2021-02-02 32:13

【GMV310】羞恥と自分の無価値観を克服する

どちらもコミュニティメンバーの資格を剥奪される恐怖感です。
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おはようございます、グッドモーニングバイブスです。
グッドバイブスファクトリーというコミュニティーがあるんですよ。
主にFacebookでのやりとりを中心としていて、時々フラズノさんと私が命名で独立した書き込みをしたり、
グッドバイブスTVというぶっちゃけ相談とはまた別に収録している動画が会員の方だけに見られると。
あとは、お悩み相談は随時24時間体制に近い形で受け付けています。
あとですね、月に1回オンラインセミナーのようなものがオンラインセミナーで、これも直接質問を受けてフラズノケゾさんが答えるというものなので、
これあれなんですよね、オープンカウンセリングというものと形式的にはよく似ております。
ただし、コミュニティーの会員限定ということです。
詳しくはグッドバイブスの公式ブログというのかサイトからお申し込みいただけるので、よろしければぜひお参加いただければと思います。
私もそこを一番最初に見ますので、基本だから少なくともTwitterよりはそっちを見ているということです。
今日はコミュニティーの話を、昨日はTwitterで相当書き込んだんですよね。
ご質問にお答えするというようなつもりで書いたんですけれども、
まずブログで書いたことなんですが、恥ずかしいという問題。
これ昨日の番組でもお話ししたんですけれども、恥ずかしさというのは屈辱感なんですけどね。
昨日の番組でお話ししたというのはつまり、
一人一人の方が恐れているものって、要するに自分が怖がっているものって大変ユニークで個性的で、
これにこそ手当てをするべきだって感じを抱くんですよ。
それは私たちのナルシズムですけれども、そういうものなんですよ。
高所が怖い人は高所が怖いんであって、高所こそがこの国でのおける問題くらいの勢いになるんですよ。
それに比べれば虫とかはどうでもいい。
逆に虫が怖い人は虫こそが大問題なんですよね、人生の。
そういう人からすれば雷とかで怖がる奴はバカだということになるんですよ。
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こういうところが私たちにはあるんだけど、あらゆる恐怖は基本的には同じことを言っているんですね。
つまり俺の偏頭体が活性化している、なんとかしなければならないんだと。
ただこれだけのことなんですよ、突き詰めて言えばね。
で、この全ての恐怖は基本同じものをただ別の文脈に沿って言っているということを、
昨日特に感じたのはですね、Twitterでお答えしているうちに自分でブログを書いてみて、
そしてぶっちゃけ相談の番組を見直してみて思ったんですけれども。
一見やっぱり違う文脈の問題、つまり恥ずかしさをなんとかしたいという問題と、
屈辱感の問題ですね。
あれですね、コミュニティ内格差のような問題。
つまり世の中で自己肯定感と言われている問題がここに集まってくると思うんですけれども。
例えば会社で自分は何者でもない。
そうすると会社を出ても何者でもないから最悪の場合死ぬと。
だからコミュニティにいても苦しい、苦痛だが、コミュニティから出るのは恐ろしい。
故に自分は価値がないような気がして人生が怖いという話。
これが北信也さんとのYouTube番組でも多分ここがメインスポットだと思うんですけれども。
この自己肯定感の問題、何者かに慣れていないという問題と、
屈辱感を感じる、人前で恥ずかしさを感じるという問題は同じなんですよ。
どこか似てるなというところはあると思うんですけど、同じなんですね。
だけどかたや多分ですね、問題は恥ずかしさであって、
自己肯定感とか何者かということはそれほど問題にしていないという人が一方でいて、
他方では問題なのはコミュニティにおける自分の価値を成長とかによって高めることであって、
恥ずかしさというのは時々感じるかもしれないけど二の次だということになると思うんですけど、
同じなんだと僕は思うんですね。
同じどういうことかというとコミュニティから放り出される恐怖感ということだと思うんですね。
周知というのは要するにマイルドにしたんですよ。
私たちの日本社会が多分かなり早い段階で、あんなに早いって言ったって多分江戸時代とかだと思うんですけど、成熟してきてですね、
コミュニティから放り出されるということは本当はですね、もっともっと過酷な問題だったんだけど、
それを恥ずかしい程度で済ませられるようになったんですね。
なぜなったかというと多分人間が豊かになったからでしょうね。
何だっけな、天岩島の方の話ですよね。
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サトウキビをかじった子供を貼り付けにする。これが過酷なコミュニティのやることですよね。
恥ずかしい思いをさせるとかでは済まされないんですね。
もしその人が何かコミュニティから放り出されるほど悪いことをしたらですね、
一歩間違えコミュニティが全滅するみたいなことになると。
そういう場合にはもう人に屈辱感を与える程度では済ませないわけですよ。
昨日のブログに書いたことですけれども、体操中に喋っている子供がいたところで教室崩壊とか、
まして教室全滅とかはしないじゃないですか。だから屈辱感で済んじゃうんですね。
これはマイルドになったということなんですよ、恥ずかしいというのは。
コミュニティから放り出されることに恐怖感を覚えるのは、
これはもう私たち人類の宿命のようなものであって、
なぜなら多分人類というのはコミュニティから出発した種だと思うんですね。
よく言われることですけど、子供が無力ですね。生まれてきた子は大変無力です。
歩くこともできないところで生まれてくるという生き物はそうはいないですね。
すぐ食われちゃいますよね。これを食われないようにできたということは、
最初から集団というものの力が強かったから、他の種族から守ることができたという意味だと思いますね。
だからそういうものが生まれてくるぐらいだから、
種族というもの抜きには勝たれない、それこそ種族なんだと思うんですよ。
そうするとコミュニティから放り出されるということは死ぬってことなので、
これが怖いのは当然なんですね。
この問題を解決しないことには、
羞恥心とか、何者にもなれない価値のない自分という欲打つ問題とかは解決しないというふうに、
私はですね、すごくこの方面からは言ってないかもしれないけど、
グッドバイブス、倉園圭祖さんのグッドバイブスはつまりそういうことを言ってるんだなと解釈してるんです。
僕らは何らかのコミュニティに最初から属してきてしまいますよね。
つまりそれ抜きには勝たれない種だからなんですよ。
これで私たちはついついコミュニティの中でどういうメンバーになるかが人生の分かれ道であり、
人間にとって大事なことは常にコミュニティの中での承認を満たされることなんだというふうに思い込むようになっているわけです。
一方でそれは大変面白くないわけですよ。
それだとコミュニティの承認というものが全てになってしまうから、
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自分が価値あると思うことをやるんじゃなくて、人に価値があるということをさせられるということを意味するわけですね。
会社で価値があることをやれと、家で価値があることをやんなさいと言われているうちに時間がなくなると。
でも自分は自分が価値があることをしたいんだという問題が発生したのが多分近代ですよね。
そこで私たちはもともとあるんですけれども、これを強めてきているわけですよ。
バラバラ意識というものを強めてきているわけです。
どのコミュニティにも属さないぞと、自分は自分の力だけで、
極論、コミュニティに属さないということは、人間がまず考えることは一人で生きるという話なんですね。
自分一人で生きるぞと。
自分一人で生きるためにはまず何が必要だとなるとですね、金だということになるんですよ。
だから金を稼げる、まずいっぱい金を稼ごうと。
第一のアプローチとして、株式投資家なんかで莫大に設けて、まず独立してからおもむろに好きなコミュニティに入ろうという考え方。
もう一つがですね、こっちの方が主流なんですけれども、どっちが主流かは難しいですね。
表に現れている統計とか取ったわけじゃないからわかんないですね。
もう一つのアプローチが、何者かになり、つまりどのコミュニティに属しておらずとも、稼げるという人間である。
要するに何者かになるわけですよね。
最近田中選手が楽天に戻ってきましたが、彼はアメリカに行っても、メジャーリーガーとしても、日本に戻ってきても9億円とかがもらえる。
これがつまり何者かなわけですよね。
資産運用とかじゃなくて、自分が何者かであることによって、どこでも一人で生きていくことができるということを目指すわけです。
このベースにはですね、バラバラ意識があるわけですよ、この考え方のベースは。
つまりコミュニティから離れては生きていけないんですね。
マー君は知りませんが、自分は無理だと。なぜならば何者でもないからですよね。
この何者かっていうのは全てコミュニティにおける価値を認められるという話であり、
コミュニティにおける価値というのは、私が時々ゲームとか、ゲームと言っているものがほとんどですけど、つまりゲームなわけですよ。
彼は野球選手だから9億ももらえるわけで、野球に価値があると認める人の中でそれは価値があるわけじゃないですか。
野球に全く何の興味もありません。そういう人はいっぱいいますからね。
人からするとですね、彼に9億を払うというのは全く理解できない価値観なわけですよ。
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つまりゲームというものは、オールマイティでその価値が認められるということではないわけですよね。
コミュニティ、特定のコミュニティの中でその価値が認められるという話です。
そして特定のコミュニティから外に出るのが怖いというのは、つまりコミュニティの中での価値、それは相対的な価値です。
単純なのは、マー君は9億円かもしれないけど、ロッテの二宮選手とかは500万円とかでプレーしなきゃならなかったりするので、これは完全に相対的な価値ですよね。
上下があるわけですが、外に出ると、この外に出たときにどうなるか。
私は価値が等しいと書くんですけど、なぜ等しいと書くかというと、この等しいをどう捉えるかがその人その人の目線によって変わると思うからなんですよ。
価値マックスだというのが、倉園さんのGood Vibesの表現じゃないですか。
価値最低だって考える人が、つまり僕はバラバラ意識ってことだと思うんですね。
コミュニティの外に出てしまったら、人間の価値はゼロになる。
ゼロになるからその辺でホームレスになって猫とかの餌になってもやむを得ないと考えるのならば、これは究極のバラバラ意識ですね。
人間はもともと一人なのであって、そして一人では生きられないものであって、だからコミュニティに認められるように自分を成長させなければいけないのであって、それに失敗した者は悲惨な最後を遂げると。
私はそれが、到底認められない人で、この発想を捨ててるつもりなんですね。
この発想ではとてもやってられないと思うわけですよ。
この発想ではとてもやってられないんだけどこれ以外はありえないっていうのが多分、みなさんが呼んでいるシンドさというようなやつだと思うんですね。
ここにあるのはですね、羞恥心というものとこのシンドさって結局同じ話じゃないですか。
コミュニティから放り出されることに恐怖を覚えている。
放り出されること自体が恥ずかしくて怖いことだっていうのが恥ずかしい問題だし、放り出されると死んでしまうからしがみついてなきゃならないんだっていうのが、要するに組織で働くことのシンドさってやつですよね。
ゲームをしなければならないシンドさというやつですよね。
どっちも同じですよね。
つまりコミュニティの外では生きていけないという恐怖感はその人の人生のど真ん中で威力を持っていると。
これを何とかしようっていう話が僕はGOOD VIBESだと、この文脈で言うならばそうだと。
GOOD VIBESは全て同じことを言うんですけれども、このコミュニティ問題だけでなく、要は恐れや不安を手放すって話から始まるんですけど、
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手放せませんというのか、やっぱりGOOD VIBESに受けるセッションを受けたり、冒頭で申しましたけどファクトリーにいらっしゃったりする理由なわけですよね。
究極的には恐れや不安を手放せません。
この場合はコミュニティから放り出される不安を手放せません。
それはなぜかというと、人はバラバラ意識で生きているはずだからですと、こういうことだと思うんですよね。
もともと一つだったのかもしれないが、今はバラバラなのであって、バラバラである存在であるからにはコミュニティなしでは生きられない。
コミュニティがなくなるということは悲惨な最後で終わるという話ですね。
で、私はこれをですね、人が信じたときに一つには、その人だけが信じるということは不可能だと思うんですね。
私はコミュニティがないとみんな死んじゃうと思ってるけど、自分も含めて。
ここが大事なんですけど、みんな死んじゃうと思ってるんですよ、自分も含めて。
でも世の中の人が一つ意識を信じたいならそれは自由ですって言うんだと思うんですけど、私そういうことではないとよく思うんですよ。
自分が信じている通りに他人もなると言うんでなければですね、他の人はコミュニティから出てもすごく幸せそうにどんどん生きられる。
そしてそれらの人たちは特にコミュニティでの承認も満たせてない。
マー君のようではない。野球選手としても大したことはないけれども、コミュニティの外では幸せそうに暮らせるが、自分だけはダメなんだとは思ってないと思うんですよね。
多分心の底というか無意識に近いところで、コミュニティから構築されたらみんな即死だぐらいに思っているから怖いんだと思うんですよ。
この他の人はみんな大丈夫だけど自分だけダメって言うんだと、それは非常に現実的じゃないので、何か特別な理由があるんだと思うんですよ。
そういう言い方をする人もいますよね。
例えばツイッター見てるとこれ多いんだなと思ったんですけど、女性で私はデブで物質だからコミュニティから放り出される即死ですっていうようなご意見なんですよ。
結構露骨にストレートに書かれるから、今の言ったようなのはほとんど脚色をしてないんですよね。
普通だったらもうちょっと威厄してこうなるんだけど、ストレートに書かれている時が結構あって割とびっくりするんですよね。
やっぱりこれに対する怒りってみんな強いんだなって思います。これは怒りですよね、究極的には。
しょうがないんです、当然でしょうっていうふうに書いてるけど、しょうがなくも当然だとは思ってないんだと思うんですよ。
思ってればそういうことをツイッターでああいうふうに何か独特しくは書かないと思うんですよね。
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やっぱりそこには怒りがあるんだし、あって当然だと思うんですよね。
なぜならばこれは非常に人工的な発想だからですね。
他の動物では考えられないことですよね。
コミュニティから美しくない以上放り出されるからどっかにしがみついていなければ即死であるみたいな。
そんなことは他の動物一般で通用しない話だと思うので、非常に人間ならではの。
ただ人間というのは最初に言った通り、生物としての出発点にコミュニティの存在があるので、
このコミュニティからの放置区ということはですね、恐怖感を覚えるようにはできていますよね。
それをただ現代流にアレンジしたり、問題が周知になるのか、何者か問題になるのか、金の問題になるのか、
その人その人の置かれた環境と経験によって文脈が少しずつ変わってくるというだけです。
解決というのか、これが大変ならばどうするかというのはドライブズに書いてあるわけなんですが、
要するにですね、2つあると僕は思うんですね。
まずコミュニティに属しているはずなんですけれども、
コミュニティに属しているってことは、誰かがそこにいるってことだと思うんですよ、コミュニティ。
いないコミュニティはコミュニティじゃないから、誰かがいるんですよね。
その人が誰であろうと否定しないということが一つ目かなと思っています。
これはグッドライブズ的だと思うんですけれども、私がそう考えるようになったことなんですけど、
とにかく目の前にいる人が誰であろうと分け隔てないと。
これは結局鏡の法則とフラドンさんが時々おっしゃる話そのもので、
今回の一番新しいぶっちゃけ相談の番組でもお伝えしている人前で恥ずかしいという問題ですね。
ここに鏡の法則の話を持ってこられたんですけど、
要は誰かを見て恥ずかしいと思うということがダメなんですよ。
あいつ恥ずかしいやつだと思うけど、私なんかもよく思ったんですよ。
これを思うということと恥ずかしさを感じるということはやっぱりとても深く関わっているんですよ。
ナルシシズムの一形態なんだと思うんですね。
コミュニティにいる資格みたいなものを問題にしているわけです。
羞恥心というのはコミュニティにいる資格を剥奪されたときに感じるもの。
恥ずかしいやつだって考えるってことは、そいつは資格を剥奪するべきだって考えるってことなんですよ。
この考え方は2つありますよね。
コミュニティにいるには資格が必要だということ。
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つまりコミュニティというものが排他的な側面を持っているということなんですよ。
もう一つが、コミュニティの外にいることは罰であるって考え方。
つまりコミュニティの外は危険で不幸と悲惨に満ち溢れているという考え方。
この2つを肯定していない限り、羞恥心で苦しむということは考えられない。
羞恥心で苦しむというのは結局のところコミュニティにおける資格剥奪が恐怖感なんだから、
コミュニティの資格剥奪が全く恐怖感を覚えるようなものでないならば、羞恥心はなくなるんですよ。
現に私はこの流れで羞恥心はほぼなくなったんです。
全然ないわけじゃないけれど、以前に比べればないも同然です。
つまりコミュニティの外に出されることが全然怖くもないのに、羞恥を感じるはずはないんですよ。
コミュニティの資格を剥奪されることが怖いのは、
コミュニティにいることの方がいないことよりもいいことだからに決まっているわけですね。
ということはコミュニティの外に出るということが恐ろしい、荒野に放り出されることが恐ろしいということにならなきゃいけないわけですよ。
その荒野とは何かということなんですが、荒野とはつまり一人ってことなんですよ。
この一人という時にバラバラ意識なのか一つ意識なのかは全然違うはずなんです。
バラバラ意識ならば一人でいるということは肉体が一つ荒野に放り出されるから狼に食われて死ぬんですよ。
いつの時代だって話なんですけど。
で、狼に食われて死ぬわけですよ。だから怖いわけじゃないですか。
でも一つ意識の場合には荒野に放り出されたということが、
肉体が一つポンと放り出されたということを意味しないので、一つなのでね。
放り出されてもコミュニティと自分は一つなんですよ。一つ意識であるならば。
この辺のことが森の中のリスの話に書かれていたはずなんですよ。
で、あるならばあれグッドバイオスですね。
倉園さんのグッドバイオスの冒頭の方に書かれていたことだと思うんですよ。
コミュニティの外であっても一つだから死ぬことはないんですよ。
で、この話が到底納得も理解もできないという話がですね、今回の、もう終わっちゃいましたけれども、
グッドバイオスの勉強会の第一回。
つまり荒野はあまりにも悲惨なので、悲惨なことが起こり得るから、
人は地球を人工的にコーティングしたって話に多分繋がってくるはずなんですね。
で、ここまで行かなくてもでも私たちはいいんですよ。
なぜなら荒野行ってもオオカミいないし、そもそも荒野ないから。
ここまで行かなくてもいいんですね。
まず私たちはあらゆるコミュニティから放逐されることは今のときないわけですよ。
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あるとするとよっぽどコミュニティの中に行っていちいち喧嘩売ってるってことなんですよね。
コミュニティから放逐されるのは怖いのに、そんなことするべきではないんですが、
ただこれはですね、怖いからこそやっちゃうという精神障害があるので、
これは総敵防衛の非常に極端なパターンなんですが、
私はそれをヒステリーと読むべきだと思うんですけどね。
それが起こるんですが、それは置いといて、
普通の人はコミュニティから出るのが嫌だったら、
そんなにコミュニティに喧嘩売らないはずだから、
いられると思うんですよ、どっかには。
で、どっかにいられた場合、どこにもいられない恐怖感というものは、
日本では手放したほうが全然いいと思います。
理由は簡単で、日本人というのは人をコミュニティに引き込むのが大好きなんですね。
これはそのうちお話ししたい、あまりグッドバイオスとは関係ない話なんですが、
とにかく日本人というのは、一人でどっかにポツンといる人を放っておかないところがあるんですよ。
これが別の息苦しさを生んでいるのかもしれないんですけど、
どこにも属せませんというのは多分考えられないんですよ、日本では。
これに対する恐怖心が強いというのは、多分イリュージョンが強すぎると思います。
それで、目の前の人を否定しないというのは、
つまりそれさえやっておけば、どのコミュニティであるかとか、
コミュニティにいるかいないかということは関係なくなるわけですね。
そこで一時的にせよ、一つの意識が成立するはずなんですね。
バラバラ意識というのは、つまり自打のあれですね。
利害が対立している状態、相手から搾取しようとしている状態。
目の前にいる人を分離したり否定したりしないということは、
つまり目の前にいる人のために自分が動けるということは、
その段階ですでに一つ意識なので、
ここの段階ですでに荒野に一人で放り出されるということはありえなくなっている。
つまり目の前に誰かがいて、しかもその人のために何かができるなら、
すでにそのコミュニティから放り出される恐怖感というものと、
縁が切れていいはずなんですね。
このアプローチが一つだと自分は思います。
もう一つは、一つ意識ということは、
誰もを否定しないということを意味しますよね。
理想的にはというのか、論理的には。
誰のことも否定しないと、誰のことも排除しないというコミュニティは、
私はもはやコミュニティではないと思うんですね。
コミュニティはやっぱり、あいつらはあいつら、私は私という、
私は以前につい最近ですね、
信者ビジネスは悪なのかというブログを書いた覚えが何となく、
もしかするとポッドキャストで喋っただけかもしれませんが、
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とにかくどっちかで言っておりますが、
あれは極端な話をしたつもりなんですけれども、
要は、例えば我々のはグッドバイブスコミュニティだが、
あいつらは信者ビジネスであるってやんないってことなんですよ。
これをやろうとする、これをやろうとするのはどうしてか。
似たものと分けるためなんですね。
全然違うものとわざわざ一線を引く必要ってないんですね。
だから私は信者ビジネスというのをわざわざ取ってきたんですよ。
例えば昔ライフハックは自己啓発というものと
線を引こうと頑張ってた時代があったんですね。
本当にここの歴史じゃないですよ。
トリビアですよ、こんなものは。
ただそういうことがあったんです。
近いものと線を人は引きたがるんですよ。
なぜ日本では在日とかが問題になりやすいのかってことですよ。
なぜフロイトはユダヤ人だったかってことですよ。
非常にこれは大事なことだと思うんですけど、
いずれにしても近いところと線を引きたがります。
グッドファイブスファクトリーというのは
アメリカンフットボール協会とは全然違うものだとかって
わざわざ言わないわけですよ。
全然違うに決まっているからですね。
似たように見えるものと線を引きたがるんですよ。
いや、あれは似ているけれども違うんだって言いたくなるわけですよ。
一見似て見えるかもしれないけど誤解しないでくださいとかって
そういうことを言いたがるわけですよ。
フロイトとGTDとか、他の人から見ればどうでもいいような
そこには区別をつけたがるわけですね。
これが僕は差別だとよく思うんですね。
人は人でなければ差別対象としないですよね。
白人と黄色人種とかって言いたがるのは
似てるってことを意識してるに決まっていて
白人と災とかって言わないわけですよ、そういうことは。
だから私たちがコミュニティを作るというのは
本当に結構あれだなって思うことがあるわけですね。
グッドバイブス的には難しいことにチャレンジすることになる。
ただコミュニティってありますからね、人間社会には。
そして日本社会はこれがとても好きですからね。
これは今日はしゃべりませんが。
このコミュニティを作ると
差異を強調したくなってしまうので
全ての人を排除しないとか言うのは
ただの言葉になりかねないんですね。
全ての人を排除しないとか言っておきながら
すぐ近くの人を排除するっていうことが
実は頻繁に起こる。
これをしないために
目の前の人を否定しないっていうのが大事なんですけど
最終的に私は全ての人をっていうところに
必ず含まれる人、それが自分だと思うんですよ。
自分を絶対に排除しない。
これがずっとグッドバイブスやってきて
一つの終局目標点じゃないですけど
30:00
それだろうと。
自分を否定するから
自分がコミュニティの外に出た時に
すぐに悲惨な最後を遂げるような気がしちゃうわけじゃないですか。
自分をいかなる意味でも否定しなければ
コミュニティの外にいようと今の中にいようと
その価値が上下するわけがないんですよね。
自分が外に出たということが心もとない
すぐに狼に食われるとかそういうふうに思うのであれば
結局そこに自分は本来
否定されるべきものなんだっていう思いが
抜けずにあるということですよね。
恥ずかしいと思っていく。そういうことだと思うんです。
最終的には放置されそうになった時
コミュニティにいる資格を奪われそうになった時
自分にはそういうところがあるんだとか
自分はそういうふうに扱われてもしょうがないんだと
多少は思っていなければ
恥ずかしくはならないはずなんですよ。
同じように自分は本来何者でもないということが
何者でもなくてもいいんですが
何者でもないということが価値がないんだと思うんでなければ
コミュニティの外に出る中にいるということの
落差が発生しないはずなんですね。
私は外に、つまり荒野にいるということが怖いというふうに
思った時にはもう間違いなく自分は自分を
いろんな意味で否定していると
考えざるを得ないわけですよね。
1ミリも否定しなければそれが怖いわけがないと思うんです。
だから目の前にいる人を分離も否定もしないということと
自分自身を否定しないということが
この羞恥心とか
無価値な自分という
しんどさを解読する一番力を持つんだと思いますね。
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