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2023-04-27 57:25

【776】一つ意識が息づく世界

この番組を続ける意味
ポッドキャストの内容の変化
おはようございます。グッドモーニングボイスです。
4月27日、木曜日の10時57分ですね。
大幅に遅くなりました。
これやっぱり、変則的なことが起きると変則的になるという感じで。
そうするとまたですね、環境が変わって、今みたいにさらっと日付と時刻が言える環境に移動して収録していると。
まあ、そういう感じになっています。
それとあと、たぶんなんですけど、これがなかなかあれなんですけどね。
175回か、今日が6回のはずですよね。間違ってるかもしれませんけどね。
777が迫ってる。ほぼどうでもいいことなんですけど。
これでも結構690回目あたりから意識し始めて、もうすぐ377じゃんみたいな。
そういう、初めてね、切り板とかのはあんまり割とどうでもいいと思っちゃう方なんで。
考えたことがなかった。
これ777はちょっと意識しましたね。
これを過ぎるとたぶん999を意識するだろうなっていう。
自分が好きな数字とか言われると大体素数がこの辺を答えるので。
好きなんですよね。
まあ、そういうのってありますよね。好きである。
なぜそれを好きになるのかわからないですけどね。
私377とかやっていいことがあったことは経験上一つもないんで。
777ってゲームセンターでも見たことないしね。
私はなんかこうもっぱら、なんだろうな、テトリスとか、
あとシューティングゲームをやっぱりやっている口だった気がしますね。
あんまりストリートファイター2とかもやりましたけどね。
結構チュンリー使いまくる系なんですけども。
のめり込むってほどではなかった気がするんですよね。
あれですよ。
1台に100円入れれば2、30分は遊んでられるけれども。
そんなところですよね。
対戦も別に強くないし。
ザンギエフとかに負けちゃうし。
そういう感じで377はほとんど。
なぜあれが面白いのかがやっぱりわからなかったんですよね。
未だによくわかってないような気がします。
そういうわけで、まもなくかなというところですね。
リッスンや100日チャレンジについて
今日はですね、告知もほどほどにというか、ほぼせずにですね。
なんとなくのんびりと喋りたいなっていう回なんですけど。
最近ですね。
これもいろいろ様々なんですけれども。
ずっとこのフォトキャストもほとんど精神分析の話になってるなっていうのを。
あ、そうだ。なんでこう思ったかというと。
リッスンというのが今話題じゃないですか。
これを登録しておけば。
ドキュメント化してくれるという。
すごいなって本当に思うんですけど。
まだ登録をしてすらいないという。
理由は非常に簡単で。
これをドキュメント化して見直そうという気がさらさら起きてないからなんですね。
なんていうんですかね。
すごいなと思うことと、それをして何かをしたいなと思うことの間に。
何の関係もないっていうこともあるんですね。
昔はそういうことはなかったんですけどね。
機械の全部エヴァノートに取っておくとか。
機器としてやってたはずなんですけど。
今全くそれをしようという気持ちが沸き起こってこない。
でもリッスンには登録するとは思うんですよ。
でも相当気が向かないとなかなかそういう気持ちにならない。
昨日しゃべったことを文章化して読みたいって起こらないんですよね。
昨日の以前のものは全部別に読めない。
昨日の以前のものは全部別に正直なくなってもそんなに惜しいとは思わない。
これ多分700回以前のものは全滅しても全然気にならない日が今私はしますね。
それもどうかと思うんですけどね。
しゃべってるときはものすごく熱が入れてるんだけど。
精神分析を取り入れたフリーランスの生活
終わったらもう次の回だけで十分ですよね。
それをやるまでは忘れていますしね。
今もリッスンの話するっていうのは、
昨日余儀ったからメモにでも取っておけばよさそうなもんなんだけど、
したくなったらすればいいやぐらいな感じでしましたけどね。
というわけで最近は静新文成のことばっかりすればしゃべってるよなということを
リッスンに登録しようかなと思いながら考えたわけですよ。
何私やってんだろうって思ってですね、
いろいろと最近は聞いていますっていう方が本当に絶え間なく言ってくださって、
すごく楽しみですっていう方もすごく増えてきてくれて大変感動しちゃうんですけど、
静新文成をこれで学ぶとかできないし、
これで何がわかるんだろうみたいなのがあるわけですよ。
これでグッドバイブスっていうよりはクラウドの賛能がすでにあるし、
週にしかも3回ずつきちっと挙げられていますし、
まっすぐグッドバイブスですね。
100日チャレンジの方は、
100日チャレンジの話をポッドキャストで明らかに、
でもこれもJマスザキさんがポイシーで毎日しかも10分でコンパクトにやってて、
僕みたいにぐちゃーってしゃべってるのより、
あの方がわかりやすいだろうなというのもあるんですよね。
で、だいたいすごい聞いてますって言ってくださってる方は、
ほぼ100日チャレンジの方ではなさそうなんですよ、今のところはね。
これはですね、何になってんだろうなというのを改めて考えてみたわけですよ、お風呂の中とかで。
あんまりお風呂の中で考えるのをやめにしておきたいなとは思うんですけどね。
でもちょっと考えてみちゃったわけですね。
そして一つ考えついたのが、つまりこれは私が精神分析、グッドバイブスを通じてなんだけど、
精神分析を、一言で言うと精神分析を使ってフリーランスをやってるんですよね、今の私は。
精神分析というものをいつか受けたいとは思ってるんですけど、
少なくとも私がやるわけにいかないし、やりたいとも別に全然思わないんですよ、精神分析ということをね。
まずあれカウチにやってもらわないとダメだと思うし、対面じゃダメだと思うんですよね。
その段階ですでに僕はあんまりあれと同じようなことをしたいとはあんまり思わない。
あとその中断もダメなんですよね。
僕はあんまり中断はしないっていうのはすごく同意できるんだけど、
精神分析と育児・教育
でも絶対中断が基本的にダメだっていうのは違う意味からで、
こっちも私はどうなんだろうなーみたいな、どんな時もかなーみたいな、
それは本当に本当の精神分析っていうのが仮にあるとして、
それが常に中断を絶対してない方ではそんなことはないと思うんですけどね。
隣カジンだったとかそういうことはあったはずですからね。
あれだけのセッションが世の中で、世界中で行われていたことを考えると。
やっぱり言えますよねそれ、常識的に。
カウンセリングやってる場合ではないと思うんですよ。
命あってのものだねってやつですからね。
それでいろいろなことを考えてみたところ、
最終的に私が今やっていることの結論って、
つまり精神分析というものを私は釈用すると、
仕事がものすごくスムーズになる。
これはグッドバイブスも全くそうなんですけれども、
グッドバイブスの場合は仕事と奥さんとの関係がものすごく、
最近では特に技術家との関係がですね、
これはものすごくスムーズっていうのは、
私の独りよがりかもしらんと思うんですけど、
向こうさんがどう思ってるかって、
本当分かんない世界なんで。
もう文化が本当にあるんでね。
文化ってものをわざわざと意識させられると言いますか、
私の実家だって仙台ですから、
タスクシュートと仕事の効率化
同じ東北なんだけど、こんなにも違うんだなみたいな。
家なのか地域的なものなのかちょっともう分からないんですけどね。
この話多分皆さん興味ないと思うんで通り過ぎますけれども、
私は本当ここでですね、グッドバイブスというものをね、
改めていろんな形で身に染みたんですよね。
精神分析でも分からなくはないんだと思うんですけど、
ほら、関わってくる人が多種多様かつ、
割と一瞬一瞬みたいなところがあって、
そんなにじっくり分析をしていく、
この人の長時間はみたいな、そういう風にしたいとは思わなかったんです。
他に方法が知らなければ、そういうことを考えたと思うんですけど。
あと意外にね、タスクシュートも役に立つんですよ。
とにかくこれとこれとこれとこれとこれはやったみたいなのを、
どんどんどんどんやっていくんで、
そして誰もそれを覚えてないという世界なんで、
情報と色眼鏡
非常に困るんですね。
誰も覚えてないんだけど問い合わせはやたら来るわけですよ。
あれをやったんだろうか、みたいなことを急に騒動になってね、
例えばこう、あれですよ、
公伝開始はあの方にはしたのか、みたいなことを言って、
誰もその記録を持ってない。
そういうときタスクシュートって偉大だなって思うんですよね。
僕は一発で答えられるわけですよ。知らない人なんですけどね。
まあまあまあ、そういうようなことで、
それこそ総力を挙げてですね、取り組んでいったわけだけど、
フリーランスのこと仕事になってくるとやっぱり、
まず私は今は精神分析というものを相当使ってるとしか言いようがないわけです。
それも使ってると言っても、
こう使ってるとかそう使ってるとかではないんですよ。
例えばなんだけど、例えば今ちょうど教長の話が持ち上がっていて、
そしてこうある編集さんが編集会議というものにかけて、
そこでコメントがダッと来てますと。
中にはもう結構ネガティブで厳しいコメントもあるわけです。
これを読んだときに、もちろんGood Vibesのことも頭にありますし、
いろいろあるわけですけど、
別に全然関係ない私の単なる経験みたいなのももちろん当然あるわけですよ。
結構その編集さんとのやり取りというものはいろいろやってきていたわけで、
だけど今回やっぱり新しいんですよね。
全く今までにはあまり経験したことのないようなパターンなんですよ。
パターンというつまりパターンがないわけですよ。
昔ならここで当然パターンだったわけだけど、
Good Vibes以来パターンというものは信用できなくなっているので、
これはもう使わない。
そうすると一つにはまずやっぱりパッとくるのが、
私は今部分対象というものを心に置いていて、
そしてすごく思い悩み始めようとしている。
こういう感じなんですよね。
考えが始まりつつあるみたいな。
Good Vibesもそうなんだけど、精神分析っていうのもすごくつつあるというところ。
ものすごく意識させてくる感じがする。
いつもダイナミズムを忘れるなって言われているような気がするんですよ。
INGなんだよっていうことね。
そこにパターンマッチングとかが良くないというか、
私が使わなくなっているのはこのつつあるというのを
全然意識できてなかったなっていうことなんですよね。
私が、例えばその編集さんのシビアなコメントを
シビアと見つつあるみたいな。
Good Vibesでも全くそういうことを考えさせられるんですけど、
このつつあるものを作り出し始めたぞっていうシグナルが
来るのと来ないのとではやりやすさが大きく変わってくるんですよね。
これは多分ほとんどの職業で役に立つと思うんですけど、
特にフリーランスの人とか、
ある種のフリーランスではないんだけど個人事業主みたいな人。
例えば大学の先生とかですよ。
には常々お伝えしたいなと思うんですよね。
情報というものは危険だってことなんですよね。
言ってみると別の言い方をすると。
情報というものは僕らはすぐめちゃくちゃ色眼鏡で見ているし、
大学の先生なんてそういうことを学生に常々お話になっているにも関わらず、
この情報はネガティブだっていう風に。
全然いきなりその時に、
フッサールのエポ系を忘れるんですよね。
カッコに入れることも忘れちゃうんですよ。
もうその段階で不安というものが形成されつつあるということを、
そして自分が形成しているんだということも、
バイアスのかかった判断に基づく行動
形成しちゃったらもうダメなんですよ。
EDになっちゃうわけですよ。
受動体になってしまうんですよ。
形成してしまったらネガティブなコメントが来て不安になったっていう風に言って、
しれっとしちゃうわけですよ。
そこに主観がものすごく改在してきていて、
色眼鏡、つまりもうほとんどあなたがやっていることときたら、
赤いセロファンのついた眼鏡で見て、
世の中赤くなったとか言っているのと同じだっていうのを、
常々人には言っているくせに、
やっちゃっているよっていうことを忘れてしまうんですね。
これを組織の中でやった場合は、
多分それはそれで辛いと思うんですけど、
でも他の人が相手にしないということによって、
そのような判断は、一応判断を回避することはできないけど、
その判断に基づいた行動は取れなくなると思うんですよね。
ところが個人事業主っていうのは一人でやっているもんだから、
この判断に基づいて行動し始めるんですよ。
例えば、こんな編集さんとやっている。
これは極めて極端ですよ。
僕はこういう行動に即打って出たことは、かつて一回もないけれど、
でもそういう人もいらっしゃるわけじゃないですか。
だからこういう編集さんとはやってられないから、切るみたいな。
それってものすごい判断じゃなくて、
ものすごくバイアスのかかった判断に基づいて、
強硬な行動を取っているんですよ。
でも周りはそういうふうに捉えちゃうんだけど、
自分は決してそうは捉えないから、
これは自分は妥当な判断をさせられたんだぐらいな感じで、
多分いると思うんですよね。
これを僕初期の段階で押しとどめる。
僕初期の段階でも結構あれなんですよ。
押しとどめようとしてみると、すでに力が強烈に働いているということが、
それこそサイコダイナミックって言葉が、
如実に感じられるほど、無意識が全力で、
いやこれはもうネガティブだぞっていう、ネガティブだということにして、
現実自覚を形成していこう、こういう言葉になっちゃうんだけど、
グッドバイブスと精神分析がもたらす効果
本当にそうなんですよ。
現実自覚を形成し始めるんですよね。
これを押しとどめるというのを人に対してやってみるとよくわかりますが、
その人必ず怒り出しますからね、多分。
90%以上の確率ぐらいで怒り出しますね。
よほどそういうことに気をつけている人で、
初めて止めようという気になってくれるけど、
まずそういうことは起きないと思ったほうがいいぐらい、
このネガティブ現実を作り出すパワーっていうのを内心に秘めてしまうとですね、
その力はあるんですよ。
だから、こんないい話を持ってきてくれたのにって人、
平気で殴りたくなってくるっていうことが、
僕らは正気で、しかも賢明かつ合理的な人がやるんで、
油断も隙もない。
油断も隙もないのは、私の結局、意図が油断も隙もないんですよね。
どういう逸脱があって、どういう育てられ方をしたにせよ、しなかったにせよ、
これを今やってしまって、私に何のメリットもない、
まあわかんないんですけどね、結局。
つまり本当のことはわからないわけだから、
そういうわけのわからん行動をとって、
わけのわからん結末を彼に迎えてしまったとしても、
最終的にはそれはグッドバイブスなのかもしれない。
世界というものは、最終的には世界と自分は信頼に値するのかもしれないけど、
やっぱりこれは避けられるなら避けておきたいという。
良い解釈を施すのにものすごく手間がかかるほど、
どこからどう見てもあんまり良くない行動になってしまうので、
こういうネガティブな判定、
これが本当にネガティブならしょうがないわけじゃないですか。
本当に相性の良くない演習さんとかそういうこともあるでしょうからね。
本当に厳しい意見が出て今回は流れるってならわかるんですよ。
全然そうじゃなかった場合のことを考えてみるとね、
このネガティブな予測をすることによって、
最悪の事態を想定すればいつでも最悪の事態は避けられるから、
ハッピーってことにはならんと思うんですよね。
これは最悪より悪い想像を勝手に作り出した挙句、
それに基づいて行動した自分を正当化しているだけで、
これ最悪の事態よりもだいぶ悪い気がするんですよ。
その場合考えられる最悪の事態に比べても全然良くない。
この辺のことを何言ってんだかよくわからんっていう方は、
この種のお話には多分興味を持たないと思うし、
あんまり有益でもないと思うかも。
この種の話が少なくとも、私の言ってる話に同意できないにしても、
そういうことってあり得るなという、
何か苦笑いのようなものと共に想起してもらえるという方には、
プロイトって僕は役に立つと、今はつくづく思うんですね。
先日からずっとGood Vibesファクトリーという、
クラゾンのケイドさんとやっているGood Vibesのオンラインコミュニティで、
私はずっと最近は毎週1回、
本の紹介と、私いつもやってるようなことだけど、
本の紹介というとGood Vibes流に本の紹介をやってるんですが、
実は私の中でこれは逆のアウトプットのやり方でしたねというか、
そういう舞台裏はどうでもいいんだけど、
つまりGood Vibesを知ることによって本を読み直すと、
どうしてそういうことをするかというとですね、
これは精神分析が非常に役に立つんだけど、
精神分析というものを意識しながら書かれた本って、
世の中にはいっぱいあるんですね。
そしてそれは、いろんな様々な事情から、
精神分析を考慮に入れましたよと書いてないんですよ。
さもそうじゃないかのような顔をしたがる人も多くいるんですね。
アルキさんの最新作も多分そうで、
精神分析とヤミンディ・ベッカーの本
精神分析というものを考慮に入れていないのかもしれない、意識の上では。
でも明らかに考慮に入れたとみなして読んだ方が、
はるかに分かりのいいところがあるんですよ。
そういう本っていっぱいあるんだよなっていうことを、
よぎるって言い方をするんですけど、よぎるって感じしかしないんですよね。
本当に頭の右側から左側に向かって、
あの本があったぞーみたいな、よぎるんですよね。
メラニ・クラインの本で、
シットドセンボーみたいな本があるんだけど、
タコノギさんの本とか色々読んでいって、
例えばアライピロヨさんの漫画とかを読みまくってると、
あ、あのメラニ・クラインの本って分かるような気がするってことが、
頭を右から左であったよーみたいによぎるんですよ。
そしたらクラインの本を読むじゃないですか、めちゃくちゃ分かるんですよ。
それを読み直していく作業をするんです。
グッドヴァイブスもそうで、
クラズノさんの緑の本を読んで以来、よぎった本が月から月へとあってですね、
その中の一つ、そういう本を僕が紹介していくという作業をしてるんで、
本来逆なんですよ。この本にもグッドヴァイブスみたいなことが書いてありましたよ、
逆で、まずグッドヴァイブスを読むと、
前に読んだ本がそういうことが書いてあったということを、
それってグッドヴァイブスを読まないと思い出せない思い出し方じゃないですか。
グッドヴァイブスのことが書いてあったって言うためにはグッドヴァイブスを読まなきゃならないから、
グッドヴァイブスを読みもせず知りもしない段階では、
グッドヴァイブスのことが書いてあったと思って読むことはできないわけですよね。
こういう事後に起きたことを、事前に巻き戻した順番から、
この本を読んでいくとグッドヴァイブスが出てきますみたいなやり方で紹介していると。
そういう込み入った理屈を喋ってるだけなんですが、
実態はこういうことになってます。そのうちの一つがあれなんですよ。
15章という本で、今タイトル変わりましたけどね。
その本、ヤビンディ・ベッカーの本が本当に多かったなっていうのが、
割と僕は初期の頃に意識したことなんですね。
緑の本を読んで、間もなくすぐに、読んで間もなく、
あれがすごくよぎった。よぎったんですよね。
15章という本は大宮の、
そこはよく行ったんですよね。
NTTドコモサービスの埼玉料金センターに、
唯一私が勤めていたと言っていい行動をとっていた。
一生そうやって生きていくつもりで。
中口圭三さんが内閣やってた頃に、あの頃派遣社員っていうのは、
前も何度も言ってますけど、いい響きででしてね。
新しい働き方のそのものみたいな感じで、働いた時間分だけ給料をもらって、
精社員並みにもらえる、あらゆる種類の精社員にもらえる。
一番多かった頃で40万弱ぐらいもらってたんですよね。
1年目で一番もらえてた時ですよ。
先導しちゃうんで、行った時間に応じるから。
あの時代はある意味良くてですね、いろんな意味での派遣における制限みたいなものが、
ないからいけないことが起きたんだけど、当時はなかったんで、
割と何でもありだったんですよね。何年も派遣やってても良かったし、
良くなってことになるじゃないですか。何年も派遣で働かせるのはよろしくなくて、
アメリカへの旅立ちと暴力から逃れるための15章
精社員にしてあげなさいと。でも私なんか当時精社員になりたくない人間だったから、
平気にしてあげなさい的な意見と、
法の改正はめちゃくちゃ都合が多くてですね、
はた迷惑なことするなって思ったもんなんですよ正直。
で、そのはた迷惑なことが起きて、
あなたドコモに本当に勤めるか、派遣違うところに行くかにしなさいねみたいなことを言われて、
嫌だなぁと思いましてですね、
貯めたお金使ってアメリカとか行っちゃおうかな、留学しようかなじゃないですか、逃げちゃおうかな、
アメリカとかでも銃とかヤバそうだって思った時に、
アサヒ戦書の本がパッと大宮の本屋さんで目に入って買ったということなんですね。
それを読んで、うわここヤバいじゃんっていう、
読めば読むほど行きたくなくなるというね、でも行っちゃったんですけどね。
で、あの本読んでものすごく面白くてですね、
アメリカ行ってもずっと読んでたわけですよ。これで身が守れるとでも思ってたんでしょうね。
読んでいたりで面白くてですね、
あれでギャビンさんの原著を読んでですね、少し英語を読むということが
前進したという経緯があるんですけど、だから原著でも読んだんですよね。
原著の方が面白いんですよやっぱり結局なんだかんだ言って、
いろんな面白い書き方がより面白く伝わってくるというか、
まあそういうことがあってですね、暴力から逃れるための15章は相当読みましたね。
ポロポロになっていて、40回ぐらいは読んだような気がトータルでは。
2回買って原著も買って電子書籍も持ってるんですよね。
で、それぐらい読んでるから、まあよぎるのは全然当たり前で、
フロイトと心理分析
大事なのはですね、明らかにこれは後からわかったことというか、
もう当時から彼は書いてたか、ヤミンさんは書いてましたね。
フロイトを彼はね、よく引用して、まあアメリカ人だから不思議はないですよね。
日本よりもフロイトの市民権が全然強いですし、今でもそれははっきり強いと僕は思うんだけど、
フロイトって言えばもうそうだな、誰だろうな、日本で言えばアインシュタイン級だと思いますね。
日本人みたいにフロイトって怪しいからねみたいな、
そういうなんかちょっとうさんくさいオカルトみたいだよねみたいなのは、
そういう捉えられ方では全然ないんですよね。
今もとわかんないですよ。僕が行った頃はそうだったってことですね。
巨人なんですよね。
で、だからかなりフロイトから来ているのは、何の中から意識できたんだけど、
やっぱりそのヤミンさんの読んでフロイト読んだんですよ。読み直したんですよね。
1冊か2冊だけアメリカに持って行って、あんなもの持っていけないですからね、全部だって。
全部持ってたんですけど、前週はなぜか。
なぜかというかこのポッドキャストでケイもお話したと思うんですけどね。
で、このフロイト読んでギャビンの本読むと、
むちゃくちゃこう、なんていうんですかね、展開が違って読めるんですよね。
こういう現象が私はあると、あるから、
何かを読んで何かがよぎったら再読するっていうなんちゅんだろうな、
まあ趣味ですよね。そういう趣味があります。
だからウッドバイブスを読んだ時も、やっぱり暴力から逃れるための上昇を再読取することになったわけですね。
こういうことがあれなんですよ。
一番今幅広く起きるのが精神分析なので、精神分析を読んでは、
必ずもう一回フロイトを読んで、その後よぎった本を読んでいくっていう作業が、
時間のある限りこの作業になってるんですよね。
それの断片的なのがこのポッドキャストで流れているという形で、
フリーランスを私は今やっている気がするんですね。
これがウッドバイブスでも、ウッドバイブスを読んだからフロイトを読むことになったから、
そういうふうに全部がぐるぐる回ってるんですよね。
このぐるぐるを僕はフリーランスと呼んでいるんですよ。
どこにもファイナンスの話が出てこないですよね。
それをやっていて、食べていけなくなるんじゃないですかって言われると困るんですけど、
これをやりつつ、最低限自分と家族だけは食わせるというのを実現する上でも、
やっぱりこれがないと無理なんですよね。
私はこれがないと不安になってしまう。
昔、大橋哲夫さんすら、すらと僕は言ってしまうんですけど、当時はびっくりしたんですよ。
漠然とした不安というね。
太宰治が言っているようなことをまんまブログに書かれたことが、
大橋さんですらこの漠然とした不安を持ってしまうんだから、
フリーランスって厳しいなって思って就職した方がいいかなと思ったことがあるぐらい、
本当に最初の方です。
震災の前だと思います。2010年とか。
そんなに前、でもそのぐらいじゃないかな。
2009年とかもしかしたらもっと前かもしれないですね。
だからまあ、偉大で当然じゃ当然なんですけれども、
あの頃はやっぱりこう、始めたばかりの頃だったし、
SNS時代以前でしたからね。
本当ブログだけでやっていくみたいな、
自分のPRする手段としてブログぐらいしかない。
本が出たとしてもある意味、新聞の2面の下に載りましたみたいな、
そうするとアマゾンの順位が2桁変わりますみたいな、
そういうことだけに頼っているようなやり方で不安になりますよね。
だけど、その不安は何も変わってないと思うんですけどね。
その時不安になるということについて、
私の考えではですけど、
それほどその不安というものについて、
よく知っていた人はあんまりいないなっていうふうにやっぱり思うんですよ。
フロイトを読んでも多分、
私当時もそうだったんだけどよく分からなかったと思うんですけれども、
クラインだと分かる気がするんですよね。
特に嫉妬と煽望みたいな話とか、
つまり部分対象なんですよね。
今日は本当にリラックスして喋ってるんで、
何の解説も交えてないんですけど、
ただ自分が納得していることを喋っているだけなんだけど、
例えばですよ、
お馴染みのカウンセラーと一緒にいると、
一緒にいてお話ししてくれるときはいいんだけど、
ちょっとボーダーっぽさが入っている人だとですね、
もう本当部屋出てすぐぐらいかもしれないですね。
家に帰ってその日はよかったよかったという話を聞いてもらったし、
これは精神分析というよりは一般のカウンセリングでありそうなことだな。
来週までこれでいけそうだみたいに思っても、
朝起きてみるとドワーンとしていて、
不安になってくるわけですよ。
私はカウンセリングを受けているんだけど、あんまり良くならないと。
そういえば、昨日ああいうことを言ったときに、
ちょっとカウンセラーさんの顔が曇ったけど、
バカだと思われたんじゃないかなとかってやるわけじゃないですか。
やるんですよ、これを人は。
特にこういう心理状態がきついときはこういうことをやるわけですよね。
そして、だんだん好きになったカウンセラーほど嫌いになるということが起こるわけですよね。
あの先生が、
例えば、あんまり言わないかもなんだけど、
こういう風に考えてみたらどうっていうから考えてみて、
確かに上手くいってるけれども、
あの先生はそれにしてもそんなに何でもわかってるんだろうかみたいになるじゃないですか。
なぜかというと、少し嫌なことを、嫌な顔をした気がするとですね。
さっき言った、最初の方に言った、
知覚を作り出すのに全力を尽くす心っていうのがどっかに潜んでいて、
それがそういう知覚を作っちゃうわけですよね。
眉が曇ったとか、私はやっぱり敏感だからああいうのを見逃すことができないみたいに。
この面白いことにですね、いろんな意味で自信がないんだけど、
そういう内面の変化には、花瓶に捉えるとかにはすごく自信を持ってたりするんですよね、そういう時って人は。
だから相手がネガティブに感じた、ポジティブに捉えた時を私は見逃しちゃうんだけど、
ネガティブに思った時のことは見逃さないみたいな、そういう自信を持ってるから、
相手のカウンセラーさんに言ってしまった、ちょっとしたつまらない言葉がですね、
すっごく不愉快だったのかもね。
さっきまでは、ちょっと眉毛が曇ったとかだったはずの、
なんかすごく不愉快とかに、この辺でうまく切り替えられてるというか、
心の中の人形劇と部分対象
なんかこうですね、だんだん自分の都合の悪いようにとねじ曲げていくわけですね。
そして電車に乗ったりして、隣のおじさんがコロナ禍なのにマスクもせずいっぱい咳をしてたとか、
いろんな良いことが起こりますわね。
そのうちに、私にはカウンセラーがいるという一方で、
実はあのカウンセラーの人だって、
昨日の夜とかに奥さんに向かってね、
いやもうほんと今日のクライアント参ったよみたいなことを酒飲みながら、
私の悪口いっぱい言ってるんじゃないだろうかみたいに思うわけですよ。
思う人もいるということですね。
で、こういうことを聞き起こす原因の一つに、嫉妬と煽動というものがあったり、
あるいは部分対象。部分対象というのはつまり、
現実の何かの一面を切り取って、千切り取って、
自分の頭の中とか心の中でああだこうださせない限りですね、
そんなことはできないわけですよ。
だってそのカウンセラーさんが奥さんに口を言ったとか、食事をしてるとか、
全部自分の中の空想ですよね。
このような空想を可能にするには、
お人形劇みたいなことを心の中でやるしかないわけですね。
お人形劇ですよね、言ってみれば。
自分が作り上げた、どんなに成功にできていようと、
人形は人形ですよね。人形劇をやってるわけですよ。
本当にあのクライアントさん参ったよって言わせている。
奥さんなんて見たこともないはずなのに、奥さん役のお人形さんも用意して、
大変だったわねとかって言わせてるわけですよ。
そういうどっかのドラマで見てきたようなものを自分の心の中で再演するわけですね。
この時、絶対忘れちゃいけないことは、
そのお人形は素材の元になったものから部分的に作り出したものじゃないですか。
つまり部分対象なわけですよ。
人形ってだいたいそういうもんじゃないですか。
一面を切り取って、何なら写真みたいなものを貼っ付けて、
何かに見立てるわけでしょう。
素材があるわけですよね、もともと。
もともとの素材は現実に生きているものだから、
そんな人形劇の箱の中に入ってるはずは絶対ないのに、
箱の中になぜか入ってる人形が、
自分があったり、あって好きになったり嫌いになった人の身代わりをさせられているということは、
そういうことをできちゃうということはですね、
その空想に貢献させられてしまうということは、
その素材いっぱいあるわけですよね。
こういう考え方が多分僕は対象関係論というものの一つの基盤になってると思うんですね。
自分の心の中の対象というものを使って、
対象関係をその中で演じさせることで、
自分の心が曇ったり上がったり、
人形劇によるストレス
要するにあれですよ、ジェットコースターが始まっちゃう原因が、
その人形劇みたいなものの中に原因がある、
そういうような考え方だと思うんです。
その時に自分が例えばストレスを抱えていると、
ストレスを使って人形劇をやるもんだから、
これ投影ですよね。
ますます気分が悪くなって、
しかも永続的に悪くなっていくわけです。
何のためにこういうことをするのかっていうのは本当あるんだけれども、
この人形劇をするそういう習慣が、
暗いに言わせればですけどね、
赤ちゃんの頃から断続的に続いていると。
こういう考え方がやっぱりできるようになって以来、
私はそれこそ嫉妬と旋風を何と言うんだか分からないぐらいは読んでいるので、
人形劇は一体やらないっていう、
なんだろうな、
ある種のトレーニングをする気になったんですね。
今までは人形劇始まっちゃうしって思ってたんですよ。
グッドバイオスでもこの人形劇は事実上ダメっていう感じなんだけど、
グッドバイオスはダメって言わないんですけどね、
人形劇始まっちゃうしっていう感じだったんだけど、
始めるっていうことを停止させようというふうに決めたんですよ。
停止させようと決めたから停止するのって言われると、
そうはならないですよ。
でも停止させようと決めたんですよ。
これがよく私はこの番組でこういう言い方以上のことは今できてないですけれども、
停止しようと決めたということですよ。
これをやるのにいいことはないし、
やっちゃってしょうがなかったというふうにももう思わない。
馬鹿げた空想劇と酒
とにかくやめるんだと、そういうことですね。
そうしないと現実の人を必要もないのにキラ引っ張っちゃうんですよ、
こういうことばっかりやってるうちに。
もう一つ僕はすごくこの辺がやっぱり大事だなと思うんですけれども、
フラインの本に書いてあることって基本的にはこういうことで困っている人の話なんですね。
だから心の構造といってもですね、
心の構造一般を一発的に記述しているというよりは、
困った人が困っているときの心の状態ってどういうものなんだろうっていうのを知るのに、
やっぱりあれはいいわけですね。
だから私は自分の心の中で困ったことが起きているとき、
確かにこういう馬鹿げた空想劇をやってるなということを捕まえるのに都合が良かった。
だからフリーランスやってるときは、
一人でこういう空想劇を持て遊んでは原稿も書かずにですね、
発言こまちはいかないですけれどもみたいなものを見て延々時間を潰すという、
まあ困ったことになるわけじゃないですか。
僕はお酒飲むという習慣はなかったからたまたま飲んでないんですけど、
いろんなそれこそ失踪日記とか読んでると、
これ酒とかでも私入ったらすぐ依存してただろうなという自信があるわけですね。
昔だったら20代後半とか30代前半だったら絶対酒ずっと飲んでただろうなという自信があるわけですよ、私のような人間は。
この空想劇は酒と相性がいいんですよ、いろんな意味で。
絶対きついよねと、そういうことになっちゃったらね。
人間の存在とナルシシズム
だってやっぱりこうね、どれほど現実というものは最後には自分を良くしてくれると信頼するとしてもですね、
やっぱりアルコール依存の病棟に入るっていうのはなかなかの大変そうな体験だということは、
失踪日記を読むとよくわかるわけですよね。
だからやっぱりこう、なるべく避けておきたいじゃないですか。
そしてこういうふうにいろいろ見ていくとですね、つまり困ってる時の一般的技術はまあまあこのクラインの一つの技術としてすごくいいんだけど、
最近私が考えるようになったのは、人って一般はこうじゃないよなみたいなところがあるわけですね。
フェットバイブスを読んでいて、例えば平安っていう言葉がキーワードとして出てきて、平安というのは恐れや不安がない状態っていうふうにあるんだけど、
一つの否定形で、つまり私たちは恐れと不安を簡単にだからね、一つの否定形で定義されているわけですけれども、
自分の平安な状態って何なんだろうって本を読みながら考えたりするわけじゃないですか。
そういう時にまた余儀るわけですよ。
そういえばクラインはこうやって一生懸命対象というもののネガティブな側面とか、ネガティブな事態が起きた時の対象の要するに人形劇の動きというもの、
そもそも人形とは何でできているのか。
人形が一式のある種の操り人形みたいなものだとすると、糸が取れちゃった人形が勝手に動き出すのが夢みたいなものだとすると、
夢っていうのはつまり人形という現実の残骸みたいなものの乱舞だみたいな、乱れ舞うみたいな、ああいうものだっていう感じを最近私は抱くんですよね。
そうすると、でも平安というものはそうすると夢を見ていないみたいな感じなんだろうかと。
倉殿さんもですね、夢見る人に罪はないと。
これは罪っぽいことをする時に人はよく夢を見ているよねっていうニュアンスにも取れる感じがするんですね。
そうすると、そういうところから解き放たれている時の人の状態ってあるんですよね。
あるはずなんですよ。
そして奇術もあったなと思ったんですよ。
こういうのがよぎるんですよね。
フラインの弟子というのか、最後波紋しちゃったんだけど、友達というのか競争相手というのかよくわからない相手にウィニコットって人がいるんだけど、
彼が一番最初の赤ちゃんはゴーイングオンビーングだっていう言い方をしてたんですよね。
でも最近の自己啓発とかでよく言うじゃないですか、あり方とやり方みたいな。
ゴーイングオンビーングっていうのはまさにあり方の上にやり方が乗ってるみたいな感じなんだけど、赤ん坊っていうのはそういう存在だっていう言い方なんですね。
つまり息づいているっていうんですね。そこに息づいている。
これは何を言わんとしてるのかなと。
英語でゴーイングオンビーングっていう言葉は割と基礎的な単語みたいな顔をして出てきますけど、
一時的な価値の重要性
英語なんでそういう持ち輪持ち輪みたいな日本語はアメリカ人とかに通用させにくいじゃないですか。
同じようにゴーイングオンビーングってきっと日本人にはわかりにくい表現だと思うんですよね。
とにかく存在しているビーングの上にゴーイングというものが乗っかってるみたいな。
そういう無理やり畜語的に考えるとそんな感じになるんだろうけど、
ついにやっぱりよぎったんですよ。
つまりフロイトもそうだし、ここのところで意見が割れるんですよね。
クラインとかは一時ナルシシズムっていうのを割と認めてない感じがあって、
ウィニコットは一時ナルシシズムってものをすごく僕は肯定的に捉えてるような気がして、
私にはそういう方がわかりやすい。
つまり平安ってものが、私たちは生まれた時には平安だったのかどうかってことなんですよね。
ここは意見が割れるじゃないですか。昔からそうですけど、正善説と正悪説みたいな感じで。
一時ナルシシズムもそうで、我々は一時的には第一次のものとしては、
良いものとしてあるがままの状態で、価値マックスもそうだし、愛そのものもそうだし、
全部よく表現されてますよね、一時的には。
悪いことが起きるのは二次的ですよね。
だから二次ナルシシズムっていう話になってくると、
我前こうね、厄介な問題だよねっていう話になるんだけど、
倉殿さんの話でも恐れや不安とか罪と罰って全部二次的ですよね。
一時的にはそういうものはないんだというふうに考える。
だから私たちは本当は安心していいんだと。
よくこの自己啓発でも、やり方としては我々は、
あるがままでいいし、価値マックスかもしれないけど、
やっぱりそれを上に築いていくものが大事なんだっていう、
これは二次的なものの価値の方に割と重点が置いてあるわけじゃないですか。
でもこの辺ってもうある意味、
その人その人の感性というか、
もちろん性育歴も深く関わると思うんだけど、
感性みたいなもの、あるいは信念みたいなもの、
ビリーフみたいなもの、僕はやっぱりそこはですね、
必ず一時に戻っていくんですよね。
そして一時ナルシシズムを肯定してしまうんですよ。
政治分析でもここは意見が割れやすいところだということですね。
クラインは死の衝動っていうのをすごく強調してきたんで、
一時的に死の衝動があるような言い方なんですよね。
破壊衝動というのを持って生まれたものぐらいな感じ。
私はそういう印象をやっぱり自分が持ってないんですよ。
一時的には人っていうのは全て良いものとして出てきていて、
自分の子供を見た時にもやっぱりそういう感じが強まったんで、
一時的には破壊衝動というのを持っている。
一時的に悪意を持つこともあるっていうのが、
一時ってのはこのテンポラリティみたいなのではなくて、
第一次ってことですよ。第一次。世界大戦の一時ですね。
破壊衝動と第一次
一時的には善であるみたいな、そういう感じなんですよね。
そうすると、だから基本的信頼とか、
エリック・エリクソン、あるいはマイケル・ガリントンみたいに
一時愛とか、規定とか、そういう言い方をしたりする。
規定っていうのはベーシックってことですよね。
ベースには良いものがあるみたいな感じですね。
その時に一時ナルシシズムっていうのの特徴は、
自他の区別がつかないと。
これは様々な問題を引き起こしますよ。
この一時ナルシシズムが明らかに猛威を振るっちゃっていて、
結構成人の人がね、
クレームとかをやたら入れてくるということが起こるわけですよ。
自他の区別がつかないから、
すぐにナルシの人が家族関係みたいになってしまうわけですよね。
なんで俺を待たせるんだ、みたいな。
そういうことを受付の人にいきなり言っちゃうみたいな。
一時ナルシシズム問題なんだと思うんだけど、
それは困った人かもしれないけど、
もしそれだけのことならばですね、悪意はないわけじゃないですか。
それはただ単に自他の区別がちょっとね、
年相応についていないだけであって、
基本的には愛を求めてるわけですよね、やっぱり。
私をちゃんと扱ってくれっていう。
それは乳児が母親に求めてるような愛を、
私が受付状に求めたらダメですけれども、
でもそういうことをしたからといって、
そこに悪意は本当はないわけですよね。
問題はあるかもしれないけど。
そういうことなんだと思うんですよ。
だから一時愛って言ったときには、
私はなんとなく理解できる気がするんです。
それでメラニ・クラインの人形劇って、
全部二次的なものですよね。
なぜならば、私たちは誰かと出会ったり、
誰かと憎んだり、誰かと喧嘩した結果として
人形をどんどん抑えていくんだけど、
全部二次的なものですよね。
一時的にはそういうものを第一次の段階では持ってない。
その時にどういう存在であったのかってことを、
ウィニコットは強調している。
クラインはそこまでは強調していないような気がするんですよ。
強調しているというウィニコットが強調していたなってことが、
不意に思い出される。
それまでウィニコットって、
読んでもさっぱりわからないって感じだったんですよね。
本当にさっぱりわからなかったんですよね。
クラインの嫉妬と煽りを読んだとき、さっぱりわからなかった。
ウィニコットを読んでわかる感じがする気がしたのが、
グッドバイブスの緑の本だったんですよね。
それの後に、
倉園さんが私と強調で書いてくださった、
不安ゼロで生きる。
200年時代の文庫ですね。
三笠さんの文庫。
あれを倉園さんが書いている側から僕は読んでいたから、
あれでウィニコットっていうのがだいぶ読めるようになった。
こういう変化が起きるんですよ。
その時に一番キーになったのは、
Going on Beingっていうやつなんですよね。
一時ナルシシズムは自他の区別がつかないってことは、
ある意味一つ意識じゃないですか。
で、Going on Beingって一つ意識なんだなっていう気がするんですよ。
つまり赤ちゃんはそこで息づいてるんだけど、
自分というものは持ってないわけですね。
だからGoing on Beingって彼は絶対言ったと思うんですよ。
そこに対照関係という言い方をしてないし、
エゴってものももちろんない。
自分ってものが多分ない。
だけれどもBeing、存在はしている。
その上にGoing、進行もしている。
なんだけれども、ただある意味進行しているわけですよ。
どこから来て、どこへ行くのか、本人っていうのかな?
全く分かっていない。
ただただ息づいているだけの存在。
つまり外から見ると生きていることは確か、
生きていることと死んでいることは違いますからね。
生きてはいるわけですよ。
赤ちゃんが生きているか死んでいるかっていうのは大変な問題じゃないですか。
親にとって。
だから生きてはいるわけです。
そこで静かにしている。
でも赤ちゃんの主観に入ってみると、
入ってみることができたとすればね、
私が生きているというふうに思ってない。
なぜなら私ってないから。
自分と他人の区別がついていない。
そういう意識状態があるわけですよ。
それって一つ意識じゃないですか。
あるものが何でもいいんですよ。
ウィニコットとミニコットの違い
それこそクモでもいいんですよ。
クモっていうのは空に浮かんでるやつですよ。
クラウドです。
クラウドが漂っていて、
Going on beingしていると。
意識もあると。
だけど自分がクモだなんてことは知らない。
空があることだって知らない。
ただGoing on beingっていうこと。
ここから始まるんですっていう話の仕方を
ミニコットはクラインの弟子であるにも関わらずしたんですよ。
私それがすごくですね、
一つ意識的だなって思う。
その時にやっぱりミニコットは万能感って言うんですよ。
この万能感の使い方はクラインのそれとは全然違いますよね。
クラインのそれは、
それこそ人形劇をやって、
そして結局その人形劇の中で
良いものと世界と悪いものの世界を作り出して、
そして悪いものは、
要するに桃太郎は鬼ヶ島に行って
鬼を退治するって話。
するとすっきりする。
これが万能感ですよね。
クラインに言わせると万能感ってのは良いことじゃないんですよ。
だけど万能感が良いことじゃないのは分かるんですよ。
分離してるし、ほとんど分裂だし、
分断な上に、
衆脱までしてますから。
良い悪いというのを勝手に確定して、
めちゃくちゃパージして、
めちゃくちゃ攻撃して、
真っ白い世界を作りました。
そういう極めて脅迫的なものを、
脅迫的な上に暴力的なものを感じる。
草莽の世界
だから二極化では相打つですよ、
みたいなノリだと思うんですね。
クラインの。
すごくざっくりと言ってしまうと。
だけどどこにどんな平安があるのかっていうのが、
クラインの世界では欲打つポジションを築いて、
そして欲打つポジションをワークスルーする中に、
大人としてちゃんと生きるみたいな平安が、
これでいいんですよね、治療論だって。
そこまで行けばいいわけだ。
でもグッドワイルスってのは多分その先まで行くので、
平安があるっていう話、その先にあるとすると、
最初からあったっていうことになるはずなんですよね。
そうじゃないと全部気づいたものになってしまう。
一時的には暴力と死の衝動とか破壊衝動みたいなのがあって、
そこを何とか収めていくことができて、
初めてちゃんとした人になって、
そしてワークスルーしていくことによって、
BeingとGoing on Being
なんかこの厳しい世界ですよね。
なるほどユダヤ教的な、
善悪の二言論みたいなものを感じさせる厳しい世界があるように思うんですよね。
だけど私の直感のどこにも一時悪みたいなもの、
一時の攻撃衝動みたいなものがある気がしないんですよね。
だからこれはあるんだと言われればあるのかもしれないんでね。
そこは永遠に平行線をたどるじゃないですか。
本能的に本質的な悪みたいなものが、
宇宙の原初にありましたみたいなものが信じられるって話をされてしまえばですね、
マニ教みたいなのもあるじゃないですか。
本当に悪魔と神が永遠に戦う戦場がこの世界だみたいな、
そういう考え方がないわけじゃないから、
今のマニ教、すっげえざっくり説明話しちゃいましたけど。
そういうのはありますから、
全くないってわけじゃないんだの、
そういうのと私のが違うからといって、
実証する方法とかはないんですけれども、
私にはよくわからないということですね、そういう世界観は。
だから、
Beingってのは良いもののような気がする。
もちろんそれは、得体が知れないところもありますけれども、
原初の生物みたいなね、
悪いものだっていう感じはさらさらしないんですよね。
そういうことがGoing on Beingっていうものの考え方の中にあるような気がしてですね、
だからイニコットは万能感っていうのをもっと良い意味で使ってたような気がするし、
基本的に母子の一体みたいなところに平安を見たっていうのも、
良いことのような感じを受けているし、
一旦ネックラインみたいな対象と人形劇の空想の世界に叩き込まれて、
すごい苦しくなって、辛くなって、人はとても信用できないみたいになることはあるにせよですね、
いずれGoing on Beingに戻っていく、
そういう、もともとそうだったんだから、
道はあって、そのためには人形劇をやめればいいというような、
ある種の筋道がやっぱりですね、
僕にとっては精神分析っていうもので、
フリーランスやっていくのに使えるわけでですね、
そんな感じなんです。
だから、読み切っては読み返すわけですね。
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