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おはようございます。Q100日セラピー第1046回、です。
9月の2日、月曜日、7時56分です。
とうとうですね、夏休みが終わりまして、私のオペレーションもまた元に戻ります。
私の感覚では大きく変わる感じで、
何しろ朝10時ぐらいまで寝てたのに、いきなり今日5時半ですからね。
この激変ぶりが、やっぱり夏休みだなぁって感じが。
明らかに夏休み中の方が自分の生活としては正常に近いと思うんで、
時間が増えるっていうのがですね、早起きすれば本当に嘘くさいなって思うんですよ。
夏休み中の方がよほどいろんなことがやれていて、この時間に起きるとですね、
全くやれなくなることが、例えば昨日まではノート書いてたけど、
今日から書けるかっていうのがすごい疑わしい気がする。
時間だけは3時間ぐらい増えてるけど、書ける気が全くしないんですよね、今のこの朦朧とした感じでは。
昨日ぐらいな感じならば、もう全然余裕で書けますからね。
非常に早起きって何なんだろうなって感じがしますね。
なんか気分だけがいいような気がする。
前向きになった気持ちだけがするっていう、この気持ち全く役に立たないなって私は思いますけど、
これは人によるとも思うんですけどね。
お知らせも、そろそろ本格的にお知らせしないと。
9月に入りましたもんね。
9月の15日に逆算せずに締め切りに間に合わせるタスクシュート時間です。
今日ちょっとタスクシュートの話を久しぶりにしてみようかなと。
だんだん組織化されているタスクシュートの話と、私がノラカウンセリング的にしている話との開きが出てきましたね。
タスクシュートのノートとかで書いたり、ゆたかじんってところで寄稿してるんですけど、5倍から6倍読者いらっしゃいますね。
こちらもタスクシュートが一番絡まないと聞く人の数が圧倒的に少なくて、
これも5、6倍の差がついてますね。
これは組織力というものが半端なく実感させられておりますね。
まあいいや、15日にそういうのをやります。
22日にタスクシュート手帳述の会、こちらがまだお申し込みがほぼない段階で、
22日日曜日に渋谷でやりますので、こちらぜひお願いしたいと思っております。
03:06
あまり心配はしてないんですけれども、
こちらですね、会場が結構ちゃんとしたところなので、
あの会場に関係者しかいないというのはちょっともったいないにもほどがあるし、
これを続けていると続けられなくなってしまうので、
ぜひこちらは、私はいりますけれども、なるべく前面に立つのはやめにいたしまして、
ファシリテーション、ライトニングトーク、冒頭のレクチャーからすべて認定トレーナーの、
もうどちらかというと私なんかがしゃべるより全然、
なんていうのかな、肝入りの話が聞かれると思いますので、
私も聞かれれば何でも話しますけれども、
手帳は使ってませんか?
タスクシュートクラウド2を手帳化しているので、
手帳というものがどういうふうに機能していくっていうのは意識として入ってますんでね、
そういう話も少しかできたらいいなと思っておりますから、よろしくお願いします。
タスクシュート手帳術の第4回ですね。
だんだん成長になってきてるんで、
次回も多分いけるだろうと、
飛行もいいですしね、
多分今なんかよりは全然、
台風とかそうか台風とかはちょっともうこれはしょうがないとは思うんですけど、
わかんないですからね、今回も全然わからなかった感じの話だったんで、
これさえなければちゃんといけるだろうと思っております。
14時から渋谷ですね。
よろしくお願いします。
オンラインもあります。
それではですね、
今日はその読者様が、
もしかするとこれは視聴者か、
視聴者さんが期待されているかもしれないタスクシュートネタで、
久しぶりに、
ネタタスクシュートなのか疑わしいんだけど、
タスクシュート出しますという感じの回に、
久しぶりに、
これは聞いて逆にがっかりされるという方もね、
いらっしゃるかもしれませんが、
私の中では統一感ないわけじゃないんで、
それだけ僕が統一感のない活動をしているとも言えますが、
まあまあ、
ケアってことをちょっと念頭に置きながらタスクシュートの話、
だからまあ混ざっているんですよ。
で、
タスクシュートなどというのは、
まあ方法論でもあればツールでもありますが、
基本的にはものすごくガッチガチに固まっている方法論ではありませんから、
プランログルーチンがサイクルとして回るというのがコアに置いてますけれどもね、
まあある意味それだけを言うならば、
何とでも取れるとも言えるんですよね。
まああれなんですよ、
そうそう、
最近山崎隆明さんの当事者と専門家という本を読んだんですけど、
まあ相変わらずですね、
これは3字なんですけどね、
ターゲット読者がだんだん読むうちにわからなくなっていく本なんですよ。
06:02
まあターゲット読者がカチッと決まっている本ほど、
私は面白みがなくなっていくというか、
だんだん著者がですね、
なんかこう、
熱量が冷めていくように思うんですよね。
山崎さんの本のいいところは熱量が全く落ちない、
あんなに大分でややこしいことを書いているのに、
熱量は断続的に高いっていうね、
これはやっぱりターゲット読者がわかりにくくなっていくことと深い関係がある話なんですが、
ターゲット読者がすごくはっきりしていて、
これはもう間違いなくこの人たちのために書いたものだっていうのは、
だいたい著者の熱量は書けば書くほど下がっていく。
だってそれはもう明らかじゃないですか。
例えばできるExcelなどという本はなかなかね、
最高度の熱量を最後まで維持する本なんですよね。
書く人は何を書けばいいのかも、
書く人は何を書けばいいのかじゃなくて、
もう書くことはあまりにも決まっていて、
ターゲットもあまりにもはっきりしているんで、
説得せねばとかね、
そういう熱量を維持する理由がどこにもないですよね。
分からせてあげなきゃっていうのがあるかもしれないけど、
そのためにやらなければならないことはもう、
あまりにも明々白々な本で、
熱量を高く維持するのは著者には非常に難しいことに決まっております。
だから私もできるタスクシュートなどという本を書こうとは、
さらさら思わないわけですね。
伝わりにくい話を伝えようとしてこそ、
モチベーションというのは高く維持しなければならない理由があるわけで、
逆はないと思うんですよね。
まあそれはそれとして、
そういうわけで山崎さんの今回の本も熱量が高く、
ターゲット読者がよくわからなくなっていくいい本なわけですよ。
批判的な意味は全くありませんから、
必ずこうなるものなので。
非常に面白い小説ってのはそうですよね。
熱量と、著者の熱量が高くない非常に面白い小説って私は一つも知らないんですけれども、
ドストエフスキーとかね、面白いですよ。
カナン・マゾフの兄弟とか悪霊とか。
悪霊は私が一番面白いと思うんだけど、
悪霊、ターゲット読者って何よっていう感じじゃないですか。
あれは日本人がターゲットになってるはずがないわけでして、
日本人も読むけど、
間違いなくあの時代のロシアを生きた人がターゲット読者なんだけど、
全くターゲットとしない人が読んでも面白いが、
なぜ私が読んでも面白いのかの説明はとても分かりにくいですよね。
やっぱりターゲット読者ってものではないからですよ、私がね。
でもそういう読者も読者。
山崎さんの本も、私がターゲットでないことは明らかなんですよね。
多少ノラカウンセラーみたいなのも入ってくることが、
多少は想定されてるかもですけど、
基本的には違いますよね。
だからそういうわけで、
なんでこの話を今してるかというと、
タスクシュートっていうものもですね、
あの本の中でいうところの純金コンプレックスにはまりやすいんですよ。
09:02
純金という考え方はですね、精神分析を指してるんだけど、
純金と合金って言うんですよね。
要するに本物と偽物って言いたいわけでしょうね、フロイト的には。
このコンプレックスが邪魔だと。
端的に言ってしまうと、これはすごい、
あまりにもざっくり引用なんで、
原点に当たってくれってやつなんですけれども、
要はどこが純金だって言ってるわけですよ、ある意味。
山崎さんもですね、一面ではですね。
精神分析に最大公約数はないっていう表現を取っていて、
これはもう思い切っていて、
私のような部外者にはこのようなことは言えないわけですが、
タスク管理だったらなんとなく言えるんですよ。
タスク管理に最大公約数になってないよっていう話ですね。
そして、純金を求めるというのはつまらないことだよね、
っていうことでもある意味あるわけです。
ただ、このコンプレックスはそうは言っても、
全ての人が無縁ではいられない。
どこかで純金コンプレックスで持つことになってしまうわけですね。
結局、逸脱をどこまでしていいのかっていう話ですね。
プランログルーチンに沿ってるっていう人が、
そんなことを気にすることはないんですけれども、
例えばタスク集団を、
例えばですけどね、
Excelで下の行から書いていくとか、
これはやっぱりタスク集団としてはおかしくなるでしょうっていう、
そういう話なんですね。
あるいはそうだな、なんだろうな、
ひたすら明日のプランだけを作っていくタスク集団とかね、
逸脱っていう、逸脱のレベルを超えてしまっている感じがする。
そういう話ですね。
だから精神分析も結局何を持って精神分析というのか、
これがだから何が精神分析の純金かって問いに、
どうしてもなっていかざるを得ないわけですけど、
だって何を持ってっていうからには何かを参照してるわけですから、
それは精神分析ではないよっていうならもう、
フロイトの知ったことじゃないわけですけれども、
これは精神分析なんですと言っておきながら、
例えばそうだな、ひたすら何でもいいんですけどね、
仏教の本を読ませるとか、
いやそれは精神分析じゃないだろうっていうね、
聞いた話なんですけれども、
例えば認知行動療法だって、
これは何にだって当てはまる話なんですよ。
認知行動療法ですと言って、
いかにも認知行動療法なことをするつもりでいるのかもしれないけど、
例えばクライアントさんに、
じゃあクライアントさんこの認知行動療法の教科書ですから、
一人で朗読しましょうみたいな、
それ認知行動療法じゃないでしょっていう風に、
それこそ野良である私にもそうだよなと思うわけですよね。
それも認知行動療法なんですって言われると分かんないけど、
ここで純度っていう問題が問われてくるわけですよ。
その人が資格を持ってるとますますですよね。
よく分からなくなってくる。
何が純金なんだろう。
ユーザーさんは逃げると思うんですけど、
12:02
それでは分かんないですけど。
野良にはそもそも純金なんてないわけですよ。
つまみ食いしかないわけだけど、
山崎さんが私たちだってつまみ食いをやってるんだよっていうことを
専門家として書かれる。
この辺がですね、あの本の読ませどころなんですよね。
そのつまみ食いの実例っていうんですかね。
実例っていうんですかね。
それはつまみ食いの実例なんだろうかって
我々は読んでて思っちゃうんだけれども、
実例として示されていくと、
ある種の人はある意味ほっとするだろうし、
ある種の人はイラッとするかもしれませんよね。
そういうことがありますと。
タスクシュートっていうのはですね、
私はそれに比べれば純金度っていうのは
そんなに問われなくていいのかなと。
ただやっぱり全く問わないわけにもいかないよねっていうのは
さっき言った下からやるとか、
明日のことだけやるとか、
あるいはそうだな、現在のことは無視するとかね。
そういういかにもタスクシュートでなさそうな
タスクシュートを使っていても
困っちゃうよねっていうことではあります。
私は境界内の人間だからね。
外の人間なら知ったことじゃないんですけどね、やっぱりね。
だから例えばこれがGTDの純金度、
あれも純金度が高そうですよね。
純金度が高いとどういうことが起こるかというと
GTDライクとかGTD的とか
GTDっぽいとかいう言葉がどんどん出てくるはずなんですよ。
みんな純金かどうかについて不安になってくるから。
つまり私は本当のGTDをやっているんだろうか
っていう問いが呪文されてくる。
これらの人たちは大体において非常に良心的なので
あんまり心配しなくていいんですよ。
そうでなくて全然そういうことではなくてね。
私はまさにGTDをやってるんですと言いながら
もう洗い出しはしないわ、整理もしないわ、
レビューもしませんっていう方を警戒してるわけですよ。
GTDだと人たちだってきっとね。
僕はそう思うんですけどね。
ここをどのぐらいポリスが厳しく取り締まるか
っていう問題ももちろん出てきます。
だから純金とフロイトが言ったのは
まさにそういう気持ちをよくよく表して
それは精神無敵じゃないねと
フロイトが言いたいケースは山のようにあったんでしょうね。
当時のウィンでも。
だから今でもやっぱりそのGTDライクって言葉と
よく似た精神分析的心理療法という
的がついちゃうわけね。
GTD的っていうのも
それこそIT系のマガジンみたいな
オンラインマガジンみたいなものでも
GTD的って表現
昔はタラフく出てきてましたね。
これやっぱり純度が高そうなものほど
やってる人はそれを本当にやっているのかどうか
というものについて不安になる。
不安になるような人は
大体やってるんですけどねっていう
でもそれだけでは
なんて言うんだろうな
食わけが難しいので
食わけはもともと難しいし
本当は不可能なんですけれども
15:00
それでもその種の
だからこそですね
その種の純金合金問題というのは起きる。
このことを当事者と専門家
まさにそうですよね。
まさにこれこそ正しいタイトルだって思うんですよ。
当事者と専門家
別の言い方をするとGTDに寄せて言うなら
タスクシュートに寄せてもいいですけど
ユーザーとオリジナルですよね。
ユーザーとオリジナルですね。
オリジナルこそ専門家じゃないですか。
オリジナルを学んでるから専門家ですよね。
でもユーザーというのは
現に使っている人なんだから
専門家がそこにとやかく言い過ぎるのは
やっぱおかしいわけですよ。
バリバリタスクシュート使っていただいて
仕事してるのに
整理とかをやってるのに
あなたはそれはタスクシュートじゃありませんよ
って僕が横から口を挟むというのは
本当は少しおかしいわけですよ。
そんなことを言われればユーザーの方は
別に構いませんよ。
私これでうまくやってるんですからって
言い返されるに決まっているわけで
それに対してさらに私が
でもタスクシュートは正しく使わないと
有効な作用をなさないんですって言ったら
いかにも余計なお世話じゃないですか。
この種のことは起こるってことですよね。
精神分析やりましたと。
そしたら体調も良くなったし
心身ともに健康になりましたって言って
横からフロイトみたいな人が出てきて
あなたのそれは精神分析でありません
って呼んでたら
別に精神分析じゃなくてもいいよって
答えるかもしれないんだけど
でもそこで負けずにね
精神分析をちゃんとやっておかないと
後々嫌な面に会うんですよって言われたら
どうかってことですよね。
だから当事者と専門家の問題
でもあるわけですね。
しかも正式にやってきた精神分析って
すげー難しくて大変だから
週に4回もやって
1回1万円相当だったら
月に20万ぐらいかかって
1年もやったら
200万とか突破していくわけじゃないですか
そうしないと精神分析じゃないですって言われたら
だから日本では精神分析的
心理療法になったみたいな
精神分析というのは
精神分析というのは
精神分析的心理療法になったみたいな
そういう話が出てくると
純金と合金みたいな
どう考えてもこれは純金ではないわけですが
本当にそれじゃダメなのか
っていう話も当然出てきます。
そして
結局もともと
認知行動療法は
創始者が
ハバダ・エリスとかベックさんとか
そういう方々だったわけですけど
彼らだってもともとは精神分析家だったわけですよ
このやり方
ちょっと手間も暇もかかりすぎるし
だいたい何目指してるのか
分かりすぎにくくない?
っていうことで
もっと直接問題に焦点を当てて
行動を変えていくみたいな
あるいは考え方を改めるっていうのをやる
しかもそのために
週に月曜日だけに
2時からとかに確定しないようにする
っていう融通を効かせると
そうすると変わるわけですよね
純金側からすると
変質だってことになりますよね
劣化版だってことになりますよね
18:01
でもだからもういいですって言って
名前を変えるわけですね
認知療法にしますと
精神分析とか言うのはやめますと
だいたいそんなこと言わなくたっていいじゃん
ってことになって
認知コード療法の方がでかくなってみると
精神分析とか暴流になっちゃうわけですよ
純金が暴流になるんですね
こういう話を書いている
でちょっと
逸脱が長いのが
このホットキャストの特徴ですけど
タスクシュートでですね
私が
なんで僕が精神分析に
接続したのかという
それこそ流れてしまったのか
という人もいる
だからイラッとする人もいれば
楽しむ方もいらっしゃるだろうな
と思いながら喋ってるわけですけど
けれどもね
タスクシュートっていうのは
まず
ある種すごくカウンセリング的に
機能するなって
思ったんですね
これは本流のいうことではないですよ
出てきませんからね
そういうものはマスター講座とかベーシック講座とか
最近あるんだけど
出てきませんから
なぜカウンセリング的に機能するかというと
ケア的な側面があるからだと思うんですね
つまり
あなたは今のままでいいんです
っていうメッセージが
使いようによっては
タスクシュート自体メッセージは何も発しませんけれども
発生し始めるっていうか
そういうメッセージを
汲み取ることは少なくともできると思う
つまりあなたは
ちゃんとやってるんですってことですね
このちゃんとやってると
あるがままでいいっていうのは
同じじゃないんだけど
タイムマネジメントとか
タスク管理の文脈で言えば
ごくごく近い関係にあると思うんですよ
あなたはルーチンちゃんと
回していて
日課もこなしていて
日々の家事もやっていて
実績的にはできてないかもしれないけど
とにかくやってないわけではなくて
何よりも生きるための最低限の活動は回していますし
なんなら仕事だってしてるじゃないですか
これで
大量に残ってしまった
先送り事項
もしかしたら100項目ぐらいあるかもしれないけど
それはそういう項目を
用意しているというところに
無理があるのであって
あなたはそのままで大丈夫なんですって
このメッセージはヘア的なんですよ
それは
例えば教育虐待とかが
最近話題ですけれども
お前東大に入るために死ぬほど
勉強しろみたいなことをずっと言われている子どもが
あなたは別に
そんなに勉強しなくたって
あなたはあなたのままで十分いいんだから
っていうのはケア的に
まずそういうのやるわけじゃないですか
そういうのやらないまま
お前のその偏差値をあと
50高くしなければ
お前はもう生きている価値はないみたいなことを
ずっと言われ続けるのは
誰が考えたってですね
そうしてほとんど半死の状態になっている
子どもっていうのが
世の中にはちゃんといらっしゃっていて
そこはケアする
ってことになる
セラピーをするよりまずケアするって話
21:01
一番最初にやり
一番過激にっていうのかな
ある程度過激にやるやり方だと
そういう親元から引き離すみたいな感じで
親戚の家に行って
よく言うところのいわゆる
安心安全な環境に
その子を置くっていうことですよね
これはケアですよね
この部分が
タスクシュートにははっきりあると
僕は思うんですね
そういう使い方をすればね
さっきの教育が虐待的な使い方もできちゃうんですけれども
上手いことっていうのは
タスクシュートっていうのはちゃんと回していれば
そういう自分に対して
過剰な無理というものが
自然と排除されるようにできているんですよ
と僕は思ってるんですね
なぜならルーチンが
回転していかないか
さっき言ったタスクシュートサイクルってのが
回り続けるってことは
回し続けることが本人主体ですね
ユーザー主体にできるという
話になってるはずなので
だから無理せずともできることは
無理せずともルーチンになり
無理せずともプランとして
意味を成しているから
それはログってことはやったってことですからね
そういう流れが
自然とできる
だからこの流れの中で
ケアを受け入れていく
ケアってのは最初は受け入れがたいものですから
教育の虐待みたいなのを受けている人は
基本洗脳されてますから
東大に行かなければ
私は生きる価値はないんだ
っていう宗教みたいなところにはまっているんで
同じように
ルーチンというのもそうなんですよ
自分に無理なプランを課す
だって勉強勉強勉強勉強で書いてあったら
それはプランじゃないですか
そしてこれをしない自分は
生きる価値はないんだって信じていたら
それは完全に
宗教みたいなものになるじゃないですか
朝3時に起きるとかね
そしてすぐ勉強するとか
そういう風にタスクシュートに書くことも
できないわけではないわけですから
ただしタスクシュートに書いても
できないことはできない
だからケアとして機能する
はずなんですね
ここのところにちょっとした
価値観の差ってものが
当然現れるわけですけれども
私はでもタスクシュートっていうものが
教育虐待みたいなものとしては
機能しないように
自然できていると思うんですよ
一つはそれがログにならないから
従ってルーチンとして回っていかない
っていうのがあるんだけど
もう一つは
あれはスケジューラーとしての機能は
タスクによって阻まれるように
できていますから
朝3時に起きるって言っても
朝3時に起きられないように
6時間の睡眠を
取りましたという
ログが
そのプランを阻む
少なくとも阻む圧をかけていく
24時間に収まらないとか
この時間までにはそのタスクは
前のタスクは終わらないはずである
っていうことを
なんて言うんですかね
そういう力度はかからないんだけど
ツールだから
でもそういう圧が感じられるはずなんですよね
ちゃんと使っていれば
毎日自分は6時間は寝るとか
24:01
毎日これだけの活動はするとか
いうことになると
3時には起きられないっていうのは
自然と3時にどうしても起きたければ
無理やり全てを前に倒さなければ
できないってことになり
しかも多くのタスクを実際は削らなければ
できないってことになるはずなんですね
ただこれが受け入れられない
ってことになるんだけど
それはある意味
洗脳されてるお子さんだって同じですよ
いくら
あなたあるがままでもよくて
友達もいろいろいて
でも十分魅力的で生きていく
価値はあるんだって言われても
いや自分は偏差値が
まだ78に達してないから
生きる価値はないんだって信じている子には
一発で言われたまんまのことが
受け入れられるはずはないですよね
親の価値観をそのまんま受け入れる
そのまんま受け入れようと
頑張るっていう方向に
向かってしまうと内在化みたいな
話ですけれども
インストールされちゃう
されちゃってるという
正しい話があるわけですよ
だからケアというのは
言われてすぐに受け入れられるってものではなくて
ケアを受け入れるという
フェーズがまずあるはずなんですね
で、こっちが先なんですよ
何をするにおいてもね
マスクシュートでもそう
こっちが先なんです
まず受け入れるってのが先なんですよ
で、変わりたければ
そっから変わるってことなんですね
よく言うところの
変わらなくていいのかみたいな話は
そもそも私はですね
ほとんど
今言う私が
コミットしている人が
少なくとも成人だし
3ヶ月チャレンジしても未成年は
残念ながら
ご参加いただけませんって
なってますけど
未成年の人の場合成長動機というのが
強くてもしょうがないじゃないですか
ある意味しょうがないというのも変だけど
自立と変化っていう
話になってくる
5を超えて
むやみに自立と変化
変化をそこまでしようしよう
っていう
フェーズじゃないと思うんです
まして30過ぎていったら
変化というものには
副反応と言いますか
コストがでかい
ので、まず受け入れるっていうのを
強く
自分に
ある意味では
ケアというもの
ケアにはそういう矛盾があるんですよ
あなたは変わり
すごい本人が変わりたいと
あらゆる意味で成長したいと言ってる人に
あなたはあるがままでいいんです
って言われて混乱するわけですよね
あるがままであるよ
あるがままでいい私という風に
変えたい私を変えよう
みたいになっていくわけですよ
変わりたいと思ってるそれが良くないって言うんだから
変わりたいと思っている私を
変わらなくていいんだという私に変えよう
って話になるわけですね
この矛盾は常に
付きまとうんですよ
タスクシュートのような話をしていても
ましてタスクシュートって変わるためのツールに
見えやすいの
27:01
私は実際にはそうだ
そう思い続けているっていうのは
どっかで使っていないんだと思うんですよ
プラントログとルーチンを
随時真剣に
眺めていれば
少なくともこれを変わるためのツールだ
って思い続けるのは難しいと思うんですね
変わるためのツールっていうのは
変わることは何でも良しとする
っていう話になりやすいんですよね
本来そんなはずはないんだけど
例えば変わることを
何でも良しとするっていう言い方をしていくと
でも昔本当にそういう本が
普通にベストヘラになっていたから
不思議ですけどね3時間しか寝ないとかね
それは
何でもできるっていう話じゃないですか
極端に言うと寝なくて食べなくて
出すものを出さなくても
生きていけるっていう話になりかねないわけですよ
要するにそれはただの
自己虐待みたいな話ですけど
そういう風にしか
ならなくなっていく
でもそれはタスクシュートとは
別に関係ないというか
どっちかというとタスクシュート的では
ないと思うんですよね
変革をひたすら目指すんであれば
なんて言うんだろうな
ルーチンという概念は
ほぼなかったかなって思うんですよ
むしろ
何か成長曲線を描くために
ひたすら
トレーニングを積み上げて
いくようなものを
もっとたやすく表現する
例えば
全く同じことを繰り返すんではなくて
同じことを1分ずつ短く
やろうと思えばできますからね
あらゆる
1分ずつ減らしていく
見積もり時間で
だから最後は食事とかも1秒とかでやらなくなるわけですよ
つまりやらなくて済むようになる
ってことですよね
こういう風に作ることだって
エクセルなんだからベースが
できなくはなかったと思うんですよ
でもそうなってないということは
私はあるがままでいいっていう
メッセージがどっかで発されることになってる
と思うんですよ
特に50
40だな
40過ぎてから変えるとなるんだったら
よほどの
何かがいると思いますよね
だって40年で積み重ねてきた
あるがままの自分を
今さら数年で
変えようってわけですよね
多分40年かけて変えようってわけじゃないと思うんですよ
40年かけて積み上げてきた自分を
40年かけて
割とちょっと
痩せ方ですみたいな人が
あと40年かけて肥満型になろうみたいな
あるいはもうちょっと
もうちょっと違う話にしよう
40年かけて僕みたいな
ヒョロヒョロ型の人間がですね
あと40年かけて筋トレしてバリバリの
80歳の老人になろうと
ムキムキのマッチョになろうって思ってるわけじゃないと思うんですよ
やるなら数年でしょ
できれば1年とかでしょ
40年かけた体型を1年で変えようってわけですよ
だからここに
コストがかかるのは当然じゃないですか
しかも
10代20代は自然と身体の形が
変わるようにできていますけれども
40っていうのは
ほっといて身体は少なくとも
30:01
成長曲線は描きませんよね
だからそこは無理やりやるしかないんですよ
どっかで
こういうことが身体だとまあ見えやすいですけど
それでもやる人はやりますが
語学学習とかね
40年かけて日本語1本でやってきた人が
数年でバイリンガルになろうっていうのは
そもそも無理が結構ありそうじゃないですか
10代で英語習ってるのとは
話が違うわけですよ
こういうことがですね
全部
関係があると思うんですよね
だからケアとセラピーって言うんですよね
セラピーはどっか変わるっていうものを
目指すからセラピーなんですよ
ケアには限界がある
ただし
私は
神経症水準で中年の人には
セラピーというものは
つまり緊急事態に近いところで
おすすめすると思うんですね
だから3ヶ月チャレンジで
やってるところにタスクシュートが
ほぼ出てこないのは
僕はタスクシュートは原則ケアの
ケアマネジメントだと信じているから
なんですよ
あれを成長動機に使おうと思うならば
あれ1本でやる
やるとすると
時間をかける必要が相当あるし
そうでなくても
時間をかける必要がある
3ヶ月セラピーチャレンジって言葉の
100日チャレンジでもいいんですけどね
違いますけどね
2つでやってることは全然
でも100日3ヶ月ってのは
僕はミニマムだなと思います
100日3ヶ月で
変わるっていうのはですね
変わる取っ掛かりを得る
っていう段階ですよね
だって何年かかって
自分を作ってきたかと思えば
365日かける
10年でも3000日以上
それを散歩したら
1万日を100日で変えよう
っていう話をするんだったら
やっぱりそこには
何かに相当
力をかけていかなければならない
これをやるのが
精神の方向からやるのが
セラピーで
カウンセリングなんですよ
だからやっぱあれですよね
精神分析では毎日やるわけですよね
ほぼ毎日
もともと週5だったから
ほぼ毎日
毎日やるってことはよっぽど
変わりたい動機があるわけで
さすがにその精神分析で
あるがままの自分を認めてあげましょう
ではないと思うんですよ
そうだとしてもあるがままの自分は
全く認められませんって人がやってくる
はずなんですよね
そこが変わるってことになるわけです
で私はそれを
ツール1本でやろうっていうのは
難しいと思うんで
でもタスクシュートは
そこに踏み込みつつあるツールだとは
思ってるわけです私はね
ケアをベースに置く
何しろまずケアを
終わらせてから
ある意味セラピーに取り掛かる
その順序は今ではカウンセリングでは
多分大筋コンセンサスの得られている
順序だともあらゆる
セラピーがとは言いませんけれども
ほとんどの場合そうだと思うんですね
33:00
まずケアマネジメントから
入る特に子供とかの
場合はそうであるっていう
あの私が留学中に学んだ
クライシスインターベンション
危機介入ってのはまさにそれで
もう今のままだと
死んじゃいかねないから
まず引き離すアメリカではそれは
すっごい難しいことですからライバシーが
もう超絶厳しい
家に入ってくんなの世界なんで
入ってきたら打っていいみたいなところが
ある文化の中で
それでも家に入ってって
あなたの元にこの人がいてはまずいから
って言って引き離すこれはケアですよね
緊急避難的な
ケアですね
あなたは今のままで
死んだりしなくていいんだとか
今のままで殴られたりしなくていいんだとか
今のままでも防衛はかれなくていいんだ
とかいうところから始めるわけですよ
それは極端
ですけどでもタスクシュート
みたいなものを僕やっぱり
去年付き合ってきて
思うのは自分に暴言吐く人は
いっぱいいらっしゃるんですよね
自分がダメ人間だみたいなことを
言ってその暴言っていうのは
暴言でなくてもですね
そういうふうに攻め立てるっていうのは
人に向かっても相当人に
ダメージを与えられるんだから
自分に向かってやるときは容赦ないんで人は
すごい攻撃力があるわけ
ですよ
だからそこでケアしないと
まずいわけですよねでこのケア
難しいわけですこの攻撃を
やめるってことを意味するんで
そのためにログってものがあるわけですよ
毎日これで少なくとも
死んでないよねとここを
最大限あの
認めてあげましょうってことですよ
どういう生活スタイルになって
いてもどういう
QOLがどうであろうとも
死んでないよねと死んだら
ゼロじゃないですかQOLなどという
ものはそういう言い方をするなら
だから死んでるのとそうでない
のとじゃえらい違いなんで
ここをまずマックスに
してあげましょうとしばらく
ここだけ見ましょうねっていう話なん
ですねここを
固めないことには先へは
進めませんみたいな
そういう部分が
私はタスクシューズにはあると思って
いるわけですねそしてそれは
ですねそれならライフログだけで
いいではないですかっていう話があるんですけど
その辺の話は僕は
9月15日にしたいんですけどね
ライフログだけではだめなんですよ
なんでか
なんでケアが必要か
それは自分に無理を貸すから
最初も言いましたけど東大に入らなきゃ
生きてる価値はないんだって
言ってる人にそうじゃないんです
あなたは地元の公立大学でも
素晴らしいんですっていうのを
受け入れてもらうにはやっぱり
自分が何を自分に貸しているのか
までセットで考えないと
直ちになんて受け入れられないじゃないですか
だから
自分がどんなに無理をしようとしているのか
っていうのをセットで考えないと
そこがライフログだけだと無くなっちゃうから
やっぱりプランはいるんですよね
このプランが実行されない
という形でのプランが
目に見える必要があると思うんですよ
36:00
もう15日に
言うべきことを結構言っちゃってるねっていう
感じがしますね
この後にセラピーが来る
来るとすればね
そしてそれはただ年齢が上がるにつれて
本来不要であろうと
元々僕は年齢が
若年層だとしてもそんなにはいらないって
信じている方ですけども
だからここには価値観がありますが
変わるっていうなら
こっから後の話ですね
セラピーというのは結局変わるための
ある意味ものではありますから
カウンセリングは精神分析も
だけれどもどう変わるか
っていうのは割と
その人その人で違うし
少なくとも自分がタスクシュートに
書いたタスクシュートでなくてもいいけど
書いた通りに実行するとか
自分がやろうとしたことは
全部やれるとか
自分がやろうとした通りのことができるとか
そういった話じゃありえないと思います
ケアの前提からして
ケアとセラピーがそういうふうに真逆
向いちゃダメだと思うんですよ
90度ぐらい違う方向になる
かもしれないけども
180度ずれてたら多分
分裂を
自分に招くだけ
だと思いますね
それから
ノートに昨日書いた話でもありますけど
ついつい
家のお金を多分あれは夫の金を
ってことなんですけど使い込みまくる
奥さんの話が出てきますね
それはいらないものを
自分がいらないものは
一切やらないっていう
無駄なことは基本的に
無駄なものは買わないとか
そういう方いらっしゃるじゃないですか
サブスクとかでも無駄をとことん被くとか
有料のものにはとことん
手を出さないとかそういう話って
しょっちゅう出てきますけども
そういうことをすると
無駄遣いがしたくなるんですよ
だからまずいるのは
セラピーじゃなくてケアなんですよ
でも使い込みますって
言ってる人は基本的にまず
セラピーって考えちゃうわけですよね
なぜならそれは犯罪的だとか
病的だってやっぱ本人が思うから
このコード変えなきゃということで
行動両方に向かう
と思うんですよ
使い込まないように
使い込んだら自分にムチ打つみたいな
ムチは打たないにしても
ある種のペナルティをかわすとか
あるいは使い込まなかったら毎日
自分にご褒美を与えるとか
そういう風に従うんだけれども
そもそもその無駄なものは
一切排除したいという
その気持ちと
そんなに使い込んでるのに
いろんな話がここには複雑に絡むんですよね
そもそも何でそんなに使い込みたいのか
そんなに使い込んでるのに
無限も停さないとか
むしろ多くの金を稼いで
無駄遣い分も夫が補填してくれるとか
すげえいい夫じゃんって
思うかもしれないけど
めっちゃ寂しいじゃないですか
ある意味では
そういう風な寂しい
お金は使えるんだけど寂しい生き方を
例えば子供の時からもしている子っていうのは
無駄遣いしたくなるんですよ
どうしたって
親に振り向いてほしいじゃないですか
39:00
なんならば銀行口座分
全部使うとかね
それでも親が何も言わず
そうなのって言ってまたお小遣いくれるとか
めちゃくちゃ寂しいじゃないですか
こういう話が絡んできている
っていうのがやっぱり
すごく分析的だなって思うんですよ
こういうのは
あるがままの私を受け入れましょう
っていうわけにいかないですよね
あるがままにどんどん使い込みましょうでは
寂しさ全然解消されません
やっぱり変わりたいということになりますよね
でも変わりたい
変わりたいという風に思うためには
あるがままの自分っていうのは
何らかの形で
すごい寂しいんだっていうのは
まず受け入れないと始まらないですよね
この辺に
あるがままの自分を受け入れる
っていうことは
そもそも変わろうとしていることと
すごく
切っても切れない関係にあって
ケアとセラピーを切っても切れない関係にあって
そして
そのことを自覚するってことが
自分が一番嫌なことなんだっていうのを
受け入れるしかないんですよ
きっと
結局
自分は寂しいということを受け入れたくないんですよ
だからその寂しい
みたいな感情を切り捨てる
無駄なものを買わない
無駄なものを排除するっていうのと同じように
無駄な自分の気持ちを切り捨てるんですよ
これがしたいんですよね
スクシュートでもきっとそうだと思うんですよ
無駄な
というかダラダラとインターネット見ちゃいましたとか
えーと
なんていうのかな
よく言うセリフですよね
無駄な時間ばっかり使っていますみたいな話
使いたいんですよ
そして
それによって自分自身に教えてあげたいんですよ
自分が寂しいとか
むなしいとか
満たされていないってことを
自分に伝えてるわけですよ
満たされてないから
よくわからないけど匿名の
自分とほとんど関係のない
そういうみたいなものに
時々エッチな画像が混ざってくるっていうものを見て
何かこう
しているわけですよね
満たそうとしているわけですよね
空白の時間を作る前にとしているわけです
けどその空白の時間というものに
実際何もしないでいてみると
テレビも消していて
シーンとっていうのかな
なんとも言えない空間に
何もしないでいてみると
とっても自分の中の
自分の中のというか
あんまり直接向かい合っていたくない
時間の過ごし方というものを
しなきゃなんなくなって
それが嫌なんだと思うんですよね
これと
無駄遣いをしちゃう真理
っていうのはそっくりだと思います
無駄を省くっていう
観念から来てるんですよ
その無駄を省かなきゃ
っていう気持ちが
無駄を省きまくるっていう風に
育ってきた価値観が
本人をすごく虚にするんですよね
多分それは
まあ普通に考えれば
家の価値観を反映したんだと思うんですよね
無駄を省く
無駄なことはしない
42:00
無駄なことをしない家庭生活って
寂しいじゃないですか
意味のあることだけをするっていうのは
本当に何て言うんだろうか
いろんなものを省くことになるので
あれですよね
だから食卓は一切やめにして
錠剤一個にするみたいな話ですよ
寂しいじゃないですか
そこにあったものは
無くするから寂しいわけでしょうね
だからそこにあった時間が
無くなるから寂しいわけですよ
減らせば減らすほど当然そうなりますよね
意味のある時間だけで凝縮すれば
当然そうなりますよね
食事の時間だって
2時間というのがいかにも無駄なら
10分ってことにすることは
容易にできるじゃないですか
そうすると1時間50分の断乱が消滅するわけでしょう
だから寂しくなるわけじゃないですか
でもこれをやるわけじゃないですか
アルガママを認めないってことになってくるとですね
だからそのうちに
アルガママというものが
到底認められないアルガママに
変質していくので
部屋だけでは住まなくなっていくんですよね
だからセラピーが必要になってくる
でもセラピーで目指しているってことは
ある意味
無駄な時間を増やすっていう
これが一番難しいことなんですよ
結局はね
だから