自己解決主義と読書術
おはようございます、グッドモーニングボイスです。
ただいま、5月15日月曜日の夜21時10分になりますね。
あのー、今日ですね、2度目の収録になったんですけども、朝、配信、朝ではないな、夕方頃に配信したのが100日チャレンジ編でして、こちら
あのー、ゲストの方を珍しくですね、お招きしての収録になりましたので、こういうふうにですね、いつもと逆になっているんですね。
いつもと逆というのは、いつもは月曜日にはグッドバイオス編をお届けし、火曜日に100チャレ編だったんですけど、今回、ゲストの方をお招きした関係上、これを逆にさせていただいたと。
これ、結局月曜日に両方撮っているんだけど、配信はですね、こちらは火曜日にしようと思っています。
で、今日はですね、もう早速どんどん行きたいわけですけど、短く切り上げるぞというのが一つ大きな目標としてあるのでね、今週だけでもというのもあるんだけど、まあとにかく。
まず、5月の20日土曜日にですね、読書会というのをやろうと思っています。
タイトルは、セルフカウンセリングとしての読書術。私、何でもかんでも自分一人で何とか解決したいと思う癖がいろいろありましてですね、しかも本を読んで問題を解決しようとするんですね。
これは何でなのかがはっきりわかっているんですが、父がそうだからなんですよ。何しろ父という人はですね、何でもかんでも本を読めば解決するとでも思っているようなところがあって。
えーと、まあこれちょっと別に本人に口読みされてるわけじゃないからいいと思うんですけれども、実はがんを患っておりまして、それすらもですね、原則本を読んでうちの父はですね、半ば解決してしまってですね。
まあこれ、無事屋さんが聞くとどう思われるかというのが非常に気になるところなんですけど、でもまあがんがん見つかってからもう20年近く生きてるんですけど、基本的に彼はまず最初に何やったかって本を読んだんですよね。
そういうもう筋金入りの人間でね、本を読むということがものすごいじゃあ立地的なのかというと決してそういうタイプじゃないんですよ、本当にね。
ただもう本当に本だけはですね、その読んでる本がヤクザものだったりいろいろだったりするんで、別にそんなにこうすごい教養はあるけど、教養がすごい豊かとかそういうタイプじゃないんですけどね、とにかく何でも問題が起きれば本を読むというタイプなんで、あれの影響をもろに受けているんですよ。
別に父はですね、すごく孤独な人間だとかいうわけでは決してないんですよね、はっきり言って。友達多い方だとは思わないけどいないわけじゃないし、とにかくですね、本を読むというのがもう宗碧というのがぴったりな人間でしてね、そんな感じなんですよ、その影響。
セリフカウンセリングっていうのを私はイメージしていて、そのものとして本を読むと。ある意味それがお勧めされていないグッドバイブスも僕は結局本で知ったほどに違いはないので、著者をその前から知ってたってのはありますけどね。いろんな意味で本というのが私の中ではありますので。
これのどういうのかな、本で問題解決を図るというのはどういう流れになるのかみたいなのを読書会でお伝えしつつ、やっぱり私としてはですね、ずっとここのところに携わっている精神分析の読書的な、精神分析的アプローチっていうものが世の中にあると思うんですよね、そういう哲学もあるし。
精神分析をするわけじゃないのに精神分析的なアプローチをとると。読書にもそうするっていうような考え方をちょっとお伝えできたらなと思ってます。
アトピーに効果的だったグッドバイブス
早速なんですけど、グッドバイブスの言葉を出ましたが、今日はグッドバイブス編なんで、今日はもうテーマをはっきりと、割と狭く絞って、私はそもそもこれで何が最大の当初を得た成果かというと、アトピーがなんとか。
というか僕の場合もほぼ感知したと思っているんですよね。出てこないんで。で、私のアトピーというのは、いわゆる大人になってからなったやつではなくて、つまりホロモンバランスうんうんとかじゃなくて、もう気が付いたらなってたんですよ。
多分2歳の頃だと思いますね。最初の自覚が出たのは3歳の頃とかだと思うんですけどね。私自身、親はもっと前から知ってた。とにかくアトピーだったわけですよ。3歳、2歳、多分ゼロ歳児からですね。それで45年はずっとアトピーだったわけですよ。
食事療法でグッと軽減されていて、あと温泉が効いたね。温泉でだいぶ治してたんですけど、でも治ってたわけではない。温泉と食事療法やめればすぐに復活するみたいな病状だったんだけど、これがグッドバイブスを知って、実践するようにして以来治ったわけですね。
こういう話ってどうせ怪しくしか聞こえませんから、はっきり言って。私が他人の聞いてもそのまま信じるわけにはいきませんので、これをそのまま信じてほしいとか別に私は思うわけではないんですけれども、どうして治るのかということを少し私なりに説明ができる気がするので、それを説明しようと。
クラサノさんに言わせれば余計な心配をしないということが体への負担をうんと減らすという非常にシンプルに答えてくださるし、その通りなんですけれども、なんてすればいいんですかね。
やっぱりそれだけを私が言っても、聞いている人はそこはかどない不安みたいなのに襲われるんじゃないかと思うんですね。
治った当事者の方がこういうのって確信あるじゃないですか。聞いてるだけの人が自分の病気とかに当てはめて聞かれるか、とにかく話として聞くと思うんで、そういう自分の経験則とか、科学的な現代で言えば科学的なものの見方に合致しない観点はそこはかどない不安を覚えさせられてしまうと思うんですよ。
だからあんまりこの話を全面に持ち出したくはないんですが、今日はちょっとこれを全面に持ち出してみようと。そういう余計な恐れもない方がいいと思いますんでね。
治ったことは確かなんで、私の中ではね。この治ったと思えるっていうのがそもそも非常に大事なんですよ、実はこういう病気って。治ったと思えるということが治ることに役に立つというね。非常に矛盾してるんですけどね、ここのところはね。
治る前に治ったという確信エロっていうのは、金持ちだと思うことができれば金持ちになれるみたいな話に似たようなものを感じるじゃないですか。だからどうしてもね、ちょっとそういうニュアンスになってしまうんですけど、ただ病は気から系の話ってどうしたってそういうところが出てしまうし、また気からな面はあるんですよね。この病は気からってやつなんですよ。
要はフロイトがドーラの症例、つまりあれはヒステリー症例ですけど、はっきり言ってるのが、この番組でも何度も持ち出しているドーラの症例ですけど、フロイトの有名な症例、しかも失敗例ですねあれはね。
多分ヒステリーの女の子を治せなかった例だと思うんですけど、あれでやっぱり非常にでもフロイトが得た事件はすごくたくさんあったと思うんですね。中でも無意識に病気になってやるっていう風に。
無意識に病気になってやるっておかしいですよね。病気になってやろうっていう。ドーラは明らかに意識と無意識の総力を上げて病気になることにより、お父さんを愛人と別れさせたかったと私はやっぱりその解釈を取るのが、それ絶対じゃないじゃないですか。絶対じゃないけど、あの状況を見ればですね、やっぱりそういう風に考えるのが自然だと思うんですよね。
ただドーラはまだ幼かったというか、幼くはないけど、でも人生経験が豊富ではなかったから、これについて確信を持ってたかどうかは微妙なところだったかもしれないと思うんですよ。でもフロイトから見ればもう明らかにそうであったわけだと思うんですね。で、病気になってやろうとして病気になっちゃったと。
そしてですね、もしこれでお父さんが愛人と別れるようなことがあったら、もうあなたはそういう風にお父さんを振り回すために病気になるという手段から、自分の手段から自分が逃れられなくなるんだよっていうような話をしている。
僕はこれと僕のアトピーは何ら変わらないとやっぱり今では思うんですね。ただ私は生まれつきに近い形だったから、一体全体私がアトピーからどんなメリットを得ていたのかがちょっとよくわからないんですよね。
どんなメリットを得ていたかは今となっては永遠にわからないわけですよ。何かあったはずだとは今思ってはいるんですけどね。それがどういうメリットだったかの確信が得られない。得られないんだけれどもあったんだと思うんですね。
そしてそのメリットは今申し上げた通り、自覚できるようなものではないんですよ。ただ私はつまりこういうことなんだと思うんですよね。人生戦略みたいなもの、人生戦略したら大げさかもしれないけど、処方なんていうのかな。処生術。処生術としてけびょうが役に立つことってやっぱり多々あるじゃないですか。
これに頼る面が僕には確かにあったはずで、だって学校とか行きたくないとかありますからね。子供なんですよね。学校に行きたくないっていうのは。だって学校に行くのは子供だから。そして子供って学校に行く行かないの選択ってできないじゃないですか。ここが僕すごい大事な点だと思うんですよ。
言ってましたよ。小学校の先生はずるいんで、この国は民主主義だから君たちは学校に行きたくなければ来なくてもいいんだみたいなことを言うんだけど、あれは建前で昭和の世界において学校に行かないっていうのは無理なんですよね。子供の一存とかでは全然全く。絶対行かなきゃなんないわけですよ。
処生術
行きたい間はいいんだけど、行きたくなくなってしまったら、やっぱり行きたくないところに無理やり生かされてるって感じが出ますよね。熱でもたまたま出すとですね、私は病気がちだったんで熱出すことはしょっちゅうだったんで、行かなくて済むわけです。
心の底でラッキーって思いますよね。つまりこれは行動科学だけでも説明できるんですけど、ネズミがたまたまレバーを倒してみたらチーズでラッキーってこれと何にも変わんないじゃないですか。たまたま熱が出てみたら、行きたくないところに行かなくて済むんじゃんと思えてしまう。
こういうことと全く同じようなことが、皮膚病でいくつか得ちゃうと治しにくくなるんですよ。まさかですね、病気になって速投したら、父が最悪で憎ったらしくて気持ちの悪い愛人と別れてくれてラッキー、こんなでかい出来事はそうは滅多にないけれど、そんなことが起きちゃったらですね、
ドラさんは病気治せなくなっていきますよね。自力ではなかなか。そういう無意識の力って、そういうふうに説明されるものだったろうと思うわけですよね。最初はですね、古典的な話なんで、精神分析の中では古典理論って言ったりするんですけど、まさに古典的な話ですよね。
今の我々の色んな知識を得た目から見れば、いやそんなメカニズムについてくどくど説明いらないじゃんって思われるかもしれませんけど、フロイドの時代は無意識って概念が非常に怪しげなものがあったから、なかったわけじゃないと思うんですよ。そういうのって人々はそこはかとなく意識してたと絶対思うんですよね。
病気からっていう小説もあったぐらいだから。だけれども、やっぱり無意識っていう概念がはっきりとしないうちに、そこまでメカニズムとして、あのメカニズムは怪しいっていうのがあるんだけれども、メカニズムとして説明できていたっていうところがすごいんですよ。
そしてそういうのが生きた実例として、ドーラさんのような人の病状として現れていたのを、それだと言って認識して指摘までできているってところがやっぱりすごいんだと思う。
そういう観点で見てみたときにですね、つまり処生術がいるのかってことなんですよ、究極的には。グッドバイブスで一つ私が得たことは、処生術なんていらなくないかっていう話をクラノンさんにされたと、私は判断したんだと思うんですね。
つまり私は父を別れさせたいからとか云々とかそんなことを意識するはるか前に、おそらく遺伝的なのか体質的なのか、育て方なのか食事なのかの理由によって確かに偶然アトピーを患うことになったんだと思うんですけど、これによるメリットを幼い頃から何回か得ちゃったと思うんです。
そのうちに自分である意味偶然得た病気なんだけど、つまり治す力を発揮する能力を見失ったんだろうと思うんですよ。
それが処生術として機能し出してしまったから、これは多分アトピー一つじゃなかったと思うんですね。私はやっぱり何度も熱を出したってこともあるし、よく喘息にもなってたんですよ。
この辺のアレルギーっぽい独特の病気っていうのは全て心身症ではよく見かけられる現象なんですよ。
ただこれはあれですよ。世の中には本当にっていうのかな。
例えば私とは全然違う理由によって明らかにアレルギー性の、例えば杉花粉なんていうのがそうで、私花粉症全然ないんですけども、明らかにこれがアレルギーになっていてアレルギー反応が出ますっていうのはダメだと思うんですよ。
例えば蕎麦アレルギーの人が処生術かもしれないと思って蕎麦食っちゃダメだと思うんですよ。命に関わるんであれは。
だけれども、ある種のアレルギーなんだかなんだか分からないような原因が錯綜している病気、例えば寒暖差アレルギーみたいな言葉で最近説明された。
寒暖差それ自体はアレルギーじゃないじゃないですか。
寒暖差が激しいことにより免疫系が少し機能しにくくなって、しかも寝不足みたいなものと寝不足は免疫系を弱らせますからね。
ものと密接に結びつく中である種のアレルギー反応が通常よりも酷く出やすいっていうようなのが、いわゆるなんとかアレルギーじゃないですか。
これって非常に心身症的なものでもあるわけですよね。
寒暖差じゃなくてそれが上司がめちゃくちゃ怒るとか、親がめちゃくちゃ怒るとかで絶え間ないストレスで寝不足になるとかでも、同じ事態を引き起こしかねませんよね。
というか引き起こしますよね、きっと。
病気にかかったメリットとその治す力を妨げるものについて
だからこれは全部の病が効かれるかどうかっていう議論は馬鹿げているんだと思うんですよ。
ポイントになるのは私のように、もっと心理的に安定することができるぐらいの条件が整っていて、
例えば私は学校に今行ってるわけじゃないんですよ。
やっぱり学校に無理やり行かされているからこそ、例えばいじめられても行かなきゃならないとか、宿題やってなくても行かなきゃならないとか、宿題で漢字展開書かなきゃならないとか、わけわかんないと言えばわけわかんないことをやらされていて、
しかもそこに選択の余地は全くなくて逃れられません。絶対苦しくてもやらされるんですっていう事態だから、病気になることが処生術だったけど、
今も本当に処生術なのかっていう話になってみた時に、治す力というものが自分の中にやはりあったとして、みんなのみんななくても自分にはあったとして、
それを再発見することを妨げているものは何でしょうっていう質問なんですよ。
妨げているものは病気になることがメリットであったら十分な妨げになるじゃないですか。
つまりこれはですね、家出した子が家出した人でもいいや、道に迷うことは意識的なのか無意識的なのかという問いと比較してみると面白いと思うんですね。
家出したぐらいだから家から出たいわけですよ。一方ででも家出って大変じゃないですか。
家出をすれば何もかもがハッピーとは限らない。だから家出をした人はやっぱり心の中では心細いから戻りたいなと思うことがあるのかもしれない。
でも家はもっとひどいんだぞっていうふうに心の中で確信があると、その人は道に迷うかもしれませんよね。
こういうことをフロイトは発見したんだろうと思うんですよ。
プラソのさんがグッドバイブスでよくおっしゃってるのは、でも道に迷う必要があるかっていうことなんですよ。
もうちょっと世の中とか自分自身の力といったものが信頼できるのであれば、家に戻るかどうかは道に迷うことなくはっきりと自分で選択すればいいでしょうと。
これは言ってしまうことそれだけのことなんだけれども、そういうアレゴリー、例え話で考えてみると面白いんじゃないかと思うんです。
私たちは意識的・無意識的総力を挙げて、好んで道に迷うことができちゃうんですよ。そういう生き物なんですね。
その時にいかにも心象だの、イリュージョンだのって役に立ちそうじゃないですか。何しろ道に迷うんで。
一番まずいのはあれですよね。白昼夢みたいな状態で、土地感のないところを歩き回れば道に迷いますよね。
そういう時に、ちゃんと本当に目的地に行き着いたり、元のところに戻りたかったら、冷静にですね、現実にどういう状態でどこをどう歩いてきたのかを、可能な限り現実に即したところにですね、意識の照準を合わせるほどいいわけですよね。
それはもう間違いないと思うんですよ。これが現実を見に行くってことになるんだろうと思うんですよ。
この逆をやる時にはですね、やっぱり人は自分が信頼できないっていうのが大きいと思うんですよね。
戻るか、それとも家を出てしまうのかの判断を自分がするのが難しいとか、あやふやだって時ほど道に迷いそうですよね、こういう人は。
そしてまた、世の中というものを信用できなければできないほど、家に帰ったほうがいいのか、それとも家から出たほうがいいのか、つまり世の中のほうに向かったほうがいいのかでも、自信が持てないので、世の中を信用できないわけだから、家にいるのもつらいわけだから。
これって実は、学校に行きたくないのとそっくりなんですよ。やっぱり。
学校に行くってことを子どもが選択できるってことは、それだけやっぱり当然漠然としてはいるんですけれども、世の中信用できると思ってるわけだし、また自分のことも信頼しておけると思ってるわけですよ。
諸聖術とオカルト
学校に行って、自力では対応できないし、そんなところに無理やり行かせる世の中も世の中だと思っていると、どっちつかずになっていきますよね。
その時に、自分自身ができないこと、つまり自分のコントロールできないことで、行けなかったからしょうがないんですっていう、そういう選択肢を選ぶのが、つまり熱が出るとか、そういったことなんですよ。
体が痛くなるとか、あるいはお腹が痛くて学校に行けなくなるとか、いろんな処方箋がそこにあるわけですよ。
処方箋ってこの場合、使い方が逆ですけどね。
これが多分、私のアトピーのもっと大きな枠組みの中で、私をアトピーにしていたものだったと思います。
もちろん、実質的に45歳になった頃の私のアトピーは、もはや何の現実的なメリットももたらしてくれていなかった。
ただ私は右に迷って、もはや自分で治す能力というものを完全に持っていないものだと、確信しきっていたのがその頃だったんですね。
だから妙薬みたいな、いい薬とか、細腸が入ったとかいう、非糖の温泉とか、そういうところに効いたんですけどね。
そういうものが欲しくなるわけですよ。
つまり、自分がアトピーになっている理由も怪しげでオカルトチックであるならば、治す方法もオカルトチックになっていくと。
ところがですね、面白いことに、それこそが現実的でありサイエンスだって感じがしてくるんですよね。
だってそうですよね。
なんとなく、あんまり聞いたことのない霊戦って言うんですけどね。霊能力のあるお風呂みたいなところに入って治ったって話の方が、
少なくともグッドファイブスを聞いて治ったっていうよりは、聞くような気がしませんか、これを聞いている皆さんであったとしても。
そういう風な感じはしません。
これは我々が知らず知らずのうちにオカルトっていうものを、実は結構サイエンスの名の下に信じていく、一つの思考的な流れなんじゃないかなってよく思うことがあります。
例えば、物質に物質、皮膚に温泉っていうものをぶつけさせれば、その効能とかアルカリ性とか酸性とか言ってさえ置けば治るんだっていう考え方。
一方でそれが、世の中信頼しましょうみたいな、生まれもって愛そのものとして生まれるんですって話を聞いて治ったって話は、
よっぽどそれよりも怪しいっていう風に考えるっていうのは、僕はこういう筋に沿って考えてみると、ひどくオカルトな感じがしなくはないんですよね。
だってどうしてアルカリ性なら治るのかってことですよね。
ちなみにアルカリ性洗剤とかを肌に塗っても治りゃしませんからね。
これっていうのは、いろんな意味で道に迷ってるんですよ、やっぱり。
文化全体がみたいな話になってきますけれど。
少なくとも私はですね、帰りたくもない、そして行き先も知りたくないっていう状態は、やっぱり治しようがないっていうことになってしまうんですよね。
だから本気で治りたいと思うならば、少なくともそれによるメリットというものを一切捨てるくらいの感覚っていうのがあるといいと思うんですよ。
つまり諸聖術っていうものを、諸聖術っていうのは結局、自分の無力さを何らかの形で補うものだし、
世の中の仕組みというもの、あるいは世の中そのものというのが宛にならないというのを補うためのものじゃないですか。
それが諸聖術ですよね。
私はやっぱり学校に行きたくないからけびを使うっていうのは諸聖術だと思うんですよ。
学校というシステムにも信頼が受けないし、自分がそれを拒否する力も持ってないっていうのがまさに諸聖術らしいですよね。
そして、これは非常に不思議なんですけど、同じ文脈でオカルトがひどく役に立つような気がするんですよね、こういう文脈においては。
病気と社会の関係
学校に行かずに住むというのがオカルトになりやすいですよね。
梅津和夫さんが得意とした割とテーマなんですよ。
学校が急になくなればいいのにとか、いきなり爆破すればいいのにとか、遺伝子費が落ちてくればいいのに。
全部オカルトによくあるテーマですよね。
彼はそういうテーマで漫画を描く人でしたからね。
ホラー作家でもあり、オカルト作家でもある梅津和夫さんですよね。
多分彼はちょっと学校に行くのが嫌だったんだと思うんですよ。
分かる気がします。
彼は私よりずっと年上で、本当に昭和に生きた人だし、
しかも全然学校に向いているという感じの作品ではないですもんね。
そういうことが、もろもろが人をしていろんなパターン、
別にアトピーとは限りませんよ。
ドーラさんはアトピーになったわけではないですしね。
つまりそこのところでも選択されてるわけですよね。
ある意味では本人にとって、また周りの人へのインパクトとして
一番有効そうな病気というものになる。
これはしかも怪病だとは言えないんですよ。
本人結構つらいんです。
私のアトピーは決して怪病ではなかった。
本当にどこの皮膚科に行ったってアトピーですって言われた。
ただそれが社会とかの関係性という文脈と全く抜きにしては
成り立たないものだったってことですよね。
不思議な話なんですけれども、
でも確かに社会と全く無関係の病気ではなかったんですよ。
それだけは確実だったと思うんですよね。