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おはようございます、グッドモーニングバイブスです。
テイク2です。
あの、調子良かったんですけどね、ミスっちゃいまして、
テイク2を余儀なくされております。
まあ、しょうがないですね、こういうこともあるんだなと。
で、気を取り直していきますか。
あの、昨日ですね、うちの玄関には3、4段の段がありまして、
もうちょっとこう、細かくつけられなかったのかと。
まあ、うちの建築士さんはちょっとカッコつけたところがありまして、
いいんだけど、段差がでかいんですよ。
どうしとったらきついだろうと。
もともとはもっとでかかったんですよ、段差。
で、しかもそのでかい段差の機能ですね、
不注意で1段飛ばして降りちゃったんですね。
で、前もやったんですよ、これ。
前やった時は、翌朝ですね、立てなくなっちゃったんですね。
ヘルニアなんですけど、僕ヘルニア持ちなんで、
右、今回も右だったんですけど、右でついて腰に受けちゃったんですよ。
で、これがですね、翌朝前回はですね、
痛いというよりは力が入らないんですね。
ぎっくりむしやった人はご存知だと思うんですけども、
何かが抜けてしまっているような感じで立てないんですね。
で、私は前回は、その翌日に仕事があったので、
渋谷に行く途中の大歓山のいつも行っているところに行って直してもらったんです。
そこもまたですね、非常に独特の施術をさせてくれるところで、
グッドワイブスな感じなんですよ。
何がグッドワイブスかというと、
腰に触ることがほぼないという腰直しでいるのに、
ひどい時というか不思議な時には髪の毛とかに触っているんですよ。
というか頭に触っているのか分からないんですけど、
感覚的には髪の毛に触られた感じなんですよ。
そうすると治っちゃうんですよね。
時間も非常に短くて、20分かかるかかかないかなんですね。
ここに行くのをお勧めするわけでは、
このぼかした言い方からしても、
勧めているわけではなくて、
人にもよると思うし、
大変人に勧めにくいところなので、
ただ、催眠療法とかではないんですよ。
催眠療法というのは別に非観客的でもなんでもなくて、
あれはちゃんとしたもので一つの考え方だと思うんですが、
それとは全然違って、
別に私は途中、施術中寝ているわけじゃないし、
普通に目で見ているんですよ。
何ら触られる形跡とか、
全くどこにも触らないとかではないんですけど、
もむとかは一切ないんですよね。
どこをとっても触るか触らないかの境目ぐらい。
03:04
触るときは触るけど、
力を入れられるということはほぼ全くないんだけど、
気がつくと治っているというか、
あっという間に治っちゃう。
それで大河山で降りたときは、
苦痛極まりなかったんですけど、
渋谷に行くときは全然平気な顔して行っていたということがあるんですよ。
それと全く同じような外し方をして、
ヤバいと思ってたんですよ、昨日。
でもなんかですね、
頭をよぎったのは、
でも自分、今回はグッドファイブスを知っているからだと、
今日はこれをうまく説明できないかと思っておるんですけれども、
いろんな説明の仕方をしているんですけどね。
私がよく持ち出すのは、
腰痛とアトピーなんですよ。
ただこの、あるじゃないですか。
オカルトでも宗教でも、
この病気治りました系ね、
これを言うだけでも微妙に思われると思うので、
これを言うのはやっぱり、
慎重にならざるを得なくて、
とはいえですね、
これがやっぱりある意味最大なわけですよ。
仕事早くなるとか、奥さんと仲良くなるというよりも、
深刻なんですよね。
アトピーとか。
私も40年来アトピーでしたから、
深刻なわけですよ。
じゃなきゃ糖質制限とかしませんからね、やっぱり。
腰痛も深刻なんですよ。
立てなくなりますからね。
やっぱりこう、夫婦喧嘩レベルではないわけです。
これがなくなるっていうのは、
すごいと言えばすごいので、
ここを本当は押していけば、
一番良くはないんですけど、
効果として起これば一番ね、
オンラインコミュニティとかに入っていただいている方にせよ、
セミナーに来ていただく方にせよですね、
何がとれて一番嬉しいかというと、
これなんじゃないかなって思うんですよね。
治病ってやつ。
で、うちは何度も言いますけど、
家が寺ですから、
この種のものを当然知らないわけではないんですよ。
まあすごいね、イエス様の奇跡がバンバン起こるみたいなのはないです。
それは。
でも、治るというケースはあるんですよ、やっぱりね。
子供の心から、
うちでは、
父とかに言わせてもですね、
そんなに特別なことではないという言い方はするんですよ。
で、いやいや、
そこで治るのは宗教だからって言うわけじゃないですか。
私の当時の時代は本当に科学全盛に近かったから、
そういう風に言うんですよ。
でも面白いなと思うのは、
例えば、病院行っても何か良くならないんです。
それは良いんだと。
病院行く薬を飲む、注射を打つ、良くならない。
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OK。
で、寺に来て良くなりました。
ダメ。
これはですね、私ね、ロジカルではないなとよく思ってたんですよ。
あの、言いたいことは分かりますよ。
私は、だって自分が寝てたしたら病院行ってましたもん。
だから言いたいことはよく分かるんですよ。
ただ、
これが、これで平気だっていう人、
つまり病院行って治んない、平気です。
寺に行って治りました、絶対認められませんという人は、
それは宗教じゃないのかってむしろ思うんですよね。
それ、明らかになんかこう、
唯仏教みたいな宗教じゃんと思うんですよ。
効かないお守りでもOKなわけじゃないですか、病院であれば。
お金を払うのもOKなんですよね、治んなくても病院であれば。
という話になっちゃうと思うんですよ。
だってそういうことがないわけじゃないですからね。
私は、自病がですね、アトピーだったり、
小児善息だったりなんで、行けば即確実に治るかというとそんなことはないわけですよ。
だからといって、私は家で大目唱えてたりとは決して思わない人間だったんで、
必ず病院行ってたんですけど、結構遠くの。
で、やっぱり治してくれるところとそうでないところはあるわけじゃないですか。
これも考えてみれば少しおかしいですよね。
今のコロナとかじゃないわけですよ、小児善息なんだから、
どんな病気なのか、どういう症状なのか、
何をするべきなのか、全部明らかに当時からなってたわけで、
でも行ってもなぜか良くならない病院と、
行くと治してくれる病院とあったわけですよね。
科学でも。
で、あそこにテラが入ってくるのは認められない。
その、やぶない医者よりもダメだ。でも治ることもあります。
だから全然ロジカルではないなと、子供時代から思ってたんですよ。
で、さっきの大神山さんのところもそうなんですけど、
要は一つ目のグッドバイブスで私がすっと入るのはやっぱりですね、
本当のことは何も知らない。
あれは私には大変分かりやすい話なんですね。
科学な方ですごく安心しきっているっていうのは、
ある意味大変幸せなことだと思うんですけど、
分かってるわけではないっていうことについて言えばですね、
お医者さんは知りませんよ。
でも少なくとも患者は分かってるわけじゃないじゃないですか。
はっきり言ってしまえば、病院に行けば治ると信じてるだけですよね。
何がどうされてどうしてるからは治るっていうことが完璧に分かってるぐらいならば、
治らない医者になんか行かないですよね。
私は大神山に何度も行きましたが、
マッサージ屋さん、マッサージしないマッサージ屋さんですけどね、
なんで治るのかさっぱり分からなかったです。
なぜ痛みがこれで取れるのか。
説明がつかないなと思いました。
ほぼ触らない日だってあるんですよ。
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でも痛みは完全に取れてしまう。
完全にまじないみたいなもんじゃないですか。
でも痛みなんですよ問題なのは。
この際まじないだっていいわけじゃないですか。
催眠療法だろうとなんだろうと。
ことは痛みなんで。
痛みというものは実在するかどうか非常に微妙ですからね。
脳には例えば痛覚はないが、頭痛というものはある。
何がじゃあ痛いのか。
非常にコンセンサスの得られてない部分なんですよ。
実に原始的ですよね、現象としては頭痛なんて。
そこら中にいろんな人がかかってますよね。
でも完璧にこれでいけますっていう説明はないんですよ、あれ。
非常に問題だと私は思うんですけどね、科学教としては。
科学で説明しきれて当然の現象だと思うんですけど脳に痛覚はないのは事実だし、
頭が痛いというのも事実だし両立しないんですよね。
頭痛というのは頭が痛いわけじゃないんですよ、頭痛だけど。
頭が痛いんだとしてもそれはどの痛覚なのかというのは厳密に言い切れない感じがあるんですよね。
これ、実はこれを言い始めると、じゃあ痛は完璧に説明できるのかというと、
そうでないケースとそうであるケースとあるんですけども。
だってほら、これを言い始めると足はなくなってしまったんですが、
足の指先が痛いですという問題が出てくるじゃないですか、原始痛ですね。
で、あれはラマ・チャンドランというすごい人がかなりのところまで解明したとされてますけれども、
あれは解明というよりは治療したのであってですね、解明したというのとはちょっと違うと思うんですよ。
でもまああれは大変いい説明なんで、我々あれで大体納得するんですけど、
本当のところ変ですよね。足のないものが痛いわけですからね。
ないものが痛いって言うんだったら、もう何だってありじゃないですか。
目にそこに生えている木が痛いんですとか言うことだってできるわけですよ。
それと非常に何かがクロスしてくるんですよ。
そういう感じが私は大神山で施術受けている時にしました。
要するに治している部分もあるんだけど、一部は幻みたいなものなんだろうなと。
現に何度か言われたんですよ。痛いとあまり思っててはいけませんと。
これは医者が言うこととしてはどうかなとは思うんですけど、
でも痛いとずっと思っている人は治せないんですっていうのは何回か言われたんですね。
で、非常にやっぱり後から思うとグッドバイブス的だなと思うところがある。
ただ、じゃあだからといって今日エルニアで枕が剥がれなくなりました。
痛いと思っててはいけませんっていうのは困りますよね。
立てないことは間違いないんでね。少なくとも自分では。
12:03
で、今日は立てているわけですよ。だからこれを平気で取っているわけで。
しかも痛くもなんともないんですよ。
前回は全く同じことを、ほぼ同じことをやり立てなくなったわけですね。
翌々朝も痛かったんです。立てはしたけどね。
大海山まで行きましたけど、うめきながらに近い。汗出てましたね。
今回は痛みがもうないんですよ。
で、これグッドバイブスのおかげですって言うと納得されないでしょう。
で、私はこれを納得自分でできる説明ができないかなと、
プロチゾールとかいろいろ考えたんだけど、できる説明に至らないんですよ、なかなか。
昨日ずっと考えていたのが、いたことの一つがですね、
目の前にあるんですよ、私の食卓につくと。
うちに来れば見られますけど、なんてことはないものですけどね。
うちの娘の書いた字があるんですよ。
そこにね、名前が3つ書いてあって、うちの家族の名前なんですが、
小五とか書いてあるんですけど、与が逆さまなんですよ。
鏡文字みたいになっちゃってるんですね。
2歳の時に書いた字なんで、そうなってるんですよ。
ところがですね、これをなぜか額縁にうちの父が入れてですね、
れいれしく飾ってるんですね。
遊びなんだと思うんですけど、遊びにしてはえらいちゃんとした額に入れてくれてるんですよ。
で、字は2歳児の書いたものだから。
で、うちの父がですね、言うんですよ。
一回言ったんですよ。
この時が一番上手かったんだよなって言うんですよ。
これからどんどん下手になっていくんだよと。
うちの娘の字がね。
まあ、うちの父は一応、はっきり言って坊主であるというよりは書家であると言った方がいいんじゃないかと思う時があるぐらい書道は熱心なんですね。
日展に1回入選している。毎日賞も何回か取っているっていうレベルなんですけど、
まあ抜群に上手いってわけじゃないですよ。
70歳までやってて日展に1回っていうのは決して抜群に上手いっていうレベルじゃないけど、
まあでもそれにしても随分書いてました。
書家だと言っても全然おかしくはないですね。
で、の父が言う2歳児がよう逆さまに書く、鏡文字みたいに書くとこの頃が一番上手い。
で、年々下手になっていく。
何なんだろうそれって思うんですよね。
で、私はまあ、こんな話は父は散々してきているんで、
もうまた始まったなぐらいに聞いてたんですよ。
でも毎日見るわけですよ。
食事の間中、私の方からずっと見えるわけですよね。
で、いつしかですね、ふと気づいたのが、
上に佐々木って書いてあるんですけど、これは父が書いたんですね。
まあ父がとりあえず書いとくぐらいな感じで、決して気合い入れて書いたわけじゃないんですね。
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まあ気合い入れて書くとうまくはいかないんだそうですが、
とにかくただ佐々木って書いたんですけど、
まあそっちの方がうまくは見えますわね。
娘の友達が小学校低学年の頃に来たときに、
上の字は誰が書いたの?おじいちゃん。
で、下の字がみめいちゃんだって言うんですよ。
で、笑うわけですね。
これなんですけれども、
つまりどっちが上手いかは分かっていると小学校低学年でもすでに思うわけじゃないですか。
それってどうなんだろうってまず思ったんですね。
父は逆のことを言ったわけですよ。
上の字より下の字の方がうまいんだと言ったわけですね。
つまり鏡文字になっている世の方が、
この一応ちゃんと下字になっている佐々木よりうまいって言ってるわけですよ。
で、父は冗談でそう言ったわけじゃないんですよ、あれは。
そう本当に思ってるんですよ、間違いなく。
冗談でそういうことは言わないタイプの人間だし、
父はいつもこの種のことを言うんですね。
で、まあ大して説明はしませんが、
そのうちの奥さんと、奥さんそういうことにすぐには納得しないですし、
何を言わんとしているんだという、
まあそういう強い調子じゃないけど、父に聞いているわけですよ。
父は大体みんながうまいと思っている字というのは、
誰がそういうふうに決めましたかって言うんですよ。
で、そんなことは我々は誰も自覚はしていませんが、
でもですね、確かに誰かがうまい字って決めてるわけですよね。
学校でもお手本とか見本ってあるじゃないですか。
見本の方がうまいって言ってるわけですよね。
で、父は必ず言うんですよ、そういう書道の教科書みたいなものを見て、
この見本は少しもうまくないと。
これはどうするんだって話ですよね。
だって我々は見本通りに書こうとさせられるわけじゃないですか。
で、いつしか見本通りの字がいい字なんだって習うわけじゃないですか。
でもですね、例えば余でもいいんですけど、
余はこの丸はこういう角度であるのがうまいとか、
このような長さが正しいって、実は誰も言ってないわけじゃないですか。
それを厳密に決めることもデザインフォントの書体とかで決められますけれども、
でもですね、それだって誰かが勝手に決めていることに違いはないですよね。
科学法則的には決まらないことですよね、決して。
で、多分ですけれども、実際そうなんですが、
昔、例えば石とかに字を彫っているわけじゃないですか。
あれはうまい人が字を書いて彫るわけですよね。
うまいっていうのはああやって面々とこれがうまい、これがうまいというのが歴史的に決まってきて、
で、今の見本なるものが出来上がるわけですよ。
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で、我々はそれを見てうまいと。で、それとずれていると下手だと。
だけれども、そうするとどこにもオリジナリティはないことになるわけじゃないですか。
みんなが同じようなものを極端に言えばコピーすればいいわけですよね。
だったら何のために書くんだろうってことになってしまいますよね。
極端に言えばコピーすればいいわけですよね。
で、私たちっていつもこれをやってますよね、学校で。
娘は受験やってますからやってるわけですよ。
私いつもここに面白い不可解なものがあるなって思うんですけど、
例えば今は模擬試験、毎週1回させられているテストがありまして、
全国公開模試みたいなのがあるんですけど、答えを書きなさいって欄があって書くわけじゃないですか。
それがですね、ちゃんとインターネットを通じてスキャンされたやつが上がってきて、
それに丸田バスタがついているわけですよ。便利な時代ですよね。
で、それに丸田バスタがついていると。
全部丸ってことはまあないですよね。
そして模範回答というものがあるわけですよ。
それもPDFで見られるんですね。で、見ると。
あれと全く同じものを作る、これは競争ですよね。
あれと全く同じものを作れれば作れるほど高得点ですよね。
その模範回答と。確かに模範回答は正しいわけですよ。
印刷された文字ですけどね。
あれをずっとやってますよね。
全国で毎年毎年というか毎週毎週。
私の時代からもう40年、おそらく100年ぐらいは。もっとですよね。
全世界でやってますよね。
同じものをみんなでいかに同じように作れるかという競争。
で、そこには正解が一応あります。
特に算数とか。国語は微妙ですけどね。
前も申し上げたかもしれませんけど、
私の本が一回、高校入試の問題に使われたことがあるんですよ。
一部抜粋。脳は直感しているという本の一部が。
私その問題解いてるんですけど、何度か解いたんですけど、
同じところでつまずくんですよ。
だいたい間違うんですよ。
あと、うのどっちかだなというところで止まるんですよ。
で、答えはこっちですってあるわけじゃないですか。
で、それが答えだと言われればそうなんですよ。確かにそうだと。
でも私はすっとそっちを選べないんですよ。
私が書いたんですからね。
あっちが正しいかもしれません。論理的に考えれば。
私の書き方がまずいのかもしれない。
だったら問題に使うなよって話もあるんですけれども、
私としてはそうではないつもりだって部分があるんですよね。
だから間違うわけですよ。
この話は割と有名ですよね。
21:00
国語現代文の問題で著者が間違うというのはおかしいんじゃないのかと。
いや、それはおかしくないんだという議論もあります。
どっちにも一理あると思いますが、
でも私はその著者の答えが正解だというのにも一理はあると思います。
念のために5回くらい解いてるんですよ。
5度とも悩むんですよ。
ということは私としてはここはたまたま1回悩むだけならば
昔書いたもんだから忘れてるってこともあるじゃないですか。
でもいつやってもそこで悩むということは
どっちが正解というところが大変微妙だと
少なくとも僕の方にだって一理はあるぞって言いたくはなりますよね。
私が思ったことはですね、
つまり昨日この字をずっと眺めていて
これがうまいってのがわかる気がすると
最近思ってたんですよ。
かなり見てますからね。
味があると言ってもいいんでしょうけれども
とにかくこっちの方がうまいというのは
わかる気がするっていう感じがしてきてるんですよ。
そうした時にですね、
つまりオリジナルが正解なんだっていうことは
どういうことなんだろうってことなんですよ。
結局私たちは体の使い方に至るまで習うわけじゃないですか。
飛び箱とかこう飛びなさいとか
走る時はこう走りなさいとか
流石に歩き方まではあんまり言わないですけれども
私でも運動会の更新の仕方とかに
ずいぶんうるさかった先生でもいましたよね。
習うわけじゃないですか。
背筋をまっすぐとかね。
で、思ったんですよ。
あのダイカヤマの施術師さんは何をしていたんだろうと。
グッドファイブスって何を言ってるんだろうと思うと
同じようなところに行き着く気がするんですよね。
本当のことは何も知らないっていう話があるじゃないですか。
いろんな言い方がありますけれども
今ここしかないです。
この2つだけ取ってみてもですね、
自分の体の正しい姿勢の持ち方とか
正しい字の書き方とか
正しい体の使い方とか
正しい時間の使い方とか
あるわけがないじゃないですか。
だって個性と役割でもいいんですけれども
全部の人が違うということになったらですね
誰かの字の書き方を真似すると
より正しく字が書けるってことはありえないことですよね。
ということは、しかも今ここしかないのであればですね
年々字がきれいになってうまくなっていきますってのはおかしいですよね。
24:01
厳密に考えればそういうことになりますよね。
その時のものはその時しかないわけですから
そういうふうに考えてみると
踏み外すってことはないわけですよね。
だってその時にはその時のことしかないわけですから。
その後もそうなんですよ。
それについて悔やむということは本来できないことですよね。
悔やみますよね。
あの時ああいうところで踏み外さなければ
今日ヘルニアになったりせずに
ちゃんと起き上がることができたのにって思うわけじゃないですか。
私思いましたからね、大観山に行った時は。
そうすると、つまり私たちは正しい〜の仕方と
そうでない〜の仕方があって
そうでないものを選択した時に
今後そうでないものを選ばないようにしなければいけないという思考に
いつもあるんですけれども
それって本当はないわけですよ。
本当は完全にイリュージョンなはずなんですよ。
そうすると踏み外したとか
正しくない体の使い方をしたということも
本当はないはずなんですよ。
その時はそれしかしてないわけですからね。
こっちの方に丸をするってことも本当はないわけですよ。
本当はこっちなんだって思うから
あれは間違いに見えるわけじゃないですか。
だんだん僕にはそう見えなくなってきましたから。
だってあれで称号って読んでるわけですから結局。
それでいいわけですよ。
こっちの方が下手なに至っては
上手いってものを誰かが決めない限り
絶対に出てこない発想じゃないですか。
うちの子はあれを書いた時点ではないはずですよ。
これは下手であっちの方が上手いという
思考そのものがないはず。
これが一番上手かった時の考え方なわけですよね。
父に言わせれば。
父はあれで日程に取れてるわけですから
つまりそうしようそうしようとしてるわけですよね。
手本というものがないわけじゃないんですけどね。
でも手本というものはないわけですよね結局。
極論主張りじゃないわけですよね。
これを主張りと言うんでしょうけどね。
体の使い方に至っては主張りじゃないですよね。
これを主張りと言ってもいいんでしょうけれど。
そういうのが好きな人っていますけどね。
でも私はそういうのが好きっていうのは
すごく変だと最近は思います。
もともと好きじゃなかったですけど。
なぜならうちの父みたいなのが父親ですからね。
学校の手本見て少しもうまくないんだって
平気で言っちゃう人ですから。
でもうまかろうがうまくなかろうが
27:00
関係ないんですよ結局。
昨日私がずっと考えていたことは
とにかくこの字が一番うまいというならば
父は本気でそう言ってますから
父を信じるかどうかという問題はあるんですよね。
これが一番うまいというならば
体の使い方はどうであってもいいはずだと
いうことになるんですよ。
自分が一番その時にいいと思う使い方を
ずっとしてればいいはずなんですよ。
他人から見て姿勢が悪かろうと
何かが曲がっていようと
背筋がまっすぐでなかろうと
こういう考え方を私たちは日頃してないじゃないですか。
常に何かにとらわれている感じってあるじゃないですか。
とらわれさせられるようになっているわけですけど
どこか常にですね
横に正しさみたいなのがあるような
気持ちにさせられているところがあると思うんですよ。
そして因果関係というものに
すごくハマっている感じがすると思うんですね。
昨日ああいうところで踏み外したから
明日腰が痛くなるだろうっていうのが
確定事項みたいになってますよね。
大海山に行けば治る。なぜなのかは分からないけど。
っていう考え方ですよね。
昨日はだから
つくづくそれは良くないと思ったんですよ。
とにかく明日痛くなろうとなるまいと
その考え方でいる限りは
この既定路線にはまってしまう。
そしてその既定路線にはまることはまさにあれですよ。
病院に行って治りませんでした。それで正しいんですってやつですよ。
それだけは嫌だと思いません。
私はそこまで社会に
服従して生きていきたいとは
さすがに思わないんですよ。
これって僕はすごく社会に服従している感じがするんです。
私はだからタスクシュートでも
ここに関して反抗的だったんですね。
正しい時間の使い方っていうものに服従して
結局それは他人が決めることなんですよ。
だらだらしていないで
例えば今で言えば
金融投資の仕方を勉強しなさいとか
だらだらしていないで英語の勉強しなさいは
ちょっと幼稚ですけれども
とにかくそういう感じじゃないですか。
それは社会が言うことですよね。
自分で言うことでは決してないと思うんですよ。
その辺まではでもしょうがないと思います。
私だってね。だらだらしていないで
仕事のデモを書くかと。
その辺まではいいですよ。妥協する気になれます。
でも病院に行って病気のままである方が
寺に行って治るより良いのでは
受け入れられない。
いくらマジョリティだとしても
それはないだろうって思っちゃいますね。
30:00
あるいは病院に行っては良くなっているんです。
宗教に行って治っていると思うのは
病気のせいです。これも受け入れがない。
特に痛みとかについては受け入れられない。
そこまで本当に
みんなのマジョリティこそ正しいっていう風には
私にはとても信じられないです。
だから朝早く起きるだとか
朝活するだとか
マラソン走るだとか
全て極めて流行的なものですよね。
マジョリティが正しいんだという。
私は大橋裕都さんと以前から
大運スタイルっていうのを言っていた方だから
やっぱり最初からそれにはちょっと
耐えがたいなと思うところはあったんですね。
何度も言いますけど
妥協をする余地はありますよ。
お金がなければ生活できないよね。
だからお金を儲ける方に時間を使った方が
安心材料になるまでは
全然OKだと思います。
でもだから朝早く4時に起きましょうって
なんかナンセンスな感じがするじゃないですか。
昼の12時まで寝ている人だって大儲けしている人は
たくさんいますよね。
この辺に立派層だということと
結びつかないことを無理やり結びつけて
マジョリティだからOKってことにはならないと思うんですよ。
マスクシュートであったろうとGTDであろうと
何をしたいか何をするべきかは
全部自分で決めたらいいわけじゃないですか。
これをやってしまう自分が許せませんというのは
他人が許さないんですよそれを。
でもその他人も多分具体的な人名じゃなくて
他人が許さないような気がするという
イメージの中のマジョリティですよね。
確かにそれは多分マジョリティなんですけどね。
マジョリティだからといって
あなたこの腰は痛いままでいなさいってのは
さすがにちょっと嫌じゃないですか。
ほとんどそれじゃ北朝鮮だろうって思いません?
私はちょっとそういう気を感じなくもないわけですね。
だから世が反対でも
この方が上手いと少なくとも私よりは
自分が明らかに上手い父が言うんだから
一つ信じてみるわけですよ。
これが成立するならば
赤ちゃんは体の使い方が正しいということになるわけですよね。
それが成立するならば
私は踏み外したわけじゃないということも
言えると思うんです。
彼にそれが言えなかったとしても
私は正しく体の使い方を知っているはずだから
人にこれが直せるなら自分でもこれ直せるというところまでは
言えると思うんですよ。
そう思ってたんですね。
思おうと頑張ってみたわけです。
少なくともその反対だったから今までは
33:01
あそこで踏み外しちゃったから
明日はヘルニアになるだろうで生きてきたから
それよりは
あれについて悔やむのは良そうと
自分の体の使い方が一番正しいんだと
これは自分で言えばタスクシュートと同じですからね。
自分の時間の使い方が正しいんだと
思っていたわけですね。
そしたら今朝になって全然痛くないんですよ。
少なくとも起き上がれてますしね。
だからこれを言うとオカルトになぜか
なってしまうんですけれども
これは多分オカルトじゃないんだろうなと思います。
植物ってそうじゃないですか、割と。
鉢に植えとけば鉢に植えたなりの
伸び方をするし
樹植えに直せば樹植えになったなりに
急に向きが変わったりするんですよね。
あれが正しさと言うんだったらば正しさですよね。
あっちの木はこうなってるから
それに習おうとか絶対しませんよね。
それすっごい不自然だと思うんですよ。
でも私たちは平気でそれをしますよね。
彼の方が正しそうだからああやってやろうって
毎秒毎秒やってるぐらいの人もいっぱいいて
しかも全然それは不思議だと思われていない
とても不思議な現象。
私今回起き上がれて
つくづく思ったんだけど
本当にやめようと思いました。
正しい姿勢とか正しい歩き方とか
本当恐ろしいと思いません?
もしそれで自分で治せる病気も
治せなくなったり
治らなくていい病気になるんだとすると
大変恐ろしいと思うんですよ。
でも大体私たちは逆に考えて
自分のいいようにやっているときの方が
恐ろしいと思ってるわけですよ。