00:05
おはようございます、グッドモーニングボイスです。
5月30日、木曜日、7時24分ですね。
今日はかなり清々しい感じで、これは収録日和ですね。
この辺にありそうな気がする。収録日和と熱中症になる、あざかいきみたいな。
今年はね、5月30日。
ちなみに昨日ですね、ほとんどどうでもいい話題。
千葉ロッテは旧連勝の後引き分けですね。
昨日の引き分けはほぼ負けてたんで、良かったかなという感じがしました。
あれを勝てなかったヤクルトには気の毒な感じがする。
東京ヤクルトはほぼロッテの負けでしたね。
本当に紙一重で引き分けたみたいな。
紙一重で勝つっていうのが良いんですけどね、紙一重で引き分けててもね。
でもジャイアンツがソフトバンクを破ってくれましたので、
これでじわっとね、なぜかと言っては失礼かもしれませんが、
ビッグボスの新城の日報販売、やけに強い。
阪神にも糸もあっさり買って、なんでこんなに強いんだろうなと見ていて不思議に思うんですけれども。
ラミさんですかね、あの辺かなと思いながら、
あそこの上行ければ今年は少なくともAクラスは硬いだろうって感じはしましたけど、
まあまあ負けなくて良かったなと。
6月ですね、これはお知らせするべきなのかちょっと分からないですけど、
6月29日に天老院書店さんというところで電子書籍系の何かイベントをやるところで私喋ることになりました。
6月29日土曜日の14時からのイベントですね。
あの天老院は渋谷にある天老院カフェの方ですね。
湘南にある本屋さんじゃない。
天老院カフェで喋ると。
ゲストで招かれたというありがたいお話で。
いつも通りどうやって本書いてんだみたいなお話を、
これをちょっと今から、今はまだ全然早いから何も考えてませんけど、練っていこうと。
何かしらあれですね、力道っぽい話にしたいなとは思ってます。
まず誰でも考えつくやつ。
200ページを60日で割ってか50日で割って、
40節を1節ずつ毎日40分かけて書いていく話は、
聞いてて楽しいのかなっていう感じがするから、
いつものようにくだらない漫才みたいな話になっちゃうわけですよ。
03:01
主軸の話はただこの40日で割ってる話しかしてないわけですよね、結局ね。
あとは朝4時に起きてやるとか、何かちょっとキワモノっぽい話をして、
聞いてる方の退屈を誘わないようにするというのが関の山で、
多分それじゃダメだろうと思いますんでね。
そんなこと僕も今やってないですしね、一切。
全くやってないって話をするだけでちょっと注意は引かれるんで、
これをやってないってだけでは何をやってるって話になってないしなというのがありますので、
やっぱり力動的な話をしなきゃなと思ってるんですけど、
どこらへんの話をすればいいのか悩むところではありまして、
これ聞いてる方に暇なら来てくださいと申し上げたいんですけど、
オンラインのアーカイブ配信が果たしてあるのかどうか、
テンロインカフェさんはやっぱり人に来ていただきたいんだと思うんですよ。
僕のこれは勝手な推測ですけどね、僕行ったことないしテンロインカフェさん。
行こう行こう行こうとずっと思って、ここ5年ぐらい経って全く行ってないという。
こういうのもどうかなと思いながらですね、行ってないわけですよ、要するにね。
でも行こうとは思ってたんですね。
そもそもどこにあるんだろう?
湘南にあるということを知って、湘南だったら行っておくべきだったなと近いわけですからね。
ただ湘南にポイポイいろんなところに行くかというとほぼ絶対行かないんですよ。
最近特に辻郎とか行く理由がないから行ってないんですよね。
たまーに家族と行くんですけど、それはもうはっきり目的があるから、
ついでにテンロインさんに寄るみたいな発想になってないですしね。
まあまあとにかく29日土曜日にやりますんで、
ぜひ来ていただけるといいかなと。
もし暇なら、そして来るという場所にいらっしゃるんですね。
なんか喋ります。
お題は与えられているわけだから、本を書けというか、
本を書くために何を私がしているかと。
まあ本を書いているだけなんですけどね。
まあまあいいや。
他に何を話せばいいですかね。
いやいや、違う違う、そうじゃない。
私が言いたいのは、他に何かお知らせがあったかなですね。
あったんですよね。
6月の23日ですね。
これより前だ。テンロインより前だ。
スクシュート手帳の術の第2回を開催します。
これも渋谷です。
こちらはね、オンラインだけではできないこと。
つまり、手帳の生の手帳を書いている人たちの実家に見たり、
触れたりできますということがありますので、
こちらはぜひですね、リアルに参加いただくと。
06:01
このコロナ以来やっぱりね、Zoomの使い方を皆様が獲得されて、
この種のセミナーは、特に情報を知ればいいもの。
家から出ずに済むわけで、すっかり形が定着するのはすごいよく分かるんですよ。
私も絶対そうするから。
でも、たまには外に出ましょうみたいなね。
これは50を過ぎたから、適面に思うようになったんですよ。
人間、外に出られなくなる日がいずれやってくることもありますから。
ぜひ、外に出られるうちに出ておいた方がいいです。
酸素いっぱいありますしね。
ほとんどどうでもいいことしかしゃべってませんけれども、そんなもんです。
23日の日曜日、昼の2時から4時までやっております。
今度は会場もちょっといい目のところにしてみました。
今まで良くない目のところにしてたわけではないんですけど、
ちょっと経費を考えていたんですけど、どうやらこれは黒字化できそうだということで、
ちょっといい目のところにしましたので。
認定さんの中にはちょっと遠くなったという方もいらっしゃるにせよ、
渋谷は以前の会場よりは出やすい人の方が多いのかなと思うので、
ぜひよろしくお願いします。
第2回、タスク集と手帳述の回。
これはね、毎月正確に1回ずつとは言えないまでも、
それに近い頻度でなるべくシリーズ化していきたいと思っております。
ではですね、今日はもう999回も近いということがあんまり関係ないんですが、
はっきりとしたテーマはあります。珍しくね。
機械な対象、ビザーレオブジェクトってやつですね。
対象群ということの方が多いみたいですけど、どっちでもいいです。
ATMに見張られている、反旗船のところから狙われているテレビが私を非難するこの系ですね。
一般に統合視聴症の方が見る幻覚現象とされておりますが、
これは私はですね、そんなこともあるんだなぁみたいに思ってただけでした。
私はアメリカの心理学でDSMの読み方はもう嫌になるほどガッツリ、
なんなら暗記しろくらいにやらされてテストもさせられて面接も受けさせられても大変な思いをしたんで、
さすがにあれの読み方はわかるんですが、あれの読み方って本当独特で、
基本症例主義と呼ばれていますが、症状を見て症例を判断し、その原因を特定はしないという考え方に基づいています。
これは極めて賢明な考え方です。
下手な当て推定をすると、つまり下手な原因を探ると、
ありきたりなトラウマに探りを当てることになって、
エリザベス・ロフタスさんが非常に口を極めて非難した偽の記憶を捕まされる結果になる。
09:01
ロフタスさんはすごい独特の考え方だなと思うんですよ。
全く同じことを考えたフロイトと全く異なる結論を出した。
それは当然なのかもしれませんね。
ロフタスに言わせるとそれは偽の記憶。
フロイトに言わせるとそれは真的・現実。
現実なのか嘘なのかって言うほど、この二人は意見が違うけどやってることはそっくりですね。
本当に。
ロフタスはしかも、ある意味やっぱりアメリカ的で、
フロイトに言わせれば倫理的でない的と言うんですけど、
ロフタスに言わせればフロイトこそ倫理的で、やっぱりこの二人は水と油かな。
でも二人が同時代に生きてないから、本当にやってたらどうかわかりませんけどね。
でもロフタスは要するに偽の記憶を作り出すというすごい実験をしてしまったんですね。
すごいなと思いますね。
被験者に偽の記憶を植え付けるというね。
あなたはスーパーで迷子になったことがあるのよっていうね、暗示をかけるんですよ。
そしてその証拠みたいなものを大量に散りばめておくみたいなことをやると、
なんとその人は、昔私は本当にボールで迷子になって大変な目にあってという、
それトラウマになったらどうすんだよっていう話なんだけど、
ロフタスさんはそういう実験を経てですね、一世を風靡し、
いかにカウンセリングでやってることがデタラメかと。
フロイトに言わせればすごい濡れ衣だと思うんですよ。
だってサイキックリアリティって言ってるじゃんっていう話なんだけど、
ロフタスの言い方、特にある種の論文を読むと、読んだんですけどね、
まるでですね、カウンセラーっていうのは、
全てのトラウマの記憶を事実だと頭から決めてかかっていると言わんばかりなんですけど、
そんなことが、それは全然そうじゃなくて、すごいフロイトが悩んだ時代があったっていうのは、
もう本にはいっぱい書いてあるじゃんっていう。
だからそこを知らないはずないのに知らないのか、知らないってことはないと思うんですけどね。
あのように書くのって、私から感じてはフェアじゃない感じは当時もしました。
当時は僕はロフタスの方がすごい正しいと思ってたんですけどね、フロイトよりは。
でもこれはフェアじゃないだろうとは思いましたね。
でもフェアじゃないんですけどね、学者の学問って必ずしも。
まあまあ、それはいいとして、そういうことを突っ込んだっていうのは変な話で、
で、ロフタスさんの業績は極めて大なんですよ。
当時旧ソ連と戦ってましたね、アメリカは冷戦ですね。
旧ソ連ではそういう事件が本当に、
昔お父さんに性的な嫌がらせを受けたとか告発しちゃうとお父さんが強制収容所に連れて行かれるみたいな、
これもどのくらいどのくらいってのがわかんないですけどね、
私は旧ソ連の秘密文書とか読んだことないんで。
でもまあ絶対やったことはやったんですよね。
だってある種の人たちから財産を没収したり、強制収容所に入れたくて仕方がない人たちっているんですよ。
ああいう社会情勢になってくるとね。
12:01
子供は思春期になると反抗期を迎えるんで、
親を強制収容所に連れて行ってしまってほしいと思っている。
それは非常に浅はかな考えですけどね。
あとでひどいことになるんで、自分も。
でもそういうことをやっぱり告発しては連れて行かれる親っていうのがたくさんいたと。
偽の記憶っていう考え方を取り入れると非常にわかりやすいんですよね。
でもそれはフロイトが言ったことではないだろうかと思うんですよね。
既に。
サイキックリアリティっていうのはまさにフロイトが患者の言うことの全部は信用ならんって思ったから、
行き着いた発想なんですよ。
この辺がフロイトってすごいんですよね。
だから最初はヤオットが浮気をしてとかいろんなこと言ってくるんだけど、
最初はフロイトもすごい同情心恐らくいっぱいでフンフンと聞いていたわけじゃないですか。
足が動かなくなってとか声が出なくなってとかいろんなこと訴えてくるんだけど、
こいつら作り話してるんじゃないかってそれは思うわけですよ。
絶対に。
僕は絶対カウンセリングという現場でそんなに大量の人の悩み聞いてたら、
そういうふうになるに決まってるだろうなっていうふうにはもちろん思います。
だって人は話盛りますし、
喋ってるうちに本当かどうだとか分かんなくなってきますからね。
そういう話はいくらでもあって、
別にロフタスはそれを大規模に、
すごく精密に調査したという点で優れてるんですけど、
それについて彼女以前の人が何も分かってなかったっていうのは、
いかにも無理があると思うんですよね。
そんなことは分かってたに決まってると思いますね。
偽の記憶っていう有名な本もあるような気がします。
記憶は嘘をつくかな、日本語の放題では。
もちろん嘘をつくんですよ。
僕ら日常生活でそんなことは分かってますよね。
そしてその種の、特に漆黒な話になってくると、
細部は非常に証言の信頼性みたいな話に似てくるんですよね。
交通事故が起きた時ってやっぱり、
実態に起きたよりは激しくその描写を印象に残してしまうので、
なんかだから車がちょっとへこんだのを見ると、
大破したように見えるんですよ。
この話がVisual Objectsっていう観念には、
非常に僕は理解する上にまず必要な考え方だろうなと思うんですね。
Visual Objectsの話を私は要するに今日したいのはなぜかというと、
身内にテレビが私を非難しているのだって言い始めた人、
話聞くとギョッとするじゃないですか、とりあえずまず。
ところがDSMというものの省令主義を見ると、
そういう機械なことを言う人がいます。
そういうことをいっぱい言って、3ヶ月に1回どうのこうのになって、
こういう話とこういう話とこういう話があってたら、
統合主張しようと言っていいでしょうみたいな。
それはそうなんだけど、やっぱりどうしてそう思うのかが、
15:00
知りたくなるわけですよ、人間は。
で、やっぱり普通の、普通のっていうのかな、
大半の人はテレビが自分を非難してるとか、
ニュースで今日私の悪口言ってたなんて思わないわけですよ。
いや、わかんないですよ、もちろん。
あの、首相とかならね、ニュースで今日も俺の悪口言ってやがんなって、
それは思いますよね。
それは別に妄想じゃないんだけど、あのね、
都知事選とかでもあの人今日もテレビで私の悪口言ってるって言ってるのは、
これは正しいですよね。
認識として極めて正しいですよ。
だけど、私がですね、
今日も佐々木昌吾の悪口テレビで言ってるんだけどっていう、
完全に妄想ですよね。
この妄想はどっから来るんだっていう、
古代妄想なのかっていうと、そういうことではないんですよね。
まして、テレビで言ってるっていうのは、
キャンプポイズってまああれだとして、
ATMが言い出したとかになってくると、
これはかなり問題があるわけですよ。
私すっごいこれわからんなと思ってたんだけど、
考えてみれば決してわからない話ではないということが、
だからこれも不思議なんですけどね。
まず第一歩はすぐ身近な、リアルにその言葉を聞くようになって、
あ、DSMに書いてあった言葉がここにあるってことになったときに、
DSMの物足りなさが、DSMはよくできてるけど、
物足りなさを痛感するんですよね。
いや、なんでっていうのはDSMには一言も書いてない。
そういう主義であれは作り出されたものだから、
当然そんなことは書いてないわけですけれども、
なんでっていうのに対する答えは一切ない。
で、その場合は病院に行って、
ここから先が超難しいんですけどね。
病院に行って適切な処方を受けて、
できればカウンセリングとか認知行動療法で、
みたいなこと書いてあるわけだけれども、
一切受け付けてくれない。
くれないですよ、多くの場合は。
まず、いや私病気じゃないから、
なぜそんなこと言うんだってぶっ飛ばされたりしますからね。
私なんかぶっ飛ばされはしなかったけれども、
いやもう本当に、
やばいことになるっていうことが書いてあったから、
一応知ってたんですけど、
いやそれはちょっと妄想っぽくない、
病院行ったらみたいなことを、
口走りそうになっただけでももう、
めっちゃ怖いですよ。
だって相手は自分が言ってる通りの現実に、
接してるわけですから、
それを妄想扱い、
そうでなくても、
格外妄想気味の心理状態にあるのに、
ブルーですよ、お前もか状態ですよ、
お前までそれを言うかみたいな。
だからつまり、
DSMは正しいんですけど、
なぜかっていうのをやっぱり知りたくなるわけですよね。
本に書いてあるように、
こんなに簡単に適切な処置ができるぐらいだったら、
そもそもそうはならないっていうのがやっぱり、
抜けてる気がするんですよね。
そういうわけです。
なぜかっていうのは、
私は最初に読んだのは、
たぶんおこのぎさんの本で、
18:00
よくわからなかった。
かわいはやおさんの本を読んで、
わかったような気がするんだけど、
全然わかってなかった。
まつきさんの本を最初に読んだとき、
少しわかった気がして、
メラニークライに挑戦して、
わけわかんなくなってやめまして、
これ順序正しくないと思うんですけど、
大筋こんな感じなんですよ。
藤山直樹さんという方の本を読んで、
かなりいい線いったんですよね。
ビザーレオブジェクトって言葉が、
そんなに多く出てこないんですよね。
彼らしく。
さらっとちょっと書かれていて、
奇妙なことを言う人がいますね、
みたいな感じで、
なんていうのかな、
耐えられなくなるんですよ、
みたいな感じで、
つまり恐ろしいものがあるから、
何かに閉じ込めてしまう、
みたいな、
力度的な話ですよね。
力みたいなものを、
ふわっと彼は書いて、
うまく説明してくださるんですね。
だからATMに恐ろしいものを
押し込めるしかなくなって、
それに逆襲されるような感じで、
みたいな、
それと悪いおっぱいに迫害されている
赤ちゃんの心理みたいなのに
結びつけている説明を読んだときに、
読んだことの意味が分かった気がして、
今のもさっきの順序で、
またおこのぎさんとか、
かわいはやおさんとか松木さんの本を読んで、
一気に何かが分かった感じになったんですね。
この後、一番やっぱり、
私として納得がいたのは、
松木さんの本でした。
やっぱり丁寧に書かれてますね、
彼の本は。
藤山さんのその、
ふわっとここを理解。
そういう数学の先生とかいるじゃないですか。
さらっと読んだけど、
大きなヒントを得た気がするみたいな。
藤山先生の本って、
大体私はそういう印象を受けるんですね。
ふわっとなんかこう、
理解できたような、
気がするってところに引っ張っていってもらって、
それで改めて他の、
今までのさっぱり分からなかったものが、
よく分かってくるような気がして、
一番丁寧に書いている松木さんの本で、
詳しく読み込む、
みたいな形で、
一応理解を進めている。
何かというと、
松木さんの本の引用になっちゃうのは、
引用しやすいっていうのがあるんですね。
丁寧に書かれている、
教科書みたいな松木先生の本を、
引用するとなると、
電子書籍がほとんど出てないという、
もう一つの問題もあるんですけど、
丁寧に書かれている松木さんの本を、
きっちり引用しようとすると、
すっごい長く引用する羽目になってしまうので、
切り取りにくいんですね。
だから、藤山さんの本を、
勢い多く引用している気がします。
お好みさんの本を、
引用することも割とあるのは、
彼の本は電子書籍化されているので、
コピーしてペッと貼れると進む、
こういうのも大きいんですよね。
紙のテキストを打ち込むと、
間違いはするし、
手間もかかるし、面倒くさいし、
どうしても遠のきますね。
そういう裏事情みたいなのばかり、
しゃべっていますが、
何なのかと、機械な対象というのは、
21:00
つまり私たちの心というのは、
心というものについて、
心の機能というふうに捉えていくと、
すごい分かってくるんですよね。
だから、
ブッダバイブス・テクラスのケイトさんが、
思考と言っているときは、
ノーノっていう意味で、
はっきり限定されているんですけど、
私が考えると言っているときは、
心と頭でみたいなニュアンスがあって、
彼が言っているところの思考と、
私が言っている考えるは、
だいぶ違うんですよ。
彼の言っている思考というのは、
計算以外に使うのは否定的、
考えるという意味で肯定的、
相当肯定的です。
ただ私が言っているより、
いわゆるカウンセリングや精神分析の世界で言う、
考えるなんですね。
心と頭を使う。
そこには機能というものがあるわけですね。
心の機能というものがあります。
心の機能の中に、
例えば長寿が機能、
その前に、
例えばですけれども、
ミルクが自分は飲みたいんだなという、
心の機能は親にならったものなんですよ。
この時間が僕らないから、
ミルク飲みたくなるというのは、
自分で、
自分でできることじゃんって思うんですけど、
ミルクが飲みたいっていう、
この日本語を使っている段階で、
明らかに親の模倣をしているわけですよ。
同じ言葉を英語で考えないじゃないですか。
I want とか、
言わないじゃないですか。
つまりそれは、
我々が日本人の親に育てられているからですよ。
何人であろうと、
日本人の親に育てられると、
こうなりますよね。
つまり心の機能は、
言語を使って、
自分の欲求を満たすという、
こういうことをできるようになるんだけど、
それは親の心の機能を、
インストールしているわけですよ。
これを言うと、
なんだかちょっと不愉快だって、
人もいらっしゃるかもしれませんが、
しょうがない。
こういうふうにして、
私たちは機能を取り込むので、
取り入れるって、
基本的にはすごい気をつけて使わないといけない言語なんですけど、
今ちょっと僕は雑に使っています。
一般用語だから、
しょうがないですね。
一括して怒鳴るみたいなのは、
親の機能なんですよ。
これを頻繁に使っていた親の子は、
残念ながら、
子供に一括して怒鳴りたくなることは、
怒鳴っちゃうことも含めて、
頻繁にあると思います。
これもしょうがないですよ。
我々が日本人の親に育てられれば、
頻繁に使う用語が日本語になるように、
大人しくさせるっていう、
手法を使っていた親に、
親を見ていて育った子供は、
あれすっごいやだ、
親になったらやめようと思ってもやりたくなってしまう。
よくこういう話聞きますが、
当然なんですよ。
だって一括して黙らせるっていうのが、
機能したのを見ちゃってますし、
我々は心の機能として、
ほぼ親の機能、
親が使ってきた心の機能、
そのまんまインストールするので、
それがどんどん入ってくるわけですね。
だから親が怒鳴ったのは、
怒鳴られたって感じがするんだけど、
自分が怒鳴るっていう時には、
全く実は同じことが起きている、
24:00
っていう風に考えるのが妥当。
これが日本語を使うだと、
みんな変だとは思わないんだけど、
心怒られるだと、
加害被害っていう認識を取っちゃうから、
同じもののインストールが、
不思議に聞こえるんですよね。
でもそんなはずはないんですよ。
親が例えば、
タクシーに行って、
駅前のタクシーに並んで、
タクシーに行き先告げるって、
全く同じこと我々やるじゃないですか。
大人になると。
やっぱりそういうのは模倣なんですよね。
ほとんど私たちの心の機能は、
模倣でできている。
だから他の人がやっているのと、
同じようにやるってことが、
できるわけですよ。
そうするとその文化で生きていく上で、
非常にメリットが大きいんです。
全部これを自前で開発すると、
すごいその人はトンチンカンなことを
だって自分で開発した
言葉とか、おかしいじゃないですか。
自分で開発した流儀で、
タクシーを止めるみたいな、
そういうことをやると、
タクシー止まってくれないと思うんですよ。
親だって他の人を模倣しているわけですから、
こうやって我々は心の機能というものを、
いろいろとですね、
取り入れていくわけだと思うんですね。
そうするとですね、
この心の機能というものが、
ここで統合って言葉が出てくるんですよ。
統合されているうちはいいんだけど、
心の機能というものが、
ある意味機能なんでね、
ファンクションっていうのは、
ばらけて使うことができる。
そこが非常に便利だけど、
そこに統合失調といった
事態が発生したときの
ややこしさが起きるわけですね。
例えば我々は、
犬が噛みつくって言うじゃないですか。
でも犬は噛みつかないじゃないですか。
この意味わかります?
犬というのは噛みつくと人間が
表現しようとしないと、
口という概念も持ってないですよね。
だから犬は噛みつきはしないんですよ。
噛みつくというのは、
我々が機能として意識している
何かなんですよ。
それを犬という現実に勝手に
適応しているに過ぎないんですよ。
だから絶対喋らないものにも
喋らせることができますよね。
例えばアレクサが喋りますよね。
アレクサは喋らないですよ。
しかしアレクサが喋ろうという意欲も
全く持ってない。
でもアレクサが喋るという
機能を
知覚の中で与えているわけですね。
こうやって
我々は自分が獲得した機能を
アシャに適応させる
という知覚の上で
アシャがそれをしているという
認識するという
心の使い方もするんですよ。
このあたりから統合失調症の
統合失調症に限らないから
統合失調症というのをやめますが、
つまり機械な対象群というもので
表現されている事態が
理解できる
糸口がこのここら辺に出てくるわけですね。
例えば我々はテレビは
喋らないということを知ってますが
それは考えてませんけど
ある意味ではテレビに
喋らせることができるわけですよ。
アニメの世界でそういうことをやってるじゃないですか。
テレビに顔ついたり、テレビ喋ったりしてるじゃないですか。
27:00
あの辺に機械な対象群の
考察ってのが
見えてくるはずなんですよね。
あれはすごくアニメの場合
子供向けでテレビはいつも笑って
ニコニコして基本有効的
だからいいんだけど、あのテレビが
自分を攻撃してくるようで
あったらどうかと。
それはどうしてそういうことができるかというと
考えられないから
ああいう事態が起きるわけですね。
考えて
いやテレビというのはこういうものだから
勝手に俺のことについて
喋ったりはできないんだということが
考えれば分かりますが
我々は
知覚をする上で
そんなに厳密に物事を考えませんからね。
例えば我々は
英語ではですけど
蚊が噛むって言うじゃないですか。
蚊は噛みませんよね。蚊は刺すのであって。
多分。
でも蚊は本当は刺しもしないんですよね。
刺しも噛みもしない。
ただ英語では噛むって言いますよね。
つまり噛むという機能を蚊に与えてるわけですよね。
その人は認識の上で。
だからそういう表現を使うと。
だから蚊が噛んでるところを
見たことはないと思うんですよ。
欧米人と言えども。
でも蚊に噛まれたと。
彼らはbiteっていうのを使いますよね。
biteという言葉の意味している機能を
蚊に与えてるわけですよね。
認識の上での話ですね。
だからテレビに
もうこの機能をばらけさせれば
何でもできてしまうわけですよ。
だって心の中の話をしているわけですからね。
夢の中だったらそうじゃないですか。
機能をばらけさせてしまったんだから
どう組み合わせるかも
自由なわけですね。
私たちは人を攻撃するという
心の機能を持ってます。
これをテレビに与える。
私たちは喋るという心の機能を持ってます。
これをテレビに与える。
で、私たちは人を
見張るという心の機能を持ってますね。
やったことがあるかないかは別として。
見張るっていうのはどういうことか
知ってますよね。これをテレビに与える。
なんでテレビに与えるんだって言われると
困るんだけど。
自由自在にやれるってことですよね。
テレビに与える。そうすると
テレビが私を監視し
私について
お前は
ろくでもないから生きてても
しょうがないとか喋ると。
そして私を攻撃すると。
そのように言って攻撃すると。
そういう対象としてテレビを
見るということは実はやろうと思えば
できちゃうということです。
ただし我々は考える機能を
無意識と意識と両方使って
物についてすぐ考えることができるから
万が一テレビが
なんか俺の悪口言ってる気がするな
と思うような
そういう不快感を
この不快感は心の中にあるんだけど
この不快感をもやっと抱えたとしても
いやいやテレビに
人を攻撃する能力はないだろうし
テレビは勝手に喋る能力はないから
なぜならテレビが
喋ってるように見えるのはテレビ局で
こうやって
うんうんっていう風に考えていけばいいんですよ。
この機能を
心の考えるという機能なんですけど
使わずにあるいは使う能力を
30:01
完全に失ってしまう
というかこれが
発揮できないような何か事情を抱えてしまうと
失調するわけですよね。
そうすると
あのー
ばらけてしまった機能を
自在に組み合わせて
そして自分の今持っている
人が攻撃しているとか
人にバカにされているという
攻撃するような知覚を
自在に作り出し始めてしまう
これが機械な対象群と
なぜ群かというと
別にこれをテレビだけに
限定する理由は何もないからですね
これは
例えば通りすがりの
人に付与してもいい
あの人が私のことを
陰口を叩き罵り
見張ってる
洗濯機も私の陰口を叩き
罵り見張ってる
冷蔵庫からは怪しい光を発して
私の体に
毒を流し込もうとしている
だから私はこんなに
お腹が痛い
お腹が痛いということが
もしあったのならば
それについて考えればいいわけじゃないですか
ところが
考えるという心の機能が
何らかの形で封印されてしまっているので
考えるということは
できない状態にあるわけですね
そうすると
そのようなことが
冷蔵庫にできるのかという考えは
発生できないので
しかし勝手に付与した
視覚的効果みたいなものだけは
冷蔵庫が持っちゃってるので
だから冷蔵庫を開けるたびに
体調がおかしくなる
その人は
体調はそもそもあんまり良くないんですよ
だから体調がおかしくなったのは
原因結果が逆になってるんだけれども
そういうことについて
考えるという機能は停止しているので
冷蔵庫を開けるたびに
体調がおかしくなっていると
例えばそういう場合
お医者に行くっていうのはやることあるんですよね
お医者に行って
言うと
ところがもちろんお医者さんに行ってもですね
冷蔵庫を開けるたびに
怪しい光が発生して
体調があって言おうと
あるいはこれを言うときには
大体抵抗が多少あるんですよ
変に思われるだろうなっていう風に
考えることができたりするんで
これを言ったとしましょう
医者はまともには取り合ってくれないケースが
多いですよね
これはですね
精神科に行きましょうみたいなことを言われると
私を精神科に
追い詰めようとしている
っていう風に考える
というかそういう風に感じてしまうんですね
もともとそう感じがちだから
そのような人の
精神状態としてはもともと
それに近い状態にあるので
医者も来るなと
つまり世界中が
私をこうやって
苦しめようと
企んでいるっていうような
感覚を抱くわけですよ
そしてその証拠は山ほど
見つかってしまうわけですね
医者も私の話をちゃんと
33:01
聞いてくれない
他の人の話をちゃんと聞いているようなのに
私の話だけそういう風に扱って
私を頭のおかしい人間
呼ばわりすると
そういう風に
見ようと思えば
そういう風に解釈するような
知覚的な証拠っていうのは
集まるってことなんですよ
これは
自分の調子
心理的な調子や体の調子が悪いっていうのは
断続的にあるので
気分が悪いわけですね
だから本当はそれが一番
大元にあるんだけれども
このように医者に言われて
辛い気持ちが少しも晴れない
医者のせいであり
医者も私をやっぱり
どこかに閉じ込めて
ひどい目に合わせようとしている
というようなことに
知覚される
考えることはできないので
大筋知覚されるんですよ
これが機械な対象群に
取り囲まれている状態っていう風に
書かれているのを見ると
よく分かる気がするんですね
で
この話の
聞いている人は必ず感じる
と思うんですけど
やっぱりこの言葉の
なんていうんですかね
病名ですね
はなかなか正しくね
迫害妄想っていう言葉が一つ
これは全くそうだろうなって感じがします
自分の苦しみ
苦しんでる体調が悪い
心の調子も悪い
眠れないっていうのはあるんですよ
だけどその原因を全部
外側からの迫害
というものに
原因を置くことにする
因果律も作り出せますので
このように
最もらしい部分もあるんだけど
ほぼ最もではないところに
どんどんどんどん
原因が置かれて
やっぱり対象は全て機械になってしまう
もう一つが統合が
失調しているっていう話ですね
つまり
分離されてしまっている
わけです
機械が本来的に考えると
考えるためにあるわけじゃないですか
ところがこれ考えないことになっているので
機能が
それぞればらけているんですよね
だから
機能それぞれが独立してしまっていて
攻撃する機能とか
監視する機能
見張る機能とか
すべてがわけがあってそういうものってあるじゃないですか
隣の国からミサイルが来るかもしれないから
モニタリングするんであるし
攻撃というのは
基本的には守るためにやっているわけですよね
だけれども
それらがばらけていくんですよ
統合されていかないんです
なぜ攻撃機能を
それが持っていると言えるかというと
攻撃機能する
攻撃する動機があるはずです
何かをモニタしているということは
モニタする動機があるはずです
わけもなくモニタはしないわけです
ところが
この統合が
ばらけてしまうと
わけもなく監視したり
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わけもなく攻撃したりするわけです
すべてが独立しているために
そして機能も
すべて独立しているために
組み合わせ自由になってしまうので
機が例えば
機とかは別に我々を攻撃する
理由もなければ機能もない
そういうわけで
機にそれを見るってことを我々はしないわけです
これは
充電器であろうと
充電器とはそもそもどういうものか
みたいな話なんですよ
この話だから
最終的にどこに行ってるかというと
私はアイデンティティに行き着くと思っているんですね
先日からお話している
アイデンティティについてますけど
アイデンティティって統合じゃないですか
統合の象徴みたいなものですよね
憲法みたいな言葉になっちゃったけど
つまりアイデンティティというのは
わけもなくは
成立しませんよね
なぜならばそこに何か統合を意味する
だから私たちはアイデンティティに
一貫性というものを求めがちになるんですよ
これが行き過ぎだと
私は思うんだけれども
私は会社員です
だから会社に行きますじゃないですか
つまりアイデンティティってのは
機能を統合しているわけですよね
その機能の統合が
一定期間意味を持つし
多くの人の
コンセンサスも得ているはずなんですよ
だからアイデンティティごとに
タスクを割り出すというのは
私は実は逆転
当作気味だと最近
つくづく思うんですね
父親だからこれとこれとこれ
会社員だからこれとこれとこれ
ばらけさせてるじゃないですか
これ逆なんですよ
私たちがやるべきこと
これとこれとこれをやるのは
どうしてかって考えると
アイデンティティが出てくる
っていうのが本筋であって
アイデンティティを先に想定して
そこから機能を割り出していく
っていうのは
アイデンティティを可能な限り
要素分解する父親夫
会社員漫画家みたいな
それはおかしいと思うんですよ
それは一人の人間に
統合されている以上
極力要素分解はしないに越したことはない
だから家族の中では
父親であり夫であるっていう状態が
すぐに成立するじゃないですか
要素分解して分かった気になるっていうのは
分かるっていう言葉が
暗示してますけれども
分かった気になるっていうのは
無意味ですよただ我々は
基本は統合されているので
父親と夫
という機能が完全に
ばらけたりはしない
だからそれぞれの機能が独立
独歩して動かないっていうのは確かなんです
例えば父親というのは
力があるみたいな
これは幻想に近いものだけど
力があるとしましょうこの力が
分離独立すると力だけになっちゃうんですよ
だから
近所の人が殴ってくるみたいな
近所の人に殴るという
父親的機能というものを勝手に
付与することができちゃうわけです
こういう風にして僕らは
油断のならない世界をどんどん
作り出してしまうと
迫害妄想疑義の世界観
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というものが理解できるようになりますよね
冷蔵庫が
襲ってくるとかそういう話になってくる
わけですよ
それは
迫害してくると迫害されている
という気持ちからそもそも
生まれてくる
全ての心の機能が
バラバラに動き出す自分が獲得した
全て自分が獲得したものなんですよ
だからやっぱり
生まれつきの統合失調症とかって
そういう話にはなかなかならないですよね
最早期の統合失調みたいな
話ってあるんですけど
あれはすごい難しい話だなって私は思うんですけど
だけれども
よくこういう風にして
順を追って
よく順を追って
自分が
勉強することができるように
順を追って
自分が
自分が
攻めに行く姿勢を
自分が
攻めにいくことが
自分が
できるように
順を追って
自分が
できるように
何度も何度も辞典なんだけどですね 特徴をするっていう対象にして
読んでいますね これでようやく 身内が急にヴィザレオージェス
みたいなことを言い出しても どういう 心境になってるのかというのが
大体想像がつくようになってきた ので 少なくとも余計なことは
口走らなくなるという程度のメリット は得られます あとは非常に
同情的に考えることができるというのも 多少のメリットかなとは それなり
のメリットかなと思います 近しい 人間であれば特にですね 最後に
結局原因は何なのかと これは直接 的な原因は言ったけど 間接的な
原因については何もまだ言って ませんよね でも 一つはやっぱり
迫害されてきたというサルキック リアリティがあるはずなんですよ
自分は迫害されてきたんだと もう一つは世の中というものは
この迫害に対して有効な対応も 適切な対処も一切してくれない
非常に油断がならないところなんだ っていう信念のようなものがやっぱ
感じられますね あとはいろんな 意味で全ての糸がほつれるように
ばらけていく 結局のところ 考える というのは統合する方向に向かって
いくじゃないですか 例えばテレビ というのはどうして映るのかという
と 遠隔にいろんなテレビを置いて 映し出す 空間の広がりみたいな
ものも一緒にまとめて考えていく 必要がありますよね 広く広く多く
いろいろなものをリンクしていく というのかな 連結していくという
機能を持ってないと考えるって ことできないですよね つまり考える
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ってことは広がりがあるし うんと 身近であってもつなげていくっていう
思考っていうのは方向性の話ですけ れども よく私がここで言ってる
不在の母親っていうのも結局不在 の母親について考えるためには
例えばお母さんも仕事に行かな ければならない その仕事っていう
子供なりに広がりについて考えて 仕事と母親というものの結びつき
についても考える いちいち連結 なんですよ これを逆へ逆へとやる
とほどけてほどけていくわけですね 自分の身の周りの対象そのもの
についてしか 例えばテレビだと テレビだけになっちゃうわけですよ
じゃなければそんな機械な話には ならないと思うんですよ テレビ
というのが1台のそこにあるテレビ だけの機能として 空間からほぼ
完全に切り取られて ただただその もの自体として そこに存在する
ような存在のさせ方 知覚の仕方 をするからそういうことが起こる
わけですよね 結局このところ 母親の不在っていうのもそうで
身の周りの例えば夜暗いのがとても 怖いというのは 身の周りの夜の
こと以外は何も考えられないときの 分断的な思考の仕方なんですよね
赤ちゃんなら当然しょうがないです 世の中に太陽があるとか宇宙が
とか知らないわけですからね だけれどもやっぱり太陽だの宇宙
だのって言い出すってことは あるいは地球の時点とか言い出す
ってことは ここに空間的な広がり が見られるわけじゃないですか
そういうものがなかったら無理 なわけですよ この種のことについて
考えるなというのは この広がり がすごく狭くなっている だから
閉所的になっているっていうのと もう一つが全ての関係性がもつ
れてしまっているといったこと から多分こういった機械な印象
をそのままで物について判断して しまうと 見た感じちょっと感じ
が悪いからあれは私を攻撃している みたいなそういうやつですね 感覚
印象で全てが決定されてしまっている と なんか見たことのないatmがあの
街に置かれだしたと だから私は あれは監視していて中央政府に
報告しているんだみたいなそういう ふうな自由自在な考え方に囚わ
れてしまっているといったことが 起こるんだろうと思いますね