1. 佐々木正悟のライフハックからの精神分析
  2. コミュニケーションへの希望を..
2025-04-28 46:11

コミュニケーションへの希望を取り戻す【1174】

適切な「ずれ」を見出す。
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サマリー

このエピソードでは、コミュニケーションの重要性を再認識し、心理状態を整える過程について考察しています。特に3ヶ月チャレンジを通じて、参加者の意識変化やコミュニケーション能力の回復について語られています。コミュニケーションの難しさとその影響について探求し、心理的な成長がコミュニケーションに与える役割について考察します。また、心身症がコミュニケーションの一形態であることに触れ、直接的なコミュニケーションの限界についても議論されます。コミュニケーションの重要性とその難しさについて探求し、特に適応やコミュニケーションの困難さが個人の心理状態や社会的な状況に与える影響に焦点を当てます。希望を持ってコミュニケーションを取り戻す方法についても議論されます。直接的なコミュニケーションの難しさや、現代社会におけるコミュニケーションへの絶望感についても語られ、さまざまな形態のコミュニケーション、特に間接的な表現の重要性が強調されます。コミュニケーションの重要性と希少性について考察し、聴取者に希望をもたらす内容となっています。

体調と認識の誤解
おはようございます。人生相談のための精神分析的ラジオ、第1174回をお送りします。
4月28日月曜日、朝7時12分です。
はい、えーっと、なんかこういう季節になると、体調を崩すってことってありますよね。なんか、過ごしやすそうなのに不思議なもんだと思うんですけど、
なんかですね、この歳になってみて、まあこれは当たり前のことなのかもしれないんですけど、やっぱりこう寒さなれ暑さなれって言うじゃないですか。
あれってつまり、やっぱりこう体温を上げよう上げようと頑張るっていう時期と、下げよう下げようって頑張る時期っていうので、やっぱりこうどっちかになっちゃうんだなっていう感じがしますね。
そういう意味で、こう、合ってないんでしょうね。今上げよう上げようとしまくって、なんか変にむやみに暑くなるみたいな。
で、頑張って薄着してると、私のような人間はダメなんですよね、やっぱり。 この程度の気温で過剰に薄着をすると、たちまちなんか来るみたいなのはなくはないですね。
まあでも、別に体調はいたって良好なので、これも不思議なんですけど、お不自由すぎていたって良好になりましたんで、まあまあ、少々調子が不思議なんだよな。
僕にはちょっと今までは考えにくいことだったんですけど、1月の頃より悪かったとしてっていうことになっちゃうんですよね。
1月の頃の方が体調良かった気がするんですよね。うちの娘に指摘されてですね、パパはね、体調が夏が良くて、冬が悪いと言っているけど、完全に間違っててって言われて、
冬はそんなに大きく崩すのを見たことがない、で、夏調子が良かったのは見たことがないって言われて、そうなんだと思って、
なんでこういう、いとも簡単にわかりそうな認識がこうも大きくずれてしまうのか、しかもそれを何十年とね、誤認したまま生きてきてるって謎ですよね。結構ね、思い込みの力ってすごいなって思うんですけど、
最近言われてみて、確かに夏はお腹壊すは自分って思ったんですよ。冷たいのもの飲んだり食べたりするからなんですけれどもね。
で、気をつけるようになりました。そういうことをここ1、2年でしつこく言われているうちに、娘にですね、言われているうちに気をつけるようになって、
だいぶ春先に過剰に崩すことはなくなってきつつあります。あとはもう努力だなっていう感じが、冬調子が良いっていうね、感覚が全くないんですよね。
相変わらずね、全くないんですよ。冬はね、やっぱり苦手だわっていう意識、苦手意識が、今日苦手意識の話をしますね。
3ヶ月チャレンジの募集
昨日をお持ちまして3ヶ月チャレンジの第10期募集は終了とさせていただきます。
あのほぼ満席ですね。ありがとうございました。ほぼっていうのはですね、もう満席の概念がよくわからないので、
あまりにも厳密にこれを考えていても意味がないと。もう誤差の範囲内だっていう感じで、
例えばなんですけど、こういうことはないですけど、非常に極端な話としてですね、月曜日にみんなが予約したいってなると、もう現在すでに
溢れてるんですよ。時間枠的に不可能なんですね。そんなことは10人とも月曜日ってなると。朝から晩までセッションみたいになっても入り切らなくなるんですよ。
でもそんなことって起きないじゃないですか。全員月曜日にしたいですっていうことってないので、やっぱりこう
いくらかは分散する。で、このいくらかの分散は事前に計算するのは人数だけでは不可能なんで、
しかもそんなことをしても意味ないんですよね。なぜならば、やっぱりそれなりに
結果としてですね、結果としてそれなりにエネルギー使ったなっていうセッションがあれば、結果としてはそれなりに節約されたなっていうか、あんまり
ここは頑張らなかったなということもあるわけですよ。しかし同じ人が常にそうだとは限らないわけですよ。
だからセッションごとにおける負荷というのはその時その時で変わってくるので、負担を慣らすとかいうことに
事前にそれを測るってこと、負荷の突然起こることも、いやよく書かれてますよね、精神分析でも心理印象でも、突然これは来るんだぞみたいなのがあって、
情緒の嵐に巻き込まれるとかっていう表現ですね。そんなに思春期の接触障害の人を相手にして私は全くおりませんから、
そんなに情緒の嵐に書かれていることほど激しくってことは私の場合には大事、リアルにあってませんから、やっぱりいくら情緒なって言っても、
なんていうのかな、やっぱり臨場感って情緒にとってはすごい重要な要素なんだと思います。
オンラインで今、私これの仕事をやっていて、もうちょっとお金貯まったら良いディスプレイ買おうってめちゃくちゃ考えるようになりました。
今まではエキストベースの仕事しかしてなかったから、はっきり言ってあのなんかね、高精細ディスプレイとか無駄なんですよ、いらんわって感じだったんですよね。
はっきり言ってモノクロでもいいっていう風に思ってた時代が、だってもう黒い画面に緑色の文字しか出さないのに、別に高精細もフルカラーとかいらないわけですよ。
私写真とかを眺めるという趣味がなぜか全くない人間なので、動画とかもほとんど全然見ないし、なんか目痛くなってくるだけで面白いとすらあんまり思わないので、動画とか見ないんですよね。
だから結局テキストばっかりだから、まあ高精細いらないよねって感じだったんですけど、最近はもう人との対面セッションしかしてないので、やっぱりこう、見えないっていうのはね、あのダメなんだなっていう、私聴覚型の優位の人間だと思ってたから、
多分それはそうなんですけど、声を聞かせて頂ければできるって思ってたし、多分に僕はそっちに頼りがちなんですよ。特に昨日のですね、100日チャレンジ卒業式、100日チャレンジ10期卒業式を無事迎えられまして、こちらも皆様大変お疲れ様でした、100日間ね。
100日チャレンジ第11期は、またちょっとだけ間を空けてすぐ、まあこれはJ松崎さんが主に日本にいる間はできないっていうだけなんで、彼がまたドイツに戻られたら11期がスタートするということになります。100日チャレンジですね、これはね。
で、まあその100日チャレンジでも、こう、声を聞いてるっていうことが、もうほとんど全てって感じなんですよね、私にとって。あの、特に人数が多くなってくると、顔を拝見していてもちょっとやっぱり分からないので、ちっちゃいじゃないですか、どうしたって。
だからこのちっちゃい画面を少しでも大きくしようという目標でちょっとディスプレイ買おうっていう、初めてこのディスプレイに気合を入れようという気持ちになったんですよね。今まで全くそういう考えは持たない人間だったんで、ディスプレイなんていうものはほぼ見えればいいぐらいのノリだったんですが、赤発想変わったな自分って思ったんですよ。
で、表情というのは大事だなと。でも一方で、フロリドがカウチって言ったのも、これ難しい問題なんですよね。だからね、空間をやっぱり共有している人ならではの発想で、でも見えないに等しいじゃないですか。カウチに寝そべられて、その後ろに、精神分析のある種のやり方ではね、その後ろに精神分析家が座るんで見えなくなるんですよね。
同じ空間を共有しながら、お互いの姿を見ず、しかし言語的なやり取りをすると。やろうと思えば、画面消すことによってできるんですよね。要するに顔出ししないってやつ。だけどあれをやってしまうとオンラインの場合、空間共有がないだけにですね、ちょっとやっぱりさすがにどうかなっていうことで対面になってしまうと。
対面っていうのは、表情大事なんですけれども、表情がないと転移も減ったくれもないなみたいなところってあるんだけど、そもそもでも精神分析って表情は見ないわけじゃないですか。だからすごいそこはですね、ここに三角形を作ると言っても、音ねーみたいな感じですごく混沌としてますね。混沌と心の中で混沌としてます。
でもまあこういうことで悩めるようになったというのは、少なくとも3年4年前に私が精神分析を考えていた頃よりは抜群に精神分析というものを一応理解しつつあるなっていうのはわかるんですけどね。
昔はなんで対面とかカウチとかにそんなにこだわってるんだろうぐらいに思ってたんで、こんなに自分がこだわり出すっていうことの意味すら多分、自分がこだわるようになるなんて思ってませんでしたからね。はっきり言ってね。
はい、というふうに考えて今日は、とにかく募集は最終了ということですね。卒業式も終わりました。これからは3ヶ月チャレンジのまず第10期と、JJJでしたっけ、ジャンボリーというデカいオフ会をやるっていうのと、
コミュニケーションの再構築
その辺のJさんの一連の日本における活動をサポートするというので、多分5月はフルにフルレンジになっていっぱいいっぱい感が出るだろうと。まあまあ楽しみではありますからいいんですけれども。
はい、えーと、それでですね、今は3ヶ月チャレンジで何をやっているのかを、まあ今はあんまり一番重要ないと思うんですけどね。10期の締め切りが終了したばっかりなんで、でもこれを喋っていくということを続ける中で、今後の、今後があればということですけど、今後の3ヶ月チャレンジの募集に生きづいていったらいいなというふうに思っているわけで、
今日はですね、割と一般論的な、そうならない気もしませんが、一般論的な話をします。3チャレンジでやっているのは一つはですね、コミュニケーションができる心理状態を作るってこと。作るっていうよりは取り戻すに近いんだけど、まあそういうことです。整えるとかでもいいんだけど。整えるってなんかちょっともったいぶってる感じがするんですよね。まあ要するにそういう心理状態になるってことですね。
で、これは3ヶ月チャレンジには様々な目標なり機能なりがあり、しかしそれを明示はしないという。なぜならみんなが同じことを望んでやってるわけじゃないのでし、目標なんてよく分からないということもお互いにですね、私にも分かってないし参加者にも分かってないと。
ただ、最近これも猛烈に分かってきたんですけど、3ヶ月で7万円という手間暇、あとお金をかけて、何にもここにマッチするものを望んでいないんですっていう方がいらっしゃらないんだということが分かりました。
表面的なやり取りの中では、これが3チャレでなければいけない理由はよく分からないなってことは起こるんですけど、実際にしばらく経ってみると、この人はまさにやっぱり3チャレしかなかった感じだなっていうのって分かってくるんですよ。
無意識のって言ったらいいのか、意識的なって言ったらいいのか、ちょっともうよく分からないんですけども、実際に1ヶ月経ってみると大体の場合は、なんか全く無関係だけどここにいるっていうことは考えられないっていうことが分かってきたんですよ。
これは大きな発見でした。いろんな方のサポートなり、伴奏なり、何でもいいんですけど、壁打ちなりをさせてもらっているうちに、やっぱりこれはまず1つにコミュニケーションの問題っていうのがあるんだというふうに思うようになりました。
というかだいぶ前から思ってたけど、ここで言ってるのも結局コミュニケーションの話をしてると言えばしていますよねっていうことですね。
心的状態というのは、つまり普通にその人が心理発達を遂げて、信田沙耶子さんの表現を借りればスクスクと成長すればですね、これは上手い言い方でもあるし、実態がどこにあるか分からない言い方でもありますが、
スクスクと成長すればコミュニケーションを取るようになるんですよ。逆に言うと、コミュニケーションを取るようにどこかのタイミングでコミュニケーションに失望したり絶望したりすると、スクスクとは育ってないっていうことになってくる。
そういうような考え方で考えていくこともできるってことですね。
で、コミュニケーションというとやっぱり、一番僕がこれね、先日3ヶ月チャレンジで、精神分析辞典のパーソナル精神分析辞典ですね。
要するに岩崎さんが一人で編集されたというすごい辞典ですが、一番最初の項目がアルファ機能なんでね、アルファ要素じゃなかったと思うんで、アルファ機能だったと思うんですよ。
Rから始まりますからね。ABCでも一番最初に来るのがアルファになっちゃうじゃないですか。
いやでもアルファ機能最初って本当にもう、やっぱりこの本は美音に捧げる感じになっちゃいますよねっていう感じで。
僕も何しろ鈴木敏さんがこれが分からなきゃいけないんなら私に精神分析無理だわって書かれているほど分かりにくいテーブルってやつですよね。
ニュングのマンダラよりも、もうエクセルですからね。四角が書いてあって行とレスがあって、なんかね、スタイとかなんかこう、ベータ要素とか、あの、夢、神話なんとかとか書いてあって。
で、そこにA5のところにはこれだみたいなことが書いてあって、途中時々クーラーになって、一番前も言いましたけど一番この表を見た時の感触に似てるのは、あの化け学の元素記号表です。水平リーベ僕の船ですね。
あれわかれば基本、あの少なくとも向き科学は大筋バッチリじゃないですか。まあそういう言い方ちょっとざっくりしすぎてますけど、でもまあ大筋バッチリだと思うんですよね。あれが読めるようになるかどうかが化け学の分かれ道だと思うんですけど。
あれとよく似たものですが、まあそんなはずないじゃないですか。真理があんな元素記号表みたいなもので表せるなどというのは考えられないことだと思うんですよね。
で、私はそのテーブルがわかってるわけでも使ってるわけでもありませんけど、そのベータ要素みたいな話になった時にやっぱりあれを、私は一番何、自分の感覚に引き寄せて言うならば、やっぱり私の身体症状、心身表的な身体症状、心器症も含めてですね。
そこに来るんですよね。あれが一番そこそこ理解が進むの。でもよーく考えてみるとやっぱりそれもあの広い意味ではコミュニケートなんですよ。心身症というのは、それが体の病気でないならばやっぱりコミュニケーションなんだなっていう、やんないほうがいいんですけど、体をコミュニケーションツールにしちゃってるわけですよね。
で、私はそんなことが納得がいってなかったわけですよ。前足になった時にはお父さんとお母さん喧嘩しないでねっていうメッセージです。うわ、なんかもううわって感じだったわけですよ。何そのなんかウエット感丸出しのなんか少女漫画に出てきそうなそういう話みたいな。自分男だしみたいな。こういう時によくわからない男感が自分男だと普段全く思ってないくせに出てきちゃうわけですけど。
心身症とその理解
なんか私もやっぱりなんかもっとコンピューターな世界で生きていきたかったから、なんかその前足になってお父さんとお母さん喧嘩しないでねとかもう本当にこう、なんて言えばいいのかな。過剰に保護されている。しかも社会のやや嘘臭い方面から過剰に保護されている感じが非常に気に食わなくてですね。もう頭から拒否していたわけですね。
でステロイド塗って直そうと。あるいはステロイド飲んで直そうと。なんかそっちの方が遥かにマシだわみたいな感じでいたんだけど、まあそれが大きな間違いだったわけで。心身傷はコミュニケーションなんですよ。まあね、あのこの年になると、いいんだそれでいいんだってことがわかってくるんですよ。
大体その大学時代に先生から無理やりとはいえども、将来ドラを読んでいたにもかかわらず、なんでこの種のことを私はこうもね30代になっても受け付けられなかったのかっていうね。
あれはドラに起きたこと。私はコンピューターやる人みたいな、そういうですね、ものすごい無理やり感のある、そうまでして何を拒絶していたんだろうっていうような拒絶感はでもありましたね。
30代は全部。20代はもっと酷かった。10代の時はもう無視図が走る状態で、だったら俺はアトピーの方がいいしみたいな。それ自体がすでに何かおかしいじゃないですか。なんか体の病気でないことを案に物語ってるのに、いや絶対体の病気だからみたいな。
そしてユングを読むというね。このなんて言うんだろうな、分かってないとしか言いようがないんだけど分かってなかったんでしょうがないですね。そういうことなんですよ。
むさぼるようにユングは読むけど、コンピューターでRPGをして絶対心身傷なんて認めないし、マンダラとかは占いにハマっている人だと思って下げ棲むと。でもユングを読むみたいなね。こういう10代ですからね。しょうがないとは思うんですけどね。
コミュニケーションというふうに考えた時に、コミュニケーションができれば仕事はできると思うんですよね。コミュニケーションがしかし、いろんな意味でできないわけですよ。できないというかコミュニケーションが苦手ですっていう人はいっぱいいらっしゃるじゃないですか。
私は苦手とか得意とかいう話ではないなというふうに思ってるんですよ。思うようになったんです。苦手って言うんだったら私だって苦手だよって思うんですよね。
でも苦手かどうかの話はある意味あんまり関係ないと言いますか、コミュニケーションできる心というのがあればですね、苦手でも別にいいんですよ。
コミュニケーションできる心の第一条に、もっと前はあるんでしょうけど、第一条目一番地というのかね、とにかく第一章に来るのが、つまり持ちこたえられるってことなんですよね。
それ以前もコミュニケーションできるんですよ。できないじゃないですけど直接コミュニケーションになってしまうんですね。だから赤ちゃんが空腹ですと。
泣き喚きます。これはこれでコミュニケーションですけど全く持ちこたえられていないので、なぜ泣き喚くことによってお腹が満たされるのかとかは一切そこでは考慮されてないわけですよ。
で、0歳児の場合しょうがないにしても3歳児でもいるじゃないですか、普通に。私もこの間飛行機に乗ったら、うわ何とかのカードって言って泣いていた。あれ4歳児ぐらいの女の子、もっと上だったかもしれない。もう飛行機内全域ぐらいの人が聞こえるぐらい頑張ってたわけですよ。
で、この先泣いてもカード手に入らないじゃないですか。つまりこれはどういうことかというと持ちこたえられないんですよね。持ちこたえるといえば、ずっと最近サンチャレで時々それを目にしたり耳にしたりするから、ちょっと見てみたんですけどもののけ姫のたたりがあるんですよね。
あれ持ちこたえられなさの表現じゃないですか。持ちこたえられてないからああなっちゃう。身体化している感じもしますし。とにかく持ちこたえてみない。持ちこたえないとコミュニケーションにならないわけですよね。コミュニケーションはすべからく間接的なものですから。ずれがないとコミュニケーションにならないわけですよ。ずれって大事なんですよ。
だって平和と鳩はめちゃくちゃずれてるじゃないですか。鳩は平和の象徴だけど、特に白い鳩ですね。でもこれは別に白い鳩すなわち平和ってことを誰も思ってないじゃないですか。意味もしてないし。
国旗とかもそうですけど、国の象徴ですけど、国旗が焼かれたりしてますけど、そうすると国焼かれるかっていうとそんなことはないじゃないですか。ずれがないと困りますよね、象徴には。だからずれを作る必要があるわけですよ。ずれを作るためには持ちこたえる必要があるわけですよ。
お腹が空いた。いきなりそこで火がついたり泣くっていうのはずれがなさすぎてわかるんだけどそれで。だけど直接コミュニケーションになっちゃうんですね。私はお腹が空いたものですみたいになっちゃうわけですよね。
まさにそんな感じじゃないですか、赤ちゃんが。全力で泣いてる。私はお腹が空いたものだからうんちしますみたいな。意味はわかるんだけど意味不明ですよね。叫びまくってうんちも出ちゃうしおしっこも出ちゃうしお腹すっきりするしなんか気分よくなったぜって感じになるのかもしれない。その後にこにこするんだけど、事態は何も解決してないですよね。コミュニケートされているとは言い難いですよね。
ただ気の利いたっていうか、グッドイナフなお母さんならおむつをかえてあげてミルクをあげると。でも泣いたりしますけどね。それじゃないみたいな。それなんだけどそれじゃないわけですよね。
だけれどもこういう時にコミュニケートがお母さんの方もコミュニケートができなくなると持ちこたえられなくなるわけですよ。赤ちゃんが泣いているなんかもう許せない感じがするとかいう感じで怒鳴るとかね。あるいは泣いているなら絶対ミルクにしちゃうみたいなこの辺がいろいろ出てくるわけですけどね。
泣いているからミルクみたいな。暑くてもミルク寒くてもミルクみたいな。おむつかえてほしくてもミルクみたいな感じで。こうするとコミュニケーションに赤ちゃんは絶望しますよね。なんかこう伝えることには何の意味もないんじゃないかって感じがしてくるじゃないですか。
だって何やっても応答はミルクになっちゃってるってことは自分がこうだとかあーだとか、あーだとかこうだとか赤ちゃんはそれぐらいは言いますけど意味が全くなくなりますよね。そうするとやっぱり持ちこたえにくくなるか過剰に持ちこたえるだけになっちゃったりしますよね。持ちこたえてないんですよね。そういうのって結局。我慢するって言うんではなくて排除してしまう。自分の気持ちを排除してしまう。こんなもの持てても無駄だって感じがしてくるっていうことですよ。
コミュニケーションの直接性
で、この次にこのすぐ次には来ないと思うんですけど持ちこたえたら持ちこたえられつつある時には同時にヘイが発生するんだと思うんですよ。ノーイングが起こってくる。この事態は何なのかを理解しようっていうことが起こってくる。だから直接コミュニケーションの時は事態の理解とかはほぼどうでもいいわけですよ。炎上なんですよね。もうその人全身が炎上してしまっている。
炎上してしまっているからそこによって何を伝えるとかはないわけですよ。言うなら不快だってことを伝えてるだけなわけです。不快だという認識すらないんですよ。不快だって認識があるってことはどこが不快なんだろうとか何が不快なんだろうってのが出てくるはずなんだけどそれはないわけですね。
これを伝えるってことになるわけじゃないですか。何が不快だ。そしてどこが不快だ。そして自分が不快だ。これを伝えるってことになるわけじゃないですか。私なりにね。3ヶ月チャレンジのここが不満ですとかここが物足りませんとかそもそもこんなことやってて何になるんですかとかそういうこの最後のそもそもこれやってて何になるかっていうのはちょっと炎上感があるんですけどなんかこう直接コミュニケーション感が出てきますよね。
ただ不快をぶつけてる。できるだけノーイングが大事なんですよね。何が起きつつあるのか。何が起きてるかを完璧に理解するのは無理なんで何が起きつつあるのか。例えば何で私はここに今来ているんでしょうみたいな。何でオンラインで話をしているんでしょうとか。
よく言うじゃないですか。話をしていることが何になるのかとかってカウンセラーが話聞いたりコミュニケートするだけで問題が解決するとは私には信じられませんというコミュニケーションをしてるわけです。
でこういうことをし始めるということはやっぱりそこでは何かを伝えようとしているわけですよ。でこれが完全にできるようになったらですね完全にできるようになるなんてことがあるんだろうかっていうのはありますがでも完全にできるようになったらカウンセリングであれ3ヶ月チャレンジであれ終了ですよね。
だってこれが完全にできるようになったら多分世の中で困ることはそうそうないじゃないですか。逆に言うとこれが完全にできるのに世の中で困ってるなら多分解決できないですよ。
ここが明らかに良くなくてここに問題があってここをあなたが何とかしてくれればで、歯医者さんで的確に言えれば歯が治してもらえますよ。もしそれによって治らないという話であればどうにもならないですよ。
社会適応というのは結局適応できるときは適応できるしできないときはできないというような話になりかねないんだけどいずれにしてもまずその前にコミュニケートできないと適応も何もあったもんではないと思うんですよ。
だからその前には私たちがコミュニケートできない心理状態というものがあって基本的に3ヶ月チャレンジではこの前段階を頑張っていくというチャレンジなわけですよ。
だから私最近これは発見ってほどの発見でもないですけど一つの発見として、参加者さんによってはカウンセラーとか正規のとか一緒に探すとかは全然ありだな、お伝えするとかつないであげるとかつないであげるって言い方おかしいですけどね。
紹介は無理にせよ、一緒に探していくみたいなのが全然ありだなと思うようになったんですよ。
つまりこれはコミュニケートの仕方というものをここでチャレンジしていく。
カウンセリングに行ってコミュニケートするっていうのはある種非常に難しいものがあるわけですよね。
何を伝えればいいかわからないから行くところなのに何かを的確に伝えなければならない。
これはもしかすると我が国における一つの不意なのかもしれませんけれども、不意であるならばあるなりにやりようはあると思うので、
心理状態と適応
やっぱりこう一応の、私はこうまあ多分に趣味的な部分が大きいですけど、一応いろいろとこう読んできたりしたので、探すぐらいのことは平均的にはできると思うんですよ。
例えば精神科と診療内科と心理カウンセリングといわゆる心理臨床と時々出てくるポストとかCBTとかそれぞれの違いは一通り説明できますので。
だからこういうことなんですよね。特にトラウマ系ですよね。
トラウマ系ってものになってくるとやっぱりこうやり方、これもだから丸投げできれば正規なんだから丸投げできればいいじゃないか。
そこら辺にパッと行ってどこでもokなのがいいじゃないかっていうのもあるんですけど、でも実際にはノートとかエックスとか読んでるとカウンセリングは相性大事ですっていうことを正規の方がキリッと書かれてるんで、
ということは結局そこら辺に行ってパッと行ったらどこに行っても二重丸ってわけにはなかなか行かないんだよなっていう、
これは僕はアメリカに行ったって行かないことはよく知ってるんですけどね、実際には。
だからとにかく今起きつつあることを説明するっていう、これを説明しないとやっぱり直接コミュニケーションやるしかなくなると思うんですよ。
ただいや、そもそもそうであるからこそ分析等が必要なんでしょうということで、精神分析とかでは直接コミュニケーションを扱うんですって話になってくるんだけど、
少なくともこういうことについても吟味したり検討してもいいとは思うんですよね。
で、もう一つが、もう一つというかこれと並行して起きるのが、
何が起きつつあるかは一応分かってると、持ちこたえられもすると、
私に理由があるんだと、だっておむつが濡れている、それは私に理由がある、お腹が空いている、それは私のお腹が空いている、
こういうことが分かるから、分かってくれば自分で対応できますよねっていうところまでは来ると、
必ずしもコミュニケーションいりませんよねってところまでは来ると、
ここでコミュニケーションをする必要があるんだけど、ここで絶望してしまうケースもあるわけですよね。
つまり、多くの場合、ヤングケアラーとかニグレクトって言われているものに相当するんですけれども、
他にもですね、親がそれほど悪くなくても運が悪いってことは当然ありますから、いろいろ起こるわけ。
例えば一番極端な例で言うとやっぱり親の死別とかですよね。
これは親に責任はないわけですよ、あんまりほとんど。
死んじゃうのが悪いって言えば、それはそうなのかもしれないけどしょうがないですよね。
死にたくて死んでるわけじゃないんだから。
責任はないんだけど運は悪いってことはありますよね、私たち生きていれば。
この時にすごい泣き喚いたけどお母さん来ない。
これはお母さんが悪いわけじゃないんだけれども、お母さん来ない。
持ちこたえられる心は発達し、虐待とかされてないですね。
コミュニケーションしようという気も抜群にあるんだけど、
すぐ相手が失ってしまっていたというようなことが起きた時に、
自分でものはできました、状況も理解しました。
お腹が空いたら自分でミルクを入れて温めて飲むと。
だから例えば留守のしがちなお家とかでですね、
その子はすっごい出来のいい子になってしまうわけですよ。
ただしコミュニケーションにはもうすでに絶望してますよね。
コミュニケートしたって無駄だと。
だから欲打つポジションっていうことになるんですよ。
希望を持つためのアプローチ
どこかものすごく、何て言えばいいんですかね。
ここで多発的になったり自責的になったり、
どっちになるかってこともあるけど、
私はこの場合のその差はもちろん重要な差だけど、
微差でもあると思うんですよね。
悪いって考え始めたらもうキリがなくなると思うんですよ。
私が悪いんだろうか、それとも世の中が悪いんだろうかみたいに。
ただしこういう人は現実見当は極めて高いですから。
だってぼんやりしていたら、
ろくでもないことになったり、
一歩間違うとやっぱり致命的なことになりかねないじゃないですか。
親が無責任だとかそういうことも含めてですけれども、
やっぱりきちんとできないと家火事になっちゃうとかね、
いろいろありますからきちんとできるようになっちゃうわけですよ、とことん。
しかしそうするとコミュニケーションしようという気はすごい薄らぎますよね。
私が何でも自力でやろうみたいな。
当然知的な発達は早いですよね。
状況に関する理解力も早い。
そして社会適応もいいかもしれない。
学校行っても出来がいいってことになる。
ただしコミュニケートしない。
つまり失ってるわけですよ、既に。
だから抑鬱的になっている。
こういうコミュニケーションの苦手っていうケースもあるわけですよね。
持ちこたえられない人によるける苦手っていうこと。
今起きつつあることを理解しようという気があんまり起きていないという意味での苦手っていうのと、
今起きていることがあまりにもよく分かっていて、
それを伝えるのは意味がない感じがするという苦手っていうのがあるわけですよね、きっと。
この種の人の場合には、はっきり言って正常ですから、
まず診療内科に行くとかそういう話にはなりにくいんですけど、
突然何かが訪れることがあるわけです。
一番よくありそうなのが、
あまりにも負担が大きくなってきた高校、大学、社会人になりたての時に体が動かなくなるみたいな。
体からのコミュニケーションを無視し続けていたというか否認し続けていた結果、
体がある種のストライキを起こすみたいな、そういうノリになってしまうわけですね。
だけれども、助けを呼ぼうという意識がその頃にほとんどなくなってしまっているわけですよ。
他人を当てにならん、みたいなそういうマイナス系があるので、
他人というものに当てにならないレッテルを張りまくってきたために、
当てになる人が周りに誰もいないわけですよ。
その人の世界の中ではってことですけどね。
当てになる人って誰も周りにいないわけですよね。
そうすると非常に絶望的な気持ちになったままうつうつとしていくっていう、
こういう展開があるんだと思います。
運良くこういう方が、運良くと言ったらあれなのかもしれませんが、
私とコミュニケーションしているという状況がセットされた場合は、
やっぱりコミュニケーションするっていうことに向かっていくしかないだろうなと。
この時もやっぱりでも同じことが起きるわけですよね。
大事なのはズレをどうやって成立させるかなんですよ。
つまり、直接コミュニケーションをやっていて持ちこたえられない人にしてみるとですね、
どうズレる、どういうズレを作り出せば話が伝わるのかっていうのがわかんない。
赤ちゃんにはわかんないですよね。お腹とか知らないんだから、私とか。
でも私のお腹が空いてますって一つの嘘じゃないですか。
嘘ではないかもしれないけどズレてるじゃないですか。
だってその人はそう思ってるわけじゃないんだから。
とにかくうわーなんだっていう。
これ本当はとにかくうわーなんだっていうので、
お母さんがすっとんできてよしよしってやって、
あとは全部やってくれるっていう、これが正しいやり方なんですよ。
めっちゃ人に頼ることになるけど、これが正しいやり方なんですよ。
昔、藤小寺Aさんがそういうの書いてたんですよね。
大きな会社の重役だか部長だかが、いい子でしょねってやってもらうわけですよ、女の人に。
あれって赤ちゃんプレイってやつじゃないですか。
コミュニケーションの難しさ
でもあの種の風俗的なサービスにはたぶんそういう部分ありますよね。
これをやってほしいっていう話をすると、
詐欺すまれてセックハラだとか言って攻撃されるのって、
なかなか厳しい世の中なんですよ。
直接コミュニケーションでいたいっていう欲望っていうのは、
対抗したときのは対抗というべきなのか、
PSポジションに入ったときの人間には、
やっぱりそれはですね、赤ちゃんプレイをして、
お母さんにこれを私がスカイだと言えば何でもやってくれるっていう、
この状態を実現したいわけです。
この奥底にはやっぱり私は、
コミュニケーション、コミュニケートというものに対する絶望感があるんだろうなって思うんですよね。
私はそのいわゆるセックハラとか、いわゆる風俗系とか、
そういうものは好んでよく読むわけですけど、
いつも思うのは、やっぱりこの奥底には大変物悲しいものを感じるっていう感じがするんですよ。
今の世の中はきちんとしていなければいけない圧がなかなかのものなんで、
いやもうこんなダメ親父はダメでしょみたいな感じで、
ほぼ断罪一択ぐらいのノリになってるんだけど、
ただですね、やっぱり奥底を考えていくと、
もうとにかく俺は大変なんだみたいな、男は辛いよみたいなやつね。
辛いよっていうのって、コミュニケーションとしては一番素朴じゃないですか。
私は辛いんだと。
それってほとんど炎上中の赤ちゃんと同じですよね。
さっきのカードって言っている女の子と同じです。
私は辛いんだっていう。
あとは何とかしてくれってわけですよね。
まずその辛さにこらえて、次に何が辛いのか。
つまり何が起きつつあるからいけないのかっていうことを認識して、
そして自分自身の状態と少しだけずれたもの。
しかし世の中には伝わる程度のずれたもの。
自分自身がただ辛いよって言っているだけだと、
長い映画を使わないとなぜ辛いのかが、
あれって要するに何がどう辛いのかをコミュニケートするための一つの作品ですよね。
でも普通はならない。
つまり作品化されているものではコミュニケーションしにくいので、
やっぱり少々ずれていてもしょうがないから、
人に伝わる程度のずれってものを自分で見つけ出していかなきゃいけないんですよ。
お金がなくてつらいんです。
本当はそれだけじゃないんだけどね。
だけども奥さんがいなくてつらいんです。
でもやっぱり本当はそれだけじゃないじゃないですか。
だから私はいわゆる不倫とかでは生まれきらないとか非常に俗っぽいですけど、
しかもありふれた言い回しですけど、
でも生まれきるはずないよなと思うんですよね。
だってそれはお母さんに全てをやって欲しかったという気持ちが
十二分には満たされなかったという、
つまりコミュニケーションに対する哀愁漂う絶望感というものを何とかするのに、
しようとしているのに、
愛人作るっていう形では多分ダメじゃないですか。
山崎孝明さんとのイベントでも山崎さんもおっしゃってましたけど、
だって風俗とかキャバクラとか行って持ち上げてくれるのは当然じゃないですかと、
お金払ってるんだから。
そしてそのコミュニケーションは嘘っぱしじゃないかと。
それがわかっていたら埋まらないですよねこの気持ちは。
本物じゃないとダメなわけですよね。
本当のお母さんだから辛いよって言ったら、
どこが辛いのとかここが辛いんだねとかやってくれるわけですよ。
全部。
フルパッケージでやってくれるわけですよ。
普通そんなことはしてくれないから。
てかそんなことに付き合ってもくれないから。
そしてわからないから。
だから辛い話が膨大な長編作品になっちゃうしかないわけですよね。
で、膨大な長編作品になっているものを辛いよって言ったって嘘じゃないですか。
ズレが大きいですよね。
でもこのズレに耐えなきゃいけないんですよ。
多分コミュニケーションというのは。
絶望と間接的表現
コミュニケーションはすべからく間接コミュニケーションなんですよ。
やっぱり鳩が平和の象徴と言うのはしょうがないですよ。
平和というものを本当にこれが平和ですみたいなものを提示することはできないから。
我々はそういうものを記号に託すしかないわけですよね。
そのズレは小さくないけれども。
このズレを許容することで人にそのコミュニケーションを共有するってことができるようになる。
2つの意味での絶望があるわけですよね。
1つはもうコミュニケーション、直接コミュニケーションで伝わらないというこの絶望感。
直接コミュニケーションは本当だけれども。
でも本当のものっていうものはコミュニケートの媒体ですよね。
媒介というのかな。
そしては不向きなわけですよ。
泣き喚くとか。
一方違いとうんこするとかになってしまって。
もはやそれではみんなは全然違う反応になってしまうじゃないですか。
でもこれが私はやっぱり象徴投下物の世界、具体象徴の世界なんだと思うんですよね。
あのあれです。
イヌキ、ブキタ君ですよ。
ブキタ君の胸に穴が開いているんだって言って、心臓が凍っていて、本当に穴が開いていて、いきなり北風が吹いていくっていう。
北風は吹かねえだろうってことですよね。
そしたらそれはもう直接コミュニケーションになってしまって。
で、ちゃんと登場していたブキタ君の連れの女の子が言ってたじゃないですか。
こんなに大きな胸の穴をどうやって塞いだらいいの。
それは僕にも分からないって答えになっちゃっていて。
要するにコミュニケートされない事象は人に取り扱うことはできないわけですね。
で、もう一つの世界が、つまり言ってみればヤングケアラー的な世界で、あのなんだっけ。
ユイちゃんのこの番組ではおなじみのヤングケアラーになったユイちゃんの世界なんですね。
あそこにはいわゆる精神分裂的な世界、妄想分裂的な世界、統合主張的な世界よりも、お母さん統合主張ってことのようだったけど、
やっぱり欲打つ感の強い世界ですよね。
言っても無駄だわっていう。
ものすごい冷めた感じ。
こいつらに言ってもダメだわっていう。
これは似たようで違うんですよね。
コミュニケーションやってる人はこれを言い換えることなんてできないっていうね、そういう絶望感なんですよ。
男は辛いよなんだよみたいな。
泣くとかそういうことしかできない。
この辛さを辛いと言ってみたり、お金がないと言い換えてみたり、そういうわけにはいきませんっていうこと。
胸に空いてる穴は寂しいとかいう言葉で言い換えたんでは不十分だ。
それじゃあ私の切迫してむちゃくちゃ苦しいっていうのが伝わらないっていう。
よくあるじゃないですか。
先日これは他の参加者さんから聞いたNHKのやつかな。
ヨロタケシさんが戦争について喋っても虚しいっていう話をしていたような話を教えてもらったんですよ。
そういうことですよね。戦争体験ってよく言いますよね。
言い換えるとダメだっていう話ですよね。
直接コミュニケートするってことになると、みんなで原爆体験しなきゃなんなくなるからそういうわけにいかないので、やっぱり悲惨とかいう言葉に置き換えるより他ないわけです。
絵に描くとかせめて。
こういう伝わらなさと、もう一つがこいつらダメだっていう、全部自分で頑張っちゃってる人ならではの伝わらなさですよね。
あなたたちに問題解決能力はないっていうそういうコミュニケーションに対する絶望感。
これも先日聞いた参加者さんから思い出させてもらった、そういうセリフあったなと思った。
家なき子のね、同僚するなら金をくれってやつですよね。
だからコミュニケートしたり、私の惨事を伝える気はないからと。
やるなら支援金くれっていう、そういうめっちゃ乾いた感じの世界。
欲打つ感の漂ってる世界。
同僚するなら金をくれって、あの女の子が言うっていうのはめちゃくちゃ現実見当能力が高いわけじゃないですか。
あまりにも高すぎるわけじゃないですか。
何も分かってないでバタバタと泣き喚いてる姿とは全然違いますが、しかしやっぱりなぜか同じように孤立してしまうわけですよ。
コミュニケートに絶望しているから。
こっちは本当にある意味正真正銘の絶望なんですよね。
前段のこの直接コミュニケーションに訴えたいという人は絶望しているというよりは適切な表現が見つからないってやつで、見つかればコミュニケーションする気はあるわけですが、後段の完全にこうドライになって乾ききっている感じの人っていうのは絶望してるわけですよ。
いや、分かってはいるんだけれども、伝えたところで無駄だっていう感じ、伝えたところで虚しいっていう感じ、あるいはうまいこと相手の同情を引くことができても結局この人たちには問題解決能力をあまり期待できない。
最後は自分が何かしなきゃならなくなるとかいろんなことがあるんですけれども、ある種のその人にとっての能力なり猜疑心なりいろんなものが邪魔をしていて、結局コミュニケーションというものが機能しなくなっているっていうそういう感じ。
コミュニケーションスキルの向上
この2つのどっちか、大体どっちかに一応無理やりカテゴライズするとカテゴライズできる何かを何とかしていきましょうと。まずそのやっぱり持ちこたえるっていう苦痛は耐えられないから吐き出しますっていうやつをやっているんなら、極力やめて。
何か先は見えないような感じがするかもしれないけれども、直接コミュニケーションではどうせ伝わらないので、間接的な表現を、いやでもそれでは不十分だったり適切だったり無意味だったりするかもしれないんだけど、そこを頑張って探していきましょうと。
コミュニケーションの仕方みたいな感じ、学ぶって感じじゃないですよね。コミュニケーションスキルを伸ばしましょうっていうのは、このこらえる部分と知りつつある経営を探っていく部分が不足していると思うんですよ。
スキルはいいんですよ。少々知的でも。何が起きているのかを的確に抑えていくっていう意欲が、だからここはやっぱりメンタルになってくるんですよね。ここに機能していない心を機能させるという、そういうことができるんだっていうことを信じていくって感じが、この場合はもうどっちもある意味同じなんですよね。
ある意味ではコミュニケーションに絶望しないと。そういうことになるんだと思っていたらですね、気がつくと時間すげえ経ってるような気がしてきた。45分。もうなんか唐突ですけど、これでおしまいにします。こんなに喋った気がしないんですけどね。
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