2023-03-16 41:37

【753】計画を立てると挫折する?

現実は思った通りになっていない
00:04
おはようございます。グッドモーニング・ボイスです。
3月16日、木曜日の9時半ですね。
今日も続いてますね、これね。
続ける方法みたいなライフハックを喋っても効果ないかな。
あれですからね、すごく簡単な話になってしまうんで、
そもそもライフハックとしてネタ数が足りない感じもしますね。
ノープランでやるということと合わせて、ネタを持たないというのも大事かなと思いますね。
あと、この機材系でいうと、どこでもそれなりの音質のものが取れるというのが、
これは最初からそうだったわけじゃないから、私は700回くらいにしてようやくだんだんそうなったというだけですけど、
そういうことと、何喋るかを事前に全く決めておかないということかなと思います。
もうちょっと言うと、これが多分今日のテーマになると思うんですけど、
それについて事前に考えないということですよね。
この収録以外の時にこれについては、1分も考えないのは無理かもしれないですけど、
10分も考えないのは可能だと思うんですよ。
僕は多分1日10分とか考えてないですから、最大見積もっても3分くらいにしておくと多分続くだろうと。
これは多分僕はですね、ブログも同じなんじゃないかなというふうに思いますね。
これも共通点がある気がします。
それは後ほどお話しするとして、
1月1日ですね。
ありがたいことに、これでしつこく言っている成果なのか何なのか、
ご参加者数がじわじわと伸びてきて、
最小傾向人数は1だったんで、一目の一方だったんで、それは突破してたんですけどね。
これで割と心置きなくやれるかなと。
心置きなくやって仕事としてどうなんという感じなんですけど、
1回目ですからね。
今後別の場所とかで続けていこうと。
割と候補地もですね、
昨日お話ししていくつか見つかったんですよね。
似たり寄ったりの場所なんだけれども、
そういう感じでじまじまと、
月ごとにやっていければ一番いいかなと思ってます。
これあれなんですよ。
夢を叶える、私にしては珍しいタイトルで、
3ヶ月チャレンジ。
こういうタイトルにしちゃおうかなという、
期間限定コミュニティで、
5万円でさせていただいているものがあるんですけど、
03:01
これとちょっと、
月1回は連動させてみようかなという風に考えています。
作業タイムというのは、
その3ヶ月チャレンジで設けているんですけど、
一応毎週30分くらい。
それをですね、月に1回、
ちょっと3時間から2時間、
2、3時間は取って、
それでその2、3時間を、
今回の渋谷でやるなら渋谷でやるみたいな。
そうすると、ご参加いただく方オンラインで、
私だけ会場に行くという形を取ることができて、
会場は別にどこでもいいわけですから、
そういう風にしてみようかなと思っていたりします。
だから3ヶ月チャレンジは、
ちょっとお高めに思えるかもしれませんけど、
毎週セッションやってるんですよ。
だから週に1回は少なくてもセッションが受けられるというのが、
コミコミプランなので、
全部受けるぐらい受けたいという方であればですね、
損にはならないですね。
金銭的にはかなりお得に、
それだけでなるんじゃないかなと。
その他に一応レクチャーがあって、
オンラインコミュニティーがあるというやつなので、
そういうことです。
第2期はですね、
4月下旬から5月上旬、
ただここにゴールデンウィークが来ちゃうというね、
あんまり気にせず行こうかなと思ってるんですけど、
第2期の募集を始めたいと思います。
でも最大で多分5名とかだと思うので、
再募集がですね、
チェックかけていただく方は、
日曜日チェックしておいてください。
計画しないという話ですね。
なんで計画をしないとうまくいくんだろうと、
いろんな説明の仕方があるとは思うんですけどね。
まず、ここのところずっとお話していた通りで、
頭の中で考えることっていうのは現実ではないんですよ。
これはもう皆さんご存知の通りなんですね。
頭の中で考えた通りに現実がなっているよっていう人は、
世界で稀に見る独裁者か、
それに匹敵するほどの大金持ちか、
そうでなければそれは多分妄想ってやつになってきます。
そして私たちに、
少なくとも私の知る範囲内ではですね、
一番この状態に近づいてしまっているの、
そういう症状の一つが脅迫神経症という、
比較的軽いとされていて、
割とよく見られるという症状なんですね。
これはつまり、脳内で倒し目でなかったのではないかという映像がよぎると、
06:05
どうしても倒し目に行っていることを確認せずにはいられなくなるという。
藤本真鶴さん、
昔村上春樹堂という、
村上春樹さんのエッセイみたいなのの対談だか、
絵だかをつけていられた、
すごく独特のですね、
味のあるエッセイを描かれる動物の絵が多いんですけどね。
だが、後期に乗ったですね、ご夫婦がですね、
まあそれも動物なんだけど、
家のガスコンロをちゃんと消して、
封し閉めたビデオまで撮っているのに、
小人さんがですね、
ガスコンロに火をつけて家が火事になっていくという夢を見ちゃうという、
ああいう苦しみなんですね。
どうしても、ここにはもう、もちろん誰が考えてもまず、
この人の真理の奥底には不安というものがあるんだというのが想像つくじゃないですか。
完全にオカルトですよね。
ここがだから上手いなって僕は思ったんですけど、
オカルトになっちゃうわけですよ。
別に藤本さんが、
なんていうんですかね、
まあでも彼はすごく白色な感じがあるから精神分析、
意識が全然ないわけじゃないかもしれませんけど、
いずれにしても、あのストーリーはですね、
やっぱり突き詰めて考えると、これはオカルトなんですよ。
だって小人さんの火つけませんからね。
多分、ファンタジーの世界ですよね。
脳内で考えたことが実現してしまうというふうに思うというのは、
つまりその前にまず脳内でそういうことをどういう力が考えさせてくるのかという話がないと、
つまりそこに原因がきっとあって、
その不安はなぜ自分がそういう、そういうではなくて何らかの不安を持っているのかを思い出せない。
これが無意識ですよね。
無意識の定義っていうのは、
無意識と全意識の違いは、
全意識は思い出そうとすれば今頭の中にないことだけど、
それを引っ張り出してくることができる。
これが全意識ですね。
無意識というのは、そうしようと努力しても無理だってやつね。
漢字のテストとかですげえ苦しくなるやつですよ。
覚えてる?
挨拶とかって昔受験で結構出ましたね。
挨拶っていう字を提示されれば読めるんだけど、
書こうとすると出てこない。
これはもう無意識の縁にあるわけですよね。
近いところにある。
思い出せそうだから全意識に引っかかってきてると思うんだけど、
でもやっぱり無意識の領域に落ち込もうとしてるわけですね。
それよりも深く沈んでる。
つまり、頭の中にはあるんだけど思い出すことはできず、
アクセスするのも難しいっていうのが無意識ですよね。
ここが不安を作り出してしまうと、ある意味お手上げなわけですよ。
09:03
なぜならば、自分が不安になってるという自覚がないから。
なので、心の中には存在している挨拶みたいな感じで、
不安を作るエネルギーというのかな、
不安製造工場みたいなのが稼働しちゃってるんだけど、
でも本人は全くその自覚はないわけですよね。
それで、そこの不安が上がってきたときに、
それに最もらしい説明をつけるために、
こじまりをしなかったってはないかというようなことが浮かび上がってくるわけですよね。
一つのアイディアとしてね。
だから、そんなことはありえないわけですよ。
これは松木先生が書いてたんですけど、
私もそういうふうにして家に戻ってしまうことが何回かあるんだけれども、
そういうときには家の鍵は絶対にしまっていると。
そこですごいよくよく考えていて、
どっかに待ち合わせ遅れたりしないのかなと思うんですが、
よくよく考えてみると、不安というものがどこから来ているのかは思い当たることがあって、
少なくともそれに思い当たることができると、
そういう脅迫症に悩まなくなるみたいなことをどっかで書かれてたんですね。
彼も精神分析の人ですけど。
こういうやり方なんですよね。
意識化っていうのは。
つまり、無意識になってしまっているものを意識化することによって、
その暴走みたいなものを防ぐように持っていくことができる。
ただ、これは運良くそういうことができればいいんですが、
どうやってもそういうことが思い出せないというケースが当然いっぱいあると思うし、
そもそも自分が不安になっているという、自覚すらないという人も結構いると思うし、
あともう一つは、後から上からかぶせているアイディアの方が正しいと思い込んでしまうケース。
これがごく一般的な脅迫症のケースだと思うんですけど、
要は、いやいや、自分は不安になっていなくて、
閉じまりが心配なんだよっていうことから一歩も動こうとしないケースですね。
つまり、無意識の方に興味を持てないケースっていうのがあるわけです。
これは、もう脅迫症ではおなじみでいっぱいありますよね。
例えば、自分がどこかで笑われてるんではないかみたいな心配を始める人は、
多分これは無意識の関係ない不安に対して、
その人なりのアイディアを上からかぶせているだけなんですけれども、
そうは思えないわけですね。
いや、自分が本当に心配しているのは自分の風評であって、
そんな無意識の底にある不安とかには自分は全然縁がないみたいに思うときほど、
この問題は解決しにくいわけです。
これがあれですよね、平気で嘘をつく人たちの一番最初のエピソード。
名前ちょっとどうせ仮名ですけど、
名前忘れてしまいましたけれども、
盛んに訴えていた、
12:00
先生、この人を引いてしまったかどうかも知れないという脅迫症を取ってくださいって言ってるんだけど、
いやいや、あんたのそれは、あなた自分が死ぬってことが不安なのであって、
人を引いたかどうかの不安は、死ぬっていう問題を何とかしないと取れないからっていう、
そういうやり取りが延々繰り返されている。
あれ多分、実際には相当繰り返されたんじゃないかと思うんですよ。
つまり、
彼にとっては人を引いたかもしれないというアイディアを、
自分の死にたくないという不安にかぶせているんで、
この状態が続く限りはずっとそれに悩むことになるわけですよね。
死ぬっていう不安は取れてないから、
そして彼はそれを何とかしようという気もないので、
でも問題になっているのは死ぬという不安であって、
人を引いたかどうかなんていうのは、
ただの思いつきでしかないわけですからね。
なんだけれども、それがあまりにも不安になるので、
自分が人を引いたかもしれない現場というものをぐるぐる回って、
夜中中駆けずり回らなければならなくて大変だっていう、そういうお話ですね。
これがですね、僕は、計画というものを立てるときに、
起こっていかねない現象。
常に起きているとは言いませんが、
計画立てているときはいつも脅迫的であるとは思いませんけれども、
脅迫的であっても別に少しも不思議ではないと思うんですよ。
つまりこのポッドキャストがまさにそうなんだけれども、
今こうやって私は喋ってるけど、
いや佐々木はなぜか喋ってるけどね、と。
カンニングペーパーもなくネタもなくて、
そこで喋るのが止まってしまったらどうするのかという不安があるんですね。
ネタ帳があれば検証できるような気がするじゃないですか。
つまりこの不安というのは、
ポッドキャストをやる上で、
それまでに経験したことはないはずのことなんですよ。
だってポッドキャストをこれからやろうとする人は、
喋ってる最中に行き詰まってしまうという事態に遭遇したことはないわけじゃないですか。
つまりそれは自分の経験から来る不安ではないわけですよね。
根本的にはですよ、
多分違うところからその不安は作り出されているんですよ。
不安なんて、無意識はいろんな理由で不安を持ちますからね。
それこそ死ぬのが怖いとか、
我々は死ぬのが怖いというのは非常に不思議なものなんですけどね。
我々は死んだことはないですし、
人は必ず死ぬぞという、
パイアール事情みたいな公式がどこかに書いてあるわけじゃないですからね。
これは結局、人次元に聞いた話の全体と経験則で、
まあそうなんだろうなとみんなは思っているけど、
実はそうだと確信できる根拠を必ずしも思っているわけじゃないんだけど、
15:03
僕らは人は必ず死ぬって思ってますよね。
ちなみにこれ、いろんな、
カワイハヨさんの指摘か、あれが面白かったんですけど、
チンパンジーといえども、そんな認識は持たずに生きている。
これは非常に私は大事なことだなぁと思うんですけどね。
まあいいや、それで我々はとにかく、
未来からやってくるいろんなもののことを不安と言っているわけですよね。
しかもそのうちのいくつか、
例えば子供の時に、
学校でふざけているといきなりどこかから先生がやってきて、
いきなり殴られるというような経験をした場合、
調子に乗ってふざけていると殴られるかもしれないという不安を持つわけですよ。
しかもそれは忘れるわけですよ。
そして無意識の底に沈めちゃうわけですよね。
で、こういうことって二度と起きないじゃないですか。
おそらくね。
多分ですか、私が電車の中でふざけているからといって、
いきなり後ろから学校の先生がやってきて殴ってくるということはないと思うんですよ。
でもこの不安は、実はこれは私経験があるからこういう話をしてるんだけれども、
この不安はですね、残ってしまうんですよね。
で、この不安が実におかしなことに、
でも決しておかしくはないんだけど、
この不安が不安製造工場みたいにして作り出してきた気持ち、
それに、例えば、
いい気になってポッドキャストで喋ってて、
不意にくだらないことを言ってしまって、
ひそかにみんなに、
こいつは本当にダメなやつだと思っていたらどうしようという不安に、
こういうアイデアと作り出された感情とが直結するわけですね。
多分、そういうことがいくらでも起きていて、
しょっちゅう毎日のように実は起こっているんだと僕は思うんですね。
少なくともフロイトの話を読んで信じるならばそうなんですよ。
この方が説明としてとっても分かりやすいんですよ。
ネタがなくなると、
ポッドキャストで大変嫌な目に遭うんじゃないかと、
不安になりましたという説明は、
僕には全然説得力を感じないですね。
だってそんなのやらなきゃいいじゃないですか。
これでやらなきゃいいじゃないかというと、
必ず次に不安は消えていないから、
何かアイデアを考え出すじゃないですか。
これは脅迫症の構造とそっくりだと僕は思います。
不安は残っているわけですよ。
多分、学校の先生にいきなり殴られるんじゃないかという不安が、
心の底から上がってきてしまった人は、
次にそれに自分の不安はなぜ来ているのかが分からないので、
適当なアイデアを見つけ出すんですよね。
例えば、みんながポッドキャストをやり始めているから、
私もポッドキャストをやらないと、
フリーランスとしては生き残っていけないんじゃないかと思うんですよ、
みたいなことを言うんだけど、それは嘘なんですよ。
嘘というのはおかしいんだけども、
そのときでっち上がった理由であって、
全然そこにそう思って昨日までいたかというと、
18:03
多分そんなことはなくて、
100日前にそう思っていたかというと、
全然そんなことは思っていなかったりするわけですよね。
今思いついたんですよ、そういう理由を。
自分の不安を説明するのに、
さももっともらしく聞こえたので、
そういうふうに言っておけばですね、
やらなきゃいいじゃないですかっていう、
その反論を封じ込めるために、
役に立ちそうだと考えたわけですよね。
こういうことを我々はやるから、
私は不安が理由で考える、
いかなることを信じないようにしているんです。
これを言うと、
何かすごい時々言われるんですけどね、
意志が強いとかストイックだとかいう話になるんですけど、
今言ったようなからくりをよくよく考えてみると、
それを信じるというのは相当無理があるぞってことなんですよ。
例えばですけど、私も車を運転してますからね、
どっかに擦ったんではないかとか、
どっかにぶつかったんじゃないかみたいなことを
全く思わないわけではありませんけれども、
その現場に戻って確認しに行くとなるとね、
それはもう相当馬鹿げているなって感じだとしますよ。
あり得ない、絶対ないと思うんですよ。
何のショック感覚もなく、
何も起こった感じをしないのに、
人にぶつかったかもしれないなんて、
絶対あり得ないですよ。
これぐらい我々の最もらしい説明の時はあるんだけれども、
最もらしいことは全然ないんですよ。
そうは言っても僕も家に戻って日元を確認したくなったり、
しちゃったりすることもないわけじゃないんですよ。
最近だいぶ減りましたしほぼなくなったけど、
やっぱりある時はあったんですよね。
だから最もらしい説明っていうのは、
すごく自分に対してだけは説得力が高いなって本当に思います。
だから人と喋るっていうのは大事なんですよ。
そして人の話を聞くっていうのも非常に大事なんですよ。
題してこういう時ってあれじゃないですか、そうじゃないですか。
人は堅くなですよね、すごく。
例えばうちの子と外に出ていて、
ちょっと鍵閉めてないかもしれないからちょっとパパ戻ってくるねと言ったら、
だいたい今の娘が、いやいやさっき鍵閉めてたから大丈夫だからって言うんですよ。
これを聞けばいいんですよ。
人の話を聞くっていうのはそういうことですよ。
こういう時にだいたい僕もそうなんだけど、堅くなになっちゃうんですよね。
いやいやいや、閉めてなかったような気がするとか。
かえってむしろ反動形成と言うんでしょうかね。
反対側の確信が深まってっちゃうんですよね。
これが毎日ブログを書かなければダメかもしれないとか、
YouTubeもやらなきゃダメかもしれないという脅迫になっていくのは別に不思議じゃないですよね。
ただそこの説明には全然説得力が他人が聞いているとないんですよ。
21:03
いやいや、そんなYouTube毎日やって、ポッドキャスト毎日やって、ブログ毎日やって、
やる意味そんなあるかなみたいにぼんやりと聞いているんだけど、
これを言うとなんか気を悪くされそうだから、この直感は正しいんですよね。
黙っているわけですけれども、たぶん周りの人からすると、
この人は何かに取り憑かれちゃった感じがするなっていう印象だけを残している気がしますね。
それも正しいんですよ。
その人が取り憑かれているのは不安という感情に取り憑かれているのであって、
ポッドキャストとかブログとかノートとかYouTubeとか何だっていいんですよ。
正直言っておみくじでもいいと僕は思うんですよ、本当に。
僕はこれはちょっとね、同業他社でもないけれども、営業妨害みたいになっちゃうからあれですけれども、
たぶん神社とか自社とかそういったもののああいったものは、
うち自身への営業妨害みたいにもなるけど、うちの親父ももうクビになっているからいいよね。
そういうものなんですよ。
ここでもなぜ宗教かっていう話が出てきたときに、
オカルトだっていうのがすごく相性がいい、相性抜群だと思うんですよね。
頭の中で作り出したイメージが実現するというのは全部オカルトなんで、
そのままでは絶対実現しないという話です。
ナポレオン・イヒルの思考は現実化するとかああいう話とはまた別だと思ってください。
脳内で考えた通りの現実が、つまりカボチャは馬車にならないということです。
少なくともボンとなったりすることは絶対ないと僕は思う。
だから、このことを解消したくて自社ぶっかく肉というのは実は正しいんですよ。
ある意味ではね。問題なのは不安なんだからってことです。
問題なのはそこに行く、それをする。
だからノートとかポッドキャストをやるというのは悪くはないんですよ。
不安の解消策として。
それによって一時的に不安は解消されるんです。
もと確認しに行って火ついてないと一時的に不安解消されるでしょうということなんです。
ただこれをやるということがですね。
自分のその魔術的思考って言うんだけどこの傾向にエスカレートさせるのはまずいと思います。
だからついには家から一歩も出られないってことになっちゃうんですよ。
冗談みたいなんだけどそんなことはないんですね。
少しでも目を離すともう火がつくんですよ。
一時的じゃないですかこの感覚って。
つまりもう毎日のようにブログを上げてなければ不安だというのは5つしかですね。
最初の目的は何だったかというとブログを上げて自分のブランディングなりマーケティングなりを拡大するってことでしょ。
そういうことはどうでもよくなってしまうんですね。
毎日上げてないと不安だから毎日上げると。
それで成功するというケースもきっとないわけじゃないでしょうから。
24:03
全部が全部こういうのがまずいとかいけないとかダメだということはないと思うんだけど。
ただこの感覚に乗っかって行動していると少なくとも平安とか幸せではないよねってことは言える気がします。
だから僕はその計画を立てるということはですね。
それを挫折させる第一歩になるような気がするんですよ。
つまりなんで計画立てているのかというのを最初にまずはっきりと自覚しておく必要がありますよね。
なんでネタ帳が欲しいのか。
不安だからっていうのはまずい理由だってことです。
不安だからネタ帳が欲しいというのは本人はすぐ納得できるんですよね。
ネタ帳があれば頭真っ白にならない。
そんなことはないですからね。
私研修とかセミナーやってて思うんですけど別にネタ帳があったって真っ白になるときはなるし、
ネタ帳が不安を解消してくれるはずがないことは経験的によく知ってます。
でもそれよりも問題なのはその不安は本当にポッドキャストで途中で立ち往生する不安なのかどうかってことの方が遥かに大事だと思います。
実はそれ死ぬ不安かもしれないんですよ。
死ぬ不安がネタ帳で解消できるはずがないですよね。
同じようにポッドキャストをしないっていう、あるいはするっていう行為が自分の不安を解消できると考えるのが多分ダメなんですよ。
それはつまり良くてもおみくじを引くのと大して変わらないと私は思うんで、
だったらおみくじを引いた方がいいと思うんです。
簡単にできるしね。
そして大事なのはおみくじが引く方は宗教的だからね。
この話はもともと魔術志向とかオカルトから来ているのにそんなに実務的なことによって解消できるという感じが私はしないんですよね。
むしろ今だったらおみくじの方がだいぶ効果ありそうだなっていう感じがむしろします。
宗教的だから。
どっちも超常現象に対応しているから。
ポッドキャストは全然超常現象じゃないですから。
ただポッドキャストの人気が出ればフリーランスの仕事が安泰だっていうのはほとんど超常現象ですけどね。
そんなことは多分よほどのレベルに達しない限りない。
ただよほどのレベルに達するということが言えてくるのでおみくじよりは超常的でない感じがしますよね。
やっぱり世俗的と言うんですかね。
だから効果薄いんですよ。
これを繰り返すということによって自分の不安を解消しようというか。
これ不安はすべてオカルトっぽさっぽいって僕は今言っているわけなんだけど、
これは私はですね、ほぼ確実だと思っています。
なぜならば不安ってのは多分99.99%以上脳内で考えた通りに現実が動いていくっていう考え方から来ているからです。
27:05
そしてこれも散々申し上げている通りですが、
私たちが脳内で最初にそれをやるときにやったことはスプリッティングのはずです。
これはもう間違いないはずですよね。
良いものと悪いもの。
この場合の良いものと悪いものは自分にとって都合の良いものと都合の悪いものを分けたときです。
そこから始まっている。
現実はそのとき以来そういう脳内のある意味魔術的な発想に基づいて分かれたわけですよ。
食べ物と汚いものとかに分かれちゃったわけですよ。
現実自体が我々の目にはもうそう見えてしまうんですよ。
つまり現実って分けられるんだって僕らは思ってるんですよ。
現実は分けられないじゃないですか。
見た通りに現実に亀裂が入るとかすっぱり分かれていくってことは起きたことはないはずなのに、
僕らは認知上現実を分けたので、良いものと悪いものっていうことにしてしまったんで。
僕らはそういうオカルトをかぶせてるんですよね、現実の上に。
そしてそういう見方にすっかりなりきってしまったので、元になかなか戻せないんですよね。
同じものなんだと。
同じものなのは分かってますって言うんだけど、多分分かってないんですよね、同じものだということは。
分かってないからこそ、小さな虫が食卓に張ってるだけでも悲鳴が上がるケースが少なからずあるわけですよね。
子供と同じところから来てるんだけれども、野菜と虫は全然違うものになるんですよ、ある種の人の認識上、認知上っていう感じですよね。
スプリッティングをしたってことです。
ここに僕らの魔術思考の原点がきっとあって、それが混ざることに対する恐怖を覚えているので、
というかそれを分けることに対する万能的な心地よさみたいなのがあるので、それをやろうとしちゃうんですよ、脅迫的にね。
つまり良いものだけの世界に囲まれた、絶対安心で絶対安全な私っていう状態に自分を置きたいんですよね。
だから計画なんですよ。
未来を絶対安心で、つまり良いものだけに囲まれていて悪いものがすべて排除されきった未来というものに生きていくための計画書なんですよ。
だからこれを作るのがめちゃくちゃ気分がいいし、めちゃくちゃワクワクすると言うんだけれども、それは当然ですよね。
ものすごく潔癖な人が部屋を消毒しきってピカピカにした、そういう設計図を描いているような感じだと思うんですよね。
汚いものはすべて排除しきった。
例えば汚いものの一つが、ポッドキャストもブログも情報発信を何もせずにだんだんダメになっていくフリーランスとか、
30:07
あるいはポッドキャストをやっている真っ最中に頭が真っ白になって何も言えなくなっているちょっとかわいそうな自分とか、
そういうものを排除していきたいってことなんだろうと。
細かく言えばそういう意味になっていくんだろうと思うんです。
あるいはもうちょっとありそうなところで、私が時々ポッドキャストになるみたいにぐるぐる同じことばっかり喋っていてグダグダになっていて、
多分その脳内では悪い、例えばTwitterで私が全く気づかない暗号のようなもので、
だったらいいんじゃないかって気もするんだけど、冷ややかに冷笑されているっていうのかな。
やゆって言うんだけど、やゆって伝わりにくいですよね。
僕字書けないし、冷笑どこがいいと思うんですよね。
冷笑されている、しかも自分では気づかないところで冷笑されている。
これはですね、つまり良いものと悪いものが混ざる恐怖なんですよね。
気がつかずに毒を飲んでるみたいな感じ。
見た目はコーラなんだけど、コーラどうかな。
まあいいや、なんでも。
見た目は美味しそうなコーヒーなんだけど、中には体にとても悪いものが入っていて、それが日々汚染していく。
この脅迫症にはですね、汚染っていうのも恐怖の対象としてつきものの言葉の一つですね。
つまり汚染ってことは綺麗ってことじゃないですか、反対の意味として。
だからそういうところに自分がいられれば絶対に安心だし快適だし幸福だなと。
そういう意味で計画を立てると。
でも一番最初のところが問題なんですね。
一番最初にその汚染源があるんですよ。
汚染源の排除からすべてが始まったわけだから。
排除しきれないというか、排除することにつながってない。
一番最初は自分の知りかなと僕は結局思うんですけどね。
知ってこれ、ポッドキャスト何万回やって何億回再生されても排除されきらないじゃないですか。
そうしたからって死なずには済みませんもんね。
そういう話が最終的には何つうんですかね。
厳然とそこに座ってるというのかな。
そういうふうに思います。
そして目壁で嘘をつく人たちでも最後の議論はそこに集中したんですけど。
だって先生死ぬってのは誰だって怖いじゃないですか。
そしてそれについていくら考えても無駄じゃないですかと。
これがですね、面白いんですよね。
死ぬってことをいくら考えても無駄だと。
私はもっと明るく生きていきたいから死について考えるのは一切排除するようにしてるんだっていう
そういう言い分なんだけど。
その人の生き方はとても暗くなってるわけですよね。
それをやってるがために。
33:00
その先生もほとんど何つうんですかね。
皮肉を何度も言ってやりたい気分になったみたいなことを書いてるんだけど。
要はとてもその態度は滑稽だと。
あの先生厳しいんですよね。
その言い方は精神分析的には厳しすぎやしないかと思うんだけど。
アメリカだからなのかな。厳しいなって感じが僕はしたんだけれども。
要は死ぬっていうことについて全く考えないから自分は明るく生きられるっていう言い方をしているんだけど。
ほんと死ぬってことについてその人考えちゃっているわけです。
これも脅迫症というのかな。
この種の話が出てくるところでは絶対にと言っていいぐらい現れる。
いわゆる固くなさってやつなんですよね。
昨日途中まで書いて結局アップできてない。
フロイトの少年ドーラのミステリー少年のちくまさんから出てるちっちゃな本があるんですけど。
あそこにドーラはとにかく固くなだっていうことがしばしばフロイトは言及してるんだけど。
彼女はお父さんのわけが許せない許せないって言っていて。
お兄さんはいやあれはお母さんがあんまり良くないから
お父さんが愛人作るのはいいことじゃないかっていう話をするんだって言うんですよね。
だけどドーラはそう考えればいいんだろうけど
私はそうは考えられないんだとにかく許せないんだっていう
なんかこうしがみついてるような頑固な感じっていうのが
この種の話にはよく出てくるというかほぼ確実に出てきます。
ドーラは不安ということもあるんでしょうけど
それよりも何よりもお父さんが大好きなんですよ。
これが彼女が全く十分自覚できないというか
少なくとも心の中では認めきれないっていう問題なんでしょうね。
だから無意識の方に無意識の方に追いやられていく感じ
全く意識しないなんてことは考えられないんだけど
すいません。
要はあれなんですよね。
お父さんが大好きだから浮気が許せないとは言えないってことなんですよね。
どうしても浮気は間違ってるとかね。
あるいはお母さんがかわいそうだとか
それにも嘘はないと思うんですよ。
だけれどもあの本読んでいくと複雑なんだけど
どんどんどんどん分かってくるのが
ドーラはまず自分とお母さんを同一視しちゃっているわけです。
つまりだってそういう感じがしますよね。
お母さんがいや夫の浮気が絶対許せないって言ってるなら
絶対に納得じゃないですか。
なぜ娘がそこまで言うのかというと
もう娘はお母さんになっちゃってるからなんですよ。
これが無意識に起こっている現象ですよね。
もう一つがドーラは多分本読んでると
やっぱり感じざるを得ないというか
なんていうんですかね。
そういうことを決めつけちゃいけないのかもしれませんが
36:02
お父さんの浮気相手にも自分を同一化しちゃってるんですよね。
これはもうすっごい複雑ですよね。
やっぱり相当性恋愛みたいな
そういうものっていうのが心の中で強く
強く強く別にそれはおかしなことじゃないじゃないですか。
ちっちゃかった頃お父さん大好きでしたっていうのは
別に当然あっていいことなんだけど
それをやっぱりヨーロッパの上流階級みたいなところで
どっかで否認するんですよね。
お父さんなんかと恋愛しちゃダメだみたいな。
しかもそれはダメですっていう学校で
お父さんと恋愛してはいけませんよって
小学校1年生が暗唱するとかじゃないじゃないですか。
割と無意識のうちにそういうのって抑えていきますよね。
自分のことを考えるとよくわかると
大概の人は思うんですよ。
私なんかもそうです。
母親とベタベタではないぞっていうことを言いたがってた時期が
幼稚園の頃に確かにあったんですよ。
そういうことでからかわれるとすごい腹が立つとかね。
その時やっちゃうんですよ。
これってアンビバレントじゃないですか。
その前は母親とどこにでも一緒に行きたいぐらいだったからこそ
そこをあえて否定しなければならないみたいな心があって
こういうことをやってしかも忘れてしまうから
後々その種の事件が起きた時に
そのアンビバレントが一気に噴出してきて
お父さんが大好きなのにわけわかんない女の人と付き合っていて
みたいなことが許せないって感じになるわけですよね。
こういう時に僕らはすごく固くなりになっていく。
そういう人の話は聞きたくないみたいな感じになっていく。
それがですね、いろんな脅迫症というもの
本当にいろんなのがあるんだと見ててつくづく感じるんですよ。
とじまりとひのもとだけでは決してなくて
いろんなこれを絶対やらなければいけないとか
この部屋は絶対こういう風にしなきゃいけないみたいな
しかもそういう風に自分が思っているということすらしてしつつ
部屋を見たりパソコンの画面を見たりしているから厄介なんですよ。
結局のところそのことがずっと気にかかっているんだけど
なかなかそれに着手できないとかよく聞くんですよ。
それこそ告知とかでよく聞きますよねこの種のことは。
私の4月1日のイベントでも3ヶ月チャレンジでも何でもいいんですけど
例えば告知をするということになってくると
私は毎日のようにポッドキャストで告知してますけど
告知をすれば聞いている人はそこを早送りをしているんじゃないかとか
これも脳内で勝手に考えたことがすでに現実になったかのように言ってますよね。
これはやっぱり人に向かってなんだろうな
39:02
これは日本の社会にもちょっとあるのかもしれません。
人に向かってお金が欲しいですっていうのはとても恥ずかしいことだみたいな
そういうことをやっているとみんなに殴られる
殴られはしないと思うんだけど
そういうような不安をさっきのお父さんとお母さんが
大好きだったんだけど嫌いなふりをしたみたいな
そういうやり方で過去を抑え込んだことがあると
必ず自分が気づかないところでひっそりと入り込んでくるんだろうと
そんな気がしますね。
だから理由は何でもいいわけですよ。
告知文作るのがめんどくさいということでもあろうし
この告知についてあまりにも言い過ぎているとか
そんなのはその時思いついたアイディアで
いくらでも頭に浮かんできますからね
アイディアなどというのは本当どうでもいいものなので
例えば今回のこのイベントは値段が高いからとか
理由になってないんですよね。
高いから告知をするとより嫌われるとか
それはそういうのを見聞きしたみたいなことがあると余計なんだけれども
多分それが安かろうが高かろうが
頻度が毎日であろうと週1であろうと
各告知文が長かろうと短かろうと
ポッドキャストだろうとブログだろうとノートだろうと
全部同じなんだと思うんですよ。
要は不安の種はそれらしいところにはあるんですよ
そこにはなくて
頭の中で思いついたことでしかなくてないんですよ
不安の理由というものは。
そしてその頭で思いついたことが
現実になるものなんだっていう風に
僕らは運動さない頃に学んでしまったわけですね。
トイレと食卓は分けられるみたいにね。
考えた通りに世の中というものは動き出すんだという
頭の中で人を跳ねたと思ったら
人はもう跳ねてしまったんですよ。
そんな風に考える癖がついているので
だって風評というのはいかにもじゃないですか
風評なんて証拠も必要なければ
見ることもできはしないわけですから
頭の中で考えたものと
どこかで悪評が立っているということを結びつけるのは
すごく簡単なことですよね。
そしてそれを否定する根拠はとても難しいというか
それを完全に否定しちゃうのは
根拠を示せと言われたら無理ですよね。
人を引かなかった根拠なら多分示せると思うんですけどね。
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