タスクシュートの活用
おはようございます。 佐々木正悟のライフハックからの精神分析、第1290回をお送りします。
12月5日金曜日、朝7時53分です。
どうやらようやく1300回が見えてきました。 が、まぁ、どれほど
いや素晴らしい、いい感じの数字だぜっていうところではないよね。1300回。まぁ、そこでキリワンはキリワンですけど、
それほどここに目安を置くっていう回数ではないかなという気はしますね。 まあ気持ちの問題ですけどね、これは。
今日はもうさらっと本題に入ります。というのは、今日はちょっとまた 早々に朝から忙しいので、ここであまりダラダラ
まあ結構ダラダラ喋りますが、ダラダラしている場合でもないんで。 1分ですけどね、珍しく1分で本題に入ろう。
ちょっとタスクシュートの話から入りたいんですけど、 タスクシュートはですね、一番私は有効に使えている人の一つのパターンとして、
もちろんいろんなパターンあるんですよ。というか使う人の数だけパターンなんてあるんだけど、 一つとても有効に使っている人によく見られる面白い現象として、
例えば先日私とタスクシュートセミナーをやってくださったニンデトレーナーのセンリーさんの使い方がまさにそうだったんですけれどもね。
彼女は非常に子さんでタスクシュートをがっつり使い込んでるんだけど、でもこうしてるんですよ。 仕事にはあまり使ってないと。
これはですね、特徴的なセリフで、今日の精神力動的な話とタスクシュートの一つの架け橋にできる話だなと、私は思ってこの話をするんですけどね。
今後私はこの路線をしばらく探っていきたいです。たまたまなんですけど、昨日メンタリストダイゴさんの、昨日というか今週ちょいちょい、
3ヶ月チャレンジの参加者さんからお話いただきまして、そうかと思って久しぶりにちょっとサラッと読んだり、YouTubeで聞いてみたりしたんですよ。
で、これも私こういう観点って今まで持ってなかったんですけど、自己啓発系かける心理学系、
面白そうだっていう人と、うさぐさそうだっていう人とに非常に別れそうな部分なんですけど、これもですね、きちっと綺麗にはいかないですよ。
きちっと綺麗にいかないから体系立てて、そういう話をセミナーでするとか講座でするっていう風なところには、他の理由もあってちょっとやりたくないというか、やんないんですけど、
成人劇の系から見えるものってありますね。非常に多くあります。
で、そういえば戸畑海人さんが、あのね、なんだっけ、マブイセラピーだっけ、なんかよくわかんないけど、非常に強めの個性のね、きちっとした感じの、私あれ今思うと非常に母親的でありながら長寿が的でもあり、つまりまあちょっとやめておこう。
とにかくそういう人と戸畑海人さんが沖縄で体験したセラピー、非正規セラピーですけど、あれはすごい力動的だなって今思うと感じるんですよね。
僕はやっぱり力動的ってどういう感じなのかっていうのをすごく体感だけは回数重ねてきましたから、うまくやれてるって話じゃないですよ。
ただ体感的に重ねてきたんで、やっぱりそこで言われてることが、いわゆる分析的な用語ではどういうふうになるのかというのはすごくすごくすごく意識するようになったし、自動的に浮かび上がってくるものはあるんだなと思います。
これは何ら特別なことではないんですけどね。昔で言うとタスクシュート的にこの事態を見るとか、それは当然見るじゃないですか。タスクシュート25年も使ってりゃ、25年は使ってないけど、20年ぐらい使ってりゃ、それはそういうふうになるわけですよ。
それとよく似た現象が起きてるなと思います。
大吾さんの話から掘り起こさなければならないんで、また今度にしますけど、タスクシュートの話で言いますと、タスクシュートを仕事に使わないなら何に使うんだっていうと、生活に使うんですよ。
つまりプライベートの時間をどうにかしたくて使う。多くの場合、そもそもプライベートがその人になくなりかけているところにタスクシュートが入ってくるんですね。
これはですね、長寿画に一つの軸を与えるっていうことになるんですよ。精神力動的な表現をとれば。
つまり、簡単に言うと長寿画というのはやっぱりですね、状況状況に応じて規範が変わるんですね。
ある種分裂と言ってもいいんでしょうけど、父親対象的な長寿画と母親対象的な長寿画、これは自分の父母がそうだって話じゃないけど、やっぱり父親対象的な長寿画、つまり父親対象からのというのかな、エニプス的なというのかな、こっちはやっぱり職場に行った時優先になるんですよ。
これは非常に自然ですよね。職場には職場の規範があるでしょうし、ありますよね普通は。
そもそも出待機の時間って決まってるじゃないですか。これだけで強い長寿画的なものがないと、そんな時間に気はしませんからね。
私だって朝9時なんかに、だから私、会社で一番やっぱり会社勤めってことになった時に、私が一番無理だなと思ったのが朝9時に来い、いや行けないしっていうことになるじゃないですか。
いや行けないしってことにならないでしょうけど、なる人はなるわけですよ。で、それは父親長寿画っていうのか、まあ長寿画。
で、この規範がグイグイ行くとね、生活を脅かしていくんですよ。生活に侵食していく。
だからある種の人、つまりその人の内在されている長寿画がとても強力であり、しかも職場の規範も極めてエニプス、つまり上下関係とかルールに厳しい。
その上で、その職場はその規範を十分に守らせるべき根拠を持ってる。つまり過酷である。
っていうこの三重が重なるとね、この三重は簡単に重なるっていうケースがあるんですよね。それなりの数あると思います。
で、この三重が重なるとですね、生活時間とか空間を侵食していくんですね。
サステナブルな働き方
まあ早い話が家に帰れなくなるってことですね。早く朝来いと。で、昨日たまたまそういう話を伺ったんですけど、まあこれこの話はしょっちゅうどこでも聞くんでね。
昨日は初めて聞きましたなんてことは全然、そんなに僕も世間に疎いわけではさすがにないんで疎いけど、まあ学校厳しいって話ですよ。
で朝の5時だの6時だのに来いと。6時って?9時だって僕は嫌だっつってね。6時って3時間前かよ。俺6時に起きてるんですけどって感じなんですよね。
6時に来て終電まで返さないぞっていう。いやそれはダメだろうって感じもするんだけど、生活時間とかに侵食してるじゃないですか。
でも職場規範における長寿が対象がすごく強いということになり、しかも職場がそのように過酷である。実際にやることもとても多い。
本当にそれだけのことをしないと家に帰れないんだよってことになってくると、要するに長寿がが父親対象の長寿が。まあもう別の言い方すると、この場合学校、職場に軸を置く長寿がが圧倒的に優勢的になっていくわけですよね。
だから早く家に帰りたいのはわかるが、これをやるまで帰るのはダメでしょうとか、ゆっくり寝てるのも大切だけど、やっぱりこれぐらいのことはやらないとダメでしょうとか、授業の準備もこれだけいるでしょうとか、そういう職場軸の長寿がの言うことを全部聞いてると生活時間は侵食されていくわけですよ。
そしてさらにはですね、終わってない仕事があるんだったら土日も仕事しなきゃダメでしょ、持ち帰らないとみたいな、そういう職場長寿ががどんどんどんどん言い分を広げていくわけですよね。
で、霧がないわけですよ、これは。状況が過酷なわけですから。長寿がというものの問題はですね、基本的に長寿がというのはSの一部っていうのかな、要するに自我指示的な世界じゃないので、要するに自我に対して突き上げをしている井戸と基本的には変わらないわけだから、そこなしなんですよね。
特にそういう総合的とかいうのかな、幼い長寿が、幼いじゃないですか、この長寿がって。これがね、すごく我々みんなが騙されてるんだけど、こういうことをやる人は評価されて、社会的な評価も高くて、職場ですよね。職場でもあの人は本当仕事して偉いよねって言われるもんだからグイグイやっちゃうんですよ。
でもそれって決して大人っぽくはないんですよ、振る舞いとして。周りの大人みんながいいね褒めてくれるっていう感じで、俺もうどんどんやっちゃうからみたいな、あなたたちと私違うからみたいな感じで、これってすごく決して大人びた対応じゃないんですよね。
大人というのはそういう時に上手いこと言って、そういう人に仕事させてっていう部分があるじゃないですか、やっぱりどっかには。この話は良くないことなのかもしれないけど、でもやっぱあるわけですよね、どっかには。
なんとかさんすごい頑張ってるよみたいな、私はあなたみたいにとても働けないしみんな頼りにしてるからっていうのを聞いて、なんかもうホクホクして朝4時とかに学校行って、夜は12時まで学校にいてみたいなことをやっている。別に利用しようとか搾取しようってわけじゃないんだと思うんです。
だってその人はそうやろうとして生き生きとしてるんだから、まあまあ大変だし無理しすぎないでねみたいなことは言うんだろうけれども、でも結局はこれは思春期的長寿がに近いと僕は思うんですよね。思春期的長寿がって言葉はないですよ、さっきから適当な言葉をどんどん作り出してるんですけれども、でも相互的長寿がって言葉はありますからね。
原初の長寿がとか、そういう2歳児から見た親の態度とか10歳児から見た大人の世界とかはやっぱり決して大人の世界じゃないわけですよ。我々はそういう規範をかなり早い段階で自分の心の中にインストールしちゃいますけれども、しちゃうからこそ、実は長寿がというのは大人のように振る舞う子供っぽい発想なんですよ、多くの場合。
で、それが圧倒的に優先になってきて生活時間を浸食すると。しかし、仕事は実際に追いついていないから、どんどんどんどんその規範が強くなっていくと。しかも罪悪感を持ちやすいんで長寿が強い人というのは当然、自分の仕事のスピードが遅いからじゃないかとか、だらだらしてる時間も結構長いとか、いろんなことを考える。そして破綻していくわけですね。
だって家にいる時間少ないのに、家のことできるということはありえないじゃないですか。洗濯物はたまるし。つまり、学校で基本的にすごく周りが称賛して、支持的にしてくれるように振る舞える人ほど、生活状況はそれと対照的に不思議なくらい無茶苦茶になっていくっていう、決して不思議ではない現象が起こるわけですよ。
ここで職場的長寿がというものが優勢なままの人はですね、いやこれ生活も終わってないから、生活もちゃんとやらないとダメじゃんみたいになっていって、24時間を突破するんですよ。でも24時間の中に24時間以上は入れられないので、ここで例のタイパーを良くするという話が出てきたり、スピードハックみたいな話が出てきたり、私は自分の本のタイトルをけなすつもりはないですけれども。
超速仕事術みたいになっていくわけですよ。1秒で3週間分の仕事を終わらせるとか、今AIがあるからね、使い方としてどうなのって感じもするんだけど、でもこれはキーがないわけですよね。いくらそれをやったとしても、仕事自体はなくなるわけじゃないし、なくなれば困るんでね。
結局はその発想それ自体が決して大人的ではないということ。なぜならサステナブルではないからですね。ここにタスクシュートがうまいこと入れるときがあるわけ。生活時間に使いましたっていう話になるわけですよ。つまり職場時間に使うっていう理由はないわけですね。
職場と生活の時間の不均衡
職場時間もパンパンでやれるだけのことはやっていて、そこの記録をつぶさにとってみたところで無駄だから。それによって何か改善される余地はないんでね。減らすしかないんですよ。でも減らすのやだわけですよ、そういう人は。職場的な長寿が仕事減らすのはとんでもないって言ってるんだから、そっちには従えないわけ。
でも生活が破綻したことは気になっていて、これはいくら職場的な長寿がの言うことを聞いていても、多分自体は改善しない。土日に仕事を持ち帰って、家の洗濯物やら、溜まってる食器やらを全部一気にやろうって思ってるんだけれども、実際は土日はあまりにも疲れているので、コンコンと寝ちゃったりしますよね。
非常におかしくなってるわけですよね。職場と生活の時間はできれば5対5ぐらいであってほしいのに、99対1ぐらいになってるわけだから、回るはずがないんですよ。
だけどそれを、なんだっけ、いいタイトルでしたね。いいタイトルだから、けなすつもりじゃないんで使わせてもらいますが、かつは家電みたいな。家電に火事はやらせればいいのよみたいなノリで、あれはいいタイトルだと思うし、僕はいい本だとも思うから、だけどこの文脈だと決して褒めてることにはならないんだけど、ルンバを使いまくりましょう。
知りませんよ、私そう書いてるかどうか知らないからね。全部食事も自動で作りましょう、つまり99対1でも回るようにしましょうってことですよね。自分で火事やらなくていいんですってことですよね。でも私はそこまでやったと仮にしてもですね、そして火事もきちんと行わせるようになったとしても、このやり方ではいずれ破綻はするだろう。
99対1になったら多分、学校の仕事がものすごいってことは変わらないんだから、999対1になっていくっていう話になって、やっぱり救急としてカツカツになっていくっていうのは避け難いだろうなと思うんですよ。
第一、火事は、つまりこれは独身であればね、火事は全部家電がやってくれるかもしれないけど、夫との相手は家電をやってくれない、女性だっていう前提でしゃべってる、奥さんの相手でもいいですよ。奥さんの相手を家電にやってもらうわけにいかないじゃないですか。
それは家庭内別居みたいなもんであって、あるいはお子さんとの触れ合いの時間もAIに雇いてもらおうみたいになる。何かがおかしいですよね、多分。だから働き方改革とかそういう話になってくる。ワークライフバランスとか、首相は馬車馬のように働いてるらしいけど。
まあでも馬車馬のように働くのと、どこまでもブラックにのめり込むのはやっぱりちょっと違うと思うんですよ。学校がブラックっていうわけじゃないんだけれども、この非常はとにかく危険でしょう。職場を取り除いても一旦危険は危険でしょう。
タスク修道が生活に入ってくるっていうのはこの文脈では極めて妥当なんですね。タスク修道が生活に入ってきて初めて生活側の長寿がに軸ができるんですよ。しかも我々はタスク修道協会の理事である我々は多分ある種の長寿がつまり父親対象みたいにして扱われるんだと思うんですね。
ここに新しい規範的な言葉を発するわけですよ。だってそれは発しますよ。教会の理念みたいなのって書けて風に書いてあるの。教会の理念はあります。時間的豊かさ。これ一つ持ち出すだけでもうちょっと言うと職業に規範なしから来てるんだけど、タスクに規範なしってこれはジェーン松崎さんの言葉ですけど、タスクに規範なしっていうのはつまりそうですよね。職業に規範がなければタスクに規範ないですよね。
タスクに規範なしということはつまり家事というものは減らせば減らすだけいいんだというふうには我々は発想しない。だからタスク修道には一つの長寿が的な理念が乗っかってるわけですね。今は。昔は乗っかってなかったけど、今は乗っかってるわけですよ。
長くタスク修道大橋哲夫なり佐々木正吾なりジェーン松崎なりが使ってきて、こうやるとうまくいかないなとかこうやると人が苦しむなっていうのをいろんな長くはない20年そこそこの歴史ですけど、20年の中でいろいろ積み重ねてきてこういうふうにやるとどうやらタスク修道はスムーズというか有効活用して勝つ人を壊さないようにできるらしいっていう知見が
集約されつつあるわけですね。その集約のうちの2つが、つまり時間はなくならないということ。もう一つがタスクに期限はないということ。これを生活の長寿がの軸として、つまり2軸できるわけ。今までは職業長寿が1軸で全部とことん突っ張っていったから、当然時間生活空間と時間は浸食されていく一方だったんだけど
これを生活に軸を与えることによって、この生活の時間を全部やろうとすると、そして睡眠時間も入れると24時間の中には24時間しかないからっていう当たり前なんだけど、当たり前のことが標組みになって現れるわけですね。
標組みになってこれが現れると長寿がこういうのがやっぱり好きなんで、つまりこれが規範として機能するじゃないですか。今日のことはとにかく今日やれるだけのことを今日やったら良しとするんだという重要な軸が一つできるわけです。これまでは職場におけるすべてのことを俺がやるんだみたいな底なしだったんだけど、そこができるわけですよ。
これここまでにするってことがタスクシュートによって明示されるわけです。ここまでやればいいんだよ。つまり長寿がの規範に一つ新しい規範が追加されてここまでやれば良しとしようねっていうルールが一個できるわけですよ。
ルールと長寿が相性がとてもいいので、長寿がイコールルールじゃないけどね、相性がいいので、特にこれは母親対象みたいなノリだと思うんですけど、自我理想みたいなノリもあると思うんですけど、健康的な生活を送りましょうみたいな新しい軸ができる。
そうすると土日まで仕事持ち込んで帰ってくるのやめようよとか、もっと子供たちとの時間を増やしてもいいはずだとかいうことで押し返していくわけですよ。職業時間によって侵食されている生活時間を押し返していくことができる。
で、これをあまりやりすぎると今度は全部が生活を軸とした長寿がの言い分になって、いやもう絶対定時に帰るみたいなそういう融通の効かない発想になっちゃうんだけど、でも多くの場合、やっぱり元々気真面目な人が多いですからタスクシュート使う人は、つまり元々職業軸とした長寿がそっちの方が圧倒的に優勢なケースがほとんどですから、やっぱり少なくともそういう人はとても多いので、
タスクシュートの効果
生活に軸を置く長寿がの言い分というものを通すことによってバランスが良くなってくるっていうことがしかも割と急速に起きるんですね。
なぜなら時間を可視化してるから。で、どのどういう比率になってるかとか、現実はどういうことになってるのかっていうのが一目瞭然だから、非常に押し返しやすいわけですよ。
ワークライフバランスを取りましょうとか、働き方改革をしましょうという、そういうスローガンによるだけだとどうしても、いやでもやっぱりここは残業しないとダメでしょうみたいなのがあっさり時代を決定しがちなんですけれども、
タスクシュートっていうのは、実際はそうなのかっていうのをかなり時刻という具体的な数字を使って、自分に対して反論をかけてくることができるツールなので、それによって逆転はしないまでも、ゆり戻しははっきりかかるわけですね。
そうすると実際に皿洗うとこれぐらいの時間はかかるが、これぐらいの時間で済むとか、実際にいくら残業しまくっても、仕事自体はちっとも減ってない。つまり、残業時間自体は少しも短くなっていないとか、そういうことがあからさまに自分に示すことができるわけですね。
だから生活時間を中心にまずタスクシュートを使ってみたら、なぜか物語が好転しました。仕事の残業時間が短くなりました。家族との関係も有効になりました。聞くと一見非常に不思議な話になるんだけど、そうではないんですね。これは決して不思議な話ではないんですよ。
手こいでをどこにするべきかっていうのは、生活にするべきであることは自明なわけです。その人自身にとっては自明じゃないかもしれないけど、はためから見れば自明なわけですよ。それをただ自分に許すことができないんですね。なぜなら職業的な長寿がが全てを握ってるからできないんですよ。
でも生活的な長寿がに力を与えることができて、長寿が対長寿がっていう構造が作り上げられるようになると、少なくとも生活時間が4割は欲しいよねとか言う、そういう3割は全体欲しいよっていうような押し返すことができて、これによって生活基盤が復旧してくるわけですね。
結局のところだって生活せずに仕事だけして生きていくなんてことはできるはずないじゃないですか。食事をしなきゃならないし、寝なきゃならないじゃないですか。で、だいたい極端なことを言って、ある程度人に支持される人というのはどっちかにしちゃうんですよ。生活が全てでしょうとか、仕事が全てでしょうとか。
よくありましたもん昭和に。もうなんか男は家なんか帰らないのが偉いんだみたいな。それはだからそういうことを言うことによって称賛はされるわけですよ。一部は少なくとも。そういう時代もあるから。時代は流行に非常に敏感ですからね。今全く流行らなくなったから、あれを諸手を挙げて喜ぶっていうことはまず考えられないけれども、一般的にはね。
だから今はホワイトが流行るわけですよ。ブラックよりも。いいことだと思いますけど。ただそうするための一つの軸ですよね。勢力の結集できる何かが必要で、それがタスクシュートが生活時間を改善するために使うという発想そのものの中にあるわけですね。
ここで終わると、いかにもタスクシュート協会の理事が言うところのいい話で終わることができるんですが、私はここでは終わらない。これの話がですね、この限界とその限界とは何かっていう話との兼ね合いで、ここから先は話を進めていくので、タスクシュート的な話からすると非常に一気に分かりにくくなります。
藤山直樹さんの例の週4、週5、週1、週2の話ですね。私もまだまだ迷ってるんですよ。まだまだ迷ってる。
藤山さんは最近の本の中ではやっぱりちょっと力点変えてきてるなって思うのがですね、以前週1回で読んだときとほぼ同じ内容の論文があるんですけど、それでも伝わってくる内容に少しずれがあって、藤山さんはですね、週4というものは抱える力がとても強い。週5はもっと強い。それに比べると週1というのは抱える時間がとても貧弱だっていう論だったんですね。
そんなに全く変わらないんだけど、よくあれを読んでると、あの本の中で読むと、それよりもなお藤山さんが問題視しているのが、博奪のインパクトが強すぎるってことなんですね。週に1回だと。
簡単に言うと、またあと1週間セラピーの人と会えないのかっていうのが、悲しいとか寂しいとか辛いとか心細い。特に4つ目の心細いかな。私も経験があります。私、経験しているのも週1回だったんだよ。
あれ不思議なんですよ。なぜ不思議か。私のはポストってその人は名乗ってなかったけど、事実上、精神分析的心理療法だったんですね。だから、何か支持的なこと言ってくれるとか優しくしてくれるとか全然ないわけですよ。
私が自由連想してそれに対して、あーなるほどねー、何とか何とかとかって言ってくれるだけなんですよ。言ってくれないことすらあるんですよ。うーんとか言ってるだけの時も結構あるんですよ。いや、わかるんですよ。一応知識があったから。ただ、つまり黙ってるだけでもただ黙ってるんですよ。本当に。
だから黙ってるうちに30分が過ぎて、やべー50分しかないのにもう30分黙ってるうちに過ぎたじゃんってことになる。本当に。なるのにもかかわらず、もう終わりなの?っていう気持ちにもなるんですよ。しかも1週間ないわけなんですね。
剥奪の影響と寂しさ
で、この何か私より年下の寡黙な、普段寡黙か知りませんけど、私との間では寡黙なこの青年が、一体私がなぜこの人に毎週毎週会いたくなるのか、謎だぜっていう気持ちになってくるわけですよ。ものすごい謎な気持ちになります。私はね、なりました。
で、僕は剥奪のインパクトまでは正直なかったんですよ。これをどう捉えるかは非常に難しい問題なんだけど、とにかくなかったんですよ。剥奪のインパクトまでは。うわーつらい、もうダメだーみたいにはならなかった。けれども、それでも寂しいなーみたいな気持ち。寂しいって思うってまるで恋愛じゃないですか。
でも私は彼に恋愛感情らしきものを持った感覚って、かなり努力して探ってみたんだけど、一向に感じられないなとは思ったんですよ。
まあ友達関係の相当喋らない友達と飲みに行って、なんか特に何もなかったけど、まあまあいい時間だったよね、じゃあね、ぐらいの感じはあったんですけど、でもまあそんなもんなんですよね。
本当にでもこれがケースによっては剥奪。つまり、まだ飲みたいのにって言って無理やりおっぱい離すと赤ちゃん火がついたように泣くじゃないですか。それが剥奪だと思うんですけど。
このインパクトに相当し得る可能性はあるというのが精神分析のかなりコアな部分。つまりそれって解釈とか変容とか、それこそコンテインなんだけどコンテインですらないじゃないですか。
どっちかというと離乳児の苦しみっていうものにこそ何かその人自身の心のかなり核になる部分が現れる。タスクシュートの話どこ行ったおいって感じがしますよね。
タスクシュートの話で、私はこれを藤山さんの本を読んでいるうちにタスクシュートのさっきの話を一気に考えついたんですけど、なぜかというとインパクトって言ったときにつまり人ってのは結局何かに自分が支えられているとか何かをやっていればうまくいくとか、つまり藤山さんは健康という防衛に逃避するという表現を取っているんですよ。確かにそうだったと思う。
つまり剥奪つらいじゃないですか。だからいや別につらくないしってやるんですよ人間は。たぶん私がやったのはそういうことなんですよね。健康という防衛に逃避しているわけです。でいいんですよそれで。だって週に1回しか会えないのにいや剥奪つらいセラピーの人なんとかしてくれみたいに1週間のうち6日もなってたらたまったもんじゃないですかね。生活に破綻をきたしますよね。カウンセリング受けることによって破綻を招いているようなもんですよね。これが怖いんですよ。
私サンチャレでこれを何とかを引き起こさないようにありとあらゆる努力をしなければと思っているうちに、例えばテキストは無限応答にしますとか少なくともいくら寄せてくれてもいいですとか。レクチャーを週に1回必ずやりましょうとか。何なら週に2回やりましょうとか一旦やってましたけど。
そして取った文字起こしの記録とかを共有しますとか。
ポッドキャストは基本的に平日でやりますとか。いろんなことやってますね私はね。これにまつわる話として。週に3回とかやればいいんでしょうけどできないから。そしてある意味オンラインでやりますというのもありますね。
これらはすべて剥奪のインパクトを弱めるというかマイルドにするという観点で見ると、それが常にってことじゃないんですよ。そればっかりやってるとつまり剥奪に対する情緒という問題が残ってますからね。
でも私のこのやり方から考えると実際にあることすらしてないんでやっぱり剥奪というインパクトをとにかくマイルドにするんだマイルドにするんだっていう。
だって藤山さんがそういうことをやたら書いてるからそういうことを考え始めるわけですよ。私の意識も無意識も総力を挙げて。考えてるうちにやってることがもしかしてこれがサンチャレの有効成分なのかもしれないなと。
精神分析の人に怒られると思いますよ。でもこれは精神分析ではないですからね。この言い方ずるいかもしれないけどでもそうでないことは確かなんだから。精神分析的とも言うのやめてますから精神力動的にしてますから。これが精神力動的と言っている理由なんですよ。分析的じゃないだろそれ。はい違いますって言えるように。
そんなこと気にしてるのはあんたぐらいだって言われればその通りなんですけどね。なぜならば私のやってる活動の規模が小さいので精神分析的じゃない。的ですらないだろそれとは誰も僕に言ってきたことはない。精神分析じゃないよそれはとすら当然誰も言ってこない。だって多分出会うこともないから。
なんですが気にはしてるから言ってます。何を言ってるかというと精神力動的と言ってる。これならかなり批判的コメントの有効に言われることはあるかもしれませんけどその効力が下がり。
力動的ですらないよそれはっていうのに対しては私は反論できる気がするんですよ。いやこれは力動的ではあると思うって言えると思う。精神力動ですとは言えないですよ。でも精神力動的ですとはこれは言えなくはないと思う。だからそういう反論はできると思ってるんですよ。だから名乗ってるわけですね。
幸い資格はいらないです。精神力動的なことをやるというだけであれば。セラピーとか心理カウンセリングやるのはダメかもしれない。まあ実際には法には触れないんだけど。まあでも私は心理臨床やるとは言ってないしカウンセリングやるとは言ってない。精神力動的な支援をしますと言ってるにすぎないんでこれはダメだとは絶対言えないはずだっていうある種確信を持ってるわけで。
でどこがって言われると剥奪という事象が発生するような設定を持っておきつつその剥奪のインパクトを弱めるために今考えつく限りのことはITなどの技術を使ってやっているところがっていうのが答えになります。
僕の中ではこれはすごく明快になってきつつあるんですよ。それがうまくいってるとは言ってませんよ。またそれが有効だという確証があるというわけではないんだけどあの手この手を試しているうちにだんだん形をなしてきたなとは思ってるんです。
でこれをやりすぎると自我支持的になりすぎて進展が遅くなるという藤山さんのあるいは進展は一切しないという藤山さんの指摘は基本的には受け止めるべきだと思うんだけど一方で進展が全くないというような話には私はならないと思う。
やっぱりやってることが普段世の中のどこでもあんまりほとんど全く行われてないことをやってることは確かなので常にリキドについて考える機会が週に2回は少なくとも週に2時間を発生するっていうこの事態そのものがリキドに触れたこともないという方にとっては一定のインパクトを必ず持つはずでで剥奪が起きるっていう言い方まではできないかもしれないけど
でもやっぱり私のあの心理カウンセリング精神分析的心理に心的心理療法かなポスト的なものを受けたポストがそもそも的が入ってるのにポスト的ってなんだよって感じですが受けた私の立場からするとあれで剥奪が起きるのであれば私のこれで起きないはずはないと思います。
剥奪らしきものがあれで起きるなら起きるだろうなって思います。私は実感しなかったのはおそらく確かに藤山さんがおっしゃる通り健康という逃避先に防衛して健康という防衛を使って逃避してるからそれは確かにそうです。
タスクシュートの役割
だってやっぱり自ら支持的に生きていかないと生きていけなくなりますから私みたいな生活基盤の人間であればましてやですね。
これが私が意外と働いていたり収入が莫大にない人間の生きるメリットだなって一つ思うんですよね。
やはり僕みたいな人間が収入が莫大になっちゃうとどう考えても強烈な乳幼児的対抗が起きて生活が回らなくなると思うんですよ。やっぱりね。
で合わせて例えば私が今なんとなく確立しつつあるワンセッションは60分から90分の間を取るということは最低60分はやる最大でも90分までしかしない。
それだったら90分してもらうでしょっていうのは私は精神力等的にはそうじゃないと思うんですね。
時間延長は藤山さんもこれがこれも藤山さんがおっしゃる通りでやっぱり異動的な甘えになると思うんですね。
決して自我指示的にならないっていうあれはとても正しいと思うんですよ。
私の体験からしてももちろん切られましたよきちっとでも2分延長したことがあります。
でなるほどなって思いました。
ああいうふうにきちっと切られると2分の延長私が無理やり引っ張ったんだけどそうしないと絶対にやってくれないから試したわけですよ。
簡単に言うと試し行動ですよある種ので非常に異動的なものだっていうのは感覚としてありました。
決して自我指示的なものではないんだと自我指示的にはきちんと時間守るべきなんですよ。
下手するとそれは非常に超自我的になるけどやっぱり自我はある程度きちんと現実原則にのっとって生きていかなきゃいけないわけだから
2分の遅刻をやいのやいの言う人は少ないですけどでも電車は1分遅れるとうるさい国じゃないですかこの国は。
時間切迫感というか脅迫観念みたいなところありますからね。
でこういうことってやっぱりですね全てがよくよく考えられてるわけですよ精神分析はでもほとんど私はそのまんまやったら私には何もできなくなる。
分析家ではないしそもそも我が国でやっぱり分析そのものはいわゆる週4以上ってやつになってくるとちょっと厳しいですよね。
やっぱり浮遊層いっぺんとになりますよねそういうものって私浮遊層じゃないんで受けられないですよね。
でやっぱりでもこれは何かそういう平行移動仮設ですね週4週1に平行移動できると考えるのはよろしくないというのもこれも藤山直樹さんですが
ただし鈴木智美さんという別の精神分析家の人は平行移動はできないかもしれないけれども精神分析の要素は週1回でも残るでしょうと割とさらっと言っちゃってるんで私はこっちはある程度信じてるんですよ。
やっぱり鈴木智美さんもすごく経験たくさんしているうちに週1回のですねそういう感覚という感触というのを持ってるんだろうと思ってらっしゃるんだろうなと。
そういうのも読んでそういうのをどっちを信じるかって話になってくるし実際には究極的には手に取るようにわかるわけじゃないんで精神分析的成分なるものが通知化できるわけでもないし何かを実証するようなデータがそこで得られるともとても思えませんので後もどっちを信じるかみたいな話ですよね。
私としてはどっちを信じる方が便利かという観点でも取りますからやっぱりこっち信じておいた方が便利だよなっていう方を信じておきます。ただし正しがきはつくなと思ってます。
それでさっきの長寿が2つの軸を持つっていう話ですよ。つまりタスクシュートを使うことによって職業的長寿がに対してくさびを打つ、そして生活的な長寿がというものが押し返せるようになる。
つまりですね私たちは何でどっちか一辺倒になりやすいかというとやっぱり自分を支えてくれる、自分を支持してくれる、たとえそれが防衛であれ逃避であれ健康的な防衛であれ何であれやっぱりそういう風にしてれば回るっていう人間は大変弱いんですよね。
このことを藤山さんは書いてると思うんですよ。週に1回にしたら下で、その人は剥奪のインパクトを弱めるために結局うまく生活基盤を成り立たせるためにうまいこと回すんでしょうと。人間というのはそれが病的なものであったとしても防衛というものを活用して現実と織り合えるようになるべくするもんだと。
だから帰っていけないんだって話なんだけどでもそれを剥奪してしまっちゃまずいでしょうというのが北山治さんのような方がおっしゃってた応援を取っちゃってはダメだと応援を取ってもやりきれる自信というかやりきれるという覚悟がないなら取るなっていうような話。あれはそういうことですよね。
自我を緩める方法
やっぱりタスクショットやってても思うわけですよ。生活の方に軸が置くためにはただ働き方を改革しましょうでは無理があってやっぱりそこにこうやっても回るんだという一定の自信と安心感を得て初めて職業的な仕事中心のワーカーホリックみたいな長自我を少し弱めることができるわけじゃないですか。
目的はそこにあるんだけどそのために何かしらのツールを使うっていうことがここでは実現しているわけですね。
同じようにですね。やっぱり週1回という状態で剥奪が強めであってそれではままならなくなるならば弱めるわけですよね。こういう応援は私はしゃあないだろうと思うんですよ。
そしてその中ででもなるべくその応援を使わずに済むようにする職風みたいなもの工夫様々な工夫が精神力道ってものなんではないんだろうかということをそのタスクシュートにおける長自我の軸みたいなことを合わせて考えてみたっていうお話でした。