2022-09-21 29:55

【675GMV】退行する時間をもつ

子どもに帰る時間をゼロにはできないしゼロにしてもいいことはない

00:05
おはようございます、グッドモーニングボイスです。
ただいまですね、9月20日の20時20分です。
20、20、20、というのが今ちょっとパッと目に入ったんで喋ってみたんですけど、別になんてことはありません。
えーとですね、なんかちょっとひんやりしてきましたね。
先日、倉園圭三さんにですね、グッドバイブスファクトリーというオンラインコミュニティーの向けの中でですね、
これからひんやりしてくるのが私はとても残念だという話を相談しているんですけれども、
そういう話を私が聞いて、倉園さんに答えていただくと言ったことをやって、
そういう番組もありますので、ファクトリーの方もよかったらチェックしてみてください。
私はこういうので、倉園さんに質問するじゃないですか。
そして何か答えてもらうと、これは本当に昔カンセリングで、今もやたら読んでますけど、
読んでいるのがそのまま起こるなと、倉園さんにそういう気はさらさらないと思うんだけど、
私はもうまさにそれを本で読んだやつだな、これはっていうのを感じながら話したりしているんですよ。
精神分析ではないですよ。精神分析というのは相手の顔を見ないというところが非常に重要だと私は思いますので、
これは精神分析ではないんだけど、もう飽きすぎてますしね。
にしてもこれはカンセリングというのはこういうもんだっていうのを、私が考えていたところのものが、
それが実際に行われていて、ちょっと自分では不思議な感じが、本の中に入るって感じがするわけですよ。
そんなのがあるので、よろしければちょっとチェックしてみてくれればと思います。
今日はそのカウンセリング的な話の基本的な話のおさらいみたいなのも言いたいんですけど、
私はこれ何の説明も前置きもなしにバンバン専門的な話をしゃべっちゃっているから、
もちろんこういう部分で誤解されうるっていうようなことがよくわかっていないんですね。
今日ある方とお話ししていて、そうか、そういうところが誤解されていないまでも曖昧になってたなと反省があって、
だからといって系統立てて話をするってことは私できませんから、
というかそういうふうにこの番組をやっちゃうと実に退屈なものになると思うので、そうはしないんですけれども、
今日はちょっとそうは言っても久しぶりにその自我心理学の話を最近中心にしているので、
これはやっぱり私たちにはわかりやすいんでね。
おさらいメインとガテラちょっと話をまとめてみようかと思ってるんですけど、
03:01
防衛というやつなんですよ。
何度もこの番組で最近しつこく言ってるんですけど防衛というのは心の中の話なんですね。
心の外から何かを守るって話はしてないんですよね。
何かから何を守るのかというと自我を守るんですね。
自我が大変な目にあっちゃうので、
例えばですけれどもSですね、欲動からの今すぐ人とハグしたいとかそういう欲動からの欲求を
それはまずいでしょってことで自我が何かやるんですけれども、
適応しやすい形に直すんですけどそこで防衛ってものをしなければなりません。
あまりにもストレートに自我が超自我とSの欲動のですね、攻撃じゃないんだけどパワーを受けるとですね、
どうにもこうにもならなくなってしまうので、そういう葛藤を和らげるために防衛というものをすると。
だから防衛ってのは少なくとも自我心理学の精神分析の自我心理学というメインストリームのアメリカでね、
メインストリームになった考え方からすると、
現実に適応するために心の中でやる防衛なんですね。
これが防衛、適応、メカニズムと散々パラ言ってますけどそういったものなわけです。
で、適応がだから目的だってことですよ。
現実に適応するってことが目的です。
だからお腹が空いたっていうのが例えば欲動の、これは完全に欲望ですよね。
だからといってパン屋に行っていきなりパンを足掴みして食べ始めたりはしない、私たちはね。
しないですよ。
これは防衛メカニズムがほとんど無意識のレベルですけど働いていて、
パンは皿に取って、それをお金を払って買うと。
長時間がそこに出てくるほどのこともないと思います。
そういうのはもう私たち、これを大頼みとか言って、自立性みたいな、自我自立性とかって言うんですけど、
そこまでここで用語の解説することはなくて、こういうのは自然とできるようになっていると。
私、昔驚いたことがあったんですよ。
ほんの子供の頃、だから私がもしかすると4つ、まあ言って6つぐらいの時に妹がですね、
その時の妹だから3か4なんですけど、パン屋に行って、まあ親と一緒に行ってたんですけど、
パンをモシャモシャっと食べ始めたんで、うちの妹ってそういうことができるんで、
私はものすごいびっくりして、なんていうんですか、固まっちゃったんですよね、私は。
私はそういう人間なんですよ。
で、これがつまり欲動というものが自然に働けば、自我をわざわざそこで調節したりしないと。
うちのその時の妹は3歳か4歳だから、自我の発達がですね、そこまで行ってないんでしょうね。
食べたいと思ったから自然と食べるとか、別に怒られたとかそういうことはないんですけども、
私はやっぱりね、もう目が点になったんですよ。
06:00
やっぱり私の自我の発達って早かったんですね。
別にいいことってことはないですよ。悪いことだということもないですけど、
別な自我の発達するのが早いのがいいってことはないわけですよ。
だけれども、まあ親は育てやすいんですけどね、そういう子の効果。
私はその、やっぱりこう、欲動が自然と出る社会の中で出るっていうシーンを見ると、
もう当時は固まってましたね。ショックを受けるんですよ。
私はやっぱり自我が非常にこう、親とか社会とかの言い分をどんどん取り込めるっていうタイプだったんで、
当然長自我の発達も早かったんでね。
そういうふうに欲動がスッと動いて、社会の中に出てくるというのが、
やっぱり信じられないっていうかね、非常に良くないことが行われている感じが、
その時はしたものです。
それで思い出したんですけど、小学校時代、給食の時間以外、小学校って物食べるの禁止されてたじゃないですか。
小学校1年の友達で、すごい、まあいい子だったんですけど、
行ってみればやんちゃな男の子がいて、前日の給食のパンを取っておいてですね、
いきなり10時、2時間目の中間ぐらいかな、業界休みとかっていうんですよね。
パンを食べ始めて、私それも非常にショックを受けた記憶がありますね。
その時も先生は別に怒らなかったんですけど、私はもう何か見てて、
ちょっと耐えられないみたいな、それぐらいやっぱり自画の調節機能の発達の年齢と、
超自画の発達の程度っていうのは、人によって個人差があるということです。
私はその良くないから、その注意するとかじゃもうないんですよね、レベル的に。
体がとも固まってしまう。
それほど自画の調節機能の発達の年齢とか、超自画の発達の程度っていうのは、
体がとも固まってしまう。
それほど親の言うこととか先生の言うことを聞かなきゃと思ってたっていうことよりも、
やっぱりもうオートなんですね。オートのみなんですよ。
時間が欲動をコントロールするのは、私の中では、
たぶん覚えてる限り3歳ぐらいの頃にはもう大体できていたみたいなところがあって、
これは決して良いことではないんだけれどもあって、
当時はそれをしかもよく言ってくれる大人が多かったから、
ある意味良い気になって、すごい自画の発達をさせたんだと思うんですよ。
だからそれが発達していない様子を学校とかで見ちゃうと、
ショックを受けて、しばらくその光景が夢にまで出て、
夢に出てくるっていうのは非常にフロイトの指摘するところだったわけですけど、
夢にまで出てきちゃっていて、何回か、しかも絶対それは悪夢なんですよ、私にとっては。
そういう記憶があります。
よほど育ちが良かったのかって言われるかもしれないけど、そういうことではない。
だって妹はそういうことをパン屋でやれるわけですから、
同じ家に育ってるわけですからね。
これ育ちだけでは説明できない話なんだと私は思います。
09:04
もちろん育てられ方は大きいですよ。
そういうふうなものなんですね。
これが防衛適用のメカニズムというもので、
私はすごく防衛をしては調節をすると。
自我の調節機能が当時からあった。
当然今も割と強い。
強めに働くということがあります。
この防衛そのものが病気みたいに思われることもあるんだけど、
そういうことでは全然ないんですよ。
さっきも言いましたけど、私たちパン屋に行って、
欲動だけで言えばパン食べますよ。
もう美味しそうならば、とても空腹なら食べますよね。
食べないというのはやっぱり防衛機能が、
防衛規制というのが働いているわけです。
欲動の力を少しは自然と弱めるようになっている。
これが人間の生き方なんですね。
本能のままは生きられないんですよ。
どうやったってなかなか。
三歳児とかでもなければね。
だから欲動というものは働いているんだけど、
それをうまく現実に適応させるために防衛されると。
だから防衛の中に知性化とか合理化とか、
今日これから話す脅迫という有名な防衛があります。
脅迫は全然病気じゃないです。
脅迫症というのは病的とされるんだけど、
脅迫という防衛はごくごく健常な防衛だと。
ただ非常に有効な防衛というのはどういうことかというと、
現実に適応する上で有効な防衛と、
大して有効じゃない防衛があるんですけれども、
有効な防衛とは言い難いが、
しかし我々はよく使うし、
有効な防衛のほうかな、やっぱり。
でも全然全くそれじゃダメじゃんというのも多いですからね、防衛には。
で、脅迫というのは割と有名な防衛の方法で、
どういうことかというと、
儀式的な行動をとるということです。
これも先日お話しした通りなんですけれども、
儀式的な行動をとるわけです。
このやり方は我々の文化には完全に入っています。
例えば結婚式では、私ちょっと詳しくなくてすみません、
5万円包むとか、決まってるじゃないですか、日本の社会っていうのは。
これは脅迫的な防衛なんですよ。
みんながみんな5万円包みたくはないじゃないですか。
ちょっと今お金がなくて4万円にしておきたいんだけどなって、
4万円とかって絶対日本では認められないでしょ。
いわゆる欲動っていうのかな、
Sと自我のだけで相談して4万円にしましょう。
これは認められないわけですよね、日本社会では。
ここに脅迫の防衛というものがあるわけです。
つまり徹底的にですね、
言ってみれば行動というものをパターン化して、
パターン化すればある程度現実に適応しやすくなりますよね。
みんなが同じ行動をとる。
12:02
これ評判悪いじゃないですか、日本では。
でも日本では昔からこのやり方をかなり有効なものとして活用してきたんです。
みんなが同じ行動をとる。
行動が読みやすくなる。
時間に非常にきっちりしている。
これも同じ行動をとっていればこそですよね。
みんながバラバラに行動するのに時間をきっちり守るっていうのはおかしいですよね。
時間をきっちり守る。タイミングにうるさい。
列にきちんと並ぶとか、整理整頓やるとか、
すべて脅迫的な防衛なんですよ。
こうして現実の適応が容易になることを目指しているわけです。
これがですね、ただ、
生きすぎるっていう言い方をするんだけど、
生きすぎるってどういうことかというと対抗するってことなんですよ。
つまり対抗ってのは子供に戻るってことです。
子供っぽくなると儀式化がひどくなっていくわけです。
この大人らしい儀式化と子供っぽい儀式化というものの際は
意外と見分けにくいので脅迫神経症という現象は
比較的よく見受けられる現象だということになります。
子供っぽくなるとどうなるのかというと、
例えばトイレに行きましたと。
絶対手を10回洗うとかね。子供っぽいじゃないですか。
このパターンに対する優遇の効かなさなんですね。
今月は500円以上は使っちゃダメみたいな。
そういうのって子供に課せられる義務みたいなところありますよね。
今月は例外だからこうしようみたいなのがないわけですよ。
どんどん機械的になって習慣というものが
動かしがたいものになっていく。
そうするとだんだんおかしくなってくるんですよ。
他人の目から見ればですね。
あの人トイレに行くたびに絶対20回手を洗うの。
それを数えるとかね。1回2回3回4回みたいな。
そうすると何か病的な感じがするでしょう。
でも脅迫的な防衛と、つまり結婚式となったら絶対お金がなかろうが
何だろうが5万円包むというのと、
この20回手を洗うのはどこがどう違うのか。
程度の差ですよね。結局の問題。結局のところ。
別に洗いたくないときは洗わない。
これがSの赴くままの生き方なのかもしれない。
それはそれでみんな嫌がるけど、
代わりに20回ずつも絶対毎回洗うというのもどうかという感じになると。
これ、今コロナの騒動が収まってきましたけど、
コロナの時はすごかったですよね。
私聞いた話の中にはですね、奥さんが家に帰ってきたら
服全部脱がせるみたいな、そういう話があったんですよ。
これ脅迫防衛ですね。
服防衛の対抗を伴った形ですね。
玄関先で服全部脱がせるみたいな。
たまったもんじゃないですよね。
しかしこれは、つまり防衛って言うと
まるでウイルスから守ってるみたいなんだけど、違うんですよ。
あまりにも強い超自画とSの突き上げがあるから
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自画が非常に疲れ果ててしまってですね、子供っぽくなる。
自画が要するに自画機能が弱まるって言うんですけど、
子供っぽくなるわけですね。
そうするとおまじないみたいになってくるわけですよ。
服を全部とにかく外から帰ってきた時に脱がして
洗濯機に直行させれば病気にかからないで済むんだと。
これがもう何か本当に儀式になってしまうので、
お前外に一歩出たら服全部脱げみたいに
そういう風になっていくわけですね。
そういうことってでも不思議かもしれないけれども、
ある意味不思議じゃないですよね。
これをやっておかないとダメだっていうのが進んでしまうんですね。
家計簿有名です。
1円たりともずれがあっちゃいけないと。
毎日毎日、それどころか財布を取り出したら毎回必ずつけると。
これもかなり子供っぽくなっているわけです。
脅迫症ってのが要するに対抗とともに、
つまり対抗とともに子供っぽくなって使う防衛になってくると
神経症というものがチラチラと見え始めると。
どうしてもやっぱり現実というものは難しいので、
自我はいつもいつも現実に元気いっぱいで対応できないんですね。
どうしても自我もう疲れてきましたということが起こるわけです。
現実は大変だから。
そこで少し後退する。
少し自我機能が弱くなったところで、
そこでも前と同じような防衛の仕方をすると、
前よりも防衛が微妙な防衛になってくるわけです。
その場合には不適切な防衛なんじゃないだろうかとか、
それは確かに脅迫的だけれども、
どうも脅迫神経症気味なんじゃないだろうかとか、
そういったことになると。
防衛そのものは私たちはずっとやっていくし、
何ら病的なものじゃないんだけれども、
病的な防衛というものもあると。
ちなみにインフルエンザは出てきて、
対抗は病気だと考えていました。
これもフロイトの時代からすれば、
ある意味当然なんですよね。
子供っぽくなるというのは病気だと。
もうこの観点を取れた段階で、
彼は天才的とも言えるわけですよ。
だってそれまでは狐つきとか、
霊が乗り移ったとか、
そもそもおかしい人間なんだとか、
精神病みたいなものはですね、
そういうふうにしか考えられてなかったのが、
そうじゃない。
子供っぽくなってるんだっていうのは、
もうすごい発想の転換が重要ですよ。
重大ですよね。
もちろんそういう発想を取ったのは、
彼がだけだったとは思わないんだけど、
例えば妄想的にものを考えるとか、
何かが取り憑かれたような気がするっていうのを、
子供っぽい判断なんだっていう考え方、
3歳児とか2歳児にはよく見られますよねっていう考え方を
できるっていう段階で、
やっぱり非常に感動的なものだったり、
非常に革命的と言ってもいいほど、
それまでの発想とは違ったと思うんですね。
ただ、今は対抗そのものが病気だとは見なさないです。
18:01
対抗というのは全然病気じゃないですよね。
極めて健康的な対抗もあって、
最近私思うんですけれども、
対抗というものそのものに、
私たちのような神経症よりも健常に近い人たちは、
まず考えるのは、
ここのポイントなんじゃないかなと。
私が今一番気にしているというか、
考えているのが対抗というものを、
もっと真っ当なものとして取り扱う。
今も精神分析の世界でも、
健康な対抗とか、
いろんな言い方をするんですけどね、
組織的対抗とか、秩序だった対抗とか、
自我のための対抗とか、
自我による対抗とか、
いろんな言い方をするんですけど、
対抗というものを子どもっぽくなるということを、
ある枠組みの中で許容される限りは、
問題ないんだと、むしろ必要なんだという考え方を、
治療に取り込もうという発想を持つようになっているわけです。
フロリドの時代みたいに、対抗すなわち病気みたいに、
そういうふうには受け止めないということですね。
普通に言って一番対抗というものが、
我々が健康的にやっているのが、
ダラダラするというものなんですよ。
このダラダラを迫害したり減らしたりなくそうというのは、
発想が古典のフロリドみたいで、
無理あるなという感じがするんですよね。
ダラダラするというのは、
例えばダラダラが12時間ずっとダラダラしていましたとなってくると、
一つ考えなきゃいけないかもしれないんですけど、
ダラダラをしたということ自体の時間をなくそうという話になってくると、
つまり、我々は対抗を一切認めないよという考え方になっちゃうと思うんです。
私の生活から対抗する時間を消し去りましょうと、
この発想それ自体が十分子供っぽい感じがするんですよね。
そんな学校とか、例えば休み時間ない学校とか、
あまり聞いたことがないですよ。
異常なスパルタ塾とかね、
そういう塾って経営者が子供っぽい感じがするんですよ。
休み時間をなくしたりすれば子供が成績伸びるんじゃないかと、
そういう発想を取ること自体が大人の考え方じゃないなという感じがするんですね。
だから、ただただ評価水準の上の方を取り、下の方を捨てるというだけの発想を取るわけです。
非常に隔離的だし、危ういというか、
やっぱりちょっと安直ですよね。
そういう発想を取るという感覚になっているときに、
その人の自我の状態ってどうなんだろうって考えると、
決して健全な感じはしないなと思うんですよ。
健全は何かというのを誰が決めるのかというのはまた、
21:01
非常に厄介なところもあるんですよね。
何にしても私が今考えるのは対抗ということで、
対抗と防衛が結びつく、どんどん戻れば戻るほど、
いろんな問題が生まれてくるのは事実なんだけれども、
逆に言うと、対抗しているときに現実に対応しようとしなければ、
非常にいいんじゃないかって感じがするんですね。
つまり何もしない時間を持つときに、
非常に大事なんじゃないかなと私は思うんですね。
あるいはよく過集中の話を先日しましたけど、
それも近いんですよね。
対抗すると過集中ということが起きる傾向はよくあります。
これは多分長時間その人の中で働きすぎていて、
ここぞとばかり集中的に遊びに向かいたくなるという
そういう現象なんだと思います。
それも非常に大事だと思うんです。
結局長時間と時間が現実対応ばかりしているというのは、
ちっとも面白くないというか、
Sが全く働かない時間が長すぎる、
そういうふうに生きていけるものでは私たちないから、
どこかでやっぱりそういう生き方は、
どこかでチェンジしないといけないんですよね。
最近全然ウィニコット側の話をしていないので、
対象関係論的な話が全然出てこないんですけれども、
私はこれを一応調べながら、
対象関係論でこれを考えるとどういう関係になるのかな
というのはある程度考えているんですよ。
ただその話を言わせてもらいたいと思います。
どういう関係になるのか、
どういう関係になるのか、
どういう関係になるのか、
これを企画すると、一気に話がごちゃごちゃになっていくので、
今はその話はせずに、ちょっと違う話、
最近可愛い葉山さんの
可愛い葉山カウンセリングの実際問題という本を、
戸畑海人さんのオンライン講義を受けて紹介されていたので、
読んでいるんですけれども、
これは私は今まで読んでいなかったんですよ。
第一、全然面白くなさそうなタイトルじゃないですか、
タイトルなんだけども、カウンセリングの実際問題ってのはちょっとね、いくら私がカウンセリング大好きでも、そんなこういかにも実例を学術的に紹介しますよって本はさすがにあんまり読む気がしなくて、しかも大体この種の本はネタら高いというのが相場が決まってますから、今まで手出さないできたんですけど、
あんなに戸綾さんが名著だっていうからにはと思って読んでるんですけど、めちゃくちゃ面白いんですよ。めちゃくちゃ面白い。ものすごいリアリティがあります。
それで、つくづくここでも思ったんですよね。この話、河合駿さんはうまくいかなかったカウンセリングの実例というものを徹底的に描写して、自分の失敗例、失敗はしてないと思うんだけどね。
24:10
でも、いろいろと普通のセオリーでいけばやらかしちゃってるところまで余さず描いているたった一例をじっくり大量の描写を使って紹介してくれていて、すごい勉強になると。私が何の勉強してるんだって話もあるんですけれども、大変勉強になって危うく夜中まで読み込んじゃうんですけれども。
で、河合駿さんがですね。その患者さんって高2の高校生だと思います。不登校になっちゃったお子さんの怒鳴りつけるっていうシーンが出てくるんですよね。
この時にもちろん定義が起きてます。お父さんになっちゃってるんだけど、もう対抗とはまさにこういうことなんだし、対抗させながら抱える、非常にウィニコット的な言い方をしましたけど、対抗させながら自分が親になって抱え込むというのは全くこういうことなんだなと。
で、その時に非常に急に話がごちゃごちゃしてきましたけど、ウッドバイブスだなと思ったのが河合さんが結局ですね、まずやっちゃいけないことをやってるっていうようなことを書くんですよね。
自分が本当に正しいやり方を知っている偉大なカウンセラーなら、そもそも家に入り込んで言って怒鳴ったりなんかしないのになと思いながら、でも自分はこうするより他ないんだっていうようなことを考えながら自転車漕いでいるっていうシーンが、非常にフロイトが一番最初に見たアンナ王さんの事例を思い出すんですよね。
やっぱり手探りでやってる時ってこうなるよなっていうのがまずあって、あともう一つは、非常にウッドバイブス的だと思ったのが、時間無制限一本勝負だぐらいなノリがあるんですよ。
もうここを覚悟を決めて全部抱え込もうみたいな、そこら辺が非常にウィニコットの言うところの環境都市の母親みたいな、あそこで怒鳴ってるところを見ると父親でもあるんですけどね、ほとんど全部になっちゃってるみたいな感じがするんですよね。
これはやっぱり相手が対抗してる時のカウンセラーの当然取るというか取らされる態度なんですよね。子供に相手はなってるわけですよ。家からでもしないみたいな。
それを抱えるってことは親でしょ。親は実の親いるのにもかかわらず、もう抱え込んじゃって家に上がり込んでると、非常にまた面白いことにその家は父親がいつもいないんですね。
家出たとか離婚したとかじゃないんだけどいないんですよ。だからかわい早男さんがもう家に上がり込んでお父さんにさせられちゃっているわけですよね。
そういう言い方ってカウンセリングではよく聞きます。転移なんだけれども。つまり子供が高校生よりもはるかにずっと対抗してしまってる。そのわけももう非常に明らかになっていくんだけど、とにかく用事帰りしている。
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だからお父さんが必要で、ところがお父さんがそこにいないと。で、カウンセラーであるかわい早男さんが自転車漕いでお父さんになっちゃっていると。だから怒鳴ったりもさせられるんですよね、ある意味。
これはすっごくカウンセリング的だと思うと同時に、こんなに劇的な対抗みたいなもの、私たちには縁がない方がいいと思うんだけども、やっぱり対抗ってものがないとですね、物事は前には進まないんだなと思うんですよ。
そういう人を、あそこの子供を、不登校の子供をですね、自我をしっかりさせて前へ進ませるっていうことになった時に、方法ないですよね。
無理やり生かせるってのは全然ダメで、ちっともその子の自我が発達しないまま、ただ学校に行かせるってことになるじゃないですか。
発達させるってことにしかできないんだけど、その発達させようと思っているまさに、つまり大人にさせようと思っているまさにその段階で子供になっていく。
このことを一つとってもですね、そしてその子供になっているというのも、はなはだ同行してほとんど幼児になってしまう。
幼児ですら幼稚園に行きますよね、自分で。
それすらできないところまで対抗していくと、そういうことが起こるんですよね。
だから誰かの覚悟を決めなきゃならないと。
そこのところのお母さんとおじいさんというのが面白くて、なんとかして子供を学校に行かせてくださいと頼み込むと、そういう構図があるわけですよ。
親は焦るわけですよね。
うちの子は精神病なんじゃないでしょうか。
この話もすごい面白いですよね。
フロイトが言ったわけですよね。
つまり精神的な障害とは対抗であると。
今はそうは取らないというのは、だから今は時代が進んだということなんですよ。
対抗を激しく引き起こすと、それは病気だというふうにみんな思ってしまうわけだけれども、
それは幼児帰りというのが病気だという話になっちゃうんだけど、そうじゃないんだと。
100歩譲って仮にそうだとしても、お子さんがそうなるのには訳がある。
その家には非常に深い訳があるんですけれどもね。
それは読んでいただければいいんですが、この本を読まないかなと思うので、後日またこの本のお話ししますけれども、
そこで必要になるのが、実はもうちょっと対抗させてむしろ上げるということで、
こういう時間というのが、私たちは少なくとも減らそうとばかり思うというのはまずいだろうというのを、
こういう本を読むと本当につくづく感じいらされるというか、
やっぱり蔵園さんが言うみたいに、時間はなくならないぐらいに思う必要のあるタイミングってあるんですよね。
29:55

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