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おはようございます。働く人に送る精神分析チャット、第1018回をお送りいたします。
もう、そろそろグッドモーニングボイスに戻すかなと思っております。
7月12日、金曜日、朝7時24分です。
本日、トゥードゥリストは捨てていいが、発売となりました。
全国書店の配本状態は、私は現在把握しておりませんので分かりませんが、
大型には純駆動さんとか置いていただいているのではないかなと思っております。
前回のJ松崎さんとの協調、先送りゼロが大筋好評だったので、
久しぶりに、私、Jさんだと思うんだけどね、
私の名前も書店さんにあんまり嫌いされなくなっているのではないかと期待したい。
もはや本は、ジャケ買いの時代。
良いとか悪いとか言ってられないわけですね。
ジャケ買いと著者、だからアルバムですよ。
昔のCDアルバムと言っても、通じない世代の方もいらっしゃると思うんですが、
アルバムが出て、多く出す方もいるじゃないですか。
ものすごくね、その少ない人もいる。
これはもう、僕もスタイルだなっていうか、そういうもんだと。
多いからどうとか少ないからどうって、いろいろアルバムも昔議論されてたし、
男子高校生の私たちもね、そういうことを僕は意味が分かってなかったけど、
喋ってましたけど、何の意味もないことだったんですよ。
でもまあ、そういう気持ちって世の中にはありますよね。
だから、僕は多い方かなと思うんだけど、
それは量産型だとかっていうこととあんまり関係ないなっていうのは思います。
思いますが、今回の締め切りとしてはタイトだったし、
その話も21日の日曜日に7月ですね、したいなと思っておりますので、
こちら本さえ買っていただければ無料参加していただけるので、
よろしければ是非。
今回ですね、長らくタスク州と教会の界隈というか、
認定トレーナーさんを中心に話題にしていただいている逆算と順算の話を、
私はタスク管理をそれで表現するならば、
タスク州と的な構造になるかツリー構造になるか、
ツリー構造ってのはですね、タスク州とか決して取ることがおそらくないであろう構造なんですね。
いわゆるアウトライナーの構造です。
だからアウトライナー型かタスク州と型かという話になっていくんだと思うんですね。
で、その話をしようと思ってます、21日。
そのアウトライナー型というものは、
基本的だと思われているところに大きな落とし穴がありますが、
基本的には人間の思考はああなっていると思っている人が作っているものなんですよ。
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それはもう確実だと僕は思うんですよね。
なぜああいう構造にするのかというと、
そこに訳があると僕は思うんで、その訳について話しつつ、
なぜタスク管理はタスク州とでないとうまくいかないのかと。
ありますよね、ツリー構造のタスク管理はいっぱい。
で、あれだとすごく整理が進む感じがするんですけど、
あれを操るのは実は非常に容易ではないんですね。
それがなぜだかという話をですね、しようと思ってですね。
あれは行ったり来たりをするってよく言うじゃないか。
行ったり来たりをするわけですよ。非常に細目にわたる項目。
その私が言うのはついですね、野菜でなんか分けたく、野菜っていうのかな。
緑黄色野菜とか茄子、茄子じゃねえ。
きゅうりとかトマトとかね。
緑黄色なのか。なんか適当になりましたが。
ここを密集に従うみたいな話もあったじゃないですか。
それは分類するときの一つの考え方なんだけど、
タスク管理は密集に従って別にうまくいくわけではないんですね。
なぜなのかの理由も非常に明瞭にあるんですよ。
なんとなくはね、別に僕なんかがあーだこうだと一生懸命説明せずとも、
なんとなくは皆さん直感的に密集にしたからってうまくいくわけないよねってのは思われると思うんですけれども、
一番下の流度に合わせたのでは、やりにくくてしょうがなくなることもあるわけじゃないですか。
トイレに行くって書いてあって、さらに分解して、
扉を開ける、手を洗うとかって書かないですし、書いたからって行動が少しも素早くもならなければ、
有効になるとも思いませんよね。
程よい流度があるんだけど、程よい流度は結局のところ、
その人その人のその仕事の何順なの?
熟達度に応じて変わってしまうんで、
全ての流度を合わせるという行為自体が、
分解するというのをですね、
AIかなんかに理解させるとか、
まあ私適当しゃべってますけど、
そういう場合は意味があるんでしょうけれども、
人がそれを見て、それを活用して行動に移すっていう場合には、
役に立つわけがない。
あともう一つが、
そんなことをしなくてもいきなり行動してしまう行動ってのがありますよね。
例えば、よく最近話題になっているリベンジオフ化しなんてのは、
タスクリストに書かないはずなんですよ。
今日はリベンジオフ化しします。
YouTubeだらだら見て明日辛くなるとかね、書かないんですよ。
なぜそれをしちゃうのかっていう時に、
それは行動に移すからなんだけれども、
その行動はなぜツリー構造には別に現れてくることは決してないのか。
表してもいいんです。
ましてそれを細分化することだって全然できるわけですよ。
YouTubeを見る、電源を入れる、再生ボタンを押すみたいな。
絶対やらないと僕は思うんですよね。
なぜなのかといったことは話すかどうかわかりませんが、
これには全て訳が当然あります。
そしてその訳を知ったからといって、
ツリーがうまく扱えるようになるとは私は信じてないんですね。
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で、私はタスクシュートはなぜうまくいくのか、
この線から一応説明ができると思っているんだけれども、
タスクシュートを使ってさえいれば、
このリベンジオフ化しをしなくなることができますとは思わない。
そういうわけにはいかないと僕は思うんですね。
これらのことが実は裏側というのかな、
背景としてはToDoリストを捨てていい、書いたんだけど、
書いてないですよね、実質的には。
ここをガリガリ書いていても、
いや佐々木さんそれはっていう感じになりそうな部分でもある上に、
ページ数は300ページいってしまって、
私はやっぱりビジネス書は200を超えてはいけないと勝手に考えておりますんで、
まあ224にしてくださいよって言われれば考えますけれどもね、
熱いのがいいっていうのは僕はどうしても同意できないんですよ。
基本薄いほうがいいと思っているだけでなく、
ビジネス書は特に薄くなければいけないと。
読もうとしている人が元気抜群で読書バンバンやるっていう理由で読む本とは違うわけですから、
そういうものをですね、がっつり向き合って、
初見台で読むっていう形にしてはいけないんじゃないかと。
流行るのはいいんです。
流行りというものは世の中にあるし、大全が流行るとか、
そういうのは勉強にもなるとかいう話はいいと思うんですよ。
でも僕の本はそうであっちゃいけないと思ってるんですね。
僕の本は薄いとかインスタントだと言われても構わないから、
手に取るという気になり、手に取って読み始めたら、
あれ、もう読み終わっちゃった。
これでこの値段高くないぐらいに思われなければいけないぐらいに思うんですよね。
そうじゃない僕漫画って読んだことがないんですよ。
ビジネス書は漫画に準ずるって僕は信じているので、
漫画のようにはいかないですよね。
1冊15分じゃ読み終わらない。
でもコロコロコミックとか昔読んでてあの厚さあるのに、
あっという間に読み終わっちゃって。
なんで漫画ってこんなに早く読んじゃうのかなと。
文字少ないからなんだけど。
残念に思ってたわけですよ。
そう思われるぐらいでないと、
ビジネス書なんて僕は成り立たないって思うんで、
読んだら、もう気がついたら読み終わってるっていうのを理想としているんですね。
そうできてるかわかりませんけど。
一つの指針とはしているわけです。
だから192最大で、
192で、
一読して四読後まで1時間弱。
そして途中でなんかこう、
ちょっと疲れてきたなみたいなの無しっていうね。
だから本当は章分けもしたくないっていうのが本音なんですよ。
人って章分けると、
2章まで読んだからここで休憩しようとかなるじゃないですか。
そして二度と読まれないとかね。
それがすごい嫌なんですよ。
本音を言えばね。
だから章分けずに済みませんかっていうのは、
必ず僕はどこからか編集さんに必ず伺ってるんですけど、
ダメなんですよね。分けたがる。
あれは本当にいいことなんだろうかって僕はいつも思ってるんですよね。
僕は実は説も分けたくないんですよ。本音を言えばね。
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込み出しだけでいいだろうと思うんですよね。
そうするとどこまで読んだか分からずに、
読者さんは一気読みしてくれる度ではないか。
その確率が上がるんじゃないか。
特に電子書籍はそうですよね。
電子書籍というものは一冊の本の中に、
複数の本を競合しているのに、
そんな風に途中で読められてはたまらないなっていうのが、
僕の思うところなんですよ。
途中で読められるとですね、
最後まで読んだ時の僕の本を読んでいただいた場合の感想と
被ってくると僕は信じているので、
絶対最後まで読んでほしいというのは実はあるんですよね。
でも今じゃけがいの時代なので、
そもそも開いてから読むものでは本はなく、
少なくともビジネス書はそうだと思うんですよね。
本当はもうちょっとですね、
常に表紙というものにもっとずっと凝らないといけないとは思う。
これもね、こういうことを言うとまるで、
表紙のデザイナーさんに文句言ってるみたいなのに、
そういうことじゃないんですよね。
お金と時間が足りないんですよ。
あそこにもっとお金と時間を投入していけば、
CDね、アルバム。
だってビーズとか僕は買ったことないけど、
貼った人とかすごい嬉しそうだったじゃないですか。
聞いてもいない。
ここ大事なんですよすごくね、僕が思う。
で、聞いていいとなおいいっていう。
でもこの聞いていいとなおいいというのは、
聞いてから買うものではないってことをアンに言ってるんですよね。
すごくここに気を配るべきなのではないかと。
僕はマーケティングという能力が何もないのに、
これは多分全部たわごとなんでしょうけど、
僕の信じるところではそうなわけですよ。
だからできれば160ページで出したい。
消耗せずに一切取り払いたくて。
で、表紙と厚さ、薄くていいんですよもっと。
だってCDなんてめっちゃ薄いじゃないですか。
薄くていいからこう持ったときに嬉しくなると。
そこがポイントだと思うんですよね。
僕は電子書籍ももっともっと表紙には気をつけるべきだと思うし、
紙と同じじゃいけないと思うんですけどね。
それは何か規制があるのかもしれませんしわからないので、
ここで言っててもしょうがないんですけど。
でも書店さんは電子書籍売ることがそもそもできないわけですから、
やっぱりもっと物としての本というものの、
サイズもいつも均一であると。
本棚の形ってのも決まってるから、
その方がいいんだけれども、
でも試録はいつも同じ形ですよね。
どうにかならないのかなっていうのは本当に思うんですよ。
出てしまったら安売りもできない本ですから。
本当に在庫的な負担感は大きいんだと思う。
まあ返品できちゃうんですけどね。
これがちょっとまた独特の抜け穴だなと思うんですよ。
かと思えば新品同様の古本屋さんが、
1円引きでバーっと売るということもできちゃうと。
そっちからのルートだと今度は、
出版業界に金は入らないと実に困ったものだと思いますが、
この話はこれくらいにして、困ったものなので、
ぜひ書店でご購入をお願いしたいと思います。
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間違ってもビジネス書を図書館に並べちゃいけないと思うんですけどね。
一冊とかあるのはいいですよ。嬉しいんで。
図書館で公的な資金を出させて買うものとはちょっと違うと思うんですよね、私は。
手塚治虫さんの漫画を置くとかはわかるんだけど、
漫画も全部漫画を置いたら図書館って漫画であふれるじゃないですか。
漫画図書館作るとかはいいと思うんですよ。
ビジネス書と図書館とかね。
でも新刊の複数冊並べるっていうのはちょっとこう、
なんかちょっと違う方向で行っていただければと思いますけどね。
はい、というわけで、
今日は本の話というか、私の本の話をしようぜと思うじゃないですか。
だって今日発売なんだ。
でもそういうモチベーションにならない。
なんかこの辺が僕の相当狂ったところかなと思うんですけど、
ならないものはならないんで。
今日は人格障害の話を続けます。
なんじゃそれって感じですよね。
なぜ今日人格障害の話を続けねばならないのかは、
私にも全然わかんないですけど、
今日は蒸し暑くて眠りにくかったんで、
頭が多分ぼんやりしていて、
これすっきりするとですね、きっと本の話をするんだと思うんですけどね。
今のがヒントです。大きなヒントになります。
ヒントはですね、これ本のテーマにも定流しているな、
数定しているというべきなのかな。
人は変わるんですよ。3時間ごとにね。
だから私はトゥードゥリストの賞味期限は3時間。
こういうタイトル案があったんですけどね、今回の本には。
タスクシュートというのはトゥードゥリストではないんですよ。
ずるいと思われるかもしれませんけど、
あの中でタスクシュートは唯一推しなんですよ。
僕にとっては唯一推しですからね。
あれもいいけど、これもいい的なことは僕はもう、
金輪際言わないぐらいな気持ちで。
分かんないですけどね、これもね。
3時間後には違うことを言っているかもしれない。
ここが大事なんですよ。
良いおっぱい、悪いおっぱいの話なんですけど、
あれって空間的なんですよね。
これ空間的であることに意味があるんだけど、
でも人格障害の方は4次元なんですよ。
心が4次元性を備えている。
そういう意味では精神病水準ではない。
ここにボーダーを作ることもできるんですね。
3次元と4次元。
精神病水準なら3次元水準なんですよ、心。
空間的になってしまっているんですね。
だからお母さんに向かって、
あんなに赤ちゃんは攻撃的になれるんですよ。
本当にお母さんがあれで、
そう言ってそっぽ向いちゃったら困るじゃないですか。
でも赤ちゃんの心にまだ4次元性というのが
完全には備わっていませんから、
あの時のお母さんと今のお母さんって関連はないわけですね。
だから許せないっていうのはガーッとやれるわけですよ。
ガーッと。
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そうしたとしても、
あの良いお母さんっていう概念がないんだと思う。
戻ってくるわけですよ。
空間的なんですよ。
良いおっぱいと悪いおっぱいは同時に存在していながら、
赤ちゃんにとっては別個のものとして存在している。
それはあたかもですね、
今変な例しか思い浮かばなかったのですみません。
テーブルの端っこにはブルドックソース、
こっちにはウスターソースがありますと。
赤ちゃんはブルドックソースが好きですと。
だからブルドックソースとウスターソースなんですよ。
赤ちゃんにとって。
これって空間的じゃないですか。
同時に存在してますよ。
私はブルドックソースが好きだからと。
で、ウスターソースは嫌いなんだから出さないでよっていうことなんですよ。
けれども、実はそうではないんですね、これは。
お母さんは同一人物で、
実は四次元の中を動いているのであって、
ウスターソースになってみたりブルドックソースになってみたりしてるわけではないんですよね。
おっぱいもいい調子の時とそうでもない時とあるわけだけど、
赤ちゃんにはそれはわかんないんで、
いいおっぱいと悪いおっぱいがあるんですね。
これを人格障害の人には当てはまらないってことです。
人格障害の人は際どいラインを言ってるわけですね。
人格障害の人は知ってるわけです。
いいおっぱいと悪いおっぱいがあるわけじゃないんだ。
いい調子のお母さんと悪い調子のお母さんは
同一人物で時系列で沿ってるってことは知ってるんですよ。
知ってるんだけど、知らないふりをしたいんですよ。
人格障害というものに通定している
いろんな人格障害が境界性とか分裂消失とか
妄想性とか様々ありますが脅迫性とか
全部に通定して見えるのはこの部分だっていうことを
松木邦博さんという方がかなりよくおっしゃっている感じなんです。
深く説明されている私たちの私のように
人格障害をDSMの症例主義でひたすらこういろんな分類を
学んできた人間と違ってまずこういう神聖があって
それがいろんなバリエーションを持ってるんだ
この説明の方が分かりやすいって僕は思うんですよ。
つまり四次元神聖持ってるくせに
三次元神聖で行こうと頑張るわけですよ。
そうすると何が起きるか。
例えば信号は赤の信号の時もあれば青の信号もありますよね。
赤ちゃんの三次元神聖だと赤の信号と青の信号が同時にあって
いや私青のところだけ行きたいのよって
赤になってるところの交差点は嫌いっていう感じなんですよ。
これが精神病水準なわけですね。
だけれども四次元神聖の人は赤になったり青になったり
同じ信号がしてるんだということを知ってるわけですよ。
で、問題なのは赤になっている人は悪い人なんですよ。
青になっている人はいい人。
だから私は青の人大好きで赤の人は大嫌いなんだってことになるわけですよ。
でもこれはおかしいですよね。
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いやその人は赤になったり青になったりするんですってことなんだけど
いやいや私は青の人が好きで赤の人が嫌いなのよって
これが精神病水準で話がかみ合わなくなるわけですね。
あんたはいつ行っても青の信号の交差点の
どっかの国の独裁者が運転してるみたいであればいいんだけど
それは今の話も大きなヒントなんだけど
普通の人間にそれは望むべくもない。
どっかで必ず赤信号に引っかかって
うわ赤だみたいな、破壊しようみたいになるわけですね。
で、この破壊しようという言葉もすごく大事で
大してっていうか大して大事じゃないんだけど
なぜ破壊しなきゃいけないか。
それはその人にとって赤の信号はいつまでたっても赤だからなんですね。
三次元なんだから青になったりはしないんですよ。
時系列がないわけだから。
赤は永遠に赤だから。
ここに精神病水準の人の苦しみってあるわけですよ。
どこかでおこのぎけいごさんの本を私引用してノートに書いたんですけど
生命にはリズムがある。
チョコレートを食べてしまってもまたチョコレートにいつか味付ける。
いいおっぱいを飲み干したかといってなくなったりはしない。
だからそのリズムを信じられる人は
履別に耐えられる飛躍ある気もしますけど確かにそうですよ。
あの恋人と別れてしまったが
次の恋人と知り合う機会がやってくる。
これは四次元人生というものが
この世は四次元である。
時間というものがあるんだと信じられる人はこれが言える。
けれども赤信号は永遠に赤だって思う人は
チョコレートを食べてしまったらもう二度と食べれないかもしれない。
こういうところに接触障害的な心理ってのもあるでしょうし
履別に絶対耐えられない心理ってのもあるわけですよ。
この人を逃してしまったら私のような人間は
永久に誰とも知り合うことができないとなったら
絶対に分かれられないじゃないですか。
こういうふうに考えると
ストーカーというような方の心理ってのも少し分かる気がする。
つまり三次元ではないんですよ彼らはさすがに。
だけど四次元が信じきれないんですよどこかで。
だから赤の日もあれば青の日もあるよね。
人には機嫌がいい時もあれば不機嫌な時もあるよねじゃないんですよ。
不機嫌な人がいたこの人は永久に不機嫌だから
もうこの人と関わるのはやめようってことになるわけですね。
でもこういう話って不思議なことに
Xの中では普通に時々されてるじゃないですか。
人間は機嫌を調節できる生き物なんだから
不機嫌な人と付き合う人が必要はありませんみたいなことが
さらっと書かれてるじゃないですか。
すごくこう四次元神聖だって思いますよ書いてる人は絶対精神病水準じゃないと。
でもああやって書くってところにはどこかすごく三次元的なものがあるじゃないですか。
良いおっぱいと悪いおっぱいがこの世の中にはあるみたいな。
不機嫌な人とご機嫌な人がこの世の中にはいるみたいな。
不機嫌な人って永遠に不機嫌でご機嫌な人は永遠にご機嫌で
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これらの人は分けられるんだって言わんばかりじゃないですか。
これブルドックソースとウスターソースじゃないですか。
青になったり赤になったりするのが信号でしょ。
赤の信号は永遠に赤の交差点とかあり得るはずがない。
まあ故障してれば別ですがこの故障もすごい大事な。
すいません変なところで切れちゃいましたけど。
その信号が赤になったり青になったりするのが信号なんで
この赤を例えばですがとことん回避するっていう生き方もあるわけですね。
あの交差点の信号が赤だったらもう近づかないとか
あの交差点の信号が黄色になったらもう違う道に向かうとかね。
これがだから行動の病理ってことに多分なっていくんだと思うんですね。
今のは回避性っぽいですけどもちろんこの信号比喩ですからね。
赤信号ってのはつまり危機源ぐらいな感じですよね。
場合によってはこう関係に対する破壊的な限度みたいなものかもしれない。
そういうものにはもう絶対関わりたくないという場合は
ひたすらひたすら回避するといった戦略が一つは考えられますよね。
で、言ってしまうとですね。
行動によって問題を解決しようという発想で生きている場合
それが病的になってくるとって意味ですけど
永遠の青信号を探しているわけですね。
で、永遠の青信号というものはないわけなんだけれども
でも永遠の青信号がないと生きていけないというぐらい切実になってくると
やっぱり人間いろんな手段を考えるわけですよ。
例えば自分がルートを通るときには前もって全部の信号が青になるタイミングでしか
交差点に行き着かないようにするみたいな
これは脅迫的ですね。
あるいはとにかく赤を見たら二度とその人とは触れ合わないみたいな
そういう考え方もあるわけです。
この考え方はなぜかね、現代では多少とも
指示されていて私には謎なんですけどもはや
指示はできないだろうと気持ちはわかるけど
その行動指針まずいでしょっていう
そうしたら人は不機嫌にはなれないってことになっちゃいますからね。
でもあるわけですよ。
永遠に青信号を求めるという設定の中に。
だからこの結局赤になる青になるというのは
信号の場合は時間のみで決まりますけれども
人間なんで当然機嫌の良し悪しによって
つまり自分の側の機嫌の良し悪しによって
ある程度コントロールできるわけですね。
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ある程度のコントロールというのはつまり
越えどいつかにつながっていくと私は思うんですけれども
ある程度コントロールは効くわけですよ。
だから自分がニコニコしていれば
相手が赤っぽくなりそうになっても青になってくれるとか
そういう恋愛関係はそういう意識によって支えられてはいますよね。
けれども当然のことながら
永遠の青信号というものがこの世にあるはずはないじゃないですか。
だからこの問題なのはそのギャップなんですよね。
自分が赤になった時に赤になるのはしょうがない。
かもしれないけどできればそうはならない。
自分が赤になっても青でいてほしいし
自分が青の時はここが大事ですよね。
絶対青でいてほしいみたいになりますよね。
自分が赤の時は黄色っぽくなってもしょうがないけど
自分が青の時は絶対青でいてほしいと。
逆は結構やっちゃうのに
そういうことを意識してしまうというか
求めてしまうというケースは多々あるわけです。
私になってあったわけですね結構ね。
だいぶ減ってきてはしましたけれども
でも相手が真っ赤だとどっちも赤くなっていくわけですよ。
これ完全に問いどいつかですけど
こんなにシンプルな話ではなくて
もっとこれがややこしく現れるんですけれども
もっとはるかに複雑ですけど
でも基本はこれぐらい単純な話でもあるわけですよね。
いつでも青でいるっていうのは
良い戦略なんですけど
これが一番難易度が高いといえば高いわけですよ。
人格障害系の話っていうのは結局
世の中に赤い信号と青い信号があるわけじゃないのは
知っているのに永遠の青い信号を求めるという
そこに無理があるわけですね。
赤くなったり青くなったり分かっているのに
永遠に青であってほしいと。
だから例えば私は理想の信号を見つけました。
これは私がいる時はいつも青なんですとか
っていう話が非常に境界霊的で
精神病水準に近づいている感じはあるんですけれども
そんな信号あるかよっていう話なわけですよ。
私が当たる時だけは絶対青くなってくれるのよ
っていう理想の信号が発生してしまうわけですね。
ただこの理想の信号はですね
かなり気をつけているのかもしれないし
お互いね。
つまりこれが混ざり合わないってことなんですよね。
混ざるわけですよ、現実は。
赤と青は混ざってるわけ。
同じ一つの信号の中に混ざってるじゃないですか。
混ぜたくないという気持ちが
いわゆるボーダーと言われている方の心理としては
極めて強いわけですよ。
真っ二つにはあるぐらいだね。
自分もだから真っ二つに分かれることがしばしばある。
理人感とかって言ったりするんですけど
私が手首を切るのを隣の私が見ているみたいな話になる時に
分かれてしまうわけですね。
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青い私と赤い私に分かれてしまうわけです。
スッパリと。
普通の人にも多少ともありますよ。
良いおっぱいと悪いおっぱいを源流に持っている私たちなんだけど
ここまでスッパリとは別れませんよね。
だから欲打人生の人にも当然あるわけですよ。
赤い信号になっちゃった私を青い信号が抜するみたいな。
これがだから自罰になっていくんで
自罰って分裂してるじゃないですか、多少は。
でも自罰の人の分裂というのは
自分の中に二人の自分がいる感じがする程度の話であって
二人の自分になっちゃいましたって話にはほど遠いわけですよ。
でももう少し水準が深刻化していくと
やっぱり泣いている私を隣で
なんとなく眺めている私がいるみたいに
本当に分かれてしまうわけですね、二人。
二人になっちゃうみたいな。
この二つってのは実月ではあるんだけども
我々はやっぱりそこまでいかないので
赤になったり青になったりするっていうのが一番妥当なわけですね。
赤と青が同居するみたいな感覚を
そのままある瞬間に持つみたいなことは普通は起こらない。
四次元の中で赤と青が同居するのであって
センサーとしてっていうのかな
あと光ってはいない赤を持ってはいるけれども
普通は交互につく。両方同時についたりしないわけですよ。
両方同時についてしまうと
かなり精神病水準みたいな雰囲気になってくるわけですよね。
自分で自分を青い信号が赤い信号をめちゃくちゃにバスするみたいな
そういうことをリアルに行い始めると
それがやっぱり抑鬱心性というのではすまない。
抑鬱心性ってのは抑鬱ポジションって言葉があるように
やっぱり時系列という意味では至って正常なんですよ。
あの時赤になっちゃった私悪かったよね。
今青いからそれがわかるわ。
だからこの赤い信号を凝らしめますみたいな。
抑鬱状態ですから凝らしめなくていいんだけど
人間に赤と青があるんですけれどもね
凝らしめますみたいになってしまうと
要するに抑鬱的になるわけですよ。
でもこの状態はかなり正常なわけですよね。
この状態ってのはつまり
心が四次元を理解している状態なんで
理解できないというのはやっぱり赤と青は別々にありますみたいに
同時にありますみたいな。同時にはないんだけれども
同時にあるっていう感じがすると。
これがさっき言ったように脅迫的になってみたり
ひたすら赤を避けるとか
永遠の青を探し求めるとか
永遠の青をついに見つけちゃうとか
さまざまなレベルによって
心理的なレベルによって変わっていくわけです。
明らかにこの永遠の青を見つけてしまいましたっていうと
相当三次元に寄っちゃってますよね。
この青なんですとかいうかなりオカルトなものが
出てくるわけですよ。あるいはやっぱり
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俺が粘波を送って操作して
俺が通るときは絶対青にするんだという
独裁権力的なものが感じられる
それがすごい脅迫的になってくるわけですけれども
脅迫っていうのは
すっごい滑らかな世界を生きていきたいっていう
それ自体は非常に自然なお気持ちなんですけれども
どがすぎるともう明らかに
小国の独裁者になってしまって
お前俺の通ろうとしてる時に信号黄色になったから銃殺みたいな
そういう生き方になりかねないんですよね。
実際そうはできないからいろんな人にめちゃくちゃ怒ってるわけですよ。
内面ではね。
リアルにこれをやれる人っていうのは地球上で何人もいませんから
大概の人はこれはリアルにはできないって
すごく怒ってるわけですよね。
この怒りが自分に向くこともあります。
なぜ赤信号の日になってしまうタイミングで
交差点にぶつかったんだ俺みたいな感じになって
予測申請に切り替わるわけですよ。
自分の中の赤信号が許せない。
だから結局は
赤を見れば赤くなるし青を見れば青くなるっていうのが
人間の自然な流れなので
この中のギャップに対する距離の取り方といいますか
許せなさというものが
その人の傾向というものを
おそらく決めていくんですよね。
赤になったらお前赤にならなきゃダメだろ
ぐらいの人もいらっしゃるわけです。東英ドイツとかが激しいわけです。
それで因果を逆転させるわけですよ。
お前が赤になったから俺も赤になった。
どっちがどっちか大変見分けにくいのに
常にそういう風に主張される方もいるわけですよ。
そうすることによって何をやっているかというと
永遠の青信号を探しているわけです。
いや、俺はいつも本当は青なんだよ。
お前らが青でいてくれさえすれば青なんだよ
っていうこの主張なんですよね。
これが現代で支持されているのが謎だっていつも思うんですよ。
そんなはずはないだろう。
一番結局いい解決策というか
我々が理解するべきはずっと信号を見ているってことです。
赤くもなれば青くもなるし
それは自分の側の働きかけでいくらかはコントロールできるけど
完全には無理で
やっぱり他の理由によって
赤くなったり青くなったりすると
これに耐えられないっていうことが
自体をややこしくするんですね。
簡単に言うと赤信号を見るのに耐えられないってことなんですよ。
共通している心理は
人格障害も含めてですね
我々が自体を困難にしていくのは
決まって赤信号を見るのに耐えられない。
その赤信号というものの中には
SNSの炎上だとか
締め切りを突破してしまうプロジェクト
それによって取引先なり関係者なりが
怒り出すとか
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あるいは自分が十分にプロジェクトの中で貢献できてないので
あからさまに怒られないけれども
周りの人がみんな不穏な目で自分を乱す
周りの信号が全部黄色になっていく
あるいは歩行者の点滅信号がいつも見えてくるような雰囲気
そういうものが耐えられないとか
要するにその耐えられなさ
耐えるしかない、ある意味で
これはセッションでこういう言い方は私はしませんけど
結論だけを抽象化して言えば
耐えるしかないんですよ
だって信号は必ず黄色にも赤にもなり点滅もするんで
するなっつっても無理なんで、するんでこれは
そういうふうにできちゃっていて
そういうものも僕らみんな内面で持ってますから
みんなが永遠の信号なら実に幸せなんでしょうけれども
そういうふうに生き物というのはできてないわけですよ
それはそうですよね
だって人間はいわゆるギャートルズの時代から生きてきて
斧を持ってマンモスとか倒してたわけじゃないですか
永遠の信号で生きられるような世界で
生きてこなかったわけですから
赤信号になったり点滅したりするのは当たり前なんですよ
当たり前なんだけど、養育上ね
例えば親の信号はいつも赤かったっていう人は
赤信号を恐れるわけですね
親の信号はずっと青なんだけどいきなりものすごく赤くなって
一旦そうなるともう目も当てられないみたいになると
やっぱり気をつけるわけですよね
混ぜないようにしようと混ざってるんだけどね
自分の中ですでに最初からだけれども
混ぜないようにしようと思うわけですよ
これがよく物の本と言いますか
精神分析系の本に書いてある
良いおっぱいと悪いおっぱいを分ける
良いおっぱいと悪いおっぱいから隔離するとか
良い自己を悪い私から遠ざけて守っておく
といった表現に現れている全てだと僕は思います
これは永遠なお信号を探すってことなんですよ
もともと混ざってるものは分けられないわけです
でも分けたいという心象が極めて強いわけです
毒入りのおっぱいとかそういうのはその表現なんです
つまり白いミルクだと思って飲んでいたら
毒が入っていましたみたいな
この話は非常に虐待的なものを考えさせられますけれども
やっぱり永遠なお信号問題なんですよね
分けられるところに混ざるということは
非常に危険なことだって考え方が
そこには反映されているはずなわけです
だからこれで大体話尽くし感がありますけれども
私たちは結局これに耐えるしかないんですよ
点滅信号黄色信号に
特に現代社会で我々が耐えるべきは
おそらく点滅信号と黄色信号なんですよ
これを我々はすごく神経症的に
神経症的不安なんですけど恐れている
赤になるんじゃないかなみたいな
多分赤にまともに直面するということは
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現代の成人では普通に生きていると少ないんですけれども
赤の兆しを見るっていうことは
かなり多いんですねむしろね
これが僕らをすごく神経質に
それこそしていくんだと思うんですよ
非常に
点滅みたいなあるいは黄色みたいなものを
自分を原因にしたくないんですよ
それをやらかすと言ってるんだと思うんですよね
あと一度赤を見ちゃうとやっぱり耐えがたいんで
この永遠の青信号だったはずの人が
永遠の赤信号になってしまいましたね
これが一番怖いですよね
これが多分見捨てられ不安と言ってるようなものだと思うんですけれども
だって永遠の青信号だと思って見つけて
交差点にその近くに住むことにしたのに
赤になりましたみたいに許せないじゃないですか
しかもそれ青になりませんみたいな
僕らの非対称性はここにあってですね
一度でもその人の本性が悪だと知ると
そいつは悪であるっていう考え方と
これは混ぜたくないという気持ちの表れですよね
青しかない信号だと思ってたのに
実はあそこに赤あったじゃんみたいな
そういうことを理解するのが物作業ってことになるんだろうなって思うんですよ
言うと簡単な話なんですよね
でもここに恐怖感があるんでね
赤を見るのがみんな本当に嫌なんで
だからこの作業はつらいんですよ
じーっと信号見てて赤にもなるんだこの人もねっていう
しかも自分が赤にしてしまうこともあるんだこれが一番つらいんですよね
でもまあそういうことはあるんですよね
そしてそこには時間というものが
大いに関係している
逆へ行こう逆へ行こうとするとどうしても
三次元的世界に迷い込んでしまうわけです
この世の中は四次元なんで
三次元的な世界やっぱり迷い込むところがあると思うんですよ