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おはようございます、グッドモーニングバイブスです。
テイク2になりました。
明日ですね、私多分告知内容がやや間違っていて申し訳なかったんですけど、第9回のグッドバイブス勉強会オンラインセミナーを開催しますね。
これ、テーマがですね、比較と評価というものです。
要するに比べちゃうというやつですよね。
比べると自分の価値が下がったような気がするというよりも、比較によって自分の価値は上下するに決まっていると思っている方が、グッドバイブスをご存知でない場合には、今の世の体制だと思うんですよ。
これは、うちの子が今やっている中学受験から延々続いていることで、中学受験以前ですよね、学校でテストを受けるということはすでにそういうことになりますよね。
50メートル走で、9秒だ、8秒だ、7秒だ、早いほどいいんだから、早いほうが価値が高いというふうに扱われるではないですかね。
だから、これによって自分の価値の上下が決定するというふうに信じている、そう信じさせるシステムがあるんだけれども、これをですね、頭から信じ込んでいるという人は結構極端だとは思うんですよ。
私はこれを子供の時から頭から飲み込んだことは一回もないです。
明らかにこれは、一つには評価軸というものがありますよね。評価軸がある時点ですでに、比較評価というものは完璧ではないはずなんですよね。
その昔、日本のお相撲を見た人が不公平だと言ったんですね。つまり体重別にするべきだと。
こういう考え方が世の中にあるということは、比較というものは完璧にできないという良い証拠だと私なんかは思うんですよ。
必ずしも大きければお相撲は強いわけじゃないですけど、柔道は体重別って完全になっているし、ボクシングなんかもそうですよね。
完全に体重で細かく分けます。でも体重が完璧に同じ人ってこの世にいないんで、もし体重別というものがなければ不公平だというならば、そもそも全試合は当然不公平ですよね。
だって手の長さとか違いますからね。だいたい手が長くて不利なスポーツってないじゃないですか。手が長い、背が高い、根本的に有利ですよね。
全く同じ体系でなければ勝負が不公平になるのならば、勝負って絶対最初から全部不公平のはずです。
こういうカラクリがあることはみんな知っているんで、知らないということはありえないと思うんですよ。見ればすぐ分かることですからね。
知っているんで、この種の比較評価というものが完璧に機能するということはありえないはずなんですよね。
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だけれども比較評価はすると、それによって給料が変わるということは当然あるし、各種環境的な有利不利というか、良い環境、悪い環境に分けられてしまうというふうに考えられています。
この話が本当なのかどうなのかということに合わせて、これを絶え間なくやられている私たちが、自分の価値というものについて疑いたくなるのはやむを得ないというか、当然の成り行きなんですが、
これを受け入れてしまうと、とても生きているのが生きづらいライフになっちゃうと。QOLとか言いますけれども、私は質をこの世の中に持ち込むべきでは絶対ないと思ってはいるんですね。
持ち込んじゃうんですけれども、誰がQOLを決める権利を持っているのかというのは、ずっと考えさせられるところですし、評価というものを何かに持ってきてしまったら上下が発生するに決まっているんだけど、
この上下は厳密にコントロールされているところだけに制限しておくべきだと思うんですよね。ライフとかに持ち込むものでは断じてないと思うんです。ライフに持ち込んでしまったらすぐ優勢ですよね。優勢しそうですよ。
だって価値のある人生とない人生があるって話を始めちゃうわけですからね。そしたら価値のない人生を送る場合はどうするんだっていう話を始める人が平気で出てくるのは自然の成り行きだと思うんですよ。
これをですね、例えば野球で最下位になったチームの選手はみんな収容所に入れるべきだって話をすれば誰もが納得しないと思う。まあ誰もがじゃないかもしれないけど、ほとんどの人は納得しないと思うんですよ。
さっきのヒャクルト・スワローズとか、今年はやたら強いですけど、ひどかったですからね。だからこれは必ずですね、何らかの土俵に乗せるって言いますけど、それを適用していい場面というものをカッチリ制限するという作業が本来いると思うんですけど、必ずしもそうなってない。
どうしても通知表とかテストの成績というものがまるで外部の現実にも影響を及ぼしていいみたいになっているっていうところが多分一つのポイントなんだろうと思います。私はまたちょっと違うことをしゃべれるかもしれませんけれども、まだ考えてないのでこれから考えます。よろしければぜひ明日ご参加いただければと思います。
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昨日の夜ですね、地震がありましたね。私もちょうど寝て2分くらいだったんで、びっくりした。何でびっくりしたかというと、通知の音でびっくりしました。まだ地震が来ていたかどうかはっきりしないのに、あの音で叩き起こされたというか、すげえタイミング悪い感じでした、昨日はね。
昨日ですね、その後テレビを見たりして震源地とかマグニチュードとか震度5強とかチェックしたわけですけれども、その時つくづくこれはザワッと来たらイリュージョンってやつだって思い出せたんですよ。非常にえがたい体験だったと思います。
普通やっぱり思い出せないんですよね。思い出せないというのは非常に良くないことが起こるんだなということを思い出して実感しました。ザワッと来たらイリュージョンというのはどういうことかというと、怖いと思ったらもうそれは原因は外にはないってことなんですよ。
だって怖いというのは変動体ですから。脳の中の働きですから。なければ絶対怖くないはずですからね。何が起ころうと。
地震が怖いと私たちは言うんだけれども、それは原因は外にある。間接的にはそうなのかもしれません。でも直接的には決してそうじゃない。怖いというものを直接作り出しているものは脳内にあるに決まっている。
だから地震が怖いわけじゃないってことなんですよ。もちろん地震が起きたから変動体が動いて、変動体が動いたから怖いんですよ。それはもうそうだと思うんですよ。
この言い方も実はかなりいい加減なんで、もっと単純に言ってしまえばですね、地震が起きたから心の中で怖さを作り出して、だから作り出された怖さのせいで私たちは怖いんですよ。
これを別に地震の時に思い出せなくても、人間関係で思い出せればいいんですけど、地震の時にも思い出せればですね、間違いなく人間関係ならば思い出せます。地震ほどじゃないですからね。
つまりこれは自分が作り出しているものだということを思い出せればですね、これは間違いないことなんで、変動体を切除したり、変動体を活動できないようにすれば怖くなくなっちゃうんでね、多分。
だから本当は地震がダイレクトに私たちの恐怖感を作り出すことは不可能なんですね。
不可能だということを認識すると、これを確かにそうだとわかればですね、怖くなくなるんですよ。
もうちょっと違う事例を見るならば、夢の中で地震が大地震に遭遇すれば怖いんですよ、私たち。
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でもそれ地震起きてないじゃないですか。間違いなく私たちの心の内部で起きていることですよね。
つまり、地震が来たという認識だって内部がなければできないことだし、だから内部で作っていることは間違いないんですよ。
それは地震が世の中にないとかそういう話ではないですよ。
地震がどんなにでかいのが来て、死ぬ目にあったとしても怖さは必ず心の中で作り出されるというだけの話なんですが、
これを確実に捕まえることができれば、いきなり平静に戻るんですよ。
だって地震というのはだいたいすぐ止みますからね、止んだ後まで怖さを持ち続ける必要はないんですよ、本当ならば。
怖くなくなるとどうなるかというと、現実とイリュージョンの区別が突き出すんです。
これをするためにグッドバイブスってやっているんだと思います。
現実とイリュージョンの区別、例えばニュースとかを見ていても、震源の深さは何キロ、マグニチュードは6.1、次の通りですっていうやつですよね、
震度4、なんとか4、なんとか4、なんとか4、なんとか4、あれが現実ですよ。
あれを聞いていて私は怖くならないと思うんですよね、ほとんどの人。ほぼ退屈なレベルだと。
そうじゃなくて、次も大きな地震が来るかもしれません。新しい揺れが来るかもしれません。
最新の情報を常に怠らないでくださいみたいな、あれ、あっちがイリュージョンですよ。
あれは事実じゃないですからね。あれは意見なんですよ。
文章を書くとき、意見と事実を区別せよっていう非常に大事なセリフがあるんですけど、あれなんですよ。
ところが私たちはどういうわけか、どういうわけかじゃないんだけど、意見と事実を混ぜこぜに受け取ったり、混ぜこぜに発するのが大好きなんですね。
でも、何かを、不安をですけど煽られているときは、決まってそれは事実じゃないっていうのは大事なポイントだとよく思います。
危険な場所に近づかないでください。これは意見じゃないですか。事実じゃないですよね。
事実そっくりに見えるんですけれどもね、そういう喋り方しますから。
高い建物から離れてください。これは意見ですよね。こっちが私たちを不安にしますよね。
決して事実は私たちを不安にしないんですよね、と私は思うんですよ。
人間の深さ80キロってこれだけで恐怖に駆られる人ってすごい少ないような気がします。
必ず私たちがドキッとするのはですね、頑丈な建物に逃げてくださいとかこっちだと思うんですよ。
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こっち事実じゃないですよね。これ意見ですよね。そしてイリュージョンですよ。
作り出されているものですから。その人が言葉を発しない限りそのようなものはないんですよ。
別にこれは民法とかNHKを批判しているわけじゃないですよ。
これはこれで必要なんだとは思いますけれども、これと事実は別物だってことです。
だからいちいちこれで不安になったり危機感を持ったりする必要は私はないと思うんですね。
むしろそれをやると頭が混乱して行動が非常に冷静でなくなるので
極力避けた方がいいというのがこれはグッドバイブスの意見ですよ、と思っているんですね。
このイリュージョンと事実が両方混ざってやってきた時に僕らは怖くなるんだけど
怖くなるというものを沈めることができれば、沈めるためには怖さを作っているのはイリュージョンだと認識するだけで済むんですけれども
そうして認識して怖くなくなれば、多分その後の対応は極めて妥当なものになるはずだと思うんですね。
よく怖くなくなると危機対応能力が下がるというふうに信じられているらしいんですが
これはだいたい常に真実でないように思います。
私の知り合いで何人もの人が歯医者を大変恐れているんですよ。
歯医者を恐れている人ほど歯って良くないんですよ。
歯医者が定期的に行っていて、好きで行っている人っていないと思うんですけれども
定期的に行っていてほぼ歯医者というものを恐れていない人ほど歯って大体大丈夫なんですよ。
こういうふうになっている気がするんですよね。
イリュージョンを恐れていることによって適切な行動に結びついている事例って私は一つも思い浮かばないと思うんです。
いつもこの逆のことが言われるんですけどね。
昨日もまだまだコロナに油断してはいけませんという話をしていて
どうしても私たちは人を不安にすることによって正しい行動を取らせることができるんだという
宗教みたいな信念があるんだけれども
全くこれは真実じゃないと
フラドロさんもよくおっしゃいますけれども全く真実じゃないといつも思います。
昨日の地震の時もそうだったと思うんですけど
ひたすらひたすらいかにこれが危険で怖いことかということが言われるんですけれども
それによって真っ当な行動に結びつくような気がしないんですよね。
頭が混乱していくばかりのような気しかしないんですよ。
むしろよくこれだけコロナといい地震といい
よくこれだけみんなで共同不安の中に埋没していて
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それにしては適切な行動が取れているような気がするなと
私なんか感心するレベルなんですよ。
それぐらい冷静であるということは大事だし
冷静に落ち着いて行動してくださいと言うんですけど
その言葉が全然人を落ち着かせないニュアンスを浮いているような気がします。
でもまあまあ独特の日本人的なのかわからないんですけど
意外とみんな冷静だなとは思うんですよ。
これだけ不安がおられているにしては。
メディアには理由があって
それなりのビジネス上の関係もあって
コロナが収束すればインフルエンザの大流行が来るとか
とにかく未来を不安にしておかなければ困る理由ってあるんでしょうけれども
あれをなんとか減らせば減らすほど
たぶん私たちは困らずに済むんでしょうけれども
実際にはこういうことになるので
こういう世界なので
これによって煽られた不安に不安にならないという
非常にメタ的になっちゃうんですけど
グッドバイブス的にはそういうことになるかなという風に
昨日の地震は思い知らされました。
人を怖がらせるというのは
みんな非常に他人をコントロールするための最も有効な手段だと
信じられているだけに
実でもどこでもそれなんですけど
顔色をうかがおう本でも
結局テーマとしてはそれなんですよ
他人に対して怒らなければいけないという風に
これはあれですよね
収束してきたコロナに尚警戒しなければいけないという理屈とほぼ同じで
怒らないと他人にいいようにされるというのは
ほとんど目にしない日はないレベルなんですけど
私はウソっぱしだと思うんですよね
まずここ1年僕は怒っちゃうということはどうしてもまだ抜けないんですが
怒らないようにはゼロにしようという意識でいるから
やっぱり減りはしますよね
人に対して怒るというよりは
悪いことは何も起きていない気がします
物書き仲間にもいっぱいいらっしゃいましたよ
私はもう今それらの人たちと付けようほど
売れている本を書けない人になっちゃったから
話すこともなくなってしまいましたけど
パーティーとかでも
編集さんとか出版社さんとかに怒ってみせないと
物書きはいいように扱われるって言ってる人は
私は少なくとも100人くらいは知ってます
みんながみんな物書きじゃないですけどね
そういう感じの話は本当に聞きましたけど
全然真実味がないです
私のすごい身近なところは
母がこれを言うんですよね
私が見ている限り
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母がそうやって一番怒っている相手は
父と妹なんですけど
明らかに2人ともそれによって
何ら行動を改めている気配もないんですよ
改めないから
余計怒りの波動が激しくなってくるんだけど
一個に変化がないんですよ
あれをむしろ見ていると不思議な気がします
学習性無機力というものを
学習しないのかなと思うんですけどね
私なんかは早々に母から距離を置きました
今思うと悪かったかなと思うんだけれども
早々に距離を置く
つまり怒りによって
他人の行動をコントロールするのは
難しいと思うんですよね
非常にずっと怒ってたところで
相手がそうかなるほどと思って
どんどん行動を改善する
怒っている相手に突っ取っての改善を
どんどんしていくということには
なかなかならないと思うんですよ
つまり人って怖がらせたところで
思った通りの行動を取るようにならないにもかかわらず
それは結構私たちは目の当たりにしていると思うんだけれども
起こるということは
相手が怖がるから
それによって自分は
利益をこむらずに済むようになるという話が
ことしやかにというか
ほぼほぼ信じられていて
そうでない話をすると
それこそ怒らせることになっちゃうんですよね
だから何かこううまい
これ何で相手が怒るかというと
怒りすらも自分の武器にならないというふうに思うことの
恐怖感にとらわれるせいなんですけれども
これ自体がそもそも不安になっているときは
冷静な行動が取れないという
良い証拠でもありますよね
結局その怒っている人は不安なんですよ
それはもう割と最近は
グッダワイルスによって知ったとはいえ
割と最近はそれをテレビでがっちり見るという
こともあるからね
知事とか不安そうじゃないですか
とだけじゃないですよ
これによって人々が油断して
またうわーって増えるんじゃないだろうかと
ものすごい不安なので
怒りを抑えながら伝えてますよね
ある種の人たちは
油断しないでくださいと
要するにこう
みんな不安になっててほしいんですよ
そうしないと自分が不安だということなんですね
この感覚が
非常に冷静で適切な行動だという感じが
やっぱりしないんですよね
これってなんかこう
ひどく落ち着かない感じがします
むしろやっぱこれでですね
よくこういうことをやっていて
比較的穏やかに収まっているものだなと思うんですよ
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そのくらい
みんなで不安になるということって
リスキーな感じがしますね
で
最後にあんまり関係ないところで
ライフハックなんですけどね
ライフハックっていうのは
タスク管理なんかは特にそうですけど
何かとこれなんですよ
実際に不安からスタートしてしまうことが
非常に多いんですよね
タスクをしないように
タスクをしないで人に怒られる不安っていうもの
私書きましたけど本の中で
故にタスクをお処理するという
この動機づけのスタートから
不安から出発しちゃっているケースって
多々あると思うんですけど
これをどうやって
今後やめていく
やめつつライフハックを
続けるなら続けるってことかな
ライフハックを続けるっておかしいんですけど
タスク管理を続けるんだったら
タスク管理を続けるってことかな
という風に今は考えるようになってます
この話は近いことはもうここ
数週間やってる気がしますけどね
怖いという
これが怖いよね当然だよね面倒だよねって話に
しないってことだと思うんですね
だったらライフハックしなくなるんじゃないかって
思わなくはありませんけれども
するにしても
持ちすぎないってことですね
だからどっちでもいいようなものとしてやる
だからこれでやる
それで本当にやるかって話はやっぱり出てくるんですけどね
ただ私はある意味では
これはもうグッドバイブス的というよりは
すごく心理学的になっちゃいますけど
ある意味では
タスク管理をするとか
タスク仕事をするということを
全く何の不安も持たずにやるということ
つまり何でやってるんだか分からないようにやるってことは
トータルでいいんじゃないかなというふうに思います
未来を見るのはもちろんないし
過去を振り返るのももうこの際にやめにして
少なくともしばらくは
とにかくただやると
理由もモチベーションも目的も不安も持たずに
不安を持たずになんですけどね私が言いたいことは
多分目的をここに持ち込んで
不安を持ち込むことになると思って
不安を持ち込まずにただやると
こうすると
なんとなくいいところに行けるんではないかというのが
今私が一番思うところなんですよ
何にもできれば何にも考えずに
ただそこに書き込まれていることを
やることだからやると
なぜかは考えない
なぜかは考えない
やることだからやると
なぜかは考えないということですね
非常に伝わりにくいと思うので
この番組ぐらいでしか当然言うことはないと思うんですけど
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昨日の地震を遭遇して
一段とこの思いは強くなりました
対処するということを考え始めると
必ず不安をまず抱え込むことになり
不適切な行動をそこで取り出してしまうんですよ
僕らは
人の不安を煽るとか
全然適切じゃないですよ
人の不安を煽るなんてのは
だから
うちに子どもがいるから非常に感じるんです
子どもも跳ね起きました
子どもに対して言うこと
安心させることですよね
適切な行動って一緒に不安になることほど
不適切なことはないと思うんですね
子ども不安になるわけですからね
なのに
コロナとかの話になったり
タスクとか締め切りとかの話になると
不正にみんなで不安になるのが
一番適切だっていう
不適切なニュアンスが覆っちゃうんですよね
あれを引き起こさないのは難しいかもしれないので
せめて自分がそうでなくなるというためにはですね
自分が今やっていることに対して
不安を動機づけの源泉にしないってことだと思うんですね
すごく逆説的なんですけど
ライフハックっていうのは
ほぼ全域不安から来るものなので
これを不安ゼロでやっていければ
それだけで十分なんじゃないかなというふうに
割と最近そういうことを
もうちょっと分かりやすい言葉で訴えていくには
どうしたらいいかというようなことを
考えるようになりました