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2022-08-19 30:06

【656GMV】寂しいときに考えるべきこと

人はさみしくなるとおかしくなる?

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おはようございます、グッドモーニングボイスです。
今は8月19日の10時43分で、これは多分撮り終わった途端に公開する予定です。
つまり、いつものパターンが崩れているわけですね。
意図的に崩したんですけれども、だからといって今日この時間に撮りたかったというわけでもないんですよ。
この辺がやってみなければわからないというところですよね。
時間に追われているというわけではさらさらなくて、様々な理由が組み合わさってこの時間になったんですよ。
これはですね、今私あまりやりませんが、タスクシュートの記録をつぶさに眺めるとわかるんですよ。
この時間になるのはどう考えても必然的な感じがする。
どこかを強引にねじ曲げれば違う風にできたとは思うんですけど、
そういう場合はそれをすると対外はですね、人間関係にちょっとひびが入ると言いますか、
そういうことをやらないとこの時間の必然的な因果関係みたいなのは解消されにくいんですよ。
しかもそこまでやる理由はないので、せいぜいそれをやったからといってこの収録が1時間早くなるか、さもなければ撮らないか、せいぜいその程度なんですよね。
だからタスクシュートっていうのを見ていると、これタスクシュートを見ずともそういう行動を撮っているわけなんだけど、
面白いのは人間関係なんだなってことなんですよね、時間の使い方っていうのは。
だからなんですよね、他の方は知りませんけれども、
でもそういうことをタスクシュートで長らく使っている方がよくおっしゃるのが、
あんまり無駄なことをしている気はしないんだっていうのはそういうことなんですよ。
一見無駄に思えるものっていうのはですね、ある種の人間関係への配慮の結果なんですね。
それがすごく例えばお金に困っている時とかはですね、無駄に思えるんですよ。
ということはここはよくよくポイントだなと思うところなんですけれども、
注意するって言ってもまた簡単じゃないんですけど、お金が儲けたければですね、人間関係を壊せばいいみたいなところが若干あるんですよね。
これもタスクシュートで僕は学んだことなんですよ。
ここを強引に振り切れば、そしてその間すごい頑張って仕事すれば、多分収益状況よくなるなと。
代わりにある種の人間関係はもう諦めない、諦めたほうがよくなるなっていう、そういうなかなかシビアな選択なんですよね。
こういうところがあるから私は無駄なことを省きましょうというのは、おいそれとは言えないんですよね。
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そんなようなところをどうなのかな、こういう話は時間術の本には出てこないし出しようがないんですよね。
変にシリアスになりすぎるし反論の余地もあるんですよ、多分人の目から見ればね。
だけど自分の目から見るとわかるっていうようなことで、そこもうまくやればいいっていう考え方もあるとは思うんだけれども、
それがなかなかですね、そんなことを書いてみても、何ていうんですかね、汎用的な方法論としてはあまり意味はない、
そういうこともあって、わりと本には書きにくい。これを本に書いてみたところでなという感じなんですよね。
私のあまりにも個人的な事情というものがそこにあって、
例えば実家の人間関係を優先すると、その分仕事に若干差し障りがある。
じゃあ実家を切り捨てれば費用対効果の高い行動は取れるんですよ。
これを本に書くっていうのはやっぱおかしいと思うんですよね、時間術の本って。
これなんか違う話になっちゃう。
だけどこういうのっていうのは、例えば実家に僕が帰って人仕事して戻ってくるとなればですね、
8時間ぐらいはかかるんですよね、なんだかんだで。
じゃあ8時間という時間の間にセミナー2回やろうと思えばできるわけですよ。
そうすると実家に行って収益が上がるっていうことは全くないわけだから、むしろ金使うわけですからね。
ではこういうところをよくよく考えましょうみたいなことをブログなりに書いてもしょうがないじゃないですか。
こういうことっていっぱいあるんですよ、実際にはね。
今日はこの話をする予定ではさらさらなかったんですが、気がつくとこれで5分を使ってますね。
30分縛りをつけて以来ですね。
ブラウザだと連続30分録音で一旦停止しなければならない。
だからここを幸いと、つまり40分超えると多分聞く人が脱落すると思っておりますので、
40という数字を見た瞬間にですね、30未満にしようと思っているんですけれども、
これが一つの縛りになるんだなというのも感じます。
しばらくやってみようという感じなんですけどね。
CMをしていないんだよな、なんかCMをしたいんですよ。
これも縛りにしているんですけれどもね。
タスク管理の本なんですが、今3000位前後をうろうろしておりまして、
すごく攻め合いを感じるというか、3000位とかじゃ本当は多分ダメで、
商業出版が成功したと言えるためにはですね、
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しばらく3桁のAmazonランキングで3桁を続けていなければならないんですけど、
なかなかそういうわけにはいかなくてですね。
4桁がしばらく続くと、もう気持ちの上では結構嬉しくなってしまうという。
ただ4桁がしばらく続くだけだと、多分書釣りで終わるっていうことの方が普通なんですよね。
これもケースバイケースなんだと思うし、出版社さんの考え方にもよるし、
本の性格にもよるんでまだまだわかんないんですけれども。
今のところはその3000位で、著者としては嬉しいんだけれども、
ハンモトさんがそんなに喜んでいるかどうかは微妙だし、
Amazon以外の売れ行きは、著者にはわかんないというのが通常なんで、
カテゴリーで1位とか取ってみたいんですよね。
ビジネスでベストセラーみたいな。
それにどういう意味があるのかというのも難しいんですけど、
最近そういうポップが見たこともあるんですよね。
それを書店さんに置くのってすごい不思議な光景だなとも思うんですけど、
Amazonランキングで1位とかっていうのを木の国屋さんがポップになってたら不思議じゃないですか。
でもそれに近い光景は目にしたので、
今ではそういうのは普通になりつつあるのかもしれません。
わかんないですけどね。
今日お話ししたいのはタスク管理の話ではなくてですね、
無理矢理だからねじ込んじゃったような格好になったんですけど、
寂しさというのをたまたまブログで、
割と読まれている記事で見つけてですね、
寂しいと人はおかしくなるんだよ。
これ検索していただくと多分その記事にヒットすると思うんですけど、
1つ僕が直球で課題にしていないんですけど、
意識しているのはこの問題だなと思っています。
それは寂しくなると人はカルトにも引っかかるぞって話をしていて、
記事の大体の趣旨としては、
なるべく寂しくならないようにだからしようねと。
でもあんまりひどくないカルトなら、
それはそれでしようがないよねみたいな、
そういう至って現代的な記事で面白かったんですけどね。
私は家が宗教だったから、
そんなにひどい作詞じゃなければ宗教も寂しさを埋めるものとして悪くないんじゃないかと、
どうかなって感じもしなくはないんですけど、
それだったらデイケアとかのほうがいいんじゃないかなと、
これも下手なことを言うと炎上するレベルで怒られそうな話を私もしてますけど、
でも遠畑海斗さんがいるのはつらいよという本でデイケアのことを書かれているんですけど、
彼の一連の本の私は趣旨というんですかね、
これだなと思っているんですよ。
昔ドステフスキーが僕らはみんな街頭から生まれてきたみたいな、
あれはゴーゴリの街頭という小説から、
つまり上流階級じゃない人たちのドラマというものが小説になるんだというのをはっきり示し得たものとしての、
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最初の小説としてドステフスキーはゴーゴリの街頭をあげているんですけど、
そういう感じで、デイケアの話でいるのはつらいよというタイトルで、
本になったというのはちょっとしたエポックメイキングで、
未来ちょっと風向きが少し変わったのかなという感じを後追いで僕は感じているんですけど、
あの種の本は僕は結構好きで、
立読とかを含めると相当数読んでいるんですよ。
自分の心を慰めるみたいな趣旨でしたけどね。
それで仕事をしていこうという気はさらさらなかったので、
当時はね。
今はそれが仕事になりつつあって、
ありがたいし不思議だなという感じ。
なんか因縁みたいなのはこういう時に使う言葉なんですかね。
あの、いるのがつらいってのは寂しいってことですよね。
ていうか、いるのがつらいと寂しくなっていきますよね。
ただいるという場所がないとか、居場所がないっていうことはつまり寂しいわけですよ。
寂しくなっていく運命が待ち受けている感じなんですね。
で、あの、いるのはつらいっていうのは、
僕は多分ですよ。
本人はそう、まだ明瞭に書いていないんだけど、
でもまあ出てくるから、
エミニコットだなって思うんですね。
で、エミニコットだってのはどういう意味かというと、
いるためにはですね、
これは非常に逆説的な表現で、
このポッドキャストでも何度もお伝えしていて、
今後も何度もお伝えしていきたいんだけど、
いるためにはですね、
一人でいられる能力っていうのがいるんですね。
で、これは一人ぼっちでいられる強さみたいなのではないんですよ。
全然そうじゃなくて、
二人以上、
まあ二人ですね。
二人でいるにもかかわらず、
一人でいられる能力っていうのが必要なんですよ。
これは敬願だなと、鋭いなと私はすごく思うんですね。
お母さんと二人でいるときに、
子供が一人でいられる能力を身につけるっていうのは、
非常に大事な話で、
そこのときに一人でいられるようになってないと、
あるいはさせてあげられないと、
どうしても落ち着かなくなっちゃう。
少なくともそのぐらいのことは起こる。
ものすごく友達と仲良くなってくると、
あると思うんですよ。
親友と二人でいるのに、
一人ずついるみたいになると。
あんまりこの故郷を喜ばない大人っていて、
うちの親なんかもちょっとそういうところがあって、
二人でいるんだから二人で遊べみたいなこと。
二人が別々に片屋ゲームやって、
片屋漫画読んでるみたいな。
私はそれはすごい間違ってると思ってたんですよね。
でもうちの父には、
そういう心のどこか隙間みたいなのが
あったのかもしれないなって、
今思うと思うんですよね。
そこのところもうちょっと僕は、
ただ煙たがるだけじゃなくて、
ちょっと真剣に考えておくべきだったなと、
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思わなくもないんですけれどもね。
そういう先生もいたんですよ、
昔考えてみると。
その先生すごい暴力的だったんですよね。
あの先生に関しては私は、
ヒステリーは絶対にあるなっていうのを
ずっと思っているんですけど。
あの先生って誰だよって話なんですけどね。
僕昔、
昨日じゃないな、
先日、
幼稚園でお漏らししたって話したじゃないですか。
あの先生にもあったんですよね。
そういうことをちょっと真剣に考えておけば
よかったんだのに、
やっぱり好きじゃなかったから、
あんまり真剣に考えてあげる
ということをしなかったんですよ。
幼稚園生が真剣に考えてあげるっていうのは、
実に傲慢な感じもするんだけど、
まあでも、
畳ってものはありますから、
畳というのはつまり、
本人じゃない観点っていうのは、
絶対に有利なポイントがあるので、
それは子どもであろうと、
何であろうと、
やっぱり外から見て、
見えるものをその人に何か言ってあげる
ということは絶対になくてもですね、
考えておいてあげる価値っていうのは
僕はあるとは思うんですね。
うちの父についてはさすがに
父親なんで、
いろいろ考えてるつもりなんですけれども、
先生となってくるとね、
はっきり言って、
生徒からすれば特に暴力的な先生だっていうのは、
離れて生成したぜっていう
気持ちがどうしたってありますからね。
考えてあげるとかはめんどくさいし、
あんまりやりたくなかったりもするから、
サボっちゃうんですけど、
考えてもよかったわけですよね、結局。
その一つの
臨床例というのもまた
大変語弊があるんだけど、
出会った人の中で
そういう心に難しさを抱えている、
難しくさ、抱えてなければですね、
小学4年生って
10歳ぐらいじゃないですか、
椅子で殴ったりはしないんですよ、やっぱり。
僕が殴られたってわけじゃないんだけど、
やっぱり血流している
小学4年生に向かって、
椅子でバンバン殴ってるってのはね、
心にどこか何かがあるんですよね。
今だったら
心に何か何かがあるとか
言ってられなくなるんだけど、
当時はそんなもんだったんですよね。
かわいそうな子でした。
何くんだったかな、まあいいや。
すごいのは私、
倉殿さんがパッと出てくるのを
非常にすごいなと思って聞いてるんですよね。
パッとは出てこないんですよね。
これが終わって
5分ぐらい経つと出てくるんだけど、
すぐには出てこないんですよ。
つまり
いるのがつらいんですね。
今ちょうど
高校野球とかやってるじゃないですか。
デイケアでもやってたんですけれども、
倉殿さんの本のデイケアの
人たちがやってたんですけれども、
みんなで
部屋でなんとなく
高校野球の甲子園、沖縄ですから、
応援しているわけでもないんだけど、
見ていると。
しばらくして引き込まれると、
みんながいたことを忘れる瞬間があるみたいな、
こういう表現と
ちょっと違いましたけれども、
そういう感じなんですよね。
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あるじゃないですか、こういうことって。
非常に仲のいい家族とかだったら、
仲良くなくても
まあまあ落ち着いた家族だったら、
頻繁に起こると思うんですね。
これが他の人と一緒でいるにもかかわらず、
一人でいられる能力なんですよ。
この能力を育まないと、
人はいるってことが
本当の意味でできないんだ、
っていうのが
一つの重要な趣旨で、
ユニコットが言った通りなんです。
ユニコットって人は
これを図式化したわけですよ。
環境としての母親、つまり
母親は環境になってしまうわけですね。
クーラーみたいなもんですよ、今では。
私たちすっごい快適な部屋で
この時期にいれば、
クーラーかかってるっていうのは
意識しますが、
そのうち忘れますよね。
クーラーが働いてくれてるなんてことは。
これが環境というものですよね。
つまり、環境の
何らかの機能を
ありがたいなと思って意識することがあっても、
そこの環境が本当に
居心地が良ければですね、
その人は一人になるわけですよ。
で、母親が環境、
これね、これも当然
今の時代だから、
大きな問題になるのはわかってるんですけど、
でも、
もしこれがジェンダー的に問題だと
いうのであればですね、
お腹の中にいる赤ちゃんのことを考えてほしいんですよ。
これは母親でしょ、
今はまだ。将来は知りません。
将来はね、もう
それも機械ですということも
あり得ると思うし、
そういう漫画もありましたけど、
男の人ですということもあると思うんだけど、
あり得ると思うんだけど、
今は母親じゃないですか。
で、
母親の中にいるときに、
その赤ちゃんは母親の中に
いるとは思ってもないはずなんですよ。
その能力から考えても、
言語能力がないことを考えても、
いや、自分はもしかすると
人間の中にいるのかもしれないなと
無双した赤ちゃんすら
僕はいないんじゃないかなって、
いないとは言い切れないにせよ、
僕なんかはしてないと思うんですね。
つまり一人でいるわけですね。
この能力を
どこまで持続できるか
ということなんですよ。
外に出たときの最早期
って言うんですよ。
一番最も早い時期の赤ちゃんは
これはありますよね。
しばらくして乳児になっても、
環境供給がしっかりしていれば
って言い方をするんだけれども、
親御さんが普通に育てていれば
そういう瞬間は頻繁にあるでしょう。
私も子供育ててみてよく分かりました。
親側としては
孤独な感じになってるんですよね。
すごく。
目に私が入ってないわけじゃないんだけど、
まるで自分は
一人になっちゃったみたいな気が
その子が一人になると
私も一人になるわけですよ。
こういう感覚って独特のものが
あって、
私は積み木の一種みたいになってる感じ。
これが
ベストな環境であるような時期って
あるんですよね。
ここからなんですよ。
ここまでは親がいて、
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一緒にいて、かつ一人になるから
もう最高に幸せな時期
だとも言えるんですね。
虐待とかがなければ。
けれども、ここから先に
本当に一人でいるにもかかわらず
この状態を再現できるか
っていう問いがあるわけです。
やっぱりママごとが最初に来ると
僕はよく思うんですけれども
私なんか砂場でそういうシーン
状況に何度か入ったんですけれども
一人で遊んでるんですよ。
気がつくと。
夜暗くなって
暗くなりつつあるタイミングで。
気がつくと怖くなるんですよ。
気がつかないときは怖くないんですよ。
つまりこの気がつかなかったときは
環境としての母親と
一緒に遊んでるんですよ。
お母さんと一緒に
遊んでるという感覚があったわけじゃないですよ。
当時たぶん幼稚園の年中ぐらいで
友達と一緒にいるんだけど
そういう人
誰と一緒にいるというのではなくて
環境としての母親という
イメージみたいなもの。
これを内的対象という
単なるイメージと分けるんだろうけれども
そういう心理的な
力を持った
一つの存在と
共にいるわけです。
共にいるから
一人でいるんだけど
一人ぼっちだという感覚
ではない感じで
そこにいられる。
精神分析の昔の本とかを読むと
こういうシーンってよく
取り上げられてるから
よく出てくるんですけど
なかなか最近の本だと
これだけを書くとウケないから
みんな違った形で書くんですよね。
さっきの戸肌さんのように
甲子園でテレビを見ているとか
そういう風な感じで書いていくんですよ。
テレビを見ているとなってくると
もう少し歳いってますよね。
こういう風にして
私が思うに
人は一人で
いるとしても
孤独感に
苛まれる。
寂しいというのは全く意識せずに
一人でいられる。
そのためには
内的対象みたいな
そういう親に
見守られている感覚
これは感覚なんですね。
というものが
伴ってないと難しい。
伴ってない人が
ブログで読んだところの
寂しいと人はおかしくなるから
カルトに頼っちゃうみたいな
そのカルトって何かというと
環境としての母親の
代理になるものなんですよね。
これを意向対象っていうのはまずいな
って私も思うんで避けますけれども
でもそういうものなんじゃないのかな
っていう感じがしなくはないですね。
大体ああいう宗教に行くと
マザーとかって言い出しますよね。
非常に僕には
単純なものだとも
ある意味思います。
すごく代わりに
供給される環境として
だから内的環境としての母親というのは
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一つの心理的機能と
みなすこともできると思うんですね。
子供によっては
一人でママごと
おもちゃで一人遊びすることすら
ママならないって子もいるじゃないですか。
どうしてもお母さんを探してしまうと。
そういうお母さんっていうのはまた
さぞ優しいのだろうと思ってたら
暴力的だったりしたりするんですよ。
ここら辺がすごく
人間心理だなって思うんですよ。
だから私さっきほど
言いましたけどすごく暴力的な
先生といつもいつも
その先生に殴られている子供って
実は同じだったりするんですよね。
このセットにはすごく
セットって言ったらやっぱ
語弊がありますね。
でもその人たちがいつも登場する
そういうシーンを見るたびに
非常に僕はなんとも言えない
自分になった感じがするんですよね。
そういう
内的環境としての母親の
同じようなものを供給できる
様々なものがありますよね。
飲み仲間だったり
場合によっては
何だろうなぁ
信仰宗教は最近非常に問題視されてますけれども
多分それに
準ずるものとして
例えばですけれども
コミュニティとかね
でもそれがいいのか悪いのかみたいなことを
考え始めるから
話はややこしくなっていくわけですよ。
本当はそれに
いいも悪いもないじゃないですか。
デイケアで
デイケアでもいいですし
どこかのそれこそ居酒屋でもいいですよね。
みんなで集まってテレビを見ている。
その時に居酒屋にお金を落とすのは
真っ当なサービスで
こっちでは
自分の気持ちを使っているから
作主であるっていう場合には
金額の高が問題なのか
それとも
あるいは宗教だからそもそも
いけないっていう話なのか
意外にその辺の線を引こうと思うと
難しいと思うんですよね。
というかおそらく無理だと思うんですよ。
一人で居られる人は
この辺の感覚というものが
もう一つ
借銭としない場合には
彼らは心が弱いんじゃないか
って思っちゃうんですけど
その場合心が強いというのは
環境としての母親がきちっと
自分の心の中で供給されている
という意味でラッキーだったんですよね。
やっぱりね。
アンラッキーっていうのは
いろんな理由があるんですけれども
例えば
親が常に一緒に
いたがる親だったとかね
そういうケースはやや
アンラッキーかなっていう風に
私は思います。だから環境としての母親が
機能を全くしなくなるかというと
そんなことはないんですけどね。
で、じゃあ環境としての母親って
何するのっていうと
これがフロイトが出した答えが
解釈するってことなんですね。
意味不明だと思われるかもしれませんけど
つまり僕らはどうして
そういうものが必要だと思うのかというと
私たちは欠乏するから
24:01
なんですよ。ニードが
生まれるんですね。ニードが。
ニーズじゃないですよ。
何に欠乏しているのか
わからない欠乏というものを
私たちは感じるんですよ。
多くの場合はでも普通のことです。
夏になったら暑いな。これがニードですよ。
だけれども暑いなと
解釈できるということは
母親が機能したってことなんですよ。
暑いなと
解釈できるから
じゃあ自分を涼しくしてあげようって
これお母さんのやることじゃないですか。
だからクーラーをつけてあげようと。
これを自分で自分にやれるんですよ。
この場合これが
十分に機能し得る。
どんなところでも大丈夫だと思えれば
人は寂しさというものを
覚えないんですね。
だけれどもそうはいかないですよね。
多くの場合。
どこかこれには限界があるんじゃないかとか
いつもいつもこうしていられるんだろうかとか
だからあれなんですよ。
倉園さんがよく言うとおり
過去と未来に思いを馳せすぎると
この欠乏というものから来る恐怖心というか
寂しさというか
寄るべなさというか
不安みたいなものは
むしろ強くなっていくんですね。
だって例えば
どんなに暑いところに置き去りにされても
いつまでも自分は大丈夫だろうか
ってここで考え始めると
怖くなってくるでしょ。
つまり自分が自分のニードを
解釈して満たしてあげることは
できるんだろうかと考えると
辛くなるわけですよ。
あるいはヒッセリーのケースを
どういう辛さがあるんだか
わかんないけどとにかく漠然と辛いと
漠然と不安だと。
解釈すらままならないと
言った時に
そこに解釈を与えられないと
ニードはニーズにならないから
手当のしようがないんですね。
こういう時にカウンセリングというものが
出てくるわけじゃないですか。
つまり何にもないのに
カウンセリングって受けないじゃないですか。
寂しいというのは
典型的ですよね。
寂しいというのはどうすれば寂しさが
埋まるのかはわからない。
もぐろを腐蔵とかに埋めてもらうと
だいたいいいことは起きないわけですよ。
だから自分が
何によってそれを埋めてもらえばいいのか
そもそも何を埋めりゃいいのか
というのを解釈してくれる
というのが第一歩なんですね。
母親がやるべき第一歩なんですよ。
ここで逆転させるんですね。
私は
それしかないんじゃないかなと思うんだけれども
ここで
人のニードを持っていて
しかも寂しさがあるんだけど埋めようがない
と思った時に
人のニードを満たしてあげる立場に
回るってのが
私が思うに解決策の
一つなんですよ。
つまり自分が環境としての
母親になる。
これが必要なんじゃないですか。
これができないから
自分一人になった時に
自分が環境としての母親を
失うんですよ。
自分が自分にどういうものが
必要なのかという解釈を
施してそれを提供してあげよう
というトライを繰り返す。
27:01
これ自分が自分にだと
毎度毎度外すとものすごく
きつくなってくるので
人をやってあげるといいわけですよ。
他人のそのニードというものに対して
解釈をして
満たしてあげるということの方が
よほどやりやすいし
解釈が仮に外れていても
いくらか感謝されるんですね。
ここで
ウィニコットもフロイトも他の人も
言ってますけど
完全に当たる解釈というものは
ありえないということが大事になってくるわけです。
つまりこと自分のことだと
特にそうなんだけれども
完全に解釈を当てようとしちゃうじゃないですか。
これカウンセリングでも
よくいましめられるんですよ。
相手の本当のニードを
見つけて
絶対に間違わない
需要を満たしてあげようとするんだけど
それをやろうとするから
しくじるわけですよ。
これも非常に微妙なんですけれどもね。
しくじることが大事ってのは
こういうところから出てくるんだろうと思うんですけれども
しくじりますよ。
絶対に。だって絶対に当たるってことは
原理上ありえませんからね。
赤ちゃんなんかの世話をしていると
すぐわかるんですけどね。
泣いているときに何してあげても
泣き止まないってことはあるわけです。
ニード自体を満たせないっていう話なんですけれども
そういうことはあるわけですよね。
田畑さんの
最近の本でも
その前の本でもありましたけど
あなたの発言は
ピントハズレのものがたくさんあった。
あれは
まさにその通りなんですよ。
ピントハズレのものがたくさんあることが
あるってことに
気づくことが大事なんですね。
これに気づかないと
絶対正しい解釈じゃないと
やっちゃダメだってことになって
止まるんですよ。
自分に対する解釈が
全部止まってしまう。
全部止まると人間関係壊しますよね。
付き合ってても
こいつはピントハズレのことしかしてくれないから
もうダメだってことになるじゃないですか。
サービスとかでも同じですよね。
完全に需要に合わせようと思うと
多分何にも
供給できなくなるんだろうと思います。
だから
自分が
寂しさを感じたとき
どうしても
どういう存在ならば
このニードを
自分のニードを
ニーズにしてくれるんだろうとか
あるいは満たしてくれるんだろう
っていう発想になるんだけど
人のを満たしてあげる
っていうのが
一番いいんですよね。
そういうことに関して言えば
いくらもあると思うんですよ。
だってパワハラ上司とかって言うじゃないですか。
つまりそれは
相手のニードがあって
満たしきれないときに
怒鳴られるとかいう話じゃないですか。
それがつまり
赤ちゃんが泣き止まないって話と
こういう場合を
解釈として一致させて
いいんじゃないかと思うんですよね。
それを満たしてあげる能力が
自分に身につけば
自分が寂しくていいときに
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自分に満たしてあげる母親ができる。
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