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おはようございます、グッドモーニングワイプスです。
寒暖差が激しいんですが、こういう時こそグッドワイプスかなと思いつつ、
割と今年は自分にしちゃこの寒暖差にも全然崩れずにいるなと。
この持つっていう発想自体があんまりグッドワイプス的ではありませんが、
まあまあでも様々な要因がありますので、
毎年毎年絶対に寒暖差で体調を壊してたわけじゃないですし、
なるべく見ないっていうのは一定の効力を発揮するなというふうに、
ひどく色々見ていた過去のことを考えるとそういうふうに思いますね。
最近実験的に一生懸命練習してるんですが、
もちろん告知の意味合いもあります。
もう一つはですね、ノートに書くとかブログに書くっていうのは
ずっと考えてきて、ずっとやってきてるわけですね。
僕は今までずっとそっちだったから、
普通に考えると今回もそっちなんだけど、
それによって結果が変わったことはかつてなかったじゃないですか。
そうではないかと思いまして、
練習に意味があると思っているというよりは、
もう流れでやってみようと、
決断してやってるとかでは全然なくてですね、
どっちかを始めようと思ってたら練習を始めちゃったんですよね。
あんまり全く関係ないんですが、
ちょうどその頃にナイターが始まるんですよ、プロ野球の。
結構今ロッテが、千葉ロッテがですね、
50年ぶりにマジックをつけて、マジックが50年ぶりですからね。
つまりどういうことかというと、
僕は生まれて初めてロッテにマジックがついたのを見たという、
こういうことになるわけですね。
残り6試合でマジック6なんで、全然やばいんですが、
ついてるだけでもOKなわけですよ。
私いくつからのロッテファンなんだろう?
多分9歳か10歳からなんで、
かれこれ30年、40年近くロッテファンなんですね。
その間、マジックがそもそもついたのを見たことがないという、
クライマックスシリーズの独特のシステムのおかげで、
日本一になったことはあるんですが、
パリーグ1位はないんですよね、これが。
そういうわけで、どういうわけか分かりませんが、
つまりナイターが始まると、
気もそぞろになるわけですよ。
仕事にならなくなってくる。
だけどツイートならできるっていうことなんですよね。
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今のところは、残り6試合しかないんで、
ロッテ戦とかは。
私野球好きだから、どこが出ようと、
クライマックスは出ますし、
どこが出ようと全部結局見るんですが、
そうは言っても、そう先はないんですけど、
しばらくはノートのことはまだ念頭に置きつつ、
ツイートを狂ったようにやっていきたいなっていうのが、
でもあんまり狂ったようにはできてないんですけど、
まあまあ思いました。
思ってます。
でもこれは、その時その時の衝動に任せてるんで、
あんまりシステマティックじゃないです。
もう僕は何かをシステマティックにやるのは、
無理だなって思います。
本を書くのも衝動なんですよ。
これ、ツイなんですよね。
衝動っていうことではないのかもしれないんですけど、
ノープランで何かをするという風になって以来、
私の行動の記録はあんまり変わってないんですよね。
タスクシュートを見るくらい。
ただ私の行動のモチベーションは、
全部衝動的なものに切り替わりつつあって、
こういう風に慣れるんだなっていうのは、
グッドバイブスの恩恵というのか、
結果なのか。
これ、衝動というのとも違う感じがするんですが、
今までやっていた感じ、
今までのほうが意志力みたいな感じがむしろあったんですよ。
今はあんまりないんですよね。
モチベーションが高いという意味で言えば、
今のほうが間違いなく高いんですけれども、
モチベーションと意志力ってのは同じじゃないですか。
モチベーションと意志力ってのは同じじゃないんですよね。
やる気っていう言い方もできますが、
それも別に嘘なわけじゃないんですけど、
この辺でもあんまり厳密じゃないじゃないですか。
意志力、モチベーション、やる気、衝動、意志。
適当だと思うんですよ、結構。
なんとなく時間のスパンが違うという程度であって。
ある意味、これも絶対正しくないと思うんですけど、
本能でやってるみたいな感じもあるんですね。
でもここになってきたら、
あんまり言葉についてとやかく考えてもしょうがないなと。
いくつか確実に言えることは、計画を立ててはやっておらず、
やめたいものは即座にやめてしまおうと思っていて、
人から頼まれたことは何でもしようと思っていて、
差し出る抵抗がなければ何でもできるということなんですね。
以上で終わりって感じがします。
これについて人に説明するのは難しいんですよ、やっぱり。
グッドバイオス的に罪悪感を手放すでいいんですが、
そこに間違いは何もないんですけれども、
誰の罪悪感をどう持ってるのかって、
なかなか分かりにくいというところもあると思うんですよね。
最初に見えてくるのは、多分何かをしようとした時に、
06:01
それちゃうとか、脱線ですよね、それちゃう。
あるいは抵抗が生じる、このどちらかが発生した時に、
罪悪感でもいいですし、不吉な予感みたいなやつがあるんだろうと思うんですよ。
この不吉な予感も言葉が重いんですよね。
不吉な予感だと僕は思うんだけど、
たぶん、つまり私の心に生じているものなら分かりますが、
他の人の心に生じていることが厳密に分かるわけではないんで、
たぶんなんですよ。
それるということは、何かをしようとしてそこからそれちゃうということは、
つまりそこに向かいたくないわけじゃないですか。
2つあると思うんですよね、簡単に見つかりやすいものとして。
1つは時間を失うという不安。
もう1つが、この仕事をすることで何か嫌な目に遭うんじゃないかという不安。
だいたいその2つも混ざっていて、もにょーんとしていると思うんですよね。
そこに行きたくないからそれるという話で、
だから倉園さんがよく、意味づけを手放しましょう、
イリュージョンをやめましょう、罪悪感を手放しましょうというわけですよ。
その3つがないのに、そんなにもにょーんとするはずがないということなんですね。
もにょーんとしなければ、これといったモチベーションがなくたって、
それはできますよということだと。
端的に言うとこういうことなんですよ。
あとは自分で隠している、これ程度の問題じゃないんだけど程度の問題なんですよね。
つまり精神分析とかで深くやっていくのは結局あれ深く感じるんだけど、
これも厳密に水の深さみたいに測れるわけじゃないんで、
いわゆるグッドファイブズでいうところの程度の問題じゃない問題があるわけですよ。
浅いも深いもないということなんですけれども、
でも深くやるというのは、つまりその人が必死になっている程度なんですよ。
必死になって自分の罪悪感を隠しているほど見つかりにくいのは当然で、
だって必死になって隠しているわけですから、
あんまり必死になっていない人はこれを取り除くのも簡単でということなんですね。
そういうことはあるにせよ、究極的な程度の問題ではない。
なぜかというと隠しているところは物理的な場所じゃないから、
深く隠していようと浅く隠していようと結局同じこととも言えなくはないわけです。
現実には深さがないですからね。
ただ、自分の自覚の程度ですよね。
あんまり自覚できていなければいないほど自体はややこしいということは言える。
なぜかというとそれに気づくのに一定以上の努力を要するしかないですから、
つまり忘れようと全力で頑張っているものを思い出さないといけないわけですからね。
昨日の連追でご指摘いただいたことは、
非常にああいうツイートだと当然そういうふうに考えられてしまうのは無理からぬことだというのが一つありまして、
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つまり私の恐怖感というのはナルシシズムをそこで持ち出す話じゃなくて、
昨日私ナルシシズムの話を結構書いたんですけど、
つまりこれは告知をやっているというよりは、
フォトキャストのツイートでもやってみているみたいな内容になっちゃっているわけですよ。
果たして私は告知がしたいのかというと、
告知はしたいんですけれど、
だんだんそうじゃなくなっちゃうということはあるんですね。
昨日は繋いでおこうか、一応一昨日は繋いでおいたんですよね。
でも昨日は繋いでおくかどうか迷ったんですよ。
ポツポツポツポツってやっているのは、
つまりこれはもはや告知の流れになっていないなという時には、
ただツイートしている。
でもこれは多分、告知をするという意味ではきっちり繋いでおくべきなんですよね。
その辺も微妙な自分の気持ちがそのまま反映されているということになっています。
そういうことですね。
面倒くさくてもおってねというのは全然マーケット的に正しくないと思うんですけど、
でもなんとなく自分はこういうやり方をしちゃうんだよなというのは昔からあります。
よくある意味、出版社さんは僕に本を書かせてくれますよね。
大変ありがたいことだと思います。
つまり昨日言っていたのは社交不安障害というのか、
昔あれなんとなく対人不安障害だったような気がするやつだと思うんだけど、
どっちにしてもよく似ているものでした。
定義的には。
よく似ていると言っても微妙な違いが大事なんだと言われるとそうなんだろうなと思うんですけど、
DSMの定義というのは改訂版の度に変わるのであまり細かく大きにはならないというところもあります。
何よりもまず私は社交不安障害なのかもしれないぐらいな感じなんですよね。
このなのかもしれないはいろんなものに入ってくるんですが、
ただ僕は人と会って喋る、人前で喋る、赤面も一度もないぐらいあんまりない。
全く違いとは言いませんけど、人に恥ずかしい思いをして顔が赤くなることはあんまりないし、
そのことで困ったり悩んだりした記憶もない。
対人恐怖症みたいなのは一切ない。
子供の頃から人見知りで困ったことはあんまりなくて、
むしろ友達付き合いも活発で、友達もたくさんいたほうなんですよ。
やっぱり僕はジゾイドってのがあるっていうのはずっとあるんですよね。
理由は簡単でして、私ジゾイドっていいことだと思ってたんですよ。
障害って書かれてなんですけどね、分裂、消失、人格障害は決して悪いことじゃないと思ってたんですよ、本当に。
いいことだとどこか思ってた節があるんですよね。
今から10年以上前ですね、倉澤慶三さんと渋谷で別にカウンセリングとかしてたわけじゃないんですけど、
12:01
この種の話を相談した、多分先方は相談された感じはしないかもしれないんですけど、
僕は相談したような記憶が薄くあるんですよ。
あれが果たして震災の前だったか後だったか分からないんですけど、少なくともグッドファイブスよりはるか前です。
だから倉澤さんの口からグッドファイブスみたいな話は出るんですが、
体型だって今みたいにきっちりした形ではなかったんですね。
それがすごくある意味良かったんですよ。
なんていうんですかね、プレって大事なんですよね。
プレっぽいものを提供されていた時期がありまして、
既にタスクシュートとしてカチッと固まってはいたものの、
どちらかというとリアルタイムロギングメソッドを強化したようなツールだったもの。
原型みたいなものに触れていた時代がありまして、
やっぱりそういうものに触れるっていうのは良いことなんですよね。
今の方がはるかに洗練されているし、
タスクシュートクラウドとかタスクマとかはもう完成版の先にあるものですけれども、
確かにそれに越したことはないんですよ、使う側としては。
でも原型っていうのは良いものでして、
たしかにそれに越したことはないんですよ、使う側としては。
でも原型っていうのは良いものでして、
私はいつもこのことをよく思います。
この荒削りなものなんだけど、
そこには非常にありきたりな言い方になっちゃいますが、
本質的なものに触れられるっていうのかなと。
クライソンさんとお話ししたのは渋谷だったと思うんですけど、
私は非常に今思うと、
オリジナルのタスクシュートに関しては、
私は非常に今思うと、
ナルシズム的な話をしてたんですよ。
つまり私はアメリカ留学をした、
なぜかその時その理由を喋ってたんですが、
原則的にはマトリックスなわけですよ。
マトリックスといえばマトリックスなわけですが、
要するに私はVRをつけに行ったんだって話をしてたんですね。
自分の心理状態の中で、
最も自分にとって甲斐であるという状態を
永遠に維持するための装置に自分をつなぎたくて、
そういうことのためにアメリカに行ったんだけど、
ついにそれは見出せませんでしたって話を多分したんですよね。
クライソンさんはずっとなぜか聞いてくださってて、
そういうふうに情緒というようなものを封じ込める生き方というのは
とても辛いと思いますよねっていう話をされて、
非常に驚いたんですよね私は。
この通りだったかわからないですけど、
こういう趣旨だったと思うんですよ。
びっくりした記憶があります。
こういう感想は私がこの話をすること自体が
稀でしたけど、留学の目的として。
グランホーク的にみたいな感じですよね。
私も多分そんなものがアメリカで手に入るとは思ってなかったんですよ結局。
15:02
だってそういうものがアメリカで売ってるって話聞いたことなかったし、
多分そんなのはないんだろうと思いつつも、
何でも実験して最先端としたらあの国しかないから
行ってみて探してみてなかったということだったんですけど、
その感想としてこの情緒を封じ込めるとか、
情緒を封じ込めるという感じだったかな。
抑圧してしまい、抑圧し去るというのは
なんて言うんですかね、心理的には大変負担が大きいという話を
私は聞いたことがありますよ、そういう内容は。
でもこの文脈からそれが出てくるというのに驚いて、
非常にイライですね、気をつけるようになったんですよね。
この話はいずれフラゾのさんにどういう話なのかの続きを
またしようと思っていたら地震が来て全然違う方向に
全てが向かっていって、そのままうやむやになって
10年が経過するという展開を見るんですけれども、
その時に私はその言葉をよく覚えているんですよ。
これといってアドバイスであったというわけじゃないんですよね、
これは感想なんですよ。
しかも僕はその時にそんなにすごいアドバイスとか
すごい方針とかを示唆されているわけでもないじゃないですか。
ある意味ポソッとした感想なんですよ。
でも私はこれが忘れられなくてですね、
イライ、少し気をつけるようになったということがあったんですね。
イライ方針を転換したとは到底言えないんですけど、
相変わらず地沿いとかまっしぐらな方針に向かっていましたが、
ある種の人と距離を取るとか、
人を完全に退けるとか、結局こういうことですからね。
自分が生きていけるいわゆる生理的必要性を満たした上で、
あとは自分にとって肉体的、生理的、精神的、
それからもちろん性的な満足を確実に確保できる機会を
自分の周りに置くことで、
なるべくリアルな生身の世界と接触せずに生きていける
という生活スタイルを確立するためにアメリカに行ったんだと。
まさにそうなんですよ。お金もあまりかからなさそうですしね。
ルサンチマンというコミックがあるんですけどね。
ああいうことですよ、ある意味では。
あそこまでは求めない。
あんなに規模のでかいものを求めるということになると、
たぶん生きている間には到底実現しそうにない上に
金も結構かかりそうなんで、あそこまでは求めませんが、
要は家族はなくていいということですね。
もう一つ言うと、うちにはメダカいますが、
18:00
ペットもいなくていいってことです。
つまり生きているものは、
私の周りの空間には私だけで結構だということですよ。
これがどうして情緒を抑制するということになるんだろう
というふうになるんですが、
そこにスパッと来たというのが非常にまず驚きで、
もう一つは全くこれを言われて不愉快な感じはしなかったんですよ。
これたぶん言われる人によっては、
そして言い方によっては、
ものすごい傷つく内容なんですよ、
のを含んでいるはずなんですね。
でもそういう感じがしなかったので、
非常に驚いたんですよね。
これが私のグッドバイブス体験の一番原型にあるものだと
ずっと思っていました。
まさかそうだからと言って、
9年後にグッドバイブスのような本が出てくるとは
全く思いませんでしたけど、当時は。
こういうことがこのライフハッカーというか、
ガジェットマッシグラな感じの方から出てくるんだな
というのにまず驚いたというのもあったし、
どうしてこれで情緒を抑制しているということが
そこまではっきりするのか、
違うな、やっぱりその厳しさみたいなものに
言及が入るということには、
私もこれは厳しさがあるんだということは
内々感じていたんですよ。
でも内々ですからね、自分の中でも。
要するに人間関係の面倒臭さとか、
いざくざというものを一切排除したいというのは、
それだけの理由があるわけですよね。
ただ私は何度もこの番組でも言っていますが、
親も別に私を虐待したというわけじゃなくて、
視点によっては、観点によっては、
その育て方はよくありませんよというぐらいのことは
言えるかもしれませんが、
私は常識の範囲内だと思うんですよね、
うちの親との関係というのは。
グッドイナフだと思うんですよ。
グッドイナフの範囲があまりにも広く、
グッドイナフじゃない親って何なんだって話になりますが、
でもやっぱり、
自分の中でも、
自分の中でも、
自分の中でもグッドイナフの親って何なんだって話になりますが、
でもやっぱり、
あると思うんですよ、
限度というものがですね。
明らかにその限度には全然程遠い親ですし、
要するにありきたりな育て方をしているようなところなわけですよね。
かつ私の人生経験も、反省経験も、
それまでの、当時で言うと38か40前ぐらいですよね。
その頃までそれほどひどい目に遭ってきたというわけではない。
PTSDになるようなことは、
一番それに近いことがあるとすれば、
あの直後に起きた渋谷で体験したあの地震ですよね。
たまたま救済にいたから渋谷の、
結構すごく恐怖感はあったけれども、
PTSDになるほどかって言われると、
やっぱりそういうことではなかった。
21:01
それまでに考えていたことですからね。
その前に考えていたことです。
私が人を避けたいという意味ではないんですよね。
やっぱりグラソノさんの指摘したことは、
すごくまとおいていて、それが全てじゃないんだけど、
情緒を避けていたんですよね、私は。
自分の情緒的な扱いというものを、
非常に扱いかねていたと言いますか、
今でもある意味そうです。
問題になってくるのは、この情緒が動いた時に、
私は物事を課題として処理する癖が強いので、
合理化ということなんですよね。
合理化してしまうので、
合理化されきらないものが自分の中に生まれると、
扱いかねる。
だから私は、快ということにこだわっていたわけですよ。
身体的快と、知的快ということ。
快感の快ですね。
心良いということです。
この心良いという言葉の、
軽さ。
これが大事だったわけですよね。
心良いという言葉は、軽いと思うんですよ。
幸せというのとは違うと思うんですね。
私は幸せというものにあんまり興味がなかったというか、
そこが封じ込めていたわけですよ。
快であることを目指すみたいなのが強烈にあって、
そのためには結構妥協は一切しないみたいな。
クラゾンさんがグッドバイオスで以前、
幸せヘチっておっしゃっていたんですけど、
私は快ヘチだったんですね。
快楽でもまたちょっとないんですよね。
別段快楽に向かいたいというのではなかった。
快適っていうことだったんですよ。
それがすごくライフハック的でもあると思うんですね。
そしてやっぱり、地沿いの敵だと思うんですよ。
私、よく核戦争後の地球みたいなのをよく見ていて、
でもこういうところで、
一人きりでちょうど良い質を、
ちょうど良いなんとか、
そういうのは無理ですけどね、
みたいなところでいるということが、
私にとっては苦じゃないんじゃないんだろうかって思う時が
よくあったんですね。
苦に決まってるんですが、
苦じゃないんじゃないかって思ってた時が結構あったんですよ。
これほど孤独になりたいということを
強く念頭に置くというのは、
自分自身が自分自身が自分自身が
自分自身が自分自身が
孤独になりたいということを
強く念頭に置くというのは、
やっぱり僕の体験の中に
親衆ということがあったと思うんですよね。
親衆に対する警戒。
母はそれほど私に対して
親衆的だったんだろうかっていうことを
考えてしまうんですけど、
やっぱり私は情緒に抑制って言われた時に、
当時から心理学だったから、
心理学を勉強した後だったから、
やっぱり倉園さんが示唆したのは
母親っていう意味なんだろうかっていうのは
よくよく考えました。
そうじゃなかったのかもしれませんけどね。
内的な母親っていうのは
やっぱりすごく考えましたね、その後も。
当時からの一つの
薄々感じさせられてきていた
非常に強い感覚だったんですけどね。
24:02
課題といえば課題でした。
私は今の奥さんも結構動眼ですし、
そういう傾向が、
異性関係でもそういう傾向が
強い人間だと思ってたんですけれども、
母親っていうのを示唆されると
悩むんですよ。
母親っていうのはどう考えたって
年上ですからね。
この問題がずっと
尾を引いている感じで今もあって、
グッドワイブズで結局
フランスさんに商談したのも
対人関係なんですよね。
対人関係で特に身近な、
ここなんですよね。
社交不安障害に比べて
私が問題になっているのは
常に近い人であるということ。
例えば父親とかも多少そうだし、
妹とかもやっぱりそうだし、
近いんですよ。
遠くはない。
対人不安というと、
関係ない人にも席面してるじゃないですか。
僕はそういうところは全然なくて、
やっぱり近い。
近い人、
特に二者関係に入った時が
疑問だっていうのは
もうずっとあるんですよね。
二者関係は本当に僕にとっては
疑問なんですよ。
メールが来た時も意識の中で
二者になってしまった時が
危険なサインがなるんですね。
三者以上いる、
少なくともメールが来たという時、
ツイッターでDMが来たという時に
背景がバッと消えて、
周りが真っ暗になった感じになって、
二人だけになってしまい、
その相手が怒ってるっていう
そういう感覚を抱いた時が
一番僕にとって
証拠を取り戻さなければいけない
って思うんですよね。
グッドバイブスで大きな違いを生んだのは、
この二者関係みたいな
イリュージョンを見た時に
二者ではないっていう意識を
持てるようになった。
そこにグッドバイブスがあると。
これは非常にエディプスコンプレックス的
ですけども、
と言っただけじゃ
ちょっと説明になってませんが、
三点目があるっていうのは、
第三の視点があるっていうのが
非常に重要なことで、
こういう時が僕にとって
二者になってしまったら、
恐怖以外の何者でもなくなりかねない
わけですよ。
世界に二人しかいなくて、
相手が自分を攻撃しようとしていると、
それが全てであるっていう状態ほど、
僕にとって嫌なものがない
という感じがあったんですね。
でもこれは幻想なんですよ。
間違いなく。
二者になってないわけですからね。
だから家の中で奥さんとやり合うとかが
私は非常に苦しいわけですよ。
本当に二者になってしまっているような
感じに包まれるから。
娘が帰ってくると、
今でもホッとするところがあるので、
ここがまだ私にとっての
グッドバイブスの一つの
ハードルなんだよなと思うんですよ。
娘が帰ってくると、
特に緊張しているとか、
喧嘩しているとかはないんですよ。
ただ娘が帰ってくるとホッとする。
27:00
これは自然と得られますからね。
人間として。
目の中じゃ無理なんで。
だからこういう時に私は
まだこの感覚が抜けないんだ
ということを痛感させられるんですよね。
仲良くやっていてもこうなのかと。
この三点目が入ってきて
ホッとするというのは
本当に我ながら
無用な緊張を自分に敷いているといいますか、
そういうのがあるわけですね。
もう散々パラしゃべっちゃうんですけど、
何がどうナルシシズムなのかというと、
つまり僕は
ナルキストスが自分に惚れ込んで
井戸の中で自殺するというのか
あれは自己死なのか分かりませんが
死んじゃうというのは
他者がいないんですね。
他者がいない世界というのは
環境にすっかり依存しきっているにもかかわらず
その環境に対して
何と言うんですかね。
他者性は認めていないと。
私がちょうどマトリックスというか
アメリカで望んだ通りのことが
実はナルシシズムという形で説明されている。
私がナルシシスティックな人格を持っているとか
持っていると思うんだけど
持っているとかいうことよりも何よりも
この世界観
この自分が望んだ通りの
自分が完全にコントロールしきれる
世界に包まれておきたいという
発想そのものが
つまりナルシシスティックな病理
ってやつなんだろうなと
この外側があるよっていう話を
たぶんある意味
精神分析とかってするわけですよ。
この外側があるよっていう話なんですよね。
つまり本当のことは分からないよ
というのもそういうことですよね。
外部がありますよと。
私は外部欲しくないですって言ったわけですよ。
言ってしまえばね。
外部はいらないんですっていう
そういうことだったわけですよね。
なぜなら外部があると
何が起こるか分かったもんじゃないから。
子宮回避願望とかって言うじゃないですか。
そういうことにも近い。
子宮ですからね。マトリックスと。
つまりそういうふうになっていくんですよ。
全てがコントロールできる空間というものを作り
お金かけてライフハックやって
全てがコントロールできる空間というものを
作るということは
つまり全てが予測可能な世界に入るということだし
全てが予測可能だということは
全部自分だってことですよね。
そこに他人はいないということです。
昨日ちょっとつぶやきましたけど
ツイッターで
ナルシシズムって物凄い寂しさを感じさせる
今では感じるんですよ。私は。
でも昔は感じなかったんですよ。あんまり。
ここで。
すごく僕はやっぱり
ジゾイド傾向が強まっていたので
全然感じなかったんですよ。
寂しいだなんて。あんまり。あんまりね。
30:01
全然ではない。あんまりですね。
世界に自分一人しかいないみたいな光景を思い浮かべても
寂しさ半分なんだけど
やっぱり快適だなっていう感じが
強くしたわけです。
でもそれは幻想なんですけどね。
あくまでも脳内で想像するから
そのレベルで済むのであって
本当に核戦争後の地球に生きているとかいうわけではないですから。
何よりもただ大事なポイントは
ナルシシズムの病理みたいな話では
必ず自分の再発見みたいな話があるんですよ。
つまり他者がいないっていうことは
自分も見失われつつあるわけです。
だって自他の別ってあるわけじゃないですか。
自分の領域が怪しくなっている。
HSPの話をするのでなぜこれが出てくるかというと
結局繊細さんの話よくありますよね。
他人が怒られても自分が怒られてる気がする。
自己境界が弱くなってきている感じがあるわけですよ。
でも自分ってのはよくよく考えてみると
身体なんですが客観的な身体で見えてくるけれども
自分の領域って決して身体と完全にイコールなんじゃないですよね。
自分を見失うとか
自分が発見されるという時に意識されているのは
結局自分ってのは自分に気づくってことですよね。
手塚治虫さんの漫画で
キリヒトさんかな。
自分が怪しげな人がいるんですよ。
その人が同僚がラーメンっていう食堂に行って
ラーメンって言うと
じゃあ俺もラーメンって言うんですよ。
自分がないって言われる人ってこうなんだけれども
その人は別に自分がないわけじゃないですよね。
ただ自分の願望とか
自分がその時食べたいものとかに
自覚が薄いっていうことですよね。
気づかないでいると
本当はカレーが食べたいということに気づかないとか
そういうことがいつも封じ込めているために
どうでもいいことになっちゃってるとか
そういう、だから自分という
自分っていうのは気づくってことだと思うんですよね。
そうすると自分にとって徹底的に快適な世界を出現させて
人をそこに入れないって形を徹底するとですね
自分に気づきにくくなるという結果が生じると思うんですよ。
そういう話がナルシズムを描いた精神分析の話では
非常によく出てくるんですね。
あとは迫害的に自分を見つけ出すことしかできなくなると
こういう人は私も身近でよく見かけるというか
身近にそういう人がいるんだけど
ナルシシズムの病理というよりも
その人が自分を見出す時はいつも被害に遭ってるというパターンですね。
33:00
何でもいいんですよ。何でもいい。
例えば最近で言うとスーパーに行くと
こんなに密を避けているのに
マスクもしない老人がすぐ近くまでやってくる。
わざわざみたいな。
このわざわざってところに自分が被害に遭っている
という感じがあるわけじゃないですか。
その時に強く他人と自分というものの領域を痛感するんですよね。
話を聞いているとこの種の形で
よく自分を発見されている人だ。
常にいつも自分というものは
何らかの被害に遭う形で発見されていく
そういう病理もあるわけですよね。
そういうのも全部そうなんだけども
発見しにくい状態に心理的にあるわけですよね。
自分というものが見えにくくなっていると。
ナルシシズムというのは要するに
成ろうことならば自他の領域は無しにしてしまいたいわけですよ。
マトリックスだから。
ただ成ろうことなら全て自他の領域なくかつ
全部解でまとめたい。
これが非常に現実には難しいので
私なんかはアメリカまでわざわざ行くためになって
しかも何も手に入らず帰ってくることになりましたし
どちらかというと結果としては
目指しているものは自他の領域なく解でありたいんだけど
結果としては自他の領域なく全部不快になって
いちいち自分を思い出すときは不愉快なことになるという
これが非常に進行すると多分
そうですね、相打つっぽくなるんだと思うんですけどね。