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2024-11-18 54:53

「精神分析」を「参照」する理由【1091】

私たちは「健康」を求めるし、それなら基準が必要になる。
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サマリー

このポッドキャストでは、精神分析と非正規の心の治療を探求し、3ヶ月チャレンジの重要性を論じています。特に、精神分析的療法がメンタルの回復に繋がるという考えを深めています。また、精神分析が様々な心理的課題や行動に与える影響と、その重要性について探求しています。具体的には、精神病と神経症の区別や、日常生活における精神分析用語の浸透について考察しています。このエピソードでは、精神分析が個人の心理的健康にどのように寄与するかについて考察しています。逆転移や転移の概念を通じて、他者との関係性が自己理解を深める方法について述べられています。また、精神分析における誤解と理解の関係についても探求されており、松木さんの考えに基づく治療の意義や心の健康とその評価の難しさについて語られています。

出版業界の現状
おはようございます。 働くメンタルをとり戻す精神分析的ポッドキャスト、第1091回をお送りします。
11月18日月曜日、7時46分です。 なんかこう、めちゃくちゃ暖かくないですか?
昨日、私渋谷に出たんですけど、あまりの暖かさにですね、 コードとか来てたんだけど、もう本当全くダメだったなと思いました。
この番組でもずっとお伝えしていた 手帳術の回、第5回をですね、2024年最後の回を昨日終わらせてきまして、
2025年からはですね、まああの若干リニューアルをして、 本当のタスク集、本当だったらおかしいか。
でもまぁ実物のタスク集と手帳もようやく発売に、ようやくっていう感じしますよね。 このデジタル時代にやっぱりするんだけど、
物ってのは出すの本当時間かかるんだなっていうのを痛感させられました。 そういう意味では出版業界ってすごいですよね。
なんとかこのデジタル時代に追いつこうとして、 必死になって紙の本をすっぺは出しているわけですよ。
間違いがないようにしてですね。でもやっぱこれはね、不利な戦いなんだなーっていうのを痛感しますね。
なんか微妙に一文字ずれてても、それ100部とかすっちゃうとあれじゃないですか。 直して直してみたいになるから、タスク集と手帳なんて基本字すごい少ないですし、
ものすごくシンプルなものなんだけど、これですらこうも時間がかかる。 やっぱりちょっと増やすと重くなる、でかくなる。
小さくすると今度はコストと合わないわけですよね。 で、どうしたって紙になってる分高くはつきますよね。あれが pdf だったらほぼただ同然で出せるわけですから。
そういう意味でも、なんか高い割には収益構造として厳しいみたいなことがあって、 いや物ってのはみんな物好きではありますが、
売りだなーっていうのはね、出すということをやってみるのを痛感します。 だからなるほど本っていうのは出しにくいし、
この売れない時代に非常に厳しい戦いを強いられている。 あれはなんか考えてややこう贅沢品、贅沢品でなくて浮遊走向けになっちゃいけないと思うんですよ。
本というのはやっぱり歴史的に考えてみても、そこのところいろんな方面から考えていかないと、でもまぁ若干贅沢品になっていくのはしょうがないかなぁみたいな感じがしますね。
だからこうね、いかにもこう、今時人気がない、かなり左チックな発想ですけど、図書館って大事だなーっていうか、僕ね図書館よりも図書室大事だなって思いますね。
学校の、あそこを充実させるべくみんな頑張る感じになるかなーっていうのが一個と、あとはなんかこう、なんていうのかなぁ
電子図書館みたいな、紙の本も、だからこの辺難しいですよね。Amazonが事実上それに限りなく近い存在になってきているような気もするんですよ。
その辺のことを加味しつつやっていくのがいいんではないかと。そういう時に考えていかなきゃならないのは、全体としての本の質は著しく下がるはずなんですね。
出すコストが下がっていくはずだから。だから検索ですよね、結局は。どうやって探すのか問題というのが、今度はこういうのは多分、だからやっぱり全体的な話になってきますよね、SNS絡みの。
そしてそれも今非常に難しいところに来ている感じがします。まあ一時ね、Google一興だった時代があって、大体一興良くないですよ。
この国の制度みたいなもので、大体一興って良くない気がするんですよね。それが何であっても一興って結局最終的にはコストなんだなって感じがしますね。
それはそれとしまして、そういうことでやってまいりまして、来年はちょっとタスク集と手帳実の回も一新して、もっとこう盛り上がっていくものにしていこうと。
あれはあれで面白いんですけどね、実は。割とこじんまりやっていくというのもね、これはやっぱり僕の今までのビジネススタイルで、こじんまりとひっそりというのは一面いいんだけど、やっぱりそれだけではダメなんだろうなというのを感じつつ、
それは今年の反省にして来年活かしていければと思っております。タスク集と手帳術っていうのはいいネーミングで、この話引っ張ってますけど、デジタルの方も効きますからね。特に昨日ね、ある参加者さん方がMチップ入りのiPadを見せてくださって、これはもう完全に新しい世界だなって感じがしたんですよ。
で、今これをすぐにっていうのはわかんないですけど、明らかにAppleはしかし、こっちに完全に路線変更するつもりでいるなという、あのタブレット系はね、多分あるい僕が絶望している軽いMacBook Airって出ねえなっていうのを、昨日のあれを見て確信に至りました。少なくとも当面は出ない。この路線が失敗に終わらない限りは出ないってことが、だからあれですよ。
あのね、FMのライフブックとかだったっけ?NECのRubyとか、ああいうものにはなり得ないという。パナソニックのレッツノートの一番軽量のシリーズとかね、ああいうものは出ないということですね。あれもういいんですけどね。あれで満足のいくものを買おうとすると今度は30万くらいしちゃうんですよね。ノートパソコンに30万ってどうかって感じで。一番高いものになっちゃうじゃないですか。
タブレットの中でも、デスクトップの中でも一番高いのがその軽量のどこにでも持ち出せるミニノートになってしまうんですよ。それデスクトップに繋いでその代わりにするっていうのもありなんだけど、それがWindows気だってのはないなって感じになって結局もう、なんかどこに行ってもどこかの壁にバーンって当たってる感じが僕はしております。
この辺のことをそのうち書いたらいいんですけど、書くなんかね、モチベーションがないですよ。結局結論は出てないし、今更感があるし、しかも別に僕のビジネスのノートってどうプラスになるのかもわかんないし、佐々木老貴がメジャー行って悲しいよっていう記事書いてるノートなんにも変わんないんですよね、これは。書きたくないわけじゃないんですけど。まあまあ、よしとしよう。この辺はよしとしよう。
3ヶ月チャレンジの意義
というわけで終わりました。
今日は改めてですね、3ヶ月チャレンジをずっとやっていて、最近はすごくいろんなことを3ヶ月チャレンジでも試したりしているわけですけど、結局ここでやってることについて、私はこのPodcastでもいつもですね、もう最近はこの結局は3ヶ月チャレンジをどうやってるかの話だなと思うんですけど、ここには2本意味があるんですよね。
1つは、結局これは何の医者的な何かなんだろうかという、多くの人は多分こっちにあまり興味持ってないんじゃないかと思うんだけれども、正規か非正規か問題、非正規の心の治療的に見えてしまうものというものとしての3ヶ月チャレンジはどうあるべきかみたいな、そういう感じの話ですね。
簡単に言うと、私は臨床心理師でも抗妊心理師でもないし、慣れそうにないし、慣る気もあんまりありませんが、それでいいのか的な話との絡みですね。
そうすると、そもそも抗妊心理師とか臨床心理師って何なのっていう話に、それと精神分析がどう絡むのって話にだんだんなっていくわけですね。
で、しかも3ヶ月チャレンジの中身についてなんですよ。これはなんつうんですかね、言ってみれば精神分析的治療法についてのお勉強会っていう側面がある。
全面がこうじゃないけど、それをすることによって、何つうのかな、それをすることによってこういうことですよね、働くメンタルが取り戻されるって私は考えている。
で、なんでなのかっていうのは、私は体感的にそう感じるからっていうのがベースにあるんですよ。それを言語化しろってことになるわけですよね、今時は。
これを言語化するってことは、私の体感を結構裏切ることになるんで、あんまり言語化はしたくないんだけど、言語化しないとPRできないから、結局言語化しなきゃいけない。
この言語化の過程がさっきの話と同じ話になってくるんですよ。そもそも非正規なのになぜそれをやるのっていう話になってくるんですよ。
で、じゃあそれをやることになんで暴かりがあるのっていうと、例の純金コンプレックスって話が出てくるわけですよ。
正規の人たちも実は同じようなことで少し暴かったり悩んだりするってことですよね。
精神分析じゃないんですけど、精神分析的療法なんですけどいいでしょうかみたいな気持ちになってっちゃうわけですよ。
なんでそんなに精神分析って偉いんだって感じになるんだけど、精神分析家って実は正規じゃないんですよ。
すっごい面白いと思いませんかこの辺の話。精神分析家そのものは公認心理士とか臨床心理士ではないんですよ。
ちょっと誤解を招くんですけどね。日本で精神分析家はおそらく公認心理士でもあると思いますよ。
全員が全員そうなのかどうなのかは私ちゃんと調べてないんで、精神分析家になったら自動的に公認心理士になれるわけではないはずなんですよ。
私の理解している限りにおいては。これはね非常に面白い話だと思うんですけどね。
だから純金コンプレックスと呼ばれているものは精神分析家…っていうかこんな感じなんですよね。
精神分析様みたいな感じで、私心理療法やっていいんでしょうかみたいなね。
これを正規の人も気にしてるってことですよ。今気にしてないかもしれないけど。
で、どの医者が果たして本当にそれを気にする必要あんのって感じがするんですよね。
だって精神分析は公認じゃないんですから。別にそこにお伺い立てたって向こうは知らんがなって感じの話なんですよ。
だったらこっちで勝手にやってたらいいじゃんって感じになるんだけど、でも精神分析を素人がやるのは脳外科に素人が手を出すようなものだって話にされてるっていうのを知らなきゃいいんですけどね。
知らなきゃいいんですけど。知ってるんで。気になっちゃうみたいな。まぁ気にしなきゃいいんですけど。
これを純金コンプレックスって言うんですよ。でも私はこの話を、こういう話を中身についてまで深めていくと、働く意欲が取り戻されてくるという不思議理論を持っちゃってる人間なんですね。
しかもこれしか信じてないんですよ。メンタルに関してはっきり言って。習慣化とかモチベーションとかアサーティブネスとか心理的安全性とか、
自己肯定感とかああいったものでは間に合わないと思ってます。間に合わないっていうのが近いんですよ。
まるで役に立たないとまで言うつもりはありませんけど、僕の感覚としてそれらのものによってやる気を高めるというのでは間に合わないと思ってます。
そこまで僕らは軽くはないと思ってるんですね。僕はレジリエンスとかああいうものでは不十分だと思ってるんですよ。
正規カウンセリングの選択
ここにライフックを含めてもいいんですよ。これ以上は言わないけど。含めてもいいと思う。やっぱりね間に合わないと思ってるんですよ。メンタルはね。
でもじゃあ正規のカウンセリングを受けに行きましょうっていうかというと、僕はそれをもう言わないことにしてるんですね。
受けに行くのは全然いいと思うんですよ。でもこれは確信が持てないんですよね。そっちに行くべきであるという確信を。
役に立つとは思います。私は、その野の周辺の中ではこの正規に対するリスペクト度は、別にそんなものは向こうにとって何でもないものなんだけど、高いと思ってますよね。
高いと思ってるんですよ。正規に行く価値は高いと思ってる方だと思うんです。でもそれを人に勧めるとなるとね、
保険が利くわけでないし、お金も、つまりお金が高いし時間もかかるし、しかもその
位置づけとしてもいろんな問題があって、結局その全てをクリアして、じゃあ行ってみましょうみたいなことを言うっていうことになると、そこまで責任を負えないかなみたいなところはあるんですよね。
今言った話の中には、例えば正規の公認心理師さんの中にも、力動的な感覚の人なのか、認知行動療法的な感覚の人なのか、それとも役割との、この辺はしかもあれなんですよ、どれかを選ぶって感じじゃないですよ。
的な人なのかどうなのかってことなんですよ、僕の中ではね。で、それを僕だったら知ってからやりたいんですよ。知らずにやりたいとは思わないんですよ。
でも、そんなことを考えること自体がよろしくないんだっていう考え方の人もいらっしゃると思うんですよ。で、そうなってくると人に勧めるのはカードル高いなっていう感じがするんですね。
だから、結局のところその人には何が合ってるんだろうってことから、一から考えていかなきゃならない気がするんだけど、そんなに僕は知り合いにいっぱいいるわけじゃないっていうか、ほとんど誰も知り合いにはいないんですよ。
だから、歯医者さん選ぶみたいに万全の信頼を持って適当に選びなさいと言えるかというと、僕はそうも言える気がしないんですよ。だいたい保険効かないし。
こうなってくるともう何を言えなくなってくる。知れば知るほど何かを言いたくなくなってくるんですよ。
でもある種の、公認心理師さんは一生懸命ノートで、カウンセリングを受けた方がいいんだみたいな感じの話をされていて、私もそのことに不動意ではないから、とりあえずはいいねのハートは押しておこうくらいな。
でも僕はこれでもリスペクト度は高い方だと思ってますからね。世の中そんなんではないだろうくらいな感じがしてますから。
ハートポチッと押しておこうみたいな感じで、これすらも余計なお世話かもしれないなとは思ってます。
正規と非正規の視点
それぐらいこの世界ってわかりにくいというか、地味猛虜感が、地味猛虜じゃないんだけど、非常に曖昧もことしたものを感じるんです。
何なんだろうなこれって、毎度毎度毎度思ってますね。何の話をしているのかよくわかんなくなってきたんですけどね。こういうことなんですよ。
まず正規・非正規の問題は、しょっちゅう取り出している通り、体の医療に関しては我々はこれを致命のものと捉えてるんですね。
歯が痛くなってどんなに歯医者に行くのが嫌でも、隣のおじさんに治してもらおうという人は多分いないと思うんです。
隣のおじさんが麻酔薬とペンチ持ってますよみたいなことを聞いても、ただ恐ろしくなるだけで、多分歯医者さんに行くと思うんですよ。
ぐらい僕ら歯医者さんは信じているわけですよ。その歯医者さんのイデオロギーが左寄りか右寄りかはあんまり気にしてないですよね。
あの人ちょっとちょっと右翼っぽいから行きたくないわとは思わないでしょ。腕で決めるでしょ。つまり考え方というものはあんまり関係ないですよね。
果たしてその人の正規の免許さえ持ってればね、奥歯を治す歯なのか前歯を治す歯なのかとかってあんま気にしてないじゃないですか。
でも真理はそうじゃないはずですよ。だから真理は明らかに何かを参照しているかどうかを我々は気にしていると、少なくとも僕は気にしているわけですね。
気にしてない人は気にしてないと思うし、気にしようがないっていう人もいらっしゃると思うんだけれども、僕は気になる。
やはりそれが行動療法的な世界の行動科学的なのか力動派なのかはかなり気になりますね。
気にする方がいけないのかもしれないけどそう言われても気になる。
まあそういうことです。それ自体が何とか障害的なのかもしれない。
で、この力動かどうかというか、そもそもなんで純筋コンプレックス、つまり精神分析を気にするのかというと、やっぱりそこに全てがあるからなんですよね。最初の何か。
私この3ヶ月チャレンジ治療じゃないです。まして心の治療じゃないですって言ってるけど、心の治療っぽくは聞こえますよね。
だって精神分析のお勉強会になっちゃってる部分があるわけだ。実種的な。
しかも僕が温度取りして。でもそうなるはずだというのは僕は絶対あるんですよ。
っていうのはみんな参照はしちゃってるんで、すでに精神分析を。気づく気づかないに関わらず。
精神病と神経症の区別
これあの日常用語に仏教用語が入ってきてるっていうのとよく似てます。諦めって仏教用語ですから。
例えばね、諦めるって言ったらすでに仏教にどっか組みしてるんですよ。全然自覚なくたってそうしてるんですよ。
嫌だったらギブアップするとか言ったらいいっていう話ではないんだけどね。まあまあでもそういうことってあるんですよ。
つまり神経症と精神病っていうのを分けてるんですよ。僕らはその心理臨床の世界において心理カウンセリングにおいても
おそらく精神科とか言ったら必ず診療内科でも構いませんが、つまりメンタル化ってなった時に精神病と心理、神経症って分けてあるわけですよ。
これもこの区分作ったのはフロイトですよ。フロイトじゃないかもしれないけど精神分析は絶対これに最大の影響を与えているはずなんですよ。
だからもう神経症なのか精神病なのかを気にするってことは精神分析を参照しちゃってるってことになるわけですよ。
一時流行ったビジネス社会でも流行った人格障害パーソナリティディスオーダーとか完全にやっぱり精神分析の界隈のというのかな
精神分析的心理良好というもあるからね、界隈の範疇の用語なんですよ。全く意識しないで使ってたってそうなっちゃってることはもう確実だと思うんですよね。
そもそもDSMが神経症と精神病を明らかに分けていると思うんで、DSMを今参照しないってことは考えられないんですよ、この世界に入ったら。
この世界では要するにこの水準、神経症水準とか精神病水準っていうのは虫歯のレベルがC1なのかC2なのかC3なのかっていうのと何ら変わらず診断基準として扱われてしまっているんだから
その瞬間に精神分析は少なくとも参照はしたってことですよね。参考にはしましたってことになる。参考にするんだから気にするじゃないですか。参考にするってのはそっちが正しいって思ってるってことになるわけですよね。
食事と心理的自由
だから精神分析かでもない人間が精神分析の話をしてていいのかと。でも一方でですね、一方で我々はそんなことを言われてしまったらですね
なんでじゃあ朝の食事にサラダを食べるんだよって話なんですよ。食べたくない人がね。いいじゃないですか。別に朝っぱらから好きなものをたらふく食べれば。
どら焼き食って焼肉食っていいじゃないですか。別にラーメン食べてれば。食べたいんだから。食べたいものを食べる自由って絶対あるじゃないですか。よっぽど
この国に共権的な何かが走ったとしても、食べたいものを自分の金払って食べられないほど不自由になることって、イデオロギーの自由からするとすっごい遠いじゃないですか。
別に共産主義者だろうとファシストだろうとどら焼きとか食べるじゃないですか。そこは文句言われる筋合いほぼないですよね。
ほぼ。ところが朝っぱらからどら焼き食べてると文句言われるんですよこれがね。
そうですよね。朝っぱらからカップラーメン食べてるとなんか世間的にダメなことをしてる感じがするじゃないですか。これ医療を参照してないことはありえないですよね絶対に。
なんで好きなら別だけどサニーレガスを朝から食ってたいかっていうと僕は食ってたくないからね。はっきり言って全然全く少しも。
胸肉とえっと桃肉だったら絶対桃肉の方がうまいと思いますね。
アホかって感じがします。大谷翔平だけ食ってるよって感じなんですよ。
だけどこれは胸肉を食べましょうという話をした瞬間に、もう僕は多分管理栄養士さんではないと思うんですよね。管理栄養士さんが参照しているのは医療だと思うんですよ。
それはつまり純筋コンプレックスだと思うかもですよね。脂肪より筋肉の方がいいって言ってる段階で既に純筋コンプレックスだと思うんですよ。
つまりこういうことを話題にするってことは健康に気を配ってるってことだと思うんですよね。僕がサンチャレで盛んに言うのは結局
心の健康に気を配りましょうってことなんですよ。突き詰めていってしまう。その際何を参照するかって言ったら僕はさっき言った一群のね
CBTですらやっぱり間に合わないと思ってるんですよ。なんとなくサニーレタスを食べるだけじゃ間に合わないと思ってるんですよね。
もうちょっと真剣に考えようねってことなんですよ。なんでビタミンがいいのかとかまで考えようねと。
で、なんでビタミンがいいまで考えなくたっていいじゃんって言うなら、まあそれはそうで。そう思います。別に考えなくてもいいです。
サンチャレというところで考えると。なんとなくビタミンがいいっていう話は普通にそこら中にあって、それはもうそれでいいと思うんですよ。
でもなんでビタミンがいいのかとかなんでミネラルが大事っていうところまで行きたいっていうか、行かないと
食生活変わらないよっていうタイプのメンタルの方の話ですよ。タイプの人は結構いると思ってるんですよね。
やっぱりこう、ポジティブに物を考えましょうって言われればポジティブに考えられるっていう人はそれでいいと思うんですよ。
もうちょっと言ってですね。メール出す前にメールの遂行を何回もしてしまいますという、これは脅迫的な行動だと思うんですけれども。
つまりあの、これね、この間考え直してみて、反にそれだけでは済まされない話だなぁと思ったんですね。
けさがたちょっと、やっぱり僕読んでるんですよ。読んじゃうんですよ。もう1日中読んでるんですよ。松木さんの本とか。
押入れに閉じ込められたその体験がずっと脅迫症を、脅迫症的になってしまう。
つまり母親に対する恐れが強すぎてですね、それを仮想的ってその人は呼ぶんですけど、仮想的に立ち向かっていかないと。
っていうわけで、自分としては被害感がめちゃくちゃ強いわけですよ。何かって言うと押入れに閉じ込められるという恐怖。
つまり母親に圧倒的に支配されるってことですよね。
要するにお母さんに怒られるのがめちゃくちゃ怖かった子が、まんま大人になってるんだけれども、その時に被害感、迫害感を持っちゃうわけですよね。
なんかもう、ひどいんだもん。柱に縛り付けて押入れに閉じ込めるみたいな。
なんていうか、なんだのそれはっていう感じがするんですけどね。
だけれどもまあそういうことになっていて、お父さん、一家のお父さんになると、奥さんとか家族の人たちに対してものすごくこう、
凶悪的になるわけですよ。これは僕はなって当然だと思うんですけれども、世間的にはピンときませんよね。
そういう押入れに昔閉じ込められたから、めちゃくちゃ家でエバリチラスお父さんになりましたんで、
なんだのそれって感じがしちゃうんだけれども、それやっぱりその強圧というものによって、究極的には人は支配され左右されマネジメントされるっていう価値観がどっぷり染み込むんですよ。
これを何、こういうのを内在化って言うんだと思うんですけど、今は説明を簡単にするためにですね、最終的には力の強い人間が弱い人間を圧倒して支配するんだっていう発想が染み込んでしまうんですよ。
良きにつけ、悪しきにつけ。特に良いことの場合はこうしておくしかないんだって感覚になるわけですよ。
そうしないと良くないことになってしまう。その良くないことはどういうことなのかはもう分かんないわけですよ。分かりたくもないじゃないですか。
だって、お前そうやって縛られて押入れに閉じ込めておかないと、お前自身良くないことをしてこの家は良くないことになるから、私はやむを得なくこうしてるんだって親は態度として取るじゃないですか、普通は。
私の趣味だからとは言わないでしょ。私の趣味だからあんたを押入れに閉じ込めて、すごい私は気持ちが良いのよって言わないし、子供としてそんなこと信じたくないじゃないですか、自分すごい酷い目に遭ったんだから。
これはどうしても仕方なく行われたことなんだと思いますよね。つまり正義のためなんだと思いますよね。
こうしないとどうなったのかを真剣には考えないんですよ。考えたくもないし。
いや別にこうしなくても子供普通に育ったんじゃないのってなると自分だけすっごい損したことになるじゃないですか。だからやっぱそういう酷い目に遭った人ほどここから先は考えられなくなるわけですよ。
とにかく酷い目に遭うんだと。そうなりやすいじゃないですか、我々って。恐れてる者はその先の結末についていくら理を尽くして説明されてもなかなか受け入れられないのはこれが理由なんですよ。
子供の時どんな目に遭ったとかは直接関係ないですよ。要はある種のことの先、破綻の先には何があるかを考えることすら恐ろしいってことになるわけですね。
そうしないと、ある意味それをずっと信じてきた自分がバカを見る気もするってこともきっとあると思うんですよ、やっぱり。
とにかくそれは必然的に行われたことだし、必然的じゃなきゃいけないわけですよ。
これ押し入れに閉じ込められる話だとピンと来ない方でもですね、例えば絶対炎上しちゃダメなんだって思ってる人いるじゃないですか。
結構、Xとか何でもSNSとかでも何でもいいですけど、実は炎上したところで無視すればいいんだけど、無視すればいいというか、そもそも見なきゃいいんだけどっていう話意外とできないじゃないですか。
いやいや、そんなに何が起こるかわかんないからって、多分そこから先はもう考えることができなくて、真剣にイメージするのが恐ろしすぎるので、イメージしないか、あるいはもう破綻するというイメージをしっかり持っておいて、他の話は無視するってことになってるんだと思うんですよね。
お金がなくなったらどうするかっていうのも同じで、お金がなくなったらもう大変な目に遭うじゃないかと、その大変な目っていうのがどういう目なのかっていうのはもう考えたくないんですよ。
考えてみたとしても、昔の昭和の薬剤映画みたいなのしか出てこないのかもしれないんだけど、いいんですよ、それで。基本考えないことになってるから。とにかくそれは良くないことだっていうことなんですよ。
あるいは議論が始まっちゃったらでもないよりはあった方がいいでしょうとか、このマイナス系ですよね。絶対に反論できないファクトみたいなものを持ってきて、そこから先自分が真剣に踏み込んでいかないように、心の中でバリアが張られているわけですよね。
この話が人のだと非常にずれて聞こえるんだけど、自分のだと絶対に正しく聞こえるようになっているっていうのがまずこの種の話の基本的なポイントなわけですよ。
だから15回ももう火を消したかどうか戻ってますけどっていう話も、だって火がついていたら困るじゃないか。これにはまあ反論がしにくいですよね。さっきの炎上してたら困るじゃないかっていうのと似てるんですよ。
火事になったのまま放っておくよりは家に帰った方がいいでしょうって言われれば、その事事実は事実ですよね、マイナス系だと。
精神分析の重要性
これは遠慮するよりはしない方がいいでしょうって言われるのと同じで、議論が封じ込められるだけの結果になるのであって、意味は別にないんですよね。
本人がもうそれ以上は考えたくないと。だから何回も何回も家に戻るというのはやっちゃうということになるわけですよ。
そこは取っておかれてるから。究極的には他人は諦めますよね。あなたの言う通りです。
まあもう、じゃあまたってことになるわけですよ。だってどんなにその人が炎上を恐れていようと貧乏を恐れていようと火事を恐れていようと、他人にとっては他人事ですからね。放っておくしかないよねってことになるわけですよ。
ここで松木さんは考えるわけですよ。私はなんで放っておかないんだろうって、あの人はそういうふうに考える人だからそういうふうに考えるんですよ。これが逆転移ですよ。ちょっと話飛ばしましたけど、間違いなくこれは逆転移だと思いますね。
だからここからこれがまさに治療なんだっていうことなんですよね。少なくともこういうことを頭で考えていくというか、なんていうのかな、頭で考えていくはダメだな、語弊がある。
そうではない。これについて勉強していくみたいな感じなんですよ。学んでいくみたいな感じ。そうすることが、私はやっぱり健康について気を配るってことと同じ意味になるはずだと思うんですよ、どっかでは。同じことにはなりませんよ、絶対に。
サニーレタスを食べることについて真剣に考えることとか、ビタミンを摂った方がいいかどうかを真面目に考えるということは、医療行為ではないと思います。
けれども、医療行為を参照する行為ではあると思うんですよ。そうしないと、結局のところ何を参照すればいいんだかわけわかんなくなっちゃうじゃないですか。
私は、医療の世界はそれがバッチリ完備されてるからいいだろうけど、心の世界は全然そうじゃないと思うので、私は困ったら精神分析を参照する。
精神分析だけを参照するわけではないけど、困ったら精神分析を参照するということは、日頃から精神分析を参照するのが私にとっては一番確かなやり方だということになるわけですよ。
さっきの押し入れの話ですと、結局のところ最終的には力でねじ伏せるしかないんだ。特にいいことをさせるにはそうなんだってことになっちゃうわけですよね。
だって自分そうされたんだから、そしてそれには逆らえなかった。圧倒されてしまったんだから、そうするしかないわけですよ。
そうすると、奥さんがちゃんと家事しない。強圧的にさせる。子供が勉強しない。強圧的にさせる。だってそうしないとひどいことになるんだから、それをそのお父さんはものすごく恐れているわけですから。
何が起きるのかを考えることができないほど恐れているわけですから、子供がこの勉強しなかったら、うわーってなって、だからものすごく勉強するように、なんなら手足を縛って、押し入れは今どきあれだから、勉強机に縛り付けてでも勉強させる。
そうしないと大変なことになるわけですからね。だからお父さんは被害感でいっぱいなんだけど、やってることはとても加害的なんだけど、それについては全然気がつかないという。
加害被害って言葉は僕は良くないと思うんで、なんて言えばいいのかな。そういう現実検討の検討できない状態になっているということ。これが忘れてはいけないんですよ。これを他人に適用しちゃダメなんですよ。あの人はそういう人だよね、ではないです。僕らがこうな。
僕らが別に子供を椅子に縛り付けてるってわけじゃないんですよ。僕らがこの自分については何も適用できない状態にあるっていうことがすげー大事なんですよ。これに気づくことさえできればですね、相当メンタルの問題っていうのは型がつくと思うんですよ。まあ難しいんですよ、これはとっても。
でもハンシュのかな、松木さん的に言うと不可能な仕事なんですけれども、なぜならその部分は自分にとって透明なんで、見えに見えないようになってるんで。だから難しいんですけれども、だからカウンセリング受けに行って鏡のようになってもらって、鏡のようになってもらったって難しいんですよ。なぜならば透明なんで、この部分は。
透明なものは鏡に映したって映んないんで。だから鏡に映しても見えにくいんだけど、でもこれが一番今のところ、今の今のところに人類に開発された中ではまともな方法だと。まあ僕はそう信じてるってことなわけですよ。
で、その押入れに閉じ込められた人にしてみれば、子供の椅子に縛り付けてでも勉強させたいわけですね。なぜなら恐ろしいから。で、こういう人が自分があからさまなミスをした時に何が起きるかって話を松木さんが書いてるのを僕は今朝読んでいたわけですね。
要するに10分早く精神分析っていうのは、僕も言われたんですけど、できれば秒単位で正確に言ってほしいというよくわからない指示が出るんですね。14時ちょうどに言ってたんだけど、14時ジャスト00秒みたいなね。その時に呼び入れを押すみたいな。
だけどこのお父さんは何を思ったのか知らないけど10分も前に、つまり前の人がまだ精神分析やってる最中にピンポン鳴らすと。で、あの温厚そうな松木先生でもさすがに少しイラッとしますよね。イラッと。このイラッとにめちゃくちゃ敏感になるじゃないですか、こういうお父さんは。
だって一歩間違うと松木先生に押し入れに入れられて縛り付けられるわけですよ。もう監禁ですよ。そんなことされるはずないんだけど、そういう風になってるんで。正しいことを無理にでもさせるならば、そうするしかないんで。で、ここで喧嘩みたいになるわけですよね。喧嘩にはならないんだけど、この人にしてみると喧嘩みたいになる。つまり私は間違ったことはしていないと。10分前だったのは知らずにやったんだと。
強弁するわけですよ。だってお母さん怖いんで。松木先生はもう完全にお母さんになっちゃった。で、松木先生の方もイラッとしているように見えた。感情的になっているような気がした。つまりお母さんになってしまっているように見えたっていうこういう話なんですね。これ転移と逆転移ですよね。
こういうのを構造的に再現しやすくするために時間超減少みたいなことが決まってるわけですよ。そうすると間違うから人は。間違うことによってその間違いにどういう反応をするか。お互いが治療者も含めてどういう反応になってしまうか。あるいは治療者に何を転移するかっていうのが見えやすくなるわけですよ。
心の健康を考える
まあ私たち一般的に言ってですよね。コンサルやろうと何やろうと時間を秒で減少するなんてことはまずしません。脅迫的になるだけなんでまずしない。私も全然しない。だけどもしないことによってこういうことは見えにくくなる。1分や5分ずれても別に我々はそれによって間違いは生じない。
間違いが生じないということは間違いが生じた時どういう心理的な微妙な動揺や緊張感が走るのかを見る機会は失うわけです。これが精神分析でよく言われる遅刻を作り出す構造ですよ。早く来すぎてもダメなんで。そういうことがあると来にくくなるじゃないですか。
そうして無断キャンセルをする。無断キャンセル絶対ダメなんで。無断キャンセルをするということがその人の党営ってものをよくよく表してるわけですよね。だって自分お母さんそんなに怖いのに増木先生お母さんになっちゃったんで会いになんか行きたくないじゃないですか。そうして行くことができなくなるっていうそういうお話ですよね。
で私はそういう話を直接的にやることは当然何度も言う通りしないんでこうやってそういう話をするんですよ。これが僕が思う心の健康に気を配ってるってことなんですよ。朝っぱらからサニーレタスを食うってことなんですよ。朝っぱらからどら焼きを食べないってことなんですよ。この話を聞いてるっていう方にしてみると私がやってるのはそういうような意味になるだろうと。
ベースにいいんですよ。朝っぱらからどら焼き食べてれば。つまりですね、心の健康に全然気を配らないというのは、例えば今私が起きたぐらいな感じだとしてわかんないですけど、もう朝っぱらから私で言えばファンザみたいなものをガンガン見るみたいなね。なんか心的にすごい不健康な感じするじゃないですか。
私なんかまだ朝起きてから2時間ぐらいしか経ってないのに、2,3時間か。2,3時間なのにもう朝からずっと寮塾モノみたいなものをずっと見てる。寝とられモノみたいなの。なんであれNTRって書くのかな。ずっと見てるみたいな。
そして仕事もしないでできればフォッドキャストもスポーカーするみたいな。めちゃめちゃ不健康じゃないですか。で、ビタミンを取るといいですよってのは朝からそういうのやめて散歩に行ってなんなら仕事もして筋トレでもしたらスクワットしようよ。シャワー浴びてみたいな。偏向的ですよ。
でも私はそれでは絶対行動は変えないんですよ。アホかって感じがするんですよ。はっきり言って。なんで俺がそんなことしなきゃなんないんだろうって感じがしちゃうんですよ。つまり私はそんなに素直じゃない。
だから朝から仕事を一つしておけば自己肯定感も上がるし爆上がりとか書くよね。もう既に爆上がりって書かれた段階で爆下げしたくなりますからね。私のような人間は。だから自己肯定感とか知らんがなって感じなわけですよ。
そしてハンザーとか見ちゃうわけですよ。別に僕のこのねフォトキャストだって誰が聞いてるかわかんないし直接お金にならないし偏向な考え方を採用しようと思えばいくらでもできますよね。しかも非常にそれはそれはそれなりに理にかなってるような気がするじゃないですか。
別に朝からラーメン食ってたっていいじゃん。俺の勝手でしょって言えるじゃない。僕はそれと別に炎上すごい気にしようとか思わないじゃん。俺の勝手でしょっていうのと同じように聞こえるんですけどね。このマイナス経営を発動するという時にはやっぱりその人としてはすごく近づくのが近づくのも想像するのも考えるのも嫌だっていうものがあると思うんですよ。
昔お尻に閉じ込められたからとは限りませんよ。何かトラウマがあったと言ってるわけではないんですよ。とにかく嫌なんですよ。考えたくもないってやつですよね。だからビタミン、ミネラルみたいな話をされても知らんってことになるわけ。私で言うとこう知らんってことになるわけですよ。
で、このキャストも今日で終わりにしますみたいなよくわからない層的になってですね。別にこれなくなったってお金減らないしね収入減らないしねみたいに言えば自分で自分に言うってことですね。これで通るんですよ。全然ね。
なんで続けるんだろうって考えた時に、いい習慣を続けるためとかね、積み重ねの先にある自分に出会いたいとか、全然思わない。そういうことでは全く僕には間に合わないんですよ。これを続けるモチベーションはミリ単位で増えない。0.01ミリ単位でも増えない。そんなことでは続かない。
そんなことだったら対戦型テドリス。今ハマってるんですけど。テドリス99ってやつね。21位まで来たんだけれども。っていうかそのぐらいまで行くんですけどね。通信対戦型って僕生まれて初めてやったんですよね。全然あれもわかんないんですよ。どうやれば上手くいくのか。だからただただテドリスやってるだけなんで、あれ以上順位が上がる気がしないんで。ちょっと考えなきゃいけないんですけど。
つまりそういう方向をやってしまいますよね。私だって。なんでハンザとかテドリス、対戦型テドリスをやるんだろう自分はって考えないと。考えないととてもじゃないけど、これをやる習慣を身につけるとか、タスクシュートにこれをやることになってるからとか、散歩の方が健康にいいからとか、ユーサンス運動した方が心にもいいからとか。
全然全然ナンセンスだとは言わないけれども、心が何にも響かないです。それは、それこそあれ、お題目ですよ。本当に。なんて言うんだろう。我らが神よって言ってるような感じですよ。僕にしてみるとですね。
その言葉はいい言葉だと思います。子供の頃に思ってたよりは遥かに。でも、響かないというのはまた別の問題です。いいか悪いかの問題ではなくて。これをやってる方が、そりゃ犯罪を見るより自己肯定感上がるでしょう。でも、だから何なのって感じしかしないです。自己肯定感が上がったから、下がったから。そういうことではないんですよ。
これをやるってこと。そして対戦型テトリスをしないってこと。何なら朝からプレミア12の日本対キューバの試合をもう一回見直すこともしないということは、昨日ロッテの佐藤利也ってキャッチャーが出てたからね。見直したいぐらいは見たいわけですけど。
それをしないってことは、そういうことではなくて、やっぱりなぜビタミンは体にいいのかっていう問いを参照しようという気持ちの表れだと思うんですよね。
自分はこれについて語ってるってこと。つまりそれは喋ってるってこと。精神分析的っていうタイトルの名のもとに喋ってるってこと。精神分析ではないですよ。曲がりものですよっていう、そういう意識の上で、さっきトイレの中で松木さんの分析治療の進展という本を、なんかこう、分かる、分かる気がする。何でだか分かんないんだけど分かるようになった。
誤解と理解の相互関係
あそこに転移と逆転移ができて、そういう脅迫的に母親の支配下にある独裁的なお父さんがなぜか予備輪を10分早く押してしまうっていうのがどういう意味を持つのか、それについて何で松木さんがこうもしつこく書いたのかが分かる気がする。そこにLHKっていうのが出てくる。
だから結局そのお父さんはマイナスKとノーKばっかりなんだけど、このお父さんに向かって松木さんが一生懸命Kに向かわせるっていうことに何か意味あるんだろうかと考えるってことが書いてあって、それの意味が分かる気がするんですね。
で、それは僕の誤解かもしれない。ここもすごい大事なんですよ。でも誤解の中に理解があるんですよ。
だってあれですよね、学校の先生とか大学の先生というものはおせっかいをしますよね。テストっておせっかいじゃないですか。本当にあなたわかってるの?誤解してない?っていう問いじゃないですか。
うちの教授、DHロレンスのデミーの教授ね、めっちゃこれやってたんですよね。だから純金コンプレックスに近いものが彼にはあって、僕はそこが大好きだったんだけど、そういう学生も世の中にはいるんですけどね。
だって、余計なお世話を焼いてくれるってめちゃくちゃ愛情深いってことになるじゃないですか。私が誤解していることが非常に、ある意味許せないわけだけれども、誤解してほしくないわけですよ。
でも私は誤解しかできないんですよ。あの先生は口すっぱく、それは正しかったんだけどフロイト読めと言ってくれたんですよ。
あと、DHロレンスは英語で読まなきゃわかんないと。それはそうなんだけど、僕は英語で読み気が全くなかったし、フロイト読み気も事実上ゼロだったんで。
僕は彼女が大学でできればよかったんでね。このことは深く関係があるんですけどね。
DHロレンスゼミに入った理由というのと早い関係が実はいろんな意味であったんだけれども、あの先生どこまでそれわかってたかな。
私はDHロレンスの理解なんてどうでもよかったんですよ。長い卒論そのわりに書いて、あの先生に無理やり読ませましたけど、
どのぐらいだったんだろう。本一冊分ぐらいには最終的になったような気がします。
また迷惑なやつだなと思ったんだけど、僕しか卒論書かなかったからね。
先生は喜んでくれて絵くれましたけどね。
まあ全部読んだのか知りませんけど、全部読んだかな一応な。
まあでも全部読んでなくてもいいんです。そんなことはいいんですよ。
大事なのは私は誤解をしてたんだけれども、理解もしてたってことなんですよ。
で、まあ口すっぱくつったって別に藤野先生は僕を椅子に縛りつけてでも理解させようとしたわけではなくて、
お前読んどけよみたいな感じだっただけなんだけれども、君なら読めるんだから読んどかないとダメだよみたいな。
そういうことが3ヶ月に一遍言われたぐらいなんですけれども、実際はね。
それでも口すっぱく聞こえたんですけれどもね。
これはつまり私は誤解しかできないんだけれども、誤解の中に理解があるわけじゃないですか。
これは結局最終的にはその人の判断で持っておくしかないと思うんですよ。
治療の集結と心の健康
僕も1読目の松木先生の分析治療の進展を読んだ頃の理解力は1読目。
あれ読んだの結構前なんだよな。
藤山直樹さんの本を並走して読んでいた頃の理解力から言うと、分析に関しては7%ぐらいだった気がするんですよ、今思うと。
それが今は4倍ぐらいにはなってる気がするんですよ。
30%ぐらいまで上がってる気がするんですね。
それだって70%ぐらいよくわかってないってことにもなるんだけれども、上がってることは上がってるじゃないですか。
つまり朝どら焼きを食べるよりサニーレタスを食べてる人は、医療について何もわかってなくたって少しはわかってるじゃないですか。
だって私は知ってますから、自分の親戚で親類で朝からカップヌードルとどら焼きになっちゃってる人知ってますから。
しかもその人は糖尿病の怪我あってうんたらかんたらなことを知ってますから、一本持ち出すから酒飲みますからね。
その人よりはわかってるってことになるじゃないですか。
でも医療についてわかってるわけじゃないじゃないですか、サニーレタス食ってる人が別に。
そういうことだと思うんですよ。しか、ある意味では誤解しかできないと思うんですよ。
だから、Kだってことは誤解してるんだけど、でもKだってことは理解に向かっているんですよ。
それでいいんですよね、きっとね、と僕は思ってるからこれやってるんですよ。
精神分析とか精神力道の勉強会で精神分析がわかるはずがないって言われるならば、それはそうなんですよ。
しかもこのわかるはずがないの中に、さっき言ったような心理臨床の日本の現状みたいな課題も僕はくっついてると思うんですよね。
なんなら、自己啓発みたいな話との兼ね合いもあると思うんですよ。
自己啓発どうするんだってどうもしないんですけどね。
いずれにしても僕が思うのは、考え特に越したことはないという感じなんですよ。
これがさっきのマイナスKと似てるんだけど、考えないよりは考える方がいいじゃんってことでしかないんだけれども、
でも考えてるうちに理解度が増すとは思うんですよね。
別に僕はここで分析治療の進展を進めてるわけじゃない。
今の時代って本を紹介すると本を進めてるみたいになっちゃうんで、
僕は3ヶ月チャレンジでは何も課題を出さないっていう風に決めてるんですよ。
本読むとか全然関係ないと思うんですよね。
関係ないじゃないですか。
朝ジョギング行ってサラダ食べて筋トレしますっていうことは、知識いらないでしょ、別に本当のところ。
健康的ですよね、その人は。健康的であるなら。
だけれどもその人は不健康ですよね。その人がやってることが不健康ならば、同じことをやってた。
だから結局究極的には僕はここは知識じゃないとは思うんですよ。
だけど知識によって健康になることはできると思うんで、それをやってはいるんだけれども、
どの本読んだからより分かるとかいうことでは結局ないなって感じがするんです。
最終的には、だってどんなに精神分析の話を読んだって、
これを映画の登場人物とか、何なら他人に適応しているだけの間は何も進展しないと思うんですよ。
理解力が、知識としての理解力がどんなに深まっても。
だけどこれを自分に適応するとなると、かなり重苦しくなるんですよ、実際には。
さっきの縛られて押入れに入れられた人は、最終的にはその強圧者は母親じゃなくて、
あなたの心の中にあるんですって、これを勘として認められなかったんですよ。
認められないんですよ。そこは透明だっていうのが松木さんの書き方なんですけれども、
透明なんですよ。そこは見えない。
人という鏡を使ったって、なんかあるような気がするっていうのが精神なんですよ。
しかもそれがあるっていうふうに意識するのはすごい嫌なことなので。
いろんな人が怖くなり、したがっていろんな人に威嚇的な行動をとってしまうという人は、
その人にしてみれば、やっぱり松木さんのね、10分前の呼び鈴を鳴らしちゃったから松木さんが怒ってる。
先生が怒ってるんであって、私が先生に母親を投影しているなんていうのは、
それはあなたの知識を振りかざして、自分の立場を正当化しようとしてるんだと。
あなたはそうじゃなくて、不当にも患者に対して怒りの感情を向けて、
それで治療をやめようとしているんだと。
そういうのは嫌だから私は治療をキャンセルしているんですって、
こういう言い分ってなんとなく自然じゃないですか。
でもこれは精神分析という治療の枠組みの中で捉えると、
変異以外の何者でもないっていうのが炙り出されてしまうんですよ。
それを認めるというのはすごく嫌なことじゃないですか。恥ずかしいしね。
プライドが傷つきもしますよね。
これ全部自分の自作自演なんだと。
自分はこの対抗ですよね。
ダダッコのように対抗しちゃって、こういう恥ずかしい真似をしてるんだって。
直面したくないじゃないですか、絶対に。
直面すると、従ってそういうダダッコみたいなのは、
一生押し入れの中に縛り付けられているべきなんだから、
っていう価値観を持っちゃってるわけですから、その人は。
だからお母さんは正しいことをしたんだと。
そういうふうに思ったところで一瞬戻ってきて、
やっぱり自分もそういうふうに人々にしていかなければ、
正しいことをやることができないし、
この世の中は正しくないものになってしまうっていう意識で、
少なくとも自分の家族には対すると。
そして奥さんがカウンセリングでも受ければっていう、
そういう流れがそこにあるわけですよ。
で、それは当然プライドが傷つくし、
これは全然問題ないんだけど、なんなら問題あるのはそっちなんだけどって、
思うじゃないですか、普通に。
思ってたんですよ、ずっとその人も。
でもあんまりそれをやってるうちに、あまりにも周りとうまくいかなくなったから、
松木さんのところに来たんだけど、
松木さんともうまくいかなくなったような気がしているから、
治療をキャンセルする。
これがやっぱりなんていうのかな、
その人自身に見えるようになるためには、
手間暇はものすごくありますよね。
だから最終的にこの話は治療の集結とはどうあるべきか、
みたいな話になっていくんですけど、
ここで僕はやっぱりもう一回思うんですよね。
だって集結という発想を実際に持つ必要を自分の中では持たないし、
3ヶ月したらいいんじゃ、一旦3ヶ月で安くなくても終わりますし、
治療の集結という言い方をするってことは、
治ったってことと関係がありますよね。
でも治すってことは私にできない以上、
集結っていう考え方はやっぱり不可解なものがあるんですよ。
でも集結ということについて考えることには意味があるという感じがするんですよ。
何を持って人々は心の健康が取り戻されたとか、
心の病が治ったとか、そういうふうに考えるんだろう。
この時にまた何かを参照しなきゃならないですよね。
例えば、うつならうつ、なんならあれですよ。
最近ずっと非常に幅広く話題になっている発達障害、
あれについて誰も集結って言葉を、
僕が知る限りほとんど話題になりませんけど、
まるであれは慢性の病であるということが当然のようにされてますけど、
僕はあれだからすごい怖い話なんじゃないかなと時々思うんですよね。
これ単純に、普通に、
だって我々は不治の病にかかりたいと思っている人はいませんよね。
あれところが診断されました、発達障害だと診断されましたって話をしられるときに、
割とサラッといくんですよね、サラッと。
これがよく言われている病気、体の病気だったら、
多分ああやってサラッとはとても言えないと思うんですよね。
治らないとかいう話になってくればですよ。
治るのか治らないのかについてすらそもそも話題にもなっていませんから。
だから、あれ、発達障害ってなったら一生ものなの?みたいな。
いや、そもそも、なるならないってあるの?みたいな感じじゃないですか。
生まれつきだって言うんだったら、また話は別ですよね。
でも、生まれつきっていうことが言えるんだろうか?みたいなこともやっぱあるじゃないですか。
だから治療であれば終結って話って出てくると思うんですよ、どっちみち。
だから私は3ヶ月チャレンジ考えるときに、
終結っていう考え方はおかしいよなって思うんですよ。
一方で、終結ってことについては考えとかないといけないよなとも思うんですよ。
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