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2023-12-13 43:48

いつやめたかの記録を取るとタスクシュートになる【GMV901】

タスクシュートは作業にふさわしい時間と場所を明らかにする。

サマリー

タスクシュートとGTDの組み合わせによる効果を考察しています。多くの方々にとって、毎日の方がはるかにやりやすいと感じられるでしょう。マインドフルネスやタスクシュートの実践方法への抵抗感もあるかもしれませんが、それは実践すること自体に抵抗があるからであり、方法論自体に問題はないと考えられます。場所も重要で、プライベートな状況下で話すことができる場所が必要です。タスクシュートは、精神分析においていつ辞めたかの時刻を記録するツールであり、タスクの開始と終了が同時刻であることが望ましいです。GTDを始める際には、完了条件を明記するよりも、タスクの終了時刻を意識することが重要です。タスクの終了時刻を記録することで、自分を見失わず、現実に向き合うことができます。タスクシュートを使って自分を上空から見つめるのではなく、タスクシュートを見ることでリフレクションが得られるのです。

タスクシュートとGTD
おはようございます。グッドモーニングボイスです。
12月12日、こういうのゾロ目って言うんですかね、の朝4時43分、あとは雨がひとひとと降っておりまして、非常に暗いですね。
気がめいりそうな天気で、しかしこれはですね、多分これを聞いている皆さんには、あって感じになってますよ。
これ、皆さんにとっては多分、昨日の話になる。1日分のストックができるという、非常にこう、我ながら今日はよく頑張ってんだと。
昨日の夜、撮っておいたからできてるんですけど、これは明日の朝に、つまりこれを皆さんが聞いているときにはですね、昨日の朝に撮ったという収録になってます。
今日はグダグダモードでいきたいと思っているんですね。
だからもうお知らせとかも。
なしで、いきなり本題に入るんですけど、ちょっとここのところ、ずっと考えていたことがですね、いろいろこう、まとまってきまして、ずっとやってきた活動がいろいろまとまっているのは、J松崎との活動なんですけれども、それとは全然関係なくですね、僕の中でずっと考えていることがありまして、それがようやくまとまってきて、昨日、だから一昨日になるのかな、この番組からすると。
たまたまノートに一つ記事があげられて。
それはやっぱり僕の現在の活動の一つの方向性だな、間違いないなっていうのが上がってきたんですよね。
続けられるかどうかは分からないんですけどね、昔に比べると続けるということについての情熱が薄いなっていうのはあるんで、でもこれを続けていかなければなと思っているんですよね。
いくつか、自分なりに方向性といいますか、やっていることがありまして、
まあ、そうですね、それなりに形になってきたのかなと思いますね。
もう50ですからね、なんかこう、一つぐらいはそれなりに形にせねばっていうのもあるわけですけれども、それは、でもサイドメニューみたいな話ですけど。
で、ぐだぐだモードなんでぐだぐだ喋ってますが、
要はでも、割と結論らしきものが今日ははっきりとあるんですよ。
というのはですね、まず一つには、だからなんでぐだぐだになるかというと、
全てが並行して頭の中にあるからなんですが、タスクシュートとGTDっていうのは僕の中に一つのちょっとしたテーマとしてあるんですね。
そんなに重視してないんですけど、あることはあるんですよ。
で、私GTDっていうのは、
アメリカでやったんですね。
だから結構本格的にやったという感覚があって、
本格的に全然良くなかったんだけど、
2003年ぐらいかな、
英語で読んで、
43フォルダーズの机というものを買ったりしたんですよ。
なんかやっぱり僕ってこういうことをやっちゃうんでね、
そこまでやるなよって感じなんだけどね。
あの机今どうなったんだろうな、
廃棄処分したんだと思うんですけど、
廃棄処分をしてする手続きは踏んできたんですけど、
アメリカって国はですね、
手続きが信用ならないんですよね。
手続きしても放置されたり平気でするんで、
放置されても国がでかいんで、
あんまもう問題にならないんですよね、
変な話なんですけれども。
どうなったんでしょうね。
でももう20年ぐらい前だから廃棄されたに違いないと信じよう。
まあまあそんなことがあったわけですよ。
で、その43フォルダーズの机はいいんだけど、
そのGTDをやって、
その後でタスクシュートをやって、
もう僕の効果の程は圧倒的に後者だったんですけど、
今思えばですね、
この2つを、
当時はそんなこと考えられませんからね。
今思えばこの2つはですね、
横に並ばないんですよね、
そうは言っても。
僕の考えではね。
タスクシュートっていうのは競技場なんですよ。
この話2度目ぐらいなのかな。
で、GTDっていうのは競技なんですよ。
まあこれは一般的に言って仕事術メソッドなりなるものは、
原則競技なんですよ。
でもタスクシュートの特殊なところは、
これは競技場として機能してる部分が大きいんですね。
言うならば、
東京ドームと野球を比べちゃいけないってことなんですよ。
東京ドームとサッカーを比べちゃいけないってことかな。
東京ドームとカシマントラーズどっちが上かっていう議論って、
成り立たないじゃないですか。
それは意味のない話をしている感じなんだけど、
特にね、サッカー場広いんで、
サッカー場で野球をやらないと、
サッカー場広いんで、サッカー場で野球をやらないと、
サッカー場で野球をやらないと、 野球をやれるんですよね。
この僕の中で今、
タスクシュートの中でGTDをやるってのは、
こういう意味を意味しているんです。
ま、全くこの通りなんですよ。
ほぼまんまなんですね。
あの、確かなんですけど、
前回の野球の欧州でやった、
あれオリンピックだったのか何なのか、
ちょっと、でもロンドンオリンピックか何かだったと思うんですけどね。
えっと、イギリスで野球やったんですよね。
確かそう覚え、記憶しております。
で、イギリスには野球場がないんですね。
で、サッカーは盛んな国でしょ。
だからサッカー場で野球やってましたよね。
あれでもできちゃいますよね。
ちゃんと区切ったり仕切ったりすれば。
形変ですけどね、ちょっとね。
できることはできるんですよ。
だから、えっと、サッカー場で野球をやると。
タスクシュートでGTDをやるってのは、
こういう意味に、僕の中ではなるんですね。
そしてそうすれば、
多分GTD相当うまくいくんではないかっていうのが、
私のこう、考えには。
考えにあるんですよ。
僕はGTD、もうマニュアルな放送がちょっと違うんだけど、
GTDなり、いわゆるフランクリンプランなり、
あれもちょっと若干違うか。
でもまあ、ポモ泥テクニックなんかは、
割とシンプルなテクニックですけどね。
その他、バレットジャーナルなんかも、
まあある意味ではそうで、
その他にもいくつか方法論っていうのが、
あんまり多くないんですけどね、実はね。
ほとんどGTDだったりするんだけど。
えっと、いうものは。
タスクシュートの中でやると、
効果出るんじゃないかっていうのが、
非常にこう、やりやすくなるんではないかと。
それはタスクシュートを、
協会の理事だから言ってるようにしか聞こえないと思うんですよ。
それでいいんですけど。
全然それでいいんですけど。
あの、私の考えでは少し違ってですね。
えっと、これはつまり、
場がないのがことをややこしくしているんだと思っておるんですね。
で、というのはつまり、
GTD、タスクシュート自体もそうなんです。
競技としてのタスクシュートもあるんですけど。
競技としてのタスクシュートもあるんですけど。
競技としてのタスクシュートもあるんですけど。
だから、タスクシュートの中でタスクシュートやる。
これは東京ドームで野球やるみたいな感じでね。
これが一番しっくりくると思うんだけど。
タスクシュートでの1日3分メソッドについて
例えば、僕の感じではですね。
J.Matsuzakiさんが最近100日チャレンジで考案された、
1日3分メソッドは非常に微妙なラインだなと思うんですよ。
これがタスクシュートだろうかみたいなところあるんだけど。
これをタスクシュートでやる限り、
タスクシュートだとは確実に言えると思うんですよね。
そこが微妙なんですよね。
なんていうんですかね。
三角ベースを東京ドームでやるみたいなね。
それはちょっとあれでしょうって感じはするけど。
でも、非常にきっちりやれますよね。
そうすれば。
こんな感じがしますね。
三角ベースを東京ドームでやる感じ。
これがタスクシュートで1日3分メソッドをやる感じなんですね。
で、私の中ではね。
で、GTDというのは、
というか、タスクシュートの中でやることになると、
何が一番変わるかというと、
いつ、どこでGTDをやるのかっていうのは、
いつ、どこで始めて、いつ、終わったのかが定義できるんですね。
これが、たぶんGTDそのものにはない感じがするんですよ。
GTDっていうのは、
いつ、どこで始めて、いつ、終わったのかが分からない。
で、そんなこと大事かって言われるかもしれませんが、
私はこれが、ものすごく大事だと思っているんですね。
最近、精神分析やってるせいで、特にそう思うようになったんですね。
メソッドというのは、
いつ、どこで始めて、いつ、終わったのかが、
いつ、どこで終わったのかが、
定義しているべきである、というふうに考えるんですね、私は。
これは、ホモ道路ですらそうだと思うんですよ。
いつ、どこで始めて、いつ、どこで終わったのかというのが、
定義されて、曖昧になってしまう。
あのまんまやると、たぶん。
いいじゃん、それでって思われると思うし、別にいいんですけど、
じゃあ、それ、何で挫折すると思いますかっていうと、
GTDの挫折と再開の難しさ
僕はですね、いつ、どこで終わったかが、
認識できていないから、挫折するんだと思うんですね。
特にGTDはそうで、あれ、書き出し、気になることを書き出すところから、
洗い出しという方法も、非常に僕は考えさせられるところが多々あって、
すごい難しいやり方だなと思うんだけれども、
とりあえず、そのことは一旦置いときましょう。
それは、やろうと思いもできる感じはするんだけど、
いつ、どこで始めたのかっていうのが、大事だと思うんですよ。
で、GTDで挫折している人がよく言うのが、
洗い出した記憶だけはあるっていうことを言うんですね。
再開した記憶がどこにもないわけですよ。
だから、挫折してしまう。
僕はあれは、難しくて挫折するのではなく、
再開するタイミングというものが、あまりにも自由すぎるから、
一旦忘れてしまうと、それを再開するメリットの、
なんていうんですかね、リマインドが働かなくなるんだろうなって感じを抱くんです。
普通にやる人にとっては、そうだと思うんですよ。
タスクシュートとか、
それこそ認定トレーナーとかの方とかね、
GTDでも、アンバサダーとかいらっしゃるじゃないですか。
ああいう方にとっては、毎日やるのが自明だってところがあると思うんですよ。
あるいは、仕事の時、これを思い出すのは当然だというのがあると思うんですよ。
でも、これが全然当然じゃないはずなんですね。
だって、それまでやってなかったことを、今日からやるようにしたからといって、
明日も明後日も、その次の日もですね、
そのリストを見るかっていうと、僕は見ないだろうなと思うんですよ。
うん。
だから、一般の方を見ていても、買った手帳のことを忘れるのは、
一般的に、普通によく見かけるわけですよね。
タスクシュートと日めくりカレンダー
ほぼ日手帳なんて、毎日つけることになってるけど、あれ、毎日つけるしかないですよ、逆に。
あれ、多分つけるのを忘れると、何日分もたまらない、日めくりカレンダーみたいになっちゃいますよね。
日めくりカレンダーというのは、朝必ずめくるという前提で日めくりカレンダーなわけですよ。
でも、普通の人、多分そうじゃないんですよね。
私、
近所にお蕎麦屋さんがあって、1月4日から動いていない日めくりカレンダーって、そのお蕎麦屋さん、いつも1月4日から日めくりカレンダー動いてないですよ。
で、4日はなぜあるかっていうと、4日には店を絶対に開けて、野菜やるのっていう意識がある。
1月1日とかって、そうやってやってないから、あと、いわゆる31時までやるお仕事じゃないですか。
3日にし休むんですよ、昔はね。
だから、4日はあるわけですよ。
ここから動いてないんですよ。
これが日めくりカレンダーによく起こる現象なんですよね。
だから、デジタルって素晴らしいわけですよ。
この点を、我々は結構甘く見てるんですよね。
きっちりしてる人はやるんだけど、それはつまり、アップデートをするって意味なんですけど。
だから、僕は、GTDには週次レビューというアップデートの仕組みが最初から備わってるんだけど、週1回っていうのはいかにも無理があるんですよね、実は。
ほとんどの人にとっては、毎日のほうがはるかにやってられるだろうなという感じがします。
週に1回日めくりカレンダーをやる。
週に1回日めくりカレンダーをやる。
週に1回日めくりカレンダーをやる。
週に1回日めくりカレンダーを7日分めくるんでは、とてもやってられすぎですよ。
すぐやるなってしまう。何のためにそんなことやってるんだろうと、めくる労力ばかりがかかってね。
そんな感じがすると思うんですね。
で、タスクシュートのいいところというか、ある意味よく批判されるところもあるんですけれども、
ここに批判するのは、一番僕はタスクシュートに対する批判として、実は当たってるんだけど遠い、一番遠い批判だと思うのが、
つまり、いつもつけてなければいけない方。
この方法はめんどくさすぎますという話。
僕はまさにそれこそがタスクシュートだと思うんですね。
いつもやってなければいけない方法はやっていられません。
これは欠点ですって言われるんだけど、いつもやることがタスクシュートなのですっていうのが答えなんですね。
これはあれですよ。
マインドフルネスと瞑想
マインドフルネス瞑想法でも何でもいいんですけど、いわゆる瞑想の理論というのは、
実は瞑想するときだけやってちゃダメなんですよ。
一日中瞑想してなければ。
いけないわけですね、本当は。
これに対して、一日中瞑想してるなんてとんでもないですって言ったら、
もはやマインドフルネスってとんでもないですってことになっちゃうんですよ。
マインドフルというものの定義なんですよね。
マインドフルにしておくのがいいことですってのがマインドフルネスじゃないですか。
すいません。
ということは、マインドフルにいつもしてなきゃいけないなんてとんでもないことです。
私はマインドレスの状態で普段は生きていきたいんですっていう議論。
抵抗は、それはマインドフルは良くないって言ってるわけですよ。
あるいはマインドフルなんて無理だって言ってるわけですよ。
そしたらもうマインドフルネスがいいですって話にはならない。
我慢したり、努力してでもマインドフルの状態を維持しているのが幸せなんだと。
マインドが拡散している状態というのは本当は良くないんだ、辛いんだっていうのを受け入れないのに、
マインドフルネスだけやるってことはできないわけじゃないですか。
何ですかね。
そうだな。
えーと、血糖値すごい高めの方が、いや、いやいや、血圧すごい高めの方が、
いつも測るなんてめんどくさすぎますっていうのと限りなく近いんですよ。
いや、これいつも測らなければどうにもならないんですっていう、
血圧を下げるってことが意味があるんですってことなんだけど、
血圧を知るってのがめんどくさいんですって話になったら、
もうほぼほぼ一番確かに正しいですよ、それは。
知るの嫌なんだよねっていうのは正しい、確かに。
高いの知るなんて、まっぴらごめんだ、確かに。
高いのが嫌なわけだ。
マインドフルもそうなんですよ。
いつもマインドレスで拡散しちゃってる私が、
マインドフルになるのは大変なんですと、
四六時中それやるなんてごめんですって、確かなんだけど、
ということはマインドフルはやらないってことになるわけですよ。
タスクシュートも全く同じなんですよ。
タスクシュートとマインドフルネス
この議論はタスクシュートにだけは、
えーと、なんかちょっと横から登場してきたようなんだけど、
タスクシュートの最大のポイントはここにあるんです。
過去を振り返るとか、
未来からに目標を置くとかはやってもいいんですけれども、
二次的なものであって、
最大のポイントはいつもやってるってことにあるわけなので、
これをいつもやらないということになるんであればですね、
週に一回やるなんてもう絶対無理じゃないですか。
週に一回、じゃああなたは7日前のこの食事の時間は何時にスタートしたでしょうと、
分かるはずがないですよね。
それをまとめでつけるということは、
論理的にありえない、原理的にありえない。
1日分でも全然無理。
だから結局は、四六時中見てると、
この四六時中見るのダメなんですよねという議論がここで起こるわけですね。
これはまさにですね、
えーと、私はマインドフルではいられませんという話が、
えーと、批判にすり替わってるに過ぎないわけです。
で、もちろんそのお気持ちはよく分かるんですよ。
これを達成できるんだったら、いらないんですよ、逆に言うと。
ここが面白いところなんですよね。
マインドフルもそうなんですよ。
これを、
これを達成できるんだったら、
そもそもマインドフルネスを人に習う必要はなくなるんですね。
だったら別にそんなの自分でやりますよって、
簡単に言うのかもしれないんですけれども、
僕はマインドフルネスの、
えーと、多分教えてる人はみんな同じことを言うだろうなと。
あなた一人では多分無理だと。
えーと、そう、ここで抵抗を起こす人に、
マインドフルを常時維持するのは、
多分極めて難しい。
それは環境を含めてなんですね。
そのようなことが自然に、
起こらない環境に生きていらっしゃるからこそ、
ここでマインドフルネスが有効なんですよ。
いや、普通に禅寺に住んでてね、
生まれた時から家禅寺で、
周りシーンとしていてですね、
いつも気がついたらマインドフルネスでしたみたいな人はですね、
この言い方おかしいんだけど、
気がついたらマインドフルネスはおかしいんだけど、
絶したいみたいな人がマインドフルネス瞑想法を習いに行く、
ジョン・カーバトジンの弟子になるより、
全然ないじゃないですか。
という話なんですよ、これは。
多分、
先日面白い話を、
グッドバイオスの倉野健三さんに聞いたんですけど、
ある方が、
頭の中が、
ドンキホーテみたいであってはダメ。
ドンキホーテって、
お店、
僕はちょっと違うものを、
ドンキホーテは、
スペインの古事の話か、
思ったんですけど、
そうではなくて、
お店のドンキホーテ、
僕はあれ入ったことが、
実はなくて、
中がどういう状態なのかを知らないときてるんで、
この例え話の意味が、
正確、
特に分かってないんですけれども、
ドンキホーテの音楽が、
頭の中を流れているようじゃダメなんだ、
という話をしていたと。
そういうことなんだと、
僕は思うんですよね。
家のなり、
自分の生活環境が、
ドンキホーテみたいな状態にあるのに、
あるときに、
マインドフルネスやれって言われても、
辛いと思うんですよ。
だけど、
だからこそやる意味があるわけで、
いや、そんな四六時中マインドフルネスなんて、
とんでもないです。
言うってことは、
頭の中とか心の中は、
別にドンキホーテでいいんですよ、
っていう話なんですよ。
だったら、
それはそれでもいいんでしょう。
ただ、
この場合の意見というのは、
タスクシュートなり、
マインドフルネスなり、
への批判にはならない、
と僕は思うんですよね。
それは、
その方法論が面倒くさいというのが問題なんじゃなくて、
実践することに抵抗があるということが、
問題視されている実践方法なのですよ、
ということです。
しょうがないんですよ、
これは。
他の方法、
どの方法をとっても同じことになると思うんですよね。
GTDでも近いところを目指していたわけじゃないですか。
水のように澄んだ心って言うんですよね。
武道家の心構えと。
武道家がその心構えで本当にやってんのかどうかっていうのは、
すごく日本的な発想にも聞こえるんだけども、
面白いことにですね、
GTDのデビッド・アレンさんは日本人ではないので、
その、
この話の中で、
やっぱり僕が思うのは、
それをいつやるんだってことなんですよね。
で、
どこでやるんだっていうのもものすごく大事だなって思うんですよ。
実は。
だって、
さっきの話がそうですよね。
マインドフルネス瞑想法をドン・キホーテのお店の中でやらないでしょ。
多分やらない。
やるのにいい場所だとは思えない。
ドン・キホーテでもできる人は、
偉い人だと思うんだけど、
まずドン・キホーテでやりましょうとは絶対言わないと思うんですよ。
これは僕はGTDに、
おいて非常に重要なことがなぜか落ちているっていうふうにいつも思ってるんですよ。
いつどこでやる。
非常にあれは大事な話だと。
で、
もう一歩先まで行きたいんですよね。
実はですね、
タスクシュートの、
僕は何が正しいタスクシュートってあるのかっていう議論を、
このところなぜかなんか、
そういうものに直面するんですけど、
ないとは思うんだけど、
僕に言わせると、
タスクシュートというのは、
タスクシュートのツールなり、
今度手帳できるんですけどね、
なりを使ってやってる限りは、
それはタスクシュートであると思ってるんですよ。
だから競技場なんですよ。
精神分析における場所の重要性
そこでやるってことが大事ってことなんですよね。
これは精神分析の考えに、
なぜか接近するんですよね。
精神分析でも繰り返し言われてますよね。
本当なのか、それって議論もなくはないんだけど、
場が大事。
でも私は大事だと思うんですよね、やっぱりね。
どこでやるの?って話なんですよ。
これ本当に難しい部分を含んでいて、
密室で2社でやるのが精神分析なんですよね、やっぱり。
でもこれ、ある意味当たり前じゃないですか。
人に聞かれちゃ嫌な話するわけじゃないですか。
だからプライベートルームってものが必須ですよね。
でもプライベートルームに、
なりっきりで入れるかって問題はあるわけですよ。
はっきり言ってね。
二重にあります。
二重の話になぜかになってるけど、
一つはやっぱり患者さんのために。
本当はそういうことがあっては絶対ダメなんだけど、
でも世の中にありますよね。なくはない。
お医者さんに、なんか嫌なことをされたとか、
もっと言っていくと、
お医者さんに、
身の危険を感じるようなことをされたとか、
ないわけじゃない。
だから、プライベートでなければできない話をプライする場はどこにあるのかって話は、
実は、
非常に難しい問題があるんですね。
当然逆もあります。
現にありましたよね。
お医者さんの方が身の危険を感じる。
ありますよ、それは。
絶対に。
だから、プライベートな空間ってものを確保し、
しかもそこは誰にも知られていないという事態は、
難しいわけですよね。
双方の信頼関係がよほど高くなければ、
ある意味成り立たない。
でも、
プライベートでね、
なければできない話はしなければならない。
なかなか濃密な話をインテンシブにするのにですね、
そんなオープンな喫茶とかで果たしてできるのかと。
やっていて、
その人たちはやってる気に、
なんていうのかな、
喋ってるつもりになってるかもしれないけど、
なお十分に言い切れているのだろうかっていう問題は残る。
でも、オープンでないところはあまりにも危険すぎるっていう問題も同時に残るわけですね。
だから、どこでやるかっていうのは、
非常に重要で、
よくそれこそ藤山直樹さんなんかの書かれてるんですけど、
場が、精神分析家が癒やしたり治したりはしない。
場が、場と設定がするんだっていうのは、
私はものすごく納得がいくんですね。
やっぱ僕は、
ここは多分自分が寺育ちだったっていうのがあって、
間違いなくあって、
うちの父が似たりようなことを言っていたことがあるんですよね。
あなたがね、
こういうふうに生活が整ったり、
幸せになれたり、
病気が治ったりするのは、
私の力によるものないから。
仏様のとかって言うんだけれども、
お寺に来なさいと。
これがね、私には子供の時にナンセンスにしか聞こえなかったんですけど、
効果が十分に出てくるっていうのは、
何度も何度も何度もぐらいでは済まなくて、
何百回も目にしてきているんですよね。
だから、
この寺に来いっていう、
何の意味もないように、
聞こえるんだけど、
どこで、
すごい重要なものがあるんだよなと、
言うんです。
で、場に力があるという話にすぐなっちゃうじゃないですか。
パワースポットみたいな。
あれがですね、
私には全然受け入れられないんですね。
そういうことではない気がするんですよ。
そういう、
あそこに住んでいると思うんですよね。
そういうことではない気がするんですよ。
その、なんかね、
パワースポットとか言い出すと、
そこに物理的な力でも働いているみたいになっちゃうじゃないですか。
でも、僕は自分にはあんまり働かなかったなって思うんですよ。
なぜなら信じてないから。
この、非常に精神的なっていうのかな、
非常に心理的なところがあってですね、
信じやすくする場というものは、
場の設定や条件はあるのかもしれないけど、
信じていない場合、
そこには何も働かないという、
そういうところでもあるんですね。
だから、
気が人を落ち着かせるとかいう話では、
全然ない気がするんですよ。
まあ、でも気なんですけどね。
テラーはね。
で、私が思うのは、
どこでいつやるかは超大事で、
タスクシュートはこれを規定していくツールなんですね。
まず、どこでいつっていうのははっきりさせますよね。
いつ始まったのかを書けって言ってるんですから。
時刻を。
で、やっていると分かるんですけど、
これはやりやすい場ってものがあるんだっていうのに気づいていくんですよ。
私はだから、時間の区切りとしてのセクションっていうのが実は、
あれは、
時間なんだけれども、
人は時空というものを、
生き方のセットの中に組み込んでるんで、
だから、いつどこで始めるというのは、
この作業をするならば、
いつどこがふさわしいというのを人は知ってるんですよ。
知らない場合は、
その作業は大変やりにくくなるので、
それを明らかにしていくっていうのも、
あのタスクシュートという構造の中に組み込まれているんですよ。
だから、進むようになっていくんですよ。
使ってれば、黙っていて、
というふうに私は言いたくなるんだけども、
なかなかそうはならないという話も出てくるから、
しょうがないから、こう使いましょうとか、
あれ使いましょうとか言うんだけど、
大体僕はそれは言ってて、
余計なこと言ってるなって感じはするんですよね。
僕は、
彼は言わないですけどね。
創始者の大橋越夫は偉大だっていつも思ってるんですよ。
こういうことを彼は無意識に知っていたに違いないって、
どっかで僕は思っているんですね。
あの構造をああいうふうにしていったからにはですね、
意識の上ではそこまで意識してなかったことはいっぱいあると思いますが、
絶対彼はポータルでの大橋越夫はこれを知ってたと僕は思っているんですよ。
だから、GTDというのはですね、
不意に始まってしまって、
気が付いたらやめてしまっているようなケースがとっても多いと思うんですよね。
あれに軸を与えれば、
おそらく全然違う展開になっていく人は、
結構いらっしゃるんじゃないかなと思うんですね。
だから僕は、
こう原理的にいつかやりたいことはできないって思ってるんですよ。
いつかやりたいことには場と時間がないんですよ。
いつかやりたいことというのは、
日時の規定ができず、
タスクシュートに入れるとなると日時の規定入っちゃうじゃないですか。
これタスクシュートユーザーにしか伝わらないかもしれませんけど、
いつかってもの入れられないじゃないですか。
時間外っていう場所を作って入れるしかないんですけど、
そこはもう僕はタスクシュートじゃないと思ってるんで、
時間外には時間がない以上、場所がないと、
場所もないんですよ。
人間の社会は一応時空を与えましたから、
例えばロサンゼルスは今何時と決まってるわけですよ。
タスクシュートとは何か
時間が決まる以上、場所も決まるはずなんですね。
それを実行するならば。
だから時間外、いつだかわからない、
いつかってサムデイってやつは、
場所も決まらないですよ。
このようにどこでいつやるかが決まらないものは、
決して実行されない気が私はするんです。
だから僕はサムデイリストというものは、
ゴミ箱みたいになってしまうと思う。
ゴミ箱って象徴的じゃないですか。
なんとなくゴミ箱って時空が定まってない感じがするじゃないですか。
これを相手にしないよって言ってるからです。
だから私は清掃って作業は非常に尊いと思うんですけれども、
時空が定まっていないものっていうのは、
この世には本当はないんですけど、
人間の社会には。
でも人間の社会じゃないところにはあるんですよ。
よく蔵園さんがおっしゃる通り、
時間は人間が決めたものなんで、
時間と番中は人間が決めたものなんで、
本当はそこになかったものなんです。
仮に作り出したものですからね。
私は、何て言うんですかね。
ここは現実主義ではないんだよな。
現実原則に則ると。
いきなり精神分析のまた言葉を使ってるんですけど、
要するに現実の検討ができていない時というのは、
私たちは快楽原則というものに沿って生きているんだけど、
私たちは快楽原則というものに沿って生きているんだけど、
私たちは快楽原則というものに沿って生きているんだけど、
ここに軸を与えると、
現実原則に乗ることになるんです。
社会原則でもいいんですけど。
だから社会活動はここでは進みやすいと思うんですね。
タスクシュートに乗っけると進みやすい。
で、大抵の場合GTDも仕事術として使われるんで、
だったらやっぱりこれは場を与えなければならないだろうと。
で、究極的に最初の、
途中の話に戻るんですけどね。
タスクシュートの正しい使い方は何かって問われたらですね。
タスクシュートの正しい使い方は何かって問われたらですね。
私は今ならば、
いつ辞めたかの時刻を記載することっていうふうに答えるようにします。
タスクシュートにおいては、
何かを辞めたら何かを始まるってことなんですし、
開始終了って実は1個でよくて、
2個あるというのはですね、
見えやすさを重視してるに過ぎないですね。
あるいはタスクシュートの初心者って言ったらいいのかな。
マスター的になっていくと、
開始と終了は同時刻であるはずなので、
ここが非常にきついなって、
感じられるかもしれませんけど、
ここは単なる事実という意味でしかありませんからね。
終了予定、終了時刻は開始時刻なんですよ。
今やっていたタスクが終わった時間は、
次の何かを始める時刻に一致するはずなんですよ。
だから間を空けないと。
開始と終了の重要性
これがストイックだっていう話になっちゃうんでね。
これとストイシズムは何の関係もないんですけれどもね。
さっきも言った通り、
人間は時空を定めてしまったので、
何かある場所に生息してしまえば、
そこの時刻と空間は名前がついているっていう話にすぎません。
これはね、本当は。
で、この大事なのは終わった時間なんです。
よくGTDを始めとする仕事術で、
完了条件を明記しなさいって言うんじゃないですか。
僕はあれは全然無理だっていつも思うんですよ。
完了条件ね。
それはまあ、あるでしょうけれども、
名称としては。
完了要件でもいいんですけど、
実際にはそうはいかないって思うんですよね。
ある意味、終わりゃしない。
例えば今、Jさんと本書いているやつも、
構成作業ってありますよね。
それは終わりは来ますよ。
いずれ絶対にね。
でも終わりゃしないんですよね。
あのある方が言ってました。
この方、新聞記者で、大手の新聞の記者で、
えっと、なくならないんですよ。
構成の間違いなんてのはって言ったんで。
構成ですからね。編集とは言っても、
5字とか、雑字とかに相当するものは、
新聞記者ってめっちゃハードル高いじゃないですか。
あれ、毎日何万文字ってあって、
しかも毎日出しちゃうじゃないですか。
絶対訂正って出てくるわけですよ。
でも、そういう能力の高い人が、
実はいつまでやっても、
間違いもゼロにはできないんだって言ってるわけですよ。
すごいなって僕は思ったことがあるんですよ。
すなわち、タスクの完了要件というものは、
定義上はあっても、実現はしないと、
もう打ち切るしかないんですよ、我々は。
この時間何時ですかってことですね。
いつやめましたかってことですよ。
タスクの完了要件を明記するのは大事なんでしょうけど、
僕はそれよりはるかに大事というか、
現実的に重要になってくるのは、
タスクの終了時刻なんですね。
終了させた時刻を、なんか、
だから僕は見積もり時間というものは、
そういうもんだと思うんですよ。
えっと、この時間に終わるだろうではなくて、
この時間にやめるだろうな時間なんですね。
そうじゃないと、あそこの時刻には、
ほとんど意味がなくなってしまうと思うんですよ。
自分を見失わないことの重要性
原稿書いていて、いつぐらいに終わるか、
そんなことは分からないです。
いつぐらいにやめるかは、まあ、多少は分かる。
少なくとも、いつぐらいにやめなきゃいけないっていうのは分かる。
この時刻を突破するのは、
許されないという条件っていっぱいありますからね。
だから、この辺でやめなきゃいけない。
やめたくなくても、やめたくても、
やめなきゃいけない時刻って決まっていて、で、逆に、
えっと、あれなんですよ。
最低でもこれぐらいはしたいなって時刻もあるわけじゃないですか。
例えば、お風呂だったら、
まあ、最低でも30〜40分入ってたいなとか知りませんけど、
人によりますからね、こういうのはね。
でも、あるじゃないですか。
その人、その人にとっての、
えっと、最低でもこれぐらいはしていたい時間。
これが見積もり時間であって、
えっと、終わる時間じゃないですよ。
終える時間なんだと思う。
そして、実際には、その見積もりが守れてるかどうかは、
ほぼどうでもいいんですよ。
大事なのは、いつやめたかということなんですね。
ここでも、さっきのと実によく似た批判が起こるんですよ。
いや、それを忘れるんですよ。
ここにある批判も、さっきのと全く同じで批判になってないんですね。
いや、忘れるから思い出してくださいっていうことなんです。
忘れるんですよって言う。
忘れないんだったら、タスクシュートはいらないんです。
忘れるからこそ、タスクシュートがいるんですよ。
忘れるんですよと。
人によっては、
ここでね、過集中って言葉が出てくるんですね。
集中に顔つけるのはやめましょうと言いたくなるんだけど、
まあとにかく、過集中ならなおのことです。
いつやめたか。
過集中だってやめないわけじゃないんだ。
大事なのは、えっと、いつまでもやってたらいけないとか、
そういう話では全くないんですね。
いつやめたかが大事。
いつかはやめてるんでね。
集中だろうと、何集中だろうと。
いつかはやめてるんで。
永遠にやることはできないはずなんで。
漫画を読む一つとったってそうじゃないですか。
漫画を読みながら50年経ってお亡くなりになりましたということは起こらないわけですよ。
どこかでやめてる。
絶対やめてる。
だからやめた時刻をやめた時に期待しましょうと。
で、なんでそんなことをするのってことになってしまうじゃないですか。
大勢になってしまいますよね。
なんでなのか。
私にも完全な形では答えられないんですよ、まだ。
ただGTDが思い出されたんです、この時。
あれは一体いつやめることになるんだと。
あれやめますよね。
絶対あれはやめると思うんですね。
タスクシュートとは違う。
あそこに気になること、睡眠なんていう人は滅多にいないと思うんで、
寝る時には絶対やめてますから、GTDは。
やめた瞬間があるはずです。
現実と自分の認識の重要性
やめたかとか、やめた瞬間があるからこそ、再開することができるんですよ。
こう、GTDってのはタスクシュートとは違って、
場と時間に関する構造を与えてないので、
絶対にあれはメソッドのはずなんですね。
それでいいはずなんですよ。
だから、いつ始めて、いつ終えたか。
どこで始めて、どこでやめたかっていうのが絶対あるはずなんです。
多くの場合、仕事術として、会社員の人が会社で不時に始めて、
終業とともに終えるっていうのが理想的な形なんだと思うんですよね。
一つのね。
これタスクシュートの中に記録できますよね。
これをやるべきだろうと、私は思うんですね。
ここでGTDは始まり、ここでGTDを終えたと。
やめたと。
で、また翌日。
ここでGTDを。
再開し、ここでやめたと。
こうすることを記録する。
記録してですね。
記録することによって、というか記録するためには、
思い出さなければいけません。
私は昨日も散々言いましたし、
今日はここの部分を再度調べることはしませんけれども、
だから自分というものが、なんていうんですかね。
自分がある状態というのが返ってくるはずだと。
GTDと一緒にGTDを始めましたけれども、洗い出したところから記憶がありませんと。
何かをやって、何かを忘れてしまって、そのまま再開することもありませんでした。
つまり、やめたという認識がないですという場合、その時私たちはある意味自分を見失っているはずなんですよね。
自分を見失わない必要があるというか、タスクシュート的に言うとね、自分ってものはすごく大事。
どこからどこまでが自分なのかというのが大事。
現実の社会の中ではですね、私は何を求められていて、私は何を求めているのかというのを思い出そうと思えば思い出せる。
つまり、無意識であっちゃいけないということです。
自分というのはもっと幅広いですよ、本当はね。
でも、社会の中においては、ここからここまでというのが漠然とあるはずなんですよ。
それが全くなくなると、多分被害妄想的になっていくと思うんですね。
というか、なっちゃうんですよ。
どうしてもそうなるしかないんで。
自分の領域というものが、社会の認識と大いにずれていればいるほどですね。
どうしてもその人は被害妄想的になって、言ってしまえば非常に恐ろしい世界というのか、非常に苦しい世界に住むことになってしまうはずなんですね。
ここのところは連日喋ってる話なんで、飛躍して聞こえるかもしれませんけど、今日はくどくどしくは喋りませんけれども、そうなるはずなんです。
まあでも、あれですよ。
ノートに書いた通りで。
通院して自分と現実性ものを見失うとですね、大好きな女子高生が恐ろしくなるんですよ。
東英男さんみたいに、女子高生さえ見てれば幸せになれるような人であってもですね、絵ばっかり可愛く描いてる人であっても、女子高生にホラーを見ちゃうんですよ。
現実と自分を見失うというのは、大変恐ろしいことになりやすいんですね。
本当は、この話くどくどしてますね、結局。
夜に夜道を歩いていて。
不安になるからお化けが見えるのであって、お化けがいるから怖くなるわけじゃないんじゃないですか。
これが現実というものですね。
現実にそこにあるのは、ススキの子なんですよ。
ススキの子は昼に見ても怖くも何ともないんですよ。
なぜならば、昼、自分は怖くなってないからなんですね。
夜、怖くなってススキの子の方に目を向けると、そこにお化けが出るんですね。
それは自分のやっていることなんだけど、すでに自分は見失われているので。
ただ、ひたすら恐怖というものを見失わない。
そこに眼前に現れて、めっちゃ怖いんですよ。
こういう世界に住まうことになってしまう。
脳を極力随時回避するというか、随時そういうお化けを見るのをやめる。
目を時々覚ます。
作業ごとに目を覚ますんですよ。
それがタスクシュートなのですね。
目を覚まさずにGTDに入って、そのまま夢を見てしまうと、どこかで、自分の目が覚まされてしまう。
目を覚まさずにGTDに入って、そのまま夢を見てしまうと、どこかで、自分の目が覚まされてしまう。
目を覚まさずにGTDに入って、そのまま夢を見てしまう。
見失い、自分がやっている作業も見失い。
俗に言う過集中なるものに入っても、寝て起きて、気がつくと、GTDをやっていた自分はどこかへ行ってしまう。
練習をすると、再会のめどが立たなくなってしまう。
このような事態を防ぐために、人間には生来は地球がそなわっていないです。
ですね、inging and mother.
特に時間というものはないのでですね
体色からあるわけじゃないので人間の
時間を認識する知覚屋ってないですよね
有名な言葉があるんですよ脳に時間屋はないという
脳に視覚屋とか聴覚屋はあるけど
時間屋というものはないわけですよ
だから私たちの心にとって少なくとも脳にとって
時間というものはもともと存在しないもの
時刻しかないんですこの世の中には
時刻しかないんでこれを記録するんですよ
時刻って私たち分かんないじゃないですか
時計を見ないと絶対分かんないです
パッと外見て時刻が8時45分とか絶対言えないですよ
普通の人にはつまり時刻ってのは脳の中にはないもの
なんですね知覚できないもの
あったとしてもおそらくないんですけど
だからこれはもう約束ごとでしかないので
現実原則に生きるということになればですね
書いていくよりも方法がないわけですね
見失いたくなければなんですけれども
タスクシュートとメタ認知
でこれをメタ認知っていうふうに言われるケースも
よくあるんだけど反対はしませんけれども
僕は全然そうではないと思ってます
これはメタ認知ではない
メタ的なものではないと僕は思うので
場の設定とか構造が何かを決めていき
少なくとも自分というものをそこに置いておいてくれるというのはですね
自分を上空から見つめるとかでは
全然ない私タスクシュートやってて自分が上空から見えることは一回もないです
比喩であったとしてもそれが非常に適切でない比喩のような感じがするんですよ
時刻を見ているだけなんですよ時刻を記録しているだけなんですね
そのタスクシュートを見るのであって私がね
そうすることでリフレクターを得る鏡を見る感じなんですよ
鏡とメタ認知は僕はやっぱり別物だと思うんですよ
認知心理学の中で鏡とメタ認知の絡みについてはね
メタ認知の絡みについての研究があるんだけど
読む限り納得できる説明が今のところないんですよね
鏡像をただ見て自分の肉体の形を認識するってだけじゃないじゃないですか
自分を認識するということは
自分が甘えているとかになってくると特にそうですよね
ススキの子にお化けを見るっていうのが自分がやってることなんだって
感じて考えるのはメタ認知ではないと思うんですよね
もっとこう
内側からの直感的な捉え方
内面からやってくる直感というか直角というか
そういうこう
なんかこう内側から捉えるって感じがあって
私確かにこれをやってるってのを捉えるって感じがあって
少なくともその方をよく見ると
つまりそこにはある種の覚悟みたいなものもいるし
単に上空から眺めてみたらほらいないよねって話では済まないし
そんなことはできないと思う上に
そんなことする必要もない気がするんですよ
現実をよく見ればお化けがそこにいないことに気づくって話であって
気づくってのはやっぱりこう
内側から直感的に出ていくものだと思うんですよね
気づかない限り上空からとかいう視点をいくら考えてみようとしても
多分そんな視点を考える余裕もなくなってしまうと思うんですよ
お化けが怖すぎて
そのお化けは比喩ですからね
実際にはそれが上司だったり激怒している配偶者さんだったり
別れようとしている恋人さんだったり
いずれにしても比喩なんですけれども
これをやっぱり上空から
夫婦喧嘩の時に上空から眺めることに
何かに役に立つかっていうと
多分僕は立たないと
そういうことではないような気がします
タスクシュートの欠点と取り戻すこと
とにかくいつ終わったかっていうのが
タスクシュートの肝かなと
さっきの上司に怒られるのでいいんですよ
今日終わったタイムっていうのがあるはずなんです
これを打刻できる
打刻って言ってて
言ってたりしたんですけどね
ということが
つまり自分を取り戻すっていう話に必ずつながっていく
その時自分が取り戻されてなければ
多分その終わった時間を記入することができなくなる
これを忘れてしまうのがタスクシュートの欠点ですってね
やっぱりおかしいじゃないですか
なんとなく筋違いですよね
そこで忘れないように努力するのがタスクシュートなんですって話ですね
マインドフルネスでもいいです
いいですけどね
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