イベントの成果
おはようございます。人生相談のための精神分析的ラジオ、第1156回をお送りします。
3月18日火曜日8時4分です。
えーとですね、土曜日に、つまり何日前、月日、どうだっけ、3日前ですか、の土曜日に山崎孝明さんをお招きして、新井さんと私とでかなえなを開催してきました。
で、まあですね、うまくいったと私は感じました。 よかったかなと思ってます。
まあ、いかなる、なんていうのかな、ありとあらゆる意味で完璧だったというわけではないですけど、まあそんなかいはないと思うし、
自分がやれる半径では最大限いけたかなというぐらいのところまではいった気がします。
おかげでですね、旅行にということもあるにせよ、旅行に行きましたからっていうこともあったけど、昨日は久しぶりに落としましたね。
やっぱり月曜落とすというのはあんまりしないようにしてるんですけど、疲れちゃったかなというのもありました。
結構ね、ああいうのは気を張るんですね、やっぱりね。 しかしまずまずうまくいったかなというふうには
思いました。 精神分析の専門の人、精神分析ではなかったとしてもですね、心理臨床の専門家をお招きして
心理臨床の間買い物みたいなものをサービスとしてやっていますよっていう話をするというのは、
まあその内実はもう少しマシだと思っているけれど、畳から見ればそう言われても別におかしなものではないので、
それなりに気を使ってしゃべる。山崎さんは初めて会ったという方ではないから、私がどういう人間で何をしているのかは
ざっくりとにせよご存知なので、そんなにそんなに気を使わなくてもいい部分もあるにせよですね。
やっぱり気を張るわけですね。だからまあまあ、それにしてはうまくいったじゃんという、そういうことをしなければいいとも言われればその通りなんですけれどもね。
いろいろとコアになるトピックが出まして、中でも私がその当日喋った中でも、あるいは耳にした中でも、ここは大きなポイントだったなというところはいくつかあります。
それはですね、動画配信を今後販売すれば全部聞いていただくこともできるんだけれども、それをするかどうかはまだちょっと検討中と、ただこのようなイベントは
今回のことで私としては気を良くしたので、定期的に定期的になのかわかりませんけど、少なくとももう1回はやろうとは思っています。
ライフハックとセルフヘルプ
で、これはおそらく山崎さんは聞いてないだろうと、僕がそう勝手に思ってるだけで実は聞かれてるかもしれませんけどね。
聞いてないだろうと思って、かつ専門の人は聞いてないだろうと、これもわかりませんけどね、思って、何でもかんでも喋ろうというのがこれの趣旨なわけですが、
自分に関することですね、何でもかんでも喋るのは。いくらかの3ヶ月チャレンジの方ですけれども、方への感想を伺う中でですね、一応好評だったなと思いながら、
なるほど、そういう見方ってあるよなぁと。これがやっぱりですね、当日私、イベントで、かないだの中でお話ししたものの一つに盲点っていう言葉を使ったんですけど、全くやっぱ盲点なんだなぁと思うことがあるんですね。
で、山崎さんが当日何回か口にされたので、直発されて久しぶりにですね、伊藤恵美さんっていう、これは多分相当有名な本も何冊も出されている心理臨床の人なんですけど、専門家ですね。
伊藤恵美さんと藤山直樹さん。まあこれはこの番組ではおなじみの精神分析家の藤山直樹さんですが、の対談っていうのがあるんですよ。対談本というのがですね。私このシリーズ好きで何冊か読んでるんですが、全部読み直そうと思ったぐらい、やっぱりあの日ですね、イベントの日に今回、今の時代やっぱりトータルな方に向かったんだなというのを感じながら、
3ヶ月チャレンジというのはそもそも何かの専門なわけじゃないわけですから、必然的に折衷組になるしかないわけで、折衷組になるんだらやっぱり、何かの専門を謳っていればできない、要するにいいとこ取りですよね、の気をつけながらもいいとこ取りを頑張っていこうというふうにあの日は思ったわけですよ。
すごく精神分析によりますが、ずっと今後も多分。何でかというと、当日山崎隆明さんに指摘いただいた中でも、これはとても大事な指摘だと、正しい正しくないというのは一旦置いておくにしても、大事な指摘だと思ったのが、やっぱり私のお客様はライフハッカーが多い。
だから必然的にセルフヘルプにすごくよるんだと。現代という社会は、私はセルフヘルプの時代に入っているという意識が強いから、これは現代人の特徴だよねと言ったところを、山崎さんにこう何て言うんですかね、注釈が入る格好で、それはライフハッカーの特徴ですよっていうようなお話で、まあどっちでも同じことですね、私にとってはね。
なぜなら私のお客様に向かってお話する以上、お客様がライフハッカーなのか、現代人がライフハッカーなのかは、まあ僕にとっては50歩100歩で、現実認識の話としてはその2つの違いは大きいかもしれないけど、私が現実に仕事をする上ではですね、その2つはほぼ同じ意味になる。
結局、私の本を読む方はライフハッカーが圧倒的に多いわけで、まして3ヶ月チャレンジはライフハック初めて聞きましたっていう人はおそらく当面いらっしゃらないだろうと、いらっしゃるにしても極めてレアなケースにならざるを得ない。
ライフハックをやってるつもりはなくてもセルフヘルプによるんですよ。セルフヘルプってどういうことかというと、人に助けを求めるということに様々な理由から、おそらく2つ3つの理由から強い抵抗を覚える。だから人に相談をするということそれ自体があんまり良いことじゃない、あんまり意味のあることじゃないっていうふうに感じていらっしゃる。
思想と心理分析の重要性
この真理そのものが、そもそも私はやっぱり、私が精神分析を向けていくというのか、伝えていくというのの大きなモチベーションになり得るわけですね。早い話相談しましょうねって話なんですよ。
で、CBTというのは伊藤恵美さんがですね、その対談の中でおっしゃっていたから、もう多分そういうふうなものとして受け止めていいと思うんですけど、セルフヘルプなんですよ。少なくともセルフヘルプ向きなんですね。つまり私からすると現代社会向きだし、ライフハックは向きなんですよ。
だからセルフヘルプというものが好きだという人は、自然的におそらく認知行動両方は相性がいいと思うんですね。だからあえてなんですよ。だからこそあえて私はそのセルフヘルプが好きな人にこそ精神分析というものをあると知るっていうのを当日イベントで話題にしたんですけどね。
これの文化が脈々と100年もかかって息づいていて、フロイトは相変わらずビッグネームじゃないですか。当日もこれ山崎さんが冗談めかして、でもフロイトの言葉なんですけどね。自分はコペルニクスとダーウィンに匹敵する大物なんだというような。そうなんですよ。でも今の扱いってまさにですね。
だって絶対に哲学の本にフロイト出てくるじゃないですか。フロイト哲学者じゃないじゃないですか。これってもうすでに凄まじいことですよね。自分の名前が例えば私だったら、私がライフハックヒストリーというものに果たして名前を載せてもらえるかどうか。疑わしいことこの上ないですよね。ビッグネームとしてですよ。
自分の専門としてきた分野ですらまず歴史に名は残らないのに、分野に歴史に名が残るってのはもうすごい人なわけで。フロイトっていうのは哲学誌には出てくるし、倫理の教科書にも出てくるし、でも彼は心理療法家ですからね。
もちろん心理療法の本には絶対出てきますね。心理学の本にも出てくる。それは当然としても、それも当然じゃないですけどね。私なんか心理学学士を取りましたけど、私の名前が心理学の教科書に残るはずがないじゃないですか。まして哲学に出てくるわけないじゃないですか。そういう意味では凄まじい人なわけですよ。
この人の名前が残っていて、この人は何を言った人かというと、一人では心理臨床はできないって話なんですよね。私は究極の原理はここにあると思うんですよね。CBTはセルフヘルプだから、一人でできるのかできないのかは、カウンセリングの人が一人でできますよって言っちゃったら、つまりカウンセラーいらないことになっちゃうじゃんってことになりますが、これはこういう話が含まれているんですよ。でもライフハックの人って間違いなく一人でやりたいわけですよ。
一人でやりたいからライフハックしたいわけですよ。ツールには頼る。物にも頼る。スキルにも頼る。何ならそれこそ筋トレのようなね。セルフトレーニングにも頼る。でも人に頼りたくはない。相談もしたくない。
これがある種の人にとっては、だからちょっと専門になっちゃいますけど、これ便利だし、やっぱり乱変的な知識を散りばめていきたいんですね、私はこの番組でも。マイナスKとか言いたいわけですよ。これは何種のこういう知識をひけらかしたいという面もおそらくあるんだと思うんだけど、プラスやっぱりね、知られてなさすぎるっていう意識が僕の中でとっても強いわけですよ。
GTDっていう言葉、タスクシュートでもいいけど、ライフハックの人にはもうなんかお馴染みみたいになってるわけじゃないですか。でもGTDなどというのは、世界の用語の中で言ったらですね、私はマイナスKよりも地味で当然だと思うんですよね。知られてなくて当然だと思う。
いや、俺それ当然知ってるし常識でしょうぐらいに思う人は、やっぱりその常識がすごく独特の常識なんだと。独特のクラスターに受ける独特の常識なんだと。そういうものですよ、もちろんですね。世界の常識だけが頭に詰まってるっていう人はむしろどうかと思いますよ。でも、常識って偏りがあって当然ね。
その偏りの中でもですね、あまりにも精神分析っていうのは盗観視されすぎていると本当に思うんですよ。私も2010、少なくとも7年までは、おそらく2018年までは、ビオンは知らなかった。
ウィニコットは訳あって知ってましたが、ウィニコットは、スヌーピーが私大好きだから知ってたんですよ、はっきり言ってしまえば。ライナスの毛布ね。そこで知ってたんですよ。私ほら、iPhoneのカバーもスヌーピーにしてるようにスヌーピー好きなんで、スヌーピー絡みで知ってただけなんですよ。メラニグラインはさすがに知ってました。この人はビッグネームです。アンナフロイトも知ってました。
アンナフロイトも、まあ私はすごくですね、アンナフロイトに一時傾倒していたんですよ。大学留学直後ぐらいから。私精神分析とは自我心理学のことだと、しかもそれを精神分析とは自我心理学のことだということを知らずに自我心理学のことだと思ってたんで、これは完全に取り込まれている証拠なんですけどね。
対象関係論というものを、言葉は習ったはずなんだけど、全く意識してなかった。メラニグラインは知ってましたよ。イギリスの精神分析の人ぐらいのイメージでしたね。メラニグラインしか知りませんでした。しかも多分フェミニストの先生が怒ってたから覚えてたんですよね。
フェミニストの先生がアメリカの夏休みの集中講座っていうね、私これはフェミニズム心理学が大好きだから取ったわけじゃなくて、結構興味あったんだけど、単にあれは夏休み5日間で1単位取れるというのは4単位で、大きいんですごくね、すっげえ勉強させられてつらいんですけど、でも5日で取れる。
あれですよ、日本で言うと、今どうなのかな、14日間合宿すれば寝泊まりしているうちに免許取れるぜみたいな、あれ安くて早くていいじゃないですか。私の友達、根性ある人はやってたんですけど、僕は根性なしなんで、ああいうの嫌なんで、やらなかったんですけど、アメリカでは根性を発揮してたんですよ。
はい、絶対夏休みのフェミニズム心理学取ろうと思って、あれすごい良かったんですよね、結果的にですけど。要するにさっさと取りたかったってことですね。だって1セメスター3ヶ月以上かかるのに5日で取れるんだったらそれに越したことはないじゃないですか、つらいけど。だからもうガンガン集中講義出てたわけですけれども、そのうちの一つにあったフェミニズムサイコロジーでメラニック・クラインすごい取り上げてたんですよ。
なぜなのかはちょっと英語が中途半端にしかわからなかったからわからなかったんですけど、この女の人は偉いんだみたいなことを言ってて、こういう枠画込みで教科書で1回で終わらせちゃダメなんですよみたいな感じで、だいたい女の人はすごい両開きのページの枠になっちゃってて、ソロイトとかは本一冊で紹介されてるのに、メラニック・クラインとかは枠の中に入って、これこそ男女差別だみたいなことを言ってて、
なるほどアメリカ人すごいなぁと思いながら話聞いてたわけですよ。だから覚えてたんだよ。
ですが、基本的に私はクライン知らなかったし、まして美音は全く知らなかった。もうなんか教科書に出てきたという気すらしないというね。たぶん出ては来てたと思うんですけどね。
アブノーマルサイコロジーに絶対出てきたと思うんだよね。いくら学部レベルとはいえ、結構アメリカっていろんなことを本読ませますからね。読まずになるべく済ませようとしちゃいますけどね。
そういうわけで対処関係論知らなかったし、知らないというのは、私は心理学結構大好きだったし、なんなら小学校の時にもカワイハイを読んでたぐらいだから、全く知らないのはどうかと思うんですよね。いくらなんでも。
全く知らなかったということはやっぱり、いかに日本で対処関係論というものが重視されてないか。コフートは和田秀樹さんが有名だし、すごいガンガンやられてたから知ってはいましたよね、コフートは。
自我心理学と認知行動療法の比較
あまり僕はコフートに興味持ったってことはないですけれども、アメリカではビッグネームですよ、やっぱりね。でもね、なんかやっぱり、自我心理学はまだしも、どうしても認知行動療法が今もう圧倒的じゃないですか。それはもう当然だと思うんだけど、でもそれにしても圧倒的じゃないですか。
そしてこの認知行動療法になっていくと、やっぱりセルフヘルプなんで、カウンセラーに頼るとはいえ頼らなくてもできるよね的なノリっていうのがどこかにある上に、大学の人はそもそもできればチャットGPTに頼っておきたい人ばっかりなわけですよ。
人を介在させたくないと。この人を介在させたくないのところにその人なりの事情が様々あると思うわけ。で、その人を介在させたくないとその気持ちがやっぱりですね、ある種の仕事をすごく難しくしてしまうというところに、まず私の問題意識の入り口があるわけですね。
伊藤恵美さんが結局そのどこまで深く潜るかの問題で、まあこれは認知行動療法はすごく恐る恐る潜るんだというのが、それはそうなんだろうかっていうのがちょっと伊藤恵美さんが恐る恐る潜るという、それはすごい見識の現れなんですよね。
下手に深くまで一気に潜ると何が出てくるかわかんなくて手に負えないことになったら困るから、まあでもこれを言えるっていう人はすでにそれなりの経験を積んでいる上に、次が大事だと思うんですよ。浅いか深いかが本当にわかるものなんだろうかという。
いやこれは伊藤さんならわかるんで佐々木だからわからないってことなのかもしれないですけど、でもだとしてもですね、ということはそれは素人と苦労とではその慎重にとか恐る恐るということの塩梅が多分に感触だのみになるってことをある程度意味してるわけじゃないですか。
何の話題だったら浅くて、勘の話題だったら深いのかっていうのは簡単には言えないことだと思うんですよ。新聞石は一気にダイブするからなかなか怖いっていうようなことを対談で話されていて、そういうふうに見えますが、でもそれって本当なのかなとは思うんですよね。
でもこれは別に批判してるとか、もうちょっとこの辺を深く考えていきたいなと思いながら読んでたわけですよ。つまりこの浅い深いっていうのはつまりメタファーじゃないですか。それは無意識に近いとか言えるんだと思うんですけど、そこに本当の意味での浅さとか深さはないですよね。
推進とかとは違うんで、たぶん我々はこの時推進を意識してるんですけど、またすぐ脱線しますけど、ザナドゥってゲームがあるんですよ。ドラゴンスレイヤー2なんですけど、たぶんこれはもう星よりしか知らないゲームになっていくんだろうなと思うんですけど、まあまあ名作だったわけですよ。
フロッピーディスク2枚に作るにしてはすごい名作だと思うんですけど。で、地下に地下にと進むんですよね。でも絵が基本的に昔のゲームで変わらないから、より地下になってるかどうかは見ただけじゃわかんないんですよ。モンスター強くなってるから地下に来てるのはわかるんだけど。レベル10とか言ってね。あれ不可思議ですよね。最初は弱いモンスターと戦ってて、だんだん奥へ行くほど強くなっていくっていうのは一見理にかなってるようで、ちっとも理にかなってないですよね。
だから勇者にラスボス倒されちゃうわけじゃないですか。なんでお前勇者をそうやってトレーニングしていってやってるんだって話なんだけど、とにかく地下に地下にと潜るわけですよ。なんだけどパッと見はわかんないよね。あの1もレベル9も全く同じグラフィックなんですよ、昔のゲームって。
そんなにグラフィックに容量を割いてられないんでね。ということはせめてもっとどんどん暗くしていけばいいんだけど、あのゲームはすっごく出来が良くて最初からめちゃくちゃ雰囲気あって、つまり最初から雰囲気が思いっきりラブクラフトなんで真っ暗なわけですよ。真っ暗じゃないんだけど。ウィザードみたいに真っ黒なわけじゃないんですけど、すごい濃い藍色で雰囲気のある音楽なんだけど、何しろ音楽も変わらないから。
ザナルー2では音楽、レベルに合わせて変わってたんですけどね。音楽も変わらないと何が起きるか、何も変わんないんですよね。でもどんどん深くなっていく感じっていうのは私持ってやっていて、これが無意識ってものを多分メタファーとして連想させてるんだろうなと。
やっぱ奥へ深く潜れば潜るほどヤバい奴が出てくるわけですよ。深海とかヤバい生き物いるじゃないですか。DHロレンスが書いてましたよね。あのフロイトって奴は多分同じことを考えてたから金心臓的に気に入らないんだろうなと思うんですけど、あのフロイトって奴は地下に潜って人をすごく期待させてワクワクさせておいて、人間の能力でついに地下のマップが手に入れるのかと思ったら、
なんかそこにはフカとかサメとかがうようよいるヤバい世界ですってことになってて、本当にがっかりしたみたいなことを書いてるんですけどね、どっかでね。忘れちゃいましたけど、いかにもロレンスが書きそうなことだなと思ったんですよね。全く同じようなものを発見されるっていうのは気に入らないんだなっていうのを感じますね、あれ。
まあ、それ自体がエリフス的な話ですけど、それは良いとしてですね、あのー、この浅い深いという話を見たときに、CBTだから認知行動力だから自動思考っていうのが出てくるわけですよね。で、こういうことって精神分析だってやってることは確実にやってると思うんですよ。自動思考を追うっていうのはね。
その自動思考に対して、あのー、でも我々、我々っていうか人間ってのは勝ちづけちゃってるんで、自動思考ってのは、自動思考がどういう自動思考文書になってるかということもさることながら、やっぱりこう、それを定義的に見ていくってことがすぐに精神分析で意識されるだろうなと思うんですね。
あのー、めちゃくちゃ専門的なことを言ってるようですけど、私は適当に喋ってますからね。このこともぜひ覚えておいては欲しいんですよ。つまり何が私がやりたいのかっていうと、精神分析というものにみんなで興味を持とうねってことなんですよ。簡単に言ってしまうと、簡単に言えば。
みんなで興味を持つのは何でですかっていうと、セルフヘルプをやめるためですよ。で、セルフヘルプだけやっていると、セルフヘルプ向きのことにしか我々は頭が向かなくなっていくし、そもそも僕はセルフヘルプにそんなにガンとしてこだわってしまうのは、その人が人間を恐れていたり、もっと言うと親を恐れていたり、あるいは親というものに対して愛情を向けたくなかったり、向けられたくなかったり。
で、そもそもそれって何かトラウマ的なことがない限り、親に愛情を向けたくないとか、余って言ったらいいかな、向けられたくないっていうのは自然に起こらないことだろうと思うんですよね。
自然には決して起きないだろう、そういうことだと思うんですよ。
で、親に愛情を向ける、向けられたくない、向けない、などなどなどのことはですね、やっぱり認知行動で深く潜っていくのを恐る恐るやる、けれども深く潜っていけば行き着くかもしれないっていうよりは、僕は一気にそこを見ていきたいとは思うんですね。
危険であろうと危うかろうと同じことか。
なぜかというと、これを僕らはできれば避けよう、なるべく避けようとしているということ自体が既に十分危ういと思うのと、そこが盲点になりやすい。
だって親に愛情を向けられたくないからメール出せませんってわかんないじゃないですか。
だからそれを専門的に集中的に扱っている、つまりあると知るなんですけど、一つの文化なり精神分析というですね、方法論なりが脈々と来ているってことを知るってことが大事だと思うんですよ。
そうすることでこのような情緒に目を向けるということへの抵抗が一つ薄まる理由を手に入れられる、薄まらないかもしれないけど薄まる理由は手に入る。
それは意外と大事だったよねっていう、その盲点をつないでくれるような方法論がこの世にあり、それを使ってきたという歴史があるということはですね、
たぶんそれは何らかの形である種の人には少なくとも有効だっていうことを言ってるはずなんですよね、その事実それ自体が。
そこを追っていけばですね、私たちは自分がメール出せないのはですね、自分が怠惰だからとか、だらしないからだとか、ダメ人間だからだとか、無能だからだと思うよりも何よりも、
まずそれが長時間に禁止されているっていう文脈で見た方が手っ取り早くないっていうことと、いくらそれを自分がダメ人間だからトレーニングで頑張るとか、
夢と象徴的解釈
あれですよ、批判してるんじゃないですよ。私は認知行動を取り込むためにも精神分析の存在というものを意識する必要がむしろあるというのを、
糸谷美さんの対談を読んでいて痛感したんですよ。自動志向ってのはなんだろう、あそこで出てきたのはゴキブリが怖いだったかな。
ゴキブリ、もう本当にみんなここでGとか言う、なんでGっていうのかっていうのも十分考えてみたいところだと思いませんか。
糸谷美さんはあの中で夢見るとかドリーミングとか精神分析は夢を大事にするとか言われても分からないっていうようなことを書かれていて、
言われていてそんなはずないだろうと思うんですよね。あそこまで行ったらもう分からないフリをしているか分からないということにすることにしているぐらいに、
私はそういううがちすぎな見方をしているのかもしれないけど、本を読んでいるとですね、それこそ私はそれこそ考えすぎるのかもしれないけど、
糸谷美にも分からないものが佐々木翔吾に分かるはずないだろうって言われているような気がするぐらい、絶対これは分かるはずだってむしろ思うんですよね。
精神分析というのは分かりにくいってことにされすぎているっていうのも繰り返し伝えているんですが、伝えたいことの一つなんですよ。
我々はドリーミングだっていうのは言われてみれば最もだと思うんですよね。私は人間はこれ分からないって言われてしまうと、そうかなって思っちゃうんだけど、
人間が現実を直接近くしているはずがないじゃないですか。直接近くなんかしていたら、もう頭の中パニックになっちゃいますよ。直接近くってどういうことか。
太陽を見て眩しい、これはおおむね直接近くですよね。こんな原始的な方法だけで、X見て意味分かるわけないじゃないですか。光でいっぱいだって終わっちゃうじゃないですか。
つまり我々は直接近くしかできなかったら、ものすごく原始的な生活をしているに決まってると思うんですよね。
やっぱり直接近くってそういうもんじゃないですか。トラが気配がする、逃げようみたいな、そういうことばっかりになっちゃうじゃないですか。生きていて。
だから実際サバンナの動物ってそうじゃないですか。そういうことばっかりで一生を終えていくじゃないですか。それは当然ですよね。
直接近くする情報ってそんなもんですし、そこがすごく敏感になるでしょうけど、そこがすごく敏感になるだけなんですよ。
我々は象徴機能というものを使ってるから、現実というものがですね、だからゴキブリは怖いというわけわかんないことを言い出すわけですよ。怖いはずがないです。
襲ってこないですよ。あんなもん。人間が勝手に追っかけてって、スプレーとかまでかけて、人間めちゃくちゃ怖いですよ、やってることがね。
だからゴキブリなんか怖いわけがないんですよ、それは。怖いんだとするとそれは何かを象徴させてる、端的に言って死を象徴させてるんですよ、あの生き物。
だから怖いんですよ。人間が怖いのは死であって、死ぬことであって、虫じゃないんですよね。
それは原始的な世界においてはですね、死ぬっていうことに虫が群がってる、怖いでしょ、っていう絵があったんでしょうね。それはとても恐ろしい光景だったと思う。
でも現代社会に生きている我々が、そういうものを目にしないように目にしないように設定されてるから目にしないんですよ、そういうものは。
怖いというのは象徴なんですよ。これは正常なことですよ、たぶん。象徴が怖い。
だから生き生きとしている世界に死の世界が出てきちゃいけないんですよ。
だから健康な世界には不健康なものが同居しないように、だからゾーニングとかって言うわけじゃないですか。
性的なもの、性的なものっていうものがいろんな人にとっていろんな意味があるんだけど、性的なものすなわち悪いものだとか、性的なものすなわち差別を意味してるとか、
そういう象徴的な機能をいっぱい持っているから、だからあえて目につくところにそれを置くとか、だからそういうものは徹底して排除しなければいけないんだとかいう話が論争できるわけですよ、人間は。
人間ならではですよね、そんなことで論争してられるのは。それは象徴界に住んでるから、つまり夢を見てるんですよね。
夢っていうのは多分象徴的なものだけで作られてるんで、私たちは夢見ているものっていうのが多分ですね、自分が夢見たものが好きか嫌いかに対別できると思うんですよね。
自分の見たものはすべて。極端に言うと好きと嫌いを混合させて作ってるのが夢なんだと思うんですよ。
あるいはこうなんだろうな、食べられるものと食べられないもの、性と死みたいなもの、あるいは愛と憎しみみたいなもので構成されてるわけですよ。
多分精神分析で言う解釈というのはですね、極端に言うとあなたはそれが好きなんですね、あなたはそれが嫌いなんですね、言ってるようなもんだと思うんですよね、あれはね。
それをさらに自分たちに当てはめる。あなたは今私を憎みましたね、あなたは今私を愛しましたねっていうのを、どんな発言にも最終的にはその辺のところに還元していけるみたいなことを頑張ってやっていくっていう。
自動思考の探求
何のためにそんなことをやるのかっていうと、その人の知覚というか思考というかの原理というものに常に迫っていくみたいな感じだと思うんですよ。
それは自動思考を追ってるのと極端に言うと極めて似てるんだけれども、自動思考の話っていうのは自動思考の話をしてるわけじゃないですか。
よくわかんないことを言ってる感じになってきたな。
例えば、奥さんが心ないことを言っては旦那がすごい傷つくんだっていう話。
最近やっぱり朝になるとアツさんのタイトルがすごい低くんで、夫婦関係学ラジオ聞いちゃうわけですよね。
奥さんが距離を置きたいと言った。
ほら、傷つくでしょ。距離を置きたいと言ったって言われると傷つくと。
ここで自動思考を探すわけじゃないですか。距離を置きたいと言われてなぜ傷つくんでしょうかと。
あなた自動的に何か考えたんじゃないでしょうかってことですよね。
何でもいいんですけど距離を置きたいと言われて、距離を置きたいと言われると傷つくっていう。
でもですね、この相手の言葉に対して何かを思うわけですよね、私たちはね。
この思いというものを認識できなかったとしても、だから認知なんですが、すぐに行動に打って出てしまうと。
でもその間には認知があるはずだっていうのがあるわけですよね。
だから先日行動化って話しましたが、精神分析では行動化って言って行動というものにまず出てしまうんですけど。
その前に自動思考というものが挟まってるんですよ。
それをマイナスKと言おうと自動思考と言おうと、そういう言い方をすると専門の人には怒られるかもしれないんだけど。
でもやっぱり僕はそういうことだと思うんですよね。
無意識なのか、捉えられる意識なのか、ワークすれば頑張ったら意識化できるのかっていうぐらいの違いはあるんだと思うんですけど。
ただ僕はですね、ここに夢というものを挟むことによって、まず臨床化の人の、結局私は伊藤さんの対談を読んでいて、伊藤さんがやってることだって精神分析とイコールでは全然ないんでしょうけど、
でもこれって結局ラポールだよなと思うんですよ。
夫婦関係の修復
ラポールっていうのは信頼関係みたいな言い方をされるかもしれないし、ラポールが確立して初めてうんたらかんたらっていう話になるんですが、カウンセリングが成立するって話ですよね。
でも僕はラポールっていうのは相手の夢の中に入らせてもらうことだと一貫して感じるんですよね。
他の言い方ができないなと。何を言うかじゃない気がするんですよ。
イベントの中でもしたんですけどね。
例えばアツさんが、夫婦関係学のアツさんのところに男の人が行くんですと。
お話の途中に出てきたのは、辞めてくれなくなる人がいるっていう話なんですよ。
この辞めてくれなくなる人がいるっていうのが、また一つのセルフヘルプの難しさだなって思うんですよね。現代的だな。
昔からカウンセリングにはこの話ありますけど、辞めてくれなくなるって、ブリーフセラピーっていうものを思い出させられるんですよね。
どうしてブリーフで切り上げなければいけないというふうに僕らは思い込んでるんだろう。
お金がかかりすぎるとか時間がかかりすぎるとか、余った絵と言ってしまいたくなるんですけど、それは作手だとかですね。
どうしてそれが作手だって話に、なんで世の中で一番大事なのはお金だと信じきってしまえるんだろうって思うんですよ。
おかしいじゃないですか。お金だけあっても物を食べられずになくなってしまうっていうような話って、必ず僕ら聞くじゃないですか。
ある種の教訓話として、どうしてあんなにお金ですべてを価値規判断できるっていうふうに思えるんだろうなっていう。
奥さんとの関係の修復っていうのは、もう時間が1年や2年かかるのは全然惜しくないって思えませんかね。やっぱりね。思えないのかな。
一人だけで生きていきたいんですかね。でも結婚したんですよね。非常に僕は不思議なんですよね。その価値判断が。
10万円は高いとか。10万円が高いんだったら難しいですけどね。10万円が高かったら結婚なんてできないと思うんですけどね。
だから、どうしてそのお金と時間は何よりも大事だという価値観そのものには、一切疑いを抱かないというところにマイナス系を見ないのかなと思うんですよね。
お金と時間は何より大事ですっていうこの思考停止の合図こそ、偽りの知識ってやつだと思うんですよ。
痩せていなければ男の子には好かれませんっていうのと全く同じで、すごく思春期の頃に叩き込まれる。
そして、みんな信仰宗教で騙されるとかにはすごく真剣に警戒して回避するようにしてるのに、お金教みたいなものはすごく簡単に信じ切りますよね。
お金がないと困るのは確かなんだけど、だからといってどうしてお金がかかるものは全部回避するべきですっていうのが当たり前のように信じ切っていて、
それに対しては全然疑いを真剣に差し挟む気は持たないんだろうと思わなくはないんですよね。
夢見のメカニズム
まあいいんですが、つまり僕ら夢を見ているんですよ。やっぱりお金が大事とか時間が大事という夢を見ている。
見ていないはずがないと思うんですよね。そんな事実はないわけですから別にこの世の中にはどこにも。
誰かが教えたことなんでそれは。に決まってると思うんですよ。自分が発見したことです。
いや時間が大事だっていうのが、量子力学のように俺発見しちゃいましたって人いないと思うんですよね。
だってみんな言ってるじゃないですかそういう風に。なんかそれはもう太陽が東から昇りますぐらいの勢いで言ってるじゃないですか。
太陽東から昇りませんよね。地球が回ってるだけですよね。マイナス系ってそういうもんですよね。
それは絶対に正しそうだしみんなもそう思ってるしそう言ってるけど、そこで思考を止めるという合図にしかならないような事実ってやつですよね。
やっぱり夢見てるわけじゃないですか。東ってこの世の中にはないわけですから。東っていうのは自分が立ってるところが中心だっていうことにおいて東なわけですよね。
全部そういう風に僕らは自分中心の夢っていうものを見ると思うんですよ。
これは良いものそっちは悪いもの、これは綺麗なものそっちは汚いもの、美人じゃなければ結婚はできないとかいうマイナス系で頭を固めて、
自分をどんどん不自由にしていく、そういう世界の中で生きていくっていうような夢を見るんですよね。
嘘じゃないですか全部。基本的には。だけれども一応それを受け入れるわけですよね。嘘だろうとなんだろうと。
私たちそういう風に生きてるから、自動思考も当然動き出しますし、ゴキブリは怖いですし、
何でもいいんですけれども、あつさんのところに話にずっと行っちゃう男性がいるわけですよね。
うちの奥さんは私の話を聞いてくれないとか、うちの奥さんは距離を取ろうとかいうとか、うちの奥さんは暴力的だとか言ってずっとあつさんと話をする。
つまりあつさんは話を聞いてくれる奥さんの代わりになってくれるわけですよね。
ここからだと僕は思うんですよね。これが困るという話にもなるのかもしれないし、
それでは時間がかかりすぎるっていうのもかもしれないんだけど、僕はやっぱりそれを聞いたとき一番引っかかったのが、
そこからあつさんが奥さんだという夢を見始めるべきだと思うんですね。
そうしなかったらあつさんの話って耳に入ってこないですよね。
人は夢を見ているので、しかも夢見が酷くなればなるほど自分中心になっていくので、ナルシズムの世界に入っていくので、
やっぱり外の声なんてもう聞こえなくなると思うんですよ。
早く起きなさいっていうのも寝ている人にはなんか違う言葉に変換されちゃうわけじゃないですか、夢の中で。
早く起きなさいって言われても全然起きないと。聞こえてもいないと。夢を見てるんでね。
それと全く同じことが起きていると思うんですよ。
その間に挟まってるのが自動思考であっても、基本変わらないと思うんです。
自動思考があるせいで人の話しか聞けないわけじゃないですか。
お酒やめなさいと言われると、これだな、お酒やめなさいと言われるとカッとなるみたいな。
そして酒をガビガビ飲んじゃうみたいな。
明らかにその人は僕の感覚では夢を見てる感じがするんですよ。
お酒やめなさいと言われるというのが奥さんが俺の行動を縛る。
そもそも奥さんがああいうことをうるさく言うから俺は酒を飲んでるんだ、そういう話だ気がするんですよね。
いやもうそれ全然夢じゃんっていう感じがする。奥さん完全に母親か嫌な父親になっちゃってるじゃんっていう感じが僕はするんです。
奥さん父親でも母親でもないですよね。
でも奥さんが母親だと思い込んでるご主人はこの世に山ほどいるじゃないですか。
みんなでドリーミングしてるわけじゃないですか。
それ自動思考って言ってもいいと思うんですよ。
またああいうなんかまたうるさいことを言われて俺の心は深く傷ついた。
だから酒を飲むって自動思考が走ってるんでも全然いいと思うんですよ。
あの声を聞くと母親を思い出すんだっていう自動思考かもしれないんですよ。
その辺になってくると力動なのか認知行動なのかの区別をつけるのも難しいなって私なんか素人なんで非常に感じるんですよね。
どっちだって同じようなもんな気がするんだが、
カウンセラーが自動思考を使いまいましょうこれがフォームワークですよというわけですよね。
それは確かに前向きだし、
私なんかライフハック畑だから非常に理にかなっている。
カードにできれば書こうみたいなエバーノートに書いてショートカットの一番上に奥さんに酒を飲むの叱られたらどんな自動思考が働いているか思い出しましょうって書いておく。
毎朝アラームを鳴らすとかね、
DuoとかにiPhoneで載せればいいんですよ。
奥さんに怒られたらなぜカットするとかみたいなねカードがポップアップするようにして。
別にそれは良いと思いますよね。
力動的に考えようとなんだろうと。
ただ、私がサンチャレですら、サンチャレは精神分析じゃないですよ。
でもサンチャレですら思うのは、これを私がいいように入れましょうと。
自分はもうダメ人間だと思ったらなぜそう思ったのかの自動思考を捕まえてくださいと。
これを捕まえるのは精神分析的にも僕はありだと思いますが、
これを言ってやってくれないだろうなとは思います。
それに、これを言って僕が言ってやっちゃうということは、
いきなりその努力を払ってしまうということが、
やっぱり僕には3ヶ月チャレンジではやりたくないって思う。
やりたいっていう人だったら、やり方を2人で検討していくと変わりだと思うんですけど。
それが宿題になる、ワークになるってことになってくると、すごいですね。
これが僕の力動のむしろ脆弱さなのかもしれないんですけど、
やっぱりきついというか、モチベーションが湧かないですね。
全然湧かなくなりますよね、ボタンに。
いろんな理由があるけれど、やっぱりワークやってきましたって言われてしまうっていうのがまず引っかかりますよね。
僕がいいお母さんになってしまったりしている。
絶対そういうことは起きる、ある種の人にしてみると。
私がいいお母さんになって、良かったですね、うまくいきましたねっていう、そういう関係が始まってしまう。
私だったらすぐなりそうな気がする。
私昔、自分の部屋をきれいに片付けて、母親の手を引っ張っていったってことが、
9歳、10歳、8歳の頃にやったことが1回ある記憶があるんですね。
もっとあったのかもしれないですね。
私はその時、なんでこれを覚えているのかっていうのがミソなんですよ。
なんか、ほほやましい子だと思われるかもしれないけど、とにかくきれいに片付けて母親を引っ張っていった。
あれですごく嫌だったんですよね、自分が引っ張ってって。
なんで嫌だったのかは当時は意識しきれなかったけど、
なんて言うんだろう、今の言葉で言えば承認欲求の塊みたいなのが嫌だったってことになるんですけど、もっと理由は違うんですよ。
男らしくないって思ったんですよ、僕はね。
で、そうなんだろうかって思ったんですよ。だからこういうことを覚えてるんですよ。
つまり自分が分裂したんですよね。男らしくないって思った次の瞬間に、
男らしいとはそもそも母親に男だって認められるってことじゃないのかと。
8、9、10ぐらいの頃なんで、これがすごく原始的に思考として走った記憶があるんですね。
その時、自分はすごく分裂したんですよ。
男らしくない私と、母の手を引っ張っていく私とがいる、そういう分裂感を感じたんですね。
理人までは言ってない。
だけど乖離的なものを感じたから、いまだに記憶に残ってるわけですよ。
でも、母が褒めてくれて男だって言ってくれるのが男なんじゃないのかと。
あれを思い出したんですよね。ああ、弟、君を泣くですよね。
だから、要するに親が刀を握らせるわけじゃないですか。
14歳ぐらいの少年がやっぱり気持ちよく男として頑張っていけるためには、
母親の影響と情緒
横でヨドギミみたいなお母さんが手を叩いてくれるっていうのが大事だと思うんですよね。
じゃなきゃやってられないですよね。どんな時代にしたってですね。
ニッタヨシサダだったっけ?違ったっけ?
結構女の人とイチャイチャしてるのが大好きで、結構武将としてすごいんだけれども、
勢い余ってわけわかんない死に方するんですよね。
ああなりかねないですよね、このやり方だとしかし。
でも、結局ああなっちゃう人が結構名のある武将にもいるわけですよ。
鹿型カウジはそういうこと絶対しないんで、感じ悪いんですけどね。
なんかね、こういうことって、もう昔からずっとだと思うんですよね。
母親が、リリシーって言ったらいいですかね。
リリシー男の子だよねっていうのが聞きたくて、男の子はもう何でもやっちゃうみたいな。
なんなら一輪車に乗って、10メートル上の綱の上で、すごいじゃないですか。
そんなことできます。一輪車、綱の上で。
でもそれって、所詮サーカスだって人は言うんですよね。びっくりするじゃないですか。
人間その熱量を振り向けて精神分析とかやれば、結構いけそうじゃないですか。
僕はこれをやっぱ伝えたいんですよね。
情緒の問題でそんなに困ってるんなら、人を尋ねようねっていう感じなんですよ。
セルフヘルプに頼る。セルフヘルプって言ったって、僕らそんなに自分を頼んでるのかもしれないけど、
一輪車乗れないでしょ、多分。
綱の上、10メートルの綱の上を一輪車で走れるんですよ、人間ってのはね。
でも無理でしょ。一輪車に乗るってことが普通の人には。
つまり我々のセルフヘルプは危ういと思うんですよ。
ものすごく人の迷惑になっちゃいけないとかってサラッと言うけど、マイナスKだと僕は思うんですが、
やっぱりダメだと思うんですよね、そういうことを言ってても。全然。
だからといってEvernoteとTextExpanderとChatGPTに頼っていても、大したことにはならないと思うんですよ。
セルフヘルプの限界
なんかすごい大したことになりそうな気がするんですよ。
一見したところ、XとかNoteとかでChatGPTでも全部自動化できているからウハウハですみたいな。
いや、ウハウハだわみたいに思うんだけど、僕なんかも面白半分にいろいろ考えてみたわけですよ。
自分の悩みとかをChatGPTにバンバン入れていって、なんかこうウハウハな回答、自動回答作成集みたいなの作れるかなと。
多分絶対作れない気がしてたんだけど、なんで作れないんだろうと思いながらやってたんだけど、
いやこれ、まあ確定申告だって代わりにやってくれないのは訳があるなやっぱりと思うんですよね。
確定申告は超頑張ればやれるかもしれませんけど、超頑張らなきゃならないですよね。めっちゃ頑張らなきゃならない。
まして精神分析の代わりにはこれじゃ絶対ならないなっていう、でもわかんないんですよ。
ChatGPTの話は、生成AIの話はイベント途中でも出てきたんですよね、山崎さんと。
確かにその認知行動的なワークを考えたり、もっともらしいことをやってくれたりして、
多分冗長的に緩むってことは起きると思うんですね。
でも僕はそういうことでは全くない気がするっていうのがやっぱり精神分析的に伝えるのが一番、
セルフヘルプになってしまうことの難しさっていう話なんですよね。
だから私セルフヘルプって言っておきながら、綺麗になった部屋を母親の手を引っ張っていっちゃうわけですよ。
お母さん大好きなわけですよ。
この感情との攻め合いにずっと悩んでる人間がChatGPTにも結局は対象としての母親を見ちゃっていたりするのであればですね、
そのことがわからないまま、うまくことが運ぶっていうのにかけるというのがすごくランダムだなって感じがやっぱりどうしてもするんですよね。
私は自動思考として、部屋が綺麗な方がいいに決まってたわけですよ。
マイナス系だと思うんですよ、これは完全に。
部屋が綺麗な方がいいに決まってる。
そう言ってるのは母親なんですよ。
そしてそう言ってるのは母親の父親なんですよ。
そして母親の父親は部屋が汚れてると、うちの母をぶっ飛ばしてるからそういうことが起きたわけですよ。
マジで。
これを、何て言うんだろう。
部屋を片付ける方法論をやっている間は、この夢から絶対出られなくて、って気が僕はどうしてもしちゃうんですよね。
で、その夢から出られないということが別に問題はない場合は問題が全くなくて、それでいいんだけど。
だから浅く潜る深く潜るの話なんですよね。
一気に潜っちゃうことってあるじゃんって思うんですよ。
部屋を片付けて悩んでいるうちに一気にここまで行っちゃうことってあるじゃんと。
現に私、怒ったんで、この辺はぜひ聞いてみたくなりますよね。
感触と判断基準
そもそも恐る恐る慎重に潜るってことはどうやったら判断できるんだろうと。
で、私は恐る恐る慎重に潜るべきなのかどうかで、やっぱりなんかここにはですね、分かりますよ。
下手に素人が理論。
だから下手に素人が頭開けてみたら脳みそ出てきたんだけどどうしようやべえよみたいなのは困る。
それは困るんで困るのは分かるんだけど。
でも継承じゃない部分も聞きたいじゃないですか。
専門家に全部任せておけば全部うまくいくんだったら、もう継承をははーって聞いとけばいいと思うんですよ。
絶対素人が外科手術したらダメですよははーっていうのを聞いとけばいいと思うんですよ。
でも専門のところ行っても結構治ったり治んなかったりだよねみたいな状態においては、
やっぱりこう一体全体外科手術って何なんだろうっていうのに興味湧いちゃうじゃないですか。
素人側としてもね。
その辺のことを言いたくなった時に浅い深いってのはどうやって判断されているのか。
やっぱり伊藤恵美さんはベテランじゃないですかどう考えたって。
だから分かるってことは僕はあると思うんですよ。
コキブリの話だから浅いってことには絶対ならない気がするんですよね。
浅い深いは感触で判断されているんじゃなかろうかと。
感触で判断するっていうことはそれは実に精神分析的な話なんじゃなかろうかと思ってしまうわけですね。
やっぱりそういう話を専門家にはぶつけるべきではないかもしれない。
これはもう野良の特権としてこういうところで打弁を語りまくるみたいな方が合ってるかもしれない。
要するに二度股会議するのにふさわしいテーマかもしれないんですよね。
私は絶対これは感触だと。感触があるってことは定義があるってことだと思うんですよね。
そしてこういうことを語るにはこれらの言葉がいる。
定義って言葉をここで使わないとなってくると感触を図るためには情緒的なやりとりが
それは親を介してどうのこうのっていうのを全部言葉で説明していかなきゃいけなくて分かりやすい言葉で。
そしてそれだけでほら50分経ってるじゃないですか。
やっぱり感触、新鮮の感触、深い浅いの感触を図るためには
定義が奥底で起きているということがないんだったら図りようがないような気が
その人にとってのそれが深いんだか浅いんだかが
それは心理臨床をすごくやっている人の感触として
つまり心理臨床、だからあれなんですよね。
臨床心理の雑誌オレンジのですね、なんか山崎さんに言わせるとXで炎上したという
どこをどうやればあれが炎上するのかわからない雑誌であったんですよ。
認知行動療法の人がもうとにかく臨床数が足りねえんだみたいなこと書いていて
臨床しまくれみたいな数が足りてないみたいな
あれは私正しいと思うんです。すごく。
結局それは感触というものをつかめるようになる
自分なりの理屈ってものとある種の感触が一致するようになるためには
経験がものを言うんだっていうですね。
たぶんあれすごい乱暴な説に聞こえて
公認心理師を作った意味がなくなる。
それではって言われる可能性を感じるんですよ。
つまり専門家の名を冠してるってことは
新人同然だろうとニューカマーだろうとベテランだろうと
専門家のところに行っときゃ間違いないんですよって言うための専門家の一線じゃないですか。
結局のところ数がものを言うんだったら
素人も苦労ともなくなっていくじゃないですか。
し少なくともこの人専門家だからこの人のところに行ったら大丈夫っていうのがないと
めっちゃ口コミ頑張るってことになってしまって
それを避けるための専門家でしょ。
なんだけどでもやっぱり認知効能両方の人が
もっともっと見ろみたいなことを言うわけですよ。
数が全然足りない二桁足りないみたいな
あれってよくね物書きとかに言われるんですよ。
僕はあんまり信じない方がいいと思うんですけど
本読み足りないんですみたいな。
100冊読んできました。
若者2桁足りないんだみたいな
1万冊は読めないですよ。
そんな読んでられないしね。
だから数だっていうのも結構微妙なんだけど
でも臨床っていうのは数というのは分かる気はするんですよね。
いくらかでもやると分かる気がするんですよ。
世の中に普通の人なんていないとかいうのは実感として分かるっていうのが大きいんですよね。
普通って何もないとか常識って意味がないとか
そういうのっていうのは語られている言葉だけ聞いていても
それこそあんまりダメで
やっぱり数をいっぱい聞いていく
いろんな人のお話を伺っていくと
普通って何か本当むなしい言葉なんだなっていうのが実感として湧いてくるんですね。
細川天天さんの漫画にありましたよね。電話が取れないですよね。
細川天天さん事務員として仕事されてたけど電話が取れないと。
でも家では電話取ってるじゃないですか。
僕はああいうところにベータ要素っていうのか物自体っていうのか
象徴化されない物体ってものの感じっていうのがあると思うんですよ。
つまり電話というもの一つ取っても
電話を話題にする電話が取れないのはなぜでしょうっていうのを言ってしまった瞬間に
もうそれはすごい深い話題なのかもしれないんですよ。
だって事務員何年もやって一回も電話取らなかったって
なかなかなもんじゃないですか。
病気とまでは言わないけれども
でもそれを良しとしてしまっている会社っていうのもあるわけですよね。
だから一見したところそれは僕だったら
そういう人は事務員としてはちょっと雇えませんってことになるような気もしなくもないんだけれども
そんなことはないんです。
ここにもやっぱり常識というもののいい加減さが感じられるんですよ。
いや電話取れない人がいるんだったら取れる人が取ればいいじゃんで
ちゃんと済むんですよケースによっては。
絶対人に迷惑をかけちゃいけないとか
それぐらいのこともできないようなのでは何々は務まらないとかいうマイナス系は
実に疑わしい。
何とでもなる。何とでもしようとさえ思えば。
でも一方でじゃあそうまでして言っている電話が取れないのその電話って
その人にとっては何なんだろう。
そこから天天さんにとって電話って何なんだろうって考えるってことは
僕はああいう状況においてはとっても意味があると思うんですよね。
それこそ取る直前に上がってくる自動思考を抑えるでもいいんですけど
多分それってやっぱりそれを細川さんに言える人っていうのは
細川さんの夢の中に入れる人だと
夢の中に入らせてもらえる人なんじゃないかなというふうに
僕は思ってしまう。
だからそうじゃないのかもしれない。
そうじゃないケースは多分あるんでしょう。
でもですねやっぱ会ってのはそういうことなんじゃないかなっていう。
だから何の話題をとってももう一気にダイブしてしまうってことは
起こり得るものだと思うし
私にとって片付けってのは母親を少なくとも一気に引っ張り出すべきものなんですよね。
そうでなければ私片付けていきますからね。
全然余裕でできますんで。
何にも出てこない可能性も少なくないと思うんですよ。
承認欲求って言葉も多分こういう場合は使われるでしょうし便利だと思うんですけど
僕は全然承認欲求というのは説明になってない。
それを言うんだったらせめて母とセックスしたかったって言うべきだと思うんですよ。