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おはようございます。働くメンタルをとり戻す精神分析的ポッドキャスト、第1098回をお送りします。
11月29日、金曜日。いい肉の日とか、いい服の日とか、いろいろあるらしいですが。
あと何かあったような気がするの忘れた。金曜日の7時37分です。
昨日はね、申し訳ないですね。ちょっと、何故か落としてしまいました。そういうこともある。
あのね、気づいたら寝てたんですよ。で、あれ?と思って、もう何か起きて猛烈にバタバタして。
あ、そうそうそうそう。あのね、今、巷の中学校では、中間テストっていうものをやっておりましてですね。
娘が早く学校行って早く帰ってきちゃうんですね。
普段でさえ異常に早いのに、ますますこれが早回りしているために、私の状況もちょっと混乱してですね。
昨日ももう何か、寝て起きてからポッドキャスト撮ってもいいんだけど、起きた時にはご飯を食べてガッとやってですね、また娘を迎えに行かねばならんという状況にありまして。
えーと、バタバタしているうちにあっという間にお昼になって、3時になってみたいになってしまったんで、何にもできなかったわけです。
そういう風にして落とすと。
まあこれがね、やっぱり1万回達成にちょっと水を足すわけですけど、あんまり意識してないんですけど、1万回とかタワゴトだと思っていますんで。
昨日はね、でもほら、あのー、幸いにも3WAYSというのをやりまして、Jマスザキさんと、なんとなんとっていうこともないんだけど、ゲストに大橋哲夫さんをお招きして、割と豪華に、アスクシュート的には豪華にですね。
お送りして、また200名近くの方にライブで聴いていただきましてですね。
これなんかあれですから、スタイフでは1桁になる日が1日だって9人とかね、すごい、すごい番組だなと思う。
Spotifyだとさすがに3桁は言ってると、まあ信じないわけですけれども。
まあもう人数じゃないなと思ってるんで、思うことにしないとやってられませんからね。
あのー、今ノートの方にも何を思ってかちょっと3チャレ通信というのを始めちゃったんで、3ヶ月チャレンジに興味のある人もない人も、ぜひ読んでいただくといいんですけど、僕的にいいんですけどね。
あのー、まあ似たようなことを書いてるわけですよ。似たようなこと書いてるのは似たようなことを喋ってるし、と思います。
なので、まあこれに興味がある人はもしかするとテキストで読むと実は面白くないかもしれない。
そういうことは起こり得ることではありますから。
今日はその話を少ししながら、あれですよ。
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あのー、ぜひあっちにも来てほしいわけですよ。
12月14日の、なんならオンラインで聴いてくださいと。
年に1回のですね、年に1回これからできるのかな。
タスク集と総決算というもの。今回第1回2024を開催します。
もうちょっと目指せ3桁なんでね。
こちら、たくさん来ていただけるとですね、私の3ヶ月チャレンジの活動にも大いにプラスになるという。
なぜならば、そっちの方が安泰だと、私がいよいよ一人でやってるこのサービスは大きく好き勝手ができるというね。
好き勝手にやるってどういうことなんだろうなって言われるかもしれないですけど。
好き勝手にやってないと、そんなね、あのあれですよ。
精神分析について自主的に理解できるようになっていくことがメンタルを整えるんだぜみたいなことを言ってたって。
その、私しか言ってませんからね。
この地球上で一歩も進むと僕だけっていう、そんなことは絶対ないと思うんですけどね。
さすがにそんなことはないでしょう。
日本ではあんま聞かないですよね、こういうサービスが。
なくはないと思ってるんだけど、聞いたことはあんまないです。
他では。
精神分析は面白い。
やってる。
でもこれだって、そうであってはならないぐらい日本ではもう希少となってきつつありますから。
ましてあのポストみたいなね、精神分析的心理療法と言わざるを得ない事情ができてしまって、なんかこうポストの方に読んでみたんだけど。
なんだかね、今回は前に読んだ時の感動とは違って、すごい非常になんと言えばいいのか微妙な気持ちって言っちゃいそうなんだけど。
それだとなんか批判してるみたいじゃないですか。
微妙な気持ちっていうのは批判じゃないと思うんですよね。
で、微妙というかこう複装した気持ちになって、なんかこれをやっている方々はどうなんだろう、辛くないだろうかみたいにも思いましてね。
やっぱりちょっと、なんとかしようよ日本って少し思いましたね。
なんて言えばいいのかな、これはな。
えーと、アムステルダムショックって言うんですけど、なんでアムステルダムなんかにショックを受けなきゃならないんだっていうのがちょっと、まあそれはね、内部にいる人たちにはいろいろあるんだと思うんですけど。
私はちょっとあればね、今やあんなにすっきりしない形でやらされなければならない、その理屈がわからないって思うようにちょっとなりましたね。
まあ、怒りが滲むみたいな。
でも何に対してどう怒っているのか、いくらかアムステルダムに怒っているかもしれないけど、僕アムステルダム知らないし、まあオランダだってことは知ってますよ。
でも行ったことないしね。
アムステルダム、この場合精神分析の文脈で言ってるんですけど、まあね、そのヨーロッパに強い勢力があるのはわかりますが、だからなんだよって感じもしますしね、別に。
ヨーロッパだからどうしたんだよっていう感じもしなくはないですし。
だってね、例えばインドとか中国とかで精神分析をちょっとしたブームにでもなれば、もう数とかエネルギーでは消し飛ぶじゃないですか、ヨーロッパなんて。
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人口とかパワーとかが全然違うん、特に中国とか。
わかんないですけどね、今後はね。
あんまり聞かないですけど、中国の精神分析っていうのは僕もね。
でもなんかこう、いろいろ、何なんだろうねこれはっていう。
なぜ精神分析的心理療法などという、何文字熟語だかわからずしかもそれをポストって言って。
しかし、例えばポストの資格とかはどうなるんだとか、どこでポストをやってると看板が掲げられるんだとか、考えれば考えるほど嫌になってくるんですよね。
嫌になってくるっていうのも変。
それと公認心理師、臨床心理師というものとの整合性をどうするんだと。
それは心理臨床の世界なのか精神分析の世界なのかと考えれば考えるほどね、患者はどうしたらいいんだよっていう感じがやっぱするんですよね。
我々どんなにそういう課題をいろいろ抱えているにしてもですよ。
例えば、地美科に行った時にこの地美科は強大派閥なのか、東大派閥なのか、それとも旧大の系列なのか、そして鼻が専門なのか、喉が専門なのか、耳が専門なのか、考えないですよね絶対に。
考えます?考える方もいらっしゃるのかもしれない。
そこでサーティフィケーションチェックするとか。
なぜかうちの娘の好きで、いちいちお医者さんのサーティフィケーションをほとんど暗記してるんじゃないかぐらいな感じで、あそこの先生は何々大学を出て何々科で何年にとかわけわかんないこと言ってるんですけど、私そんなこと考えたこともないですからね。
見たこともないですよ。私は娘よりずっと病弱でめちゃくちゃ医者にかかってるんですけど、そんなこと気にしたことはないな。
でもそんなことを気にせざるを得ないかのようなこの心理臨床的世界は全く知らなくてもいいとは思うんですけどね。
でも昨日もある3ヶ月チャレンジの方と話題になったんですよね。心療内科なのか内科なのか精神科ではなくてもみたいな。
なぜこれを考えねばならないのかなと。いや考えねばならないのはそれはそれでいいんですよ。リテラシーが高いほどいいと思うんだけど、必ずしも心理臨床の側からのメッセージってそうでもないじゃないですか。
どの程度患者にリテラシーを要求してるのかよくわかんないんだけど、自分がちゃんとってのはこの場合何を意味するのかは難しいんですけどね。
でもちゃんとした心理療法を受けようと思ったらかなり知らなきゃならない気もしますよ。その辺がさっぱり見えてこないこの不思議な状況がいつどのようにクリアになってくるのかちょっと楽しみでもあります。
不思議な楽しみですね。こういう微妙な作装した気持ちがですね、ポストの本読んでいて猛烈に流れてきたんですよ。
本当に。だからその辺の話を少ししつつ、12月14日のタスクシュート総決算ね。これがまだ私の仕事ですから。
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私は仕事ができている限り3カ月チャレンジという仕事もできる。逆はないんですよ。3チャレンジだけをやってれば生きていけるぜっていうのは相当舵をこっちに切らないとなんなくって。
教会は人にお任せできる人を見つけ出さなければならないんじゃないかぐらいな感じになってしまうんで。
でもそういうわけにやっぱり昨日3WAYSで3人で喋ってて、まだまだこの3人でやっていくのはやっぱり今は当然ね。
いつしかそれが王道でなくなった時についても、メインストリームじゃなくなった時についてもある程度考えはなくもないんですけど、
今のところまだすごく漠然とした霧の中のみたいな、どうせ先のことだしなみたいな感じを思ってはおりますけど。
関係ない話が続きすぎましたね。本題に入りましょう。
あのですね、まず戸畑海人さんが雨の日の心理学の中で、なぜあれを読んだのかというとですね、ある方に、これも3ヶ月チャレンジでね。
どんな本を読んだら精神分析が体系的にバチッと頭に入るのかみたいな。
まあそういう人気発信ではないんだけど、趣旨としてはそういうご質問、最もなご疑問をいただきまして、いや実に最もだと思うんだけど、精神分析ってそういう学び方はできないんですね。
このポッドキャストで四角くして断片的な方から断片的な方からボトムアップを積み上げておりますのはね。
テキストでも昨日のノートを読んだ方もそういうふうな事情を知らなければですね、一旦聞いたら何が言いたいんだろうって感じがしたと思うんですけれども。
それはしょうがないんですよ。精神分析学という体系はないんですよ。
まして対象関係論はよくこの番組の時に論なんで、論は学じゃないんで。
論というのは結局まだ学になってないから論なんで。
我々はですね、学校で最初にきちんとした体系で算数とかを勉強し始めるからいけないんですよ。
いけなくはないんだけど、例えばインターネット学みたいなものを誰かが勝手に考えだしてですね。
インターネットのことってよくわかんないからどこかにインターネット学って体系的にまとまってないのって言われても困ると思うんですよね。
詳しい人ほど。それはつまり何を知りたいの。TCPIPのことみたいになってしまって。
そんなはずないじゃないですか。TCPIPのことじゃないじゃないですか。
昔はホームページがあったんだけど、そういえば日記サイトっていうのがその後ブログっていうものがでSNSが動画がとか言っても断片的にボトムアップしていくしかないですよね。
しかもどういう道筋で話をしても体系的でも網羅的でもないですよね。
学をまとめた人っていうか人々の一群ってのはすごいんですよ。そして偉いんですよね。
時点もいるでしょうし、歴史もいるでしょうし、退屈でもありますし、どこまで技術的な深みに入っていくか、どこまで現象的なところを抑えていくか。
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考えただけでも膨大でわけわかんなくなるじゃないですか。
どうせ時系列にやれば横の空間が無視されるし横の空間やってるといつまで経っても終わんないしっていうことで大変なんですよね。そういうことをやるの。
精神分析もまして精神分析そういうことをある意味やってこずに来ているところがあるわけですよ。林長ずっとやっていたからですね。
あのある意味では医学を網羅的に学ぶことができると人が言うとそれはお医者さんじゃないですか。
我々は医学ってものがどういうものかを全体的には知らないですよね。
だからしょうがないんですよね。まして精神医学は多分体系的に学ぶのはほぼ可能なんじゃない。そして精神分析は学にすらなってませんから。精神分析学科って日本の大学には多分ないと思います。
心理学部に属するべきなのかな。それもどうかと思うんですよね。
医学部に属すものでは決してないと思います。精神分析科というのは医者じゃありませんからね。精神分析は保険が全く効きませんから日本では医学部には属さないと思うんですよ。
もちろん精神科を学べば精神分析は出てくるとは思うんですよね。少なくともそれに不随する辞書は勉強することになると思うんですよ。
もちろん自己愛性パーソナリティ障害っていう言葉を知ってしまったらそれは精神分析を知ったことと少なくとも停職は絶対するんでね。
なぜ自己愛ってそれを言うっていうことを知ろうと思ったら精神分析に行き着かざるを得ないんで。
プロイトは頭から無視するってことはあり得ないと思うんですけど、関係ないですけど最近では中国ではマルクスは教えてないというか学校では習えないっていう話をどっかで読んだんですけども。
どうなのか本当のところ知りませんけどでもそういうことに近いことがありますよね。
共産主義学ってないじゃないですか。なくはないのかもしれないけれども日本では普通にないですよね。そういうことってあるんですよ。
それとはだいぶ意味は違いますが精神分析学というものはなくて、だからどういう本を一冊読んだら納得いくように理解できるだろうと思っても、一冊もそういう本が思い浮かばない。
一番近いのが藤山直樹さんの集中講義精神分析だったかな。そういう城地大学の講義した講義をまとめたものなんだそうなんですけど、これだけでも2冊あるんですよ。
いかにこの話が結構大変で、そして実はあの2冊を読んだから、でもあの2冊が一番いいんじゃないですかね。なぜあの2冊が一番いいと言えるのかは答えられないんですよね。
体系的には体系っていう言葉を使ってたと思うんですけど松木邦洋さんの対象関係論のこれも上下2冊なんですよ。オレンジと緑色の漢字の色のですね。
しかもどっちの方も高いんですよ。集中講義精神分析はいくらかリーズナブルなんだけど、それでも安いとはとても言えない金額ですしね。
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だから少なくともフロイトの精神分析入門は全然ダメだと僕は思います。最低だなと思うんですよね。入門書としては。
いい本なんですが、あの本が読めるようになるまでに少なくとも精神分析の集中講義と松木さんの体系論のぐらいは読まないととてもじゃないけど精神分析入門は読んでて、読んでてなんて言うんだろうな。
途中で眠くなるっていうか、私は2ページぐらいで寝ちゃうと思うんですね。何度か読もうとしたんだけど最初の頃は全く何を言ってるのかわからなかったですよ。
まあ僕の頭脳の問題も間違いなくあるんですよね。わかるって人もいるんで一発で。でも私はあれ一発じゃわかんないですね。
雨の日の心理学はそれでそう読み直したんですね。雨の日の心理学を読み直してみて、これは今度は逆になんか知らないけれども断片的な、断片的ではないんだけど何かがちょっと違う気がするんですよ。
で、一つとてもいい一節があったんで、今それを紹介したくてこんなに無茶苦茶喋ったんですけどね。彼はウィニコットの本当の、ほらもうウィニコットのとかって言っちゃうじゃないですか。
ウィニコット誰だよってことになるですよね。この超有名な人ですら世の中に知られていないというところが、学として巷にあふれていない証拠なんですよ。
例えばニュートンがって言った時に物理学のですね、ニュートンがで済むじゃないですか。ここがないんですよ、精神分析には。フロイトがならまだわかんないんだけど、もうクラインがって言ったらダメじゃないですか。
でもクラインは、僕はニュートンレベルだと思うんですよね。知名度としてあるべきは。ビオンがだったら間違いなくニュートンレベルだと思うんだけど、ニュートンがとかアインシュタインがって言っとけば済むんだけど、そのニュートンって誰ですかってところの説明を始めなければならないのが、
リテラシーが我々に備わってない分野の難しさなんですよ。インターネットでも絶対あると思います。ビルゲイツがって言ったらみんななんとなくわかることってあるじゃないですか。スティーブジョブズがとか言ったって。
だけど、例えばうちの父親とかに、母親には特にスティーブジョブズがって言っても、それ誰ってことに絶対なるわけですよ。この種の人にインターネットの歴史を教えようとか話になってくると、ほたんにめちゃくちゃ難しくなってしまうわけですよね。
この状態に我々精神分析はみんなあるんですよ。残念ながらね。なぜならばそれはどこの学校でも全然全く少しも話題にもしてないんで、しょうがないんですよ。高校まで行ったってせいぜいフロイトが出てくるといった程度だと思うんですよね。
古風土でさえどうかと思うんですよね。和田秀樹さんが有名にしましたけど、有名にしてくださいましたけど、古風土でさえどうかと思うんですよ。そして古風土は少し精神分析からずれましたし、ラカンは変に有名ですけど、それだってね、ラカンについて何を僕らが知ってるのかっていうと、大学でラカン出てくるなんていうのは多分文学部の一部マニアックなところでの話になってしまうと思うんですよね。
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で、まあ、ウィニコットが本当の事故っていう話をしていて、で、まあ、もちろんこれ今のような事情を遠畑海人さんはみんな、書写のね、遠畑さんは全部大体抑えてありますから、えっとうまいんですよね。やっぱ説明がね、本当の事故っていうのは、あのおじいさんが温泉でボケーとしてる。あれが本当の事故です。なるほどなぁと思うんですよね。うまい説明。つまりなんていうのかな。構えてない。
フォトヅラを取り繕っては全然いない時っていうことですよね。えっと、おじいさんが温泉でボエーとしてる時と、えっと、新入社員がリクルートスーツしてきて、あの、会社説明会に行く時では全然モードが違うですよね。この校舎のリクルートスーツ着てる、頑張ってる時がこれ偽りの事故っていう。
まあその時絶対偽りかっていうと人にもちょっとよると思うんだけど、多くの人はそこで偽りの事故ってものを用意して社会に出ていかなきゃならないわけですよ。で、これは良いことなんですよ。というか少なくとも必須なことなんですね。温泉でボエーとした態度のまんま会社説明会に行けるっていう大物はこれ大物になっちゃうんですよね。ごくごく少数だと思うんですよ。
社会に出てやっていくっていうのは偽りの事故を用意するってことと、まあ非常に深い関係があるわけ。この辺のことをウィニコットって人はまず言ってるってことですね。で、ここはまあまあそれは裏表のこととか建前のことってことになると思うんですけど、それだけじゃないんですよね。精神分析でここですっごい関係があるのは、そして戸端さんがさらっと言っていて、やっぱりあの本の、僕は一番の読みどころはそこだと思ったんですけれども。
本当の事故っていう言葉に引っ掛けてですね。そうやってでもボエーと例えば車の運転をしていると本当に事故になります。これは事故と事故、ハプニングとセルフを引っ掛けているわけですけれども。
つまりこういうダジャレを使うっていうことができるのは、私が読者を信頼しているから自分の本当の自分が出せているんですっていうことを、戸端さんはあそこで書いてるんです。そういう解説もしてますし、まあ抗議体系なんで、あれも抗議の資料をまとめたところがあるんで。
皆さんの前でこういうダジャレが言えるのは、皆さんが僕を本当の私を出していいようにケアしてくれているからなんですっていうふうに書いてるんですよ。これがああいうあの本の中の全体を象徴的に示している一文だなって思うんですよね。この辺がやっぱり戸端さんが精神力道の専門の人だっていうのをすごく感じさせられるところなんですよ。
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普通僕らは大学の先生がダジャレを言えるのを学生がケアしてるからだっていう観点を取らないですよね。こういう観点を取るためにはやっぱりそういうものの見方をできるようになってないと難しい話だと思うんですね。
ああいうふうにやっぱりこうダジャレ出してみたりして、その本で伝えるとしていること、あの本はケアを伝えようとしてるんで。ケアとは何を意味しているのか。どういう時にケアってものが成立しているのかっていうのを伝えようとしてるんで。
ケアっていうのは決して、さあケアしようっていう、もちろんそういうケアもあるんですけど、介護しようとか、子供をあやそうとかそういうケアもあるんですけど、全くそのお互いが強くは意識していないケアの仕方が実は方法でなされているんだという話なんですよ。我々はもう最初からケアされているんですね。
なんだけれども、僕らはそのケアに気づかないんですよ。というか気づけない不幸ってものがあるわけです。この気づけない不幸っていうのはですね、よくその気づかない人の過剰に甘やかされてきたからだとかそういうふうな話にされてしまうんですけど、気づけない不幸には実にいろんな不幸があって、とにかく気づけないっていうことには良さと不幸が両方入り乱れているわけですよ。
僕らは例えばどこに行っても空気が吸えるという幸せに満ちてるわけですね。それは行ってみれば地球にケアされてるんですけれども、そんなことには気づきません。それは当然当たり前すぎることですよね。
いちいち空気吸えて地球に感謝、空気吸えて地球に感謝って言ったら、何か独特の宗教にハマってる人みたいになってしまうわけですね。だからこういうケアには気づかないべきなんだけれども、でも全く気づかないのもよろしくないんですよ。
やっぱり先生が生徒にケアされているっていうのに気づけてこそ、その先生は伸び伸びと授業ができるっていう一面があるわけで、伸び伸びと授業ができるとどういうことが起きるかというと、その先生はよりよく生徒をケアできるっていう、こういうケアには相互関係が相互のケアの試合っていうのがあるっていうことを戸畑さんはすごく強調していて、
なぜそこを強調しているかというと、彼がおそらく思うに、精神分析とか精神力動とか臨床心理、心理臨床の中で一番世の中で役に立つのはここに気づくことだって彼は思ってるからだと思うんですね。そしてここに気づくのがすごくややこしい時代を迎えつつあるっていうのが彼の問題提起の一つであって、
彼はそういうのは心理臨床から知っていればいいことだし、精神療法をやるときにそれができればいいんだけど、でも世の中の人もこのケアの相互関係ぐらいは知っていてもいいよねっていう本が今バカ売れしているわけですよ。
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僕はこういうのを伝えるのが実はすごい難しいんだというふうに思うんですね。精神力度ってないっつもこういう見えない空気をしかも相互にやりとりしているという、お互いそれを意識もせずにやりとりしてしまっているっていうことをいかにどうやって伝えるかっていう精神分析を学ぶという観点でいうとですね、
いかにこれを捉えていくかっていうことを私たちが無意識にってよく言いますが、自動的にやってしまうことですね。自動的にやってしまうことが私たちのものの感じ方とか、私たちの心へのケアなりダメージなりっていうもの、インフルエンス、ストレスとかいったことに非常に自己肯定感とかでもいいですけど、そういうものに強い影響を与えているんだけど、
それが目には当然見えないし、意識もしないし、自動的で無意識とかになってくると分からないわけじゃないですか。だから、それをある種の解釈をその人が自分にとって分かりやすい解釈をついついしてしまうと、それは当然そうなるに決まってるし、そうなるしかないんだけども、そうなってしまうが故に非常に難しい問題に取り込まれることがある。
なぜならば、目に見えない意識もできないものを無意識に解釈しているその解釈の癖みたいなもののせいで、人生の風景というものがその人にとっては固定的なものになる。その固定的なものが薔薇色の幸せだったらいいんでしょうけど、その固定的なものはだいたい雨の日の心理学で非常に残念でうんざりさせられてだるいものだったりするわけですよ。
そのだるいものの見方というものに固定されてしまうことは、ある意味大変不幸なことではありますよね。
ものの見方を変えなさいって言われると、春は経つと思うんですよ。変え方がもう教えてくれないのに、お前は幸せそうな世界に生きてていいよなってことになっちゃうと思うんだけど、それはですね、ものの見方を変えるよりほか仕方がない。なぜならそれはものの見方によって決まっちゃってることだからですよ。
我々はいろんな能力を持っていて、例えば色を識別できます。その色から抽象的なメッセージまで受け取ってしまいます。そして抽象なんで、抽象というものは共通してもの同じように見えてしまうという、そういうメリットとデメリットが必ずあるわけですね。
つまんない話をするようですと、赤を見たら止まれだと、よく僕言いますけどね、ここでね。でも例えば夕日が真っ赤でも止まらないじゃないですか。なぜそういうことができるのかって、一から説明しようとすると結構大変じゃないですか。
信号機ってどれも結構形状違いますよね。歩行者用の信号のチカチカで人のマークがついてる信号と丸い信号はずいぶん違いますよね。でも同じ信号が赤になったら、我々は歩いてる時は歩いてるなりに止まろうとし、車の運転してる時はほぼ確実に止まろうとするわけですよ。
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止まらせる力は赤信号には何もないのに、見れば止まるという解釈をして、そういう判断をして止まるわけですよね。これはたったそれだけのことなんですよ。
ここの中でも抽象能力というのは間違いなくありますよね。あの信号の赤は止まるけどさ、次の信号の赤は止まらないよっていうのはダメですよね。でも本来それが正しい物の見方じゃないですか、ある意味では。
2つの信号は異なる信号なんだから、全く同じ意味であるという必然的な理由はどこにもないわけじゃないですか。でも必然的に同じだと考えるのが人間ですよね。
これは多分犬とかだったら考えないと思うんですよ、そんなことは。そもそも赤という色が識別できるのかどうかもわかんないですけど、とにかく昔あの信号が、赤の信号かな、青の信号かに蜂さんがいっぱい溜まってきて困ったっていう話がニュースでやってましたけど、蜂は赤という色に引き寄せられる傾向があるみたいなそういう話だったんですけど、そういう蜂にとっては止まれでも何でもないですからね、あれはね。
やっぱりこれは人間の解釈なんですよ。で、そのつまんない話は何なわけって思われるかもしれませんがですね、この繰り返し繰り返し赤信号がになって止まりますということに被害妄想を持つ人っているわけじゃないですか。
例えばものすごい急いでるとき、また赤だよって言って怒ってる人って絶対いるわけですよ、世の中には。ここに僕らの号ってものがまずあるってことですよね。信号機が赤くなっただけなんですよ、出来事としては。
でも僕らはそれ以降に解釈を加えて、何かね何かに言って捜査でもされているような、今日は月がない日なんだみたいな、そういう解釈を可能とする。そして自分の都合というものと照らし合わせて、今繰り返し赤になるのは都合が悪い。
だいたい人にとってはおおむねそうですけどね。たまたまその時間帯に行くと何か繰り返し繰り返し赤信号に捕まる。運転手だったらみんなこういうこと経験はまあ10度10度や50度ぐらいは絶対あるはずなんですか。
その時に本当に腹を立てる人もいるわけですよね。本当に腹を立てるというのは、この番組では繰り返している一時過程に相当寄っているわけですよ。快不快原則ですよね。赤がならば不快、青ならば快っていう原則に乗って生きているわけですよ。
現実にはたまたまタイミングで赤の時もあれば青の時もあり、青に差し掛かる時もあれば赤に差し掛かる時もあり、ラッキーな日もあればアンラッキーな日もあるというのが現実原則ですよね。そんなことはみんなわかってるんだけど、それでも一時過程の方に引っ張られて赤ばっかりということになるわけですね。
これがもう一歩進んで精神病水準に入っていくと、これは政府が私が通ろうとするたびに信号を赤くして、私がスムーズには生きられないように陰謀を張り巡らせているんですよ。このセリフは僕は実はアメリカで本当に聞いたことがあるんですよ。
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これは精神病水準ですね。その人は統合失調症だったわけですけど、「あなたそんなに重要人物なんですか?」って言うと、実はそういうふうに政府は思っているらしいというのが中国政府ってことですよ。こういうふうになると話が一段と険しくなってくるわけですね。
で、非常に大事なことはこういう人にしてみるとですね、反復脅迫ってものが非常に見えやすくなってくるわけです。よく言うじゃないですか、不思議なことに私が転職すると転職するたびに非常に嫌なパワハラ上司がやってくるっていう、他の人は信じてくれないんだけど間違いなくそうなんだと。反復されるんですよ、その人の人生において。
反復されるのは当たり前じゃないですか。我々にとって、我々は抽象能力を備えている以上、人生というものは同じことの繰り返しのように見えなければ発狂してしまいますよね。
今日は信号が赤と青と緑だ。いや、赤と黄色と青だ。不思議だ。どこへ行っても信号がなぜか赤と黄色と青なんですよっていう人っていないじゃないですか。
最近クリスマスだからちょっと色変えてみて、最近コンピューターだったらできるじゃないですか。これからはストップは紫にしますとかね。めちゃくちゃ困りますよね、そんなことが起きたら。だから我々にとって世の中というものは反復に見えるようにできているはずなんですよ。
どこに行っても空気吸えてすごいね地球とかって言わないわけですよ、我々はね。でもそれってある意味すごい不思議なことじゃないですか。この星ぐらいなもんですからね。どこに行っても酸素があるなどというのは。
こういうふうに僕らの人生というのは繰り返し繰り返し同じような体験をするようにできているんだけれども、ここに不幸な解釈というものをするその人の心の習性みたいものがありますと、同じような不幸に繰り返し襲われている。
だからさっき言いましたね。急いでいる時ほど赤信号に捕まると言って怒ってる人がいる。さらにその先に行くと、自分の車が差し掛かるたびに政府は信号を赤くするような遠隔操作をしているってところまで来るわけですよ。
このぐらいの回数で、つまり自然発生としては不思議だと思えるぐらいは赤信号に繰り返しぶつかるんですよ。その同じぐらいの確率で繰り返し自分と処理の合わない上司が職場にいても全然不思議なことはないんだけど、その人にはそうは思われないということなんですね。
あるパーソナリティ障害の臨床例に非常に面白いなと思ったんですけど、子供の頃にその人は夜県の群れに追いかけられたと。とっても怖くてそれがトラウマになっていると。そのせいなのかどうなのかわからないけど、私は煽り運転の犠牲になることが多いと訴えるパーソナリティ障害の人っていうのがいらっしゃったっていう話なんですね。
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これはその人からすると煽り運転に繰り返し追いかけられていて、やっぱりそれは昔私は犬の夜県の群れに追いかけられるようなそういう星の下に生まれてしまったから、あるいはなんだかよくわかんないんだけど私の外見がそういう煽る奴らを引き寄せるところがあるのだろう。その人は本気でそう思っていらっしゃるわけですよ。
だからそういうセレンディピティなのか、ユングの何なのかわかりませんけれども偶然の位置が常にあると。車を運転していれば煽られる。子供の頃は夜県に追いかけられる。そういう星の下に生まれてしまったんだっていうような、そういうふうな迫害的なものの見方というものが成立してしまうんでしょうね。
だって夜県が追いかけるのと煽り運転に追いかけられるのは全然関係ないじゃないですか。全くどこも行っても似てないじゃないですか。追っかけるものが車だというのと犬だというのとじゃ。全然違うじゃないですか。これが僕らの抽象能力なんですよね。抽象能力の高さなんですよ結局。
赤信号どこに行ったって赤信号だ。あんならアメリカの赤信号だってちゃんと赤信号に見えるってのは別にそう見ようという努力とか学習能力とかいらないですよね。何かを学習はしてるんだと思うんですけど。僕らはそれを抽象的に抽象化して、人工的に丸いなんとかを外国に行ったってストップなんだっていうことが一発でわかるというね。非常に不思議な能力を備えてるんですよ。
だからといって赤い太陽が天空に輝いていても足をピタッと止めたりはしない。なぜなのか実は説明できてないと僕は思うんですよね。当然そうだと思ってるだけな。だからある種の人にしてみれば夜間に追いかけられた私は大人になればよくわからない柄の悪いやつに追い回される運命にあるわけですよ。
これは繰り返し同じような事象にぶつかるように僕らの人生は設計されてはいないけど、まあそういうふうになるようになってます。こんなことを言うぐらいだったらですね、私不思議なんですよね。毎日毎日ご飯を繰り返し食べてるんですよっていうのだって変わらないわけですよ。同じことを繰り返し起きるっていう、ただそれが不思議だっていうならば、何だって繰り返されることは不思議ですからね。不自然なほど繰り返されるわけだから。
だけれども僕らは大体において自分にとって都合のいいことでは疑問に思わない。都合の悪いことが繰り返し起きた時だけ疑問に思う。そこはやっぱり皆不快原則ですよね。一時過程に沿って生きている。二次過程ではないわけですよ。現実的によく考えてみればそれは不思議でもなんでもないことがわかるので、それは自分が特別に不幸だということには全然ならないっていうことにも、
思い立っても良さそうなもんだけど、そういうふうには心が監督しないようにできていればですね、そういうふうじゃないものの見方の習慣が身についていれば、別に繰り返しの不幸に襲われるというふうに訴える人がいたとして、それはそれでおかしなことではないということです。
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ただそれは二次過程とは言い難い感じがする。一時過程がすごく優勢になっている感じがするわけですね。んで、はるばるやってきましたけれども、戻ってきて、ぐるっと戻ってきて、私たちはケアされていないという不満を抱きがちなわけですよ。
高畑海人さんはそういうものの見方をよく知っているから、自分は学生さんの前でダジャレが言える。なぜなら学生さんは私をケアしてくれているからだと。スパッとわかるんだけど、そうはおっしゃらない大学の先生はごまんと言いますよ。
いや学生はいつも俺に敵意を目を向けている。私の大学にもいましたもん、そういうふうに言ってるおじさんの大学教授。お前ら本当に俺のこと嫌いだろうみたいな。面白いなと思うんですけどね。そう言われてみて初めてそれについて考えてみたみたいなことってあるじゃないですか。お前ら本当に俺のこと嫌いだろう。
いつも俺が気分よく授業をするのを邪魔しようとすると。だからお前らもろくな授業は聞けないってこういうことを平気で言うわけですよ。その人は自分のものの見方がニュートラルだと思い込んでいる。でも全然ニュートラルでないんですよね。その人は学生、当時の僕らに対していろんな悪いものを徹底的に投影する習慣がついている。
繰り返し繰り返しどの大学に行ってもどの授業をしても学生はいつもなぜか俺に対しては悪意の目を向ける学生ばっかりが揃っているという結論になるわけですよ。とても不思議な偶然の一致がここにあるわけですよね。その人にしてみればね。
しかもこのその人にしてみればもう一つあるのはですね。他の先生の時はお前ら態度いいくせになとかっていう人すらいるわけですよ。ここで全然自分は迫害妄想に囚われてるなんて思ってないわけです。頭もいいしね。ただ頭の良し悪しとこのこととはこの種のことは関係が全くないわけですよね。
一部の学生だけはそういう敵意の目が見え向けてないように見えるんだと思うんですよ。その学生さんたちはとてもいい学生に見えると。そういう人たちが内心でどう思ってるか大変保証の限りではないんですけれども。僕なんか全然敵意の目なんて向けてないんですけどね。
だいたい僕には敵意の目が僕らのみたいな一軍の男子学生みたいなのは特に目の敵にされてしまうわけですね。このものの見方をとっているとだんだんそうなってはくる。だってこのような発言をすれば学生は大抵の場合半数以上は簡単に気を害してしまうんで。
その分その先生に向かって敵意の目を向けがちになる。これは定義なんですけれども、まあいわゆる大量の投影同一化と言ってもいいんですが、投影同一化が急速に進行するわけです。投影している悪い学生たちという投影が学生たちを悪い態度の学生たち現実にしていくんですね。これは別に何ら不思議なことではない。
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これを授業のたびにやれば繰り返しそういうのに遭遇するという不幸な不思議な偶然がその先生の身に降りかかっていく。これはハイト流に言うとケアされているということを無視している。で、なんでケアされていることを無視してしまうのかというと、その人は人のケアというものを知覚する習性というものを育ててこなかったからだろうと。
ミニコット的に見るとそういうことになっていくのかなと思うんですよね。
つまり世の中には環境としての母親、これもミニコットという人の言葉なんですが、が張り巡らせている。重力もあるし、空気もあるし、太陽光もあるし、まあ日本の場合は清潔な水もありますね。
こういった環境としての母親が張り巡らせているから、我々は黙っていてもケアをどんどん受け取ることができるんだけれども、これらのケアはだいたい見過ごされる。
当たり前なんですよ。日本に住んでいて水が清潔なのも空気があるのも太陽があるのももちろん重力があるのも当たり前なんですよ。
いきなり街を歩いてて強盗とかに会わないのも大筋当たり前なんですよ。レストランに入ればだいたいそこそこまともなものが食べられて、この辺は虫が飛んでないのももちろん当たり前なんですよ。
これらのケアを知覚するためには一番最初、人生の一番最初でお母さんのケアというものが当たり前なんだけれども知覚はできる水準に達していたということが必要で、それができる母親がグッといなくってことになるんですね。
大地がパーフェクトマザーなんですよ。そのケアがあまりにも完璧に行き届いていると、ケアが本当に当たり前になってしまって、ケアの途切れというもの、つまりケアがない状態があってこそ、このことは川田ガイトさんが書いてましたね。
ケアがない状態があってこそケアがあるというのが際立つので。
だけども途切れすぎると困っちゃうわけですよ。ほとんど逃れと同然になって、飯食わせてるんだからいいでしょうみたいになってしまうと、それはそれで子どもはお母さんのケアというものを受け止める能力が高まらない。
だけれどもあまりにもケアが完璧に行き届いていると、外してこっちの方が感謝する子どもが育つのが皮肉なところではありますけどね。
途切れは絶対するんですよ。子どもにとって完璧なお母さんはいないし、そもそも人間にとって完璧なケアってないじゃないですか。
冬ある、冬外に出ようとするとバッと外の空気が24.5度ちょうど、あなたにとって最適な空気になりましたみたいな、そういうことは起きないじゃないですか。
ケアは必ず途切れて、不快な思いって絶対するんで、その時に不快な思いをさせないようにしてくれている気遣いみたいなものが際立つんですよ。
これを感知する能力というものが育まれていって、そういうものを育んでいる戸畑さんは生徒さんが自分をケアしてくれているということに気づきやすい。
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つまり気づきやすい人と気づきにくい人がいて、気づきやすい人と気づきにくい人がいるってことは心がバイアスを持っていて、その人その人ごとに癖があって、
気づきやすい人もいれば気づきにくい人もいて、全然気づかない人もいて、全然気づかない人は生徒がケアしているところがあっても全く見えてこないので、
お前ら俺に適意ばかりを向けているから、ろくな授業は受けられないんだぞっていうことになって、転移が起きる。
何の転移かというと、それはその人は多分何らかの理由で、母親か父親かは知りませんけれども、子供の頃から人にケアされるという体験が欲しかったのかもしれないっていうようなお話がすごく精神分析的だなっていうような、
こういうふうに読んでいくと精神分析の本というのは読みやすくなるものではあるんですよね。
ご視聴ありがとうございました。