2021-02-03 34:51

【GMV 311】働かざる者食うべからず?

いいかげんに、プロテスタントの職業倫理みたいなものから自由になって良い時代のはず。
00:04
おはようございます、グッドモーニングバイブスです。
テイク2になってしまいました。
些細なことが多いんですけれども、
些細なことが積み重なるとこういうことになるんだなと。
多分まだ告知はされてないんですが、
近々されると思いますが、
3月6日にグッドバイブス勉強会の第2回が開催されます。
おかげさまでといいますか、
この番組の視聴者数が急増中なんですね。
多分、先日やったベックさんとの、
北信也さんとのYouTube番組が関係していると思うんですが、
アンカーで言うところの推定視聴者数、
なんかこの言葉からして信用ならない数字に思えてきましたが、
推定視聴者数は変化がほぼないにもかかわらず、
微増かな、なんですが、
再生回数だけが増えてきたので、
なんかあったんだなという気がいたします。
ありがたいことですね。
この話の中でですね、
とはいえ、ここが乗り越えられんという話があって、
それは全部決まってですね、
一つ意識と愛による選択なんですよ。
ここが受け入れられないんですね。
この番組の聞いている方の、
おそらく多くの方は、
僕のイリュージョンかもしれませんが、
多くとか言ったって一人一人を知らないんですから。
でも多分そういうところがあって、
そういうことから入るためにもですね、
一番いいのは、
倉園圭三さんのお話を直接聞くことなんですね。
なぜなら、倉園さんの本は、
一つ意識から始まっているんですよ。
グッドバイオスというものはですね、
ここが受け入れられがたいとか、
ここが乗り越えられないと、
けれどもグッドバイオスでいくっていうのは、
非常に難しいことなんですね。
あたかもそれはですね、
あんまりいい例が、
僕今脳内に浮かばないんですよね。
これでテイク2になってしまっている気がする。
あのー、
そうだなー、
なんでもいいんですよ。
例えばリビドが受け入れられないのに、
ドロイトの考えを取り入れてカウンセリングしようとかって、
そういう話は無理なんですね。
それと同じように、
愛による選択抜きで、
グッドバイオスをやるっていうわけには、
なかなかいかないんですけど、
その辺のことを今日はちょっと、
お話ししたいかなと思います。
昨日、おとといの話に、
やはり接続する格好になりますね。
こういうのがあっても、
まあでもいいんだろうなーと思ってはいます。
いきなり話、変えちゃうことも多いですが。
で、えっと、
恥って話が、
周知心って話をしたと思うんですけど、
えー、
倉園さんがそのぶっちゃけ相談の中で
03:01
言ったと思いますが、
えー、鏡の法則と。
で、鏡の法則に違いないんですね。
で、鏡の法則であるにもかかわらず、
私たちはですね、
それを自分にだけ適用するとか、
他人には適用しないとかいうことが、
可能だと思っているわけです。
なぜならば、
自分と他人は違うからということなんでしょうね。
同じような話として、
昨日ですね、何者にもなれない問題というのも、
並行して取り上げたつもりなんですね。
つまり、恥ずかしいということと、
ゲームに勝てないのはダメ人間だということは、
僕は同じ恐怖心だと思っているんですよ。
そして、その心理に苦しめられる原因も、
鏡の法則で説明がつくと。
そういう意味でも同じ構造だと思うんですね。
つまり、
そうですね、
人前でおならをしたら恥ずかしいじゃないですか。
これはコミュニティの考え方なんですよ。
で、コミュニティの考え方というのは、
ほとんどの場合ですね、
特に周知に絡む場合は決まってるんですよ。
自然の振る舞いはダメってことなんです。
これがフロイトが言ったことです。
リビドーが流れるということを、
極力人前で見せてはいけないと。
この点でね、ちょっとフロイトは、
1900年初期のウィーンにいたということを忘れてはいけないんですね。
その時のウィーンは、
まだシルクハット被ってステッキ付いているのが
紳士っていう世界なんですよ。
今とは全然違うんですね。
だから、
道徳的とかモラルに合ってるっていうことでもですね、
自然の感覚というものに対して非常に厳しいわけですよね。
疎走っていうのが要するに許されないということです。
許しがたいと思ってる人がとても多いということですね。
偽善的な道徳みたいなのがまかり通りやすい世界なんです。
そこにいたから、彼は特にリビドーが自然に流れるということを、
人がせき止めているということに敏感になったんだと思うんですね。
最初の患者さん、有名な人ですけど、
アンナ・オーっていうんだったっけかな、有名な人です。
この方がそれをよくよく物語ってます。
何しろ彼女は犬がコップで水を飲んでるのを見たせいで水も飲めなくなるんです。
意味がわからんと思われるかもしれませんが、
犬がコップで水を飲むということは、つまり癒やしいわけですよ。
つまり自然のものは癒やしいわけですよ。
だからそれと同じようなことをするのは恥ずかしくてできないんですよ。
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こういう欲しって言うんですけど、かかってしまう。
そういう自制が強くかかりすぎてしまって、自然な振る舞いが一個もできない。
これを羞恥心って言うわけじゃないですか。
これはやっぱり鏡の法則なんですよ。犬を見て恥ずかしい、癒やしいって思ったんですよ。
これをやったら自分も犬みたいになってしまうって思ったんですよ。
これが羞恥心ですね。
非常に極端な例だからわかりにくいんですけれども、
私たちの周知ってよくよく突き詰めてみると全部こういう風な構造だと思いますね。
人前で話すべきなのに黙ってしまって文字文字している。
恥ずかしいっていうことですよね。犬がコップで水を飲むようになってしまってもならないんですよ。
だから何ができるかというと、人前では話さない人になるしかないんですね。
こうしていろんな恥ずかしさというものから、恥ずかしい振る舞いというものから身を引いていかなければいけない。
要するに一番いいのはですね、見ても恥ずかしいと思わなければいいわけです。
つまりそれは内心で、内心でだと思うんですよね。
犬に向かって恥ずかしいじゃないかって言わないじゃないですか。内心でなんですよね、これは。
内心で非難しない。で、内心で非難しないということはできるけど一つ意識は理解しないとか、
内心で非難しないということはできるけど愛することはできないっていうのは、私は多分両立しにくいと思うんですね。
ここがグッドバイブスの一つなのかなと思ってます。
内心で全く非難しないということは、既に愛しているというようなことに近いと思うんですね。
同じなのかもしれないと思う。で、もうちょっと言うとですね、内心で非難しないということは、相手と自分は同じだというふうに思うってことだと思うんですよ。
相手と自分が違うんだけれども、内心では非難していませんと。
でも自分は同じようなことはしたくありませんっていうのが残るようだったら、多分これはですね、内心で攻撃しているのとほとんど同じになってしまうと思うんですね。
これはここが分かりにくいって話だったんで、もうちょっと言うんですけど、犬がコップで水を飲むと。
犬だからいいんだ、自分だったらやらないっていうのが普通の人の反応だと思うんですよ。
これでコップから水が飲めなくなるっていう人はいないと思うんですけど、少し引っかかると思うんですね。
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思い出せばなんですけど、少し引っかかると思うんですよ。自分が水飲むと犬みたいになっちゃってないかなみたいな。
タイでは蕎麦とかすするときに音立てないんですよ、決して。
私あれ、タイ人の留学生と一緒にいて初めて知ったんですけど、音しないんですよ。非常に驚きました。
僕らは日本人だからいいからって言われるし、食べてるのがうどんなんだから、そりゃいいだろうと思うんですけれども、何しろ作ったのは僕ですからね。
音を立てずに食べるというマナーは日本にはないじゃないですか。むしろ音を立てて食べるぐらいの勢いがありますよね。
でもですね、しばらく引っかかったんですよ。なんか音を立てて食べると避難されているような日がかすかにするんですよ。
音を立てずに食べるの、僕には無理でしたけど、それぐらい音しないんですよね。
こういうことってありますよね。
つまり、その振る舞いがダメだとされているということを知ってしまうとタブーになってしまう。
私はですね、恥ずかしいというのはまさにタブーだと思う。タブーを犯したということだと思うので、完全にこれはコミュニティの理屈だと思うんですけど、
同じようにというかもっときつく働いているのがあれなんですよ。
働かざる者を食うべからずってやつなんですよ。
岩波文庫にあったと思うんですね。プロテスタンティズムと労働の何とかとか倫理とかいうような薄い本。
あれは立派な話だと思いますけれども、僕らあれから脱却しないといけないと思うんですね。
あれにいつまでも縛られていると、四六時中働いてなきゃならないですよ。
あれは工場労働者の時代の話ですから、アメリカで鉄鋼王とか何とか王とか造船王とかそういうのあったじゃないですか。
不動産王とかはちょっと違うんですけども、要するに生産物で莫大な富を築くと。
今の時代から見れば莫大といっても、たぶんビル・ゲイツあたりから見ると鼻で笑うような金額なんですけど、
ITとは比較できないですよね。
ただ当時はそういうのが何よりも大事だったわけじゃないですか。
パイプを持って山高棒をかぶっているおじさんですよね。
あの人たちが何とか王になっているわけですよね。
あの考え方だと思うんですね。
七つの習慣も究極的にあの考え方に近いなと僕の目には思えるんです。
ベンジャミン・フランクリンとか必ず英語の教科書に出てくるような人、全部あの時代の人ですよね。
明らかに僕からしても2世紀は古いと思うんですよ。
少なくとも1世紀半は古いと思う。
1世紀半古いってことはその倫理ではやっていけないと思うんですよね。
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ところがあのゲームのやり方でいこうとすると、どうしても働かざるものを食うべからずになっちゃうと思うんです。
で、それを人には適応しないけど自分にだけ適応しますっていうわけにはいかないと思うんですよ。
そして何もそんなことをしてまで自分を苦しめることもないと思うんですね。
人と自分をどうしてそうやって分けるのかというと、でも私は本当は心の奥底じゃ分けてないとは思うんですよね。
結局働いてない人は恥ずかしいと思っているところがどっかになくはなくて。
で、そうすると第一にですね、自分が働けなくなった時、自分を罰することになり、この苦しみで僕は欲打つになると思うし、そうじゃない時でも結局四六時中働いてなきゃならないですよね。
この価値観を一旦持ってしまった以上、働かないでいる時間というものに自罰的な要素を組み込むと思うんですね。
だからですね、働かないおじさんと自分を分けちゃいけないと思うんですよ。
分けないということは同じだってことになるじゃないですか。
同じなんだと思うんですけどね。
同じだということは一つだってことと変わりがないですよね。
で、分けないというためには愛による選択というのが必要になるという言い方は変ですが、それをするしかないと思うんだけど、ここが乗り越えがたいって話ですよね、結局。
私がコミュニティから放り出されそうになると怖くなると。
この怖さには二種類あって、二種類というか同じなんですが、恥ずかしいという気持ち。
そして放り出された時は自分を罰するという、これですね。
私が思うにですね、放り出されること自体は今の日本では決定的な危機をもたらさないと思うんですよね。
少なくともその前にやってくるであろう、自罰。
この危機の方がよほどでかいと思います。
コミュニティを放り出されたがゆえに引きこもったり死んでしまったりするという人は少なからずいるわけですが、
その人たちは自然死を渡ずに自分を罰してしまいますよね。
こっちの方が多分私たちに危機をもたらすんですよ。
だから変なんですよ。
外に出されることが怖いから先に自殺してしまおうって明らかにおかしいじゃないですか。
でもですね、これはぜひライフハック系の人だと思うから言っておきたいんですけど、
観察しているとこのセリフは出るんだということをよくよく見つけると僕は思うんですよ。
私の身の回りの人も結構いるんですよ。
うまくいかなかったら死んでしまえばいいみたいなことを書くんですよ。
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これが変だと僕は思うんですよね。
死ぬ前に打てる手はいっぱいあると思うんですよ。
でもうまくいかなかったら死ぬっていう表現を取るんですよね、現に。
私はかなり身近な人がそれを書いているのを何度も見てます。
で、これが僕は実際にはその人は死にはしないだろうけれども、
自罰は絶対するだろうなとは思うんですよ。
で、しなくていい自罰じゃないですか、本来。
だってうまくいかなかったんだから既に苦しんでるわけですよね。
そこにどうして自分で岩波文庫のプロテスタンティスムみたいな価値観を持ってきて
自分を罰さなきゃいけないのかと。
これ苦しみをただ足してるんですよね。
これをしないとことによって、多分僕らは致命的なことにはならないと僕は思ってるんですよ。
ここを逆だって言うんですよね。先に致命的なことが起こるって言うんですよ。
そうは思わないんですよね。先に致命的なことを起こすと思うんですよ。
で、これを起こさないためにもですね、一つだと思っておくべきだと思うんです。
で、ここで乗り越えられないって話がやってくるわけですよね。
働かないおじさんと自分が一つだとは思いたくないのか、思えないのか。
究極的には私と他の人、誰でもいいんですけど、犬でもいいんですけど、分けるということは
肉体は別々になっているという、冒頭に私が言った一つの幻想があると思うんです。
肉体が一つ一つ別々になっているというのは一つの物の見方であって、しかもですね
それは立証されたり証明されたりしたことはきっとないと思うんですよね。
エビデンスが皆さん大好きになった時代ではありますが、
二つの肉体は別々であることがエビデンスとして挙がりましたって話は僕は聞いたことがないです。
で、これは僕は宗教だと思ってるんですよ。
一個一個の肉体は別々に存在しているという宗教だと思うんですよ。
まず、ここ一週間で考えてみても、それが本当じゃないことは非常に植物的に明らかにできると思うんですよね。
たぶん皆さんはその中で一回は二回肉を食べてますよね。
で、その肉は自分になっちゃってますよね。たぶんイメージの中だと思いますよ。
自分になったところを見たとかいうことはないと思いますが、牛とか豚とか鳥とかと一緒になっちゃってますよね。
一回や二回はなってますよね。一回もなったほどがないって人は、
生まれつきの絶対的な最初の主義者だという人のことを今僕は念頭に置いてるんですけど、
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そうでないならば一体になってますよね。
それがもう死体になってるとかは関係ないですよ。一体になるものですよね。
で、これバラバラであるということが明らかに証明されたという話をするのは、実はほぼ不可能だと思うんですよ。
今の話は、今の話で納得されているとは思わないし、愛とは全く関係ないんですけど、
私はこの話を乗り越え難いと、僕自身昔思ってしまったからフロイトを持ち出したんですよ。
何でかというと、フロイトは愛の対象という言い方をするからなんですね。
私たちってフロイトに言わせればなんですけれども、直接何かを愛してないんですよ。
自分の何かを通して愛するんですね。
例えば、母親を愛するという時、結局これなんですけどね。
対象愛って言った時、母親って言ってるのと何も変わらないんですが、対象愛は母なわけですよ。
が、何で対象愛というのか。何で母親を愛するとは言わないのかというと、自分の中のイメージを通してるから。
自分の中のイメージが、皆さんにお母さんのイメージってあると思うんですね。
で、夢にお母さんを見たことがない人って多分いないと思うんですよ。
で、夢の中のお母さんは現実のお母さんじゃないじゃないですか。
こういうイメージを通じて母親を愛することを対象愛って言うわけですね。
で、じゃあ対象愛って何なのかっていうと、私ですよね。
で、私が見ている母親って対象愛以外の何物でもないですよ。
今イメージできますが、それがすでに対象ですね。
で、これとこれとですよ。これと自分は別々であるって私たちは言ってるんですよ。
のはずですよ。
明らかに本当に私と私の母が外側にあって、それがどういう姿をしているかわかんないですよね。
これは私はマトリックスが理解できる人は全員理解できるはずだと思っておりますが、
VRでも構いませんけれども、そこにいるとか彼女がいるとか、そういう人が現実にいると言ってるのは全部イメージのはずです。
イメージと音声のはずですね。それ以外のものは何もそこにはないはずです。
多分、ものすごく高性能の何かポログラフみたいなものができて、周りに母がいるとか娘がいるという風に見えて音声もついていたら、そういう小説あるんだけど、
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しかも日本人が書いた、平野圭一郎さんという方が書いた小説なんですけど、その中で暮らしている人はそこにそれらの人がいるということに疑問は絶対抱かないと思います。
夢の中で私たちは、夢の中に自分以外の人がいることに何の疑問も抱いていませんね。
で、いないですよね。いないことは間違いないですよね。
このことを厳密に考えていただくことはないんですよ。私がここで喋っていることって。
私たちが他人だと思っているものは自分だということです。
少なくともその可能性が98%ぐらいはあると。ただそれだけのことです。
自分と他人が同じであることが認められないというのは、ここの錯覚を無視していると僕は思うんですよ。
この話をずっと割とグッドモーニングバイブスではしてきたんです。
倉野圭一郎さんはこんな面倒くさいことは言ってないです。
ダイレクトに愛のある眼差しとか愛による選択といったときは、僕の印象の中では外界に直接行ってます。
でも私は長らくそういう物の見方をしてきていないために、どうしてもそこに引っかかっちゃうんですね。
確実に外在していると言い切れるものはほとんどないような気がどこかでしてるんですよ。
これが分裂症に見ってことでもありますけれども、確実に外在していると言えるのは太陽ぐらいなものです。
私は太陽についてはよく思うことがありまして、夢の中の太陽もこんなに光輝いているだろうかって思うんですよ。
あの光って多くの人は太陽初の光だと思っているでしょうけれども、私はそうは思ってないんですよ。
脳内のニューロンでいいです。ニューロンをガッとアクティブにすれば、ガッと活性化させれば、多分ああいう光が脳内で実感されるはずだと思うんですね。
それ以外は考えられない。だから夢の中の太陽も直視できないほど眩しいだろうかってよく考えるんですよ。
で、夢の中のことってすぐ忘れてしまうし、夢の中でそもそも太陽見てないことも多いんですけど、でも夢の中には明るさがありますよね。夢の中って真っ暗じゃないですよね。
すでにこのこと一つとっても、明るいということと光は関係ないんですよ。
多くの人はこのことを無視している感じがするんですが、でもマトリックスが見て面白いと思うということは、光と明るさは関係ないということはわかると思う。
もちろん光はルックスで測れますけど、あれは光粒子のエネルギー量を測っているのであって、実際に明るさを測っているわけじゃないと思うんですよ。
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明るさって人の見方によって、多分人の目によって明るさって目々違いますよね。
ただ太陽だけは、今私は太陽を見ているんですが、多分ほとんどの人が見ているものはかなり似ているだろうなとは思うんですよ。
なんかこう、雲を揺らさないところがあるじゃないですか。
これがですね、昨日食べたどら焼きの味の甘さとかおいしさとなってくると、全然人によって違うのは明らかなんですが、太陽はどうだろうとは思うんですよね。
視力0.1の人と1.5の人にとって違うだろうかって思うんですよ。
甘さは違うんですよ。明瞭です。私はずっと糖質制限していたし、今もかなりそれに近いので、どら焼きの甘さって僕にとっては多分普通の人にとって8倍ぐらい強烈なんですよ。
何点ですかね。体が貫かれるほど甘いです。時々食べると。
大概の人はもっと平気で食べているのを見ても、味覚って人によってものすごく変わるし、糖質を3匹ぐらい立つとですね、めちゃくちゃ上がっちゃうんですよ。
多分それほど人間の体は糖質ってものが必要とするんでしょうね、本質的には。必要だというふうに寄稿されてるんでしょうね。
だからあるんですけど、夢見てても太陽は光っているんですね。
それはもう私先日確認したので間違いないんですけど、これほど光っているかって言うとちょっと何とも言えないんですよ。
これはだから僕の外にあるなって思えるんですよね。他のものは夢の中でも全く同じように再現できてしまうので、この間もそういう夢を見たんですよ。
二宮の街を歩いている夢を。全く変わらないレベルなんですよね。
そうなってくると、どこを歩いててもそうだと思うんですけれども、そこに家があるとか言うのは本当かどうかわかんない。
つまりそこに働かないおじさんがいるなどというのは全く本当かどうかわかんないんですよ。
それが自分である可能性はかなり高いです。
これそのおじさんと自分が同じ人間だという話じゃないですよ。
そのおじさんを見ているその姿で働かないと思っているその考え、そしてそのおじさんが発する声、それは全部自分の頭が作っているものだから間違いないですよ。
夢の中で見れば間違いないんだって言葉すぐわかります。
全く同じようで、全く同じ姿をしていて、全く同じ声でしゃべります。
これも私何度も確認しているんで、夢の日記毎日つけてますからね、ここ30年ぐらい。
全く同じですよ、現実と。
ということは私たちが現実だと思っているものは私たちが脳内で作り出しているものなので、きっかけが外に本当にあるか、きっかけすら外にはないかの違いですね、夢と現実というのはきっと。
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きっかけは外にあるんですよ、そのおじさんは多分いるんでしょう、本当に。
ただその姿でいるわけじゃないし、その声を出しているわけじゃないし、そのような働かない人でいるわけでもない。
それは私たちが脳内ででっち上げている、でっち上げているというのは言い過ぎなんですよね。練り上げているものだと思いますね。
だから同じなんですよ。だって自分の脳内って自分じゃないですか。
これが違うって言うならば、自他は絶対乗り越えられないというのもわからないではないですが、これは同じなはずだから、私たちは自分の肉体自分だと思っているということは自分の脳はもちろん自分じゃないですか。
そして自分の脳がですね、これは模木健一郎さんがクオリアクオリアというわけですが、クオリアは同じ自分じゃないですか。
クオリアこそ自分じゃないですか。ある意味では自分とはクオリアですよね。
つまりクオリアが自分だということは、働かないおじさんであろうと、コップから水を飲む犬であろうと、全部自分なわけですね。
これに対して恥ずかしいと思うとか乗り越えられないと思ったときには、もう自罰が始まるっていうことだと思うんですよ。
で、このクオリアを罰さないときは、愛による選択なわけですよ。
これをフロイトが対象リビドウとか対象愛と言ったわけですよ。見えるということは愛しているということなんですよ、すでに。
この言い方は倉田野さんのウッドバイオスよりも込み入っちゃっています。
込み入っちゃってるんですが、私たちは個人主義とか慰霊物主義というものにすっかり洗脳されていると言っていいと思います。
洗脳されたので、自分の中のものは自分だという説明の方が分かりにくいんじゃないかと思ってるんですね。
私にはそうだったんですよ、冒頭は。
自分の外を愛すると、外に実際にあるものを愛するというのは難しくてもですね、自分の中にあるものは愛せるじゃないですか。
人は自分を愛せますからね。
でも自分の中にあるものと外にあるものを分けられないわけですから、つまりそれを愛せるってことは全部愛せるってことと同じになっちゃうと思うんですね。
これが分かりにくい分かりにくいって話をされてます。
私の話だと分かりにくくなり、倉田さんのグッドバイオスだと乗り越えにくくなるらしいんですけれども、
どっちにしてもですね、乗り越えられない理由にしても分かりにくい理由にしても、事情は明らかですね。
目をつぶれば目の前にいるものは見えなくなりますよね。
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つまり見えるっていうことは脳内を見てるってことじゃないですか。
だって世の中のものは消えませんけれども目をつぶれば消えるわけですから、自分次第で変えちゃってますよね、それを。
にもかかわらず外在するものは外在する。間違いないはずだって言うんだけれども、マトリックスは理解できるっていうのは僕は謎だと思うんですよ。
そんなはずはないと思うんですね。
中にあるものは、中にあるもの、つまり目に見えるものは全て僕の脳内にあります。
これはもう僕は絶対に正しいと思います。
脳内にあるという言い方はおかしいかもしれないけど、私の脳内の反応でしかないということですね。
さっき言った通り例外があります。僕の中では太陽が例外です。
ただ太陽も微妙です。
例えば夕焼けだったらもう完全に脳内で保管できます。
あのようなものは夢で見られます。
全く同じものが見られます。
だってそうじゃないとおかしいじゃないですか。
結局どっちも脳内で作り出しているものに間違いないんですから、
夢で見る太陽と現実に見る太陽は全然違いますってなったら相当変だとむしろ思うんですよね。
同じでなきゃおかしいですよね。
夢で見る働かないおじさんと現実に働かないおじさん全然違いますってことはあり得ない。
夢で見るべっくさんと現実に話すべっくさんも全く同じです。
まして最近あってませんからね。
ズーム通して見てますから。
あのようなものは、僕は一生懸命喋ってましたけど、夢かもしれないわけですよ。
夢の中でそれを疑うことができた試しがほとんどないんだから夢かもしれないわけですよ。
で、私たちは多くの場合、なぜかですね、
現実にいる人のためには頑張るが、夢の中では頑張らないみたいなことができるとでも思っているんだけどとんでもないことで、
夢の中でも僕たちは一生懸命走ってますし、一生懸命恥ずかしいことをしないようにしてますし、
一生懸命お腹が空いたら食べ物を探しております。
つまり、クオリアを現実と区別できないのであれば、むしろクオリアを現実だとみなしてしまうしかないと思うんですよね。
そうするとクオリアが自分であることが間違いないならば、自分と他人は一つじゃないですか。
これを理解しがたいと思おうと、乗り越えがたいと思おうと、別々であるという、なんていうんですかね、エビデンスはそれこそないわけですよ。
で、ここまでくれば、あとはですね、あとはもうそのすずそのすずの選択の問題にしかなり得ないと思うんですよね。
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ここまで来ても恥ずかしいと思うということは、夢の中でいつでも自分を罰しうるという意味になるしかないと思うんです。
夢の中で自分を罰するということは、自分で自分を殴るではないですが、攻めるではあると思うんですね。
だって夢の中に出てきている誰かを攻めたら、自分の脳に向かって攻撃をしているのと、それは間違いなく変わらないですよね。
これをやめるということが、僕はですね、悪夢を見なくなるということだと思うんですよ。
で、私はグッダワイブスを知って、一番大きかったことの一つが悪夢を見なくなったことだという話は、少なくとも神回だという評価をいただいたことはないんですが、
僕の中では相当重要な部類に入るんです。
悪夢を見ないということは、クオリアでうなされないということですよ。
クオリアでうなされないということは、現実で苦しまないということになるじゃないですか。
現実はクオリアですからね。
現実がクオリアだということを1%も認めないと、本当に言うためにはですね、夢と現実を常に区別できるという意味になるはずなんだと僕は思うんですよね。
多分ですけど、これは本当に多分ですけど、お釈迦様であれば夢と現実は区別できていたと思います。
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