でも気遣ってしまうと、つまり気遣われた人は、つまり私に対して率直な気持ちにはなれないってことになりますよね。
炎上というのは僕はちょっと違うと思うんですよね。 人に不満を持たれなくないというお話を伺った時に僕が
あのすぐに用意できないのは多分この点なんですよ。 人は私に不満を持つ自由があると思うんですよね。
僕はやっぱりね、なんかこれは父親の影響だと思うんですけど、やや過剰な自由主義者みたいなところなんですよね。
自由主義、原理主義者みたいな。 だから僕、今はそこまでじゃないけど社会主義国って本当ダメだったんですよ。
なんかよくあんなことを本当やってられるなぁみたいな、いやしょうがないじゃんってのはわかるんですよね。
そんなに簡単に反対制とかやれないですしね、この国でさえね簡単じゃないんだから社会主義国で反対制って命懸けになっちゃいますもんね。
命懸けることのことかよって言われると、もちろんそれはそうは思わないけれども、私なんかはね。
でもあの僕はですね、やっぱり人はその人を自由にさせておくのが、一番その人をパフォーマンスでもなんでもよくするんだみたいなところあるんですよ。
ちょっと新自由主義に寄っちゃうんですけどね、あんまりこれいくと。 でも僕に対して不満を覚える、僕のことを不快に思うということを
私が取り繕って、そうそう取り繕うって言葉が多い。 取り繕ってまで押し留める権利が俺にあるかと言うとない感じがするんですよ。
全くない感じがする。 だから不満に思う自由ってあるだろうと。
不満に思うということは不愉快なんだけど、どっかやっぱり独特の達成感がね、まあこれグッドファイブス的ではないですよ。
でもあの僕はそう思わなくはないんですよね。 やっぱりこう、人には
なるべくその人のまんまであるのがいいと思うんで、僕は自分があるがままであると、このことを不愉快に思うというのはその人のあるがままじゃないですか。
それは良いことだろうなぁ、だろうなぁって思うんですよね。悪いことだとは思えないなという感じがする。
そこを僕があるがままであることをやめて表面取り繕った挙句、 私に対して本来不満を持つはずだった人が、その不満をどこかで止めてしまわざるを得なくなる。
って感じがするんですよ。取り繕ったからって言って愉快にはなんないと思うんですよね。 愉快であることをセーブしなければならなくなるだけなような気がする。
ってことは僕が取り繕うと、誰かの不満を、不快に思うのを止めるように強いることになっちゃうんじゃないかなっていう感じがするんですよ。
この解釈の仕方は異常かもしれないんだけど、 最近は私はそう思うんですよね。
まあまあ、でもこれは個人的な話ですね。この考えを世に広めたいとかは思わない。 ただ喋ってるだけみたいな感じですね。
第一文目に僕は病んだ人間だを持ってこれるっていうのは、実に良いなと思ったんですよね。
最も大事じゃないですか、第一文なんて。 最終文も同じくらい大事かもしれないけど、第一文以上に大事な文はないと思うんです。
だからトンネルを抜けたらそこは雪国だったのか、我輩は猫であるなわけですよ。
これが僕は病んだ人間だですもんね。 で、僕は病んだ人間だっていう言い方をするってことはね、その人はずっと自分のことをそう規定してるはずなんですよ。
まああの地下室の主人公ってまさにそういうタイプで、あの人自分病んでるなってことを白口中念頭に向いて生きてる人だと思うんですよ。
まさに大学時代の私がそうだったんですよ。 だからそれ以来私はドステフスキーは結局大学時代中に全部5週ずつぐらいはすることになっちゃうんですけど、
そのことをね、大学の恩師、DHロレンスゼミの教授に喋ったことがあったら、君それはダメだろうって言われたんですよ。
そのドステフスキーをそんなに愛読している人間がロレンスのゼミに入っててどうするんだって言うんですよね。
それは確かに最もだなと思ったんですよ。つくづく本当にその通りですって思ったんだけど、
だけど先生、うちの大学にドステフスキーゼミなんてないじゃないですかって言ったら、
まあそれはね、要するにお前学科が間違ってんだよって言われて終わる話なんだけど、その先生がね、そうだなーって言ってそのまま物思いに入っていったのをまだ記憶してるんですけど、
つまり僕の人生ってそうなんですよね。そうだなーにどういう意味があったのか僕には分からなかったんですけど、
僕という人間は前も言ったようにひもてでですね、ひもてって正しくないのかもしれないけど、とにかく彼女が欲しくて全然できなくて、
結局大学にいる間4年間で一人たりともできなくて、だからずっと童貞だったわけですけれども、
その間アダルトビデオばっかり借りて、昼ばっかり酒飲んで、時々ロレンスを読むというわけわからんことをやってたんだけど、
僕にとっての大事な側面はセカンダリーにあるんですよね。あの時はドステフスキーとD.H.ロレンスに会ったんですよ、の全部。
間違いなくあの私が大学時代にもう一人、コリン・ウィルソンっていうね、今では犯罪学者みたいに思われてる人がいるんだけど、オカルトの先生みたいに思われてる人もいるな。
まあいずれにしても僕はあのドステフスキーはコリン・ウィルソンから知ったんでね、知ったわけじゃないですよ、ドステフスキーの名前は。みんな知ってますよね、罪と罰、依頼。
僕はそんなものは読まないんで、あの絶対学校の推薦図書なんて読まない人間なんで、あの死んでしまえぐらいなノリなんで、
あの推薦図書なんてものは家の焼却炉で全て燃やして親にピトク叱られたっていうことがある。家に焼却炉あったんですよ。
寺ってあるんですよ、結構ね。いろいろ燃やすものがあるんで。まあどうでもいいものを燃やすんですけどもね。
うちなんか、うちの親父が書道とかやってて、アホみたいに書くんですよ。もう迷惑極まりないので、1ヶ月で1000枚ぐらい書いちゃうんですよ。
版紙じゃないですよ。条服みたいな長いやつで1000枚ぐらい書き上がるんで、家中めっちゃ臭くなるんですよ。炭って腐るんですよね、夏場ね。
それ燃やすわけ、ガンガン。その時に僕はね、教科書とか推薦図書とか燃やしましたね。
なんかこう、だからね、おかしいんですよね。全然頭がなんか普通に育ってないんですよ。
家普通なんですけどね。私3ヶ月チャレンジというのをやってて、つくづく思うんですよね。
良かったなと思う面もあるんですけど、うちってまともだよなーって思うんですよ、親がね。
なんで私はこのような感性を持って育っているのかわからないぐらい、うちって随分まともな両親なんだなーっていうのを思うんだけれども、
両親がどんなにまともでもね、やっぱりこう、私はそういう推薦図書を燃やしまくる人間だったし、
肉親は統合主張症だしみたいに、親がおかしいから子供がおかしくなる説は僕は全く納得しないですね。
親はまともだったけどね。で、めちゃくちゃ教育的で強圧的とかってわけでもなかったんですよ。
やっぱり僕はですね、面親的現実って言葉が、つくづく親がまともであることと、その親がまともに見えることはイコールではないんですよ。
私はやっぱりね、親を憎んでたんだと思うんですよね。心の中の親を。もちろんそれは現実の親だと僕は当時、思春期時代は思ってましたけど、
ものすごい私は心の中で自分の親を憎んでたんでしょうね。それがどういう憎しみかもよくわかってなかったんですよね。
だから単純に言って母親をめちゃくちゃレープしたかったんですよね。
精神的にね、これが僕精神的にっていうのがすごい大事なんです。身体的にはほぼ興味がなかった。
だからすごいこう、そういう病んだ人間だっていう自分がね、僕にものすごい電撃的だったんですよ。
はっきり言って地下室の手記って人にお勧めできないです。大した作品だと思うんですけど、僕あれいい作品だとは思わないですね。
やっぱり小説というのは私にとってはなんですけど、トルストイが筆頭で最高峰で、なんでロシアなんだろうね。
でもトルストイが最高峰で一番いいのはあんな華麗になるって僕は思ったんですよ。やっぱり小説の題材に一番いいのは不倫だなって思うんですよね。
あんなね、地下室の手記、ああいうなんかこう、病んだ人のエッセイみたいなものは小説、いかにも詩小説っぽい作品として仕上がりますけど、正直芸術的とは僕は思わないですね。
そこでトラウマをどんな親とでもね、どんなに良い親との関係であっても、そこでトラウマを得たはずなんですよね。
いや、おっぱいとぴったりしてたいよって思うかもしれないけど、50人もなって、お母さんのおっぱいとぴったりして生きていくことは出来ないじゃないですか。
だからその人生の途上のどこかで絶望的な絶縁みたいなものを一回は人間は味わうだろうよって、その時の体感ってのを私たちは覚えてないですよね。
で、それでもよくできた母子関係ならば、そこでこういろんなものをそこで体験できたはずなんですよね。
辛くてもここは我慢するっていうのも、ちゃんとこうなるべく心に取り込む。
だけどできない家だと、もう辛いからそのことは全部忘れるとか、辛いからここはもう身体的に隔離するみたいなね。
不感症みたいになっちゃうみたいな。そういう風になってしまうと思うんですよ。冷感っていうのかな。
あるいはこう、乖離みたいな感じ。もうなんか辛いから私何も感じてませんみたいな。
ヤングケアラーの漫画でね、ユイちゃんって女の子が、私はロボットだということにしたみたいな。
お母さんいきなり殴ったりするから。痛くないのだみたいな。なぜならロボットだから。あれ乖離を招きますよね。
辛い体験は感じないことにしちゃうんですよ。こういうのが僕はやっぱり偽りの事故ってものだと思うんだけど、
あれは確かに非常に厳しい困ったお家だからああなるかもしれないけど、うちだってあったはずなんですよ。
親がちゃんとしてたってやっぱり辛いことは起きるわけで、理不尽なことも起きるわけで、
そういう時にその事故を排除するって言い方するんだけど、自分もそれ感じてないことになりましたとか、
自分はそれ体験しなかったことにしましたとか。私あのめちゃくちゃ臆病な子供だったんで、
小島園であのお化け屋敷行ったことがあるんですよね。ちっちゃい頃に。で全然見られなかったんですよ。臆病だった。
そうやって体験を取りこぼしていくんですよね。厳しい体験は体験しないことにしてしまう。
で、そういうのを後からですね、過去についてなんて書いてたかな、ここに。
なんて書いてたかな。要するに出来事を取り戻さなければいけないって言うんですよね。
患者はまだ体験していない過去の細部を探し続けなければならないって言い方を見に来たらしてるらしいんですね。
患者は探し続けるんですよ。過去をですよ。過去を探すっていうのは記憶の中を探すんだけど、
その記憶の細部はその患者はまだ体験できてないって言ってるんですよ。記憶として持ってる。
こういう考え方が精神分析的だって本当に私は思うし、これをやっぱりやっていかなきゃいけないよなと思うんですよ。
で、こういうことを取りこぼしてしまうから、例えば母親の別離においてですね、母親には母親の都合があるから、
ここはもうお母さん許すしかないなと。すごい別離は辛いわけですから許せないわけですよね。
それを強いてくるってことが。でも許すしかないなみたいなのはここから育っていくわけじゃないですか。
そういう能力が育たなくなるわけですよ。こういう体験を隔離してしまうと自分自身から、
自分の記憶なんだけど自分から隔離してしまうと、そういうお母さんと離れるのはすごい辛いが、
でもお母さんを離すのはもう諦めようみたいな、そういう感情を育てられなくなるって話なんだと思うんですよね。
だからここにあるんですよ。これはオグデンが書いてるんですね。
自分を深く傷つけた誰かを許せる力かもしれない。これグッドワイブスですよね。
僕はこういう体験を倉園恵都さんはしてきたんだと思うんですよ。グッドワイブスの創始者の人ね。
彼はこういう経験をしてきたと思うんです。だから僕は彼が損なわれていない従前な人って感じを抱いてないんですよ。
そうじゃないからああいう話ができるって気がするんですよね。
僕は彼ほどじゃないかもしれないけどやっぱり、教育環境は悪くなかったと思うんだけど損なわれてる部分が大きいんですよ結構。
だからそれを薬気になって取り戻そうとしてめちゃくちゃ彼女作ろうとするとかするんですよ。
だからデートとかすればそれが取り戻せるとでも思ってるわけですよ。
母親との関係の中で自分が当時体験するには辛すぎた出来事というものを後々取り戻そうとしてるわけですよね。
その刺激としてデートしたりセックスしたりしたい。それが多分ね私の母親関係の再現なんですね。
で私はそのことが大概解決したと思うんですが、やっぱりこれにまつわる怒りが解決できてないんですよね。
母親は相当無理やり母親から私を引き離した時の私の怒り、しかもこの怒りがですね、完全に隔離をしてないんだけど思い出せないんですよ全然。
怒ったという事実をですね、出来事としても感覚としても。
ただ先日奥さんとちょっとイザコザがあった時、相変わらず何か1万回目なのか5万回目か知らない離婚を決意するんです。
離婚の決意を何回俺はするんだろうなっていう今後、この時に身体感覚としての怒りがですね、
呆然とこう上がってきて、もう自分が怒ってないという自覚を持ってるのに身体は怒ってるんですよね。
これが体験できていない過去なんだと思うんですね、私が。
体験できていないからただ現在に身体感覚だけが蘇ってきて、心臓がすごい早くなってくるんですよ。
普通に考えるとこれが怒ってるってことなんだけど、私は怒っちゃいないんですよ。
だけどこれは耐えられないから離婚するしかないなっていう変な結論が出てくるんですよ。
これが私が思うに一時ナルシシズムに対する許せなさってことなんですよね。
クラウドの慶三さんが言う、自分も他人も罪はないから許しましょうなんだけど、こういう言い方はいけないね、こういう言い方をするといかにこれが無理があるかって話になっちゃうんです。
そうじゃないですよ。これはできるんですよ、絶対に。
オグデンが書いてるくらいですもん。
この自分を含めて深く自分を傷つけた他人を許す力かもしれないしって書いてる。
これはありきたりだよって言ってるんですよ、オグデンに言わせるとね、多分。
だけれども、ありきたりなんでしょうけれどもできないわけですね。
この失われた自己部分を探し求めながら生きている。
失われた潜在的体験を探し求めながら生きているとか。
この辺だよなと思うんですよね。
失われた自己部分っておかしいじゃないですか。
自己部分なんだから自己の一部の中にあるに決まってるんで失われちゃいないはずなんですよ。
だけど取り戻すことができてない。
これを精神分析家と一緒に取り戻していきましょうねっていうことなんだけど、どうやってこれを取り戻すんだろうねっていう。
精神分析受けていない私たちとしてはね。
どうやってこれが取り戻されるのかと。
オグデンはこれを普遍的だって書いてるんですよ。
程度の差こそあれ誰もが皆早期の母子関係に大きく崩れる出来事を経てきていて、
その事態に対して精神病的な防衛を組織化することでしのいできたのではなかろうかって書いてる。
これは万人がって書いてます。
ってことは万人が精神分析受けるしかねえじゃんってことになっちゃうじゃないですか。
でも万人無理じゃないですか。
週5回もね。全然無理ですよ。
受けてる人日本に100人いるんですかねっていう。
100人ぐらいはいるか。
でもやってる人100人いるんですかね本当にって気がしますよね。
だから私はそのこれの真似事をしますと。
だって普通にやれないことだからしゃあないじゃないですかと。
っていうことですね。
普通にできないことしかも提示されてしまったんだからここにこういう形で。
まさにこれこそ私がやりたいことだっていうのがこんなにこれ以上無理なぐらい明らかに明らかに明文化されてるんですよ。
今言ったようなことなんて本当にもうウッドワイブスでも繰り返し繰り返し強調されるってことは容易には成し得ないってことだと思うんですよね。
自分を深く傷つけてくる時に自分と他人を許すっていう話しかもそれがそれをする力って話。
で、それは乳児や子供の時に起きた破綻を生き得なかったために生じる数ある情緒的な制限のほんの一部に過ぎないって言うんですよ。
あのこれ引用をただ喋ってるんでピンとこない方には申し上げないと思うんですけどこれは非常に僕らが万人ってオグデンが言うだけあってもうそこら中で起きてることですよね。