2023-03-23 39:49

【758】漫画のどこがミルクなのか?

漫画に叱責される?
ワークショップについての説明
おはようございます。グッドモーニングボイスです。
3月23日木曜日、ただいま20時19分。
実はこれはテイク2ですね。久しぶりにやってしまいました。
気を取り直しまして、4月1日にすぐやる人になるだったはずが、
今タイトルを変えまして、焦らずにじっくり時間を使うためのメンタルワークショップ。
これですね、焦らずにじっくり時間を使うためのワークショップだけでよかったかなと、
今また思い直してるんですけども、早割りの締め切りまで終わってしまっておりますので、
つまりリアル参加はこれ以降、お申し込みいただく場合5000円となります。
オンライン参加は引き続きですね、4000円でお申し込みいただけるという状態で、
4月1日まで、当日ギリギリまでお申し込みいただけますので、よろしければ返答していただくとありがたい。
ここでお話しすることと言いますかね、
ここでお話しするのはこのタイトルの通りで、
私にしては珍しくちょっとだけワークショップも交えつつ、質疑応答を挟みつつ、
いろいろと考えているところがあるんですけれども、
今後はこれをあちらこちらでですね、
それこそ小田原とか、あるいは鎌倉とか、
今思いつきで喋ってるんだけど、
なんなら松本とかね、
これは多分ただの願望で喋ってるだけのような気がして、
そう簡単には実現しそうにないんですけど、千葉とか、
いろいろ考えております。
割と関東圏はあちらこちらを遊びに行ったりしたことはある人間なんで、
みんなあると思うんですけどね、関東にお住まいの方であれば。
みんなありそうなところにしか遊びに行ってないんですけど、
いろんなところでやってみたいなというのがあるんですよ。
ただその場合、多分リアルで集まっていただく人の人数はかなり限られてくるので、
会場費は格安のところである必要があろうと思っております。
のでちょっと今あちこち検討している最中なんですね。
ワーケーションみたいなのをやってみたいなと最近思っているんですね。
せっかくコロナ禍というものが完全に終わったわけじゃないけれども、
大きく緩和されているわけだから、
何も悩むことはないだろうと。
うまくいかなかったらうまくいかなかったで、
その時考えればいいかなって感じで、
今いろいろと気持ちだけは計画をしているところですね。
人間の認識について
気持ちの中だけの話なんで、
リアルにどこまでできるかっていうのはもちろんいろいろありますが。
8月1日の方ですね。
こちら今渋谷で開催しますので、
まだリアル参加ももちろん可能ですので、
よろしければオンライン参加では渋谷であろうと、
私の家であろうと何にも変わらないような気がするんですけれども、
リアルの方は渋谷ですから、そういう感じです。
今日はいろんなことをお話しすることはあるんだけど、
今日は先日からずっと続けている万能館の話ですね。
この万能館は少々今回のワークショップにも関係があるんですよ。
テーマとしては少々というか大いに関係があります。
先送りする人は万能館というものを求めているという話は散々してきたつもりなんですね。
この万能館というものはですね、
同時にストレスを解消するためにそれを求めているものなんですね。
私たちが万能だと言っているのは、ストレス解消と言っているのとあまり変わらないんですよ。
ここがもう発展ですかね。
私たちが、私の考えではですけれども、
いい気分になるのも嫌な気分になるのも外的要因はほぼ関係ないと私は思うんですよね。
それは私がそのように確信できているというのではなくて、
おそらくそう考えざるを得ないよなと思うところが大きいんですよ。
何度も言っております。この番組では何度かお伝えしているんだけど、
私はやっぱり小さい頃から、この現実は夢なんだろうか現実なんだろうかという問題に、
なぜか深く囚われた人間なんですね。
こういう人間はそれで食えるなら多分哲学家とかに行ってる気がするんですよ。
僕は哲学的な人間だと思ってはいないんですよ。
私が一番やっぱりこれのことを考えたの、真剣に考えたのは、
5歳の時でお漏らししたからなんですよね、幼稚園で。
で、その時これが夢だったらいいのにってめちゃくちゃ思ったんですよ。
だけど夢の中でも似たようなことが起こるわけで、
その時に私は現実と夢が区別できていないのに、
なんで自分がやらかしたこの現実は現実だと言い切れるんだろうかって考えたことが何度も何度もあったんですよね。
恥ずかしかったからだと思うんですよ、当然。
でもこれが夢ではないという確証はついに得られてないなって思うんですよ、今に至るまで。
だからあれは夢だったのかもしれないんですよ、こと今となっては特にね。
ここで僕がもう一つ思ったのが、
目撃者というものの存在っていうのがこういうケースでは非常に大事だなって思うんですよ。
ストレスと万能館について
目撃者の記憶っていうのもこういうケースでは非常に大事だなって思ったんですよね。
なんかそういう推理小説みたいなのあるじゃないですか。
目撃者がみんな不審な死を遂げるみたいな。
それじゃバレバレだろうって気もするんですけどね。
つまりこれが現実かこれが夢かという、
よく哲学者が現実の尻尾を捕まえる、夢の尻尾を捕まえるみたいな言い方をするんだけど、
尻尾は捕まらない気がするんですよね、私は。
そうするとどういうことになっていくかというとですね、
つまり私が嫌な気分になっているというのは、現実だと思っているせいなんですよ。
そうですよね、これが私がどんなに恥ずかしいことをしでかそうとなんだろうと夢出したってことになるとパッと消えちゃうんですよね。
で、その時も私は気分をすっごく夢の中では、
ストレスだっていうふうに胃に穴が開くとかって思ってるわけじゃないですか。
恥ずかしくていたたまれないとか思ってるわけですよね。
でもそれは外的な現実と関係ないですよね。
だって夢なんだから。
それと現実に本当に何かをやらかしたと思い込んで恥ずかしいと思ってる私のその気持ちの
心理的なステップと現実との関係性
心理的なステップとの間にどれほどの差があるんだろうかなっていうのを
私は考えてたんですよね、多分。
というか考えてたんですよ、そういうことをずっとですね。
どれほどの違いも何も全く違いはない気がするんですよ。
これはまあ意見が分かれるかもしれないんだけど、僕はこれに対してですね納得のいく説得を受けたことはないんですよ。
いや現実の方を恥ずかしがるべきだが夢では恥ずかしがる必要はなくて
現実に起きたことがあなたの気持ちを直接ダイレクトに動かしているんだという
それに近い信念を持ちの方は確かにいるんだけれども
その信念を私が信じられるほど説得力のある話であったことは一度もない。
僕の知ってる限り。
結局自分の気持ちがストレスするだとか楽しいとか
これでもう幸福だって思えた時、それが夢だった場合でも全く同じ気持ちになる。
これにリアリティがないからそんな気持ちにはなれないなってことはなかったんですよ。
リアリティがあるかないかは夢の中ではほとんど吟味できなかったから。
つまり僕はその現実の検討ということをしているんだけど起きてる時間はですね。
でも寝ていても起きていても同じようにストレスを受け同じようにストレスを吹き飛ばせるのであればですね
結局外的な現実なんて何の関係もないんじゃないかと思うんですよね。
一つには私たちは現実に勝手な意味付けをしているというか勝手な評価
検討した結果の評価みたいなものを勝手に与えてますよ。
これも確実だと思うんですよね。
何かが恥ずかしいと思うかどうかってものすごく個人差があるじゃないですか。
それが客観的に恥ずかしい事実ですなどというものはほとんどないですよね。
あるいはそれが客観的に悪いものですみたいなものはもっとないと思うんですよ。
例えば僕がこれからの季節よく考えるのがセミなんですよ。
セミをめちゃくちゃ怖がる人がいる一方でセミを獲るために網振り回している子供もいるわけじゃないですか。
この辺の違いを考えてみると私たちが現実から幸せを受け取るとかストレスを受け取ると言っているのは
全部僕らが実は心の中で幸せを作り出せるかストレスを作り出してしまうかの違いでしかないような気がするんですね。
だから思うに万能感というものを持って私たちがやることというのはストレスといったものを消し去れるという風に思っているんだけど
それは全て内面でだけ起きている現象だと思うんですよね。
ここを踏み外すというか見落とすことさえしなければストレスで立ち直れなくなるとか
要するに最終的にはそこを避けたいわけだから立ち直れなくなるとか嫌な気分になるということの
大半はほぼ98%ぐらいは消滅させられるだろうと繰り返し言っているけど
だから先送りという話になった時も先送りをしてしまいそうになるこの仕事に対するストレス
ストレス源がその仕事にあるという風に思いさえしなければ無くせると思うんですよね先送りそれ自体は。
当日する話も基本的にはこういう話になるはずです。
その万能感を得るために酒とか。酒が象徴的だから酒が良いと思っていたんだけど
漫画とかファン座とかSNSとか最近では新しいのを取材で聞いたんだ。
ヤフーニュース。ヤフーニュースって僕わかんないですよね。
ヤフーニュースでこんなにこの万能感を得られるもんだろうかって多分
聞こえの良い話をされたかストレスは日頃それほどない方かのいずれかあるいは両方だと思ったんですけどね。
これはミルクに相当しますって話を散々してますがミルクに相当するってどういう意味ですかっていうことを今日はちょっとお話ししたいんですね。
赤ちゃんのストレスとミルク
これはおっぱいなんですよ。おっぱいから母乳ですね。母乳を飲むと赤ちゃんは多分ストレスを弾き出せる気がするんですね。
基本これは空腹からくるストレスですもちろんね。満腹になるんですよ。
それは満腹になっただけだろうっていう風に言うのは大人の言い分で赤ちゃんは満腹という言葉は知りませんからね。
あと腹というものが自分の中にあることも知りませんからね。
そこが空っぽになってるなんてもちろん知りません。まして血糖値が下がってるなんてとんでもないですから。
つまり空腹というストレスがあるんですよ赤ちゃんには。ストレスが多分お腹の中にあるんですよ。
それを弾き出したという風に多分勘違いするんだと思うんですね。これが万能感ですよね。
心理的には多分これにこういう説明って相当僕は正しいだろうと思うんです。
まあそれはいいとして、これに沿うというかこのアレゴリーをそっくり大人に持ってきた形でミルクの代わりに酒を体内に入れると。
でもその時の大人の気持ちというのは多分母乳を吸ってる時の気分になぞらえてそうおかしくはないんじゃないかっていうのが精神分析的なカウンセラーの考え方ですねきっと。
でそれを取り入れると。そうするとストレスが排除される。そういうことをやっている人は現在ただいまも新橋のあたりにたくさんいらっしゃると思うんですよ。
別にこれは何かを拒んにしてるとかいうわけじゃないんですよ。僕もずっとそれをやってきているし今もやってるんですよ。
ただ投入するものが酒でないというだけで酒だった時代だってありますから。20代の前半はこれ酒でやりましたからね。
あれなんつうんですかね。酒はもちろん酔えるからってこともあるんですけど。いろんな含みがありますよね。
その大人になれた気がする。まあその二十歳過ぎた後は別に気がしなくても大人には慣れてるんだけど。
あとは当然酔うっていうのもあるんですけど。味がまた独特ですよね。甘苦いっていうのかな。
牛乳とかミルクは甘苦くはないのかもしれないんですけど、何かそういうものを連想させるところがあるような気が非常にします。
なんだかんだ言って甘いんですよね。これを入れることによってストレスが押し流されていくというか、溶かされていくというかそういう雰囲気があって、
自分がほんのりと万能感に包まれていく。偽りかもしれないが、なんとなく万能感に包まれていくわけですよ。
ストレスと万能感の関係
当然これはストレスが日々多い人ほど、つまりそのストレスというのが外的な事実だと思い込んでしまうんだけど、僕らは。
例えば上司がいる、物価だかっていうのが最近ありますよね。あるいは嫌なニュースを見るとか、全部外的現実だと思い込んでいる。
多分それに対して内面で作り出しているストレスがあって、それが一気に泡が出るちょっと金色っぽい液体で溶かしていけるんだから、それはすごいですよね。
ここにもまた、万能感の元は外部にあるって思い込む僕らの習性があるわけですよね。ほとんど習癖と言っていいぐらいなものだと思うんですよ。
これを体内に取り込むことによって、象徴的ですよね、体内に取り込むことによって、
体内にあったストレスが、なぜ外の出来事に対して体内にストレスが残っているのか、非常にそこも考えるところだと思うんだけど、
体内にあるストレスを、まるで物質を出してしまうように押し流していける。
その時に取り込むものは、ミルクだとか母乳だということ、つまり親のものじゃないですか。
これが僕は、ここまで聞けばこの話は終わったも同然とも言えます。
僕はこれ例外がないんじゃないかって思ってるってことですよ。
親のミルクだということは、酒であっても、漫画であっても、ファンザであっても、
ファンザなんかはもう分かりきったもんだと思うんですけど、親の一部なんですよ。
つまり僕らは、親に同一化することによって、このストレス排除と万能風装というものを成し遂げるんですよ。
親と同一化することの意味
親と一体化していくんですよ。
だからというか、ここは恥ずらずにじんわり言いたいんですけど、
親と同一化することによって、私は万能だと思うというのは、やっぱりいかにも乳幼児の感情だと思いますよね。
乳幼児はほぼ確実だと思うんです。
ミニコットにせよ、クラインにせよ、ビオンにせよ、そういう言い方ですよね。
結局何らかの形で親とオーバーラップする自分の真理というもの。
私もこれはあと、なんだっけな、北山治虫さんが面白い絵を描いてたんですよね。
お父さんとお母さんがセックスしている間に子供が挟まれて、子供はもちろんセックスしているという事態を知らずにその間に包まれているんですよ。
これがナルシシズムの幸せというものだという感じで描かれている絵があるんですよね。
私、あれはすごい良い絵だなって思ったんですよ。
この時代の子供にとって、親というものは父母も一体であり、自分もその中に属しているような感じがあるっていう。
これがザ・万能感って感じなんじゃないですかね。
すごく万能な感じがするじゃないですか。描けているものが何にもない感じ。
それはもちろん実体を知らないとも言えるんだけれども、実体をそんなことを言えば知っている存在なんてないわけじゃないですか。
僕らやっぱり主観の中にいるわけだから、夢と現実の区別が完全にはついていないわけですから。
赤ちゃんの時ほど何も分かっていないわけではないかもしれないけれども、結局のところは何もよく分かっていない気がするんですよ。
そこは倉園さんがよくグッドバイオスで言う4つだっけ、3つだっけ、4つだったかな。
未来のことは分かっていないと、自分のことは分かっていないと、他人の気持ちは分かっていなくて、この世の因果関係は分かっていないと。
これは僕は全くそうだと思うんですよね。
僕は大学の頃、一番僕にとって最後の取り出みたいな、大学の頃僕は荒れてたんで気分が、最後の取り出になってたのが不可知論というやつでして、
僕の夢と現実の区別がつかないというところから当然そういう結論になっちゃうんだけど、あらゆる真理とされているものは不可知だという。
真理でないというふうには思わなかったんだけど、真理であるかどうかは僕には全く分かっていないという立場を取ることで、ギリギリ踏みとどまれてる感じがあったんですよね。
つまり、生きてることがもう辛いし恥ずかしいし苦痛だったから、これは本当は辛くないし恥ずかしくないし、大したことじゃないのかもしれない。
結局僕は不可知だから、分からないわけだから。不可知というのはあれですね。不可能の不、可能のか、知るですね。不可知論というのがあるんだけれども、僕はそれを僕に応用したわけですよね。
そうすることで、この何というか苦しみが耐えられるような気がしたわけですよ。結局自分はどうしようもない人間のような気がしてたんだけど、
でもどうしようもないかどうかは不可知だから、決定できないっていう部分にすごく救いを求めてたんですよ。
この人生全体がマトリックスであっても何にも不思議じゃないと思えたので、当時は特にそういう感覚を強く持っていたために、
本当のことが分からないんだから、本当に自分が価値があるかないかも分からないという、そういう線で生きてたわけですね。
これに対して万能感というのが、言ってみれば今のような自分が全然何の意味もない存在とか、
自分が死んでしまった方がみんなが喜ぶような存在って思った時でも、万能感を持って一発で消し去れるっていうことがすごかったわけですよね。
ここに親との同一感というものを持ってきていたわけです。全く意識できていなかった。
多分それを意識したら僕はできなかったと思いますね。
あの頃は親というものは全然、僕同様に昔だったから、親と同一化して何になるんだという感じだったわけですからね。
親と同一化したって何にも問題解決しないよって思ってましたから。
例えば当時は僕はほぼ誰でもいいから女の子にモテたかったわけだけど、親って全然そういうふうに見えませんでした。
ああなったからって1ミリもモテる方向にはいけないだろうと思ってたから、つまり親と同一化するということ。
エスケープの方法
何の価値も見出してなかったんだけど、情緒的には乳幼児のそれです。
その認識のないまま、例えば酒をいっぱい飲んで、それっぽいビデオを見て寝ると。
それっぽいビデオって言ったら、AVですよ。それっぽいビデオを見て寝ると、万能感に僕は包まれてたんですよ。
一切嫌なことは忘れ去ることができると。
これを僕はずっと1,2年繰り返してた時期があったんですよね。
ひたすらこれしかしてなかった。
あの時期は非常に今思うと勉強になるなと思うんだけれども、当時はもうひたすら辛くてやってたんで大変なんですよ、こういうことをやっちゃうというのはね。
ろくなことがないしね。ろくなことを言われないしね。
親の一部と父分というのもまた非常に重要ですね。部分対象だということです。親の全部ではない。
部分の中の部分になってくればなってくるほど、僕はまさに部分対象と一体化してたんですけど、おっぱいとかも。
おっぱいそのものとは一体化できないので、それと一体化したくて彼女が欲しかったんだけどできなかったから、映像になってしまうわけですよね。
映像というのは部分の中でも一部分じゃないですか。
部分化していくと何がいいかというと、よくはないんだけど、でも使う側として非常に便利な部分化すればするほど再現性が可能になっていくんですよ。
そうですよね。彼女を作るのに比べればビデオを借りてくる方が簡単ですよね。
こういうふうにもの化する、部分化するということは、自分の自由になるという部分が増えていくんですよ。
だからミルクだし、結局母親から、母親が本当は欲しいのかもしれないんだけど、どっちかというと父母合体したものが欲しいのかもしれないけど、そんなものは手に入らないわけですよ。
そこまで戻りたければ、自分も精子とかになるしかないわけですよ。
だから母親が欲しいと。でも母親が欲しいと言っても、それは今いる母親と一体化したいという点ではないわけですよ。
そこには非常にいろいろと欲しくないものもあるわけです。
そこで母親をさらに刻むわけですね。おっぱいとかだけにしちゃうわけですよ。
あるいは若かった頃の母親の記憶とかにしてしまう。
それもそのままだと気持ちが悪いので、それを他人に投影するようにする。
つまりこうやって自分の都合に合わせて部分対象を扱うことができるわけですね。
部分化による便利さと危険性
ミルクというのもいい大人になるとみっともないとかが入るので、ここでまた条件を変えて酒とかに切り替えるわけです。
こういうことを繰り返し繰り返しやっているうちに、母親はバラバラに分断されて漫画とかになっちゃうわけですよね。
漫画になったところでいい人はいいんだけど、さらにこれを寸断していくとですね、だんだん危険なことが起きてくるんですね。
でも僕らは大概漫画とかのところで止まるわけです。
これは今のような説明ですとちょっと僕もこなれてないなとは思うんだけれども、
他の人にはもうこの際わからなくても少なくとも私はこうしていたことは100%間違いないという実感があります。
だから選択する漫画もそういう系列だということが、これはエロだって意味ではないですよ。
母親を連想するものだとも言い切れないんだけど、間違いなく私の育ってきた性育歴というものを関係させているものばっかりだったって、
僕ちょっと極端な人間だからそういうことになっちゃうんですけどね。
例えば私が当時好きだった漫画が、これを言っても何かの証明にはもちろんならないんですけど、
足立光さんの漫画だったんですね。野球漫画だったんです。
そして母は甲子園を見るのがめちゃくちゃ好きだったんです。
こういうことはね、後からじゃないとわからないんですよ本当に。
ようやくこれにかもしれないと思えたのすら30代後半ですからね。
やってる真っ最中、20代の前半の時から15年後でしょ、全然わかってないですよ。
こうやって部分化して部分化して、自分にとって都合の悪い部分を全て排除しきった母親の一部対象というのに、
僕の全理微動を集中させていくことで万能感を回復していくんですね。
この時に僕は自分のダメな部分としているものを全部忘れ切っていくことができる。
そして万能だった自分と母親が一体化した時の気持ちってところにグーッと入っていくことができたわけですよ。
これに匹敵することができたのはバイトでかなりのお金をもらった時とか。
これもね、母親なんですよ本当にね。
これも一体に近いんだけどね、お金が豊富にある感じ。
親はお金を豊富に持ってる感じがしたから。
総合化された親と正しさ
そうですよね、やっぱり子供のお小遣いからすると親ってなんかありえないぐらい大金持ってたりするじゃないですか。
そういう感覚を得るためにそのごく一部である部分のお金を得るっていう。
だからバイトには一体、万能感があったんですよ、同一化による。
この万能感を今度、部分寸断部分寸断逆を考えていくとですね、非常に大事なことが見えてくるんですよ。
同一化する親によっては非常に厳しいお土産を重ねる。
私の場合必ずしもそうじゃなかったから甘いということで、
つまり比較的甘い酒、ワインとかそういったもので同一化することが容易にできた高い酒ってのもあります。
高級感っていうのが私は親に対して持ってたんで、部分対象としての高級感っていうのがあるんですよ。
こうやって少しずつ親の形に戻していくと何が起きるかというと、長寿がという部分対象が私の中に取り込まれる瞬間っていうのがあるんですね。
つまり人を叱りつける瞬間というものに対して万能感を得るんですよ。
それが僕は一番危険な行為の一つなんじゃないかと思うんですけど、
今まで言ってきた話、つまりミルクだの、酒だの、漫画だの、漫画の一コマだの、
ある種の音楽だの、バイトだの、お金だのというのが全て寸断された親だとするならば、
これを少しですね、総合化していった、総合した親の形を取った時に倫理みたいなものが出てくるんですよね。
その正しさですよね。その正しさ、それはある種の正しさを僕がですね、自分の中に取り込むということをした時、
強烈な万能感が生まれ、その時に叱るとか、正すとか、正しさに基づいて裁くとか、
そういったことがですね、生まれてくるんですね、僕の気持ちの中に。
その時に僕は大きな葛藤を感じるんです。
すごく強くなった自分と、この正しさによって徹底的に自己攻撃している自分、
つまり、叱ってる自分と叱られてる自分が同時に存在しちゃうわけですよ、私の中に。
これは当然なんですよ。分断されてるわけだから。
漫画のモラル的な部分
これが実はなんですけどね、よく考えてみると、酒飲んでる時にもあったなっていうことがね、分かるんですよ。
これは分からんというかを言われるかもしれません。
酒飲んで、AVみたいにするわけですよ。
そうすると、これが配管されてくるんですよ。
これはね、ほんと他になんと説明のしようがない、
なんて言いますかね、証明のしようがないことですよね。
実証できない話。
だから、寸断すればするほど分かりにくくは当然になります。
でも、よーく思い出してみると、例えば渡辻光さんの漫画とかでもあるんですよ。
倫理的な部分っていうのかな。
ある種の役キャラクターは裁かれている。
しょうもない役を振られてしょうもないメニュー。
ある種のキャラクターは良い目に会う。
それはもう必ずと言っていいぐらい、読者はそこのキャラクターの気持ちに、
つまりこいつひどい目に会えばいいのにっていうキャラが少し嫌な目に。
そしてこの人最後は良い目を見たらいいのにっていうのが良い目を見る。
そういう、結局はある種の完全調和というのが、
それがですね、時代背景とか文化的なモラルというものの影響も受けているので、
私好みには完全になっていないんだけれども、
かなり私好みにそれが描かれている漫画を私は選んでいる。
これは何を意味しているかというと、
留学とストレス
親の正しさを反映しているような漫画を間違いなく私は選んでいたと。
そういうことです。
それがはっきりとやっぱりあったんですよね。
それが一見、母がものすごい嫌いそうな漫画、
例えば北斗の剣とか、そういったものにもちゃんとある。
不思議なんですよ、非常に。
上手くできているというか、よくできている。
部分対象化された親というものに自分が同一化していく。
例えば北斗の剣を読んでてね、
私のような男がですね、あの中では少しも従用されていないわけですよ。
どうして私が羅王とかに同一化できるのかと。
似ているところは全くないじゃないですか。
似ているところある人、実は僕あんまり見たことないですけどね。
似ているところは全くないですよね。
どっちかと言うとあれですぐやられるザホキャラの方が僕に近いんじゃないかと。
これでもいいわけですよ、ある意味。
なぜならば罰されている方も私自身であるから。
そんな自覚は持たないですけどね、読んでいるときは。
でもこれがかなり親対象に近い何かと同一化したときは、
例えば私はほとんど経験がないんだけれども、
でもやっぱり例えば留学中とかね、
比較的私は相当うまくやれたので、
なんとなくやっぱりそういうことが起こるわけですよね。
後から来たあんまりうまくいかない人に、
なんかこう、優越感を抱いたり、
何かを教えたりしているときの、
そういうときに出てくるんですよ。
このモラル感による正しさの長寿がの側に自分が立つと。
で、これをやった後、当時私はわからなかったんだけど、
これをやった後、ものすごく落ち込むんですよ。
僕は当時なんか偉そうなことを言っちゃったから落ち込んでいるんだろうくらいに思ってたんですよ。
まあそういう言い方もできるんだけど、
僕は今はそうではないなと思うんですよね。
おおむね、一部偉そうなことを言ってしまったという、
調子に乗ってたなみたいなのもあるんだけど、
それだったらあんな風にこう、
無意識に引きずられるようにグッと落ち込んだりしたいと思うんですよね。
僕それを警戒してやめるようになったのは、留学というのは過酷な世界だったからなんですね。
落ち込んでいると勉強進まなくなってひどい目に遭うんですよ。
だから極力そういうのを控えるようにしてたんだけど、
やっちゃうことが多々あったんですよ。
今思い出してみても。
この何の得にもならない、
ただ自分が偉そうな気分というものを味合うためだけにこれをやるということがなぜやめられなかったのかというと、
これで万能化を得る。
結局留学はストレスを得るにはもってこいの場所で、
ありとあらゆるストレス源があちらこちらに、
今の言い方がすでに最初の僕の前提からすると間違っているわけですけども、
明らかにストレス源というものが実はいっぱいあったわけですね。
だからそれも全部意味付けて僕が勝手に自分の心の中で作ったストレス感。
つまり、で結構苦しんでたわけですけれども、
苦しんでいるストレスを一層できる万能感として優越的な立場を使って説教するみたいな、
そういうことになるんですよ。
この恥ずかしさ程度であれば欲打つ感は大したことはないと思うんですよね。
二晩ぐらい寝てちょっとこう、うーって思えば済む話ですよ。
所詮黒歴史的な話なんですよ。
自分自身への反映
でももっと来る。
なんでもっと来るかというと、
私が親対象と完全に同一化したときに、
実は相手を正しているつもりになっているその私のつもりというのは、
全部自分に向かってしまっているから。
ストレス源を作り出しているのも自分なら、
説教しているのはもちろん自分だし、
説教食らっているのも結局自分なんですよ。
これは私はほぼ確実に間違いないと思うんですよ。
アタチミスルの漫画を読んでてすらそうだったんだから。
しょうもないキャラクターがダメダメになっていくと、
もっと幼かった頃は親対象との同一化の方が強かったから、
わりと気持ちよく読めていたんだけど、
20代中盤ぐらいになってくると、
ダメキャラに僕は自分を同一化している部分がだんだん広がってきたために、
読み終わった後落ち込むんですよね。
この読み終わった後落ち込むのと、
実は留学して偉そうなことを言ったときの落ち込みが同じ線をとっていて、
後ろの方がもちろん影響はでかいんだけれども、
ということが起こるというのがあったわけです。
起きたわけです。
同一化によるストレス解消と問題
それを結局やりたくないので、
留学中はそれをやると結構致命傷を負うからね。
そういう意味で何とか踏みとどまるようになったんだけど、
代わりに漫画とかは読むわけじゃないですか。
同じ事態が起きる、同じ目的でやってしまった場合は、
つまり、やっぱりどこかですね、
親と同一化するということがストレス解消に役に立ってしまっていたわけです。
こう言うとね、これそれの何が問題なのって思われるかもしれません。
でもそれは世の中一般的に言えば問題じゃないのかもしれないんだけれども、
私の観点、つまりこの政治分析的な話を使った私の観点からすると、
大いに問題なんですよ。
先々日もしゃべったように、まず自己を分断させてしまうことによって、
自分の手足を切っているような自傷行為に近い部分がこれにはあるという問題。
もう一つは親対象と同一化して自己失敵をしている。
これが一番良くない部分ですね。
その上、そのストレスはどうせ即座に戻ってくる。
場合によってはですね、
自己失敵をしたストレスというものが万能感を得ているそのそばから戻ってくるんですよ。
だって自己失敵しているんだから。
親に起こられているストレスをそこで再燃しているだけですから、
反省と自罰について
その時の親の立場に立ったと思ってストレス解消した気になっているだけで、
自己は本当は切れていないわけだから。
この同一化の、言ってみればこうなんだろうな、
ロールプレイを終えた後、再び自分は元に戻っちゃうわけですよ。
そしたら全部元に戻ってくるわけですよね。
自分に戻ってきてしまう。
つまり、この調子に乗ってはいけないとか、
自脱して自分の時間を無駄にしてはいけない、ではない、だということです。
これはストレス解消と称して万能感を得て、
親と同一化するということをやった時の付けが、
僕らはその付けを完全に引き受けなきゃならないんじゃないかと。
僕らというのが性が大きいなら、僕はですね。
だからこれをやめるようにしたんですよ。
この延長線上にですね、
今日はここでおしまいにしますけど、反省しないというのがあるわけです。
なぜならば、これは倉園さんのGood Vibesでよくおっしゃっているお話ですけど、
反省して謝るみたいな話。
これはもちろん、あれですよ。
社会的に謝らなければならない状況というものや、
謝るということによって、
相手の人がそれを求めている上に、
相手の人の苦しみが撤去できるなら謝るというのがいいんでしょうけど、
そうではなくて、私たちがですね、
自分の親対象と同一化したために、
自分が悪いことをしたと勝手に罪悪感を抱いた場合、
ストレスというのは多分全部これなんだけど、
それに対して自罰という形ではない形で、
何かを叱責したり、酒を飲んだり、
これはお馴染みになるんですよ、今日の文脈では。
漫画を読んだりすることで解消したという気になった時には、
必ずその当然の結末として、
欲打つ的な気分を抱えて言えなければならなくなる。
これが、つまり罪悪感と反省に相当すると思います。
つまり僕は酒を飲むというのは、
ヤフーニュースが引き起こす問題
反省するということになりかねないなというふうに、
酒を飲むこと自体がじゃないんだけど、
同時にそういう事態を引き起こすんだなというふうに、
今は思います。
これは酒を飲むのでも、漫画を読むのでも、
罪悪感が何とかしたくて読む場合ですけどね。
ヤフーニュースでもそれこそ。
つまりヤフーニュースを読むことがじゃないんですよね。
それが親との、あるいは長寿がとの同一かというものを目指している、
意識しなくても、した場合にこの時代を引き起こすと、
そういうことだったんだなと、今は思うんですよ。
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