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2023-06-29 42:16

カプセルの中に引きこもる自己愛【GMV 808】

孤独と抑うつの世界

サマリー

彼は環境の厳しさや収録の難しさ、音の問題について話しています。また、オンラインセミナーやメンバーシップについても言及し、炎上の問題や許すことについて考えています。彼は怒られることによって生じる心理的距離や一致の欲求についても考察し、カプセルの中での自己愛と主体性についても考察します。他人との関係性が彼の主体を現すということに言及し、カプセルの中での孤独や自己愛の病理を分析します。このエピソードでは、主人公は自己愛に引きこもる状況を描いています。彼は死ぬことができず、孤独感を感じながらロボットと対話します。さらに、彼は自己感覚や相手との関係性についても考えさせられる内容です。

収録環境の厳しさと音の問題
おはようございます、グッドモーニングボイスです。
6月29日木曜日の朝7時25分です。
日に日に収録をする環境の厳しい季節になってきて、
今日なんか良い方だと思ってたんだけど、
そんなことは全然ないんだというのが、
ちょっと喋るとすぐわかるっていう感じで、
ぜひちょっと環境改善をしておいたところですね。
最近、土のせいもあり、あとはやっぱり温暖化のせいなんですかね。
夏の方が収録が厳しいっていうことに気づき始めました。
冬はとにかくあずいをして温めればなんとかなっちゃうけど、
今もそうなんですけど、音がですね。
できれば密封にしたいけど、密封にしたら収録にならない状態なわけですよ。
だから厳しいなって。
冷やすためにはどうしても開けなければならないし、
開ければ開けたで音に出てきてしまいますからね。
ちょっとこれは考えればならんだとか、
そういうことを考えると大体いい結果は生まないんですけど難しいですね。
昔はすっごい冷え性体質だったんで、
全然こういうのが苦にならなかったのが不思議だなと思うんですよね。
今はもうすぐ汗が出てくるというね。
こんなに人間変わるもんですかね。
おかげさまで1日のオンラインセミナーは順調にご参加、
申し込みいただきまして大変ありがたい限りで、
できればここでもう十分かなみたいな、
そういうふうに僕はすぐ思ってしまうんですけど、
1日13時半からのオンラインセミナーをやります。
もうそれだけで十分告知だと思うんですけど、
今回公表いただいたし、
当日のニュアンスにもよりますけど、
もし非常にいいようだったら続編を、
少なくともテーマとして2つ3つはあるんですよね。
あさってタスクシュートに、
私のタスクシュートというのと先送りの話というのと、
盛りだくさんでいこうと思ったんですけど、
全部はさすがに盛り込みきれないわけですよ。
その周辺の話みたいなやつですよね。
先送りの話はさすがにタスクシュートの話をしてしまうと、
全部は無理ですねやっぱりね。
先日ちょっとコンパクトに4つのタイプっていうのをまとめて、
オンラインセミナーとメンバーシップ
あれもちょっと公表いただいてるんですが、
あれだけで1時間近く喋っちゃってますもんね。
あれをやってしまったらタスクシュートの全貌とか、
やってる場合ではなくなるわけですね。
あれだけでは足りないんで、先送りの方も。
もう1つ最近話題になってる、
Evernoteとかをどうするのっていうやつですね。
Evernoteっていう人は今や少なくなってるかもしれません。
NotionとかLogseekとかわかんないですけどね。
DynalistとかObsidianとか。
正直使ってないからわからないんだけど、
そっちの方との連携とかの話もして欲しいという要望があればいたしますが、
あさってはそんなことまでやってられない。
それやってたらそっちだけで2時間ぐらいは有に使ってしまうので、
あさってはそれは無理なんで、
その辺をちょっと考えていきたいかなと。
そんなふうに思ってもいます。
わかりませんが、やってもいいんじゃないかというふうには思い始めています。
私は今、こういうのをベースに、
Bonaparte Cast聞いていただければある意味大変ありがたい限りで、
可能であればNotionの今、
ノキバメンバーシップっていうのをNotionでやってて、
月額500円なんですが、
そっちに今までしごたのとか、
それこそ自分のブログとかライフハクシン理学とかで書いていたものを、
全部こちらにどんどん書いていこうというふうに今は思っているんですね。
まとまりはあんまりないんですよ。
その日その日考えついた100日チャレンジ参加者さんなり、
Good Vibes Factory参加者さんなりが読んだら、
悪くはないんじゃないかなと。
タスクシュートで困っている人とかそういう方ですね。
あとこの精神分析の話で、
これはもうしゃべりまくっているから、
何もわざわざまたノートにまとめ直すこともないだろうとは思うんだけど、
でも書いちゃうことはありますので、書いたらそっちで読んでいただくというような、
割とごったに的なメンバーシップになっていて、
あと要望があったら掲示板にどんどん書いてねというのを言ってはおきましたが、
全く一つも投稿がないと。
そういうもんですよね、はっきり言って。
だからもうこれは僕の記事がひたすら投稿されるメンバーシップなんだと私は割り切ってですね、
今は余裕さえあればせっせと。
昨日一昨日と全く余裕がなかったので投稿できてないんですけれども、
今日もちょっと微妙かなと思ってるんですが、
それでも余裕さえあれば間違いなくその日に書くぞというふうに思っておりますので、
こちらをある種サブスク寄付みたいな感じでやっていただけると大変私としてはありがたいです。
炎上と許すことについて
またですね、無理な仕事の拡張みたいなのはせずに済むかもしれない。
そこまでは行かないにせよですね。
でもやっぱりそういうのってトータルで決まるものだと思うので、
無理な仕事の拡張を避けるためにはこういう活動大事だなと思ってやってます。
あとは前日来お伝えしているように7月17日ですね、
くらどのさんとのトークセッションが板橋でやります。
これは海の日の1時からになってるけど、1時からだ。
ちょっと正確な時間は確認してください。
はい。
で、今日はですね、昨日の話の、もうちょっとあれを考えていきたいですね、今ね。
許すという話のアプローチが、あれこれあれこれ私も考えてるわけですよ。
というのはやっぱりですね、炎上案件だなって思う時があるんですよね。
くらどのさんがグループセッションで語っていらっしゃる時も、
話の展開をうまく持っていかれるというか、
うまく持っていかれてるって思うっていう時がすでに、
うまくっていうのの反対があるわけですよ。
反対側が出ちゃうと、くらどのさんがって意味ではないですよ。
何らかの意味であそこで、言ってみればですね、
カウンセラー側に立ってるはずの人が、相談される側の人が、
何かの、それは正直地雷じゃないんですけど、
でも地雷を読むと炎上案件かしかねないみたいな話がありまして、
だから僕は許すというのは、いろんな意味でアプローチが増えていくって思うんですね。
精神分析も例外ではないんですよ。
あそこでやらかすことがある。
岡田海人さんもあそこでやらかしたという話をよく書かれるんですね。
それを書けるのは一つの勇気ある行動なんですよ。
あそこでやらかすって本当はやっぱり僕が思うにですね、
読めば読むほどカウンセラーには何の責任もないんですよ。
ないんですよ。だって怒りの矛先の対象がもともとカウンセラーじゃないからね。
結局、やってきている相談者さんなり来談者さんなり、
私だってそうなんだけど、
いやー妻が許せませんとかってくるわけじゃないですか。
まずそういう場合はないよね。
いやー妻にいじめられてひどいんすよみたいなのにしてくるわけじゃないですか。
そこでそれは奥さんを許しなさいとか言われるとふざけんなってことになった時、
悪いのはカウンセラーじゃないと、私やっぱ思うんですよね。
どう考えても。
でもそういうことでは案件なんですよ、形式的にはね。
相談者が何かそこにいない誰かについて喋ってる。
そして、なんて言うんですかね。
すみません、ちょっと咳払いをしました。
第二者というか、そこの場にいない第二者に対する怒りを何とかしたいと言ってくるんだけど、
その唯一の解決策を提案した相手にキレるっていうのがこの構図なんですね。
で、それはキレる相手としてはすじちがりの相手にキレているわけですよ。
で、こういう構造それ自体が非常にいいわけですね。
何がいいんだって言われるかもしれませんが、
つまりここでいろんな人が言ってる通りなんですよ。
許すしかないとか言うのもそうだし、夢見る人に罪はないというのもそうだし、
ウィニコットのが相当、ある意味こう、なんて言うんだろうな、ひねっていて、
その失敗は必要だった的な言い方をするんですよね。
そこまで言ってしまうと今度はカウンセラーがですね、
じゃあこの失敗良かったんだっていうふうに思うためにあるわけじゃないと思うんだけれども、
そういう考え方もできますよね。
何が言いたいかというと実は簡単で、カウンセラーは悪くないじゃないですか。
でもカウンセラーが悪いということにされたじゃないですか。
カウンセラーは怒ってもいいじゃないですか。
ここで怒らないっていうのがまず一つと、
私は悪くないのに酷い目にあってますっていうその人が、
この場で悪くない人を酷い目に合わせてるっていうのがもう一つなんですよ。
どっちでもいいんだけど、こういうふうに諸々のアプローチがここに用意されてるってことなんですね。
それぐらいこのテーマは世に溢れているし、
その上このアプローチ、だからこそこれに対する、
これで苦しんでる人が多いので、
これに対する諸々諸々のストーリーやエピソードや、
同じか、処方箋、レシピ、方法が編み出されてるわけですね。
善にすらあるというところを見ると、やっぱりみんなこの問題を相談しにやってきているとあるんですよ。
善にはね。うちのありがちですよね。江戸時代の話ですけど、
嫁が許せませんとか、執留めが許せませんとか。
あるお坊さんの答えはやっぱり非常に今風に言えば、
自己啓発というふうにやっぱり似てますよね。
それはあなたが覚えていることを許せないんでしょうっていう言い方をしてますね。
過去と記憶の話に持っていってるんですよね。
今ここにはそれはないでしょうっていう話をしてましたね。
今ここにこだわる善らしい答えなんですけど、
もっとその時の、その時その時のですね、
現場の雰囲気感みたいなものは多分、説得力を遥かに持ってたと思うんです。
これを文章で読むと善大したほどねえなって思っちゃうと思うんですよね。
それで許せる気がしないんで。
そこがやっぱりミソなんだと思うんですよね。
この許せなさっていうのは僕はですね、
最近性衝動とよく似てるなって思うようになりました。
そう言われるとますますあれかもしれませんけど、
なんかですね、抑えきれない何かを感じさせるんですよね。
猛烈に積もっている時の恋愛感情に近いものもあるんですよ。
だからこれはやっぱり愛にまつわる問題なんだろうな。
性は性愛じゃないですか。恋はもう恋愛ですよ。
そして怒りと。
処罰欲求と自己愛に関する考察
つまりこれは先日言った処罰欲求なんだけど、
これは全部愛にまつわる問題なんだろうなと思うんですよね。
この人がこらえきれないという事態を、そういう感情を持ったその問題を、
しかし実は何とかしなければならないっていうシチュエーションだと思うんですよね。
大概は言われたとか書かれたとかが多いかな。
そんな気がします。
言われた、書かれた、怒鳴られと。
そういう事ですよ。
ここにね、口心っていうんですね。
口と唇のろくゆうの盛り込みが出てくるんですよね。
さらしもにされた。
あれですよね。
めったに使わない、数が多くはないんだけど漢字。
あれが出てきたら要注意っていう風に僕は最近思ってるんですよ。
その言葉を漢字に直すと、書けないやつねみたいな、そういうやつですよ。
ちょっと違うんですけど、小里編に可能のかって書いて、何て読むのかご存知ですかね。
私あれ最近これはエリプスだなって思った時に出てきたのがなんですよ。
僕もあれは読めないと思うんですよね。
漢字検定2級とかでるって付くんですよ。
小里編に可能のかって書いてるなんですよ、繰り仮名は。
おもねるなんですけど、普通使わないですよね。
あれを漢字で書いてると僕はなんとなく自分が七半に乗って騒いでる人みたいになった気持ちになるんで、
あれなんですけど、七半って今言わないのかな絶対に。
昔そういう言葉がよく出てたんですよね。
私自身は乗ったことないんですけどね。
おもねるっていうと、やっぱり変な漢字がするじゃないですか。
漢字として難しい。さらすって書けないんじゃないですかね。読めはしても。
さらされたとかって言った時に、僕は要注意だってやっぱり思うんですよね。
ここは炎上案件なんですよ、ある意味では。
ここに精神分析的な場では、炎上案件っていうのは力動的になってくるんですよね。
同意以外は認めないからねっていうニュアンスが出てくる。
さっきのもそうなんですよね。
あおくさん本当にひどいんですよって言った時に、それはひどいですね、以外はほぼ炎上なんですよ。
ここにやっぱりものすごく厚んだものが、処罰感情というものがやっぱり出てきてますよね。
それ以外の回答は罰するからねってことですからね、これはね。
だから許すという意味からすると、一番遠いところにその人の感情があるところに許す持ち込むわけですよね。
だからそこには許しましょうって言って、通らない条件ってたくさんあるからアプローチもたくさんその分用意されるわけですね。
字変えるとかいろんなアプローチがあるわけです。
私が先日お話したのが攻撃されたとまさらされたみたいなのがまさにいい例なんだけど、
それはこの表現自体が罪と罰のシステムのセットになっているんで、
その表現を取ったということは罰するよっていう話が始まっているってことなんですよね。
怒られたっていうのもそうです。
怒られたというのはその段階で自分が罪を犯したか、相手が罪を犯したかに確定したんですよ。
怒られたのは私が悪ければ私が怒られたんだし、相手が悪ければ誤解で怒ったからは罪になるわけですよ。
怒られた場合の心理的距離と主体性の問題
怒られたという行為が世の中にある限りはこの罪と罰のセットっていうのが登場せざるを得なくなるんですね。
ここでカウンセリングでも絶対避けたい、報酬というのは避けたようですよ。
それはあなたの誤解ですって言ったら先生はわかってくれないんですねっていう話になって一気に炎上するわけじゃないですか。
これをしたいと思う人は多分相談受けている人でこれをしたいと思うような人はいないんですよね。
これを何らかのテクニックで使うというのはまた別の話です。
そういう流派が私は知らないけどあるのかもしれないし、それはまた全然別の話なんだけど。
気持ちの上でこれをやりたいなと思っている人はいないと思うんですよね。
これをやってもいずれにせよ自分が罰される立場に回るだけなんで、
そこがテクニックとして使われるというならば話はわかるんだけれども、
この立場にわざわざ立ちたいという人はいないんですよ。
まず全然腹立ててないから、自分がこう罰されて、まずじゃないからね、意外は。
嬉しくはないんですよね、これをやられてね。
やられる立場に立たされるというのはもうあり得ることなんですけどね。
気がついたら立たされる。これはもういわゆる上演ですよね。
都営同一化でもいいですけども。幕が上がってしまったわけですね。
舞台が始まってしまって、今度はあなた叱られ役みたいな。
ここに立たされるってことですから、それをやるってことは。
だから怒られたって話が出てきたときは案件だってことになるわけです。
ここまで分析しても多分大した意味はなくて、
ただの図式であって、いやいやでも私は怒るんですみたいになりかねないので、
怒ってるわけですからね。
私がそうだったわけですから。
怒ってはいなくても、結局怒られたと思ってたわけですよ。
そこで僕が昨日考えたっていうか、
アプローチとしてよく使ってるなと思ったのがもう一つが距離ってやつだったんですね。
心理的距離。
つまり怒られて困ってるときというのは心理的距離がほぼない。
ゼロじゃないけどゼロに等しい。
目の前にまでお母さんが来てめちゃくちゃ怒鳴りだしている。
自分一切距離なくなっちゃってますよね。
こうなってくると子供としては親のコピーのように動く以外の手はない。
これが難しいっていう問題に切り替わってしまうんですね。
時々僕は未だにこれにはもりそうになっておおーってなることがあります。
例えば皿を拭くじゃないですか。
なんでそれで拭くのって言われるわけですよ。
このようになってくると、私にはどれで拭くっていう主体性がないわけですね。
私が拭こうと思っているやつは全部ダメなので、
奥さんがこれで拭きたいという風になっている奥さんの主体と私の主体を合致させるしかないんだけど、
これが難しいわけじゃないですか。
そこでコピーのようになるっていう発想を取ってしまいそうになるわけですよ。
主体という話になった時に2つ主体があって、
合致してないと。合致してないんだけどね。
合致してないっていうことにでも気づくっていうのはここでまず1つ非常に大事なんですよ。
合致してないことに気づきさえしなかったら、そういうことはあり得るわけですよ。
自分の主体性というものを意識しないってことは起こることだから。
だけれども合致してないってことに気づいたという時は、実はもうOKなんです。
ここがわかればこの不一致という問題にそんなにことさら悩まなくて済むんですよ。
そんなに夫なのに奥さんに操縦されてるようでいいの?みたいな話をした時には、
一致の欲求と主体性の不一致
この不一致が大問題であるってことを言ってるんですよ。
言ってることになってしまうんです。
不一致は大問題ではないんですよ。
不一致が大問題って世界は今度は非常に相極的な世界を生み出す。
全く一致してるとすっごい気持ちいいよねって話じゃないですか。
それってつまり恋愛なんですよ。
恋愛の一番初期の時に起こる完全に一致している錯覚って起きますよね。
僕もそれは幸いなことに数度だけ経験したことがね。
倉田経三さんなら多分十数度は経験されてるんじゃないかと思うんですけど、
僕はまあ幸いなことに数度は経験できましたね。
あれね、多分僕のようなアプローチじゃ一生ゼロだった可能性も否定はできないんですよね。
でもこれは当時はですね、これ一生ゼロだったら死んだ方がマシだわって本気で思ってたんだけど、
そんなことは全然ないですよ。
これ何がやりたかったかっていうと、
性愛において母と私が一致していたという錯覚を抱いた頃にただ戻りたかっただけなんですよ。
恋愛というのは多くの場合、性愛と一致なるシズムがかかったものでしかないので、
なんのことはないんですよ。
私はそれを経験してるに決まってるんですよね。
これはノスタルジーの一種なんですね。
話脱線してますけど、ノスタルジーなんですよ。
私が幸せだった、母と一体だった時代、
おそらく0歳10日とかその辺、
貴重にウィニコットがバッシングされた母性による一時的没頭みたいな表現を取ったやつ。
すみません、今の表現が多分不正確です。
そうでなくてもここも炎上案件なのに不正確な表現を使っちゃう。
一時的なんとか的没頭って言うんだよね。
くれ、おきゅ、くれ、なんとか、だめだ、思い出せない。
とにかくそういう時期があるんだというふうにウィニコットは言っております。
赤ちゃんの願望と母の願望が不思議な感じで一致してしまうほど過剰なというか、
普通では起こり得ない集中的な没頭状態というのがそこに出現する。
これがなぜ当時ものすごく炎上したかというと、
非常に強いウーマンリブ的なものがあった時代だったからということになります。
そこに母親のって彼は言っちゃいました。
当時は1900、まだ戦後間もなくだから、しゃあないんじゃないかっていう気もするし、
どう考えようとも、母親の身体の中にいたのは多分、
これまでの人類の中で父親の身体の中にいましたという子はいなかったと思うので、
今後は知りませんけど、それまでの段階ではしゃあないんじゃないかって私は思うんですけどね。
母と私が一体だった時代はあったんですよ。
このムとこのマザルトに関わらず。
私は多分それに心地よさを覚えていたから。
そこに性愛を通して、僕の場合は異性とね。
性愛を通してそこに至りたいと思った時代があったわけですよ。
それが18区によく来るわけです。
これが一時なる沈むと恋愛の盗作なんですよ。
錯覚ですよね、一瞬。
そこに母親がいると思ってもいないくせに、
求めているものは自分が赤ん坊に戻った時の母親なんで。
ちなみにフジゴフジオさんなりが書く漫画のようになっていたわけじゃないですよ。
私が幼稚園児みたいにその子の前で振る舞いたいとか、
僕はそういう風にはならないんで。
そういう風ではなかったけど、
でも情緒的にはそうだってことなんですよ、これはね。
話がそれてるんだけど。
つまり、こういう二者の完全な一致みたいなものを求めていくと。
わずかなズレが当然許せなくなってくるわけです。
あるいはもうちょっと違う言い方をするならば、
目の前にまで来て圧倒されてきて、
自分の主体がことごとく否定されているように捉えてしまうと、
このズレをですね。
私はこの人の支配下に入るしかないんだろうかみたいな、
自己愛と主体性
そういう感情が芽生えてくると。
これって自立心って話なんだと僕は思うんですよね。
私は自立したいんですと。
だったら自立すればいいわけですよ。
つまりここで総的防衛になりがちなんだけど、
自立すればいいっていうのは、
だから距離を取りましょうっていう話になりやすいってことなんだけど、
そうではなくて、
合わせればいいと思うんですよね。
つまり皿の拭くのが実は紙でした。
この人が拭いてほしいから紙で拭くっていうのは、
私の主体はそこに残ると。
全然普通に。
ちょっとこみっちゃいますけど、
結局それは私の主体が完全に乗っ取られたとか、
支配下に置かれたって話にはならないと思うんですよ。
だから今私は特にそういうシーンを捉えるようにしてるんだけど、
相手が圧倒してきたら頑張るっていう。
これが精神分析でよく表現されるところの持ちこたえるって表現になると思うんですよね。
そこでこそ頑張る。
通常の人間関係の中である程度の主体性を使いながら、
ミニコット流に言うと遊ぶなんだと思うんですけど、
人の主体と自分の主体がうまいこと生産的になるように噛み合わせるというのは、
それはできますよね。
我々ぐらいのこの水準であれば。
そうではなくて、相手が明らかにパーソナルスペース的に言うと、
通常の人よりも倍も詰めてきてですね、半分に詰めてきて、
すぐ至近であれこれあれこれ言ってくると。
自分が自立してる部分がどこにもないような感じがしてきたときこそ、
上手に自立する何ていうんですかね、
甲斐があるというのかな、そういう感じがするわけじゃないですか。
すると思うんですよね。
難しくなってるってことですよ。
ウルトラシーやれみたいな話なんですよ。
だからそこで頑張ろうねってことですよね。
できないんだったら、またそれほど難しくない人とこれをやればいいと思う。
昨日話した中でですね、と思いついたんですけど、
全く逆、一番逆、つまり今の話は人の主体があまりにも入ってくるから、
自分の主体が感じられない距離だって話。
全く逆に、相手の主体が全く感じられないとなると、
私の主体しかなくなるんですよ。
そうするとそこに一切のズレがなくなるので、
私は何も感じることが実は自分の主体についてですね、
感じる必要がないから感じなくなっていくと。
この時に強烈な寂しさを感じる。
僕これが抑鬱に近い状態かなっていうふうに思います。
さっきの母親の顔色をうかがうのと全く逆で、
母親は常にニコニコしている。
ただし心の中にしかいない。
あるいはお星様になっちゃった。
これと昔ですね、
グラドノさんがGood Vibesの話の中で、
なんだっけな、カプセルだ。
カプセルの中で自分一人で生きるっていった話の中に、
面白い話が混ぜられたことがあって。
でもここに恋人だけは入れてやりたいみたいなことを
思う人がいるって話をされて、
いや、あれね、私全然わからなかったんですよね、実はね。
てか、そうじゃないな。
それとカプセル同じなんだってところに、
強い違和感を抱いたんですよ。
忘れてたけど。
なぜ私が偉大かというと、これは実に簡単で、
いや、その二人目いないんですけどみたいなことを
強く思い出したんですよね。
聞いたときはもう結婚しているし、
そういう問題で悩んでなかったんですけど、
悩んでなかったから、ああまあそうか、なるほどな、
みたいに思ってたんだけど、
でもその違和感を感じたときに、
僕が思い出した感情ってのは、
大学時代のあの一人だったときの感情なんですよね。
そのカプセルに恋人入れるとか、
そんな都合のいい話がどこにあるんだっていう。
つまり、私は二人目がいない問題でめちゃくちゃ悩んでたから、
二人目を入れるっていう発想に至りようがなかったみたいなのがあるんですよ。
その二人目を作ることが人生の全目的になってたのに、
二人目を入れるって何なの?みたいな。
なんかね、それは死後の目標を提示されたような感覚になってですね。
いやー、それができれば別にそんな悩む必要何もないじゃんみたいな、
そういうやつなんですよね。
そこにはそこの悩みがあるということは知ってたはずなんだけど、
やっぱり私はそのときの感情が色濃く残ってんだなっていうのは、
あのとき思い出したんですよ。
で、やっぱりそれはカプセルなんですね、しかし。
だから、私しかいませんって状態っていうのは、
私がいなくなっちゃうんですよ。
それぐらい私ってのはやっぱり、
他人との関係性の中で私は現れるもんだと思うんですよ。
これがなかなかですね、
母親の顔色を伺っている辛さに苛まれているずっと間はですね、
なかなかこの一人きりになりさえすれば、
私は主体性を発揮できるって思ってしまうので、
しばらくはその通りなんですよ。
しばらくは、今まであまりにもがんじがらめにされて監視されてきたから、
いや、解放されて私一人で、私こんなに自由で素晴らしいって思うんだけど、
これはまだ他人の残死が残っているからこそなんですね。
他人の残死までは一切消える間ずっとそれをやっていると今度は、
私やりたいこと何もないんですけどってことになるんですよ、人間って。
カプセルの中での自己愛
このときも私というものに頼ろうとするとですね。
そっちが僕が欲打つ状態っていう方向によく人が言っている内容なんだろうなと。
だから、世の中で打つって言っているものは、
あまりにも慢性疲労みたいなのとか過労みたいなのとか、
処理しきれない怒りがずっと溜まっているものとか、
いろんなものが全部ごっちゃになっているために、
なんかこう、普通の幅が広いなみたいな、そういう困惑を感じさせられるんですね。
ちなみに、グラドモンさんが仰っていたカプセルの中で、
空の恋人とずっとイチャイチャして過ごすみたいな、
そういうのを良子とする世界というのを自己愛的って言うんですよ、たぶん。
これもまたナルシシズムの役も自己愛になっちゃっているからわけわかんないんだけど、
いわゆる自己愛の病理って言っているのはこれだけを指すべきだと思うんですよね。
ナルシシズム全域に自己愛を投入すると、もはやチンピンカンプンになってしまう。
私がだからここで表現変えてるんですよ。
一時ナルシシズムって言ったときはナルシシズムって絶対言ってるんですよ。
一時自己愛とは絶対言いたくないんですよ。
自己愛というのは一つの病理の状態であって、
それはだんだん感じられてきたんだけど、極鬱にすっごく近いんですよね。
一見良さそうなんですよ。
カプセルの中で私だけっていう状態っていうのは、そこにまして恋人がついてくるみたいな。
私じゃイメージもできないんだけれども、実に羨ましいとしか思わないんですよね。
そこの地獄なりそこの苦しみなりが全然僕には想像ができないんですよ。
いや、できたためしかないからわからないんですよね。
いやいや、それ良さそうだなみたいな。
良さそうというのがあまりにも脳内を圧倒してしまって、
これの良くないところは、理屈ではなんとか思いつくことはできるんだけど、実感がわからないんですよね。
やってみればわかるんでしょうね。
昔からの同性を描いた大人の漫画みたいなのを読むたびに、
そこに起こっている問題っていうのが提示はされてたんだけど、ピンとこなかったですね。
津芸さんの漫画にそういうのそこそこあるんだけど、なかなかピンとこなくて、
夫婦生活を送ってみてからの夫婦生活としてこれを見ると、多少はわかるんですけどね。
そうなんですよね。これがこのカプセルだったらいいような感じが。
これはドステフスキーの悪霊という小説の中の最後の方に、
ニコライ・スタブローギンっていう人が全くこれをやろうとして、
それが実現する直前に自殺してしまって、あそこも僕は読んでて、
わからんなーって思ったんですよね。
スタブローギンはロシア人だけどもちろん、
スイスになんだかよくわかんないんだけど世話好きのスタブローギンにおそらく惚れてる女の人に手紙を送って、
二人でスイスに住もうよっていう話をして死んじゃうんですよ。
あの死に方が僕には全然理解できなかったんですよね、当時。
でもこの自己愛の病理と欲物がすごい近い位置にいるっていうのは、
今ではある意味図式を使って、図式の力を頼った上でわかる感じはしてきたんですよね。
なんでスタブローギンはあそこで死んじゃうのかっていうのも、
今読んでみるとなんとなく理解できる気が、当時は全く理解できなかったんだけど、
それがゴールじゃないの?みたいな感じがした。
ある意味そこで死んじゃうんでそれがゴールなんだけど、
なんなのかなこれはっていう風に思っていた記憶があります。
カプセルの中の孤独
ありますが、今ではなんなのかがなんとなくわかる感じがします。
結局それは別の意味で、お母さんに圧倒されて自分がないのとほとんど真逆の位置にある自分がないなんですね。
自分しかない自分がないなんですよ。
この時、多くの場合、恋人もお母さんと同じでお星様になってしまっているケースが非常に多い。
その2つ全然違うでしょって言われるかもしれませんが、
もしですね、カプセルの中に本当に2者になってしまったら、
今度はただ立ち待ちのうちにお母さんに圧倒される時の自分の無さに引きずり戻されるはずですよね、多くの場合。
時段にはギャップがあるはずだから。
全くないというなら、その相手は多分生きてないですよ。
そういう話ってSFにありました。
相手がアンドロイドなんですよ。これはすごい象徴的ですよね。
お星様と告示してますよね。アンドロイドは人じゃない。
なるほど、全然ズレがないというのか、相手は自分の思った通りに動いて行動して喋ってくれるかもしれませんけど、
手塚治虫さんもそういうのを書いてましたよね、ちらっと。
もう少しざっくり書いてましたけど。
あれだ、なんだっけ、火の鳥の2巻ですね。
地球が核戦争で滅亡してしまって1人になっちゃうやつ。
あそこの相手をしてくれている人っていうのは、全部自分で作ったものなんで、他者として存在しえないんですよね。
彼はすっごい孤独に悩んでて、あれほど孤独で恐ろしい話を書いた人はやっぱりあんまりいないですよね。
あの人すごいなって思います。何しろ、誰だっけ、まさとだっけ。
永遠に生きなきゃならない。しかも1人で。
自己愛に引きこもる状況
死ねないんですよね、彼は。しょっちゅう自殺ミスを起こしてるけど、死なないんです。
何万年と1人で生きるみたいな、そういう話。
そこで自分で作ったロボットと話し合い手になるんだけど、もちろん相手はロボットですから、
孤独感というものが一向に癒されることがない。
ああいう恐ろしい話をあの人は、さらっとではないんでしょうけど、書いてますよね。
ああいうSFって、私は何作か読んだ記憶があるような気がします。
これが多分、欲打つ的な苦しみみたいなものの、一番何か究極を漫画で描いてみせた作品みたいな気がしますね。
あれこそまさにカプセルの中ですよね。どこに行ったって人生きてる人いないわけですからね。
我々は幸い、どっちでもないので、究極的には。
今今はまさにですね、他者はいるはずなんで。
核戦争とか起きてないから、他者はいるはずなので。
このリアクを楽しめばいいんですよね、結論的には。
許せばいいっていうのも結局、一番わりとシビアなケースの話だと思うんですよ。
許す許さないが問題になるというか。
とりあえず楽しむということが通常は行われているはずで、そこに焦点絞っていけばいいんじゃないかなという感じがします。
いずれにしても噛み合わないというかズレがないと、自己感覚ってそこに芽生えないんですよ。
許せないって時はある意味その人の自己は最大化してるじゃないですか。
ギャップに苦しむってことは自分がある意味出てきているっていう話なんだと思うんですよね。
それをもって自分があるとは言い切れないけど、少なくとも皿のしまい方が違うっていうことは、
違う皿のしまい方を私はしたかったってことになるんで、そこに私ってものが現れているわけですよ。
怒られた時は最近本当に思うんですよね。怒られたと感じた時。
ネガティブな気分になった時は私というものは明らかに向上してきている。
いないんだったら腹立たないですよね、全然。
いないんだったら悲しくなったり苦しくなったりはしないんですよ、私ってものがいないんだったら。
一番やっぱり問題なのが、相手と私が完全に同調してしまっている錯覚っていうものにはまろうと頑張って、
どんなそこも全部が苦しみになるっていうのが、たぶん一番人間関係が初歩的につまずいている部分なのです。
多くの場合こんな状態を出しているので、よくあるのが関係性そのものに罪を見ているというやつです。
この相性が悪いんだみたいだね。
それ言い出すとやっぱり総的防衛になっちゃうわけですよ。
相性が悪いんだからここで関係結ばないほうがいいよねって話になる。
そうではないと思うんです。
せっかくそこに人がいるおかげで自分というものが現れてきているんだから、
そこで楽しむという、遊ぶというのかな、スタイルを編み出せばいいんですよ。
これも結局今ここでしかできないと思うんです。
どういう遊びをすれば一番楽しめるのか、過去のデータから引きずり出すっておかしな話だと思うんですよね。
子供は何かを遊ぶとき、あんまりそういうやり方はしないと思うんですよ。
その場でその時使用ですよね。
ユーズですね。ユーズできるものをかき集めて遊びを喪失するんですよ。
それが一番自分というものがうまく活かされているスタイルなんじゃないかなと思います。
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