1. 働くメンタルをとり戻す精神分析的ポッドキャスト
  2. 「私が責められるのは私が悪い..
2024-10-18 54:18

「私が責められるのは私が悪いからです。」【1073】

働くメンタルが戻らないわけ。
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おはようございます。働くメンタルをとり戻す精神分析的ポッドキャスト、第1073回お送りします。
10月18日金曜日、8時23分ですね。
はっきり言って、なぜか暑いです。
もうすでに頭がぽんやりしていて、もう本当に、さっきのタイトルを言い間違えたんじゃないかと思うんだけど、もはやリテイクする気すら起こらないというね。
という状態で撮っておりますので、なんかブツッと終わるかもしれませんが、その辺はちょっとご容赦ください。
とはいえ、今日は多分グダグダしてるんで、長くなるんではないかという、この状態で長くできるのかという懸念がありますが、
長くなるんじゃないかというね、気もしなくもないんですけど、まあまあやっていこうと思ってます。
癒す手段がね、最近もうちょっとないわけですよ。クラかけるっていう感じではないし。
いやいや、ありましたありました。脱ぎゃいいんだということに気づきました。
割と当たり前なんだけど、そうですよね。
で、本題に入ろうと思います。
なんかちょっとね、わたわたしてしまっているというか、ずっと入れないんですよ。なかなかね、不思議なんですけど。
この辺ちょっと切ったり貼ったりしてますけど、一時的にね。でもそれはただ冷気を取って、冷やしてるだけで別に意味ないです。
第8期のですね、3ヶ月チャレンジを間もなく開始いたしまして、おかげさまで少しずつ、
継続とか新規とか、ご参加いただいていますので。
公開PTXの方からの新規公開募集もさせていただいております。
こちらに関しまして、聞きたいこと、疑問点などございましたら、
高いよっていうのもあるかもしれないんで、それはそれでDMでお知らせいただければ、ディスカウントはなかなかいたしかねるんですけれども、あれ以上となってくると。
いろいろと何か考えますので、お知らせいただければというふうに思います。
お値段に関してはですね、実質入会金が別とすれば入会金1万円だと仮にして、実質2万円で4回のセッションが1回5000円で、
しかも3ヶ月なんで、僕は効果があるならこれは合理だとは思わないんですけれども、
ものにはいろいろ考え方があるとは思いますんでね。ここはおよい相談させていただければというふうに思っています。
03:04
これより安いということになってくると、なんかこうもうセミナーと変わんないじゃないですか。
つまり1対5でも1対1でも同じお値段になってしまうというのも、僕の中でもさすがにおかしいような気がしてくるのとですね、
安ければ効果がなくていいことにはならないと思うんですよね。
このことを最近ドキドキ考えるんですよ。カウンセリングって正規正規って言うじゃないですか。
でも僕正規って考えてみると、どうして正規だけがあるような言い方ができちゃうんだろうというのがすっごく気になるようになってきたんですよ。
最近ずっとこの言葉を使っておりますが、本当は使いたくはないんだけど、ここまで人口に感謝して、
あえて避けてても違う言い方にするのもただまどろっこしいだけなんで、毒親って言葉を使ってますが、
例えば毒親という言い方はやっぱりおかしいとは思うんだけど、でもそうでしたという場合、
まず親はコンテナーになってくれないわけだったわけじゃないですか。少なくともそう感じられなかった。
そういう人が突然ですね、正規のカウンセラーにだけ接触するというのはなかなか困難な時代だと思うんですよ。
これはほとんど詐欺に遭いましてもいいですってことには当然ならないんだけれども、そこを何とかするっていう仕事はあり得ると思うんですよね。
そもそも、例えば、
柔道の抑鬱状態ですという方がいらっしゃって、その人が非常にちゃんとした精神科医と非常にちゃんとした心理カウンセリングを並行して、
理想的な形で受けられます。ってことは、なかなか起きにくいだろうと、起きないとは言いませんよ。起きるべきだし、そうであるに越したことはないと思うんですが、
だけども、それってお金もかかるし結構ですね。リテラシーも高くいるし、しかも時間もかかるわけですよね。
で、親とか家族にはその状態なんだけど恵まれていませんって、なんかおかしくないかって思うんですよね。
そこに民間のケアする人が、癒しのカウンセリングとかするのはよろしくないって言うんだけど、癒しのカウンセリングの方がマシじゃんって思うんですよ。
何もないとか、非常に迫害的な環境にぐるり取り囲まれたまんまですというよりは、癒しのカウンセリングでは心の成長にはならないっていうのは、
文脈としては非常によくわかるんだ。というか、正規の人がそれをおっしゃるときの意味はわかるんだけど、普通はそれ意味わからんだろうともしろ思うんですよね。
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正規の人に全然たどり着けそうにない人にとってみるとですね、癒しのカウンセリングだって無理だろうなと思うのに、
ただそこで治療にならないのにお金も取られすぎるっていう話になってくると、取られすぎるっていう金額次第だろうなという感じが私はならしますね。
だけどそれだって、その人が持っている所持金というか資産との関係力もある話だから、いくらならば合理であるけれども、
達成は難しいよなという感じがして、そしてこの種の問題が、いやそれは社会が良くないって話になるのかもしれませんけど、社会を良くしている余裕はその人にはあんまりないじゃないですか。
これもだから捉え方次第なんだと思うんですけどね。というわけで、私はこれはそういう問題をひっくるめての三チャレだなと思ってます。
ただ私は別に癒しのカウンセリングやってるわけじゃないですけどね。
目標は、目標をこれから述べつつ本題に入ります。
昨日3waysで、ジェイン・ワスザキさんと話している中で、この話に近い話が出てきたなと思ったのが、当事者グループってやつですね。
あるいは次女グループって人は言うのかもしれないが、私は次女グループと当事者グループを少し分けて考えております。
百日チャレンジは、見ようによっては先送りの当事者グループ、ちょっと運営がはっきりとあるから当事者グループではないんだけれども、そういう当事者の会といった性格も持ち合わせていると思います。
次女という風になってしまうと、まるで先送りが症状のようになってくるので、私はこれは病気でも何でもないと思いますから、次女とは言わない、当事者だとは思ってます。
当事者は病気とは限りませんから、先送りって深刻になると困りますからね。だから先送りの当事者ではあると思いますよ。
ただ、参加していれば効果あるのかっていう話なんだけど、そもそもじゃあ効果とは何なのかっていうことになるしかないと思うんですね。
昨日Jさんがオンラインサロンとこれとの違いは、テーマがはっきりしていることだと。確かに当事者というのは何の当事者かというのを問わなければなりませんから。
非常に超有名なところでアルコールアノニマス、AAですよね。だからそれはアルコールの当事者グループなわけですね。
この何のというのがあるってことですよ。何にもないとオンラインサロンみたいになっちゃうと。僕は別にオンラインサロンをここで批判する意図は何もないんで、何のであるかを問わないところにその良さがあるという見方はあると思うんですよ。
つまりテーマがはっきりしない集いというものはあり得るわけじゃないですか。
09:03
現代社会ってのは僕はここで最新申し上げている通りですね。テーマがなければ集まることもできないというのが一つの文化的な苦しみだと思ってます。これはすごく思ってます。
だから皆さん、無目的な集まりっていうものに誘われたら躊躇せずに行ったほうがいいと僕は思いますね。嫌じゃないですか、多分。これを聞いている方も嫌かもしれないんだけど、無目的な集まりは。
Xにおごらレイヤーさんっていらっしゃいます。ツローおごらレイヤーさん。あの方がマシュマロなのかな。質疑に答えてますよね。僕は全部の答えに、いちいち全部共感共感とか同意同意って思ってるわけじゃないけど、非常にうまく答えられるなっていう風に感心させられていて、これはフォロワーさん増えるよねとは思いますけれども。
中にあったのが、前も言ったかな。企画ばっかりしていて寂しいですっていうようなマシュマロさんがあったんですね。要するに自分が誘う側にばっかり立ってて、誘われてない気がする。自分は結局本当はみんなに好かれてないんじゃないかみたいな、非常に若々しいと言いますか、お若いお悩みだなと思ったんですけど、おごらレイヤーさんが、彼はおごられる人ですからね。
いやそんな馬鹿なことで悩むんじゃないと。企画できる人間は頭一つ抜けているんです。普通の人は企画がそもそもできないから企画がないんだよっていう、これはうまい答えだと思うし、大筋その通りだと思うんですよ。
誘われないということに、そもそも気が回るってことが頭一つってのもそう書いてあったかどうかは別として、面白い言い方だと僕はすごく思ったんですね。誘いまくる人は偉いんですよ、そういう意味では。
だから無目的に集まれるっていうのは大変いいことで、無目的にはなかなか今の人は集まれない。だからなんかタスク管理研究会とかになっちゃうわけですね。そしてやってることは飲み会なんだけれども、それでいいと思うんですけどね。
これが遊べるってことなんです。これは本当にウィニコットなんだけど、何度でも言いたいですね。これができなくなっている。それはすなわち頭が時系列だけでできてしまっている。ありもしない因果の積み重ねになってしまっている。
AをやるからBがあり、BがやるからCがありっていうこの時間に沿った矢印がどんどんどんどん向かっていく。この先にあるのは何かっていうと死ぬってことですよ。だからこの直線的時間間みたいなものの時間間っていうのは時間の関連みたいなものに縛り付けられる。
これは抑鬱ポジションならではなんですけど、抑鬱ポジションの中の私は一番抑鬱的に自分をするものの感じ方というか見方というか世界観だなって思うんですよ。人生を一つの時系列で直線化して、この一番先にあるものは何ですかっていう世界で生きていたら、お先真っ暗感しかなくなって少なくとも元気出ないですよね。
12:15
この時系列間に沿って生きていて、私はこの永久養うとかね、眠るのは永久養うためだったり、食事はタンパク質中心だったりして、より良くより良くより良くしていくんだけど、一番先に待ってるものは最高の人生の結末なのかどうなのか。
そこに死ってものが書いてあるんだけど、それが最高の結末なのかどうなのか。
とっても極度に分裂したものの感じ方っていうものを一層しなきゃいけないっていう、一層はできませんけれども、これをどうやって事実はそうでは決してないというふうに思えるかどうかが、現代の人にとって一つの鍵だと。
だって現代の人は大抵妄想分裂ポジションじゃ生きてないじゃないですか。
時系列を無視しては生きられないわけですよね。
今この瞬間だけで、しかも大体の場合それは排出になって、赤ちゃんのようにですね、良いものは素晴らしい、悪いものはとても悪いでグオッと鳴いたり、大いにニコニコしたりっていう生き方はできないわけですよ。
だからその時系列になってしまうんだけれども、この時系列でどんどん良くしよう、どんどん良くしようっていう人生はものすごい辛いものになっていくというか、もっとうまくいっても灰色だって感じがする。
すごく虚しいものになってしまうので、だからこの世界観を何とかしなきゃいけないと思うんですよね。
そのためにはとにかく目的的ではなく行動するっていうタイミングを逃さないっていう感じかな。
その行為が目的的でないなら大事にしましょうと。
目的的であるなら、この世の浮世の義理ぐらいに思ってとりあえず付き合っておきましょうっていうのが今の私の大筋のスタンスなんですね。
しょうがないから目的は果たす。
でも目的がないことをやっていたらこの時間帯はハッピーだと思う。
目的的に見てダメな行為をやっていたら著しくハッピーだと思う。
こう考えていかなかったら、どんどんどんどん空虚なものに人生がなっていっちゃうというか。
人生というのはそもそも時系列で捉えなければいいんですけど、この時系列はデタラメですから。
物理学に聞いてみれば必ずこれがデタラメであることを今いくらでも証拠立ててくれるんで。
この時系列は観念の中だけにあるんですよ。私たちの頭の中だけにある。
ただしこの観念をなくなりはしてませんけど、ものすごい薄めてしまったので、ほとんどないんですよ。
ほとんどなくなってみるとこれがいかに因知器であったかっていうのもですね、これすっごい単純な因知器なんですよ。
線で引っ張ってるだけですから。
その線の上を自分が歩いてると思い込んでるだけですから、その線ないんで。
15:04
あったためしないと思うんですよ。
頭の中以外のところにはね。
あったためしないはずです。
その辺見たことあるって人がいたら、それは私は幻覚だと思うんですよね。
とても危険な状態だと思う。
でもまあそんな話じゃこれはないと思う。
頭の中にあるんですよ。
10時1分、10時2分、10時3分、そこまで厳密なのはないか。
12月1日、2日、3日っていうのがあるんですよ。
その最終着地点が何であるかを僕らも知っちゃってるわけですよ。
それが大いにハッピーというものとはちょっと違うと思うんですよね。
なのにどんどんどんどん良くする。
そして良くできないことに、
自責の根を持つ。
これは全然うまくない僕は戦略だと思うんですよ。
で、この話のここまでは、
まあ昨日Jさんと3waysで話したような話に過ぎず、
私が話したい話はこういう話ではないんですね。
私が話したい話はその抑鬱の方です。
で、抑鬱ポジションはもう僕ら、
僕のこの3ヶ月チャレンジで原則として確立されている、
別の言い方をするとコンテナーは心の中にすでにある。
問題は私たちの時代は持ちこたえる力というものを、
どちらかというと意味嫌ってるってことなんです。
私たちは不能とか苦しみを持ちこたえるってことが、
もはや否定的に捉えられているため、
この持ちこたえる力が全然ない。
全然ないのを何というかというと、
自己愛って言うんですよ。
自己愛性パーソナリティ障害とは言いませんが、
私たちの生き方はすごく自己愛的になりやすいっていうのは、
私は要注目だと思うんですよ。
傷つくのをすごい嫌う。
そして自分が傷つくってことを、
ものすごく重大なことだと考えてしまっている。
どんな話をしても楽しくない話になっちゃうから、
したくないんですよ。
私たちは例えば、
あんまりいい話にならないな、
喜んで卵食べるじゃないですか。
でも心がちょっと傷つくことの方が、
ずっと問題だと思ってるじゃないですか。
これは客観的というのかな。
他の動物から寄せると、
人間ってわがままだよなということなんですよ。
つまり自己愛なんですよ、僕らは。
僕がそうじゃないって話してませんからね。
僕はめっちゃそういう人間ですよ。
だって僕は静電気を恐れるんですよ。
なかなか静電気ですよ。
手の先にピリッとくるのをこんなに重要視しておいて、
他の生き物を傷つけるのは割と平気なんですよ。
これは倫理的な話をしてるわけじゃないんですよ。
だから反省しましょうねってことではないですよ。
ここで反省してもひたすら落ち込むだけじゃないですか。
18:01
ここで反省するんでは、
僕はダメだと思うんですよ、はっきり言って。
ダメってことはないんだけど、
でもやっぱここで反省しててもしょうがないと思うんですよね。
せいぜい僕らはビーガンとか頑張るって話にしかならないと思うんですよ。
そういうことがここで取り沙汰されるところじゃないと思うんですよね。
ここで取り沙汰されるのは、
つまり僕らの人生は現在は自己愛を目指しがちであると。
この世の中とはそういうもんだと。
麻酔をどんどん発達させて、
痛いという瞬間はゼロにゼロにゼロに向かうようにする。
傷つきって言葉をいっぱい使って、
いっぱい傷つけ合ってるんですけどね、SNSでは。
でも傷つけるってことは罪悪であるってことを
徹底的にお互いに言い合って、
傷つきやすいってことはダメだ。
傷つけられるってことはダメだっていう。
だから傷つくっていうことが、
私は傷つきやすさを持っているんですっていう病理が、
私たちの世界ではそれは病理なんだっていう。
この病理を持ってるんだから、
あなたは私を傷つけるっていうのは犯罪ですよって言えるようにまで
持っていかなければならないんですよ。
心が傷ついてもダメだし、肉体が痛むのもダメだし、
とにかくダメなんですよ。
だからどんどんどんどん、
暑い時には涼しくできるし、
寒い時には暖かくできるし、
自己愛は常に肯定される。
否定されてないですよね。
最新式のクーラーを悪く言う人はほとんどいないと思うんですよ。
ちょっとインターネットで待つのもダメなんですよ。
ダウンロード速度もアップロード速度も、
ものすごく速くないといけなくて、
サーバーがちょっとコケているっていうことになると、
その会社にはどんどんどんどんクレームが寄せられるというのが、
私たちの生きる世界なんですね。
だから私先日経験したんですけど、
あれですよ、バッテリーが上がったってやつで、
補給バッテリーがダメになってたんですけど、
ブンブン出ても済んでなかったんですよ。
っていうことになるとね、
奥さんとか娘とかが一体お前何をやっていたんだと、
補給バッテリーの何かの予兆出てただろうと、
なぜそれでディーラーに行っておかねえんだっていうね、
それがもう半日から一日、
ひどい罪悪になってしまうわけですね。
これくらいの不便はもう全然ダメなわけです。
昔お父ちゃんの車がバッテリーが上がったっていうのは、
昭和の人みんな知ってると思うんですよ。
特に雪国で上がっちゃうんですけどね。
そしたらお父ちゃんが軍手してですね、
プラスのところに赤いやつやって、
マイナスのところに黒いやつやって、
逆化?よくわかんないけど、
上げてエンジンブンブンってやってもらうと、
ありがとうございましたみたいな感じで、
補給バッテリーが復旧するというのを、
経験したことがある人いっぱいいると思うんですけど、
今のときそんなものはあんまり見ないよね。
あるんだけど、結局それをやるんですけどね。
本当に小さな小さな不都合は、
21:01
全て全て排除されていかなければならないし、
今後もこの傾向はどんどんどんどん、
彼女がいなければVRで彼女が用意されるか、
いろんな方法が用意されます。
メモとかをやるわけです。
僕あれやったことないですよ。
僕あれをやるとますます虚しくなるんで、
デモじゃないけどやってられないですよ。
この辺が僕の病理なんですね。
セクシャルな相手もですね、
いずれはもうどこまでやってくれるかわかりませんけどね、
身体感覚を伴ってVRもあってっていう時代は、
必ずやってくるはずだって私は思います。
もしかすると危機感を持って歯止めかけちゃうかもしれませんけどね。
不在のおっぱいというものはもはや、
不在ではないようになされていくはずなんです。
つまり、
自己愛ですよ。
自己愛万歳ということです。
この自己愛万歳という状態でもって、
現在という現在、今ここは、
パラダイス化していくようにする。
が、だからといって、
被愛がなくなったり、
対象喪失から永遠におさらばはできない。
何よりもさっき言った通り、
ライフの最後には、
そのようなものでは全くないものが待ってることを、
私たちは少なくとも欲打つポジションにいる人は皆知ってる。
連語化までしちゃった。
これを死っていうわけにはいかない。
死別した人をAIで、
死別した人とお話はできるかもしれない。
死人を否定することはできるかもしれない。
最近、私の仕事のパートナーであるZoeさんから、
凶悪なふつうひこさんの産めの夏というのを、
急いで読んでるんですけど、
ミステリーってすごい勢いで読まさせられますよね。
うまいこと書いてるんで。
死人に会いたいという気持ちが幽霊を作り出すんだよ、
っていう頭のいい人がそういうことを言うわけですけど、
その通りですよね。
だってAIで死者と喋るっていうのは、
もはや幽霊と喋ってるようなもんじゃないですか。
こういうのが炎上するのかな。
なぜこういうのが炎上するのかは、
僕にはさっぱりわからないんですけどね。
いいんじゃないですか、それでって思うんですけれども。
VRと幽霊はものすごい遠い企業で、
すごく近いと思うんですけれども、
それは余談ですけれどもね。
何が言いたいかというと、
自己愛というものを満たそうという話になってくると、
自分と対象関係的に言うと、
対象との関係を絶大にいいものにしていくという方針が取られるに決まっており、
自分と対象関係が絶大にいいということは、
現実は極力無視されるということになるに決まっているんですよ。
これが欲打つの温床以外の何ものでもないだろう。
つまりそれは現実には持ちこたえられる気がないですよってことですよね。
24:01
パーソナリティ障害について松木邦博さんが指摘したのは、
現代ではすっごい妥当だと思うんです。
特に現代日本では。
もう一時家庭に行くことはできませんよね。
私たちは赤ちゃんのようにはなれない。
将来死ぬことは知りません。
お母さんという存在は知りません。
あるのはおっぱいだけです。
気持ち悪くなったら泣きます。
こういう生き方でいないですよ。
私たちはね。
3ヶ月チャレンジでそうやっていらっしゃる方はいらっしゃらない。
しかし、私たちは、
だからといってですね、
現実を受け入れて、現実を持ちこたえるというのは極力したくないんですよ。
僕もそうですよ。
会社さん行って、あんまり聞きもしない、
針千本玉すりをグサグサされて、
持ちこたえようみたいにならないですよ。
やめろお前みたいになって、違う会社行くぞみたいになりますよね。
つまり持ちこたえる気はないわけですよ。
積極的に排出するんですよ。
だから苦しみとか悩みとか、積極的に排出する。
自分とは向き合わない。
極力自分のダメなところは見ない。
ダメなところは直してもらえばいいんですよ。
今だったらね。
皮膚とかはレーザーとかできれいにしてくれたりするじゃないですか。
ダメなところは直してもらえばいいんですよ。
ボイストレーニングでしゃべり方。
僕みたいなこういうぐじゃぐじゃしゃべっていて、
ひらーいっぱい言ってるのはやめて、
美しいしゃべり方に直してもらえばいいんですよ。
スキルを使うなりなんなりして、
とにかくとは言わないようにするとね。
こうして直して直して直していくというやり方はですね、
私は欲打つにおける一つの戦略として、
欲打つの戦略っていうのは、
三つあるとされているんですね。
コンテナに抱えるのが嫌だったら、
というか抱えきれなくなったら、
人は三つの戦略を取る。
一つは自己愛的な今のような戦略を取る。
この自己愛的戦略というものは、
欲打つ章において非常に迫害的な気持ちを広げていきますよね。
排出しているわけだから、
自分にとって嫌なことは必ず起きますから。
ちょっとであればね。
排出する。排出するんだけれども、
そうしたとしても、
嫌なことが次に起きる可能性までは排出しきれないじゃないですか。
だから排出するという戦略に効力を挙げている人。
心の中の嫌な部分というものをなくしてなくして、
心の中がすっきりした状態を取ろうとしている、
嫌な出来事。
例えば車の鍵を閉め忘れたっていう嫌な出来事が起きたら、
それを排出する。
人のせいにするとか何でもいいんだけど、
とにかくそれが自分の中に極力入ってこないようにするということをする場合、
嫌な出来事はすべて押し付けられることになります。
さっきも言いましたけど、
人生の最後が来るということを知っている、
この不安だけはなくせませんから、
27:00
抑圧ポジションにいる限りはですね。
これだけはコンテナなんかに入っているわけですよね。
だからこれもやっぱり外から押し付けられたように感じます。
つまり、
抑圧の人というのは非常に自責の念が強くなりやすいんですけれども、
にもかかわらず多発的にもなるってことです。
世の中というのはすっごい嫌なところだという感じがする。
何しろ嫌なことを全部押し付けられるわけですから。
それは自分が悪いのかもしれないと絶え間なく思うんですよ。
妄想分離スポジションの人と違ってコンテイン持っちゃってるんで、
これが心の中の不安であることは知っていますから、
あるいは心の中の苦痛であることは知ってるんで、
罰じゃないってことですよね。不安だってことです。
そういう言い方をすればいいってもんじゃないんだけど、
とにかく心の中の出来事だということはわかっていますから、
自分を罰したくはなるんですよ。
ここに何にも自分に責任がないとは感じませんか。
赤ちゃんならそう。何にも自分には責任がない。
なぜなら自分というものはいないから。
だからお尻が気持ち悪くなった。
ならばそれは外部が悪いわけですよ。
全て外部が悪いわけです。
でも自分のお尻が気持ち悪くなったと、
自分のをつけられる人には、もはや100%外部が悪いという風に
捉えるのはほぼ無理なので、やはり私のせいなんだと
いう風に思って落ち込むんだけど、
同時に非常に迫害的なんですね。
迫害的でありながら多罰的ではないってことです。
被害的である。私は被害を受けている。
親というものに酷い目に合わされている。
でもそれは私が悪かったんだって考える。
これが自己愛型の抑鬱ってものなんだろうと。
抑鬱ですからね。鬱病じゃないってところを気を付けてください。
これが非常に重度になってきた時に鬱病みたいな形を取るんだけれども、
ここまでは少なくとも鬱病じゃないはずなんですよね。
迫害的な抑鬱状態というものが続くと。
で、もう一つがこれと区別してあるんですけどね。
松木さんの本とかを読んでも、他の本を読んでも。
私、この区別がよくわからない部分があるんですけれども、
トラウマ型の抑鬱っていうのが分けられてるんですよ。
でもトラウマは外的な要因なんだけど、
今の自己愛的なのは内的な要因だって言うんだけど、
それは分けられるのかなっていうのが、
まあ分けようと頑張れば分けられる気がするんですが、
でも現実には私に分けられるかどうかは、
はなはだ疑わしいというか、無理かなって感じが。
だから私は診断とかするわけじゃないから、
ここが分けられないっていうのにそこまでは悩みませんけどね。
明らかに外的な要因であるって言うんだったら分かりますよ。
明らかに、例えば会社が残業200時間を強います。
それは外的な要因でトラウマ的だよねとは思います。
しかし上司がすごく厳しいです。
でもそれは私が悪いんです。
これは自己愛的にも聞こえるし、
その上司がどのくらい本当に厳しいかによって話が変わってくる。
30:02
この話ししょっちゅうしてますよね、私。
だってしょうがないですよね、これはね。
僕はその上司を直接知ってるわけじゃないんで、
その上司がいかにひどいかというのは大体においてものすごく説得されるんですけども、
でもやっぱり上司は知ってるわけじゃないですからね。
自己愛的であるかトラウマであるかっていうのを、
本当の意味で勘別するのは無理だろうと思ってます。
それは本当の意味でどの程度上司が悪いのかっていう、
いきなり社会問題になってしまうんですよね。
さっき言った残業200時間も同じ、社会問題になってしまいますよね。
だから社会問題なのか自分の問題なのか、
ただトラウマというのは社会問題とは言い切れないので、
空想でも人はトラウマになりますから、
そういう意味では難しい、これは本当にと思います。
ここまでは一応善だったんですよ。
3つあるんですね。
抑鬱には3つのタイプがあるけれど、
大枠に分けて3つあるということです。
自己愛的だから非常に自分を非難するんだけれども、
あくまでも悪い原因は外にあるって感じを持っていらっしゃる。
だからといって多発はしない。
自罰的なんだけど被害的。
これが自己愛的なんだと僕は思いますね。
同じように見えるんだけどトラウマ型。
結局のところコンテナが機能を弱めちゃうんですよ、これをやってると。
1つは自己愛型っていうのはコンテナの外に全て持ちこたえようという気がないので、
何かトラブルが起きた場合、
このトラブルが起きた、私に原因があるかもしれないし、
世の中に原因があるのかもしれないけど、
とにかくこの私はこういう無力さがあるなみたいなのを
代謝したり持ちこたえて、それを心の中で何とかして、
そして次の手を打っていくという時のこの感情的なモヤモヤを保持しておいて、
代謝っていうんですけど、代謝をしようという気がない、あんまり我々は一般的に言って。
それは一旦外に出して、行動では処理するみたいに従うということですね。
僕はこの一旦外に出すというのをやるから、
我々は被害的にもなるし、必要以上に傷つきやすくなるし、
いわゆる心のコンテナの機能が弱るっていう気がするんです。
一方でトラウマの場合、そもそもトラウマのせいでコンテナそのものが、
いわば一部欠損するとか破損するみたいな感じなんですよ。
これとだけれども力を発揮する気がないのをどうやって分ければいいのか、
本人に聞いてみるしかないけど、
本人は自覚なくやるはずですから、分かりにくいだろうなっていう感じですよね。
だからこの話は結局は傾聴って話につながっていくんですよ。
野良であろうと正規であろうと、およそ対人支援であったり、話を聞くっていう商売の場合は、
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ここで傾聴という、こういう時に傾聴っていうのが出てくるしかないんですね。
勘別する必要があると思うならばですけど。
でもやっぱり多少あるっていうふうに、さんちゃれとかでも思わなくはないです。
つまりその話は結局のところ環境に原因があるのか、
自分がそれをやろうという気持ちに全く慣れていないところに原因があるのかっていうのを原因ではないんだけれども、
少なくとも強い要素がどっちにあるのかをある程度知っておきたい、
知っておくと役に立ちそうだっていう時には、聞き込みをしていくしか他に方法がない。
聞き込んだからわかるのかっていうと、それは簡単な話ではないかもしれないけど、
でも聞き込んでいくより他はないってことですね。
昨日私もそういう話を日曜以来ずっとやっていたんですけれども、
結局のところ我々はコンテナの力を強めるということに希望はあまり持ってないんですよね。
このコンテナの力を強めるというのはですね、どうしても私たちは我慢をすればいい、
我慢しなければいけないのかとか、無用な苦しみではないかっていう、
まして外に原因がありそうだった場合は、そんな奴と関わらなければいいではないかってこの論もよく出ますよね。
つまり関わらないというのも同じなんですよ。排出しているわけです。
自分、人との関わりは確かに関わらなければいいって理論は成り立ちます。
でも嫌な気持ちはそうじゃないですか。そうじゃないじゃないですか。
すでにその時嫌な気持ちになってるじゃないですか。
この気持ちを私たちは実はコンテナで何とかできるんですよ。
そして何とかすることには大きな意味があるんだけれども、
大きな意味は実感されるんだけれども、私たちはそれをしたがらないために人と距離を置くだけでなく、
この気持ちまで投げ出してしまう、投げ捨ててしまうんですね。
でもその気持ちが投げ出したからといってなくなるわけじゃないんで、結局これは非常に被害的に感じると。
だからこそここで議論が始まってしまう。
ここで議論が始まってしまうというのはコンテナの機能が閉廃しているということを象徴的に意味している気がしますね。
どうしてもセミナーやっててもそうなんですよ。ここで議論が始まっちゃうんですよ。
それは本当に上司が悪いんじゃないのかと。悪いのは上司なのかもしれない。
でも私が問題してるのは上司が良いか悪いかでは全くないんですよ。
コンテナの中に入ってしまったもうその気持ちを、この気持ちを作り出したのは本当は自分なのであって、
この気持ちを代謝していくのを従って自分であるべきなんですよ。
そこで我慢しなければならないのはなぜだっていうのは、我慢というのは現実に対してするものですよね。
気持ちに対してするものっていう話になってくると、気持ちがまるで外から押し付けられたみたいなんですよ。
気持ちを作ったのはあくまでも自分ですし、この気持ちを処理できたり、処理っていうべきではないな、消化したりすることもできるのは自分なんですよ。
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そしてそれをできるようになるというか、この力を強めるというのは悪いことは決して起きないんだけれども、
今の時代はそうは思われてないってことだし、私自身もなかなかそこを信じきれるところまでは、
強めるということが何ら肯定的に語られなくなっていますからねっていうことですね。
で、私たちは実はもう一つの手段を取る。
これは特に私が知る限りは、この戦略は男性が取る。理由は今のところ不明。
女性も取るんだけれども、女性はこの戦略に男ほどは今までのところは邁進しない。
邁進する方もいらっしゃいますけど。
3つ目の戦略は事故ごと捨てるってことですね。
これは本来ですと統合失調症的な話につながるんだけど、そこまでは行かないんですね。
いわゆる分裂型パーソナリティ障害みたいな、あるいは分裂消失って言ったかな。
分裂消失人格障害みたいに昔言われてたと思うんですけど、
要するにジゾイドのパーソナリティ障害の戦略を抑鬱不安を防衛するために、
非常に専門的に今言っちゃいましたけど、使うということです。
事故そのものを排出するのと、感情だけを外に出すのはだいぶ違うんですね。
もうそういうのを感じる自分というものを捨ててしまいましょうっていうやり方なんですよ。
私はこれをやるのが、それがつまり統合失調症とかそういうやつじゃんっていうスキゾイドとかジゾイドとか、
要するに自分を分裂して、分割して、弱い事故とか悪い事故を捨ててしまおうというわけですよね。
つまり良い自分を悪い自分に分けて、悪い自分を捨ててしまう。
そうすればそんな欲打つとか考える理由はなくなるんだよっていう、極端に言うと死ぬ自分を捨てちゃうわけですよ。
そうすると不死の自分がそこに現れる。
これは完全に万能空想ですけれども、不死の自分だけ残る。
いや俺不死身だからみたいな。
そういうそこまで行くと現実見当を捨てるしかなくなるんで、非常に精神病水準に入っていくんだけど、そこまでは行かない。
そういう絶対避けられないやつはしょうがないとして、避けられそうな自分の分をどんどんどんどん分割排除していくというやり方があるんですね。
そういうやり方で欲打つ不安に持ちこたえるのを避けるわけです。
つまり嫌な目にあう自分というものを認めない。
嫌な気持ちになったのを認めないのがさっきの自己愛型なんですけど、嫌な気持ちになる自分そのものを捨ててしまう。
そういう人の外から見た特徴っていうのはすっごく顔なしっぽく見えるわけですね。
ものすごく平板な、私自身がまさにそういう戦略を取っていた時代が長かったので、なかなかこの雰囲気が抜けないんですけれども。
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そうなるんですよ。自分平気だからみたいな。何が起きても平気だからみたいな。
それはなぜかというと平気じゃない自分を捨ててきたから、その時に感情が平板になっていくわけですよ。
残念ながらその器用にダメな自分の部分だけきっちり綺麗に捨てて残すっていうのはなかなかそれをやっているちょっとある意味怖い感じの人もいらっしゃるんですけれども、
とにかくこれをやると平板になっていく。自己愛型の人というのは感情の起伏はそこそこはっきり見えるので、もっと普通に見えるんですよ。
結局嫌な目にあうのは嫌だよねってことなんで、自己愛型の人っていうのは。それが徹底しているだけなんで、共感はしやすいわけですよね、そういう人に。
この嫌な目にあう私はいないよねって人は、もっと極端なある意味戦略を取ってるんで、パッと見普通の人とは少し違う感じがして、
ある意味共感もしにくいというか、そもそもその人に感情の起伏が見えにくくなります。
良いことも悪いこともその人には起きないみたいな感じになっていくんで、理人っぽさというものが多分そこには現れるんじゃないかなっていう感じが、私自身の経験でも少ししますね。
で、私はこれと恐怖症を見間違えるぐらいまで、細かく細かく分割排除を繰り返すっていう戦略を取っていらっしゃる方が、現代では割と少なくない感じがするんですよ。
つまり、嫌な目にあう自分を極力排除する。これ実際どうやると思うかというと、例えばですが、多大な方法でタスク管理するみたいな感じ。
ものすごい徹底した、つまり僕が昔やってたようなものです。どういうことなのか、失敗する自分を現実に登場させないってことですよね。
これはダメな自分の分割排除とやってることは何ら変わらないわけです。
つまり、脅迫症の場合はどっちかというと、まずいことが起きそうだって不安になって、もう一回ガスコーンを見に行こう、まずいことが起きそうだからもう一回車の鍵見に行こうみたいな、こういうのが脅迫的になっていくんだけど、
ある意味それとよく似てくる。脅迫っていうのは欲打ちとか自己愛みたいなものとはスキドイドみたいなものとはやっぱり切り離せないんじゃないかなと思うんですよね。
ここを脅迫と分割排除をちゃんと見分けるっていうことよりもですね、
私はこの戦略を取っていらっしゃる男性がしばしば3カ月チャレンジに登場された時に、今一番重要なポイントだと思うし、考えさせられるポイントだと思うんですよね。
そのまんまの臨床例みたいなのが滅多に見かけないんですよ。そもそもまず全然適応的に問題がないんですね、この種の人たちは。
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だからそもそも3カ月チャレンジとかタスクカフェですらいらっしゃる。ただし、むしろ私は臨床に現れにくいケースなのかもしれないと思いますので。
篤さん書いてるのはさすがなんですけども、僕がさすがっていうのは言うだけでも良くないかもしれませんけど、とにかくすごいなって思うんですけども、
やっぱりこれを僕はさらにマイルドに見えるように緻密に行われているケースの方が、もしお困りになった場合には、多分そういう一つの相談事として今後登場されるであろうというふうに踏んでるんですよ。
一見したところというか、そもそも適応的な問題がない。で、本人にとっても全くなければ、そもそもノラカウンセラーだろうと正規だろうと行くはずないと思うんですね。だから順調に行ってるときは申し分ない可能性があります。
人からはもしかすると、いつも見ていても嬉しそうでも悲しそうでもないでぐらいのことは言われるかもしれませんけれども、そんなもんなんですよ。適応的には何も問題はない。
つまり、嫌な目にある自分というものがそもそも登場しないので、さっきの自己愛の人みたいに嫌な気持ちを押し付けられた場合、その気持ちを外に押し出そうか。
あわりに私は被害に遭っているんだけど私が悪いんですみたいな、そういうのとは態度としては全然違うということですね。
そういう行動そのものを取らない。嫌な人にはそもそも合わないような人生設計を立てていく。
そういうふうにしていくことで、自分の悪い部分、悪い事故というものを分けて、そこを細かく小さく排除する。
だけれども小さかろうと大きかろうと事故を分割排除すれば必ず隙沿いの的な方向に自分を少し進めることになりますから、まず一つには非常に虚しくなります。
そして何よりも欲打つの純粋系みたいな感じなんですけど、心の中に決して消せない不安だけがずっと残るわけです。
普通不安というものはいろんなものと混ざり合ってくるわけですよね。だっていろんなことが起きるから。
だけどその不事故を分割排除する人の人生にいろんなことは起きなくなっていくわけですよ。
現代のその自己愛、大肯定の時代とあいまってですね、嫌なことというものが起きにくいように起きにくいようにどんどんどんどんプログラムされていくので、実人生というものが嫌なことというものの縁のない人生にだんだんなっていくわけです。
代わりに感情を揺さぶるようなことも一切起きにくくなっていくので、一つには非常に虚しくなっていく。
つまり生きている実感が非常に湧きにくくなっていく。
そしてさっきの自己愛的なものは残っているので、結局すべて悪いことは外から押し付けられるという点で、この種の心理状態というのかな、心の構えとしては同じなので、すべて悪いことは外から自分のコンテナの中に押し付けられていく。
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そういうことが起きたら、情報を紙に書いておいて、このようなことを起こした人間はブラックリストに載せ、今後こういう人間とは関わらない。
このような出来事を引き起こしそうな機械とかはブラックリストに載せておいて、今後そういうものは触らない。
このボタンは触らないみたいな感じで、自分を少しずつ少しずつ確実に分割排除していくわけです。
感情だけを出すのではなく、その感情を持ってしまった自分のある部分というもの、ある時のある状況の自分というものを捨てていく。
そうすることによって非常に純粋に良い事故が残っていき、しかもその良い事故はしかしというべきですね、純粋な不安を抱えているわけです。
例えば何か悪いことが起きるかもしれないという純粋な不安とか、そこにはもうどんな悪いこととかはないわけですよね。
何か悪いことなのです。あるいはやっぱり病気とか老いとかは避けられないので、老いることへの純粋な不安みたいなものがコンテナの中に残っていく。
心のコンテナを嫌なこととか嫌な気持ちを抱え込んで、あるいは嫌な自分を抱え込んで、それを持ちこたえて代謝していき統合するという力は、
ここのコンテナの中では全く育ちませんので、だってないんだからそんなものは、育ちませんので、この嫌な不安というものを抱えたまま、しかもあまり強くない、自分を排除してきてますからね。
コンテナのその分欠損があるわけですよ。どちらかというと脆いコンテナというものが、純粋な不安を抱えながらずっと人生を進めていかなければならず、
その後で悲哀は増えるので、喪失も増えますから、憎しんも友人も自分の健康も失うものというものはどうしたってありますから、失わずに済むという人生はないので、
どちらかというと欠損があるというコンテナのままで、純度の高い不安を抱えたまま生きなければならないという、そういう難しさというものがここにあるんですよね。
これが私は今のところは男性によく見るという、なぜなのか、今後女性も既にいらっしゃると思うし、今後女性も増えていくだろうなと思うんだけれども、
どちらかというとやっぱり女性の場合、理由は今のところ不明ながら、自己愛被害型の欲打つ不安というものの方が見る機会は多いですね。
どっちかというと、どうしてなのかはわからない。女性は自己よりは感情を排出したいのかどうなのかってことなんですよ、これは。
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ただ、これに多分男女差というようなものは大してないような気がします。
ちなみに、これは疫学で私は興味があまりないんですけど、自己愛型パーソナリティ障害というような男性の方が女性の2倍ほど多いとされています。
有病率が一生の中で1回は現れる比率でいうと、女性が5%ぐらい、男性は8%ぐらいだったような適当な数字かもしれないので、
後で気になる方は自己愛男女比ってやってみれば出ると思いますね。
ただ、このパーセントの比率と今私が言ったことの間の関連性はほぼ何もないので、あんまり意味がある知識ではないです。
何となく頭に思い浮かんだというだけですね。
いずれあったとしても、欲打つ不安を防衛する戦略の問題なんで、男女どっちであるかは大して意味が全くないので、
この戦略は適応的であるというのがまず目立たない理由ですね。
社会に適応、基本的にミスしないとか、無駄がないとかそういうふうに現れるので、
ただしこれにもかかわらずミスが絶えないとか、これにもかかわらず結構無駄なことをしているって場合、適応度はうんと低く見えるという現実がありますので、
その場合はむしろご本人が悩む可能性は非常にここで自罰的になり、ますます自己を分割排除したくなって、
よく臨床の世界で自己が痩せ細るって言い方するんですよ。
でもこれはその人が痩せてるってこととは何の関係もないので、一般的にあまり分かりやすい表現ではありません。
自我が痩せ細るというふうによく読むことはありますが、それはこれを大筋を表していますね。
とにかく生きている実感が乏しくなるみたいな感じ。
例えば何かを食べてそれでお腹下したと。
これは悪いことが起きて、それに持ちこたえなければならない悪いことだから、それも排除する。
つまりそれを食べる自分をなくす。
極端に言うとそれを食べたいと思う自分を排除して、分離して、スプリットオフして捨てていくっていう感じ、こういう感じなんですよ。
だから欲求というものも、欲求否定されますよね。
食べたいものを食べないわけですから。
そういうふうに自分をものすごく強烈にコントロールしたがるっていう意味では脅迫的にも見えるわけですが、
私は最近、これを単に脅迫というよりは、今言ったような欲打不安の防衛のために事故を分割排除するっていう、それを脅迫というのかもしれませんけれども、
この長々としたダラダラとして、専門的で分かりにくい説明をむしろ選択して意識するように努めるようにしています。
これって結局何の話が全部覆っているかというと、全部欲打不安なんですよ。
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私たちの時代のやっぱり一つの最大の特徴の一つだと思います。
なぜならまず好物大があんなに流行っている。
好物大は多分うつ病の人だけではなく、重度と見える欲打不安の人にもみんな投与されている気がします。
そうなってくると、その業界というものがやっぱりかきつくので、私たちは欲打というものに対して非常に目が利くようになっていきますよね。
さっきのしかも自己愛の傷つきみたいなのと、被害感、そして事故の分割排除における脅迫というのをセットにして組み合わせてみると、
驚くぐらい、こういうとまた怒られるかもしれないんですけど、発達障害の特徴と非常によく似たものが見えてくるんですよ。
傷つくことに非常に敏感である。
もちろん僕らはみんな敏感なんですけど、傷つくことに敏感であり、実績というものが非常に苦手である。
コミュニケーション障害っぽさが持っているとか、これはさっき言ったように平板に見える環境、感情状態ですよね。
ただし、被害感を強く持っているのか、それとも平板に見えるのかは人によるじゃないですか。
だから発達障害のスペクトラムという表現になってくると思うんですよ。
しばしばそのミスによって抑鬱的になるというのは、この話はそもそも抑鬱の話だと捉えれば別に不思議はないわけですよね。
そして失敗とかそういうものをすごく忘れ物とかで多いって言ってるんですけど、そうではなくすごく気にしているって感じがするんですよね。
気になるのはやっぱり脅迫なんですよね。
手を洗うのがやめられないのは汚れが気になるわけじゃないですか。
でもそういうのとちょっと違うんですよね。
そして多動である。ADHDの場合とかハイパラクティブの場合多動なんですけど、この多動というのはつまり行動がすごく多くなるってことですよね。
これもそうなりますよね。
事故を分割排除するためにはいっぱい行動的なことをやらなきゃならないわけです。
自分の体に良いものを取り込むとか、自分の体に悪いものを排除するとか、いろいろ情報を調べなければならないし、いろんなことをしなければならない。
そもそもパーソナリティ障害が行動の病と言われているのは、行動で心の苦しみを何とかしようとしすぎるという意味だと思うので、
だからこれが我々の時代を覆っていくっていうのは、今言ったような理由で、
突き詰めて言うと何かっていうと、苦痛というものに持ちこたえる気がそもそもあまりなく、
社会もそうしなくていいよというか、そうしない方がいいよという方を推奨してきているので、
そしてその技術がとてつもなく発達しつつあるので、我々はそういうものを育てられないとしても別に不思議なことはないですよねっていう話ですね。
でもやっぱりこれをどこかで多少とも育てていくよりほか、現実に抑鬱ポジションの現実で、
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二次過程の上で現実を生きていくならば、やるしかないところはありますよねっていうお話かな、今日は。
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