2022-03-23 35:39

【GMV570】必要な時間はかかる

急いでも、同じ
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おはようございます、グッドモーニングバイブスです。
この番組の何回か休んでいた頃、最近の直近でオミクロンにかかった時なんですが、その直前あたりは調子が良くなくてですね、オミクロンとは関係なく、特にこのグッドバイブスで調子が良くなくて、
何かというと飛ばしてたんですね。この潮時かな?みたいに思ったこともあって、少し考えてたんですけれども、もともとネタはストックがないし、全くなく喋る日も結構あるし、取り留めがないのもいつものことだし、
しょうがないよなとも思っておったんですけど、調子が良いも悪いもあったもんじゃないので、こういう体勢ですからね。
でもあんなに毎朝やるのが困るってことはなかったんですが、オミクロンになって熱がガッタガタときはやれないし、すぐには復旧できないというか、再開できないですよね。
いろいろあって、しばらく休まざるを得なくて休んでいて、再開してみてからですね、好調なんですよね、はっきり言って。相変わらずネタを貯めてるわけでもなければ取り留めがなくなってないわけじゃないんですが、でも意識の中では喋る方向はわりとはっきりさせられています。
この変化は何なんだろうと思うと別に理由はないんですよ。ただ言えることはオミクロンが良かったとか悪かったと思うのは早い計画の計ですね。
つまり良くないことだって思うじゃないですか。家の人にもそう言われるし。ここにメリットを見出すのは難しいですよね、確かに。
でも良いことも起こるんですよ。良いことはオミクロンじゃかかったからグッドモーニングバイブスがうまくいくようになりましたっていうのは変なんですよ。別にそんなことはないんですよね。
休んでる間にネタが溜まりましたって言うんだったらまだ死も別にそういうこともないし、休んでる時に本いっぱい読めたっていうことはあるにせよ、本の話をここでしてるわけでもありませんから。
結局それはあまり因果関係のようなものは全くないんですよ。ただそういうことも言えたっていうだけなんですね。
でもこういうことが世の中はいっぱいあると思うんですね。だから良いことを引き起こすために何かをするっていう戦略はですね、考え方というか発想は一理あるけど一理しかないとやっぱり思うんですよ。
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だってこの発想だと常にオミクロンにかかったりなんだりすることは避けようとしますよね。そしてある程度は避けられるじゃないですか。
私も今そうしてますが家にこもりきりになればかかりませんからね。家のような家族構成であれば。
でもそうすることによって、例えばグッドバイムス、グッドモーニングバイムスが先細っていくということは赤起こり得るわけです。
必ずしもそれは引きこもってるせいとばかりは言えないんですよ。今は引きこもってるけど全然そうはなってないですから。
こういうことがある。しかもそれを私たちは想定できない。なのに私たちは想定だけをやだらしたがるという世の中に生きていて、
これが僕らの人生というのかな、人生ですよね。先細らせたり暗くしたりしていってる一面だと思うんですよね。
こういうことはグッドバイムスで、この点をすごく強調してるってわけではないですが、ちょいちょい言われていて、そして全体としてよくそういう感じが伝わってくる話だと思うんですね。
こういう話は例えば一番近いところでは精神分析やユングファンはすごく言うことではあるんですけれども、
でもこれは私たち長く生きれば生きるほど実感してる気がするんですよ。
そして結構小学生くらいの人でも言うんですよね、そういうことって。ちょいちょいですけれどもね。
だから無理じゃないですか。つまり変数が多すぎるという意味なんだけれども、いいことを引き起こすために何かの行動を取り続けるというのは多分この観点からすると不可能なんですよね。
私たちはどうしてもそれだけは避けたいということがあるわけですね。オミクロンにかかるとかもそうなんですよ。今デルタクロンとかが話題になってますが。
これだけは避けたいというのを避けるだけでも何かを失っていくわけで、それはいいよっていう考え方なんだと思うんですが、
それがいいよって言えるのはその結果を知らないからですよ。その結果は知りようがないんですよね、ある意味では。一歩間違えたら死んじゃったりしますからね。
この辺のことを童話的にやってるのが僕がぱっと思い浮かべるので言うと、千と千尋の神隠しだったりすると思うんですけど、
あれもそうじゃないですか。あれ一歩間違えたら千尋は死んでますよね。でも死ななかったから得たものはでかかったじゃないですか。
そういうことってあるからどうしようもないとも言えなくはないんですよね。下手に想定外のことが起こってくれれば常に望ましいとは。
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ただこの話、死ぬのだけは絶対に避けたいっていう話になってるんだけど、ここも少なくとも今私たちの価値観でやってるみたいに100%そうだと言い切れるかどうかは微妙なんですよね。
これを言い出すと明らかにはまずい方向にしかならないから言わないだけなんですよ、これは。
その中の一つに早いほどいいという、たぶん明らかに僕らの時代にはもうそぐわなくなってきている価値観があるんだと思うんですね。
早ければ早いほどいいという考え方。たぶんですね、これは19世紀末には正しかったんでしょうね。
20世紀中央までもこれで良かったんだと思うんですよ。全体主義と戦争ばっかりやってた時代ですからね。
だけど戦後から、特に今21世紀にかけて明らかにこの早ければ早いほどいい価値観というのはナンセンスだなって感じが今するんですよ。
最近ですね、私がよく一緒にいろいろ言いたい放題言わせていただいたりしてたこともあるJ松崎さんがちょっと調子を崩されたらしくて、
そういうことをボイシーとかで喋ってて、ちなみにこのポッドキャストとボイシーはどっちを選択すればいいんだろうっていうのは
私の中で考えたこともなかったんですけど、実は。なぜならボイシーを選択しようという気が最初から浮かばなかったからなんですが、
ボイシーの方が良かったのかもなと思いつつ、今更リスナーさんが例えば30人の人がポッドキャストに骨種しているというだけでも
ポッドキャストから動く気に全くならないのが私なので動かないんですけど、そうかボイシーの方が良いということがですね、
ダイレクトメッセージから100通いただいたら考えます。100ってことは多分私が把握している数の全数に限りなく近いので、
100名の方にボイシーにしろって言われたらちょっと考えます。5名とかでは無理です。
5名だと大体その10倍の人はいるっていう話なんだけど、それでも50名ですからね。やっぱり100名じゃないとちょっと難しいかなと。
そのボイシーで、エリス、ハーバードエリスかな、ちょっと正式な名前じゃないかもしれないんですけど、論理療法の元祖なんですね。
論理療法の元祖ということはつまり現在の心理カウンセリングの基礎はエリスだと考えてもいいと思います。
09:01
ABC療法とも言うんですけどね、アメリカ発なんですよ。これは精神分析に対する一つの強いアンチテーゼとして生まれた潮流で、今ではカウンセリングの主流と考えられています。
だからユングとかフロイトは完全に暴流なんですよ。私のこのポッドキャストを聞いているとそうでもないような気がしちゃうかもしれませんけど、ユングとかフロイトは完全に暴流なんですよ。
もう共産党より微妙な位置づけですね。本当に政権を取ることは永久的にできそうもない党になっちゃってますね。
少なくとも日本では特にそうですし、アメリカはちょっと独特なんで、ユング派っていうのは全然ですけど、フロイトはまだまだクラシックなパワーみたいなものがあったんですよね。
私が留学していたときはですよ、今はもうダメかもしれないですけど、すごく後退していることは間違いなくて、ヨーロッパは分からないです。
分からないですけど、たぶん認知行動療法が世界の潮流であることは間違いないような気がするんですね。
この認知行動療法というのは確かにすごく合理的なんですよ。そこがまさに考えてみたいところなんですよね。
良し悪しでは測れないと思うんです、カウンセリングというのは。心理学校を勉強した人、何しよう、研究した人が真剣にやった場合、こっちの方が良いだ悪いだというのは無理があると思うんですね。
一つには、単に知識だけでできるものではないから、俗人性って絶対あるから。
例えば有名な話ですが、プロイトはあまり上手くなかったと言われているんですよ。
それもどうかと思わなくもないこともあるんだけれども、でもやっぱりユームの方が上手かったと言われれば、そうなんじゃないかなって思うんですよね、正直言って。
何流というのは難しい人だけど、ラドラーの方が上手かったということも十分な理由だと正直思うんです。
そうやって考えていくと、何派だから上手いというだけは言えない話なんですよね、これは当然。
認知コード療法というのは、ここがまた大事なポイントなんですけど、割と誰がやっても上手くやれるみたいなのも目指しているんですね。
それはプロイトだって目指していたと思うんですけどね、私は。
ただ誰がやっても上手くやれるというのに加えて、手っ取り早い、これなんですよね。
つまり20世紀中央に開発されただけのことはあるんですよ。
早ければ早いほど良い価値観というのが、強力に優勢だった時代にクリエイトされたものだから、
開発された考え方だから、これはやっぱり手っ取り早いというわけですね、当然。
12:05
手っ取り早いということはこういうことですよ。
ある神経症になりました。精神分析と比べて1、治るのが早い。2、お金がかからない。
いいことづくめということになるじゃないですか。
しかしそれをいいことづくめではないと精神分析は考えるんだけど、まさにそこに切りかかってきていて、
しかもエリスという人は多分カウンセラーとしての腕は非常に高かった。
これもとても大事なんですね。
正直それも人によって評価の基準が違うから一概には言えないんだけれども、
でも著作とかを見るとやっぱりこの人はカウンセラーとしては間違いないところがあるなと思うんですよ。
ということはさっき言った一見したところ、それは処方の違いのように見えるんですけど、
実は俗人的な問題である可能性も十分あるんですね。
当時の特にアンナ・フロイト派のアメリカに渡った自我心理学派っていうんでしょうかね、
精神分析の人たちの中には結構その当時は先誇ってましたから、
当然あまり腕が良くない人もいるわけですよね。
人が多くなればそういうことが起こりますよね。
それに対して新しく登場してきた論理療法の当時呼んでいた認知行動療法が腕はいいし、
手っ取り早いしで大いに盛り上がりうると、
しかも二十世紀中領にアメリカで発生したということは、
そんな精神分析が流行っている時代にアメリカで開発されたということは、
当然アメリカ人が大好きな傾向・性質がいっぱい入っていたわけですよね。
今多分あれを聞くとですね、精神分析というのはこういう考え方ですというのを概略として聞き、
次に認知行動療法はこういう考え方ですというのを概略として聞くと、
多くの人は概略しか読まないじゃないですか。
三日でわかるフロイトみたいなのを読むじゃないですか。
ただ、絶対認知行動療法の方がまともで有効そうで現代的で聞く感じがしますよ。
こうしてこれだけが原因じゃないんだけど、石鹸されていったわけですね。
要するにだんだん精神分析は追いやられていったんですよ。
そしてそれがアメリカより面白いことに日本の方が激しくそういう傾向があって追いやられていくわけですね。
ただ日本は河合科学先生とかが頑張っていたからユング派が強いとかさまざまな要因があって一概には言えなくて、
日本のものすごくカオスな状況を本で徹底的にまとめられたのが最近山崎さんだったかなって方が書かれた
精神分析のヒストリーみたいなのをしかも面白く読めるようにまとまっていて、
15:00
最近は新しい時代だなって思うんですよね。
戸畑海人さんの話もこの番組でよくしますけど、
こういう人たちが必ずしも認知行動療法ではなく、精神分析なんだけど一遍倒でもなく、
でも精神分析の話をよくご存知で多分精神分析科だから、
しかも現在どういう潮流になっているかも十分熟知しているみたいな若い人、
若いって言ってもいろいろですが、本にまとめられているっていう、
これは以前はあんまり見られなかった現象だなって思うんですよね。
以前はもっと全体的にカタクナな感じで、しかもわかりにくかったんですよ。
しかも全体の状態を記述するには日本の状況ってあまりにも複雑で、
はっきり言ってわけわかんないっていう感じが、
私はアメリカでやりましたから日本の状況はさっぱりわかんないと思ってたんですけど、
こういった方々の本を読んでいるうちに、
なるほど、何となく相変わらず混沌としすぎていてよくわかんないんだけど、
何となくわかる感じがしてきたんですね。
やっぱり今は普通に、いきなりタスク管理の話しちゃいますけど、
今は普通にタスク管理するとGTDにぶつかるんですよ。
それとよく似て、今は普通にカウンセリングを受けると、
多分認知行動療法か精神薬理学でお薬をもらうかのどっちかになり、
あるいはその両方に精神分析にぶつかる可能性は極めて低いと僕は思います。
それよりはタスク修道にぶつかる可能性の方が高いぐらい低いと思いますね。
何言っているのかわけわかんないですけどね、この言い方では。
で、私がよしよしで測ることは今言ったようにできなくて、
何が一番いいかというと、腕のいいカウンセリング派に当たるのが一番いいんですよ、結局。
何派であるかというよりも、ある意味ではね、相性もありますから、
すべて腕だけでは判定できない相性というのは人と人との相性でもありますし、
例えば近すぎるとよくないっていうのは多分僕は認知行動療法であっても変わらないと思うんですよね。
家族とかにやるのは絶対ダメだと思うし、
家族が人生の悩みの相談に乗るのもいいですよ、当然。
そういう話ではなく、家族がカウンセリングになっちゃうみたいなのはまずいと思うんですよね。
何らかの形で、どんなカウンセリングの技法だろうと何らかの形で、
それは疑似家族を作るってことだから、実際の家族の間で疑似家族を作るっておかしいですから、
それはまずいと思うんだけれども、
そういうことを除けば、結局これは俗人的な部分は大きいと言わざるを得ない感じはするんですよ。
だから考え方は全てではないと思うんだけど、
認知行動療法で一番僕がやっぱり悩ましいなと思うのは、
18:00
なんだかんだこれは元祖が合理性を重んじたことによって出てきた発想なんですね。
そもそもフロイトの一番大元の発想には、人は合理的なものではないっていう発想があったと思うんですね。
だから折り合いが最終的にはつかないところにいるんだけれども、
でも最近の認知行動療法の本を一番最近の人が書いたような本を読むとですね、
かなりフロイトに知らず知らず近づいていないでしょうかって感じも受けるんですよ。
非常に両者が離れているという見方もできるんだけど、
ずいぶん近づいているような感じも受けなくはないんですよね。
昨日、戸畑くんが、
朝起きるのがつらいと。
あれはあれですよ。
朝低血糖だとか低血圧だとかそういう話を抜きにして、
単純に心理学的な話だと考えてください。
で、起きられないときに、
蒸気と馬に例えると、
これですね。
じゃあ馬は無意識に、
起きたくないと思っている自分は、
意識できていると思うんですよ。
起きなきゃと思っている自分も、意識できていると思うんですよ。
どっちも無意識じゃないと思うんですね。
で、ここでですね。
私の考えですよ。
論理良法的に考えて突き詰めて、合理的に考えていけば、
起きたくないというのが、
これが、
考えて突き詰めて合理的に考えていけば
起きようってことに僕はなっちゃうと思うんですよね
この点がですね
合理性といった話をしたときに
なんつうんだろう
僕がちょっと危うくないかなって思うところなんですよ
私たちが合理的にものを考えたときに
例えば僕もよく言って
よくこう釈然とされない話の中に
これから仕事をしますって書いてありましたと
タスクリストにね
でもファン座で動画を見ちゃいましたと
ダメじゃないですかと
で私はダメじゃないでしょうって言うわけですよね
で合理的に考えるとダメになりやすいと思うんですよ
ここを
つまり合理的に本人は考えてると言ってるかもしれないけど
実は社会的に考えてませんかってことなんですよ
でこの社会的に考えることと
合理的に考える考え方を分けられないと僕は思うんですよね
人は
あのだいぶ前の話になっちゃってますけど
そんなにでも昔じゃないね
タックさんという方と
スタキさんなんだっけな
自分の時間がないんですだったかな
とにかくそういう対談本を
Kindleにまとめてあります
今でもアンリミで読めますが
その中でちょっとこう長く議論が引っ張られてるのに
21:01
純粋な知的好奇心というものがあるっていう
まあこれはタックさん側からの問いかけがあったんですね
で私は原則そういうものはないっていう答えを出してるんですよ
人は本を読んだり知識を高めたり
教養を身につけたりするときに
必ずそこには社会的な価値観が入ってきているっていうのが
僕の考え方になるんですね
この考え方はどこか面白くないものを
私たちの心に喚起するケースがあり得ると僕は思うんです
人は純粋に知性のために生きられるんだっていう
私この発想の大元にですね
ヘッセのガラス玉演技って本があるんですよ
あれを思い出すんですね
ガラス玉演技って
多分あんまり多くの人は読んでないと思うんですけど
車輪の下とかよりはずっといいと思うんですけどね
なんて言うんですかね
ある宗教的な儀式なんですよ
ガラス玉演技ってのは
ガラス玉演技って美しそうじゃないですか
ヘッセって人はそういうちょっと
あまりにも端微的で気色悪い感じが
今時の私からすると感じるんですけど
でもよくわかる気がするんですよ
フランス革命の時に
純粋理性の崇拝みたいなことを言い出されてたんですよね
結局僕らってそういうところがあって
いつしかですね
知的に考え抜くってことが
神様みたいになっちゃうんですよね
なんかそこには神秘的なものが出てくるんですよ
だから純粋理性というものが価値があるって思うと
最高理性の崇拝だな
なんかそういう崇拝し出すんですよ
ガラス玉演技ってまさにそういう感じで
知的な人たちが集まって
ハリーポッターみたいな世界を思い浮かべてもらうといいんですよ
司祭が出てきちゃうわけですよ
そしてそこに最高の地みたいなものが
僕この段階ですでに
もう社会通り越して宗教じゃないですか
でもこれつまりですね
本当に価値のあるものは
宇宙に認められているみたいな
そういう認められてて欲しいみたいな
そういうのがあるような気がするんですよね
でもそれは私は絶対そういうことを言い出した時には
実は誰か他の人に認めて欲しいんだと思うんですね
この感情と全く完全に切り離されて
純粋に知的好奇心が赴く
赴くって言うんですよね
自分の心の中の磁石みたいなものがそっちを指す
これが価値みたいな
でもそれはしつけられた結果だと僕は思うんですよ
それは面白くないかもしれないけど
きっとそうだと思うんです
この世に学校もなければ
そういう知的権威みたいな人が一切いなかったとして
果たして純粋な知性というものに
価値を人が見るから見ないんじゃないかなって
思うんですよね
僕らがそういうふうに作られているとは
ちょっと思えない
そしてなんだかんだ知的な人というのは
24:00
知的な人を高く評価したがるじゃないですか
僕はそこに社会性がないとはどうしても思えない
だからそういう意味でですね
僕らが何て言うんですかね
読書するんでも何でもいいんですけれども
合理的な観点からどっちがいいかを判断しましょうって
やりだした時には
例えば合理的な判断から
家でずっとぐつってうつうつとしてるのと
外に出て活動するのと
どっちがいいでしょうみたいなことを
急遽的にはそういう話になっていっちゃいますからね
考えた時にそれは危なくないかなって思うんですよね
そしてその発想を取った時に
やっぱりエリスは急いだと思うんですね
この精神分析というですね
1年かかっても2年かかってもだらだらと
まあ確かに長いですよ
長すぎますよね
週に5日だとか言って話をカウチでずっと喋って
よくわからないよくわからないとされる
無意識からの言葉を延々とやり取りしていて
気がついたらよくなることもありますみたいな
そんなんでどうするんだと
この議論は決してエリスだけが投げかけたものではないです
ただなぜそんなにかかるのかといえば
そんなにかけて病気を悪化させた原因があったからだと思うんですね
例えばそれこそ急ぐことはいいことだという価値観を
ゼロ歳児の時から延々と早く何かしなさい
早く何かしなさい
いわゆる同志の人はいっぱいいるわけじゃないですか
でその価値観は家から出ても何ら変わらないわけじゃないですか
早く勉強を終えて100点を取った人は褒められて
いつまで経っても終わらずに28点とかの人は怒られる
これをずっとやるわけじゃないですか
で僕の時代はですね
給食も一番早く食べ終わった子が褒められてたんですよ
ぐずぐずと食べてる子は
なんか5時間目まで食い続けさせられるとか言う
なんかよくわからない罰だか何だかわからないようなことを
させられて泣いてたりしたわけですよ
そしてそれをみんなでいじめるみたいなことも
僕は見てたんで
非常にそういうのってあったわけですよね
価値観としてあったわけです
つまりぐずぐずって言葉がそれをよく物語ってますよね
ぐずなわけですよ
遅いってことだけでも
なんかこう人間失格みたいな扱いを受けてたわけですよね
でそれをずっとやる
25年とか生まれて30年とかに渡ってされ続けてて
ノイローゼになっちゃったと
その人治療するのに
3日で合理的にやるってのはできればいいかもしれないけど
なんか無理がないかなって思いません
週に1回来て3週間経ったらよくなります
お薬も出します
なんかちょっと無理がないかなって思いません
27:05
確かにぐずぐずしているような感じがすると思うんですよね
週に5日1時間かけて
だけれどもその中でですね
語られることはその人の価値観を
その人が価値観によって苦しんできたという価値観を
延々こうなんて言うんですかね
新しいフレームワークの中で捉え直していく
みたいなことをしなかったら
どうにもしようがないと思うんですね
それをやるには時間かかるでしょう
30年ぐらいかけて培ってきた病理であれば
もしかすると一般的に30年ぐらいかけないと
そして僕はですね
そしてその人が60になった時に
すっかりその呪縛から解放されていっているのかな
すっかりその人独自のナルシシズムというものが
どういうものかをその人が理解して
それから生きていきます
それだけの価値があるんじゃないかなと思うんですよ
でこれを手っ取り早く済ませようということは
それだけの価値はないって言ってる面も
出てきちゃうと思うんですよね
そこが一番僕がその引っかかってくるところで
つまり治るってのは
社会的な価値観だってことなんですよ
治った方がいいっていうのはですね
そしてその治った方がいいと言った時に
戻ってくる価値観で
つまり早くするのがいい事態であれば
早くするのがいいって話に
舞い戻ってくることになるじゃないですか
でせいぜいですね
せいぜいって言っちゃいけないかもしれないけど
そこで若干の修正はかかる可能性あると思うんですよ
そんなに急ぐことがいいって
一辺倒ではあれだから少し緩めましょう
なるほどもっともだって言って
合理的に納得できるんならいいと思うんだけど
私はこれでそこまで苦しんできた人が
そういうふうにそんなに簡単に
ただ納得して話が通るかどうかっていうのは
疑わしいなと
それが私が最初に論理療法で
エリスの本を読んだ時に
英文でですよ
読んだ時に強く感じた不満だったんですね
だけどもこれが必要だとも思うんですよ
フライトイッペン等だと
まずそんな治療に時間をかけていることが
実質不可能ですって人がいます
実際に今日本でも週に5回というのが
週に1回になったりして
これを精神分析と呼んではいけないとか
こういう様々なカオスがですね
混沌があって
そういうのをさっきの山崎さんみたいな方が
まとめて書かれているんですけど
要するにそういうことって出てきちゃうわけですよね
どうしたって出てこないわけにはいかないですよね
だから例えばお金の問題もそうなんですよ
週に5回1回1万円だとしても
まあ200万ぐらいは必要になるから
30:02
もっとそんなお金はないですって
人だっていっぱいいるわけじゃないですか
だから論理療法みたいなものは
出てこざるを得ないんだと思うんですね
やっぱりみんながみんなエリスみたいに
カウンセリング技法が
すげー人としてカウンセラーとして
すごいとは限らないわけだから
やっているうちにですね
ここから逸脱するということが起こってくると思うんですよね
ここに面白さがあると思うんですよ
最初は確かにそういう考え方として
馬とジョッキでもどっちも意識して
良い文を合理的に考えて
こうなったのはなぜだろうというふうに考えて
行動について検討する
まあちょっと行動分析的な発想にも似てくるんですけどね
だから認知行動療法って
その言われるようになりますよね
最初は認知療法と言ってたんだけど
認知だけを問題にしてたんだけど
行動の修正みたいな話も出てくるわけですね
まあそして結果があると
でその言ってみれば
それをメタ的に見たいというわけなんですよ
えっと認知があり行動があり結果があるというのを
自分のその流れを一例の流れを離れて見てみると
それでいいかどうかを考えましょうみたいな
基礎にはそういうのがあって
そしてそれを把握するのに
無意識というものを介在させる必要は
さらさらないっていうようなニュアンスなんですね
でもこれはですね
だからつまりそういうふうな状態に
陥ったのに対して
お母さんがどうだったとか
環境としての母親だとか
親習だとかいうことを言う必要はないんだと
ないケースもあると思うんですよ
だけれども結局そういう話になっちゃうケースも
多々あったに違いないんだと思うんですね
でも私は外に出られないんですとか
なぜならば黙って私が外出すると
母がすごくうるさくてって話が延々始まった場合
結局この話は行動療法だけで
いやそれでも外に出ることによって
自分が得ているものの大きさを考えるってことを
いくら繰り返そうとしても
というか逆に繰り返そうとすればするほどですね
昔のそういうものが蘇ってくるっていうケースは
出てくると思うんですよね
そしてそうなった時にこの観点はですね
なぜそうするんだろうと
なぜそう思うんだろう
なぜ出られないんだろう
結果どうなってるんだろう
延々繰り返していけばですね
これはABC療法の枠組みで
徹底的にやっていった場合
気がついたら精神分析をやることにならないかなって
僕は思うし
明らかにそうなっているようなケースの本も
結構読むことになったんですよねその後
これはもともとアンチテーゼで始まったから
33:01
どこか折り合いがつかないところは
出てくるはずだと思うんだけど
でもですね気がつけば
やってることがそっくりになってきているケースも
少なくはないように見えるわけです
綺麗にうまくいったケースほど
そうじゃないんだけど
長丁場にならざるを得ないケース
だって本人は結局のところ
どんなに合理的に考えても起きられないんです
っていうことは起こりうるし
本人はどんなに合理的に考えても
やっぱり男性は見るだけでも
気持ちが震えが来てダメなんです
っていう人はいっぱいいるわけだから
そこのところ行動療法は相当強引に
そこを何とかしようとしたわけですよね
高所恐怖症の人に
階段を一段ずつ登らせては
ご褒美をあげるってことを
とことん言ったんだけど
それだけで決着がつかないということは
きっとあったと思うんですよ
一時的には階段運と
高いところまで登れるようになったけど
気がつくとまた登れなくなったとか
そういう話は私は
直に聞いたこともあるんですけども
というようなことからして
今思うんですよ
この時代に入ってきて
急ぐっていうのは
すっげー今遠回りしてきましたけど
必ずしもいい結果を生まないんじゃないかと
どんなに急いでも
結局必要な時間は
かける結果になるんじゃないかなと
私はですね
タスクシュートみたいなのを広めてる割には
そういうことを言って
思われるかもしれませんけど
タスクシュートというのは
結局こういうことを
言ってる気がするんですよね
結局は必要な時間を
かけることになるんですよ
っていうことを
ツールがしゃべるわけはないから
見てみると伝わってくる
そういうものになってる気がするし
やっぱりABCっていう言葉を
久しぶりに
Jさんのポイシーで聞いて
そういうことを思い出したんですけれども
やってることっていうのは
実は何だかんだ言っても
必要な時間をかけるという話になっていく
それはすごくですね
フロイトが昔言った
平等に衆議を漂わせるっていう
独特の表現を使ってるんですけど
そういう感じがするんですよね
話をピンポイントに絞らないみたいな
それが私が一番冒頭で言った
結局コロナにかかることは
いいことか悪いことかなって
わからないってことになってるんじゃないかと
いうふうに思うわけです
35:39

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