1. 働くメンタルをとり戻す精神分析的ポッドキャスト
  2. 大事なものを失うと遅刻しやす..
2024-07-16 34:53

大事なものを失うと遅刻しやすくなる?【1019】

「発達障害」は難しすぎる。

サマリー

第1019回のエピソードでは、働く人のための精神分析チャットのお知らせや、HSPや発達障害などの言葉の広まり、鬱が増える背景について語られています。 お腹の周りがでかくなると遅刻しやすくなることが話題になっています。食べ物やアルコールの入手が容易になった現代では、依存症になりやすくなる心身の変化が起こります。そこで、健康法や治療法は時代に関係なく基本的に変わらないことが、仏教やマインドフルネス、グッドバイブスの観点から解説されます。 現実は嫌いだって言ってるわけですよ。現実というものをどこか高くは見積もれない、尊重する気になれないっていう気持ちが底辺にグッとあると、グッとあるんですよ。対象喪失が起こっていたら、私にとって大切なものは外にはもう失われてしまったんだと。 現実に対する喪失感が起きると、時間管理や注意散漫などの問題が発生しやすくなる。

お知らせとスケジュール調整
おはようございます。働く人のための精神分析チャット、第1019回をお送りします。
7月の16日、7時45分ですね。このタイミングで撮るのが3連休ぶりか。
おかげさまで3ヶ月チャレンジ、これももはや通称で正式名称は違うんですけど、めんどくさいので3チャレと申し上げますが、
3ヶ月チャレンジはおかげさまで第7期は満席となりました。今月の今後の募集はいたしませんので、ご了承ください。
もし長らく検討中であったという方がいらっしゃいましたら、私の方にXでもFacebookでもメールでも何でも、
ノキバウェーブという公式サイトが一応あるんですよ。佐々木商護公式サイト。こちらのコンタクトからでもお連絡はいただけますので、コンタクトいただければですね、
対応についてはスタッフさんと協議の上、検討させていただくといったことにいたします。
こういうことが今までなかったので、こうなってみて初めてここまで来たらどうすればいいのかちょっとよくわからなくてですね、
今から少しスケジュール等の調整を真剣にやらないといけないということが改めてわかりまして、やらないとダメでしょう、できなくなっちゃうじゃんということですね。
週に1回の、最大週2回のセッションを参加者さんと組ませていただいているんですよ。
それで私自身の空きは結構いっぱいあるんだけど、そうはいっても参加者さんに都合のいい時間帯って割と集中するじゃないですか、当たり前なんですけどね。
この当たり前の事実が今まではスルーして全然OKだったんですよ。
なぜならば人数が最大見積もっても7名いらっしゃらなければですね、週に1回どこかを取るというのが1日のどこであってもいいことになるわけですよ。
もちろん私の都合がどうしても取れない日っていうのはあるにせよ、調整すれば全然余裕だったんですけど、
これが11とかになってきますと、11名様とかになってきますとすごい大変ありがたいんだけど、やっぱ調整はいりますよね。
そうすると私の現在のスケジュール状況からして最大どこまでいけるのかというのは実はよくわからないです。
よくわからないということがわかったので、今後はそこら辺を考えていかないといけないなということと、
3ヶ月3ヶ月でこれは私1人でやるし、平行して第7期と8期を平行してやるということは原理的にできないやり方なので、
ここに上限が決まってくるんだなとは思ったんですけど、でも考えてみると平行してやろうと何しようと、
週に1回というセットを組む以上、同じものはできないんだなというのがわかってきたんですよ。
これも当たり前なんですけどね。
私が2人いればやれるんですよ。
でもこれもおかしな話なんで、フロイトは絶対そういうことを考えただろうなとか、
だから精神分析は教会と化していったのかなと思うんだけど、
あれですね、私最近思うんですよ。
知識が完全に共有されていたとして、訓練分析、この訓練分析がやっぱり大事なんだろうな、
訓練分析があったとしても、フェレンチーの分析を受けるのとフロイトの分析を受けるのは違うと思うんですよね。
アブラハムの分析を受けるんでも、ユングなんかは全然違うと思うんですよ。
精神分析教会にいた時のユングの場合だとしてもっていう意味ですね。
そんなわけで、私は第2の私を作るみたいな発想はやれる、やっぱりこれは機質なんだと思うんですよね。
フロイトよくやったよなって思いますね。
非常にこれやりにくいと思います。
ユングも、ユングはやれたか、ある程度やってますよね。
フロイトモデルに完全にしてますけどね。
アドラは事実上やってないんじゃないかっていう、だから僕はアドラ心理学ってみんな言ってるんじゃないかなって思うんですよ。
コフートは自己心理学とかいうのを開発しましたけど、今どうなんですかね。
自己心理学のカウンセリングってどの程度行われているんだろう。
わからないですけどね。
アメリカでってことですよ、これは。
当然行われてるだろうとは思うんだけど、組織化してそれを世界中に広めることってすごいなっていう、また全然違う意味でですね。
だって考えてみればナルシシズムが恒例ですけど、日本語になっちゃってるじゃないですか。
日本人だから当たり前なんですけどね。
ナルシシズムとかディプレッションとか、ディプレッションは英語だけど、
イーゴーとか言ってたものが自我とかですね、鬱とか考えてみればおかしいわけですよ。
それじゃ意味わかんなくなってしまうのは当たり前だと思うんですよね。
私本当にナルキスソツとナルシシズムと自己愛とナルシストは全然いちいち違いますけど、
そんなのも置いとくとしても、イーゴーだってドイツ語ではイッヒって書いてありましたからね。
イッヒは愛ですよね。
愛は英語って訳す必要ないし、自我でもある必要ないと思うんですよね。
私でいいじゃないですか。
なんであれが自我になっちゃったのかなって。
自我って我々あんまり言わないじゃないですか。
自我心理学とか自我がとかって言った時にはもうすでに何か特別な意味を背景に持っちゃってますよね。
そんなようなことをちょっと今日は考えながら、しかしあんまり時間がないのでさらっと、
矛盾してるんですけどね、さらっと行こうと思います。
精神分析の理論と難しさ
とりあえずまずはお礼を申し上げておきたいと思いました。
今日はだからこれっきりです。
お知らせはこれっきりですね。
第8期以降当然この流れですと続けていきたいと思うので、
それについていろいろと今、いろいろな検討を加えている最中でありますと言ったところです。
まあ幸いというのか、効果不効果ですですねまさにね。
これをもう私以外の人に、もちろんこのコンコンと説明してすごいやりたい方がいらっしゃったらできると思うんですけど、
同じことを誰かがやるってなったら、私にはとてもじゃないけど言語化は無理ですね。
だから真似されようがない面が効果不効果なんですよ。
広がらないじゃないですか、真似されないものってのは。
でも真似されないものは、競合しないというメリットもなくはないわけですよね。
これと全く同じようなのは、暗さの傾向さんのグッドバイブスを横で見ていてもですね、
これも難しいなって思うんですよね。
まるまる真似をする人はなかなか現れないだろうけど、従って広まりにくいんですよねやっぱりね。
ご本人の法和点まで行き着けば、行き着くじゃないですか、理論上絶対。
1日24時間セッションしていたとしても限界はありますよね。
実際24時間セッションなんかできるはずはないですけど、一睡もしないってことになっちゃいますからね。
1人の人がやる以上、その数には限界が絶対あるわけですよ。
1回で全員終わるんだったら別ですけれども、それはおかしいと僕は思うので、1回で全員が終わるはずはないのでね。
だから結局のところは法和点には達する。
それが非常に有効な方法論であればあるほど法和点までは早いっていうことはあると思うんですよね。
はい、まあでもこういう話を延々していてもしゃあないので、あと20分ぐらい、20分ちょうどですね。
違う話をしたいんですけど、まずですね、私が最近すごく思うところがあるのは、
HSPや発達障害の広まり
HSPとか発達障害という言葉の猛烈な広まりようですね。
乱用とは私が言う資格はないので、乱用とは言いませんけど、まあ猛烈に広まっている。
昨日たまたまですね、心理オフィスKさんというところ、
すごい網羅的に政治分析の少なくとも流れを汲む診療派で、
すごく網羅的に書いてくださっていて、私も何かを調べるときはそこを調べるぐらい素晴らしいんです。
そことウィキとですね、世界保険機構の精神の部分を見とけば、
それ以上なかなかネットでは探しにくいという、
部分的にすごい面白いことを書いていらっしゃる方いても、
網羅的にそんなに一人で書けるものではないので、
この人偉いなって思って素晴らしいといつも感謝しながら読みまくってるんですけれども、
その中でHSPというのは科学的にはまだ十分検証されてはいないんだっていう話が書いてあって、
そうだとは思ってたんだけど、それは僕がアメリカで留学中に習った通りなんですけれども、
まだその状況続いてるんだっていうのがちょっと意外だったっていうのがまず一つですね。
発達障害はそうではないんですけれども、
これはものすごく難しくなってきたな最近はという、
それこそADHDとかASDとかいろいろあるんですけれども、
いろいろあるというのはなぜなのかっていうのも、
これからさらっとね、ここを深入りできるほどは、
私ももうついていけなくなってるんですよ、端的に言って。
あまりにも複雑になってきている。
そしてこのあまりにも複雑になってきているという時には、
何かあまりかんばしくないことが起きている感じがする。
鬱が言っときそうだったじゃないですか。
経営鬱とか職業鬱とかなんとか鬱とかすごい増えたじゃないですか。
そしてそもそもなぜ鬱があんなに急速に鬱の人が増えたのかっていうのが、
すごく多様な要素がですね、多重項みたいな感じですよね。
方程式の文字が多すぎて、
これが解ける人って凄まじいなっていうような世界になっちゃうわけですね。
それを感じさせられる。
でも感じてるだけなんですけれどもね、私は。
ただ、はいえ、基本的に言われていることはですね、
これを発達紹介と言ってもいいだろうし、
何か別の言葉を挙げてもいいんだろうけれども、
ある種の現実が進行しているのは間違いないだろうと思うんですね。
私が子供の時から始まっていて、一気に進行しているというのはですね、
やっぱり世の中が進んだってことなんですよ、これは。
世の中が進むと、私はですね、
治療法はあまり変化がなくとも、
病理の種類は大きく揺れ動くとは思うんですね。
それは当たり前なんですよね。
ひどく簡単に言うと、体の病気でも同じですよね。
成人病みたいなものは太古にはないわけですよ。
なぜなら、大概の人は空腹ですからずっと、
肥満とかになれる人は少なかった時代ってあるわけじゃないですか。
その中で今みたいに肥満が問題になったり、
食べ物やアルコールの入手の容易さ
それこそ脅威の、お腹の周りがでかくて何が悪いって話なんですよ。
別に今はもう悪いわけじゃないんだけど、
今では何かもう、それが何かの悪い指標みたいになるじゃないですか。
それは世の中が進んだからですよね。
食べ物がいつでも手に入るようになれば、こういう事態は進行する。
アルコールも同じで、アルコールが貴重だった時代には、
なかなかアルコール依存になること自体が難しいかもしれないけど、
なれるわけですよね、今の時代だったら。
なろうと思えば簡単に。
多分昔だったらお酒は20歳までとか絶対言わないと思うんですよ。
そういうことが起こると。
体に起こるなら心にも当然起こるでしょうってことですね。
治療法は結局なんだかんだ変わらないじゃないですか。
平安時代の貴族は、どぶろくみたいな酒をやだら飲む人もいたわけで、
それであっさり早死にするわけですよ。
そこで言われることは何かというと、少しは自首しろと。
そういうことはちゃんと言われてるんですよ、平安時代に。
今と全く変わらない。
健康法と治療法の変わらない基本
つまり治療の方針ってどこの時代に入ってもあんま変わらないんですよね。
だから仏教で言われてることとマインドフルネスで言われてることと、
グッドバイブスで言われてること、横に並べてどうするんだって思われるかもしれませんけど、
3つともそんなに違わないって感じるのは当たり前なんですよ。
それは健康法なんで。ある意味。
健康法が時代によってやたら動くってことはないんですね。
もちろんさっき言ったとおりで、食事に乏しい時代には肉食えって言ってたのが、
食事が豊富になってくると肉控えろってことになるけど、
でも食いすぎてダメになっちゃう人は昔からいるわけで、
栄養が足りなくて厳しい人も今の時代もいるじゃないですか。
だから程よく健康なものを程よく摂りましょうっていう点において何ら変わらないんですよね。
だって海原駅券だっけ、江戸時代の養生法みたいな本読むと、
何も変わらないじゃん今とって感じがして、
江戸時代からこういう人がいてすごいねっていうかもしれないんだけど、そうじゃないですよね。
いつの時代も基本は変わらないでしょうっていう、
よく寝ましょうとか早寝早起きしましょうとか、程よく食べましょうとか全部同じですよ。
それがファインドフルネスと仏教とがそんなに違わないみたいなのは当然なんだけど、
病理は変わるってことですね。
病理の形は大きく揺れる。
最近つくづく思うんですけど、今の時代はどういう、精神の方ですよ、体の方じゃなくて、
精神の方はどういう風になりやすいかというと、
一時ナルシシズムを温存して、もうちょっと違う言い方をしよう。
深い原則というものにどっぷり浸るべく現実過程を頑張るという、
これが現代のおそらく病理の大元になりやすい。
全部がこうだって話では全くなくて、大元にはこれが起こりやすい。
築国博さんの文章をしばしばこの番組では最近ほとんどそればっかりになってきているんですけど、
最近クラスの先生と喋ってて、私はホットになるものがどんどん変遷していくんだけど、しばらく長いです。
これはみんな同じじゃないかと思うんだけど、確かに今は松木さんホットなんですよね。
前から読んでたんだけど、喋るときにホットになるタイミングって少しずれてくるんですよ。
一通り読んだとそれがホットに喋ってるっていうのが多分あるんだと思いますね。
彼が書いていた、つまり原爆みたいなものがまさにそういう例で、
一瞬で悪いものを破壊する、いてから落とした側から見てね。
完全に不快原則ですね。不快なものを一掃する。
思いっきりわがままみたいな。
なんだけどそれを作るためにはものすごく現実というものがわかってないと作れない。
実験とかもそうだし、今では宇宙に飛ばすとかやってますけど、
そんなのは四方の現実を徹底的に計算しつくして、
現実主義でいかないと、こういうふうに飛んだらいいなみたいなのでは絶対うまくいかないですよね。
こういうふうに爆発してくれたらいいなみたいなのではダメですよね。
だから空想的であっては作り出せないもので、空想的な気持ちを満たす。
これが現代的なんですよ。
確かにこの傾向はすごく進んでいて、かなりの部分成功している感じがするんですよ。
VRってまさにそうですよね。
人がどういうものをどういうふうに見ると現実を取り違えるほど、
仮想現実をリアリティに作り出せるかっていうのはもう、
Appleとかでもやってると思うんですけど、ものすごく現実を精密に検討してると思うんですよ。
目とか脳とかの考え方とか、光の技術とかそういうもの、音もそうですよね。
やることは何かっていうと、その中で自分のファンタジーの世界にどっぷり浸る。
絶対そこでは、本質的にはパンハラ上司に本当の意味で責められるみたいな、
そういう嫌な現実を味わう必要は本当の意味ではないんですよ。
やっぱりそういう奴が現れたらすぐレーザー銃で撃つみたいなね。
深い深い原則どっぷりなわけですね。
だから二次仮定ですよね。
現実原則に徹底的に、まるで相構えのように城壁を巡らせて、
その中で一次仮定をとことん楽しもうっていうのが現代的。
この二次仮定を徹底するために必要なものが2つあり、
1つは時間、もう1つがお金ですよね。
だって、まず金がなければそんなことはやってられないじゃないですか。
一次仮定でどっぷり浸るためにはApple Visionを買うとか、
あれは高いんでね。
そうでなくても一次仮定にどっぷりと楽しむためにはミサイル買うとか、
楽しむっていうのは非常に良くない言い方ですけど、
一次仮定と二次仮定の現実
いずれにしてもとても高くつくわけです。
だから金があればあるほどいい。
これが一次仮定を楽しむためにまず必須のものです。
iPhoneだってそうだし、音声の機器だってそうだし、
家がなきゃまずこれやってられないですよね。
これを公園の砂場でやれるかというととんでもないことなんで、
そういうわけにはいかないので、やっぱり家が必要ですよね。
ものすごいお金が要るんですよ。
次に時間ですよね。
いくらお金を稼げても朝から晩までしこたま働いていて、
帰ってきたらApple Visionを楽しむエネルギーも残ってません。
すぐ寝ちゃいます。
そしてまた朝すぐに仕事ですっていうのでは、
一次仮定を楽しむところに全然行きつけず、
そしたら二次仮定の現実に付き合ってなければいけない。
この辺が時間術の話に絡んでくるんですよ、どうせ。
これが一次仮定を楽しむためには、
時間とお金と両方豊富にいるという現実があるわけですね。
これの何がいけないのか。
いけなくはないんだけど、
Good Vibesでもここをしばしばクラウドのけいぞうさんが言及されてましたけど、
人は一人では生きられないっていう話をして、
時々、例えばひたすらAmazonでものを買い、
ひたすらVRのゴングルをかけ、
ひたすら自分一人で生きることも今の時代は人によってはできなくはないのかもしれない。
これは非常に問題が残っているというのを案に含みつつ、
でもその人を批判してみたところで、
その生き方はやばいですよみたいなことを言っても、
その話そもそも聞かないだろうっていう感じもあるし、
聞いたところで、
そうでしたクラウドさんGood Vibesを教えてくださいとはならないですよね。
家にいますよ。
だからこの話結局進行はするんですよ。
どうであれね。
ブッダが昔どう言いましたとか関係ないですよ。
そんなことに興味持たないでしょ。
だからそれこそこの場合松木国博さんもこう言ってますとかも絶対興味持たないと思うんですね。
というわけで、
この事態は普通に進行する。
そして我々はただこれを100%がっつりやれるほど、
お金と時間に恵まれる人は、
はっきり言ってわずかでしょうから、
一般の人はこれを中央でやると思うんですよね。
かなりの程度これを目指すんだけど、
完全にこれに浸るのはかなり難しいという現実が残ると思うんですよ。
その中で現実というものがですね、
基本的にはこれは自分の一時家庭を構築するため、
つまり一時家庭に二次家庭が従属するような格好をとるんですね。
そうなればなるほどその人の、
僕のところ先週盛んに話題にした、
いわゆるパーソナリティ障害的な面が、
おそらく人目にというか周りには、
やっぱり周りとの圧力を浸す可能性は高いだろうなと。
そして最初からそうだった人は少ないんですよね。
この二次家庭でがっちり身を固め、
一時家庭にどっぷりと浸る。
お酒とかは多分多くの人は避けると思うんですよ。
一時家庭にどっぷりが酒だった場合、
必ず体を壊すんで、
おそらくね、ほぼ必ず体を壊すんで、
一時家庭はやっぱりVRとかが今後流行っていくでしょう。
これは余談ですけどね。
この家庭が進行するというふうに、
とりあえず抑えておくじゃないですか。
そして他方を世の中ではHSPとか発達障害が、
すごく言われるようになったってことがあるとするじゃないですか。
これを私は不合する感じを持つんですよ。
要するに、この発達障害と言われているものは、
この一時家庭に二次家庭を従属させようという強い意志、
そういう方針の現れとして出てきている難しさなんじゃないか。
だって同君名だって、
みんながみんなこの事態を実現できるとは思えないですよね。
いや、家構えました。
全部屋、私のためにあります。
窓もスクリーンでちょっと角度を変えると、
ハワイの風景が見られるようになりましたので、
金すっげえありそうな人ですよね。
これができる。
現実は嫌い
できますよ、今やろうと思えば。
人とは合いませんと。
Amazonの高いボックスももう完璧に完備されてますみたいな。
夢のような生活だと思われる人もいるかもしれませんけれども、
これはつまり何を言っているかというと、
現実は嫌いだって言ってるわけですよ。
つまりすっごくここにはナルシシズムがあるはず。
ナルシシズムっていうのは私大好きって意味ではないですよ。
先週もお伝え、先々週からずっとお伝えしている通り、
みんな私は大好きなんです。
そうではなくて、これは現実は嫌いだっていうことですよね。
何て言うのかな。
その家ってその人と一体化していくじゃないですか。
まるでこう、昔の古い言葉で言うと、
子宮回帰願望みたいじゃないですか。
家は子宮のようになってるじゃないですか。
理想の母親がその人を包んでくれていて、
そういう生き方をお金で実現させる。
だから技術とお金は二次家庭。
中で楽しむのは一次家庭。
一次家庭の究極の形が多分子宮の中なわけですよ。
現実というものは私のために存在している。
子宮が赤ちゃんのために存在しているのは間違いないから。
現実とは私のために存在している。
そうでない現実はすべて原則として触れないことにする。
ある種のユートピア。
これがナルシシズムの世界だろうなって感じが私はするんですね。
これが中途半端にしか我々は実現できません。
私も超安物のVRが半分ぶっ壊れてると思ってるんですけど、
こういうことになるわけですよ。
Apple Visionと素晴らしいスクリーンでやりたいんだけど、
現実にはApple Miniのタブレットと壊れかけの、
壊れかけのラジオじゃないですけど、
壊れかけのプラスチックのゴーグルみたいなやつで、
現在使っておりませんみたいなね。
中途半端に実現するわけですね。
これをやるというこの心性ですね。
現実は好きになれない。
家という子宮の中で暮らしたいんだけど、
それができるのはだいたい日に2、30分で、
現実には外に出ていって、
熱中症とか温暖化とか面倒くさい現実に関わっていかなければならない。
こいつは面倒くさいし鬱陶しいし、
極力排除したいなと内心で思っているわけですよ。
認知機能の低下
この真理が作り出すものが、
ある発達障害的な何かなんではないか。
発達障害の全域がこれと関係があるというわけではないですよ。
そういう意味ではなくて、そんな難しいことはわからないですよ。
これぐらいマクロにものを見ちゃうと、
わかることはせいぜいこのぐらいなんですよ。
発達障害多くなってきたよね。
普通に生きる人生でお金ができるだけあって、
ネットでポチポチして好きなものを買える人生はいいよね。
これはもう普通に今の時代で極めて多くの人が思いそうなことじゃないですか。
別にこれ自体責められることでも病理でももはやないじゃないですか。
ただこれは究極的に実現できないじゃないですか。
それも責めさせることじゃないじゃないですか。
だって何をやっているのかわかんないけど、
日に100万とか儲けるのはとっても難しいじゃないですか。
それは責められることではないですよね。
だからこれが中途半端な壊れかけのゴーグルで済ませるのは、
別に普通のことなんですよ。
その一方で、でも本当はこうじゃないんだよなっていう、
このシーンにどこかで聞いたことがあるわけですね。
これは万能空想ですよね。
だから万能空想は家にあるっていう感じなんですよ。
家に万能空想があって、外にはそれはない。
外にあるのはつらく面倒くさく、
そこで生きるのがギャートルド時代のように大変だった意味ではないんだけど、
やはり外界は相変わらず汗ばむし、
アホみたいに暑いし、人混みも多いし、パーハラの上司もいるしということで、
ゴーグルの世界に比べると快適度は著しく劣る。
したがって脱価値化される、低く見られるわけですね。
そして家に戻った時の価値はうんと上がってくるわけですよ。
そこにいる時の快適さとそうでない時の不快っていうものがコントラストを生み始める。
その時に、なるべく家を外に持ち出そうって発想も起こるでしょう。
それはノマド的な発想になっていくんですけど、
なるべく家を外に持ち出そうとすれば、
持ち物多くなるし忘れ物増えるじゃないですか。
こういう現象が進行するはずなんですよね。
多少は、少なくとも多少は。
しかし何よりもこの時に私としてはですね、
検討していきたいと思うのが、
発想外という名を冠するよりは認知機能の低下っていう感じを抱いた方が、
我々にとって得るものは大きいんじゃないだろうかって気がするんです。
一つには発達障害という風に障害の名称を自分に冠してしまうと、
それはそれでやりやすくなるっていう方もいらっしゃると思うんですけれども、
だからそれはそれでいいんですが、
そうしてしまうことによって、
ある種の面倒くささを自分で引き受けることにもなるわけじゃないですか。
だってインフルエンザであれコロナであれ、
何かの病気にかかりましたというのは、
何かの制約を自分に課すことになってしまうので、
どれほどそれが都合がいい部分があるにせよ、
都合が良くない部分っていうのがワンセットで、
これはやっぱり現実原則なんですよ。
病気ってのはそういうことですからね。
自由にできないことが発生するっていうニュアンスがそこに含まれてる感じがするんですね。
認知機能の低下というのであれば、
例えば視力が弱くなりましたわ。
眼科の先生に正式に聞くとどうかわかりませんけど、
僕は病気ではないという気がするんですよね。
視力1.5の人は健康だが0.9は病気だってことは、
僕は別にないような気がするんですよ。
つまり認知機能の低下というのは、
対象喪失の影響
現実が好きになれないっていうんだったら、
やむを得ないところがあると思うんですね。
お年寄りの場合、認知症というものがありますけれども、
認知機能が年を過励のわけではないのに、
下がってくるという時に、
その人の心理の中でですね、
我々はあれですから、
身体に人魂を作り出せる無意識を抱えてますから、
心身症を作り出せる身体を持ってますから、
身体というか心ですね。
だから現実というものを認識したいと思わないのであれば、
現実の価値が下がってるというのであれば、
それ以上の認知の仕方を我々は取るはずなんですね。
だからそもそも端的に行動にある程度現れるじゃないですか。
遅刻をするということは、
やむを得ない事情はいっぱいありますよ。
でも絶え間なく遅刻がその人が多いということであれば、
やはり現実というものはどこか見下されて
叱るべきだというニュアンスがそこにあると思うんですね。
尊重されなくてもやむを得ないみたいな。
これが悪いと言っているわけじゃないですよ、必ずしも。
無意識がそれを加担してくることもあるので、
難しい話なんですよ、意外にね。
例えばだって子供が計算ドリルに集中できないとしても、
その子が悪いとまでは言えないじゃないですか。
好きになれないんですよね。
現実に集中できませんということは悪いわけじゃないんだけど、
認知的に集中するというほどの価値を認められないというのを
案に言っている場合、ある何かに集中できないんじゃなくて、
どこへ行っても集中できないって話になってくると、
そういう話は起こると思うんですよ。
先送りに一つ取ってもそうで、
いやすごい難しいとか、やるのがものすごく苦痛だっていうんだったら
先送りだっていうのは分かるんだけれども、
なんてことないのに先送りしちゃいますっていう話が
往々にして出ますよね。
絵描けてみたら2分で終わりましたみたいな。
なぜそういうことが起こるかというと、
それはやっぱりやるに値しないと思ってるんですよ。
少なくとも心の奥底では。
そういうことは別に不思議なことじゃないってことですよ。
やるに値しないっていうのはとっても恣意的に決まる、
この人が置かれている人間関係に応じて、
どんどんどんどん変わっていく程度のものでしかないのでね。
だから現実というものをどこか高くは見積もれない、
尊重する気になれないっていう気持ちが底辺にグッとあると、
グッとあるんですよ。
グッとあっても別に不思議はないってことです。
だって家に帰れば、
温度は快適で、
湿度も快適で、
助湿とかがあればですけど、
見たいものしか見なくて、
美味しいものがあってってんだったら、
それはその外の価値が相対的に低いっていう風に感じられるのは自然じゃないですか。
もう一つでもすごく大事なことがあると思うんですね。
これは物質的な話だけしましたけど、
精神的にも大事なものは外にはないってことになったら、
つまり対象喪失がそこで起こっていたら、
私にとって大切なものは外にはもう失われてしまったんだと。
これ分かります?
失恋とかの時に起こる現象なんですよ。
失恋の時に人間の認知機能は低下すると思うんですね。
相手のことが大事だった場合ですよ。
あるいは大好きだったおばあちゃんがいなくなりました。
お亡くなりになりましたって時に、
現実にはもうおばあちゃんいない。
そういう表現を取るじゃないですか、人間。
それは心の中にはいるってことですよ。
つまり心の中はさっきの家の中と同じように、
素晴らしい世界なんですよ。
そしたら心の中に籠っていたいじゃないですか。
現実に対する喪失感と問題の発生
現実の機能はその分低下しますよね。
不走というものにそれほど気を使う気がしなくなる。
なぜなら現実に尊重するべき人がいなくなったから。
不思議じゃないですよ。
今の人にはほぼ通じないと思うんですけど、
あれですよね。
1946年の頃には、
大日本帝国という素晴らしいものが、
みんなの心の中にあった素晴らしいものが、
消失したんですよ。
いろいろ問題はあったかもしれないけど、
みんなで一生懸命明治時代に作ったわけじゃないですか。
消失するっていうのはそういうことなんですよね。
人間関係だけじゃないですよ。
つまり今の今まであったのに、国にあったのに、
もう家から出ようとどこに行こうと、
大日本帝国はなくなっちゃうわけですよ。
すごい喪失じゃないですか。
そういう対象喪失が起きたときに、
現実ってものがすっごく色あせて見えるってことは、
実際に起きると思う。
これのうんとうんとうんとマイルドにしたもの。
本人が気づきにくいような対象喪失が、
子供の頃とか思春期の頃、
ブッと起きて、
そこから通送低音っていうんですかね。
みたいに心の奥底で、
もう現実には価値のあるものはないよっていう、
こういう、なんていうんですかね。
そういうものが進行していて、
でも家の中だけとかなら、
物質的に素晴らしい世界を作り出せるよ、
土ユートピアができるよっていう、
このセットみたいなものがですね、
結局その人は家の中にずっと引きこもっていられないはずなので、
行ったり来たりする中で、
どんどんむしろ強化されるってことが起こると。
起こると、
なんていうんですかね。
非常に静かな、
非常に目立ちにくい、
鬱状態、慢性的な、
うっすらとした鬱状態がずっとあって、
その中で、
なんていうんですかね。
自分を満たし得るものというものが、
自分の時間みたいなね、
希少な短いタイミングだけがそこにある、
みたいな感じで何とか日常を回していますっていう、
時代が進行しているときに、
なんか知らないけれども、
小さな遅刻とか、
物忘れを持ってくるものが足りないとか、
その割に荷物はいっぱいあるとか、
注意が散漫に仕事中になっているとかいうことが起きるよね。
普通じゃないかなって思うんですよね。
それは、
発達障害とか、発達障害のグレーゾーンとか、
定型的とか非定型的とか、
いろんな言い方をするよりも、
一つの対象創出的な何かがある。
そして一時過程の万能空想にとても浸りたいんだけど、
中途半端にしか浸れないという現実がある。
そうしている状態がずっと続いている中で、
物作業も十分にしかなされていなくて、
それ故に、
なんとなく抑鬱的な認知機能の低下っていうものが、
ずっとその人を蝕んでいるっていう風に考える方が、
分かりやすくないかなって気がするんですけど、
どうなんだろう。
34:53

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