投影っぽい感じですよね。
ここで用語を持ち出すのは良くないかもしれないですけど、何か頭の中身があるテーマに特化させられていく感じがして、だんだん抜け出せなくなっていくんですよね。
そうじゃない観点から、物を書くときっていうのは、そうじゃない観点というものが不意に現れるのがとても大事で、それが全くなくなるということがだんだん起きてくるんですよ。
絶え間なく同じテーマで書いていると。
よく知っているネタがいっぱいあるはずなのに、それすら思い浮かばなくなるみたいなことが起こるんで、
でもこれだと毎日更新を批判しているみたいになるじゃないですか。
結局これはスタンスの問題みたいなところがあるんで。
当時もそれでいろいろ議論が百出していたんですけど、今となっては懐かしいわけですよ。
今となっては毎日毎日更新したところで、あるいは学習にしてみたところで、
もうよっぽど何かを考えないと、そんなブランディングとか個人ブロガーがすぐできるという状態では全くなくなりましたから。
03:05
そういうことが当時あって、私も週5にしようというふうに今、うんと回ってきましたけど、つまりそういうふうにしているんです。
今言ったみたいにネタのこともあるんですが、やっぱり週5をカチッとやるようにしてからまた聞かれる数が増え続けているんですね。
増え続けているとしてもすごい微増ですよ。ただ一時かなり大きく低下したので微増なんですね。
やっぱりこういうタイミングで来るんだと思うのを極力裏切らないことがいいんだなというのはあります。
これテーマを絶対的に、絶対的にと言ってもあれですけど、グッドワイブスか心理には絶対に寄るみたいな。
いきなり野球の話とかしないじゃないですか。野球の話をすることはあっても、野球の話だけするってことはない。
そういうぐらいにはテーマを固めているので、なかなかこういう話を他ではされないんだと思うんですね。
端的に言ってこういう話をベラベラ喋っているのはアホなんですよ。いろんな意味で。
だからそんなことを賢い人はやらないんですよ。
まあそういうこともありますので、この話を今日はしようと思っているんですけどね。
とりあえず、いきなり休むことは極力避けようと。
昨日はもうほぼ確実に不覚悟力ってやつで、珍しくですね。
昨日実家に帰ってきたんですよ。
でもう帰らん、実家は割と遠いんで、この時間に待ち合わせて親とやってしまった以上ですね。
起きた時間によってできることは完全に確立されちゃうというか、遅れたくなければですけど、絶対に行こうと決められるわけですね。
飛行機の時間が待っているみたいなものなんですね。
こういう時はダスクシュートが効果を徹底的に発揮して、これとこれとこれをやるためにはもうミニマムな時間だけしかやってないんですから。
荷物を用意するとか、服着替えるとかそういうのを全部立ち合わせるんですね。
もうどこをどう頑張ってもグッドファイブスをやってる暇はないなっていう、1分もないなっていう状態になるんですよね。
これ頭で考えればわかりそうなものなんですけど、実は頭で考えてもよくわかんないんですよ。
これはダスクシュートやってる人はほぼ同意してくれると思うんですけど、
頭でこれを考えると飛行機に乗り過ごしそうになって、
例えば朝食は抜くとか、一本違うとトイレも抜くとかしなきゃなんなくなるんですよね。
それがダスクシュートの一つの功用で、久しぶりにこれを味わったなっていう感じがしました。
つまりその程度のことも頭は足し算できないっていうことですね。
06:04
ですから昨日はちょっと落としちゃったと。
久しぶりにこの落とした感が出て、それも新鮮だったんですけど。
これ微妙なんですよね。
ポッドキャストは徹底的に自由にやるっていう風に最初決めたんで、
ぐちゃぐちゃでやるのも必要だと思うんですけど、
どこかでまとまってきているものにそわざるを得ないかなってところでまで戦うのも、
それもまたちょっと不自由かなと。
いろんな意味があって、とりあえず週5にしてみようという次第です。
祝日もなるべくやると。
祝日がやりにくいのは学校がないからなんですけどね。
そういう話をしてみたんですが、
つまりどうしてこの話をしながら、さっき言ったみたいに、
なぜこういう話が他では聞けないのかということ。
ちょっとグッドバイブスから離れちゃうんですけれども、
まずですね、精神分析など、心理学などについて、
しゃべるということは結構内面の抵抗というものにさらされるんですね。
なぜかというとそれは簡単でしてですね。
例えば、お医者さんじゃない人が医療行為やっちゃいけないわけですよ。
医療行為というのは医師免許というものがいるわけですね。
もっと簡単に言うと、車の運転って免許ないとできないじゃないですか。
つまり免許というのは、
免許もなしに急にやると、
社会にとっては有害であるという、そういうメッセージだと思うんですね。
でもよくよく考えてみると、これって結構不思議な話なんですよ。
で、よくよく考えないようにある程度はなっていると思うんですね。
めんどくさいですからね。
これについて考えたところで、さしたるメリットは得られないんですよ。
いくら考えても免許なしに車運転できるかというと、そうはいかないんですよね。
でも、車は自分で買ったものじゃないですか。
自分で買った自動で動く、自分で操作できるものを使うということが、
国の許可がないと許されないという、
最初、例えばそうじゃなくて、どんなものも最初そうじゃなかったと思うんですよ。
このように車ができた途端に免許が発生するということはできないじゃないですかね。
ドローンがいい例だったと思うんですよね。
ドローン最初、別に免許もなく遊べたじゃないですか。
でも危ないということになって、免許が発生するということになって、
それは妥当なことなんですよね。
妥当なことなんだけど、僕らはそうやって自由は一個ずつ失っていくわけじゃないですか。
医療行為の一口で言うけれども、
ここら辺にややこしさがいっぱいあるわけですけど、
例えば、歯を削って抜くとか、神経を抜くとかになったらですね、
これはもうダメですよね。
素人がやりましたというのは、かなりやばいと思うんですよ。
09:00
でも、例えば、
これはいいじゃないですか。
で、だんだんだんだん難しいところが出てくるはずなんですよ。
どこで線引くんだという話に、必ずなっていると思うんですよね。
まず普通に考えれば、何度か佐々木委員とか看板出して、
お金取ったらダメなんですよ。
例えレモンジュース飲ますだけだとしても、ダメなんですよ。
例えば、
お金を取る以上は、
効果があり、しかもその人じゃなきゃ、
つまり医師じゃなきゃできないことをやらなきゃいけない、
という側面があると思うんですよね。
でも、お金を取らずに家の中でやるだけだったら、
相当医療行為チックなことをやったとしても、
お金を取らずに家の中でやるだけだったら、
相当医療行為チックなことをやったとしても、
医療行為チックなことをやったとしても、
医療行為チックなことをやったとしても、
いちいち摘発するわけにはいきませんよね。
ということもあると思うんですよ。
たぶんお医者さんには怒られると思うんですけども、
でもみんながやっていることとして、
余った薬飲むとかね、
余った薬飲むっていうのは、
ダメだってことになっているケースがほとんどだと思うんだけど、
でも飲むと思うんですよ。
一歩間違うとですよ。
例えば私、留学先で実際そういうことはありましたけど、
来た留学生に、家にたまたまあった薬を
あげちゃうってことはあるじゃないですか。
私、アメリカ人に痛み薬をもらって飲んだことありますもん。
でもこれ摘発されないですよね、普通に考えれば。
でもそれは、
金は払ってないですけれども、
医療行為と言えなくはないですよね。
医療行為はそれでも、
免除っていうものがあるから、
心理的な医療行為的なものになってくると、
これはもうやむを得ずなんですが、
これはですね、
無理があると思うんですよ。
例えば隣のおじさんに、
学校の先生に進路相談しました。
これは心理的なのかっていう話をし始めたら、
かなり厳しいと思うんですよね。
実はそういう論争って、
心理的な世界には特に、
心理療法的な世界にはあるんですよ。
ありまくりなんですよね。
だって、はっきり言ってですね、
占い師だって人生相談しちゃうわけですよね。
しかもお金を取ると。
摘発するべきなのかっていう議論したらですね、
するべきだって人いらっしゃると思うし、
けんけんガフガフになってめちゃくちゃになっちゃうと思うんですよね。
けんけんガフガフになってめちゃくちゃになってるんですよ。
グッドワイブスだってそういう側面が
12:00
まるでないってわけにはいかないと思うんですよね。
この話は自己啓発には常につきまとっていて、
例えばオンラインサロンとかは、
詐欺家みたいな話をしたらですね、
それをブログで書いたりしようものなら、
それは全くかんこどりがなく場合はともかくとして、
その方が平和でずっといいんですけど、
ツイッターに投げたり、そういうことをやりまくってると、
きっと燃え始めると思うんですね。
だからそれはつまり微妙な問題だということです。
カチッと決めようっていう話は、
しょっちゅう実は心理学の世界では出てますよね。
臨床心理師という言葉のほかに、
最近、後任心理師かな、
しかもその心理師の師は侍じゃなくて、
医師の師、師匠の師になってるんですよ。
これには僕は深いわけがあると思っていますし、
たぶんあるんですよ。
僕が追っている中だけでも深いわけがあってですね、
老いそれとは触れない。
戸畑海人さんの最近書かれた
心はどこに消えたにも
後任心理師みたいな言葉が出てきてましたけど、
そこから取ったのかな。
とにかくそういうものがあるわけですよね。
僕はないんですよ、何にも全く。
これがまず一つ。
これがあるとないとでは、どれほど喋るという行為に、
僕のこの行為は、
ポッドキャストは聞いて誰も代価を払われているという人はいらっしゃらないし、
僕自身もアフィリエイトまで含めて
1円もこのポッドキャストから得てないとは言えるので、
これを摘発とかは絶対できないわけですよ。
ちなみにもう一つ摘発できない最大の理由として、
精神分析の話とかもそうですけど、
精神分析というのは後任とかではないんですよ。
後任会計士の後任みたいな、
あるいは精神分析者になる免除はないんですよ。
これあるべきではないという議論が、
そもそも精神分析にはありますよね。
とにかくないんですよ。
ないということはどういうことかというと、極端に言うとですよ。
私は精神分析家ですっていきなり僕が言っちゃってもいいどころか、
これを聞かれている皆さんがいきなり言っちゃったって、
ダメとは言えない。
ダメと言う人はいるかもしれないけれども、
それを取り締まったりするわけにはいかないんですね。
これはすごい私は大事なことだとよく思う。
大事なことだけど問題を発生させます。
精神分析の奥の方に書いてありますよ。
精神分析みたいなことを
そこら辺の素人がやったらとんでもないことになるから
絶対ダメだみたいな話。
何らかのニュアンスでそういうことが書いてありますよ。
精神分析というのはできないんだとか、
分かっていない人はできないんだとか。
でも私これを本に書くのって実は少しおかしいんじゃないかと
しょっちゅう思うわけですよね。
本にそれを書くということは、
じゃあその本なんで売ってるんだっていう感じが
15:02
私はどこかでよぎるわけですよ。
だって本を売るということは、
その人は精神分析について知るってことに絶対なりますよね。
そこにいかに戒めが厳しくされていようとも、
それをやっちゃいけないという法律があるわけではないし、
それをやっちゃいけないという法律があるわけではないし、
その人が人の人生相談に乗ろうとした時に
その人が人の人生相談に乗ろうとした時に
押し留める権利が著者にあるはずはないと思うんですよね。
こういうことっていっぱいあると思うんですよ。
実はこの世の中にもっともっと
ずっと技術的な話をした場合でも出てくると思うんですよ。
例えば、iPhoneの操作とかね。
でもiPhoneの操作を公認にするのっておかしいと思うんですよね。
するのっておかしいと思うんですよね そんなことをしてしまったら
近所のおばさんにiPhoneの使い方 聞かれたとき私現にそういうこと
はありましたけれども 教えちゃダメだってことになる
じゃないですか でもそういうことってあり得ない
ですよね 無料ならいいのか有料お金も取れば
いいのかみたいな話だって この心理療法みたいなところ
では出てきちゃうわけですよ ものすごい鬱で調子が悪いんです
と素人が口出しちゃいけないと思 ってだったら周りの人は何にも
本を読まないほうがいいのかと とにかく病院行けに病院行けって
言い続けるのがベストなのかと そういう考え方もあるとは思
うんですけどね でも普通はそうは僕はならない
と思うんですよ じゃあ本を読まないとどうなる
かというと本を読まないとある 意味一番いいんですよ
だって精神分析のことも知らず 世の中にカウンセリングという
のがあることも漠然としか知らない 人が調子悪いんだけどって言った
ときにじゃあ寝てなさいよっていう のはこれはいけないのかってこと
その人の頭にはよぎらないですよ ね何にも知らなければ
何かを知っていることによって ええこれってどうなんだろうって
思ったときにさあどうするかって ことなんですよね
何にも言わないのがベストなのか と一番いいのかと
でこういう話はやっぱり例えばコンピューター がウイルスにやられそうになって
ますというのもについてもいや 専門家じゃない人は口出さない
方がいいんですってことになったら じゃあこの人はもうウイルスに
やられるのか目の前で見えている けれどもそれに近いことが私は
実際に母の携帯であってですね やっぱり口を出すんですけどね
だって口を出すに決まってます よね
何かヤバそうなものを開きそう になっていると
でも私は専門家じゃないからそういう コンピューターウイルスの専門家
がやってくれるまではここでリテラ シーのない人に対してある人だから
と言って黙っていたほうがいい みたいなことには絶対にならない
じゃないですかここまでいったら 完全にコントになっちゃいます
よね でも私は精神分析みたいな本を
読んだ途端にこの問題に触れる ことになってしまう気がして仕方
がないんですよね ある意味読めば読むほどいかん
わけですよ だって読めば読むほどその人詳しく
なっちゃうじゃないですか 黙っていることも何かを言うこと
18:03
も精神分析的な意味を持つということ を意識せざるを得なくなっていきます
よね 意識するってこと自体がダメです
って言うんだったら本を出している ことが一番ダメですよねっていうこと
になりかねないじゃないですか この話はすごくややこしいなと
つくづく思うんですよね その臨床心理師だの後任心理師
だのいろんな名前のものがポコ ポコッと出てくるのには多分こう
いった事情が常に常に絡みついて いてだって身内に引きこもりの
人がいるという人ははっきり言 っていっぱいいるわけですよね
100万世帯みたいな言い方をして ますよね
何にもしないってわけじゃない 何にもしなかったら多分それは
それで問題だと思うんですよ 一方違うと法に触れますよね何
にもしないということは放置して 殺したってことになりかねない
わけですよね でも何かするってことは大変難しい
ことなわけですよ 例えば誰かそういう場合は医療に
つなぎなさいって必ず言われる んですよね医療につないで病院
に行かせなさいと 行かないって言われるはずなんですよ
私は病気じゃないからっていう 人いっぱいいると思うんですよね
私もこの種の話で行かないって 話は何度も何度も聞いてるんですよ
行きましょうって言ったって行かない って言う人を無理やり引きずり
出すわけにはいかないわけですよ ねそれこそ
来てもらうかって話もあるんですけど 会わないって必ず言われるはず
です 来てもらうっていう話をします
よね 前にちょっと事件があったわけ
ですよね 勝手に呼んだということで障害
っぽい事件になってしまうとか だから下手に呼ぶこともできない
そもそもお客さんに入れるのも ダメだって言う人だっているわけ
ですよ お客さんでがダメなのにその人の
ために呼んできたなんとかセラピスト とかカウンセラーとか入れていい
はずないじゃないですか でもそうすると医療につなぐっていう
のはどうやるんだってことなんですよ 私現に場所は言いませんけれども
あるそういう施設の方に電話しましょう って書いてあるから電話したことが
あるんですよ 相談窓口みたいな本当にお兄様
の心配はよくわかりますって何度 も言われておしまい
これはでも相手からするとそれ以上 のことは難しいだろうなって私は
思うんですよね 思ったんですよ
いろんな話をしたけれども4,50分 に渡って話したと思うんですけど
要は本人を本人を何らかの形で 説得しましょう
これができないからその方法を 聞いてるわけなんだけれども結局
その話になっていくわけですよね こういう時にですね本を読むじゃない
21:00
ですか 僕なんかは本読みだから本読み
ますよね 本書く人間でもあるから読んだり
書いたりしますと 本を読んじゃうんじゃないですか
そこのところに素人は手を出すの をやめましょうということと専門家
に任せましょう 専門家につなぎましょう専門家
に相談しましょうって書いてある けれどもその専門家に相談する
っていうことが何にも結果を生み 出してくれないわけですよ
放置していてはいけません どうすりゃいいんだろうってこと
になるわけですよね しかも私は今近くに住んでいる
わけでもないのでこれに携われる 時間とか方法がどうしても限られて
くるわけですね これをずーっとやってくると本の
締め切り落としますからね これ多分かなりずっとやっていない
とはかわかしい進展は得られない だろうなというのはなんとなく
わかるわけですよね このなんとなくわかるのは本の
おかげなんだけどなんとなく判断 しちゃいけないって本には書いて
あったりするわけですよね でもそういうことって無理ですよね
判断しないのに本を読むってことは 不可能だと僕は思うんですよね
それだったら当事者であるにも かかわらず100%他人ごとのように
本を読まなければならない この辺に私は実はすごい一つの
大きなヒントがあるような気は してるんです
当事者でもあるにもかかわらず 100%他人ごとのような態度でいる
ということは意外に大事なこと だと実は思ってはいるんです
でもこれだって精神分析的な 知識に近いですからね
ただこれは感覚として得るよう になってきた話であって
そう書いてあったとかいう話ではない ので自分の判断と言えなくもないんですけど
この当事者であるにもかかわらず 100%他人ごとのように接するというのが
実はこの種のケースにぶち当たった 時にはほぼ唯一できることであり
あるべき姿勢なんじゃないだろうか とここ近年思うようになってきました
実はそれが一番問題を解決する ものすごくライフハック的でないんですけど
トートスにライフハック言うようですが 実はこれが僕はライフハッカーの人に
伝えたいことなのかもしれない って最近かなり思うようになったんですよね
あまりにも当事者的になっちゃうんですよね ライフハック的な思考ってのは
あまりにも当事者的に極力問題解決 思考でこれはある種のことには大変いいんですよ
でも私はエヴァノートとかタスクシュート とかタスク管理とかGTDとか全部そうなんだけれども
それにどっぷり浸りながら それの効果を一切期待しない
これおかしいんですけれども でも私はこれが一番いいんじゃないんだろうかと
24:00
最近ライフハックやるならばですね 用いすぎないっていうふうに
一時を考えてたんですよ ライフハックを用いすぎない やりすぎないと
でも用いてもやってもいいんだけど その目的というものを考えないし
しかも極力ですね その目的が得られていない状態というのが
実は望ましいんじゃないんだろうかと これをいくら多分言っても
例えばこういうことを東京ライフハック研究会とかで言っても
なんかまた不思議ちゃんみたいなことを 言い出したぞって思われるに過ぎないと思うんですが
でも今言ったような事情でですね じゃあ家にそういう人がいた場合
自分は何かできるのかっていうとですね 何もできやしないんですよ
そのところでこの成果が上がることを できないということを
とても残念だと思うべきなのかどうかってことなんですよね
精神分析になんていうものはですね これはいいものだからぜひ受けさせてあげようとか
思ってみたところで 日本に30人しかいないとか書いてあるわけですよ
金もえらいかかるとか 実際には何もできないんですよね
受けさせるとか受けにいくとか 一切現実的なものではないと
だったらこの本は何のために 市販されているんだろうというふうに考えてみると
わけわかんなくなってくるじゃないですか
それだったら素人が関係せず 見もせず触れもせず知りもしない方がいいのだったらば
定期観光物だけが存在していて それも会員以外の人は買えないっていう方が自然だと思いますよ
でもそうではないと なぜか世の中にはフロイトの本もちゃんと翻訳されていると
安くはないけれど そして結構精神分析の人が本を書いていて
それも結構売れていると これを範囲を広げてみればユングだってそうですし
ユングは間違いなくそうですし 多分ご本人はノーって言うからあれですけど
アドラーの大いに売れた嫌われる勇気だって 全然そうじゃないようなものではないですよね
一般的な人から見ればそう違わないものだと思うんですよ
で 私はあれほど売れたんだから嫌われる勇気だって
ああいうスタンスで人と接するようになったとか いう人がいておかしくはないと思うんですよ
それは素人が心理療法に携わるってこととは違うんだろうかと
でもですね それをじゃあやっちゃいけないってどのように書いてあったところで
それをやることを完全に差し止めるってことができるだろうかっていうと
できないしできてないですよね
だって別に水晶玉を使って このままではあなたはまずいことになりますから
これからライフ発火やめましょうって言って お金をもらうってことはできるわけですし
現にそういうことは今も行われているはずですよね
これは心理療法とは見なされてないかもしれませんけれども
これを心理療法に少し寄せるということは 別に何にも難しいことではないような気がしますね
27:05
というか多分そういうことは実際に行われているし
本を書いた人にそれを差し止めることが リアルにできるとは思えない
ここまできて私がずっと考えてきたことがあるんですね
つまり自分はなんで何の資格も持ってないんだろうと
資格持ってればですね 実に楽なんですよ
つまりよくなじられるんですね なんであんた臨床心理師じゃないんだと
そうなんですよ これを喋るこれを書くという時に
臨床心理師ですって一言言えればですね 免除を持ってますと一言言えれば
こんなに楽なことはないんですよ
まるで自分は時々免許を持たずに車を運転しているような気がしてくるんですけど
これがいいんじゃないのかなとも思うんですよね
これが私にとっていいって話はないんですけれども
でもなんかですね それこそやっとグッドバイブスか
グッドバイブスでいうところのですね これが役割ってものかなと思うんですよね
何とも言えず嫌な気持ちにはなることは多々あるんだけれども
何にもないっていうことは
何にもなくてもできるのが本当じゃないですか
それは実力があるとかそういう話じゃないですよ
僕らは買った車を免許なく運転できるのが本来じゃないですか
ここを強引に免許というものを設定しているのが現状ですよね
それはそれでしょうがないし私も世の中の人が免許なく運転してもらっては困ると思うけれども
例えばあと50年ぐらいして全ての車がAIで自動運転できるようになったら
免許というものはほぼ今の価値の100分の1以下になるはずなんですよね
つまりこれは技術の問題というのもあると思うんですよ
これをぐっと進めていくとリアルじゃないかもしれないけど
自分で自分の歯を直せるようになるほど技術が進歩すればですね
意思免許というものは多分無意味なものになると思うんですよね
こういう時代は来ないかもしれないけれども
考えることは不可能じゃないと思うんですよ
だから免許がある方がいいというわけでは別にないと思うんですよね
私は何の資格もないということはある意味すごくいいことなんではないんだろうかと思うんですよね
これを逆に逆に持っていくということも世の中あると思うんです
例えば私言われたことが実際あるんですよ
ある人に資格を持ってから本を書けと
その人とちょっと議論になったことがあるんですよ
グッドバイブスとか知ってたわけじゃないですしね
本を書く資格ってものはこの世にないですよって私言ったことがあるんですよ
じゃあそれはそれだから良くないんだと
本を書く資格というものを文科賞とかが公認にするべきだと
30:01
この私発想はナンセンスだと思うんですよ今聞いてはですね
でも世の中的にはそういう方がいいし望ましい
やっぱり世の中にはそういうこれが私は大変エリプス的だと思うんですけれども
資格ということにものすごく期待したいという
エリプス的でもないなやっぱりひどくコンプレックス的な
しかもこじらせている感じってありますよ
本を読むときに安心して読むために
誰も彼もがかけては困るんだという
実はこれですね黎明期の頃にはインターネットにあったんですよね
インターネットにすらあったんですよ
私はそういう論を読んだことがあります
ホームページを書くには資格を設けるべきだと
誰も彼もが好き勝手なことをインターネット上に載せるというのは良くないと
でもそれって今のこの状況を考えてみると到底現実的じゃないですよね
ツイッターにツイートする資格を毎回毎回用意しろって話になってきて
ものすごい統制国家みたいなんでもない限り
そんなことは不可能な話ですよね
つまりいわゆる表現の自由みたいな話に最終的にはなっていくんでしょうけども
その遥か手前のところでも
昔私今のは関連で思い出したんだけど
何かの雑誌でアメリカの雑誌か何かかな
日本で正しい寿司というものの握り方みたいなのに対して
世界に対して免除を与えるという
とても奇妙なアイディアが存在しているんだっていうのを
アメリカの雑誌で読んだことがあるんですよ
とても奇妙だというのはよく分かるんだけど
アメリカに行って特に田舎町とかまで行って
得体が知れない寿司屋さんに入ってみるとですね
それが何を意味しているのか何となく分かるんですよ
私はあんまり都市制限の関係上
寿司食べれなかったから今も食べませんが
あれだってご飯に砂糖入れるじゃないですか
そもそもご飯がダメなのに
ご飯ダメ、酢ダメ、砂糖ダメですからね
全然ダメなんですけども
それはいいとして
どう見ても寿司には見えない寿司もあるわけですよ
そういうまんないものの寿司が流行るおかげで
日本文化が破壊されているっていう議論があったらしく
日本政府とかで知りませんけど
そういう免許がないところで寿司を名乗ってはいけない
動きを作ろうとしたらしいんですけど
無理ですよね
だって世界のどこで寿司を作っているか分からないのに
その面上というものに何の意味があるのか
大体出せるのかそれっていう感じがするんです
出すとしてもどういう基準で出すんだっていうことになっちゃうと思うんですけど
この話とちょっとですね
この話がよぎったということはやっぱり
さすがにこれ心理療法の話とは全然違いますけれどもレベルが
そういう発想ってあるわけですよね
正当な何かでないものを見させられると
33:03
何かを奪われる感じがするっていう
そういう発想ってあるんだと思うんですよね
銀座の本格的な寿司と
メキシコ人が握っているカンザシティの田舎の寿司が
同じものと見なされるのは我慢がならないみたいな
そういう発想ですよね
だけれども我慢がなろうとなるまいと
そういうことが実際行われちゃうし
それについていいだろう悪いだろうと言っても
どうにもならないと思うんですよね
私はこの精神分析とか
こういうことをおよおよおよと考えていても
どうしようもないので
ここはもう総的防衛的ですよね
振り切って割り切ってやっちゃうと
世の中でこれがダメだという話になったら
多分そういう日は永遠に来ないでしょうけれども
やめようと
やめようというのが別に発信しなくてもいいと思うんだけれども
多分そういう日は来ないので
私が生きている間には
車の免許がなくても運転できる日が多分来ないのと
わかんないな
これもしかするとうまくいけば来るかもしれませんね
でも来ないだろうな
それによって多くのものを失う人も結構いらっしゃいますからね
多分来ないような気がします
ないほうがいいと思うんですよね
端的に言ってしまえば
私には資格が全くないわけですね
でも例えば
物を書く資格を作るというのは論外だと思うんですけれども
オンラインサロンとか
それこそこう
こういう話をする
ポッドキャストでするということもそうですけれども
どんなにそこに自戒だの
自粛だの
言ってみたところで
ほとんどどうにもならないんだけれども
でも何かが飛んでくる可能性のあることを
わざわざあえてやらないっていうのは
よくわかるんですよ
だからこの種の情報は
意外と出てきにくいと思うんですね
一方でアップルの新製品
今回で言えばiPad mini 6は
私も欲しいと思っているわけですけど
ああいう情報について流すときは
誰もこの種のことについて抵抗を感じないじゃないですか
iPad mini 6の情報をしゃべる権利を
あなたはアップルから与えられたんですかって
考えないですよね
自分はアップルから与えられたんだろうかみたいな
これだってでも
間買い物の情報がそこら中を飛び交ってもらっては困る
っていう発想を持つことはあり得るんですけど
多分そういうことよりも
これについて言及されることが多ければ多いほど
メリットがでかいっていう方が勝ってるんだと思うんですよ
私はその方がおそらく妥当だろうなと
36:01
この反対の方向に行けば行くほどですね
やっぱりそれについての言及は減るしかないと思うんですよ
そうでなくてもややこしい話を
精神分析とか
ああいうふうに書かれていて
人が言及することを避けるようになればなるほど
そのワールドその界隈自体は
衰退するしかないと思うんですね
だってあらゆるものが縛られている状態で
本だけ読んでおいてくださいっていうことって無理ですからね
本だけ読んでおいて
読み終わったら忘れるぐらいしかできることがないんだったら
その本読まないし
人は買わないじゃないですか
そして高い時っている
だから多分そうじゃないと思うんですよね
この誤解が広まるっていう言葉って
本当に聞くんですけど
聞くたびに不思議な気がするんですよ
人に何かが伝わって
何か言葉が伝わったとして
それが誤解じゃないことって
一回でもあるだろうか
多分一回もないと僕は思うんですよね
多分どんな簡単な言葉でも
喋ってる人の意図を100%相手に伝わるっていうわけには
ほぼいかない
まして精神分析みたいな話
ライハックでもいいんだけど
精神分析みたいな話は
100%誤解みたいなことが起こり得ると思うんですよ
精神分析同士の話でも
言ってることが180度違うみたいなことありますから
真逆ですよね
真逆だということは
あることを喋ったら
どっちかにとっては
それは100%間違ってるわけですから
誤解なんですよね
つまり誤解しかない
みたいなところもあるわけですよ
こういうことは
すでに織り込み済みだと思うんですけれどもね
だからここで喋ってるのは
そういう内容です
尻滅裂ぐらいに思っておいていただくと
ちょうどいいと
僕は毎回喋ってる通りです
だったらなんで聞かせるんだ
って話になるじゃないですか
ここが僕は大事だというふうに思うんですよ
今回今日の話はわけわからず
ずっと寝言喋ってるみたいに
もう聞こえると思うんですけど
僕は結構これは
はっきり意識しているところがあって
やっぱりですね
途中で言った通り
100%間違いなく自分は当事者なんだけれども
まるで他人
100%関係していないかのように
そこをそれに携われるというのは
大事なことだと
これを書いたところで
書いたに発信したところで
多分
そういうふうに実践しようなどとは
思わないと思うんですね
でもウッドマイブスでも
ゲーム感覚でやる
ゲーム感覚でやるって話は
つまり
真剣にやるんだけれども
全くどうでもいいことのようにやる
みたいなニュアンスってあるじゃないですか
39:01
これが私はやっぱり
いろんなことを
継続的にやっていくことは
特に大事かなというふうに
思っているんですよ
絶対にこのポッドキャストもそうですが
聞いていて
もしある種の人が聞いていて
詳しい人が聞いていたら
こいつの言っていることは
有害だって思う人は
絶対いると思うんですよ
100%ダメだ
やめるべきだって思っても
やめない
これは大事だと思うんですよね
ライフハックとかも
僕は今はそういうふうに
捉えているんですよ
誤解でしかないみたいな感じ
そしてこういう効果を
出すためにやるべきなんだよ
っていう感じを持ちながら
何の意味もないもののようにして
やっていく
今私のタスクシュートって
まさにそういう感じで
やってるんですね
何のためにやっているのか
ということはもはや
例えばだって
グッドワイフステージによって
未来はありませんと言いながら
少なくとも数時間先であれ
未来のことをタスクに書いている
過去はありませんと言いながら
過去の記録が
全部残っていくようなことを
やっていると
それをやることによって
どういう意義があるのか
ということについても
これといった意義を
自分に提示しないような
やり方でやっていると
で、やっているんですよ
やっているのが大事なんですよ
やっていると何かが起こっているんですよ
それは多分いいものだという風に
いいものだという風に
そういうことにしてあるんですよ
これしかですね
でも自分が身内に
引きこもりみたいな人が出た時に
できることって
実はないかもしれないな
と思うんですよね
こういう風にしてみたらとか
ああいう風にしてみたらとか
アイデアマンみたいな人が
言ってくれることって
できるんですよ
やろうと思えば
そして大体やっているんですよ
全部やっても
ほぼ何の効果もないか
自体を悪化させたと
でも例えばその一連のですね
やってもやっても意味がないか
相手を怒らせるか
まずいことが起きるかみたいな
決定的な判断さえ起きなければ
それをやっただけのことは
あったと思える感じってあるんですよ
わかんないですよ
ABテストができないんだから
だけれどもこのABテストが
できるみたいな考え方とか
BDCAみたいな考え方に対する
アンチ天性だと思うんですよね
ある意味では
その人が引きこもっている理由だって
きっとそういうことだと思うんですよ
そういうことは一切嫌だっていう
メッセージに聞こえなくはないんですよ
こうすると良くなるとか
ああするとこうなるとか
薬を飲めば気持ちが良くなるとか
頭の痛みが取れるとか
健康になれるとか
そういうことが一切嫌だっていう
メッセージにも
そういうメッセージを発している人が
42:00
実は200万人もいるみたいな
そういう雰囲気ってあるわけですよ
だから何にもいいことがなくても
いいじゃないですかっていう
だからやってもやっても
無駄だったっていうことが
むしろ良いみたいなね
そういう感じを
私は自分が資格を一切持っていない
っていうことと
これで持っていたらですね
やっぱりPDCAみたいな世界に
入っていくことになっちゃうと思うんですよね
持っているから言ってもいいから言う
言うべきことを言っているから
誤解なく伝わるみたいな
そういうのって
そういうのが私たちを苦しめるんじゃないんだろうか
というポッドキャストなんですね
これはきっと
42:50

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