00:05
おはようございます、グッドモーニングバイブスです。
先日、チェンジツにあげた記事が大作になりました。
6000文字近い感じです。
引用も良いですが、サムネが怖いというのを頂きました。
記事には賞賛されていたので、頑張って書いて良かったと思いました。
サムネを選びました。
怖いものを選びましたが、考えます。
何を考えるかというと、
チェンジツも仕事もいつまでできるか分かりませんが、
しばらく頑張ってみようと考えました。
何をどう頑張るかというのではなく、ただ頑張ろうと思っているだけです。
あれこれ、色々考えるのは予想です。
何かを決意する度に、ブログはいつもこの決意になってしまいます。
だんだん何かを気にするのは予想になっています。
それだけです。
諸々気にしていることがあります。
何かを教わろうと、グッドバイブスだろうと、
いろんな人が同じようなことをブログについては言います。
気にするなと。
でも気にしているのです。
何をというのは本当にいっぱいあって、
しかも一つ一つ細かくて、きりがないくらいです。
2年も3年もかけて、気にするのはやめようと思っても、
3年後さらに気にしてはいけないというか、
別に気にしちゃいけないわけではないですが、
というか気になってしまっているのです。
それを気にしないようにしようと、心がけていくわけです。
良くなっているとか、レベルが上がっているということはあまり思わないのですが、
気にしなくなっているということだけは感じるのです。
もちろん気にした方がいいこともあるという意見もあると思うのですが、
私はそうは思っていないのです。
本当のところ何一つ気にしない方がより望ましいという、
この点に関しては一直線で価値観が単純なのです。
気にしなければ気にしないほどいい。
だけど気にしちゃっている部分はきっとそれでもあるということです。
そういう意味では今回のサムネが怖かろうが何だろうが、
気にしなければいいのですが、
頑張るというのは気にしない方向に頑張るということです。
このことと関係あるようなないような話ですが、
昨日だったか一昨日だったかちょっと混ざっているのですが、
03:07
マインドフルネスとかグッドワイブスのワークでも同じですが、
今ここということや意味付けを徹底的に手放すと、
現象学にワークはないかもしれませんが、
哲学では現象学的な発想をやると、
よく言うところの迷走ですよ。
やるとマトリックスなんじゃないかという意識というのかな、
そういうノイズなのかな、
そういう気になることが深み上がってくるというお話です。
つまり、意味付けを手放して、
今ここで私が見ているものと見ている私の
集中でもあるし、
意識が漂うという、
これはフロイト的ですけれども、
そういう言い方をしてもいいのですが、
そういう純度が高い感じってあるじゃないですか。
意味付けを手放していくということをすると、
この世界が作り物みたいに感じられてくるということなのかなと思うんですね。
要するにマトリックスなんですよ。
見させられている映像なんじゃないかとか、
私がよく言うところで、
これは夢なんじゃないか、意識に近いものですね。
私はこれは自然そうなるだろうってまず思うんですよ。
私は夢を見ているんじゃないだろうかという、
知覚に対して強い猜疑心を持つわけだから、
炎症学ってそういう考え方なんですよ。
目の前のリンゴは果たして本当にリンゴなんだろうかってやつなんですよ。
これと近い意識状態にどんな迷走でも入るはずだと思うんですね。
見ている私を意識するってことをやり出せば。
だからマトリックスが浮かぶというのは至って当然の流れだとは思うんですよ。
でも、そういうのが浮かぶのは当然なんですけれども、
そこでマトリックスって言葉が出てくるってところが一つの着眼点だなという気がします。
つまりそれは、私はオリジナリティっていう問題だと思うんですね。
オリジナルは個性と言ってもいいと思いますし、
創造性、クリエイティブの方ですね、という話だと思うんです。
これも年長学の話ってここが厄介なんですが、
倉園さんもよくお話にはなるんですけどね。
06:02
目の前のリンゴが本当にリンゴなんだろうかには二つ意味があって、
一つは作り物なんじゃないのかというやつですね。
つまり本当に現実のことが私はわかっているんだろうか問題が一つありますね。
もう一つは自分が作ってるんじゃないのこれっていう問題、
つまり創造の産物なんじゃないのかという、こっちはイマジネーションの方ですね、の問題。
これは私は基本同じことだと思うし、
妊娠理学でもこれは同じだっていう方向が一応コンセンサスを得ていると思うんですね。
みんな学者の間で基本その二つは変わらないんだよっていう証拠集めの方が優勢に見えます。
どういうことかというと、つまり知覚っていうのは作り上げているものだってことですね。
夢を見るっていうのが私は一番わかりやすいと思うんですよ。
夢を見ているときに私たちが作っている世界はなかなかリアリティがあるじゃないですか。
太陽は太陽っぽいですし、家も家っぽいでしょう。
つまり知覚とイマジネーションにおける想像を徹底的に頑張れば、
頑張ればというか脳が十分な能力を発揮してそれをやればですね、
知覚と想像は何ら違いはないんですね。
ここにマトリックスという発想が入ってきたはずなんですよ。
これが怖いんだと僕は思っているんですね。
人は自分のオリジナルという考えが嫌なんだと思うんですよ。
嫌だから模倣に走ると思うんですね。
なぜマトリックスという言葉が出てくるかというと、
その条件がマトリックスの条件とよく似ているということにまず気づくからなんですけれども、
もう一つは自分が作っていると思うのは嫌だからだという印象が入ってくるんですよ。
この指摘が入ると。
つまり所詮マトリックスだよねっていう言葉を聞いた時、
違う、所詮あなたが作っているんだっていう風に言いたくなるんですよ。
マトリックスだっていう言い方をするってことは、
つまりそこをオリジナルだっていうのを避けている感じがするんですね。
それは映画じゃないですか。
映画のモチーフを借りてきてますよね。
そうすることによって1から10まで自分が作っている現実だって思うのを、
どこかでちょっと避けたいという気持ちを感じるんですね。
私たちはこれがすごくひどいんですよ。
一番わかりやすいので言うと、
札幌に行って、札幌のラーメン街みたいなのがあるんだけれども、
一番人が多く入ってそうなところを探すんですよ、私たちは。
私たちは人を模倣しておけばとりあえず安心だと。
あれ、そういう本ありましたよね。
みんなの答えはだいたい正しいみたいな。
正確なタイトルじゃないですけど、
Google検索みたいな話をしていると思うんですね。
09:00
何かというとそういう風にするっていう人もいるじゃないですか。
ブログを始めましょうという時になると、
よく見られてそうなブログを参考にすると。
私、一度ブログのデザインを有料で割と高いお金を払って
お願いしてみたことがあったんですけど、
青春的な話ですね。
この時にやっぱり、
佐々木さんが一番気に入っているブログをいくつか上げてくださいと言われるんですよ。
これがダメだって僕は思うんですね。
このブログのデザインはそういう文化だし、
そうするべきなんでしょうけど、
私は原則それはダメだって思っているんですよ。
記事を書く時もすぐやっちゃいますよね。
そっくりのものが出来上がってきがちじゃないですか。
あるいは、
YouTubeとかも、
うちの娘も始めたんで、よかったら見てやってほしいんですが、
あれもうちの娘もそうなんですよ。
よく出来ている、自分がやろうとしているジャンルの、
あれはあれで流儀だからいいんでしょうけど、
やるんですよね。
つまり、僕らはオリジナルというものに自信がないんですよ。
この世の中はあなたのオリジナルなんです。
オリジナルの作品ですよって言われたら、
怖いんだと僕は思うんですよね。
どうしてもそうであってほしくはないという気持ちが、
いろんな意味で強く働いて、
この世の中というのは、
作ったものじゃなくて、私が作ったものじゃないんだけど、
私が生まれる前から、
ちゃんとした姿を持っているって思いたいんですよね。
あるべき現実の姿っていうものが、
出来ちゃうんですよ。
私はこれはタスクシュートの次のタスクを実行する時にすら、
悪影響を及ぼしていると思うんですね。
あなたがオリジナルで判断して、
やるかやらないかを決めてくださいっていうのが、
私がいつも言っていることなんですね。
でも人々は必ずこれを違う方向に、
ここに不安を強く覚えて、
でもそれでYouTubeをやってしまうという、
私の判断に自信が持てませんって言うんですよ。
価値が10日だなんて信じられなくて、
ここで二度寝をするよりも、
英語の勉強をする方が価値があると感じちゃうんです。
それは感じさせられているんですよ。
自分のオリジナルの判断、
その時元気があって、英語の勉強したければするし、
もうちょっと寝ていたくて、
暖かい布団で二度寝をするという方を選んでもいいんですよ。
いいに決まっているんですけれども、
必ずこの時起きる方を選んじゃうわけですよね、私たちは。
戸畑貝人さんが最近の本の中で、
このことを生み出しているんですけれども、
自分のオリジナルの判断、
このことを馬とジョッキーに例えていましたけど、
あれ昔ダンなんとかさんという人が、
象と象使いに例えていたのと同じなんですけれども、
要はそれなんですよ。
12:01
ところがあの葛藤っておかしくて、
私たちの大半は特にライフハックやっている人とか、
世の中の常識的な人はみんな、
あれジョッキーが勝つんですよ。
象と象使いで言えば、象使いが勝つんですよ。
あの葛藤のアレゴリー、象と象使いとかを示しているのは、
一見非常に面白いんだけど、
あの中にはうさん臭いカラクリがあってですね、
ジョッキーが勝つことになっているんですよ。
そうじゃないですか。
結局二度寝をして、結局布団の中にずっともじもじしていて、
会社に行きませんでしたって人はこの世にどのくらいいるのかと、
タブがすっごい少ないと思うんですよね。
圧倒的多数の人たちが葛藤はすごいんですよ。
すごい葛藤をして挙げて、結局起きるんですよ。
ギリギリかもしれないし、遅刻するかもしれないし、
とにかく何かわかんないんだけど、
起きることは起きるんですよ。
つまり結局ジョッキーが勝つんですよ、あの葛藤はね。
というふうにできているのはどうしてかというと、
模倣するからなんですよ。
私たちはみんながやっているようにやるのが正しいって、
どこかで思っているせいなんですね。
私が作っているものではなくて、
私が判断していいものでもなくて、
私がこういうふうにするという方向に
いっていいものではなくて、
正しい対処の仕方がある最初から決まっているというふうに
思ってしまうんですね。
私はこれがマトリックスという言葉が出てくる
基本的な理由だと思っています。
根源的な根拠みたいなものですかね。
結局心のどこかでは、
この地が私が作っているのではなくて、
ここにリンゴというものは確かにあるんだという思いから
抜け出せないんですね。
これの思いから完全に抜け出すと、
仏教でいう悟りになると僕は思うんですけどね。
本当はそんなものはないんだと確信に至れると。
本当にそんなものはないんですよ、きっと。
夢のリンゴと現実に見るリンゴは何にも変わりませんからね。
そこに何にもないって話ではないですよ。
でもそこに何にもないって仏教では言うんだけど、
どっちにせよ私たちが思っているような現実はないんですよ。
そこまでは普通、
マインドフルネスやろうと、
グッドバイブスの学校やろうと、
瞑想しようと、座禅組もうと、
そこまで普通は至らないので、そこまで至らないですよ。
そこまで至る人はほとんどいないんだと思うんですよね。
そこまでは至らないからその前に
マトリックスというのが立ちはだかってくるわけですよね。
結局これは見せられているんじゃないだろうかという不安を覚えて、
これが不安だってところがポイントです。
これは人に見せられているものなんじゃないだろうかという
不安を覚えて、
そういえばそういう映画があったなという
思考が模倣に走るんですよ。
こういう教科書のように、
15:00
マトリックスという教科書のような
素晴らしい出来の良いものがあったから、
ああいうことなんじゃないだろうかと、
そういう風に頭としては理解したくなるんですね。
そうではないんですよ。
だからマトリックスは僕は完全に嘘だと思うんですね。
この目の前にあるものを作り出しているのは自分であって、
他の誰かさんが頭に電極を埋めているとか、
そういう話じゃないんですよ。
もっとずっとそこにはいろんな人が見とっては、
根源的に恐ろしいかもしれない、
恐ろしくはないと思うんだけど、
恐ろしいかもしれない話があって、
つまりこの世の中を作り出しているのは
自分かもしれないというか自分なんですよね、きっと。
これが怖いんだと思うんです。
これがどうして怖いのかというと、
これはマトリックスって思った時の
心理状態をよくよく探ってみると
わかる話なんですが、
日常でいうと、
これも昨日だか一昨日だかに出てきた話なんですが、
これもものすごくよく出てくるんですが、
自分はクレームをもらうみたいな話も同じなんですけど、
どこかで人を傷つけているかもしれないとか
という話が出てくるんですよね。
これ自体一つのイリュージョンだけども、
これもその人が脳内で作り出した現実なんです。
誰かを傷つけるから
傷ついた人というものが発生して、
それによってその人が
遠いところからクレームなりを突然入れてきて
大変なことになるという
イメージを作り出しているんだけれども、
それはその人のオリジナルだということを
忘れているんですよ。
そんな現実は
その人が作り出すものは
決してこの世の中に実現してこないということなんです。
だけれども、多分そういうことについて
神経質な人は決してそうは認めない。
傷つける言葉というものを発すれば
まるで何かのプログラムに乗っかるかのように
現実というものは
最初から決められたコード進行みたいなものに沿って
傷つける言葉というものを
うっかり発するということによって
誰かが傷つくというのが
公式のように成立しちゃうんですね。
つまりこれは、その人が何かをやる前から
この世の中には真理となる何かみたいな
現実的な法則性があるということを
案に意味していますよね。
それがその人がその時初めてやったオリジナルであるという
考え方が多分受け入れがたいんだと思うんですね。
でも間違いなくそうだと思うんです。
そうだと思うのが、そうっていうのはですね、
18:00
つまり今言った
あんまり関係なさそうな3つのことは
全て個性に対する不安から
発生している話だという意味です。
マトリックスというのは
誰だってそう見るでしょう
という意味なんですよ。
例えばあの信号、誰だって赤だと言うねと
それは嘘ですよね。
誰だって赤なわけじゃないんですよ。
特定の電極から特定の脳の場所に
特定の強さで電流を流せば
こういう現実が見えるの、こういう現実がある
って話をあれはしてますよね。
そういう話にはならないと思うんですね。
僕らはついついそう思う癖があるんですよ。
信号の赤は誰もが同じ色見てるわけじゃなくて
実は色すら見てない人もいるっていうことは
知識として知ってるはずなのに
そうじゃなくなっちゃうんですよね。
みんなが同じように見てることになっちゃってるんですよ。
これがマトリックスですよね。
つまり私たちは私たちだけの現実に生きているんですよ
マトリックスでも私たちは私たちの現実だけを
生きているような構造をしてるんだけども
でも結局あれは集団幻想になっている。
同じ現実を見せる技術があり得るって思わなかったら
ああはできないじゃないですか。
だけど同じ現実を見せる技術は私は
永遠にできっこないと思うんですよ。
なぜなら全ての人の脳は全く違うから。
脳というものを生で見てみると
マトリックスに習うような形をしている人
誰もいないんですよ。
一人一人全く違うと言ってもいいぐらいなんですよ。
あれを見ると少しマトリックス感で下がると思うんですね。
私たちの見ている現実は一人一人全く違うんですよ。
そういう意味では私たちがそれを怖がるというのは
わからなくもないじゃないですか。
ものすごく孤独になった感じがしますからね。
さっきの傷つくとか傷つけられるとか
そういった話が出てくると
必ず口をついて出るような言葉があって
誰だってこういう話を聞いたらと思う
ってやつなんですね。
これはさっきの赤信号と全く同じ話ですよね。
誰だってあれは赤に見えている。
こういう言葉を投げかけられれば
誰だって心が傷つく。
この誰だってが当然嘘なわけですし
最初からそういう現実に決まったものがある
っていう話になるわけですね。
ある特定の言語を話す人に
こういう音声の音を耳から入れれば
必ず心なるものが傷つく現象が
法定式のように出てくる
ということがすでにこの世では
先んじて決定されているっていう嘘なんですよ。
それは明らかに嘘ですよね。
赤信号が赤に見えないのとよりは
21:02
はるかに多くの人がつれるんですよね。
だけど当事者にとっては
誰だってになるんだけど
その誰だってという現実を作っているのは自分なんですよ。
だからクレームというものが怖いか怖くないかというのとか
自分がどこかで人を傷つける言動をするんじゃないか
といった話は成立しないんですね。
それはあくまでもその人が
作り出すものであって
その人が傷つけるということを
イメージするかしないか、あるいは
その人が傷つけたという現実を見るか見ないかによって
現実は変わるので
これが信じがたいという話になりやすいんですけど
現実が先行してあって
私たちはそれを受信しているんだって考え方を取っちゃうから
おかしくなるんですけど、私そうじゃないんですよ。
それが目に見えるわけじゃなくて
遠くで起こっていて近くですらないようなものは
作り出す以外はできないはずなんですね。脳の中で。
だから最初からあったわけじゃないんですよ。
その人が作り出さない限りは。
作るのをやめれば消えちゃうんですね。
このことをグッドワイブズでは
特にそれを日常生活に適応しようと応用しようという意味で
倉澤さんが一生懸命お話ししていらっしゃるんですけど
だからクレームでもそうですし
マトニックスでもそうです。そして
記事を書くなり、あるいはYouTubeをするなりの時も
同じなんですよ。私たちは
それにまず魔法から入りたがるじゃないですか。
私このポッドキャストを誰の何の魔法でもない
やり方をしたんだけど、当然変だという風に思う人
結構いらっしゃったと思うんですよ。連番とか最初は
なかったですしね。それは当然なんですよ。
平日やるとかそういうことすら決めてなくて
編集もカットもしないと。いろんな方が
やっぱり教えてくださるんですよ。倉澤さんはほぼ
例外としてほとんどの人は倉澤さんが私に
言ったこととは逆のことをおっしゃるんですね。
もっと加工しろというお話ですよね。
例えば誰それさんと
僕も知っている人ですけど、なんとかキャストというのを聞いてみなさいと
そうするといいマイクとか
編集の仕方が分かるから。こういう発想って
つまりオリジナルに不安を覚えなさい
ということなんですよ。しょうがないんですこれは。
私は自分のオリジナルには不安を覚えないことに
しているから、危機な感じが
するんだと思うんですね。ストレンジなんですよ。
どうしたって最初にやる人間は
上手な人間を模倣するのは当然だと
主張りでしょうという話なんだと思うんですよ。
でも私は主張りに何の興味もないんで
なぜ興味を持たなきゃならないかってよく考えてみてほしいんですよね。
不安だからっていうのが全くそこに潜り込んで
いないかどうか。で、なんで不安にならなきゃいけないのかと。
どこかでそれに対して不安にさせられる
ということを覚えてこなかったかって話なんです。
24:00
だって子供は最初から
主張りなんてことを知っている子はいませんし
どんなことをやるときでもうちの子だって
YouTubeを今やるときは人の参考にしちゃいますけれども
2歳とか3歳の頃には
オリジナルまっしぐらで生きていましたから
あの時の私は漢字というものをよく覚えているんですよ。
これでいいはずだって思うんですよね。
何ら人の
主張りする理由はないんですよ。
もちろんそれが文化だとか流儀だっていう世界で
それをするのは結構だと思うし
別に模倣がいけないわけでもないんですよ。
模倣がいけないわけでもないっていうのは大事だと思うんですよね。
つまり模倣する、模倣しないも
オリジナルなんですよ。そうじゃないと
そういう風にしかなり得ないと思うんですよね。
私がここでオリジナルって言っているのは
私がポッドキャストの番組内でよくなるシズムっていうのと
ほぼ同じ意味で使っています。
私には私が作り出した現実の中でしか生きることが
できないんですよ。
それは他の人が作っている現実、明明が作っている現実とは
ずれているから、そこで何かが起こっちゃうんですね。
そしてそれは良いことなんですよ。
もしそれが起きないんだったら、私たちは永遠に
自分の作った世界以外何も見ることができないってことになってしまうんで
このオリジナルっていうのに対して
不安を覚えるのも別にやむを得ないことだとは
思うんだけれども、この不安を
100%受け入れてしまって、結局
他の人がやっているブローなり
記事の流儀なり
受け入れられやすいタイトルの付け方なりを
参考にすればするほど
私が自分が作った現実だということを
見失いやすくなるんですね。
これを僕は当然避けたいわけです。
本書くときもそうなんですよ。編集さんにも言われるんですよ。
僕は見ないんですよ。
まず読まないです。
なぜかというと、そこに書いてあることが
良いことであろうと良いことでなかろうと
その本が良い本であろうと良くなかろうと
必ず私はそれに影響を受けますからね。
そして参考にしてしまうじゃないですか。
私それがとても嫌なんですよ。
例えばそこに書いてあるから
自分が書くんだったら私が書くのやめようってのも嫌なんですね。
この段階で僕はオリジナルを失ってると思うんですよ。
見なければ黙って書いてたのかもしれない。
気づかずに。気づかずにってのがすっごく良いことだと思うんですね。
余計なことに気づくから
余計なことを考えて何かがしたくなるんですよね。
その時に私が犠牲にするのは
オリジナル以外はありえないと思うんですよね。
私の個性を犠牲にする。
私は現実というものを
お手本を真似るというやり方をしたくなるんです。
でもそうしたからといって
27:01
お手本と同じものは書けないんですよ。
必ず模倣をするという形でオリジナルが出ちゃう。
なのにオリジナルを犠牲にするっていうのは
いろんな意味で損臭いと思いますね。
損臭いと思うし
その結果が良い結果になり得るかどうかも
結局お手本はオリジナルだから
それを真似るオリジナルを犠牲にする
変なオリジナルみたいなものが出て行っちゃう。
避けたいじゃないですか。
脳の練習してるんじゃないんでね。
手張りで本を書きたくはないわけですよ。
そういう意味で私の仕事は
このポッドキャストを撮ってもそうですし
ブログ記事を書くにしてもそうですし
情報発信してるつもりもないんですけどね。
いずれにしても
僕の個性とオリジナルをまっしぐらで生きたいと。
無理なんですよ。
でもその純度が高いほど良いと信じているので
何かを参考にしたり
まして模倣はしたくないんですね。
模倣しても同じものは出来ませんから。
同じものが出来るならまたしもなんですよ。
全然と同じようなものが作り出せて
全く同じくらい私の毎日のPVの100倍くらい
毎日跳ね上がるって言うなら考えますよ。
そうはならないんですよ。
似たような違うものが劣化して出ていって
PVにも大して変わらず
賞賛してくれる人の数も
他の人にシフトするかもしれないけど結局変わらずっていう
そんな結果を得るために
それが嫌なんですね私は。
ある意味では怠惰だと言われればそうなんだと思うんですね。
カットしたりいいマイクを使ったりするのは
手間がかかるじゃないですか。
その手間をかける価値はあると僕は思うんです。
ただそれが不安が動機付けになるぐらいだったら
やりたくないなっていう風にも思うんですね。
最後にですね
自分を模倣しだすわけじゃないですか。
ブログなんかでよく
これをダン・アリエリーは
自己ハーディングって呼んでるんだけど
最初は有名なラーメンに並びますよね。
その模倣という意味では。
ところが一度美味しいと行きつけるようになると
今度はその店に何度も何度も通うようになりますよね。
はなはなしい方に至っては
同じメニューを頼んどけば間違いないだろうとやりますよね。
私はこれも避けるべきだと思うんですね。
ある程度はしょうがないですよ。
時間がないこともあるし
確実に美味しいものを食べたい時だってありますからね。
あるいはデートをしている時に
自分が確実に美味いと思っているものを出すっていうのは
危険性もあると思うんだけど
30:00
自己ハーディングってのもやりますよ。
ブログでもそうじゃないですか。
自分としては同じようなカテゴリーのものを繰り返し出したい。
私はこれもどこからかやめたんですよね。
今回のチェーンズではそこを完全に振り捨てているんだけれども
自己ハーディングって
結局意味ないな。
少なくとも私の中では無意味なものだなって感じがしたんです。
これは結構なかなかかかりすぎた気がします。
こういう感じに完全に振り切れるようになるのに
随分時間がかかった気がします。
結局これも同じなんですよね。
オリジナリティというものを犠牲にしている。
つまり自分はこれを書く人だというような
自分に対するお手本を自分で勝手に用意してしまう。
自分はこういうライフハックを書く人なんだとか
タスク管理を書く人なんだとか
あれですよ。セルフブランディングと呼ばれるものです。
私はあれが昔から嫌だったんだなっていうのを思い出したんです。
こういうことを言っていると何かを批判しているみたいになっちゃうと思うんですけど
無法でも自己ハーディングでも
セルフブランディングでも結構だと思うんですよ。
全然。
ここによしやしはないと思うんですよね。
私はただ自分のオリジナリティを犠牲にしたくないのと
結構タイダだからこういうことをしたくないというだけであって
これをしたいって言うならば
すればいいと思います。
ただこれをしないと不安だというのは
やめたほうがいいんじゃないかなとも思うんですけれども
だから悪いという感じはやっぱりしないんですよね。
マインドフルネスでマトリックスがよぎる
別にそれ自体悪いとかいいっていう話ではないですよね。
そしてそれは構造上当然のことなんですよ。
同じような理由で
私は全く実は同じ理由だと思うんだけど
自分はライフハック記事だけを出す
毎日一つずつライフハック記事を出そう
っていうのも構造上当然起こることだと思うんですね。
そこによしやしはないと思う。
ただ私はもう昔からそれをやると
自分が消えていく感じがする。
そしてそれは私がやっていることと真逆である
って感じがするんですね。
結局私の本になるものを
自分に買ってくれるような人っていうのは
多分私を買ってくれるものだって
私が消えていった
何かの形で整合性の取れた
美しい情報を発信されたものになるものに
価値を見出すわけではないはずだ
っていうのがあります。
もちろんそういう人の方が多いかもしれないので
ここに難しさがありますけれども
そっちじゃないなって思うんですよね。
河合俳夫さんが書くものは面白いのは
河合俳夫さんが書いているものであって
必ずしもグリム童話とか
33:01
河合俳夫さんという個性を消した
グリム童話に関する情報発信を
僕らは買うわけでも読むわけでもないような気がする。
尾形階人さんのような人の場合は特にそうで
彼の個性を読んでますよね、私たちは。
自分自身を消して
ユングハナみんな同じようなことを言うとか
そういうことでは全くないように読めます。
もしそういう風に
どんどん自分自身を消していって
ライフハックだけが残ると
やっぱりそれは
マニュアルのようなものになるしかないと思うんですよね。
ここでマニュアルを書くのが
仕事ですっていう話は全然別じゃないですか。
私がやる話とは全く関係がないですよね。
そして記事の話をするから
今こういう方向に寄せられたんだけれども
マインドフルネスなの、瞑想なのをしている時に
この近くについてマニュアル化していきたいと思う人は
僕は絶対にないと思うんですよね。
例えば見るべき夢を今日から見る
装置みたいなのを作って
それも面白くも何ともないような夢なんだけれども
繰り返し繰り返し見ていると脳に良いですとか
そういうことのためにですね
見るべき夢セットみたいなのを見たいっていう人は
僕は少数派なんじゃないかなと思うんですよね。
そしてそんなことをやっていると
寝れなくなるんじゃないかなっていう気すらするんですよ。
今のは完全にSFですけどね。
つまりそれに近いことを
僕らは何かの時にやっちゃうんですが
そうすることによってですね
モチベーションというものが全く
これが戸畑さんが言っていたことなんですけど
ジョッキーと馬で結局常にジョッキーが勝つ世界は
あまりに過酷すぎないでしょうかって書いていて
私はそこをまさに言いたいんですよ。
学校を休むって時もあるじゃないですか。
大した病気じゃないけれども
けびょうで休むということも当然あると思うんですよね。
その時に私の判断で休めれば
どんなにいいだろうと思うんですよ。
娘が無理をするんでも休むんでもいいんだけれども
辛くなってきたなと思って
でも行くって判断をするにしても
だから休むって判断をするにしてもいいと思うんだけど
自分って決めてほしいですよね。
自分にしか分からないことがそこにはあるはずだから。
絶対こういう時は行かなければいけないという
何かに乗っ取って行っちゃうってことを続けていたら
病みそうじゃないですか。
私はこれをマトリックスっていう考え方も
どこかで傷つけてしまうのが嫌だっていう考え方も
同じ売れてるYouTubeを繰り返し作りたいって考え方にも
共通している。
つまり自分の判断は信頼できないとか
36:00
自分の感覚は当てにならないとか
自分の記憶に頼ってはならないと思うっていう
あるいは意思力には頼れないとか
全て自分に絡むことに関する
強い自己不信というものが根っこにあって
そういう発想になってしまって
それがどこまでも行くという流れの中で
だんだんその人がいろんな神経症的な話に
突っ込まれていっちゃうんではないかと思うんですよね。