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  2. 【775】超自我の愛と先送り
2023-04-26 54:23

【775】超自我の愛と先送り

いうことを聞かないと見捨てられる恐れと、いうことを聞けば大丈夫という万能感
夢分析についての考え
おはようございます。グッドモーニング・ボイスです。
4月26日、水曜日、7時13分ですね。
眠いですね。なので、これが終わったら速攻2度寝しようと思っているんですね。
こういう風にやるのは、もはや義務感なのかって感じもするんですけど、多分そうではなくて、
私、これやるのがたぶん、よっぽど今好きなんだろうなという感じがします。
なんでなのかは、ちょっとよくわからないんですよね。
今ちょうどね、細々とした雑分が終わり、一人タイムなんで、
このタイミングを逃すと、今日、白滑走は難しくなるというのがありまして、
このタイミングで寝る前、2度寝はあんましないんですけれども、
もうこの5時半に起きて、今、7時半前か。
だから、このタイミングで寝たくなるときは寝ますね。
それで、そうそう、だからこれはですね、
最近もポッドキャストで倉園圭三さんが、個性と役割とおっしゃっていましたけど、
これが今の私の個性と役割に、多分マッチしやすいんだと思いますね、このポッドキャストが。
だからこの話をこんなに長いこと。
結局週3まで縮めてみたんだけど、週4か5に戻しちゃってますんで、
今日休んでもいいんじゃないかなとは思ってたんですが、
まあまあ、でも話すことはあるんで、やっていこうというふうに思いましています。
でね、なお30日を前にして、30日が第1回ですよと、第2期の3ヶ月チャレンジですね。
残石ありますよというお話を続けておりますが、
1つですね、第2期の、これはもう裏メニューなんですけどね、
夢の話を少し、夢というのは夢を叶えるって書いてるけどそっちじゃなくですね、
寝てる時に見てる夢ですね。
これが最近私はすごくですね、なるほどフロイトってやっぱすごいんだなって思うようになったんですよ。
彼は夢判断から始めたんです。
私は、実は精神分析って夢の話が全く出てこないようじゃダメだっていうのがあるんですね。
で、私はそれの、まあ多分そういうことあるんだろうなと思いつつ、
よく意味がわからないなと思ってたんですけど、
最近すっごい夢というものが気になるようになったんですよ。
ようやくですね、これほど精神分析の話をしておきながら、
夢の判断の話って全然私はしてきてないわけですが、
第2期、第3カ月チャレンジではこれを裏メニュー的に取り扱おうと。
本当はこのポッドキャストでもですね、もっとこう直接的に扱いたいと思う時はあるんですが、
まだちょっと私には夢の話はよくわからないことが多すぎてですね、
とりあえず一旦はこうね、スルーしてるというか、まだ取っておいてるんですよね。
話を抽象的にするほど、なんかまだこう具体的に整ってこないというか。
ただ最近ようやくこう夢の使い方というんですかね、
なんで精神分析で夢をアーマーで扱うのかというのがようやく少しわかってきた気がしますね。
あのエグい話がちょっとね、多分苦手だって方も多いんで、
とりあえず今エグい話しか出てこないんで、
この段階を過ぎれば話ができるように普通になるんじゃないかと思っています。
本当でもですね、なるほどっていうのがだんだんだんだん見えてきて、
まあさすがにあれほど多くないんですよね。
先人でも名前を挙げるとなるとですね、
まあそれこそ対象関係論とかに絞るとメラニー・クラインとかドナルド・ウィニコットでしょ。
で、ビヨンとかアンナ・シーガルとかローゼン・ヘルドとか、
まあポンポンポンポン上がるようでいて、少ないから上がってくるんですよ。
この人数がですね、ジョゼフ・キャンベルって方がいたかな。
結局、だって長い言葉では言えないかもしれないけど、
歴史としてはもう100年を突破しているわけで、
もっともっともっといるわけじゃないですか、すごい人も。
倉園圭三さんによるオンライン講座の紹介
これは超すごい人の名前しか挙げてませんからね。
大リーガーだってそうじゃないですか。
日本のプロ野球もそうですよね。
名前挙げたらキリがないぐらい上がってくる。
百数十年の歴史だけでも、100年も日本のはないのか。
でも挙げようと思えばすごい、いやこれも大物だし、
王と長島しか挙がらないみたいなことってないじゃないですか。
トロイトとクラインだけとかっていう話しちゃったら、
もう王と長島しか挙げてないみたいなもんですからね。
もっといるわけですよ。
みんなはみんなほぼ、夢の話は何かしら出てくるわけだから、
これが出てこないっていうのではないんだろうなと思って、
ずっといたんだけど、
僕はなかなか夢の話というのはですね、
分かるような分からないようななんだけど、
最近急速に分かるようになってきた気がするんですよね。
ただこの段階じゃ喋れないんですよ。
でも第2期の3カ月チャレンジは、
濃いコミュニティなので、ここはちょっと喋ろう。
生贄なものでも出していこうっていうのがありますので、
ご希望の方に限りますけどね。
ご希望されないのに無理やり夢の話しましょうってことはないですが、
私の夢の話はここではもうしていこうかなと思ってますので、
それを裏メニューに加えるということで、
一つもこれで新しく興味が出たという方がいらっしゃったらですね、
お申し込みいただけると嬉しいかなと思っています。
ついでに今書き上げ塾ですね、ついでじゃいけないんだけど、
第8期、すでに5月放送にスタートしますが、
これちょっと1ヶ月ずれてはいないんですけども、
第1回がですね、
倉野さんが個別に第1回をやってくださることに今しておりますので、
第8期はね、8期だけは。
だからまだ申し込めます。
何でも言いますが、私の3ヶ月チャレンジも高いとは思わないんですけど、
例えば7万円でお申し込みいただいた場合は、
3で終わったらもう2.何万円ですから、
そんな高くはないんじゃないかなっていう、
週4回のセッションありますからね。
4でセッション終わったら5千円になっちゃうじゃないですか。
そんな高くはないと思うんですよね、この金額だったら。
5、6千円のセッション。
そんなに受けなくてもって思われると思うんですけど、
1時間で進むことってやっぱり少ないんですよね。
これは受けていただくと必ず分かります。
例え腕が良くてもヘポコでも、
カウンセリングってあれですよね、
1時間で4回受けたぐらいでは、
はっきり言って僕は、
どんなテーマであってもですね、
書き上げ塾について
ちょっと物足りないなっていう感じはします。
よっぽど上手く進むとそうでもないのかもしれないんですけど、
やっぱりフラノのさんも今そういうコースを設定されてたと、
記憶しているんですが、
10回ぐらいは受けないとですね、
同じ人で分かんないですよ。
このぐらいの価値は絶対あると思うんですよね。
iPhone1台分ぐらいなんで、
全然機能が違いますし、
iPhoneの方がずっと良いと思われるかもしれませんけど、
そうではないんですよね、これはね。
そんな感じで、
何が言いたいかというと、
書き上げ塾の20万は、
僕はこれは決して高くないと思うんですよ。
講師2人いますしね、
しかも6ヶ月なので、
6でやったらやっぱり3万円ぐらいじゃないですか。
このぐらいはですね、
かかると思うんですよ。
テニススクールとかでも、
週に4回とか行けばですね、
2万ぐらい、やっぱり2万はしないかな今は。
場所にもよるんですよね。
屋根付きかどうかみたいにもよりますけど、
6ヶ月行ってたら、
だんだん20万は払ってないかもしれないけど、
それに近いと思うんですよね。
前にテニススクール行ってた、私的には。
自分の長寺画について
それぐらいの価値はあれはありますけどね。
これもやれば来るってやつで、
やらないうちは多分、
いやあんなバカなもんに、
なんでそんな金出すみたいに思うと思うんですよ。
でもしょうがないですね、こういうのは。
そういうところはあると思いますが、
お知らせまでといったところです。
今日はですね、
昨日おとといと、
Good Vibes編、キャプチャレ編とやってきたので、
また自由回なわけですが、
フリートークなんですが、
ここで1日休みを入れて、
黙金フリートークみたいなのが、
ベースかなとは思ってるんですけど、
今日はやっちゃってますね。
昨日ですね、
Notonというメディアですね、
メディアサービスで記事書いて、
あれがですね、
こういうふうに書いて、
すごいアップしちゃったなっていう感じで、
アップしちゃってるんですけど、
今はですね、
ボツにせず、なるべくノートなのでね、
書いては確実に上げていこうと、
ちょっと無理をしてでも、
週5は行こうと、
最近物を書いてないから、
物をちゃんと書けなくなってしまうんじゃないかという、
ちょっと懸念がありまして、
これはトレーニングだけの意味では、
決してないんですけれども、
これで話絶対まとめたいというのもありつつ、
やってることですが、
トレーニングの面もあるので、
リハビリかな、
そういう感じなんですよ。
ここで喋るのが私、
好きになっているっていう話をしましたが、
喋るのに比べて、
やっぱり書くのはですね、
亀の歩みなんですね。
これはもう覚悟しなきゃいけないと思うんですよ。
喋るのは、
いろいろと冗長になり、
繰り返しもあるけど、
とにかく早い。
それに比べると、
どうしたって亀なんですよ。
あれが嫌だってことになってはいい、
よくないなと、
いうのがあって、
書いております。
それでですね、
昨日から万能空想の話をしたいんだけど、
ただ亀の歩みなんですよ。
記事の方では、
この1回分で、
記事だったら10回分は
突破できるぐらいだということは、
逆に言うと、
頭の中にある1回の内容の、
1回分の1ぐらいしか書いてないんですね。
それは、
いろんな理由がありまして、
リハビリだということはですね、
私そんなに今、まとめてガーッと
書けなくなってるっていうような
意味もありますが、
あんまりなるべく端折りたくないな、
っていうのもあるんですよ。
だから、中途半端なところで終わっちゃってる感じで、
これでは読者さんには申し訳ないと、
思いつつ、
今は、
ご容赦願おうというか、
ブログってそういうところあるよな、
よっぽどガッツリ毎日毎日、
2時間半ぐらい書ければ、
別なんでしょうけど、
私はそういうことはあまりブログで
したいとは思わないので、
やっぱりですね、
自分が1日に書けるのは、
今はあれぐらいなんですね。
だから、
そんなもんでやっています。
それで、
内容は今ここで喋ってるようなのと、
ほとんど同じなんだけど、
長寺画について
書き始めるとですね、
結構いろいろと書くことがあって、
筋道を失いそうになるなと、
思ったので、
ここで喋ってまた補足を入れようと、
ある意味、自分に補足を
入れているような感じなんですよね。
で、
書いてると出てくることがあるというのは、
やっぱり喋っていたのでは出てこないことがある、
という話の裏返しでもあります。
長寺画について書いているうちに、
これは当然
なんですが、
長寺画というのはやっぱり
人によって全然違うわけですよ。
口うるさ型の長寺画もいれば、
結構優しいお姉さん型の長寺画もいると。
ただ、
忘れてはいけないのは、
長寺画は自我の一部なんですね。
つまり、自分なんですよ。
これを他人のように扱っていれば
いるほど、
ある意味では、
自体を混乱に落とし入れる。
ただ、
他人のように扱うというよりは、
ある種の人の長寺画は、
他人のように振る舞ってしまうんですよね。
まるで他者であるかのように、
自分にダメ出しをしたり、
自分に対して
支配的に振る舞っている感じがする。
でも、
自分なんだから、
支配的に振る舞うも
何もある意味ないんですけどね。
自分の長寺画をすっごい恐れるっていうのは、
本当はすごくイリュージョンなんですよ。
超自我の分裂について
だって、
自分なんですからね。
そこは絶対に
外せない部分なんですね。
長寺画の話をしていると、
完全に親対象と
ごっちゃになるという方が、
もちろん、
セッションとかね、
セミナーとかでは、
そういう話にだんだんなっていきますよね。
いや、もう本当にダメ出しがひどくて、
私のやることを成すことに
いちいちって言うんだけど、
いや、それ自分だからねっていうね。
でも、ある程度その話にもちろん
乗っかりますよ。
そういう対象に思えている
というポイントが
外せないので、つまり、
自分なのに他者になっちゃってるっていうのは、
すごく大事な分裂じゃないですか。
これは本当に、
筋道だって
しゃべらないとちょっと
わかりにくいかもしれませんけど、
これは本当に先送りってものを
示唆すると思うんですよ。
示唆しますよね。
そういうのは、つまり分裂じゃないですか。
私はこの
税務調査のための申告書を
作んなきゃなのだって思ってやんない。
明らかに分裂してますよね。
自己矛盾をきたしているわけです。
自分の中に他者がいて、
その他者がしかも
支配的な振る舞いを
しやがってるわけですよ。
だから、自分なんだけど
他人なんですってことになっちゃってるわけで、
長寿側は
それを非常にやりがちなんですよね。
結局長寿側が
それをやりがちというか、
私たちが長寿側をそうしがちなんですよ。
長寿側を他者のように
扱ってしまって、
本当に他者のように
思い込んでしまうと、
本当に他者のように
なっちゃうわけですよ。
現実のものには
決してならないんだけど、そうですよね。
長寿側がそこら辺歩き出すなんてことは、
それが本当に起こったら大変ですよ。
でも、そんなことは
私の
界隈では起きないという前提で
喋っています。あくまでも内面の
声としてね。
お母さんの顔をして、あんたこれは
ダメだとか、子供の時からなんてないとか
言ってくるんですっていう話なんだけど、
それは自分ですからね。
絶対他人ではないんでね。
親でももちろんありません。
親が頭の中にいるはず
ないですよね。
リアルに生きていらっしゃるなら
間違いないことだと思うんですよ。
頭の中に親はいない
わけですよ。やっぱり
どんなに親そっくりで
親にしか思えないとしたって、
それは自分なんですよ。
自分の頭の中にいる声なんて
自分はず
に間違いないわけです。
これがですね、どうしても自分だと思えない
他者の存在による影響
という話が
僕は多分、多くの
カウンセリングというもので
占めている話なんだろうと思うんですね。
ついさっきも私は
奥さんの弁当を
作っていて、ふと
長寿がっていうのは他者だって
そういうふうに考え事を
していた瞬間にね、
このご飯何グラムだと聞かれたときに
あっ!って思ったんですよ。
その瞬間に身構えている
自分がどっかにいて、
これは早いよな
と思うんですよ。早いというのはつまり
なるほど
これじゃ他人のように思えて
しょうがないと。身構えさせた
存在ってのは
私の心の中で
駆動しちゃってるわけですよね。
身構える必要ない質問ですよね。
このご飯何グラムなのって
190グラムなんですけど
身構える必要のない質問
なんですよ。身構えたのは
責められてると思ったからですよね。
多少でも。ほんのわずかにせよ。
ほんのわずかなんだけど。
責められてるっていうのは多すぎるんではないか
という含みがあるのではないかと。
このような懸念は
どちらかというと妻の方が
持つタイプなんだけども
妻はこれを持ってるから大変なんだろうな
って思うんですけどね。
そのからくりは擬実家で僕は知ったんで
多分私も同じことが
起きてるんだけど
あの擬実家の雰囲気と全然違うんで
ここがやっぱり人間の心には
長寿がってものが
無駄に機能しがちだという
一つの証拠の
Nイコル2ですけど
うちと擬実家しかないんだからね。
ただうちと擬実家雰囲気が違う。
タイプも全く
違う家なので
なのに同じような事態が
私と妻の心の中で起きてるわけですよね。
勝手に人の問い合わせを
勝手に
責め立てている言葉に
してしまう、聞こえさせてしまう。
それは長寿が無意識に
パッと働いたからなんですよ。
正しさというものですよね。
正しい問い合わせの
仕方とか
自己責任と長寿がの言葉
質問しちゃいけないとか
人を責めてはいけないとか
同時にしくじってはダメだとか
これを昨日の記事
一昨日の記事あたりでノートで書いたんだけど
これを厳しく言う
不調の長寿がの人もいれば
優しく言う長寿がの人も
いますよと。
だから長寿がを
長寿がが責めてくるから嫌なわけ
では決してないですよということを
私は記事で書いたんです。
もちろん責められれば嫌ですよ。
でも私の心の中の長寿が
私を早々は責めないんです。
これでも十分
面倒なことが起きますよ
という話を書いているわけですよ。
ただそうやって盛り込んでいくから
筋を筋道を失いがちになる
わけですよ。
喋っているのと違って書いているのは
こういうスピードでは書けないので
どんどん補足軸を追加すると
じゃあまた明日続き
ってことになってですね
読んでいる方はこれでは
わかりにくいだろうなと一気に読まないと
わかりにくいですよね。
でも一気に書くのは難しいんですよ。
さっきもじょもじょ言ってたらそういうことな
わけですね。
こうやってですね
無意識のシステム
責められている
ように
聞こえさせてしまうというのは
つまり無意識に
動くからですよね。
自意識の上ではいやこれはただ
グラムの問い合わせをしている
190は少し多いので
ちょうどいいんですよ。
見た目じゃわからないんですね。
ご飯190グラムっての。
お弁当に入るサイズとしては
測ったんですよ私。
ちょうどいいのは175グラム。
15グラムぐらい余る。
奥さんとしてはどの程度
余らせるかで悩むんですよね。
だから聞いてくると。
だけど私が適当な答えをすると
怒るから。
私やっぱり怒られたくないというのは
ここが私たちはみんな
奥さんに怒られたくない
ではないんですよ。
自分の長自我に怒られたくないんですよ。
このからくりが完璧に見えれば
奥さんに怒られることは
全くなんでもなくなっちゃうんですよね。
なぜなら奥さんが怒ったって
私には何の動揺も
本来は来たさないんですね。
でも奥さんが
私の奥さんが
怒ることに対して私の長自我が
イラッとしたら
私はイラッとしちゃうんですよ。
長自我のご機嫌を伺ってしまっているから
これは成立するんですよ。
この七面倒くさいからくりを
わざわざ明らかにしなくったって
奥さんに言われて
腹が立つんだから
言い返せばいいじゃんという考え方もあると思うんですよ。
だからそんなことで
ここまで考えるというのは
ここまで考えたいからやってるわけですね。
あとはもうこれをやるかやらないか
っていうのはその人その人
それこそ個性なんだけど
私の長自我というもの
については
私はすごく考えたいわけです。
なぜならば
こいつが
というのもおかしいんだけど
このような
一定のシステムなのか
システムというべきなのか
こういうものが
無意識に勝手に
振る舞うのも
もはや許したくないというかね
許す許せないというのも
ちょっと難しいんですけど
今はもうそれを
シフトしたいわけですね。
シフトできるという風に
確信があるので
できるんですかっていうのを
3回は聞かれてるんですけど
もっと今度は聞かれてるんだろうな
できるんですよ。
必ずできるんだなというのが
できてみてわかったんでね。
だって自分なんですからね。
これを忘れちゃいけないんですよ。
もう一つ奥さんが怒って直接
あなたの腹が立たない
これはもう脳科学の方で
説明しちゃった方が
僕は手っ取り早い。今の時代だったら
わかりやすいと思います。
確実に脳科学で言えること
僕らが怯えたりイラッとしたり
ドキッとした時には
変動体というところで
特殊な神経伝達物質による
神体を含んだ
一連の駆動が起こります。
アドレナリン分泌みたいなものも
そうなんだけど
心拍数を高める
上げるから汗だらだらかくってわけじゃないですよ。
多分気づきもしないレベルです。
でもとにかく上がるんです。
血圧も上昇する。
これも測ってみないと分かんないレベルですよ。
はっきり言って。
心拍は分かると思うんですけどね。
血圧も上昇します。
動向も少し開くはずです。
これの一連のと同時に
カイバっていうで記憶を覆さどるところから
フィードバックが起きて
これが上昇したら
これを下げるって気候も起こるんですよ。
上がり続けると面倒なことになる。
このことから考えても
これはあれなんですよ。
動的並行なわけです。
奥さんへの配慮
これが上がったら
自動的に下がるシステムが作動する
ということは
身体は決してですね
ちょっと奥さんに怒られたぐらいのことで
ありとあらゆるシステムを
作動させるつもりは
最初からないってことなんですよ。
オメオスタシスって言ったっけ?
英語では。
上がったら下がるっていう
基礎が同時に動き出している
わけですよ。
しかもそれをカイバが
透かさどるということは
このことは記憶に関連させるよっていうことも
同時に起きてるわけですね。
つまりどういうことかと
言いますと
私がこれやってることじゃないですか
体内で
奥さんは直接私がカイバを動かしたり
変動対応スイッチを
入れたりできないんですよ。
これについてないから
私の同意が絶対に必要なんですね。
例え意識していないにせよ。
ここが厄介なんですよね。
意識していない同意が果たして同意と言えるのか
というと法的にはダメでしょうね。
でも
こういう生物的な
意識化への挑戦
観点から言うと
これはあくまでも
反応に近いものに感じるかもしれないけど
第一には
切り離されているわけですよ。
さっきの夢の話が
出てくるんですね。
夢の中でも私はこれと同じことをやる。
これはもう絶対に奥さんが
言われてないですよね。
だって夢を見てるのは私ですからね。
奥さんは怒ってないんだ。
私が怒った夢を見てるわけでしょ。
でも同じことが間違いなく起きるんですよ。
ここまでくれば
私がやっているというのが
かなり幅広く解釈しているにせよ
人がダイレクトにやることは
できない機、できない
システムなんだということは
理解いただけると思うんですね。
あとはこれを
意識化できるのかどうかですよね。
無意識に起きてしまうんだと
たとえ自分がやってるんでも
無意識に起きてしまうんだから
歯止めが効かないというか
コントロールできないからつらい
という問題は残る。
でもこれを意識化できるんだったらば
この程度のことでは
自分の扁桃体にスイッチ入れないという
超自我に関する選択と意識化
選択が可能になりますから
もはや
恐れるという理由がなくなるわけです。
恐れるとは
扁桃体が駆動するという意味だから
脳的にはですよ。
扁桃体駆動を
させなければ
恐れるというものは
なくなるんですよ。
これ全部には無理ですよ。
目の前にゴジラが現れたけど
扁桃体はとかそういうわけにはいかない。
扁桃体を動かさないとか
できないけど
奥さんが190gって
程度で扁桃体の駆動がいるかという
話。これは
できるんですよ。できると
思えば。できると思わないと
多分できるようにはならない。特に
奥さんがダイレクトに私を傷つけてる
なんて思ってないなら絶対できるようにならない
わけです。僕の選択の余地ないわけだ。
外からスイッチを押されてる
わけですよね。
それはもう無理なんですよ。奥さんが
もしリモコンとか持ってて私の扁桃体を
ピッてやって
私がワッてなったらもうこれはどうにも
変わらないですよ。100%されて
しまう。でもそういうことはできない
わけですよ。190gの
問い正しの中にそういうスイッチは
ここにも含まれていないのだから
私がやってることなんですよ。
個人の好きなことと個性
間違いなく。あとは
それを意識的な選択の
領域に移せるかどうかの
問題。で、移せるというのが
私の結論なんです。
多分これ誰でも移せます。現に
移せている人がいるから
例えば私の身近にもいるんですよ。
私の娘ができる。
うちの娘も奥さんの前で怒られたことがない
なんてことはありえないから
同じようなことはあるはずなんだけど
うちの娘は間違いなく
かなり選択的に
やってるんですよね。
どの程度それを意識してるか
わかりませんが、でもかなりの
意識してやってるように思います。
だからうちの子に
できるということは私にできないとは
思えないんですよね。私には。
絶対やれるはずだと思っているんですよ。
で、現にできるときがある。
できたことがあるか。
そうですね。そういう風になります。
それでさっきの
超自画の話に戻るんだけど
その変動体の話を
超自画的な文脈に置き換えるとですね
こういうややこしいこと
何のためにやってんだということなんだけど
これは何のためにやってんだろう。
好きだからやってると思ってください。
私はそれでいいんですよ。自分が
これは好きだからやってるで
十分納得できるんで。
私はこういう話をするのも好きだし
読むのも好きだし
昨日思ったんですよね。
ドヴォルザークの公共曲の8番を
聞いているうちに
私この曲好きだなと。特に第三楽章好きだなと。
これを聞くのが
好きなぐらいには
私はフロイトの本
読むのは好きなんですよ。
だからしょうがないんですよね。
同時に私は
昨日負けちゃったけど
ロッテと西部の試合を見たら
これも好きだな。
つくづく好きだと思ったんですよ。
これを見るのと読むのが
同時にやってたんですよね。
私負けてたから。
ロッテの試合を見ながら
松木先生の
対照関係論の下巻の方を
読んでたんですよ。
多分よっぽど好きなんだと
思うんですよね。
一番くつろげる時間は絶対これやってるような
気がするんで。できるならばですよ。
だから好きなんですよね。
単純に。
超自我の影響とコントロール
あとはもうこれを
皆さんが面白いと思っていただくかどうかは
選択なんだと思います。
それこそ個性なんだと思うんですよ。
僕の個性なんでしょうね。
これはね。
うちの父とか全然好きじゃないですからね。
母なんて
読んだことすら一行もない
と思いますからね。
この個性は両親からの
ものでしょうけれども
両親がフロイト好きかというと全然そうじゃないんですよ。
だからこういうのを個性と言うんだ。
ミックシングすると
個性が割れるんですよ。
謎ですけれど。
父と母をミックスするとどうしてそうなるのか
謎ですが
でもそうなんですよ。
昨日二重螺旋の日だったそうですけど
DNAですよ。ある意味では。
ついでに言うと
DNA勝ちましたしね。ヤクルトに。
首位だし。
神奈川だから少し
気にしてみてる。ろってほどの気持ちには
入らない。こういうのも
個性なんでしょうね。
脱線するとダメなんで
戻しますが
そういう超自我がですね
無意識に働くと
無意識に働くと他者のように
扱ってしまうわけですね。
今言った話がまさにそうだったと思います。
これを駆動する駆動させないよう
超自我の
手を借りる借りな
を選択できないとなると
自分の中にあるものにも
関わらず他者のように振る舞う。
もちろん私の心の中には
他者他にもいっぱいいて
無意識に動き出すやつはいっぱいいるんだけど
超自我に関しては
無意識に野放しにしていると
有害である
部分が大きすぎる。
だからやっぱりこれはですね
私の意識下に置くべきなんだ
というのをどの程度
確信できるかにも
よってこのコントロールが可能
になると思いますね。私はもう
完全にこいつは意識下に置かなきゃ
ダメだって今確信しているので
勝手にこれは正しいだろう
間違ってるだろうこれに言わせて
しかもそれに私がストレスを感じて
振り回されるのは
ダメだと私の生き方
としてこれはありえないなと思える
ようになったから
ここまでできるようにもなったし
それを喋れるようにもなったわけです。
その
無意識のうちに
さっきもそうですけど
50gっていうのに答えるときに
身構えてしまうのは
長寿がの手を
長寿がの愛について
私が結局借りて
無意識にですね
借りて
何つんだろうなほら
奥さんに怒られないようにしないと
みたいなこういう長寿がってこういう駆動を
結構得意とするんですね
私のやつはね
怒られないようにしないと
というわけですよ。つまり
何つんですかね
価値観の中にあるんだろうなって思うんですけど
夫が妻に
いいように怒られている
様子はあまりよろしくない
みたいな価値観がある気がします。
非常に
はっきりそう言ったことは
ないんでわからないんだけど
多分母の中には結局あるんですよね
ここが面白いんですよ
母はそういう風なものがありながら
うちの父をガミガミやたら
怒るっていうね
これは絶対に
あれですよね長寿がが
母の中の長寿がが
こういう風な怒るのは
ダメなのに怒らせる父は
もっとダメだって長寿がって
こういう理屈好きなんですよね
私のやってることは悪いが
これをやらせる父は
もっと悪い。だから結局
怒るしかないみたいなね
これは妄想分裂ポジションだと僕は思うんだけど
こういうのすごく
多かった気がします
それで
それを見ていた私に
見ていたということによって
少しずつこれが
形成されていって
普段に怒られる私というものを
よしとしない
私の長寿がが
イライラさせるんですね
私にね
なぜならばここが答えです
私は思うんですよ
長寿ががダメ出しをしたり
怒るということが本当は怖いのではなくて
それが怖いんでしょうけれども
それよりも怖いのが
長寿がが愛してくれないこと
これだと僕は思うんですね
私たちは長寿がが内面で好きなので
このことは昨日の記事で書きました
長寿がとの関係について
相当好きなので
だって自分の価値観ですから結局
長寿がが愛してくれないことを
放置できない
というところがあるわけですね
長寿がが愛してくれないと
非常に分かりやすい
人の中では
愛され不安というものが出ます
長寿がが親対象なので
親に捨てられたような気がするんですよ
この長寿がを
カウンセラに転移するのが
カウンセラに見捨てられる不安が
募り始めて
カウンセラの言うことを1から10まで
全部聞かなければいけないと思い込むという
転移関係が発生する
これは多分
精神分析であろうとなかろうと
はっきり言って私はある種の
学校で先生と生徒の間に
これが成立しちゃうという様子を
何度も見てきて
小学校当時
大変不愉快だったのを
よく覚えてるんですよ
気持ち悪いなと思ってた
気持ち悪いというのは全く正しくないと思うんだけど
正しくは
ああはなりたくないということだった
と思うんですね
多分私の母が
父側かな
長寿がが的な
価値観であれを良しとしないんだな
というのがあります
家族の外で
家族関係を
しかもエスカレートさせたような形で
進行させる
ある意味では生徒と先生が
恋愛関係みたいになっていく
そしてそこに支配的なものが
入り込む
それを僕は相当嫌がっていた
長寿がが嫌がっていた
だから私はそれを見るというのは
禅学との関係について
辛かったというのが
小学校高学年の時にあったように
中学校以降は
男子校なので
そういうようなのを僕は知っている限りでは
見たことがないので
小学校では
近いものがあって
私はそういうのにやや過敏だったように思います
今は思います
そのことを
そういう風なことを
やっぱり一連のものを思うと
私たちは長寿がを愛しちゃっているんですね
たとえ口うるさくて
横暴だとしてもやっぱり
長寿がが嫌だと思うんですよ
いや口うるさくて横暴なの
そもそも何のに言うことを結局聞いている
などというのは好きなんですよ
ほぼ確実に
多くの人の長寿がそこまで
嫌なものになっていないので
かなりの
友愛対象になっていて
それはそれで悪いことではないんだけど
長寿がというのは結局
成立した
経緯は古いので
私でいえば
2、3歳なので親べったりで
親依存がすごく強いわけだから
やっぱりその
親の起源を損ないたくないという
こういう風になりやすいんですね
だから
これが私に対して
最も支配的に振る舞える
ポイントになっているわけです
神々言うではないんですよ
神々などというのは振り払えると
僕は思うんですよね
そうではなくて長寿が
ああそう
というような態度
ああそうという態度
つまりあなたはそれでいいので
じゃあ知らないからみたいな
こういう感じ
これによって支配されてしまう
これを
例えば私が妻との
諍いの中で
あなたはそういう奥さんに
そういう風に言われることを
受け入れてしまうんだ
こういうこと母は言わないですから
やっぱり僕が作り上げたんですよね
これをやるってことは
俗に言うマザコンですよ
つまり
内面の長寿がの愛を取るか
外にいる人との
関係を維持する方を取るか
というのを選択を迫られている
ような感じが迫られていないんですけど
迫られているような感じが
してしまう
これが禅学で
ものすごい起きやすいんです
前もお話ししましたけれども
ぶっちゃけ相談で
不公明美な
国立公園みたいなところなのかな
空き缶のゴミを置きっぱなしにするやつがいて
許しがなく感じるという
これは
グッドバイオス的に
攻撃で良くないのかでも腹が立つし
こういうのはのさばらせてはいけない
のではないでしょうか的な
見捨てられ不安について
ものをいただいたんですね
ちょっと今
予約しちゃいましたけど
これを読んだとき私は
今と同じ文脈をまず
考えたわけですよ
あなたは
ゴミを捨てる人を
このままのさばらせていいと思っているのね
みたいなこういう攻められ方を
長時間されたとき
私たちの選択って難しくなるじゃないですか
これはクラノノさんが
お答えになっていますから
探してみていただくと
ありがたいんですけど
グッドバイオス的な話を今日はしないですよ
ということなんですけどね
その勘を捨てたと
言ってもいいですよ
見たときに
いやちょっとそれダメじゃないですかって言えない
ですよね
その残酷を捨てた人が
半裸とかで
竜の入れ墨とかを
お腹のところにあって
顔の方をあんま見えなくなっている
ような人だった場合
まず絶対それを言える人はいないと思うわけですよ
プロレスラー
みたいな感じで
まあ何も言わないですよ
中で長時間
まず見とがめたことによって
あれはいけないね
みたいな感じで
これはもう無意識ですからね
まずその
見たときの人の感覚と
同じものが来るんですよね
来る人によっては
ストレスになる
これをどうするかって話なんですよ
どうもできないわけですよね
結論としては
そこで見捨てられ不安が出てくる
これって
僕はこの順序で考えて
見捨てられ不安が出る人はいるよな
って思ったんですよ
これはでも
精神分析とか
こういう話をよほど好きで追ってたいと
なんで
なんでって思うじゃないですか
国立公園でかんごみを捨ててる人を見て
見たときにイラッとし
見捨てられ不安が出る
理由が分からないですよね
でも私は
これは長寺賀っていう文脈で考えると
至って分かりやすい
話で
ここで見捨てられ不安が出て
でも
まさか
えっと
池戸さんじゃないけど
そういうような人に向かって
ゴミを持って帰りなさいっていうのは
無理だしな
ここで長寺賀に見捨てられるのか
みたいな
こういうのが出たときに
ものすごい腹が立つと思うんですよ
私は
見捨てる長寺賀も長寺賀なら
あのゴミを捨てたやつは
何なんだみたいな
こういう
行き通りが
なんていうんですかね
あの
なんていうんだろう
昨日の記事で言いたかったことなんですけども
自分に自信がない人にとっては
そこかしこで遭遇してしまう
ストレスだろう
自分に自信がないというのは
つまり長寺賀支配が強いということなんですよ
私は
だから自己肯定感が低い
っていう表現を
苦手とするんですね
自己肯定感が低いという表現だと
今の自分が
私が喋ったような文脈と
マッチさせるのはあまりにも難しいから
自己肯定感が低いのと
長寺賀支配が強いというのは
なんか関係があるようで
すっごくまた説明をいっぱい用しそうじゃないですか
自己肯定感という
言葉、自己ってこの場合
どこにいて肯定って何なのか
っていう話ですよ
決して長寺賀を日頃からダメ出しばっかり
だからそういうのをする長寺賀の人も
いるから話がややこしくなっていて
で、記事に盛り込むのには
数記事いるんですけれども
喋るとこうできるんですよね
そういう長寺賀の人もいるでしょう
でも私は多くの場合そうじゃないと思うんですよね
むしろこう
優しくて厳しくもある
お母さんのイメージみたいな方を
イメージしていた方が
いろんな意味で融通が
効くというかね
すぐダメ出しをしてすぐ長寺賀と喧嘩するなら
見捨てられ不安
というのとはちょっと違う気がするんですよね
見捨てられたくないって意識的に
思えるからこそ
この長寺賀はいい理想
自我理想っていったりもするんで
長寺賀心理学の流れは
理想的だ
だから愛されていたいんだっていう時に
つれなくされる
このつれなさっていうのは
すごく精神分析的なんですよね
つれなさみたいな表現を取るんですよ
ニグレクトみたいな表現はあまり取らず
子供にとって
こういうのは応えるんだと思うんですよね
もちろん育児放棄みたいなのは
本当に深刻なんだけど
そうではないんですよね
少なからず
子供の中にありそうなのは
もっと多そうだってことですね
つれない態度を親が罰として与えてくる
みたいな
そういうやつのほうが
私は世間一般の長寺賀に
はるかに近いものがあるんじゃないかな
と思うんですよね
だからこれは愛を求めている
そういうふうに思われるわけです
そして
もうだいたい
おしまいの話なんですけど
これがなんで
酒送りに関係があるのかを
一応記事ではまとめようと
思っているんだけれども
長寺賀心理学について
看護美とか
タバコのポイ捨てでは説明ができない
このつれなさに大事なポイントが
あるわけです
この圧倉っていうのが
なんていうのかな
うまく言えてるか分かりませんが
つれない感じの
綺麗なお母さんみたいなのに
支配されている
という文脈で
考えると
私はこの酒送りというのは
すごく分かりやすくなってくる
酒送りの関係性について
だろうと思うんです
つまりどんな仕事を
するにせよあるいはもう仕事ではない
にせよ
なんつうんですかね
宿題とかで
よくあると思うんですね
宿題って
一見したところ
のび太くんのお母さんみたいに
怒られると思うんですよね
宿題やったのみたいな
あれだと楽だと思うんですよ
宿題というのは
子供時代のことを
思い出すと
私はもうほぼ
何の苦労もなく常に
締め切りまで提出していた方だから
分かってない方だと思うんだけれども
やっぱりこう
親のつれなさみたいなものを
意識させられるんではないかと思います
中学校に行った後は少し分かったんですよ
もう本当に
にっちもたちもいかなくなるわけじゃないですか
宿題に追いつかなくなっている
その時に親は
助けちゃくんない
これは深刻な話ではないんだけれども
子供は
7、8歳だとすっごい
深刻になってくると思うんですよ
偉い当時深刻に怒る先生って結構いましたからね
私は今でも
覚えてるやつの中で
三角の定規
でっかいやつあったんですよね
黒板で使う三角の直角三角形の定規
あれでね
裸にして背中を打つ先生
ってのがいてですね
結構問題になったことがあるんですけれども
例えば漢字
100回ずつ書くみたいな
書いてない数だけ
打つみたいな
実際そんなことはしませんでしたけど
でも結構耳ずばれみたいになっていた子もいて
なかなかあれに
みんながやられてたんですよ
ショックを受けていたというのかな
ああいうとき親が
あっそうっていうと
すっごい辛い感じが
当時であればしたと思う
今だったらね
大人になっちゃえばそんなことはないんですけれども
この
つれなさってのは
つまりやっぱり
見捨てられ不安みたいなものを
引き起こすと思うんですよ
そして宿題って
まさに先送りの対象じゃないですか
先送りしてるから結局
大した
大人側はそう思ってると思うんですよ
こんな大した量でもないのに
全く白紙のまま
だから少しぐらいは
痛い目見せないとダメなんだぐらい
多分そのぐらいだと思うんですよね
これが子供の側から見ると
全く違う光景になっちゃうというのは
ここに長寿が絡むからだと思うんですよ
だって
その大罰は
確かに問題ではありましたけど
子供同士がやってる
ことだって
昭和の話なんで
馬乗りみたいなゲームが
あったんですけど
鎖骨を取ったやつがいましたから
子供同士でやってることだって
身体的には結構激しいことやっていて
当時はあれで
市内みたいなので殴られるから
といって
だから深刻だったかというと
そうでもなかった気がする
私だって市内で
半裸にされて殴られたことが
私はそういう目にあうことが
ほぼない人間だったけど
それでもなかったわけじゃないんで
あれですよ
武功とかのやつで
縛って市内で叩くじゃないですか
あれにある意味近いですね
半裸にして叩くわけだから市内で
でもそういうことはなかったわけじゃないんですよね
だから殴られてるやつは
しょっちゅうだったわけです
ほぼ毎日のようにそれに近い目に
あってた人もいたわけですよ
小学校2,3年でね
そこはすごく
トラウマになると今では言われるし
問題があると思うんだけれども
僕はそれよりは精神的に
来ているほうがやっぱり
来るんだろうなって思うんですよね
当時のことを考えてみると
先送りにするというのは
親が見捨ててくる
というような恐怖に近い
親が見捨てるというよりは
やっぱり長寿が
に愛されない
ということ
そのことに対する不安があるために
手につかなくなるんだと
思うんですね
長寿が引き起こす恐怖
下手に手を出すと
最初から長寿がに
駆動してしまう
つまりいつもいつも長寿がが
ダメ出しをするというイメージでは
ない気がするんです
多分それのことを考えたときだけ
出てくるもので
その時に助けてくれなくなる
愛してくれなくなる
というのをよぎるんですよね
あの
それこそあれですね
えー
5分190gですよね
つまり
これすらも
責めてるように聞かせる長寿が
という存在はですね
ある意味何だってできるわけです
所詮空想ですから
万能空想の話をしたときもそう言いましたけど
所詮空想ですから
どんな現実でも私に予感させることは
できるわけです
やっぱりこの話で
私はフリーランスの仕事なんで
告知っていうのが時々話題になる
わけですね
先ほどもしましたけど告知ですよ
だから告知しようとすると
長寿の影響と周囲の反応
あっそうって言われるわけじゃないですか
わかんないですよ
人によって長寿が違うんで
スタイルはそれぞれです
ただ告知をしようとした
瞬間に
よぎるわけですよ
よぎるという漢字をよぎらせてしまう
無意識に長寿が動き出して
例えば
それを見た
ツイッターを眺めたフォロワーが
冷ややかな目を向けているように
あるいは
またこんな告知しやがってと
ポッドキャストで私が喋って
またこんな告知しやがってと
聞いている人は思っているのかもしれないよ
ってささやくんですよね
たぶん長寿が
それでドキッとするわけですよ
そこで
名を
超自我の愛と先送り
告知しようとすると
あっそうだねって言うわけですよ
あなたはそういうことが
起きてもいいと思っているんだ
あなたの自由だから
って感じなんですよ
これってストレスになるじゃないですか
たとえこれによって決定的な何かを
長寿がにされなくても
十分ストレスになるわけですよ
たぶんね
そして
今日はやめておくよ
って言うんですよ
これが先送りだと言いたいわけですね
記事はこうまとめたいわけ
そうすると長寿が
あなたはいい子だねっていう感じなわけですよ
ちょっと今最後はしょりましたけど
もうちょっと長寿がってのは洗練された
巧みなんで
こうして
長寿がの愛というものを取り戻す
これを僕らやってる
これをやるって
どういうことかというと
私たちは内面の母親との
愛を選ぶために
外の女性と別れる
っていう行為に限りなく近い
そういう精神分析の
表現を取ってた人は
いたような気がします
僕はこれがですね
自分には許したくないな
って思ってるわけですよね
まず第一に
この長寿が私が作ったものです
これ何度も何度も言ってますけれども
これはうちの母なんかでは
全然ない、煮ても煮つかない
えーと
粘土の土の元は
母でしょうが
それをこねて作っちゃったのは私で
これは
本当にですね
うーん
なんて言うんですかね
自作自演というのかな
本当に自作自演感がある
一人相撲なんですよね
自分の右手と左手で
何かこういう芝居やって
その芝居にすっかりのめり込んじゃっている
自分みたいな感じなんですよ
これを僕は
自己肯定感が低いっていう表現では
わけが分かんない感じ
しかしなくて
確かに自信がないと
言えなくはないんだけれども
むしろそういうのではないような
なんかこうですね
自分が作り出した
お化け屋敷に入って
本当に恐れ
恐れのあまり
出てこられなくなっちゃったみたいな
そんな感じがするんですね
でも出口は知ってるはずなんですよ
絶対に
入ったの自分だし作ったのも自分なんだから
これが親が作ったわけでは
絶対ないと思うんですね
この質問をされたことがあるんですよ
親のせいにしてしまうのはどうかという話
これも何度もされました
10度ぐらいはされました
いろんな方から
親のせいがないと僕は言いたいんですよ
親を素材にはしてるけれども
作ったの自分で
親を素材にして自分が作った場合
親のせいって言えるだろうかって思うんですよね
素材が親なのは
しょうがないと思うんですよ
そうではないと思うんですよね
もちろん素材は親だけじゃないんで
先生は絶対入ってきていますし
ドラマとかも入ってきていますし
映画見る方なら映画も入ってます
小説は当然入ってますよね
いっぱい読んで感動したりしたら
良いとされてるものを手に入れたら
必ずその裏側に悪いってものが
出てくるわけですから
こうやって僕は
さっき言ったような感じで
いろんなものを先送るわけですよ
いろんなものを先送れるだけの
不安を予感させるだけの能力と
私を愛で支配するっていう能力は
完全に長寿川は手にしているものです
あっきり言って私の一部なのなら
私にできることなら全部できるわけですよ
自作自演について
長寿川
ただこれは変なイリュージョンで
自分で自分を愛してるっていうのと
あんま変わらないですよね
本当の意味で
それを振り切るのは
本当は難しいことではないということと
一番のポイントは
何度も言ってる通りなんです
これは自分だから
そして
自分の一部でしかないので
自分の意識下に置くことは
必ずやれる
一時的にちょっと
辛い感じがすることはあるかもしれないんですけど
本当のところですね
長寿川の愛というのを失って
失うことによって
本当に失うものって何もないんですよ
多分ただ長寿川が消えるだけだろうと
消えるというか一時的に
また復活してきますけど
一時的にフェードアウトすると
たったそれだけのことだろうと
それをやると
私が致命的な信用を失うとか
世の中に悪がはびこってしまうとか
そういうことは起きないんです
なぜなら現実には関係のないものだ
私の中に長寿川がいてもいなくても
戦争が起こったり平和になったりは
そういうことは起こらない
全然全く関係ないものなんですよ
これが関係づけちゃうと今度は
いわゆる魔術的思考というのが働いて
オカルトになってしまうんですね
つまり
天罰が下ればいいのに
っていう思考から
抜け出せなくなるんですよね
それだけになってしまうというのか
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