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おはようございます、グッドモーニングバイブスです。
今日の夜の7時だったかな、7時開始の対談をさせていただくことになりました、技術評論者さんで。
会社は無理ゲーという本を書かれている著者さんと、
私がキヒョウさんから出した、つい顔色を伺ってしまう私を手放す方法のクロストークという立て付けですね。
まだお申し込みいただけると思うので、技術評論者さんのサイトから、
あるいはツイッターで技術評論者さんの公式ツイッターを見ていただくと、たぶんすぐ出てくるかなと思いますので、そちらからお申し込みもいただけます。
確か見た感じまだ20名ぐらいの申し込みでもうちょいいけると思いますので、オンラインですから、
本当のどころの上限というのは分からないですけど、たぶんまだまだ申し込みいただけると思うので、よろしければお願いします。
ただ私は一人で喋るわけではないので、クロストークですので、どういう話になるかは実は僕は全然分からないというか、対談ですからね。
どういう話になるのかは分からないですけど、1時間ぐらいなので、よろしければ無料ですからご参加ください。
昨日一昨日とリアルじゃなくてオンライン合宿という、たぶん今後これは普通のオンラインセミナーになっていくんじゃないかと思っています。
必ずしも合宿ではないですからね。一緒のところで寝泊りするとか食事をするとかではないので、
オンライン的にそういうことはできるんですけれども、とはいっても今回は1日目2日目を別々に選択していただくことも、つまりご参加を片方だけということにできましたので、
そういう感じになるともう合宿ではない、じゃ合宿じゃないですよね。両方出れば合宿感出るんですけどね。
そういうのをやっていろいろと発見があったんですね、主催者側としても。
私が中でもですね、最近話しているのはさっきの甘えの本。甘えの本というのはどいたけおさんの本なんですけど、
私はそれとグッドバイブスをミクスチャーして、特に今時の繊細さん向けという形で本を書いたんですけれども、
その本の中で甘えなんで、これを何と呼ぶべきなのかという母親という、最近ずっと呼んでいるんだけど、
03:09
母親というのだって私の発明じゃないんですけどね、精神分析にある考え方なんですが、環境としての母親という表現もあるんですよね。
ただですね、これ私の説明がまだ十分こなれていないのと、この種の考え方が今では決して歓迎されていないこともあって、
この母親はどこにいるんだみたいな疑問が湧くみたいなんですね。
これはですね、僕の中では自明な感じなんですが、何と言いますかね、おそらく母親から生まれてきたじゃないですか。
で、私たちはそのことを自分では知らないではないですか。それは人に言われたり写真を見たりしたわけじゃないですか。
で、でも私たちは自分はおそらく母親から生まれてきたと思っているというか、信じていますよね。
実は昔日の鳥にそういう漫画があったんですけど、試験館から生まれてきましたって、本当は俺試験館から生まれてきたんだよって思ってないですよきっと。
思ってないと僕は思うんですよね。思ってもその日の鳥の試験館から生まれてきた話ですら、実はマザーっていう表現を取るんですけどね。
だから、そういう母親ですよ。自分は母親から生まれてきたんだというふうに思っている母親。
で、私はこれについて母子一体という表現を使えばそれが通じるものだと思い込んでいたんだけど、
そこに疑問を呈されるということになってくると、母子一体だった時代はあったと思っているじゃないですか。
証拠を見たわけじゃないですよね。私も自分が子宮にいた時の写真を見たこととかは今は見られるんですよ。
何とか画像とかで、うちの子がお腹の中にいる時から豆みたいな感じ。豆もおかしいな。影にしか見えないんだけど。
そういうものを見ることが今はできるんですね。
けれども、普通我々はそれはまだ見られていないと思うんですね。
これを聞いている方は多分それを見たことはないと思うんです。
見たとしてもそれは後で画像で見るものであって、自分がそこにいた時は当然それを見るはずはないんですよ。
母子一体だった時代というものがあって、その母子一体だった時代というところの自分ですよ。
その時には母親抜きには自分はいないわけじゃないですか。
という存在があったという認識ですよね。
06:00
これを私は、もしユニットというか、これを私が言っているわけでもないんで。
これを言っているのはウィニコットという人だし、間違いなくこれを言ったのはクラインという人だし、結局フロイトなんだけど。
とりあえずウィニコットが言ったということにしてもいいと思うんですよね。
この言葉を使ったのは多分ユニット、ワンユニット、母子というユニットはウィニコットだと思うんですね。
この母子一体というのをマオグデンという人はマトリックスと言うんですけど、はっきりとマトリックスな子宮ですね。
これを私たちは、それがただ事実として子供の頃にお腹の中にいましたというだけではしょうがないというか、それはまあそうでしょうという話でしかない。
ここはそれはそうでしょうで通ると僕は思っちゃってるんですよね。
それはどこにあったのかとか、その母親どこにいるのかという議論が正直まさかを提起されるとは全く思ってなかったんですね。
まして話の中ではですね、これ私2回聞いて衝撃を受けたんですけど、その母親の作り方はという問いがあって、この母親が作れるという発想を私は持ちようがない気がするんですよ。
この母親から作られたはずじゃないですか、そういう言い方をするならばですけどね。
母親が作ったというのも微妙な話であって、だから我々は生まれたと言うんですよね。
作ったとは言わないんだと思うんですよ。
作れるかなぁ…。
哲郎様の世界では作れてしまってるんですけど、私にはなかなか信じられないんですよね、そういう試験官。
試験官は全く論外だと思うんですよ、試験官じゃないだろうなと。
一番近いのがですね、私の知ってる、これも漫画ですけどね、そういう本当に小さい精子と卵子が組み合わさった段階で父親の体に移植するというコミックがあるんですよね。
これはもしかすると可能かみたいな、可能な気もするけどなぁと思うんですよ。
可能かみたいな。
ありますよね、母体を借りるという。母体を借りるのを母が父だと、男だという、そういう風に考えてみるところのSFなんですよ。
私これはあと80年…そんなに待たないのかな?
わかんないです。
未来ではそういうことは可能なのかもしれませんね。
ただいいんですよ、それは別に。
何から生まれようとも。
だって竹宮圭子さんも手塚治虫さんもそうですけど、機械が作ったってマザーって呼んでるんだから、私たちのそれは観念なんですね。
私は同じ感覚は抱けないんじゃないかと思いますけれども、でも人々はそのように母というものの観念を持つわけですよ。
09:04
それはやっぱり母から生まれるという、その母ですよ。母から生まれたと思っているということは、そういうものが自分の、あえて言うならば脳内に…脳内とは思わないんですけどね。脳がそういう風に認識すると言ってもいいですが、とにかく母というものを意識しているわけじゃないですか。
それは実母とイコールであるケースが多分普通だと思いますし多いと思うんですけど、実母と今はイコールじゃないですよね。
母から生まれたというのと、この人から生まれたというのを別に一致させなくても、今みたいな試験管みたいな話までするならばですよ。
ただ私たちは母から生まれたという、そのからというところの元があるという意識なんですよ。元を作り出すことは不可能じゃないですか。
元がどこにあるんでしょうという問いも、私の中ではどこにあるかは、どこにあるかということをあえて言うならばやっぱり自分の心としか言いようがないわけですよね。
絶対に自分の心にしかないんですよ。みんなそういう意識を持っているけれども、めいめいが。それを持っているのは自分の心なんですよね。
ここまでは僕は今のようにくどくどと説明する事項ではないなと正直思うんですけれども、
例えばでも私のお母さんはひどい親だったんですというのは、この議論とぶつからないんですよ。
ひどいかどうかはともかくとして、そこから生まれてきたと思っているよねということが、
だからこそひどい母だと思うこととそこから生まれてきたと思うことがむしろ自分の中で葛藤を生み出すんですけれども、
でもひどいからそこから生まれてきたわけじゃないという風には考えないじゃないですか。
誰に言われずともそうは考えないですよね。そこがポイントなんですよ。
ひどい母親だったから私は実はそこから生まれてこなかったんです、そういう話ありますよね。
そういう話、言えなきことがあるじゃないですか。
でもあの話にしても、では誰から生まれたんだろうみたいにすぐなるじゃないですか。
つまり人はこれを問うってことなんですよ。
動物だったらそんなこと問わないですよね。
動物でも猿レベルになってくると虐待するようなメスザルとかいるんですけれども、
たぶん私の本当の母はどこなんだろうと猿さんは認識できないと思うんですよね。
だから人なんですよね、このことをいちいち問い合わせたくなるというのは。
私の本当の母は、本当の母というぐらいだからやっぱりその母意識ってものがはっきりあるわけですよね。
我々はこの母意識というものを絶え間なく使っているんですね。
精神分析の世界では特にこの母に機能って言っちゃうんですけど、もっと漠然としたものなんですけど本当は。
12:06
コンピューターのファンクションみたいにはっきりしたものじゃないんですけど。
美音って人は面白い人で、そこをコンピューターのファンクションみたいに何かと記号みたいなもの。
美音だったと思うな、これをやったの。記号みたいなもので表現するんですけど。
でもみんな言っていることはおおむね似ていて、言ってしまえば同じなんですよね。
母というものの機能としてニード、ニーズに変えるというのがあるわけですね。
血糖値が下がってきたらお腹が空いたという表現に直す。
これは私は母的な、母的言うのは良くないと思うんですよね。
母なんですよ、これは。
つまり自分の実母じゃないかもしれないけど、今生きている人は特にそうだけど。
でも私はそこから、それから生まれたというのが母なんですよ。
これは母的とか母性とかって、わざわざ敵をつけたり性をつけたりしなくていいと思うんですよね。
これは確かにアレゴリーで観念なんだけど、実態を伴っている観念じゃないですか。
僕は精神分析っていうものを考えるときに一番大事なのは常年を伴っている、
比喩だとか例え話とか、あるいは実感を伴っている比喩っていう部分。
それがもう精神分析のある意味全部なんじゃないかなと思うんですよ。
カウンセラーがお母さんに感じられるとかお父さんに感じられるというのも天意というけども、
天意というのは結局生々しい感じがする例え話なんですよね。
まるでニュートラルな感じがしないところが大事なんですよ。
母と言っても人によってイメージが全く違うと思うんです。
でも自分のイメージじゃないとこれは意味が全くなくなっちゃうんで、
そういう母的なるものというものを絵に描いたようにして、
優しくもないのに性分割りやみたいな絵を描いておいてもダメって、
あくまでも自分の中でどう思うかっていうと、
常にリンクして感じていかないと、
たぶんこの話はほとんど意味のない話に、
本当に文字通り絵空事みたいになってしまうと思うんですよね。
その母的なるものというものをこういう言い方にしちゃってるんだよな。
母と言うべきなんですよね。
これは自分が絶対にそこにいるから、
年で言わなきゃいけないんですよね。
年が一つであった時代というところの母と私です。
の、の、なんだろうな。
の、記憶ですね。
イメージなんだけど、イメージというともともと素晴らしい観測でしたね。
イメージなんだけど、イメージというともっと軽い感じになってしまうんですよね。
15:00
もっとこう、実際それはおそらくあったということが大事なんで。
で、そこに、その母がまず私たちに、私にだな、
ニードをニーズに変えるやり方を教えてくれたんですね。
お腹が空いたと言いなさいとか、お腹が空いたと言えばいいんだとか、
この表現を取ることで、自分のモヤモヤというものを解決できると。
もう一つが、のいさんが言ったところの甘えですね。
甘えさせるという機能を持っているわけですよね。
僕これ、ミニコットの表現を使うならば、
包み込むとかホールディングっていうのが一番近いような気がするんですが、
ちょっとやっぱりだいぶには差が違いますよね。
甘えというのはもっとこう、ふわっとしてるし、すごく情緒よりですよね。
ホールディングと言ってしまうと、腕がイメージされてしまうので、
甘えということをやったでしょうってことなんですよ。
甘えさせるということは親がやったでしょうということなんですよね。
これをやってないっていう言い方もできると思うんですが、
甘えがなかったら我々はですね、たぶん生まれてこないと思うんですよね。
どんな親だかわかりませんと、自分は何にもできませんと、
でもこの世の中に出てきますという、
自分の3つが揃うには無謀じゃないですか。
つまり甘えがあるじゃないですか。
そこから始まったわけですよね。
私たちはここから成長するにつれて、
特に現実的容力のある意味高い人はここを逆に考えたがるわけですよ。
どんな親だかわかってます。自分が大切になれることも知ってますと。
そして自分はいろんなことができるようになってからでなければ出ていきたくありません。
人が賢明だって思っちゃうんですよね。
つまり甘えなければ甘えないほどその人はいいって考えるんだけど、
会社とかに行くときもそうじゃないですか。
ナンセンスだといつも思うんですけど、
即戦力として通用する人間になってから社会人になる。
ありえないと思うんですよね。
そういう人は野球を見るべきですよ、ある意味。
超高校級のほんの一握りの人が稀にそういうことを可能にする以外は、
全然出てこないじゃないですか、高校生ってすぐに一軍には。
普通ですよね、それがね。
これが社会人の世界だと全然違うように考えられるっていうのは、
よっぽど仕事っていうのは簡単なものだとみなされているのかわからないですけれども、
甘えというのは、甘えられるということはその人は、
なんて言うんですかね。
結果的に十分やっていけるだけのものを持ち合わせているという意味なんですよね、最初から。
持ち合わせていないということは、
私たちは生まれてすぐにですね、
空気もなければ何もないところに行くのが自立だみたいになってしまって、
そういうことって、それをしてしまったらすぐ死んじゃうんで、
僕らはもうみんな死に絶えてるはずなんですよ。
18:02
みんなこんなにやって栄えてるということは、
最初に一番原点のところに甘えがあったはずで、
この原点を使って生きていかないと、
たぶんすぐ生き詰まるんだと思うんですよね。
っていうのが母親の第二の機能なんですよ。
甘えというものを、
なんて言うんですかね、現実に受け止めるみたいな、
そういう感じになりますよね。
だからニードをニーズに変えると。
甘えというニードを現実のものにしていくと。
もう一つが、美音って人が言ったんだと思うんですけど、
夢を見るということなんですね。
この話は今日はしないですけれども、
人は起きてる時も寝てる時も夢を見ていて、
夢を見ないでいるということは、
人として生きているということにはならないと。
だから夢が見られないということは、
精神病であるみたいな、
その辺は結構はっきり言っちゃうというタイプなんだと思うんですよ。
意味付けに近いんですけどね。
共有可能な意味付けをして生きていくと。
メニコットも美音もなんですけど、
空想と夢をはっきり分けて、
空想はダメだと言うんですよ。
ファンタジーというものをしているのは、
それは夢を見ていることにはならないし、
他の何の役にも立たないと、
この辺も妙にはっきり言うんですよ。
野球を見るというのはまさに夢を見ているということなんですね。
ファールとホームランは場合によってはほとんど同じものになっていますから、
こっちはファールでこっちはホームランだと、
一線に違ったら全然違うんだというのは、
人が勝手にそう決めたんですよね。
でも我々はそれにすっかり乗っかって、
ファールだと言われると落胆するし、
ホームランだと言われると、
5万人が一斉に立ち上がるわけですよ。
これぐらい僕らは夢を見られるんだけど、
ここでホームランを打ったらいいなという空想をするというのはダメなんですよ。
みんなが共有できないですからね。
みんなが共有できる夢を見るというのが、
そういうふうな子供にするというのが、
母親の機能なんですね。
私たちはそれができるじゃないですか。
お腹が空いて、水が飲みたくなったら、
即、自分が何をしたいかが分かるし、
野球を見て面白いとも思えるし、
将棋を見て面白いとも思えるし、
漫画を読んで面白いとも思える。
犬とかできないですからね、どれもね。
たぶん犬語で書いてあってもできないでしょうね。
つまり夢を見なきゃいけないわけですよね。
この2つができるということは、
心の中の母親機能がきっちり動いて、
きっちり働いているということなんですね。
1個だけ、なぜか知らないんだけども、
これを機能させるということをやらなくなってきているのが、
僕が書いたのはそういう話なんだけど、
甘えると甘えさせるという、
この機能だけを母親機能を使うということをやめてるんですね。
そうすることで、ものの多く自分らは
情緒的に困るにもかかわらず、
21:00
この機能だけはやめようと。
そして甘えは一切許されない世界にしようというふうに、
なぜか頑張るんですよ。
そうすると何が起こるかというと、
何かモヤっとしたことが起こる。
特に感情的な意味で何かモヤっとすると、
誰が悪いんだろうと考えるようになっているんですよね。
これは何か感情的にモヤっとしたことが起きたときには、
母親機能を使って自分を甘えさせるか、
他人を甘えさせればということは足りるんですが、
それをしないんですよ。
ここで誰が悪いんだろうと考える。
そして悪を懲らしめるという方向に行くと、
問題はきれいに解決するような気がなぜかしていて、
にもかかわらずそうはならないから、
みんなでモヤモヤを抱え続ける。
これが現代がストレス社会だと言っている原因になっているんだろうと、
あの本は裏では一生懸命言っているわけですね。
表でこれをガンガン言っても通らないので、
裏で一生懸命言っている。
そういう本なんですよ。
この母親はどこにいるんだという疑問は、
僕にはどうしてもですね、
例えば何か冷蔵庫を開けて食べたいなと思ったら、
もうその母親はそこにいるんですよ。
これが機能しなくなるとこういうことができなくなるんですね。
できると思っているのは脳の働きだけでできると思っている人はですね、
できなくなったという経験があまり多くないか、
さもなければできなくなった時の原因をすごく誤解しているかの、
僕はどっちかだとしか思えないんです。
で、夢見るというのも同じなんですよ。
これを見て、時代劇なら時代劇、映画なら映画を見て、
思わずそれをリアルだと思い違えたりするじゃないですか。
この時に間違いなくそういうことをお母さんはしてくれたはずなんですよ。
絵本読んでくれたりしたんじゃないかと思うんですよね。
全くしなかったというケースもそれはあるかもしれないですけれども、
でもそれに近い経験は持っていると思うんですよ。
例えば今日行くテレビを見ていて、
なんかすごい臨場感のある絵本の朗読みたいなのを見たとか、
これが母親機能なんですよね。
もしこれがなかったら信号赤が、
ああだから止まろうって思わないと思うんですよ。
そういう車を僕2回見たことがあるんですけど、
めっちゃ怖いですよ。
赤ののにドーンと全然減速もしないで行っちゃうんですよ。
あのタイミングでショートスコア来たら、
結構すごいですよ。
そういうのを僕2回見たことがあって、
やっぱりそれを見ると正気とはとても思えないですからね。
人間というのは夢を見ることを一切やめてしまったら、
まあ正気じゃいられないんですよ。
我々が正気に振る舞ってるっていうことはですね、
間違いなく夢を見ているわけで、
だって赤だから止まれっていうのは、
言ってみれば夢ですよね。
象徴機能って言いますけれども、
そういう機能が働いていなければ、
24:02
これは何かの禁止だということに気づきようがないと思う。
そしていちいちそれを我々は、
ああ赤だ、信号禁止だ、止まろうじゃないじゃないですか。
サッと止まるわけですよね。
視覚していることと意味付けは同時に起きてますよね、ほぼ。
実際には絶対同時に起きてなくて、
ここにはタイムラグがあるんですけれども、
同時に起きている気がするぐらい即座にやってます。
これが母親機能の大事な2つ目のポイントなんですね。
これを意識してみると、
必ず自分の中に行き着くはずなんですよ。
赤信号にこれが見えたってことはありえないし、
赤信号に強制的に止まらせる力もないから、
ないから無視してと言っちゃう車ってあるわけじゃないですか。
静止できないんですよ、あれは物理的には。
あれは心の機能を使ってみんなが止まるんですよね。
こういうことをもちろん我々は意識せずにやってますけど、
意識せずにできるということは自分の中に備わっているということであって、
これはどこにあるんだろうっていうふうには問わないはずなんですよね。
問うべき理由が何もないと。
中にあるに決まっていますよ。
たぶん夢の中だって赤信号を見て止まってますよね。
車を運転する夢を見ていれば。
完全に心理機能じゃないですか。
心の機能そのものですよね。
そうじゃなかったら象徴って何の意味もないですよ。
動物にとって象徴っていうのはほぼ何の意味もないと思うんですよね。
かなり高等な霊長類だったら一定の象徴機能を使いますけれども、
普通は使わないですよ。
どう見ても象徴機能には何の興味もないですよね。
餌にしか興味ないですよ、基本的には。
それは当然ですよね。
だってもともと物理的には意味のないものなので、
そこに意味をつけるわけですからね。
つけてくれたのは親じゃないですか。
最初は絶対そのはずなんです。
私が私だって教えたのは親ですよね。
私を生後だって教えたのは親ですよ。
と思うんですよね。
と私が信じているわけです。
昨日このことを痛感した出来事が、
本当に小さい出来事だったんですけど、
母に電話をした時に、
不意にこれを思い出したんですよ。
実母ですよ。
母に電話をして、
最近は別に母とやり合うことは全然ないので、
なんてことはなかったんですけど、
昨日はたまたま、
私の話じゃないんですけれども、
新しい家を買わなければならない話で、
少し母がナーバスになっていたんです。
珍しくですね。
最近ナーバスにすらならなくなってきたんですよ。
年齢だなと思うんですよね。
ナーバスが性格みたいな人だったんですけどね。
まあいいや。
それでその時に、
母がナーバスになると、
話がただ混乱するだけなんで、
だんだんイライラしちゃうんですね。
その時にふと思ったんですよ。
27:03
自分の母親機能を使って、
実母とのやり取りで、
モヤモヤしたものを解消できるだろうかと。
理屈の上ではできるけど、
なんか違和感あるようなと思いながらやったんですよね。
イライラしちゃってねっていうのを、
自分の母親にそうなんです。
自分の母親にってこの言い方面白いじゃないですか。
自分の母親は電話口にいるんですよ。
なんだけれども、
自分の心の中の母親に。
だから母親二つになっちゃってるんですよ。
内的部分対象って言うんですよね。
よく言ったもんだなと、
この時は本当に思いました。
まさに自分の心の中のリアルな母だと思っているのは、
こっちなんだけど、
電話口にいる方がリアルな母親に決まってますよね。
論外ですよね。
自分の心の中にいる方がリアルだなって思うのは。
でもまさにリアルなものが、
二個あるような感じがしたんですよ。
内的部分対象だな、
つくづくそうだなって思ったんですよね。
その内的な母親に相談して、
なるほど、
なんていうんですかね、
そうかそうかって感じなんですよね。
ちょっとこれ師匠屋みたいですよね。
なんか難しいんですよ。
言葉を発するとかもしないんでね、
私のは。
そしてふとイライラが取れるんですよね。
あ、機能したなと思ったんですよ。
非常に不思議だなと思ったんですよ。
実僕が作り出したイライラを、
僕の内的なリアルな母親に相談すると消える。
物理的に考えると、
思理滅裂なんですが、
ちゃんとこれで上手くいくんですよ。
で、上手くいって、
ここからなんですよね。
上手くいくと、
グッドバイブスっていうところのノイズが消える状態で、
話を聞くと話が分かるんですよ。
これがですね、
ここら辺がちょっと、
今もう論理展開を飛ばしたんで、
なぜ話が分かるようになるんだよって言われると、
困るんですけれども、
話が分かるようになるんですよ。
母親機能がきちっと動き出すと、
ニードはニーズに変わるんですよね。
綺麗に。
だから、うちの母のね、
実家の実母の家に関する
非常に混乱したニードが
見えてくるんですよ。
親子だからってことはありますよ、もちろん。
で、そうか、なるほどなと思って喋ると、
相手の混乱が消えていくんですよ。
非常に不思議な体験なんですよね。
しょうもない体験ですよ、これは。
些細な、本当に。
別にこんなことわざわざせずとも、
何とでもなる体験です。
特に意味はないんですが、
でもこれができるんだなと。
それで、これをやって
初めて分かるのがやっぱり、
この母というのは母だし、
母じゃないんだけど、
今言った通り。
そしてどこにいるのかという
言い方をするならば、
昔私がそういう体験をしたから、
私の心の中にいるんです、
という言い方をするしかない。
そして、このイライラしたっていうのは、
私が部分対抗しているわけですよ。
アダルトチルドレンですよ。
私はもう48なんだけど、
30:00
子供になっちゃうんですよ。
注射が怖いとか言ってグズってる子と
同じですよね。
実語がモジョモジョ言うから
イライラするっていう
小さな子供が私の中にいて、
この小さな子供と
それを包む母がセットなんですよ。
これは小さな子供だけ、
ウィニコットのセリフですよね。
幼児、一人だけでいる幼児なんて
いないっていうあの有名なセリフです。
まさにそれなんですよ。
セットなんです。
水のないところに魚はいないんですよ。
魚と水はセットなんですよね。
でも魚と水は
別々じゃないですか。
そして水が先じゃないですか。
これが大事なんですよね。
魚が水を作るわけにはいかないし、
魚にとって水はどこでしょう?
っていう問いは
無意味だと思うんですよ。
そこら中にありますとも言えるし、
その中にあなたはいるんですとも言えるし、
その中にいないときはあなたは死ぬんですとも言えるし、
その小さな子供だった自分
っていうのが自分の中にいて、
この子供のことをですね、
妄想分裂ポジションと
呼んでもいいし、
自分の中の精神病部分と呼んでもいいし、
妄想分裂ポジションといったのは
フェアバーンという人と
クライムという人ですね。
精神病部分といったのが
そういう言い方をどの言い方をしてもいいんですよ。
とにかくアダルトチルドレン
っていうのが
ちょっと前は新しい言い方として流行りましたね。
あなたはアダルトチルドレンです
っていうのはおかしいと思うんですよ。
そういう表現を何回か
漫画とか本で読んだんですけど、
それはないだろうと思う。
アダルトチルドレンは私の中にいるものですよ。
私自身がアダルトチルドレンになっちゃう
ということはほんとはないと思うんですよね。
たとえその傾向がどれほど
強いことがあるにしても、
この小さい子供が母親に包まれているんだけど、
包まれている人は
自己肯定感が高いとか言うんですけど、
僕は包まれていない存在は
この小さい子供としては成り立たない
と思ってるんで、これと自己肯定感を
ダイレクトに結びつけちゃうのはダメだ
と思うんですが、
そうじゃなくて、これを機能させる
ってことなんですよね。
だから自分がすごく頼りない
存在であるということと、
その自分が100%頼っているということは
どっちも自分の中にある
っていうセットなんですね。
こういうところに問い合わせるんですよ。
問い合わせてるからイライラするんですけどね。
とにかく
イライラしましたと。
そうすると
母が包み込んでくれると。
そうすると
母親とうまい会話ができるという
これは
心の中の母親に問い合わせると
実母とうまい話ができると。
この心の中の母親は
当然実母が昔やってくれたことを
私の体験的記憶です。
ここにね、
話はすごいややこしくて
錯綜してるようですが、
混乱とか矛盾はないと思うんですよね。
別にこれ、脳科学で説明しようと思えば
不可能なものではない
33:00
という気がします。
もっといっそ込みってくるから
やんないですけど、
そんなことしなくても、これだけで十分だ
っていうふうに僕は思うんでね。
ここで、あれなんですよ。
やっぱりいつもの通り
モヤモヤとしたときに、
それは誰が悪いんだって問い合わせをしてしまうと
実母は悪いに決まってる
ってことになるじゃないですか。
そうやって実母が
そもそも寺の奥さんと
ずっとしてきたんですから
新しい家なんて買ったことないわけですよね。
そういう置いてから
新しい家を買おうとしてゴニョゴニョしていて
いるから
訳わかんなくなって
訳わかんないことを言い出すんで
全部実母が悪いというふうにやって
することができるんですよ。
そういうことって僕は世の中で起きてると思いますし
私が10年前だったら
十分やってそうなことでもあるんですよね。
そうすると
うちの今の実母の状態からして
めちゃくちゃへこみますよね。
この結果を生み出すことによってですね
私が何を得るんだと
時間の節約になるとか
いう話をするんですよね。
給を得るを高くできるとか
本当にそういうことって
起きるとは思えないですよね。
ここで実母をガッとやり込めて
すっきりして
一時的にすっきりはするんですよ。
時間を節約して
その間に
何でもいいんですよ。
デザインの勉強でもして
私デザイン能力全然ないですからね。
そして本を
新しく出していくと
QOLが高くなるっていう話を
普通に行われてるんだけれども
相当
相当信用できない
話じゃないですか。
こういう方向にも話を持っていくことができる
ということですよね。
いずれにしても
内的な母親というものと
リアルな外にいる母親
というものは
別々に
登場させられると
私はこのことを理解して
ここまで
実際上を区別して
本当に最近で
明らかにこの二つを混同して
内的母親対象とリアルな母親を
完全に
混ぜこぜにしては当然なんですが
対応していた時代が
実に長かったと思うんですね。
この二つを
完全に混ぜていたら
それはうまくいかないんですよ。
特に今みたいな時には
混乱の極みになっても
そんな不思議はないなと
昨日みたいな時ですら
こんなに小さなやり取りの中でも
結構感情的に
やり合いをしていたんだな
ということを
ようやく気がついたと
そういう話ですね。
だから内的な母親対象というものは
あるんですよ。
それは自分の
うんとこう
モヤっとしたりイラっとしたり
36:04
不快になりやすい部分とセットであって
そしてそれを
ケアするということは
十分おそらく
どんなケースでも可能で
そのことにですね
何ら特別なことはなく
僕らは
普段からそれをしているんです。
それをある部分では
やめようという意識を
持ちたりしなければ
全部自分でできるんですよね。
これをやることによって
自分が損をするということって
僕もこの分野から考えると
奇妙な発想だなと
むしろ思うわけです。