精神分析の困難
おはようございます。人生相談のための精神分析的ラジオ、第1154回をお送りします。
3月13日、木曜日、8時16分です。
昨日は思わず落としたんですけれども、実はですね、急性の軽度だったんですが、びっくり腰になりましてですね。
もう本当に久しぶりに、あの昔行きつけだった月に2回から3回行っていた生態に急遽来ました。
もうなんか本当に久しぶりだなこれっていうぐらいの感覚で、もうなんかね、3年ぶりとかもしかすると5年ぶりとかいう、コロナの前ぐらいですよ、多分。
いやびっくりしたというか、久しぶりにこれが来てしまったという、なんかこうあるじゃないですか。上手く表現できないんですけど、痛みというよりは力が入らないって感じ、腰に。
なんかこう独特の感じですよね。遠いんでね、そうホイホイは行かなくなってからは行かれなくなったんですよね、むしろね。
腰があまりにも痛いのに、あそこまで行くってことがそもそもまず難しいことなので、昨日はまあ行けたから警備だったんだなと思うんですけど、警備でもやっぱりね、
ここから中目黒の方にあるお医者さんなんですけれども、そこまで本当にね、行くのは厳しいものがありまして、
最近ちょっとあるいろいろ行動活動を滞っててご迷惑かけてる感じなんですけど、本当に久しぶりに来たなっていうか、そこは腕が良くてですね、普通に治るんですよ。
行くところまでの苦労は何だったんだろうぐらいに、帰りはスイスイなんですよね。もう人に会って打ち合わせまでしてきたりしてっていうぐらいのことはできちゃうと。
まあしかし、ちょっとこれ考えたのはどういうことかというと、いや精神分析って辛いなって思いましたね。精神分析受けてたら、もうこれキャンセルだけどキャンセル料とかは払わなきゃならないんです。
キャンセル料っていうか所定の金額払わなきゃいけないわけですよ。だからキャンセルしたからといってお金は戻ってこないっていうか払わなきゃならないんで、払わなければならないっていうのがやっぱりすごいなって思うんですよね。
まずいけてないと思うんですよね。少なくとも当日だったら無理だと思うんですよ。
休みますよね、普通に考えても。
だから当然休むということの意味を、ある意味改めて絶対嫌でも無意識にでも考えさせられるというのが分析的ってことになるんだと思うんですけど。
これやってたら、つまり週に3回とかやってたら厳しいよなというかぶってたらですよね、思いますね。
それに本当に意味があるのか的なことを問い正すと思いますね。
人が問わなくても自分が問うよね。そこに意味があるということにもなるのかもしれないですけどね。
オンラインセミナーの準備
はい、山崎隆さんと新井さんと、もう今週の土曜だから明後日ですね。明後日のセミナー。
おかげさまでもうかなりですね、想定していたところまで来ましたので。
想定していたところまではお客さんは集まっていただきましたので本当に大変感謝しておりますので。
のでっていうのもおかしいけど、ぜひここからもうちょいオンラインとか動画配信等ご予約いただけますと非常に嬉しいです。
これでもう1回、少なくとも次回はやれるなっていう自信をつけましたんで。
全く同じセッティングにするかどうか、これはやってみないとね、なんかわからないですけど。
少なくとも今回で打ち切りっていうことにはこれでならずに済むなっていうふうには思いました。
改めてですね、私今精神分析のある日方、山崎隆さんの本を読んでるわけですが。
これはね、最初に私読んだ時も思ったんですけど、ライフ破壊に起きたこととそっくりというか、そう言ったらどっちが起こるかな。
まああんまり面白くないかもしれませんけれども、ライフ破壊に起きたことと実に告示したことがある意味だから、界隈で起きることって似たものになっていくんだなというのをね、切々と感じましたね。
あの私、このあれですよ、なんて言ったっけ、遠方界隆さんが言った認知行動をトッピングした精神分析風ユンギアンフレーバーあふれるロジェリアンでしたっけ。
ちょっとこれですら正確で、なんか長いだけなんですけどね。
要するにいろんなもののごたまぜになるよね、心理カウンセリングというのは。
日本では特にそうだみたいな。
私はこれ日本の特徴じゃないと思うんですけど。
でもこれはね、やっぱり起こりますよね。
そういうことはね、GTDライクなタスクシュート風のなんとかかんとかになっていきますよ。
医療における信頼
なぜそうなるのかということも、あれほど説明をがっちりされている本もそうはないと思うんですよね。
だから遠方さんと山崎さんがおっしゃってる、結局そういうふうに説中して普通の面接になるしかないんだと。
でも各学派はね、精神分析なら精神分析は精神分析の純粋に自分やっているんであって、そういう説中のフレーバーはダメだって言うわけですよ。
他のところの学派のは言うなら心理カウンセリングには役に立たないって言うんだけど、そうはいかないよねっていうような話をされてるわけですよ。
だからといって、よく僕もね、タスクシュートオリエンテーションの人間ですから、やっぱり説中でいいよねっていう、いいとこ取りをすればいいじゃん。
固いこと言わずにいいところを組み合わせればいいんだよって言われると、いやそんな風にはいかないだろうって思うんだけど、でもどっか説中感のあるやり方になるというのは普通にありますよね。
私が今やっている3カ月チャレンジは完璧に、他の畑だからというところもありますけど、完全に説中的ですからね。
絶対あれは精神分析ではないし、どう考えても、そもそも時間に対面してないですからね、第一に。
そしてまた時間もかっちり守ってるわけではないし、毎週何曜日の何時ってがっちり決めてるわけでもないですし、つまり精神分析でないことはもうあからさまにあるわけですよ。
変異解釈以外のことは当然しますしね。
で、てか変異解釈なんてそうそうしないですからね。
だからといって、何だろうな。
例えば傾聴はしますよね、ある意味。私なりの傾聴はする。
だからロジェリアン風だって言われればそういうことになるんだけど、だけどカウンセリングで傾聴なんてどうせするに決まってるじゃんって思うんですよね。
別にそれはロジャーズ学科だからするぜって話じゃないと思うんですよ。
マズロー的ではないと思うんだけれども、あとユンギアン風でも全くないと思うんですけれども、
まあでもいくつかの接種になるのは確かだと思いますよね。
全部を合わせることはないと思うんだけど。
例えばだからGDDライクなタスクシュートっていうともうなんだかよく分からないものになっちゃいますけど、
あのポモドールとタスクシュートならまあまあ分からないではない。
で、マニアーナの法則とタスクシュートならまあこれはもう全然普通に納得ができる。
僕はやっぱりそこに差異は見出しますけど、タスクシューターなんで、
それこそ純粋な一時目指していたタスクシューターなんで、差異は見出しますけども、
まあまあ接種しましたと言われれば、それに目を三角にして反対する理由はないんですよ。
だからそういうのってあるよねっていうことですよね。
だからといって精神分析、心理カウンセリングマニアは別、
マニアって言っちゃいけないんですけど、専門家は別として、
だからタスク管理はそれこそマニアで、マニアの人は別としてですね、
そんな何でもかんでも勉強してられないでしょっていうツールも山のようにあるわけでね。
私は結構ツールもなんだかんだ、ただ触ったものまで含めれば、
結局100近くはタスク管理系でチェックはしてみてるんですけれども、
過去そういうことをやったわけですよね。
連載も書いてましたからそういうことになるわけですよ。
でもそんなことを普通の人がするのはむしろあんまりお勧めできないですよね。
そんなことする必要ないじゃないですか。
だから接種といっても全部をトッピングするわけでは全然ないので、
結局のところは自分にとっての相性の良さとか、やろうとしている方向性の、
だからオリエンテーションって言うんでしょうね。
相性の良さといったものが選ばれることになるんだろうとは思うんですよ。
ただ、そうは言っても自分の方法で全てがカバーできるって言いたくはなりますよね。
精神分析だって、やっぱり山崎さんが書かれてる通り拡大してきているわけですよ、その範囲を。
最初は神経症を治すための方法論だったはずなんだけど、
だからもう精神病とかパーソナリティ障害、人格障害はタブーに近かったはずなのに、
いつの間にかほとんど人格障害、パーソナリティ障害こそが
メインターゲットなんじゃないかっていうぐらい変わってきたんですよね。
ババレイコさんの自我心理学の方ですけど書いてますよね、やっぱりね。
もともとボーダーラインというのはここに触れるのはどうかっていう領域だったけど、
ボーダーラインこそがむしろメインターゲットに、ベトナム戦争等があった関係なんですけれども、
メインターゲットになっていて、ボーダーラインの治療ができるというのに
自信を深めてから息を吹き返したんだみたいな、そういうことを書かれていた本が確かあったと思うんですけど、
まあそういうことは起きるってことですよね。
最初はそこは触れないでおこうみたいだったはずなのに、
いつの間にかそこがメインターゲットだぐらいに変わっていくと。
そうするとますますですね、これで全部いけるんじゃん的になるし、
他のはちょっと役に立たないよね、ああいうのはあれじゃ無理だよねみたいになるわけですよね、結局。
でもそれは縄張り争い的な面もあるだろうし、信念みたいな面もあるだろうし、
だからといって、じゃあこの人には認知コードがあってるから認知コードでいこうとか、
この人には精神分析があってるから精神分析でいこうってできるっていう人は、
ものすごい各分野に詳しい人になっていくじゃないですか、
まあそういうのが多分今目指されているのかもしれないんですけれども、
それってタスク管理の世界でもそれをやろうとすると一筋縄ではいかなくなっていくわけですよ。
ましてこれが医療に近い世界で診療ですけれども、
心理臨床の世界でこれをやるとなるとですね、本当に自分の愛称もあるでしょうしね、
あんまりやりたいと思わないのもある。
まあだからリファーって話になっていくんでしょうけど、
私はこのリファーってのも実にシステムとしての聞こえはいい学生ものだって思うんですよね。
ものすごくそれをされてみる側の身になってみるとですね、
私もあんまり良くない思い出がいろいろする側としてもされる側としてもですね、
もうだってものすごい近い世界で近い人にさえリファーするとなるとですね、
本当に気を遣うんだっていうことを痛感しますよね。
同じタスク集等で理事で、私にその話を聞くよりはJさんに聞いてみたらみたいなことを言うのだって気を遣いますよね。
だって言われたほう嫌な思いをするじゃないですか。
一歩間違うと相当、私にせっかく聞いてきてくれているのにもかかわらず、
他へ聞いてくれって話をされるわけですから。
で、これが私とJさんなんていうことになってくると、
ほとんどいろんな意味ですぐ隣なんだけど、だからむしろなんてってことになるかもしれないけど、
これがそっちは合ってないからGTTの方がいいですみたいに言われるっていうのは、
ひどく納得いかないと思うんですよ。
される側にしてみると、これをですね、たらい回しと言われかねないわけだけど、
精神分析と認知行動とかそういうぐらい違うものになってくると、
あれだと思うんですよね、やっぱりね。
お医者さんだって変わるときって絶対心理的な抵抗って起こるじゃないですか。
絶対じゃないかもしれないけど、いくらかは起こると思うんですよね。
だからそういう問題があるという感じで、
どの人にかかっても全く同じ結果になるんですという、
医療は建前上層でなければいけないかもしれないけど、
苦労しているクライアントさんほど、
それを鵜呑みにはできないんじゃないかなという難しさが、
ここには絶対僕はあるような気がします。
ましてここに、野良が絡んでくるとなると、
野の医者が絡んでくるとなると、
もう本当に野の医者たちの一種信仰的なものに支えられている部分は絶対ありますから。
プラシーボ効果というものがこの世から消せない以上は、
消すべきではないと僕は思うんですけど、
小麦粉の入ったカプセルだって効くと思えば相当効くんで、
特に乗り物酔いとかの場合は効くんで、
しょうがないんですよね、これはね。
痛み止めとかね、そういうものには本当、
チョコレート飲んだ方が効くケースでは効くんで、
ものすごいこの医者さんも絶対的に絶大に信頼してますって人からもらったものは、
痛み止めとかめっちゃ効くんでね、
自己愛と自己認識
しょうがないんですよね、これはね。
しょうがないというか、その方がいいと思うんですよね、やっぱりね、
それを活用できるのであれば。
私はそれは天意だと思いますけどね、間違いなく。
ある種の。
なんでか知らないけど、こんな話をしているうちに15分が経ったので、
いつも通り全然短くならないわけですが、
もうなんかこう、こないだもですね、
あるオンラインセミナーの中で、
20分ぐらいが理想できてるんですねっていう話があって、
20分がね、やっぱりポッドキャストかボイスは20分だよねと思いつつ、
私20分だと前置きで絶対終わるなっていう自信があるので、
20分とかはもう聞かなかったほどにしようぐらいな勢いなんですけれども、
これですねやっぱり、なんだろうこれは、
うまくは説明できませんが、
なんていうのかな、
ある種の、なぜか理想とされているものというのは、
本当知らない方がいいんだなっていうのを、
これはフリーランスの人だけなのかな、
思うように私はなりました。
なんかね妙に自信満々だし、
そこに悪意はないし、もしかすると正しいんですが、
例えば20分とかもそうですけど、
別に根拠はないじゃないですか、
ポッドキャストは20分が理想的ですっていう根拠は、
私は何もないとは思うんですよね、
話が全然違う方向に行きましたけど、
急に変わるんですよ、3年ぐらい経つと、
いやもうなんか40分が理想だよねみたいに、
サラッとなるんですよね、
あるいはもうなんか2分が理想ですみたいに、
もうなりうるんですよね、
見てると本当にこういうものって、
すごくそういうところがあるんで、
聞かなかったことにするって大事なんですよね、
対抗しちゃったりするっていうのも変じゃないですか、
俺は絶対20分じゃ終わらないぞみたいなね、
それはそれで変だし、
一方で僕が20分にまとめようとすれば、
必ず多くの人は失望して、
一部の人はほとんど絶望されるんじゃないかと、
それはちょっと大げさですけど、あるんで、
やっぱり20分に僕が少しでもしようみたいに思うのもどうかと思うんですよ、
そうすると聞かなかったことにするのが一番いいような気がするんですよね、
これって本当、例えばツイッターではどうだとか、
ノートではこうだとか、
やっぱりブログがいいとかいうのを散々見てきて、
大いに騙されてきた私としてはですね、
ほとんど全部聞かなかったことにしたら、
どれほど良かったことかと思うので、
基本全部聞かなかったことに最近はしていて、
聞かなかったことにするというのは、
スルスルのと何も変わらないとも思うんですけど、
悪意は持たないっていう、
対抗しようとしないっていう意味でも大事なんですよね、
これはブログはやらないぞとかそういうことではなくて、
20分にするかもしれないんだけど、
それは全然違う理由であって、
20分にするっていうのは、
排除はしないみたいな、
だから排除しないのと似てるんですけどね、
排除しないっていうとなんかこう、
政治家みたいなんで、
そういう意味ではないんですけれども、
聞かなかったことにしようというふうに、
知覚と外在
聞かなかったことにしようというのは、
聞いてましたってことでしかないんですけれども、
でもまあ20分とか、
そんなもん無理だわなっていう感じがしますんで、
もう17分ですからね、この段階でね。
えーと、
何の話をしようとしてたのかは、
ほぼ完全に忘れたんで、
喋ってるうちに思い出すだろう的に、
ここからは行きますけれども、
本題に入りますけれどもってことなんですけど、
本題が頭の中にないんですよ、これがね。
あのー、
最近は自己愛構造体の話、
自己愛対象関係かな、
の話から、
ちょっと昨日あたりは何の話をしたんだか、
全然覚えてないんですけど、
あ、そうだ。
えーと、
そうそう、
ベータ要素的な話を少し、
ベータ要素が話したいわけじゃないんですけどね、
あのー、
こう、
私たちは心の中に入っているものというものを、
見てるわけですよ。
ここの知覚というものは、
外在しないというのが、
えーと、
すごく大事。
知覚は外在しないじゃないですか。
知覚した対象はなんか外在してるんでしょうけど、
私たちが見る、
だって太陽というのは、
太陽の姿とは関係ないじゃないですか。
ほんとね、
なんか何を言ってんだろう自分って感じも、
しないわけではないんですけど、
やっぱり、
えーと、
知覚って何を見ようと自由なんだと思うんですよね。
あのー、
だってその人の中にあるものだし、
その人の中にしかないものだから、
ただ、
我々は自由自在に知覚を作り出せるわけではなくて、
知覚の作り方は無意識に任されてると思うんですよ。
ほぼほぼ。
何を見るかを意識的に選べても、
どう見るかは意識的には選べませんよね。
太陽は今後緑色にしようとかしても、
ならないじゃないですか。
ただし、
太陽は別に黄色をしてるわけでも、
金色をしてるわけでも、
白色なわけでもないわけじゃないですか。
色っていうものは、
この世にないものですから、
色ないですからね、
この世にはね。
色っていうものは、
人間の、
この根があるわけですよ、
その、
識覚をするための、
だから識覚が、
他の人とずれてるのを、
識覚異常とか平気で言ったりするんですけど、
異常か正常かは、
数決で決めてるだけですから。
別に、
識覚などというものは、
人間の識覚が正しいわけでも、
なんでもないですし、
識覚ない動物はいっぱいいますし、
識覚ないからといって、
それで転んじゃったりはしませんからね、
別に。
識覚なんかなくたって別に、
多分人類も転びはしないんですよ。
識覚っていうのは、
本当作ってるものなんで。
だから、
仏典のあの有名な般若心経は、
すごいですよね。
色というものは空だって言ってるじゃないですか。
あの場合の色は、
我々の言う色とは少し違うと思うんですけど、
でも色ってそういうもんですよね。
我々はビジュアルを多分に色で分けてるけれども、
それは我々の勝手な分け方なわけじゃないですか。
見えない色はないものと見なしても、
赤外とか、
紫外とかって平気で言うじゃないですか。
だからそこに光はあるから、
なんかあるって感じはするんだろうけど、
なんかあるになっちゃうわけですよね。
わかんなくなってしまう。
音もそうですよね。
限度がありますよね。
人間が把握できる音は。
全く聞こえない音ってものも、
この世の中にはあるわけで。
そういう、
だから我々は現実などというものは、
素材を利用して作ってるだけなんだけど、
ここのところで我々はですね、
なんかそんなことには納得がいかないっていう態度になりやすいわけですよ。
だからその、
当然、
当然ではないと思うんだけれども、
やはりやや当然ですね。
これも受け入れられないんですよね、
多くの場合。
相手が怖いと思ってるのは、
自分の攻撃力を相手に投影してるからなんですよ。
我々は、
ロールプレイングゲームのみたいに、
敵攻撃力100ではないんですよ。
敵は攻撃力がとても強い。
なぜならそれは、
私の攻撃力を相手にあるものと勝手に決めてかかってるからなんですよ。
ほとんどの場合は。
これがわかるようになって、
私は奥さんとの喧嘩がすっげー楽になったんですよね。
自分と喧嘩してるのとほとんど変わらないということを、
最初に完全に確定しておけばですね、
気分愉快ではあるんだけれども、
恐ろしくはないんですよね。
だって相手のマックスの攻撃力って、
自分のマックスの攻撃力を、
ただそこに仮定してる。
これは完全に仮定なんですよね。
相手は多分私のマックスの攻撃力なんかでは攻撃してこないから、
だけど、
もちろん私のマックスの攻撃力っていうのも、
めちゃくちゃまともに食らったら結構やばいんで、
殴るとかね、刺すとかそういうことまで含められますからね。
でも、私のマックスの攻撃力を私が恐れるってのは、
やっぱりどっかおかしいじゃないですか。
お前それだったら、
まず他人を害することを恐れろよっていう話になるじゃないですか。
ならないんですけど喧嘩の最中には。
でもなるじゃないですか、やっぱり。
よくよく考えてみればね、
親と長寿がの関係
自分の攻撃力を恐れるってことになってきたら、
じゃあ攻撃すんなよってことであって、
そういうことなんだな、これはというのを平時にですね、
極力意識しておくことで楽になれるんですよ、やっぱり。
もう今までもね、会社のおじさんが怖いとか、
居酒屋の先輩が怖いとか色々あったんですけど、
全部自分のマックスの攻撃力を勝手に相手に乗っけてただけなんで、
だってほとんどの場合殴られるなんてことはないじゃないですか。
全くないとは言いませんけど、ほとんどないじゃないですか。
殴られることをめちゃくちゃ恐れてるということは、
自分が殴るということをよくよく知ってるからですよね。
自分、人殴ったことはないんですけど。
まあでもこれは、
だから近くに練り込むというのはそういう意味なんですが、
それよりもですね、私は最近、それよりもじゃないな。
今日は特に考えたのは長寿がのことなんですね。
で、ある種の人はとにかく長寿がというものをすごく恐れていらっしゃる。
でも長寿がって自我なんで、
どこまで行っても長寿がやっぱり自分なんで、
なんで嫌かはわかります。
それは相互的だからです。
相互的ってどういうことかというと、
幼かった頃の、幼かった目を通してみた、
出来のあまりよろしくない親の言い分が長寿がの言い分だからなんですよ。
そのようなものは30、40、50になってから見ると幼いんですよ。
でも考えてみりゃですね、
親が幼いのは当たり前であって、
だって私の親は、私がそうだな、
5つの頃まだ20代でしたから、
20代なんて、
まあこう言っては20代でこれを聞いていらっしゃる方にちょっと気を害するとは思いますが、
まあ20代というのは50になった自分から見ると、
うわあすごい熟練してるな、成熟してるな、おじいさんだなという人はいませんよね。
29歳。
いやとにかく何にしても若いよねっていう。
そこで親やってるんだから偉いもんですよ。
僕なんか親やりだしたのは30代の中盤から以降なんで。
だから親やっている20代の人は、
どういう親業であっても、
これを言うとまた別の意味で別のところから怒りが湧くんですけれども、
でもやっぱりその点において立派だと思います。
20代で親をやってらっしゃるというのはですね。
で、これもそうなんだと僕は思うんですけど、
ギャートルの時代から親は10代がやってたりするわけですよ。
だから練れていると言ったって、今ある意味すごい練れているわけですよ。
これも多くの方が同意されないかもしれませんが、
やっぱり練れてないわけじゃないとしか言いようがないと思うんですよね。
そこまで求めちゃいけないと言ってもいいと思うんですけれどもね。
私としては、それはね、子供の立場からすると、
未熟な親に育てられる課題ってどうしても出てくるんで、
納得がいかないとは思うんですけど、
でも成熟した親に育てられる可能性っていうのは、
私は思うにあまり高くないんじゃないんだろうか。
そういう意味ではですね、
自信を持てない理由
この21世紀の日本人が望む成熟した親に育てられる可能性というのを求めると、
だから少子化になっていくんじゃないのかなって感じもしなくはないですよね。
経済が全てだとは思えないんですよね。
カットなって手を挙げちゃいましたって、
普通に起こるだろうなってやっぱ思うんですよね。
だって私の同級生の、小学校中学校の同級生見てて、
いや彼らが20代になったからってカットなった時に、
なんかこう手を挙げない、手を挙げる子っていたよね。
やっぱりね、いたよね。
いたと思わざるを得ない。
ていうか、あいつに20代になったからといって、
男の子ですよ、私の場合、友達の大半は。
あいつに父親がうまいこと、いやそれは無理でしょうっていうか、難しいでしょう。
無理ではないにしても。
だからですね、松木さんが書いてたんですけど、
ある自閉症のお子さんを、
自閉症のお子さんを松木さんのところに連れて来られた成人した人ですよ。
あのお母さんを見てこのお母さんに感動したと。
この子を育ってて結婚までさせたのは本当に大変だっただろうと。
それはだから何が言いたいかというと、
自閉スペクトラムとかではないってことなんですよ。
自閉症の人なんだってことなんですよね。
で、明らかにこの自閉症のお母さんなんですけど、
お子さんに関心を持っているようには感じられないと。
これは無関心っていうことになっちゃうんでしょうけど、
そういう問題じゃないような感じなんですよね。
これはだからつまり、精神分析のいいところの二次元神聖というやつで、
昨日お話ししましたっけ。
玄関に入ってただいまって出ると、
次の瞬間には裏庭に自分は出てしまうっていう、
そういうコントみたいなお家に住んでいらっしゃる、
そういう心、奥行きがない心っていう言い方をするんですけどね。
そういう心の持ち主にとって、
もちろん我が子の愛情がないってことはないんでしょうけれども、
心の中に何かが置かれるっていう発想があんまり、
すごく乏しいってことは起こるんだと思うんですよ。
私こういう人の知り合いが一人かつていたんですよね。
やっぱり何というのかな、すごい不思議な感じなんですよ。
感情的なやり取りが数式のやり取りみたいになっていくんですよね。
なんといえばこれ伝わらないと思うんですよね。
こういう言い方では。
でも感情のやり取りが記号になっているみたいな感じがするんですよ。
その世界においては。
付き合いやすくはあるんですよ。
私みたいな人間にしてみるとある意味。
若かった頃の私からすると、
そういう人って付き合いやすかったから付き合えてたんだけど、
ただ普通の感じは全くしないですよね。
ある意味では、いざこざが起きらないようにすれば起きなくなるっていう感じなんだろう。
やりやすさみたいなのがあったんだけど。
だからといってそれが、
そういうふうには普通の人とは接することはありえないっていうような接し方をするんですよね。
やっぱり、やっぱりっていうのが変だけど、
絵がめちゃくちゃ上手いんだけど絶対絵の中に人は出てこないんですよね。
そういうことがありました。
なんかとてもとても不思議な世界なんですね。
怒りというのはないわけじゃないんだけど、
私は怒ってます。
で、一歩間違うと、
なんかこう、
愛イコールアングリーみたいな文章を手渡されるみたいな、
そういう感じ。
だから怒りは全く伝わってこないんだけど、
怒ってるんだっていうのはよくわかる。
これがあの、出談をする怖い人とはまた全然違う。
怖くは別にないんですよね。
これだけのことなんだっていうのはよくわかるんですよ。
その人と接していると。
ただ不思議な感じなんですよね。
いろんな意味で。
平板といえば確かに、
その人が平板ってわけじゃないんですよね。
それはそれで。
しかし、
それは私にはわからないんだけど、
二次元神聖っていう表現は、
親の影響
すごいある意味正しいなと思うんですよね。
また話が飛んだんですよね。
つまりですね。
長寿がというものと、
対抗に近いですね。
対抗というか、
自分が若かった、
幼かった頃ってセットになりやすいんですよ。
そうすると、
長寿がというものに、
私たちはしがみつきがちなんですよ。
長寿がの新年体系みたいなものって、
マイナス系なんですが、
それは要するに、
例えば痩せなければ、
女はモテない、
みたいなそういう、
そういう信念なんですよね。
一つのね。
それは全然、
あらゆる意味で例外はないか、
などというのには耐えられないんだけど、
そういう問題じゃないんです。
そういうふうに、
自分の新年体系を持った長寿がを持っちゃったんで。
だから、
私はみんなに嫌われる、
みたいな、
そういう独特の新年体系があって、
で、
これは、
私はって言ってるんだけど、
長寿がに言わせれば私はなんで、
私の親対象に言わせれば私はなんで、
こういうことを親がもし言うとすると、
その親は、
未熟っちゃ未熟じゃないですか。
お前なんてみんなに嫌われるんだよ、
みたいなそういうのが、
染み込んでしまったというか、
内在化されてしまったというか、
この種の新年体系って、
あの、
至る所にありまして、
これがですね、
まあ、
私がその、
ライフハックの時からっていうのも変ですが、
タスク管理の話をしている時から、
これにぶち当たっては悩まされ続けてきて、
ようやく分かるようになったのは、
つまりこれは個別の話であって、
一般的な話とは何の関係もないんだという、
これがですね、
これもまた言ってて全然伝わってる気がしないんですけど、
本当に、
タスクシュートでも、
GTDでも、
ミーニングノートでも、
ライフハックは何でもいいんですけど、
バレットジャーナルでも何でもいいんですけど、
一般論を言うに決まってますよね、
そりゃ。
一般論を言うことに、
個別解から、
クレームが出ても、
それは、
なんて言うのかな、
何の関係もない話なんですよ、
お互いにとって。
何の話をしたらよろしいんだろうか。
例えば、
ある人に向かってですね、
これは体にいいですよ。
例えば、
この玄米は体にいいですよって言って、
玄米食を勧めるとするじゃないですか。
それに対して、
でも、
私は先日コロナにかかったから、
玄米食べても良くならないんですよっていうのは、
当たり前じゃないですか。
でも、
この当たり前のすれ違いが、
ビジネス書の世界では、
ごく普通に、
ほとんど毎度のように登場するんですね。
で、
私はもう、
その一般論を述べるということが、
この、
一般論として受け取られなかった際の、
虚しさというものを、
とてつもなく意識するように、
どっかでなったんだと思うんですよね。
以来、
この個別性に向かっていこうっていう意識が、
すごい強く働くようになって、
その時に一般論というのは、
むしろ、
言わない方がマシだぐらいな感じ。
一般論を言うんだとすると、
その人がすっかり元気になってます。
要するに、
コロナから回復した後の話なんだなっていうことに、
ようやく、
なんていうんですかね、
納得感がいきまして、
以来、
書き出すとかもそうだし、
記録するとかですらそうなんですが、
言わないことになってるんですね、
僕の中では。
言うことは、
言えって言われた時には、
この場では言うことになってますからって時には、
この辺をなんとかこう、
上手いことっていうのかな、
先に言っておいてから、
そうするとですね、
面白いことに、
僕の中では、
どんどんの人は一般論のことは、
受け付けてないんだなっていう感じがやっぱりするんですよ。
そこがすごいややこしいんですよね。
一般論の、
一般論としてのライフハックが、
有効に作用はするんですけど、
だって、
なんていうのかな、
コロナの人が食べても、
玄米は体に良さそうじゃないですか。
ただ、
それでコロナは治んないよね、
っていうような話なんですよ。
その長寿がというやつは、
僕はその、
邪魔。
つまり、
タスクシュートやGTDをやる上では、
いらないものなんですね、
その長寿が。
でも、
その人にとっては、
このタスクリストをちゃんとやれるかどうかの価値っていうのは、
すべて長寿が的なものを満たすかどうかっていうのが、
ほとんど全部になってるから、
あの、
ちゃんと記録を取れて、
仕事がうまくいっても、
あんまり意味ないんですよ。
こう言うと変ですけれども、
これがなんか一見かぶるようで、
全然実はかぶってないんですよ。
その人の長寿が不安というものを、
満たしきれないような場合には、
意味がないんですよ、
これは。
自己肯定感と成長
たとえ仕事がそれでうまくいったとしても、
ケースによっては陰性治療反応がそうであったように、
成功しそうになるとその成功は捨てる、
みたいな人もいらっしゃるわけで、
これの、
あの、
あれですよ、
これはフロイトが見出した、
一つの病理なんですけどね、
奇妙な二三の性格類型みたいな、
精神分析を無効化するみたいな、
そういうタイトルだってね、
ちょっと、
全然専門家の人には多分、
ケッと思われるでしょうけど、
私はそういうふうに、
漠然としか覚えてませんから。
つまりですね、
成功しそうになると、
その成功を捨ててしまうというような、
長寿がに懲罰されたいという、
無意識の欲求というような言い方をするんですけれども、
なんで長寿がに懲罰されたいのかまで、
考えたくなるじゃないですか。
それって変な話だねっていう話になるじゃないですか。
でもですね、私は、
妻の写真を見たことがあって、
結構お母さんにべったりだったんですよ。
でもお母さんに怒られてばっかりで、
あんまりいい思い出ないみたいな話聞いていて、
この話何回か、
この妻の話じゃない話でもしましたね。
いろんなところでしてますね。
長寿がにがっちりしかみついておきながら、
その人は長寿がには全然好意を持てていないっていう、
それは自分の長寿がなんだけど、
頼りにしてるんですよね、ある意味では。
その長寿がが言うわけですよ。
あんたは本当に何やってもダメだ。
つまり長寿がに罰されていて、
こういうふうに嫌なことを言われているときは、
しかし非豪華にあるわけですよ。
この種の話は藤井山直樹さんの営みにも、
しょっちゅう出てきますけど、
下手にっていうのかな、
一生懸命解釈したり、
一生懸命アドバイスすることが、
ほとんど意味をなさなくなる、
というケースがある、多いんですよね。
よくあるじゃないですか。
あなたはもっとできるんだから、
自己肯定感を高めてくださいみたいな。
もっと自信持ってくださいみたいな。
自我指示的にやると。
それはいいと思うんですよ、途中までは。
途中までは。
それにやっぱり、
諦めずに頑張ってその指示を、
一見諦めたように見えても諦めずに、
言っていくっていうのはいいと思うんですよ。
ただこれを言うってことは一方では、
その親を手放せって言ってることになるじゃないですか。
どんな人だって、
親との関係の影響
少なくとも生まれたときは親は好きだったから、
やっぱりその親にひどい目に合わされようと、
親への愛情は全くないと意識の上では思ってても、
やっぱり親に向かってるわけですよ。
だからその親を手放せと言われるということは、
すごく寂しいことなんですよ。
自信を持つということがイコール、
ものすごく孤独になるっていうことに、
心の中でなっている人にしてみるとですね、
これはだから一つの信念体系ですよね。
だって親は自分のことをダメ人間だと言っていると、
で、自分が自信を持ってダメ人間じゃないっていう風に、
確信するということは、
結局親を捨てるってことになるじゃないですか。
で、本人が親を捨てる気になったときに、
親の縁を切るとか、
親からで独り立ちするってのはいいのかもしれないけど、
人がそこを強圧するのは変じゃないですか。
ましてタスクシュートをやるためにも、
親を見放しましょうみたいなことを言うのって、
明らかに行き過ぎじゃないですか。
と私は思うんですよね。やっぱり。
無意識のメッセージ
でもその人は意識の上では、
いやもう本当親は全然愛してませんし、
好きでもありませんしありえないから、
親のことなんかも全然いいですから、
どんどん言っちゃってくださいみたいに、
本人は意識の上ではそうかもしれない。
私は自己肯定感を高めたいんです。
っていうのかもしれないけど、
でも、いくらこのセッション頑張ってても、
自己肯定感は一向に高まっていかないみたいなことは、
どんなカウンセリングでも僕は起こると思うんですよね。
これはつまり、
抵抗っていう概念で最初言ったし、
抵抗なんですが、
妊娠治療反応っていうのを知ってた方がいいよなって思うんですよね。
やっぱりこれを進められるということは、
親を離れろと言われているのに等しくて、
自信がないからこそ、
親にしがみついていたいわけですよ。
自信がないからこそ長寿がにべったりしていたいわけですよ。
つまり、部屋は片付けたくないし、
自己懲罰していたいわけですよ。
そうすることによって、
少なくともその親がどんな親であるにせよ、
親子関係というものに、
どこかつながりを求めていけるわけですよ。
そういう親なんだから。
そういうことを子供に平気で言っちゃう親なんだから、
私が自信満々で経済力も高めて、
どこか好きな人と結婚してっていう生活を送り出したら、
その親は絶望するんですよ。
子供は結局自分を捨ててしまうんだと。
変な話ですけどね。
だからますます強圧的になってくるじゃないですか。
こんなの結婚うまくいくわけねえとか、
お前なんかどうせ幸せになれるはずがねえとか言うじゃないですか。
この親の言い分を受け入れたいんですよ。
無意識の底の方では。
っていう言い方をすると、
ダメなんだろうな。
なんか山崎さんの本を読んでると、
そういう言い方ってあれなんだろうなと思うんですけど、
でもやっぱりそういうことなんだろうなって私は思うんですよね。
だから無意識を想定すんなってことだと思うんですけど、
でもやっぱりこれを無意識と言わなければ、
なんとも呼びようがない。
なんでかっていうと、
自意識ではもうそうは思えない方なんですよね。
自意識ではそんな親にいつまでも掻かずれ終わってられるかって思ってると思うんですよ。
そりゃあね。
でも、だから親がそんなに擦り込んだから私は自信がないけれども、
この親の言い分を無のみにする気はないっていうのはよくわかるんですよ。
ここにものすごいアンビバレントあるじゃないですか。
つまり、自信を持とうとするとものすごく抵抗があるけど、
親の言い分はなってないから納得がいかない。
納得がいかないから納得はしていないし、
親の言い分をおのみにする気はないんだけれども、
でも自信は持てないっていう意味で、
親の言い分をおのみにしているわけですよね。
自己懲罰の構造
で、それは親が擦り込んだからだっていう風に持っていきたいんだけど、
擦り込んだからなんですが、
それだけじゃないんですよやっぱり。
僕は思うにやっぱり1歳の頃の自分の記憶は残ってると思うんですよね。
それは親に褒めて欲しかったっていう記憶なんですよね。
これはつまり、ここの点で素直になれないっていう部分なんだと思う。
なれないですけどね。
だから、ここを支持するという立場にある人は、
支援者さんはみんなそういう立場に置かれるんだけど、
ここを支持するっていう立場にある人は、
私はその親の言うことはもういいんです、捨てましょうでは済まない気がするんですよね。
その人はそれだけ親が振り向いてくれなかったことに絶望するほど好きなんだから、
やっぱりここはですね、
あの手この手でってことになっていくと思うんですよ。
そんなに意識上のやり取りだけで、
自己肯定感になるものが育まれるとはとても思えないんですよね、ここは。
で、擦り込まれてないケースもあるわけですよ。
うまくいかないという点においては。
しかし、自己懲罰的になるっていうことはですね、
やっぱり、ある種の自分が排除されたっていう面があると思うんですよね。
そういうふうに全面的に排除してしまうというご両親もいるんだなということを私は、
サンソアゲスチャレンジを通じて1例や2例じゃないんだなということを理解したんですが、
そうではなくて部分否定っていうのはもう僕らの世界では普通にいくらもあるじゃないですか。
それのどこがいけないんですかぐらいに思う人もいっぱいいますよね。
山崎さんの精神分析習き方にもポンポン出てきますけど、
つまりそれってお母さんは東大じゃなきゃいけないと思ってるんですかみたいなことを山崎さんが聞いてみると、
ここはもうそれこそスペクトラムでいろんな形があるわけです。
あ、いや私別にそんな東大じゃなきゃいけないと思ってるわけじゃなくて、
そっかそういうことになるかって言って反省される方と、
え、東大以外の大学に入っていいと思ってるんですか?みたいな人までいるわけですよやっぱり。
部分否定の強烈な形ですよね、これはね。
東大に入る我が子を愛せるが、そうでない我が子は切り捨てるみたいなノリになるわけですよね。
部分否定って絶対あるんで。
でその部分否定が入ってくるということはやっぱりですね、
この分を親の言い分というものを受け入れていってるわけですよ。
だからこそ我々はあれですよ、
あのバカだと思われたくないっていうあのどうでもいいようなものを鵜呑みにしてるわけですよ。
バカだと思われたくないってなんかこう20代の親って感じすらしないじゃないですか。
親がそれを言うんだとすると10代に近いぐらい、
つまりすっごくこう子供っぽい親の言い分ですよね。
でもそれは親の言い分ですよね。
なぜならば赤ちゃん生まれてきてすぐバカだと思われたくないなんて全く思ってないじゃないですか。
これはやっぱりどっかでそういう価値観が入ってきたわけじゃないですか。
バカだと思われるようなことを言う我が子は切り捨てるが、
バカだと思われたくないあなただったら愛してあげる。
これは部分否定なんですけれども、だいぶこれならいけそうな感じなんですよ。
少なくとも東大以外を認めないに比べると、
バカだと思われることはしませんっていう我が子は受け入れるっていうのは結構広いわけですよね。
でも部分否定は部分否定だから、その長寿がの言い分をまるっと受け入れてしまうということは、
バカだと思われることをしたとき親に見捨てられる不安っていうのが出てくるんですよ。
だけどこれを30、40になってバカだと思われると親に見捨てられる?って感じになって、
いやバカだと思われるのはダメでしょっていう断言名法みたいになるわけですよ。
犬は犬であるは犬である的な世界に近づいていくわけですね。まんまじゃないです。
だからバカだと思われるということはダメじゃん。
なぜダメかっていう問いを立てること自体がダメじゃんみたいになって、
そこでマイナスKが作動するわけですよね。
もう出口がないわけです。なぜダメなのかとかがないわけですよ。
働かなければいけないから働かなければいけないから働かなければいけないみたいな世界なんですよ。
どこまで行ってもコミュニケートする意味は何もそこにはないってことですよね。
それはもう決まったことだから諦めてくださいっていう。
ここで諦めるとカウンセリングって終わるんで、
そこでカウンセラーは諦めずに一旦その話は置いといてって言ってまたその話に戻ってくる時を待つ。
一つの世界ではそうする。ある種の世界では別のやり方をするかもしれない。
その辺はだから冒頭述べたような学派的な話になりますよね。
だからいずれにしてもどの程度の長時間の幼さ。
幼さというのはつまり自分がそれを受け入れた時の年齢に。
だって3歳の時の長寿画は3歳児が作った長寿画じゃないですか。
ここが僕らは多分よくわからなくなってるんですよね。
親っつうのはいつも27歳に見えてたり40歳に見えてたりするかもしれませんが、
3歳児の見た40歳は3歳児の見た40歳だから3歳児並みの40歳なんですよ。
自分の理解できる範囲の限界っていうものをそこに持ってしまうじゃないですか。
親は40だったかもしれないが、親が40だった時に考えてたことの全てが分かるはずがないじゃないですか、3歳児に。
で、3歳児を見る親は40であることは滅多になくて多分よくて35とかなんで結構若いじゃないですか。
しかもそれを3歳児が見ている35歳じゃないですか。
ここに相互的な長寿画というものの主張するむちゃくちゃぶりが出てくるわけですよ。
バカだと思われてはいけないぞとかそういう風になりやすいわけですよね。
そしてそれを無意識に近いところにドーンと押し込めてしまって、
自分ではもはや親が言ったことだからそう思ってるわけだと少しも思わないっていうことが起きるわけですよ。
自分の価値観なのにまるで人が言ってきたと信じられるようになっちゃうってことですよ。
つまりそれは自分の心が外在化しているんでどこかがおかしいわけですよね。
心は絶対内在に決まってるんで。
どんな断言名法だって内在してるに決まってるんで。
その人だけの主張ですからね極端に言うと。
他のすべての人も人からバカだと思われるべきではないと思って生きるべきだっつったって無理じゃないですか。
他の人の価値観などというものはどんなにずれていたってまず修正されることはないものなんだから当然ないわけですよね。
外在していないってことはそういうことだと思うし、心が外在するってのは本当に変なんで。
極端に言うとテレパシーの世界になっていくんで。
私がこう考えると世界はその通りになるとか、私がこう思うと相手にそのまま伝わってしまうとか、
その心が見えていくとかそういう世界になっていくわけじゃないですか。
まあそうは滅多になりませんけれども。
それらはすべて存在しないものだということが一応精神分析では前提。
これは昨日ある人と話したんですけどね。
精神分析ではオカルトというものは一応ないことになってるわけですよ。
だからあいつバカだなというのを私が考えたとしても、
それが漫画の吹き出しみたいにあいつバカだなみたいなのが空に向かって上がっていって、
それを誰かが見るってことはないわけですよ。ないですよね。
まあただオカルトだってこの世の中にあるんだって言われると困るんですけど、
基本ないことにして、ないことにしているからこそ脅迫神経症は問題なんですよ。
やっぱり勝手にガスコンロの火はつかないし、
施錠した鍵が自然の作用によってガチャッと開き始めるってことは起こらないわけですよ。
思念とかの力では開かないわけですよね。
こういうことはあっさり納得されるんですけれども、
万能空想っていうのは滅多に捨てられないんですよね、私たちはね。
まあいろいろお話ししてきたし、
非常に取り留めのない回を久しぶりに復活できて私も充実感を持っているわけですが、
つまりですね、3歳児が見た長寿画は、
自信と他者の影響
その長寿画のモデルになった人が70歳であろうと100歳であろうと3歳児が見た人なので、
その人が言っている教訓めいたものというのは、
そういう年齢にふさわしいものでしかなかったんだってこと。
10歳なら10歳だし15歳なら15歳なんですよ。
その先生はすごい先生だったのかもしれないけど、
その先生がすごいというのは15歳の目を通してすごいんですよ。
そういうことが我々にはあって、しかもそれにしがみつきたい理由を持っているってことですよね。
三原はその人が好きであれば好きであることそうなわけですよ。
だからその人を見ることで私が自信を失ったというならば、
その人の言動を知ることで私が自信を失ったということであるならば、
私が自信を持つということはその人に対する裏切りになっていくじゃないですか。
っていう構造がここにはどこかあるんですよ。
だから簡単じゃないんですよ。
単に擦り込まれたからでは済まないんですよ。
やっぱりそこには認められないんですよ。
その人への好意ってものが介在しているわけですよ。
好きなものを嫌いになりたい人はいないって。
それは意識の上では嫌いだっていうのはその通りかもしれない。
でも好きだっていうのもまたその通りかもしれないわけですよ。
好きでも100%好きってことはまずないし、
嫌いでも100%嫌いってことはまずないんですよね。
ここに絶対アンビバレントがあって、
そのアンビバレントがある分だけ手放せない何かってものがきっとあるんですよね。
最終的にはこれを私は何らかの形で手放してもらわなければならなくなるような気がするんですよ。
どっかで自信ってものを持たないと自分で決めるってことはできないし、
自分で決めることができないってことは掃除も料理も全部滞らざるを得ないわけじゃないですか。
何かを捨てるってなって、自分の決定ですもんね。
自分の決定に自信がなければ捨てられないですよね。
だからそれに対して断捨離しましょうっていうのは、
実はそこにはコミュニケーションの疎後があると思うんですよ。
これが冒頭に言ったやつですよね。
玄米を食べてもコロナは治んないんですっていうのは当然なんですよ。
そういうのはクレームとすら言えないものだと私は思うんだけれども、
これが意外と断捨離って言われたって捨てられないんですっていう時には何か、
意味があるやり取りをしているように感じてしまうんですよね。
そこのズレっていうものを、
この番組で伝えている通りだし、
また大々的に伝えていければいいかなと、
15日にも伝えていければいいかなというふうにこれは言ったんですけどね、
思ってます。