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2024-08-07 57:41

#238 「ドリーミング」が最強のソリューション!?ミンデルの凄みと拭いきれない怪しさ

「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。



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サマリー

ミンデルさんは、「ドリーミング」という概念を紹介し、合意的現実とドリームランドの2つのレイヤーに分かれていることを説明しています。さらに、アルコール依存症などの依存症の場合には、単に対象物を絶つだけでは問題が解決しないと指摘しています。ミンデルの主張は、依存症の治療にはアルコールを絶つだけではなく、心理社会的な面も含めて取り組む必要があることを示しています。現代の依存症の対策には心理社会的治療も取り入れられており、習慣を変えることや誘惑を避けるための対策が行われています。ミンデルさんは、明石さと意識の両方を持つことが悟りだと述べています。西洋的な文化では意識が重視される一方、東洋的な文化では関係性と集団が重視される傾向があります。本エピソードでは「ドリーミング」という発想について話されています。このドリーミングという概念は、現実と合意的現実を統合するためのものであり、臨床的な場面や仕事の場面で応用されています。次回のエピソードでは、プロセスワークと呼ばれるものについて話されます。ミンデルのスモボの話からすると何も信じられない近寄りがたい話かもしれませんが、ビジネスへの応用範囲は広く、今後の話が楽しみです。

ドリーミングの概念
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、前回はミンデルさんのドリーミングという概念を見てきたんですけれども、やっとちょっと心を開いてもいいかなという部分が出てきたというようなイメージですね。
そうですよね。僕の方もどんな賛成されていいかわからなかったので、だいぶ予防性を這いながら話したと思うんですけれども、
改めて前回のドリーミングというものがあるんですよとか、僕らが世界で捉えているものをミンデル様の合意的現実とドリームランドとドリーミングという3つのレイヤーに分けていて、
そういう僕らが普段現実だと思っている世界に対しても、ある種、普段は監視されないんだけれども、影響している世界があるんですよという話をしてきたかなと思います。
それ自体すごく役立つ考え方だなと思っていて、僕も今ポジティブにお話ししているんですけれども、
ドリーミングとかドリームランドみたいな世界観を持つことで、どんな良いことがあるんですかとか、何が変わるんですかということを今回見ていきたいなと思うんですよね。
だしミンデルさんはその感覚でこのドリーミングを扱ってるからね、そもそもね。
扱ってるって言うのは、まさに今日ちゃんとお伝えしていくんですけれども、
いわゆる臨床の場面ですね、病気の人か、症状があるという人に対して、ドリーミングとかそういう考え方を持っていると、より適切に対応できますっていう話なんだけど、
これもね結構割と僕の方で編集を入れてるんで、割と現代医学に近いような考え方もあるんですけれども、ちょっと一回聞いてみてほしいんですよと思っております。
これいきなり医療の話にいくんだけれども、身近な例として挙げられているのが、いわゆる依存症みたいな、健康に害がある趣味とか嗜好みたいな話がありますよと。
アルコール依存症とかギャンブル依存症とかって言われたりすると思うんですけれども、健康に生活に害があるものっていうのは病気だと思う。病気というかそういうふうに言われると思うんだけれども、
そこまで言わなくても、なんかちょっとこういうことしがちだとか、何かに対して依存しがち。
医療は、僕なんか結構やっぱり甘いものとか好きで、疲れると甘いもの食べたいとか、ポテチ一人でむさぼり食いたいとかってなるときが結構あるんですけど。
甘くなくてもお菓子?
甘くなくてもいいよ、お菓子。
それちょっとポテチのガリガリ感がいいみたいなさ、あるんですけど。
だからそういうある兄貴、依存とは言わないけど、結構こういうの確かによくとっちゃうかもみたいな。
ちょっとハヤットと若干被って申し訳ないんだけど、依存、禁断症状までいかないんだけど、大福?
なるほどね、大福依存症ね。
依存症はね、最近若干禁断症状出てるんだけれども、たぶんこれ最近の物価中の影響なのかわかんないんだけど、
合意的現実とドリームランド
マックスバリューとかイオン系列の、日本銀行とも違うのかな、スーパーで前だと大福5個入りで198円っていうのが売ってたもんね。
安いな、はいはい。
で、それ1日2個3個って食べるんだけど。
1日2個食べるのすごいね。
だけど、それが無くなっちゃったんだよ、店から。
本当に無くなっちゃったんだ。
プライベートブランドであったんだけど、じゃあっていうので、それ見つける前は山崎の豆大福1個98円みたいなやつを5個とか買って食べてたんだけど。
結構買うね。
それよりマックスバリューのやつが美味しかったし、それが無くなって今とても悲しい。今っていうか、こう数ヶ月から。
しばらく無くて、全然復活してなくて、先月1回だけ復活売ってて、やったーと思ったらそれ以降また見なくて、うわーってなってるね。
これは禁断症状かもしれない。
禁断症状かもしれないね。
話長いね。
じゃあマックスバリューの大福が無いときはどうしてるの?山崎の大福を買うの?
大福の摂取量が減ってるんだけど、そもそも。我慢できないときはそれ買ったりとか、あとは森岡のクロステラスっていう。
すごいローカルですね。
そこに宮沢県陣なんとかみたいな三直広場があるんだけど、そこでその三直に地元の人が作ってくる大福がたまにあるんだけど、それが大福で一番好きなんだけど、どうしても満たされないときはそれを買いに行くみたいな。
それね、立派に依存症だと思いますよ。大福依存症ですね。
依存症ですか。
おめでとうございますって感じなんですけど、もちろんそれで健康を害するとか、別に大福買いすぎて破産するとかないわけじゃん、今のとこね。
おそらく。
今後は分かんないけど。
っていうふうに言うと、もちろん健康とか生活に害をなさったわけじゃないんだけど、やっぱりどうしてもこれが欲しいとか、食べたい飲みたいとかってあるわけですよね、人間。
これはミンデルさんはある種、自分が望む結果を得る、要は大福食べたら満足するとか、やっぱり豊かになるとかってあるわけじゃない。
得るために、何らかの物質っていうものを保守する意識状態。これっていうのをある種依存傾向みたいな話で言ってるわけなんですよね。
はいはいはい。
それは別に悪いことじゃなくて誰にでも見られますと。
だから兄貴みたいに例えばそういう甘いものが食べたいとかさ、物理的とか生物学的に言ったら結構体とか脳が糖分を欲してますみたいなことを言えるかもしれないんだけれども、やっぱりそれだけじゃないよねと。
依存症の問題解決
要はある種このミンデルさんの依存的な話でいくと、その甘いものに依存してますよねっていうふうな話も言えるわけなんですよね。
うんうんうん。
ここは実はミンデルさん流なんだけど、この依存傾向っていうのは2つの種類がありますと。
ほうほうほう。
これ1つは日常的に自覚しているアイデンティティっていうものを支えるもの。これ要は合理的現実っていうふうに基づいて出てくる依存で。
うんうんうん。
もう1個がそのドリームランドとかドリーミングっていうレイヤー、こういった自分であんまり自覚できてない世界から出てくるような依存っていうものの2つっていうのがありますよっていうふうに考えてるんだよね。
ほうほうほうほう。
どういうことかっていうと、例えばある人が自分は結構シャキシャキと仕事をする人間だみたいな。そういうふうなアイデンティティとか自己認識を持っているとしましょうと。
そうすると、これ偏見も入ってるし別にミンデルさんはこういう例を出してるわけじゃないから、ちょっとそういうもんねって聞いてほしいんだけれども。
例えばコーヒー、スタバのコーヒーを飲むとか、あればエナジードリンクを飲むとか、それ結構刺激の強いものっていうものを取るんじゃないかっていうふうな話なんだよね。
なるほど、それはハヤトのあれだね。
うん、偏見。
なるほど、個人的にはあれだな、そういう人は例えばビジネス賞を読みやさるとかね。
それもありだよね。
ビジネス賞依存賞ってあると思うんだけど。
常にビジネス賞読んでるとか、別に日経新聞読んでたらいいんだけど、日経新聞読んでるとか。
っていうもので、自分は仕事ができますっていうようなアイデンティティを強化してくれるわけなんだよね。
一方で、例えば同じ人が夜になるとめちゃめちゃアルコールお酒飲んじゃいますと。
っていう場合、その人は自分は厳しい仕事ができる人間だっていうことじゃなくて、もしかしたらもっとダラダラしたいとか、仕事なんてできなくて構わない自分になってるわけですよと。
もしかしたら、あるいはオンとオフをちゃんと切り替える仕事ができる人間だって思ってるかもしれないけどね。
アルコールを飲むとか、ビジネス賞を読むとかっていう行動の裏にある、何をその人は意味付けてるんですかっていう話が出てきますと。
なるほど。確かにそんな人いたら結構愛らしいね。
素敵な人としては、むしろ人間性豊かな人だなって感じがすると思うんですけど。
ここで面白いのは、合意的現実というものだけで考えると、夜にあってお酒を飲むっていうのが、仕事の力を癒したいとか、自分はそもそもお酒が好きなんだとか、そういうふうなことに置き換えられる。
これって要はもっともらしい理由なんですよね。
確かに今のような人もいるかもしれないけど、割と矛盾はしてるもんね。
例えば、めちゃくちゃビジネス賞読むけど、夜はめちゃくちゃ酒も飲むみたいな。でも確かありえそうだけど矛盾してるよね。
矛盾してる気がするじゃないですか。
なので、普通に過ごしてる時は、自分もそういう仕事ができる人間のアイデンティティとして生きてるんだけれども、
例えば、裏というか、本当の欲求って何ですかとかってもし掘り下げていくと、実は自分は仕事っていうのはそんなに大切じゃなくて、
実は仕事ができない自分の方が、むしろ自分にとっては本質なんだってことがあり得たりするわけなんですよね。
っていうふうに、結構そのセラピーとか治療行為とか、テリアカウンセリングとかでも結構あったりするんだけれども、
やっぱり本当の欲求とか本当の理由っていうのが出てくるっていうのは結構あるんですよね。
こういうのがミンデルさんに言わせると、普通の人っていうのは合意的現実の世界で生きてるんで、
なんでそんなに仕事頑張りたいのに夜お酒飲んで、そんな疲れで例えば起き上がれなくなっちゃうとか、
ソファーで寝込んじゃうぐらいお酒飲むんですかっていう時に、それはある種、仕事のストレスを癒してるんですとか、
自分はお酒が大好きでお酒飲まないとやってらんないですって言うんだけど、
それも合意的現実の話で、まさにドリームランドとかドリーミングっていう世界に降りていくと、
実際のあなたが本当は仕事ができる自分というアイデンティティじゃなくて、
仕事ができなくても誰かにちゃんと認めてもらえるとか、受け入れてくれるというアイデンティティの方が大事なんじゃないですか、
っていう話になっていきますっていう感じなんだよね。
だからそれは結構理解できる気がするじゃない。
もちろんオーダーメイドだけども、人それぞれによってある気がするよね。
ある種これに自分では気づきにくいよねとか、普段もそういうこと考えないっていうのが、
ミンディルさんから言わせると、ドリーミングとかドリームランドっていう別の世界のことを知ることができない。
もっと言うとそういう認識力というか繊細さがないからだっていう話をしてるんだよね。
なるほど、なるほど、はいはい。
それは結局認識力の問題だっていう話が結構面白くて。
そうか、なるほど、認識?
わかんないとかじゃなくて、そこのセンサーなくなってるより弱まってるよりって話をしてるのか。
そうなんです。前回もいわゆるアボレジニとかそういう先住民の話をしたと思うんですけれども、
彼らはそこに対して認識力を持っているとか失ってないから、ある種そこにアクセスできるとかそこの大切さを話してるんだけど、
もう僕らというかそういうふうに生きる人たちがそういう繊細さを失ってしまったので、
ドリーミングとかドリームランドっていうような世界にアクセスできないんだっていうふうな話なんだよね。
はいはいはい、思い出そうぜと。
そう、思い出そうぜと。磨いていこうぜと。
ちょっと言葉が増えて申し訳ないんだけれども、こういう認識力とか繊細さ、
ドリーミングみたいな世界を見ることとか感じることができる繊細さのことをセンシェント、見にくいな。
センシェントね。
センシェントっていう言葉で言っていて、これは英語で普通にある言葉で、
感じることができる力みたいな、ある種センスみたいな話なんだよね。
この明石さがあるかないかって、普段ある種自分が自覚できてない自分とか、
ある種本当の自分みたいなものがいたとしたときに、それに気づけますかどうですかってことに繋がってくるんだよね。
はいはいはい。
これっていうのは結構ミンデルさんから言わせると、特に西洋の医学というものにおいてはやっぱり見過ごされてきたもので、
要は例えば依存症、さっきのアルコール依存症とかの話でも、
基本的にはその依存症の場合っていうのは、ある種その人とその対象物の関係を立つっていうことが、
ある種メインに置かれてるんですよね。
これはある種、今の現代医学でもその通りなんだけども、
アルコール依存症であればまずはお酒を絶ちましょう、断酒とか、
タバコもそうだよね、タバコ依存症だったらまずタバコを吸わないようにしましょうっていうところからもちろん始まってきますと。
これは悪くないんだけども、アルコールを絶つとかタバコをやめるっていうことだけでは、
やっぱり本当の問題は解決してませんよねっていうのがミンデュルさんの立場なんだよね。
ドリーミングと依存症
それはなんかわかるよね。よく言うもんね、おもとの解決しないと、
例えば犯罪にしてもさ、おもとの環境を変えないと再犯しちゃうよみたいな。
そうやって今2020、2024年か。
できる僕らからすると当たり前だって話なんだけども、当時1980年とか90年とか、
やっぱり当時やっていた臨床の世界において言うと、
それはある種、おもたって言ってる人って少なかったらしいんだよね。
なるほど、もっとすごいものにしていた俺たちみたいな感じで、
もう医療すごいみたいなね、薬すげーみたいな感じだったんだろうね。
そうじゃなくて、ミンデュルさんに言わせると、
単純に今兄貴が言ってくれた通りなんだけれども、
アルコールをやめた、お酒を飲まなくなったとしても、
本来持っている、自覚されていない自己認識とかアイデンティティとか、
もっと言うと、ドリームランドとかドリーミングっていう世界のレベルでの問題、
それは解決されない限りは本当の意味で依存症があることはないんだよね。
だからあくまでもアルコールに依存してますとか、
お酒飲みすぎちゃうんですっていうのは合意的現実だけの話であって、
それは現象とかあくまでも結果なんだよね。
これもうちょっと補足すると、合意的現実の世界でいくと、
お酒を飲みすぎるからアルコール依存症になるとか、
あるいはアルコール依存症になったからお酒を飲みすぎてしまうっていうのが
ある種原因と結果の関係じゃないですか。
これはある種そんな風に見えているだけで、
本当の原因がドリームランドとかドリーミングにあるとすると、
まず自分が抑圧している欲求とか、
本当の自分があるからお酒を飲みすぎるのとか、
依存症になっちゃったのっていう縦の原因と結果っていうのが出てくるんだよね。
なるほどね。そっちまでやっぱり振り下げられる。
ドリーミングの現実とドリーミングの対策
例えば現実世界だけで言うと、家庭環境がとか、
っていう話になるかもしれないけれども、
あそこを突き詰めていくと、多分みんな的にはこのドリーミングとか、
ドリームランドの話には結局落ち着く。
個人の中だから、その家庭環境を自分がどう捉えているのか、
そういうところまで含めていくと、結局そこには落ちていくよねみたいな話になるのかな。
そうなんです。だから個人だけじゃなくて、
個人と物との関係性とかも含むんだけどね、このドリーミングっていうものは。
だから例えば家庭環境で、例えば親がすごくDVがあってとか、
すごくお金がなくて家も荒んでいてとかっていう話もあるかもしれないんだけれども、
その現実というか、その公的現実の中で結局何が行われてるんですかとか、
どんな関係性において生きているからそういうふうなことが起きてるんですかっていうことを捉え直そうって話なんだよね。
これもある種、現実の世界のレイヤーでもちろん関係性とかっても捉えられるんだけれども、
もっと表に出てこないものとか、もっとすごく言語化しにくいんだけど、
詳細なことというか、普段は目にも留まらないようなことが実はすごく大きな意味を持っていたっていうような考え方をしましょうというか、
そういうふうなことにも目を向けましょうっていうのはこのドリーミング的な考え方なんだよね。
本当の本当の原因どこにあるのやみたいなね。
そうだね。
たださっきのめちゃくちゃアルコール飲む人の家庭環境が原因だっていうときに、
酒もたって、ある意味毒耕屋みたいな人から引き離しましょうと。親とも引き離しましょうと。
それで治んのみたいなね。
はい、そうなんだよね。
どこまでも物理的な世界とある意味精神というかドリーミング的な世界は、別だったことをちゃんと認識しましょうみたいな。
ミンデルの主張というか、概念はなんかわかる気がする。
そうだね。ただ単純に毒耕屋みたいな人がいたとして、
親との関係性が良くなったからOKかっていうと、それだけでもないっていうことがあって、
それもある種目に見える一つの現実でしかないから、
結局その根底にある、もしかしたら自分自身の価値観かもしれないし、世界の取り方かもしれないし、
そういうのも全部引き締めて、結局はドリーミングの世界から出てきてるんだと。
いうようなことがありますよと。
なのでミンデルの発信としては、やっぱりそういう根底にあるもの、
本当の原因とか本当の欲求ってドリームランドとかドリーミングの方にあって、
そっちを捉えに行くことで、合意で現実に起きるそういった依存症とか、
そういった症状っていうものが治るというか、そこにちゃんと取り組んでいけるんだっていう話なんだよね。
なんかそうだね、こういう人が心理学者というか臨床心理科のお医者さんでもあったんだよね。
そう、お医者さんです。臨床科です。
でもあったというかお医者さんなんだね。
お医者さんです。メインのキャリアがそこです。
ということを踏まえると、さっきのハエトのさ、当時のアルミスの薬すげえとか外科手術すげえみたいな、
心理社会的治療の重要性
たぶんそういうアルミスの科学すげえみたいなところで、
うちらが言ってるようなさ、アルコール依存症にも大元の原因があるでしょうみたいなところが、
よりそこからもうちょっと進んだというか、時代が進んだ考えだとすれば、
やっぱりだいぶ早い時点で、そういった本当の原因みたいなところ、対象療法じゃないところ、みたいなところで目を向けたっていう意味ですごそうだね。
独自性があるか。
これ言おうかどうしようか迷って台本には入れなかったんだけどね。今ちょっとあまりにもミンディルさんわかるじゃんすげえじゃんっていう感じでそうだったんで、
逆のバランスを取ろうと思うんだけど、本の中でね、個人的な例としてそういうドリーミングにつながったとか、
そういうのを気づいたみたいな例がいくつか語られてるんですけど。
なるほど。悟った瞬間みたいなね。
悟ったっていうか、日常の中でドリーミングの世界から出てきたものを捉えたみたいな話があるんだよね。
それを奥さん、奥さんも研究者というか実践の方なんだけど、奥さんとの会話があるんだよみたいな話があってちょっと紹介したいんだけど、
なんかね、奥さんとミンディルさんが一緒にジョギングをしてたんだって。
それで話しながらどんな夢を見たのとか、どんな自分のことを話したらしいんだけれども、
突然ミンディルさんにそういう衝動が出てきて、その衝動をちゃんと捉えてみようとしたところ、
奥さんの頭から何かを引っ張り出したいっていう欲求が出てきたんだって。
で、何かっていうものをちゃんと見てきたところ、スモモ。
スモモ?はいはいはい。
スモモを取り出したいんだっていうような欲求が出てきて、奥さんに対して、
申し訳ないんだけど、君の頭から大きなスモモを引っ張り出したい欲求に変えているんだ、僕はって言い出したんだって。
はいはいはいはい。
そしたら奥さんがめっちゃ笑って、実は私、スモモの夢を昨日見てたのって言ってたんだって。
ドリーミングみたいな。以上。
あ、ごめん。やっぱりちょっとついてきてないわ。
そうでしょ。
あー。うわー。
そうか。だいぶハヤトが、実用性フィルターみたいなものを残してくれてたんだなっていうのがわかったね。
なるほど。これきついわ。その本読めないわ。
読めないよね、たぶんね。
そこでたぶん閉じるかも。
あー、なるほどね。そうか。だからドリーミングの世界観はあくまで今の話なんですよと。
そう。
そういうことは忘れちゃいけないんだね。
そう、あくまでもそういうことなんだよね。
なるほど。
例えば論文があって、これは全然別の日本人の人が書いた論文なんだけれども、
ドリーミングみたいなセッションを試しにやってみましたっていうロールプレイのログみたいなものがあって、
ビジネス的なシーンで、上司と部下かな、そういう関係性を直していこうみたいなロールプレイをしてたみたいな話があるんだけど、
そこで突然いきなり参加者の、あくまでも一般人というか、本当の現場じゃなくてロールプレイの中でいきなりその人が、
母、私が全て間違っておりましたって土下座をしたみたいな、
へー、ほいほいほい。
そういうことが書かれてて、
でもさ、そんなこと起きないじゃん、リアルで。
まあリアルじゃん、そうだね。
あるのかもしれないけど、ちょっと大げさじゃないとか、
本当にそういうことをやりたくなるって、やっぱ疑いの目で見ちゃうじゃない、なんか。
うーん、まあね、だったりとかそうだね、
それ仕事関係ないよね、たぶん別の欲求を満たしてる気がするから、
気持ち悪いよね。
そうそうそうそう。
ビジネスじゃない、別のそう、なんか。
確かに。
ちょっとやっぱり一種の気持ち悪さというか、
それってなんか大げさすぎないとかやっぱり感覚になると思うんだよね。
さっきの酢桃の話も、
いやいきなりさ、奥さんの頭から酢桃を取り出したいんだみたいな欲求が出てくるっていう、
ちょっとやっぱり疑いがあるし。
いやー、そうだねー。
はい。
わー、聞きたくなかったなー。
すみません。
はい。
なので、やっぱりこのミンデルさんの話っていうところは、
もちろん考え方とか発想っていうところはすごくたぶんなじむし、
そういう日常的な行動の奥底にあるやっぱりものを捉えましょうってことはあるとは思うんだけど、
じゃあ出てきたものが、例えば酢桃を取り出したいっていう欲求でしたとか、
今すぐどいざして、なんかその上司に切れ不死したいですっていう欲求だとしたときに、
それをどう当たるかっていうのは結構やっぱ難しいと思うんだよね。
いやー、そうだねー。
そこをミンデルが考えたことだから、ミンデルが言う酢桃はたぶんドリーミングなんだろうけど、
たぶんね、それドリーミングじゃないと思う。
ドリーミングっていう世界観があったとして、
そのドリーザーも、その提唱者であるミンデルが言ってる、
大きさの玉から酢桃を売るのはドリーミングじゃない気がする。
どういうこと?どういう批判なの?それは。
だからこれは、この話に面白さを持たせてくれてるのが、
なんだろう、たぶん何かの思想があったときに、
それによくわからず、なんとなく賛同して、
いいねーっていうことの怖さってあると思うんだけど。
なるほどね。
で、ヒッピーが実際どうかは知らないよ。
その、提唱者もそうだったかもしれないからよくわからないけど。
このミンデル、結構すごいこと言ってるのに、
提唱者がちょっとおかしいというか。
もうそこが残念だね。
残念なのか、逆にそこまで感じられた人だからこそ、
こういうことを言えたのかって、それはわかんないんだけどね。
むしろ天才だったのかもしれない、ミンデルさんはね。
本当のね。
本当の意味で。
それはやっぱり我々本人からすると、
正直ついていけないってものなのかってあるんだけども、
ちょっと話はまた戻して、ミンデルさんが考えたことっていうのは役立つと思ったときに、
実際これはちょっとミンデルさんがそういった臨床の世界でやってたときに、
いろんなそういう、いわゆる普通のお医者さんに聞いたんだって。
でも依存症って、いわゆるアルコールを絶つとかさ、
そういうふうなことで、普通の医学でどんだけ治るんですかって言うと、
やっぱりそれって25%くらい治らなくて、
5年とか10年というスパンなんだって言うのも、
経つと基本的にはみんなまた戻っちゃうんだって話をしたらしいね、当時で言うと。
はいはいはい。
そうではなくて、やっぱりちゃんと社会的なとか心理的な面も含めて治療するってことが大事で、
実際ちょっと僕も調べたんだけれども、やっぱり現代のそういった依存症の対策においても、
そういう心理社会的治療っていうふうな領域があって、
お酒をやめようとかやめ続けようという気持ちを支えるために、
そういうお酒を飲まないと、そもそも習慣をつけましょう。
要はコンビニに行って、例えば会社の中にコンビニに行ってお酒を買っちゃうとしたら、
コンビニのようなのやめましょうとか。
あるいは、やっぱりそういうふうなチーム、
要はそういうふうに自分も依存症、かつて依存症だったとか今も依存症だった人たちの中で、
ちゃんとやり取りをする人間環境を作っていきましょうとか、
そういうことが結構普通に行われたりするらしいんですよね、現代の医学においても。
はいはい。なんか映画とか、アメリカの映画とか見るとそういうシーン結構出てくるよね。
アルコール依存だったり、ドラッグ依存の人がプログラムを受けて、
先生の周りで円くんで喋ってるシーンとかよく見るよね。
そうそうそうそう。まさにそういうイメージなんだけれども。
もちろん直接的にミンデルさんの貢献だとかってことではないんだけれども、
うちまさに別にドリーミングがどうとかって触れられてはいないんだけれども、
やっぱりそういう関係性においてとか、
もうちょっと深いレベルで問題が起きてるっていうふうに気づいたっていうところが、
やっぱりそういったミンデルさんとかを含めた臨床の経験があってこそなんだと思うんだよね。
時代に入っていくとそこは納得するよね。
医療最高って言われてるときに、もっと奥の原因がみたいなのは、そこはすごそう。
やっぱりフロイトとかイングとかミンデルさんみたいな人たちのところがあるからなんだけど、
ただやっぱり有名な話とかすると、すごい作曲みたいな質問も出てきちゃうんで、
やっぱりそこの方どのくらい受け入れられますかっていうところが正直ありますよという感じなんですけど。
天才性があまりに理解されないんだろうな。
そんな具体例やめてほしいわ、もう。
いやもうそんなんばっかり具体例読んでると。
だから僕もちょっと最初に予防線貼ってましたって言われたんだけど。
でもあんまりにミンデル信者になりそうだったら、ちょっとそういうエピソードを教えて。
一気に厳密にするかも。
今は割とアルコール臓症みたいな原理的な話をちょっとしてきたんですけれども、
もう一度中小度を逆に上げたいんだよね。
明石さと意識の両方を持つ悟り
どういうことかっていうと、ミンデルさんに言わせると、
ドリーミングを意識する、つまり名責であるとか認識力を上げるっていうところは、
仏教でいうと悟りの話につながってくるんですよ。
これはミンデルさんなりに悟りっていうものを結構明確に定義をしていて、
悟りっていうのはまずはドリーミングみたいな、
そういう普段感じたいものを感じている認識力。
これは名責さって言ってるんだけど、
名責さと合意的現実とか、あとドリームランドも含むんだけど、
この部分を認識できる。
これを彼は意識って呼んでるんだけど、
この名責さと意識の両方を持つことが悟りなんだっていうふうにミンデルさんは言ってるんだよね。
へー、ミンデル何者なんだって感じだな、確かに。
悟りを定義してました、自分で。
名責さっていうのは、前回おっしゃってたような、
ある種、すべての根源だとか、物事が持つ傾向とか、
前回に言ったところで言うと石が火打ち石になるとか、
ドアが開く傾向を持つとかってこともそうなんだけれども、
そういう自分と物とか、生き物と物、
ある種、あらゆる物と物の関係性において、
物が持っている傾向性を感じる力なんですよね。
これを最大限押し広げると、
それこそ浪子草子の道とか、ブラフマンとかっていうふうに、
あらゆるものの根源を認識しますっていうふうなことにつながっていきますと。
そこはわかる気がするな。
これが名責さで、一方で意識っていうのは、
ミンティレさんで言うと、部分に気づくっていう意味合いで使われてるんだよね。
それはどういうことなの?
どういうことかっていうと、
普段夢を見るときは想像してほしいんですけれども、
いくら夢だと言っても、本当にカオスとのぐちゃぐちゃの夢っていうものは少なくて、
何らかの登場人物がいたりとか、物があったりとか、
学校でも山でもいいんだけど、そういう場所があって、
その中でやりとりはしてると思うんですよね。
夢のほうが現実に比べれば、結構突拍子のないことが起きますよとか、
すでにある種亡くなってしまった人と楽しく遊んでいるとか、
そういう合意的現実では起きないような関係性が起きたりしますよと。
なので、ある種その夢っていうのは基本的には、
個々別々のものがあるっていう意味では意識で捉えてるんだけど、
ただその中で普段では起きない関係性が表に出てくるとか、
意識っていうとまた違うな。
普段は目を向けないようなことが起きてくるっていう意味では、
そういう繊細さっていうところにも気づきやすいような領域境界だっていう話なんだよね。
逆に言うと現実の世界、合意的現実では、
もちろん普段は見えないものは見えないわけで、
繊細さっていうのは働きにくいんですっていう話でいくと、
合意的現実っていうのは基本的には意識、
個々別々の存在っていうものを認識する世界、僕らが生きていて。
ドリーミングは繊細さの世界で、
ドリームランド、夢の世界はその両方が混ざってますっていうふうなグラデーションなんだよね。
なのでちょっとこれをまとめてわかりやすく言うと、
繊細さで全体性とか関係性とかを捉えながらも、
意識っていうもので個別性とか多様性、
両方をちゃんと認識していることが悟りなんだと。
どっちか一方じゃダメなんだよっていうふうな話をしてるんだよね。
仏教とかちゃんと勉強してる人なのかな。
すごい言語化レベル高い気がするんだけどね。
大人はどう思うか。悟りの状態で言うと。
本当にそうで、
仏教とかもそうなんだけど、
悟った後に現世に帰ってくるって話を何回もしたことがあると思うんですよ。
あっちに行きっぱなしじゃダメで、
仏の世界で俺は悟ったとかって言って、
ただ仏の世界に生きてる人っていうのが、
それはそれでやっぱり途中だと。
ちゃんと現世に帰ってきて、
現世の人と一緒に生きるっていうことが大事っていう話とすごく近いなって思ったんだよね。
近いもんね。
例えば、ドリーミングか。
ドリーミングをドリーミングのまま理解するっていう状態だと、
たぶん現世では生きていけなくて、
ちゃんとそこに明石だけか、意識だけ。
意識だね、意識。
意識。そこを意識でちゃんと輪郭作ってやるみたいなことができないと、
たぶん戻ってこれだけなんだよね。
たぶんドリーミングの世界だね。
まさにこれはもう、まさに四季即是空の話で、
要は四季は空であるんだけど、
空も四季だって、やっぱり行って帰ってっていうのが必要なんだよね。
ただ自分も全てだとかってやると、
ただそれで自分がほんとなくなっちゃって、
もうどうしようもありませんでやっぱりなっちゃうじゃない。
そうじゃなくて、ちゃんと戻ってくるとか、
自分は自分であるってことも大事なんだよね。
確かに、完全に一元の世界で、
俺もあなたで、あなたも俺で、
そうすると、もうなんか、
じゃあもう、やっぱり現世、
今のこの自分っていうのがもう崩れちゃうからね。
崩れちゃう、よくわかんなくなっちゃうんで。
ただこれをさ、あんとなく現実的世界だけの話じゃなくて、
ドリーミングも含めての話なんですよ。
でもそういう世界が違う中で、認識も違うから、
僕らは、まさに何か言ったような、
俺がお前で、お前が俺でみたいな、
全体性とか、
あるいはね、自分も仏で、仏は全てであるみたいな、
そういう話も、ただ現実世界の話だけじゃなくて、
ドリーミングまで含めると、
確かにそういうことってあり得るよねとか、
そういう世界観とか認識の違いだって思うと、
ちょっとわかりやすくなるんじゃないかなっていうふうに思うんだよね。
いや、そうだね、確かに確かに。
前回の量子ポテンシャルの話もやっぱり、
確かにいいと思うんだけど、
そうだもんね。
うちらはその量子ポテンシャル、
ポテンシャルがある中の、
表出した一個が、この世界とか、
うちらが何か認識してるとか、
ドアでいうと、うちらが何か一個を認識してる、
言い付けをしてるのが、その結果だとすると、
やっぱその量子ポテンシャルっていうものを、
そういう人が理解するっていうことは、
やっぱり悟りと悟った、
例えば空というか、空自体が理解するもの、
ポテンシャルって何の何より空だって話だと思うんだけど、
それをただそのまま、
いやー、わかったって言ったら、
それはもう何も起こらないから、
例えばドアはシールを貼られるものかもしれない、
全部フラットにそのポテンシャルを理解した上で、
じゃあ今はどうか、この人はどうか、自分はどうか、
今この瞬間の自分はどうか、
今この瞬間のこの人はどうか、
みたいな話が、
常にフラットにその世界を構築、
そのポテンシャルの世界、空の世界から、
この一瞬一瞬を構築し続ける段階に至った、みたいな、
そこはやっぱり悟りの概念と共通するというかね。
ミンデルやっぱすごいなと思ってきたね。
はい、わかったわかった。
さっきね、落としたんでちょっとまた上げれてよかったなと思ってるんですけど、
それで捉え方を踏まえ、
まず今兄貴がやってくれてるような捉え方なんだけれども、
それを踏まえてミンデルさんは、
全ての人間にはこの明石さというものと意識、
この両方を扱う力があるんだというふうに言ってるんだよね。
ただとはいえやっぱり、
いわゆる文化的なものというか、
西洋とか東洋という比較軸を仮に使うとしたら、
これも一人の中に西洋も東洋も両方あると言ってはいるんだけど、
やっぱり西洋的な人の方が意識に焦点が出てきてて、
西洋と東洋の文化の比較
やっぱり東洋的な人の方が明石さとかに焦点が出てきたというふうに捉えてるんだよね。
あー面白いね。
そうするとそこの比較も可能になるのか。
そうそうそうそう。
ある種現実的なレイヤーでいくと、やっぱり西洋的な文化はこうが重視されますよと。
これはまさに意識で別々のものを重視してって話になるし、
東洋的な文化だと集団とか全体性というものが重視される。
これは個々独立にいくという意識だけじゃなくて、
やっぱり繊細さも働いているからそういうふうな傾向になるんじゃないかという話を考えるんだよね。
なるほど。
僕らには多分死後になってるのがあれなんだけど、
昔KYみたいな言葉がちょっと流行ったじゃないですか。
空気読めない。
空気読めないってあるんだけど、
まさにこの空気を読むっていうのは、
この全体性の中で関係性とか暗黙の了解だよね。
それを捉えろって話じゃないですか。
そうね。
これがあんまり言われなくなってきた、
ちょっと今本当にどうなのかわからないんだけれども、
日常生活で個々人が尊重されるとか、
別に空気を読むんじゃなくて自分らしくあるっていう方がいいよねっていうこと自体は、
個人的には全然いいかなと思うんだけれども、
ただ逆に言うと、
ある種ドリーミングというか、
そういうのを認識する明晰さっていうものの価値が失われてるとしたら、
ちょっと問題かもしれないなとかっていうのも思ったりするんだよね。
なるほどね。
この個人っていう子の尊重の引き換えに、
集団性全体性みたいなものが失われてるとすればって話だね。
すればって話。
自己の意識と集団性全体性の関係
もちろん空気を読まなくても生きていけるっていうのは素敵なことなんだけどっていう話ね。
そういうことも含め、西洋と東洋の話を少し続けていくんですけれども、
これもある種ミンディルに言わせるとなんだけど、
西洋の伝統っていうのは基本的には自我っていうものを重視してきましたと。
やっぱりこの近代的な自我とか意識とか、まさに自己の意識だよね。
これはミンディルさんは小さな自己って呼んでるんですよ。
どういうことかっていうと、自己が確立されて、
その子、私っていうものが別の子、別の私とある種コミュニケーションしていくというか。
そういう意味で言うと、西洋における子っていうのはこの私、観のハヤトっていう私だけなんだよね。
これがある種小さな自己です。
東洋においては逆に言うと大きな自己っていうものが重視されるんだけれども、
これがいわゆる集団の中における自分だよね。
家とかもそうだと思うんだけど、観の家におけるハヤトっていう、
次男としての自分とか、奥さんに対しての夫としての自分とか。
そういうふうに、ある種、奥さんがいるから自分が旦那としているみたいな、
そういう関係性における自己だよね。
なるほど。世間がとかそういう話じゃなくて、関係性みたいな話?
そうそうそう。
それが広がっていくと当然、〇〇社の私とか、〇〇県に住んでる私とか的にも広がってきたらすると思うんだけど、
そういう社会とか世間とか関係性においての私っていうものが、やっぱり重視されてきたと。
なるほどなるほど。確かにそれが割と自然だから、
西洋の自己と何が違うんだとなるんだけど、そこは全然違うんだね。
全然違うんです。
もちろんこれはどっちも良い悪いというのは当然あって、
やっぱり大きな事故が良いかっていうと、やっぱり別に子を殺して多数決に従うとかさ、
やっぱりそういうことが集団占領みたいな浅はかさにつながる部分もあるわけなんですよね。
それは西洋の話かな?
これは東洋の話。大きな事故の話。
それと多数決というか空気を読むみたいな話だね。
そうそう。集団に自分を埋没させるみたいな話だね。
なので、ある種みんなが言うからそうなんだみたいな話になりやすいのはやっぱり東洋的なものだとしたときに、
ピンディさんはどっちが良いとかってことじゃなくて、やっぱり両方大事だよねと。
とにかく今の、特に西洋人とか資本主義的な文化に生きる人たちが、やっぱり小さな事故、
個別性とか差異っていう方に価値観が偏っているので、
もうちょっと明石さというかドリーミング、これを第一にしたらどうですかっていう話なんだよね。
なるほどね。全格好いよねって話だね。
全格好いやつの話なのかな?どういうところで?
禅を取りに行っていきましょうねっていう話だね。西洋の方からすると、例えばね。
実は、本の中でも禅の話が取り上げられてて、
それは今日の話を最後にお伝えしたいんですけれども、
禅の世界において、日々これ法術っていう言葉があって、
もうちょっと言うと、なんか聞いたことあるかもしれないですけど、日々ね。
日々これ、良いっていうのは好きなんだけど、の日っていうので、日々これ法術。
日々これ良い日だねっていうのがあって。
これはね、中国で唐の時代ですね、そのときのお坊さんの言葉で言われてるんですけど、
これを、ミンディさんは英語系の人なので、英語で言うと、
Everyday is a fine dayなんですよ。毎日良い日だねっていう。
ただこれもね、面白くって、日常的なとか小さな事故の観点から捉えると、
これって嘘なんですよ。毎日良い日だねって言われてさ、
今日別に良い日じゃなかったけどってなるわけじゃん。
例えば、これも例にあったんだけど、仮にね、ある人が自転車で事故ってさ、足を折っちゃいましたと。
そんな人に対してさ、もうEveryday is a fine dayみたいなこと言ってもさ、
足折ったんですけどこっちはみたいな。
まあそうなの。その皮肉というか嫌がらせだよね。
そうそうそうそう。良い日だって思えないじゃねえかみたいな話なんだけど、
ここでも小さな事故と大きな事故を区別しましょうって話があるんだよね。
はいはいはい。
これもアニキはどこまで納得してくれるか、僕は今楽しみながら話してるんだけど、
まず小さな事故にとっては、まさにさっきの通りで、
骨折は嫌なこととか悪いことじゃないですか。
なんだけど、大きな事故の視点に立つとね、
この善悪、良いとか悪いっていうことを超えて、
足を折ったっていうことが重要なことだったって場合があり得ますよね。
これって日本で言うとけがの功名とかさ、
あとは最近で言うとあらゆるものはメッセージだみたいな話もあるんだけど、
例えばね、足を骨折したっていう場合でいくと、
なんかね、実際にそういう人がいたのかなっていう感じで書かれてるんですけど、
足を折ったっていうことに対して要は命づきになりましょうと、
ドリーミングを感じましょうと。
するとそこから、実は自分は動かないとか静かであるってことを求めてきたってことが見えてきました。
要は足を折って歩けなかったんじゃなくって、
歩きたくなかったとか、回りたくなかった、
それをある種無視し続けたから骨折ってことが起きたんだみたいな。
それに気づいた今、足を折ったなんて素晴らしいみたいなね。
っていうことが気づくじゃないかっていうふうな話が書いてるんだよね。
なるほど。
どうよ、この取れ方。
いわゆる気の持ちようみたいな話、手がのっこみを無理やりだけど、
そういう意味ではさっきのスモモよりはだいぶ納得感はある。
もちろんね、その程度の話でね、がんになった人にさ、
前回から冒頭もあったけどね、
その考え方次第で寿命が2、3年伸びるみたいなのがあったけれども、
それが気休めなのかどうかみたいなところはあるんだけれども、
とはいえそうだよね、折ってもう終わりだよりは、
この状態、休めが長期バカンスだと思うよみたいなね。
それは何かわかんなくはないかな。
そうだよね。
もちろんね、ある種だから全てのことをポジティブ変換せよってことでもなくて、
当然足音のひどいことだし、嫌なことなんですよ。
ただ同時に、それにも何らかの意味があるよねとか、
それによって気づけることがあるよねっていう話がある種大きな事故の捉え方なので、
この両方の視点を持つことで人生がよりバランスを取れたものであるよねっていう話なんですよね。
だからある種の小さな事故だけで足折るなんて最悪だみたいな、
なんかもう俺の人生終わったっていうのもちょっともったいないし、
逆に大きな事故だけで全てハッピーみたいな、
ガンになっても足折っても何があっても家が火事になっても全て最高みたいなのもやっぱりちょっと最高じゃん、
それはそれで。おかしいじゃん。
そこの両方をちゃんとバランスを取っていくっていうところが結構大事。
別にみんてるさんがそこまで言ってたらこれは僕の結論なんだけど。
っていう意味でいくと、ただ単純にポジティブ思考、最高でもないし、
うじゅうじゅするだけじゃないよねっていうところの観点として、
小さな事故とか大きな事故とか、そういう現実世界、
合意的現実とドリーミングっていうところの両方があるっていうことが、
結構役立つんじゃないかなって思いましたっていう感じなんだよね。
はいはい、まあそうだね。
実際のところはわからないけれども、
確かにみんてるさんが多分、患者さんだったりとか増える機会が多いのは、
例えば小さな事故、そういう人が多いとすると、
例えば足折ったとか財布を落としたとか、
そういう嫌なことがある、例えば今日も仕事つけなかったとか、
給料安いみたいな、多分そういうのでマジで病んじゃう人、
多分多かったのかもしれないよね、もしかすると。
そういう人たちにはやっぱり、大きな事故の存在っていうものを
ちゃんと感じてもらわないと、基本的には根治しないというか、
感治しないというかさ、
結局次の日また小銭落としたりとか、
列に誰か割り込まれた時にまた病んじゃうみたいな、
そういうのがあったのかもしれないね、と思ったね。
そうだね、そうそう。だから途中でパニックがやってくれたと思うんだけれども、
その観測したとか現実と理論があった時に、
両方を付け合わせていくっていう大事だと思うんだけれども、
いわゆる今病んでるとか辛いっていう人に対して、
現実のことだけ考えてもうまくいかないことがある。
もしかしたらそういう人がミンデュルさんのところに来たっていう
因果関係もあるかもしれないけれども、
治る人は普通のお医者さんで治ってるわけだから。
そういう人に対して、ただ合意的現実だけじゃなくて、
ドリーミングとかも考えましょうとか、
足を折ったということだけじゃなくて、
その折ったということの奥に何があるかを見ましょうという話が、
やっぱり役立つ人もいただろうし、
それをある種論理立てるというか、再現性を持たせるために、
そういうドリーミングとか、ドリームランドとか、
そういうふうな概念を作ったっていうところは、
ドリーミングの応用
やっぱりすごいことだなって思うんだよね。
ちょっとこういう深いのはさ、
これをドリーミングみたいなところにしていて、
これって例えば、いわゆるキリスト教社会であれば、
そっちと紐付けた方がさ、
わかりやすい人も、すんなり理解できる人とか、
身体的に理解しやすい人も多いんじゃないかなって思うんだけど、
それやってないのかな。
どういう感覚?それって。
なんかこのドリーミングという感覚が、ある意味その信仰宗教というかさ、
はいはいはい。
スペイチャルという言葉を最初に使ってたけれども、
なんかミンデルが開発した一つの体系みたいに見えるんだけれども、
なんというか、いわゆるキリスト教社会において、
例えばミンデルが本気で、
そういうこれを実装しようとしたときに、
うまくキリスト教の世界観とはなじまねえのか、これ。
神の世界みたいなこと?
そうそう。神の世界というか、
キリスト教的な世界観の中に、
これ入れ込める方がわかりやすいのかなと思ったんだけど、
でも出てくる例が悟りとかだもんね。
そうだね。どうなんだろうね。
ちょっと僕もそのあたりはあんまり考えたことなかったけれども。
そうそう。こういうのを思いついた人も、
しかもほら、実践してるわけじゃん。
今日は足折ってマジ死にたいんですけど、
もう死にたいって人が来たときに、
いやいやとって話をさ、
日々これ後日とかって言ってる人が、
なんか日々これ後日じゃなくて、
キリスト教のここのここの第7説でこういうのがあってね、
みたいな話をした方が、
してたのかな?どうだろうね。
そこはもうダメなのかな?やっぱり。
そうね。あったかもしれないけれども、
まさか1950年とか60年とかっていう世界において、
そもそもいわゆる神様のストーリーがどこまで影響力があったかっていう話もあるだろうし。
ちょっと本質とずれたかもしれないけど。
でもいいと思うっていうか。
確かになーと思って。
なのでそんな形で、
いわゆる臨床的な場面から、
こういったドリーミングとか合意的にするっていうところも、
ある種概念としてあると結構話しやすかったりとか、
考えやすかったりするんじゃなかろうかって、
ちょっと今日は話をさせていただいたんですけれども。
プロセスワークの紹介
次回はですね、
もうちょっと現実的な話としての、
いわゆるそういった仕事とかコミュニケーションの場面において、
ミンディルさんの考え方が応用されてるっていうものがあって、
それがプロセスワークとかって言われたりするんですけれども、
それをやると、
どんなことが起きるの?とか、
どんなふうに仕事の場面って変わってるの?みたいな話っていうのが、
まさに今普通に世の中で行われてることがあったりするんで、
それをお届けしてる中で、
ミンディルさんの発想、
ドリーミングとかそういう発想からこんなことが生まれてるんだとか、
もしかしてそれ、
自分も普段やってるかもみたいなこともあるかもしれないんですけど、
ということをちょっと理解いただいて、
ミンディルさんの回の最終回としたいなというふうに思っております、
という感じですね。
なるほど、わかりました。
ミンディルのスモボの話
確かにミンディルのスモボの話からすると、
もうやっぱり何も信じられないというかね。
ちょっとね、なかなか近寄りがたいみたいな。
思うけれども、確かにそこは知らずにというか、
そこはとりあえず置いておいて、
このミンディルの話だとか、
そういうふうに考えていくと、
確かに応用範囲がめちゃくちゃ広そうだなって。
そこは今回納得させられた部分は大きかったので、
そこからビジネスなんて余計怪しいんじゃないかと思ったけれども、
今日はどんな話になってくるのか、
応用範囲ということで楽しみにしていきたいと思います。
ということで、次回も引き続きよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。
57:41

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