ビデオポッドキャストの挑戦
おはようございます。 ライフハックからの精神分析第1269回をお送りします。
10月23日木曜日21時14分です。 ちょっとですね、あの
ケンスーさんという方が最近も何かちょっと所々で出てくるこのお名前ですけど、 まあ彼の影響を受けて
やってることをただ見ているだけなんですけど、 ビデオポッドキャストっていうのをやってみようと思うようになりました。
で、やめといた方がいいのかもしれないんだけど、とりあえずあのまあ 結局僕が顔を写ってるだけなんで、僕からするとこれに意味があるような感じしないんですよ。
顔写ってるだけじゃんっていう。 しかも別にイケメンなわけじゃないしなんていうね。
なんだけど、まあこれはケンスーさんの完全に受け売りなんですが、 最近もう
まあこれ結局あんまり同じことになるような気もするんですけど、 AIがすごく進んでるから
顔が写ってないと、それAIなんじゃないのっていう風に最終的には思われかねないと。 まあAIはね、8とか僕みたいにいっぱい言わないと思うし、
もっとこうある意味整然としてるし、 まあ少なくとも今の段階では、私の声聞いてAIだと思うっていうのはよっぽどAIを信じ過ぎてる気がしますけれども、
確かになぁと、今のような勢いでAIがレベルアップしていったら、 あのね、あのーとかだって入れてくるかもしれないし、
こんな意味不明な、なんかどうでもいいような、バズりそうも受けそうもないようなのまで、 人工的に作り出されるかもしれないんで、でもそんなこと言ったら
映ってるこの私だってAIかもしれないじゃんっていう、 まあAIならもうちょっとこう整えると思うんですけどね。
あのー、まあこのアノーもなくなると、作り出すのかなむしろ。 なんか無駄なことする感じもしますけどね。
AI、人に似せてもしょうがないじゃんっていう感じもする。 まあ似せた方が面白い部分もあると思うけど、
似せまくればいいってもんではないと思うんですけどね。 まあ不気味の谷みたいな話ですよね、これはね。
そんな風にいろいろ聞いているうちに、ふーんなるほど。 要するにAIじゃないことを証明する方が人々は聞く気に、 まあそりゃそうかもなぁとは思うんですよ、私でさえね。
そりゃそうかもなぁと思うんで、AIでないことを証明の度合いを高めるためにビデオを撮ってみるという、 なんかこう、コミッと話になってんなぁとは思うんですけど。
で、それをやるとなると、どうしてもパソコンの前が必要だから結局この時間に撮ることになるんですね。 ここがね、ちょっとどうかと思うんですよ。
今後この時間に、このビデオをいわばライブにしてしまって、 だから夜ライブをやって、朝に配信するという形にしていこうかなと思っています。
でもそれだったら配信これ終わってすぐにすりゃいいじゃんって感じがして、 その夜の間間を開ける意味って何なんだって感じもしちゃうんですけどね。
私なんかやっぱりその辺、商売系が足りないのかわかりませんけれども、 別にね、8時間間を開ける意味がないような気はするんだけど、とりあえず当面は今撮り、 それを、ビデオは直ちに配信するけど、音声は開ける意味あるかない気がしてきた。
音声もすぐ上げるかもしれません。まあそんな感じでちょっと今考えてます。 とにかくいつも撮ってる場所では、このビデオは撮れないんですよ、さすがに。撮る方法がないんですよね。
あの、iPadで撮ればいいのか? そうか、そうかもしれないな。
ちょっと考えます。考えますけど、とりあえずこれで一暫くいこうかなと思っています。 まあそもそもこのビデオ、ポッドキャストを続けられるかどうか、あんまり自信はないんですけどね。
正規・非正規カウンセリングの問題
はい、えーと、それではですね。
まあ早速、ちょこっとだけ、 今日はね、もう本当実験的にやりたいんで、少し短めに、短めな割に、割と真剣な話題やっちゃうんですけど、
あの、最近こう、私、正規・非正規・ノラーカウンセリング問題、いろいろ言ってましたけど、 だんだんだんだんやっぱりね、この問題をずっと言ってきた意味が、3ヶ月チャレンジ的にも大いにあったんだなということがようやく、
その話題いらなくないですかって言われて、だいだいそういう方は僕に大変好意的で、 鈴木さんはもっと自信を持って、ノラとか心配しなくていいから、そんな話にかかずらをあらなくてもいいんだ、的なことを言ってくださるんだけど、それは大変ありがたいんですけど、
でもなんかすごい考えてたんですよね。単に非正規である、非正規コンプレックス、純金コンプレックスだけなんだろうかと、まあ純金コンプレックスっていうのは、
今をときめく東方海人先生が、普通の相談という中で強引に論じている、要するに、正規の中にさえあるわけですよ。
純金の精神分析なのか、精神分析的心理療法に過ぎないのかっていうコンプレックス、さらにはもっとこうね、
亜流というか、暴流の自分は、正規ではあるが暴流であるという、やっぱり中心をど真ん中を行っている精神分析、週に4回とかやっちゃってる精神分析ではないのではないか、だから、
自分は中途半端な精神分析カウンセラーなんじゃないかみたいな、だから平成のありふれた心理療法という名称を作って、そっちの方がむしろ現実に見合ってて悪くないんだよっていうことを、
戸端さんはおっしゃってて、あれは有機漬けのものなんですよね。で、あったとしてもハップではダメだよみたいな、そういう非常にややこしい論なんですよ。
ややこしい論を立てなきゃならないんですよ。しかも、そういうふうに言っていながら、のの医者だって治せればいいじゃんっていう論を立てつつ、でもやっぱり正規の心理、小心理っていうものが必要だよねっていう論も立てるっていうね、
その集大成がカウンセリングとは何かなんでしょうけど、まあねじれているというか、錯綜してますよね。これに関して私はその戸端さんの方をずっと言いつつ、一体自分は何を考えているんだろうかと考えていたわけなんだけど、
戸端さんは最終的にはマッチングっていうのにすごく重視してますよね。正規であるってことはもう一つの前提として立てて、
のの医者はダメだとか、のらカウンセラーはダメだとは言わないんだけど、彼はですね。それだって治るっていうのはあるにせよ、でも結局正規の心理臨床にはそれ相応の価値があり、そこには正規であるというための共通基盤みたいなものがこれが難しいんですよ。
共通基盤みたいなものがあるんだって、つまりたとえCBTでも精神分析でもその他のロジェリアンなのかユンギアンなのかわかりませんがいろいろあった中でも、あの単なる単なるというかシンプルに行動療法だという言い方をするものだとしても、
あるいはそれこそ最近のゾマティックな、ソマティックなかな、タッピングとかああいうものも全部含めて正規は正規であって非正規とは違うんですって言っても、一方でじゃあその正規って言われているものが多様すぎて、何をもって正規だって言うんだよっていうのが誰でも考えすぎますよねそれはね。
あの週に4回もやって、もう2年も3年も下手すると20年とかやらないとよくなんないって言ってるのに、他方ではもう短ければ短いほどいいと言っていて、週に1回どころか各週でもよくて、何なら6ヶ月ぐらい各週でもいけるっていう、そしたらそっちの方がいいに決まってるんだけど必ずしもそうではないみたいな議論があったりして、これはもう時期の短さの話だけとっても、
こういう意見の合わなさがあるんだから、それはその正規はみんな同じように効果があるんですって言っても、なぜなんだっていうことになっちゃうじゃないですか。同じように効果があるんだったら、各週6ヶ月の方がお金も少なくて済むし、手間も少なくて済むんだから、いいじゃんってことになるんだけど、でもあの野野医者は笑うで、戸端さん言ってましたよね。でも本当は治ってないんだけどねって内心ではこう軽んじているっていうね。
で、結局本当に治すには週4日20年来いみたいな話になるわけじゃないですか。で、そうなってくると効果っていうものが何によって出てるのかはどうやって決めてるんだよっていうことになってしまいますよね。でもですね、そういうアプローチの仕方がある一方で、戸端さんはやっぱりこうマッチングとあれほどおっしゃっているにもかかわらず、
明らかにマッチングとは違うことを普通の相談でズバッとね、ズバッとなんだけど逆中で言ってるんですよ。前にも1回この番組で引用したことがあると思うんですけど、僕ここすごい重要な場面だと思うんですけど、マッチングって言葉が出てくる。少し若干長いけど引用しますね。ここにあるのはマッチングの発想である。冒頭からそうですね。マッチングの発想であると。認知行動療法を必要としている人には認知行動療法を。
精神分析がマッチする人には精神分析化を直ちに紹介できるようなシステムがあればいいのに、というリファーの、リファーというのは要するに紹介制度ですよね。制度的充実が心理師やカウンセリングサービスを提供する事業者によってしばしば語られる。それはそうですよね。今言った通りですよ。
学習で短くてあんまりそんなに手間も暇もお金もかけたくない。しかしそんなに深いところまでやらなくても自分は調子良くなると思っているという人には、じゃあこっちを。なんかもう心の深いところ、まあすごい適当なメタファーですよ。心の深さっていうのは非常に僕はいい加減なメタファーだと思うんだけど、まあ最近のカウンセリングとは何かというと冒険としてのカウンセリングとかなのかもしれませんけど、まあ要するに心のコアにあたる部分。
いわゆる精神病水準みたいなところに手を当てて、時間をかけて、すごく頻度も上げて、でもお金もかかってもしょうがないからって言うんだったら精神分析を直ちに紹介できる。この精神分析家の人がいいですみたいな。東方カイトさんがいいですとかね。まあ夢のシステムがあるといいのにと。
誰だってある程度マッチングが大事ってなったらマッチングしてるところにスパッといけるのがいいですよね。私自身もかつてそのように素朴に考えていたこともあった。各人が自分の専門を持ち、それに適したクライアントを相互に融通し合うという発想だ。ただしこれは無双にとどまる。って言ってるわけですよ。そうはいかないんですと。
専門性の高い治療者が現状十分な人数存在しておらず、そのようなネットワークを整備することが困難であるという現実的な理由もあるが、それは本質ではない。より訓練を充実させ、質の高い専門的な治療者を生み出せば問題は解決するというのが、ここ30年の各学派の戦略であったわけだが、今後いかに心理師の養成が進んだとしても夢のリファーシステムは実現しないように思う。
心理療法の現実と課題
問題はより原理的だ。長いですね。逆中なんですよ、これ。第一にそれぞれの学派的心理療法がターゲットとする問題たちを想定したとしても、現実の苦悩の相対には遠く及ばないことだ。これですよね。僕はこれは絶対あると思うんですよ。この世から宗教がなくならない理由ですね。
だってですね、死ぬのが怖いんですっていう悩みはどこに持っていくんだって、少なくとも行動療法に持っていくのは現実的な感じがしませんよね。死ぬのが怖いんですっていう問題とか、あるいは昔の私みたいに女性が全く相手にしてくれません、これは精神分析に持っていけばいいのかもしれないけど、微妙ですよね、いろんな意味で。
だから世の中にはものすごい種類のお悩みがあるわけですよ。中にはタスクシュートの記録が続きませんというお悩みだってあるわけですよ。それを心理心にリファーすればなんとかなるのかっていう、なんとかなるのかもしれない認知行動療法とかで、十分可能性はありますね。
ただ、どっちにしても対応している種類の方が足りてないっていう話をまずしているわけですね。これって多分絶対そうなんですよね。これだけじゃないんですよ、しかも。
純金たちを現実をカバーするには狭すぎて、要するにいろんな発想を考えついたとしても、現実をカバーするには狭いと。多くのクライアントが夢のリファーシステムからあぶれてしまうことだろう。つまり私の悩みに対応してくれる相談員は誰もいませんっていう問題は続きますってこと。
私はこれがあるから野の医者もいなくならないと思うんですね。そしていなくなったらまずいだろうって思う。このことが続いて語られていて、私はやっぱりこれを明快に語っている心理師さんがいるっていうのは大事だなって思うんですよね。
一本間違うとわかるんですけど、現在の公認心理師システムは若いですし、まだ年数が経ってないし、歴史が浅いので、どうしても正義はいかに大事かっていう話に終始しがちで、そこで語られていることはいつもこの番組でも言っている通り、これは一種の批判になっちゃうんでしょうけど、そんなに批判したいわけじゃないんですけど、要は非正義は危険であるってことしかなかなか聞こえてこないわけですよ。
非正義は危険である。だから正義に行こうなんですけど、それは正義に行けばうまくいきますよって話はしてないんですよね。ただ安全だって話をしているに過ぎない気がするんですよ。
だけど問題なのは、この悩みは正義に持っていくべきなのかっていう結論を出せてないことで、僕はそれはいわば正義側も出せてないような気がするんですね。
どんな悩みにでも応じますとは言うんだけど、どんな悩みにでも応じますが、私の悩みに応じてくれるんだろうかっていう疑問を持っちゃうのが人間ってもんだと思うんですよね。だからあぶれてしまうわけです。
第2にユーザーの側から見るならば、これは私も全く同意するんですけど、ユーザーの側からするならば、私たち専門家に期待されているのは何よりもひとまず問題を引き受けることなのである。
もちろん引き受けられない問題は存在するのだが、カードAによる精神分析とか二次行動療法とか、非常に学科的な純粋度の高いカードAによる華麗な治癒ではなくても、華麗な治癒というのはその方法でまさにぱっちり解決するってことですよね。
カードBで現実的なやりくりがなされることは、本人や家族、その他のステークホルダーにとって大きな価値がある。社会で生じた苦悩は誰かが預からなくてはならない。コンテナーのこと言ってますよね。誰かが引き受けないと、その問題はまき散らされがちなんですよ。
自分が苦しんでいるのに、誰もその苦しみについて共有もしてくれない、理解もしてくれない、話も聞いてくれないとなると、その怒りがまき散らされてみんなが苦悩することになってしまうんですよ、結果として。だから誰かが引き受けなきゃならない。まずはケアをして、ケアをしてあげる人が必要だと。この預かる機能こそが治療者というものの革新的な社会的役割なのである。
非正規カウンセリングの必要性
なので私が思うに、野良カウンセラーって必要なんですよ。なぜならば結局いろんな正規の心理師さんたちがいるんだけど、そこでもう預かりたくないっていうケースは、表看板ではどんな人も預かりますよって言っている割にはそんな風には慣れてないとは思うんですよね。これは多分批判に聞こえるんでしょうけど、僕はそうは思わないんですよ。
何しろまだ歴史が浅いんでしょうがないんですよ、こういうことが生じるのは。ただ一方でシステムが預かりきれないものが生じるのはしょうがないと私は思うけど、預かってもらえない人の怒りからすると、それでは済まされませんよね。
だからできるだけいかがわしくない制度外に、つまりこの制度からはどうしてもあぶれてしまうという人を引き受ける人っていうか、引き受ける存在が必要なんだと思うんですね。ここでマッチングっていうところに実は俗人性も結構大事だしとか、結局いろんな学派が存在しちゃうよねとか言ったことはやっぱりですね、
このマッチングプラス預かれる幅あるいは重さみたいな問題との兼ね合いで決まってくる以外の何物でもないと思うんですよね。結局精神分析というのはその中でもかなり預かれる幅と深さが非常に重いものも預かれる、幅広く預かれるっていうふうに私は思うんで、
つまり非常に意外な話になってしまうんですけど、非正規と相性がいいって僕は密かに思ってるわけですよ。なぜならば、あぶれがちな人を拾えるのは分析的につまり幅が広くて重さもかなり重いところまで預かれるものであるから、それってあぶれがちな人っていうところの行き先になるじゃないですか。
あぶれがちな人っていうのはつまり正規がなかなかうまく引き受けてくれない、マッチしないからやむを得ず非正規に行く人じゃないですか。実際には逆になったりするんですけど、つまり意外と一周回ってめちゃくちゃ純金である精神分析と非常に暴流の中でも暴流のその外側である非正規あるいは野良っていったものがここで出会いやすい理由があるんだろうと思うんです。
正規ってものの少なくともユーザーから見た正規というもののメリット最大のメリットはですね、いつでもどこでも相手をしてくれるってことなんですよ。本質的には話し合っていませんっていうことになったときに正規っていうものが存在していること、つまり正規化ってものの意味ってのはですね、いつでもどこでもそれがありますっていう市民というものの存在として非常に多数の
人に助かるのはいつでもどこでもそこに行けば大丈夫。例えばファミリーレストラン、あるいはちゃんと免許持ってるホテルとか、あるいは病院ですよね。病院っていうのは旅先でもかかる必要があることあるわけで、引っ越し先でももちろん必要ですし、引っ越した先に病院がないだからあれですよね、無遺存とかいうやつですよね。非常に困るじゃないですか。
だから少々腕が悪くても最低限を持って技術を持っている人がここにもそこにもあそこにも海外に行っても誰でも相手をしてくれる。これが正規の価値なんですよ。非正規っていうのはこれができないんですよ。だって正規化されてないわけだから。沖縄に行けばヒーラーはいるけど、北海道に行ったらいるでしょうかっていうことが起こるわけですよね、普通に。
ローカライズされたものなんですよね、ものすごくね。だから旅先とかお土産屋さんとかそういうところと相性がいいはずなんですよ、非正規ってのはね。私はライフハックっていうローカライズなところに存在している非正規なんですよ。
心理カウンセリングっていうふうに、心理臨床っていうふうに見られたとすればですね、私はそれを謳わないから非正規という位置づけでもない、非常に曖昧で怪しい位置づけなんですけども、非正規はもともとそうですけどね。で、もう一つ預かる側の幅の広さと重さっていうことのほかに預ける側のリソースってあるじゃないですか。私預かってほしいんですけどあんまりお金がありませんとかね。ここでもマッチングの問題出てきますよね。
結局だから誰かがとりあえず預かる必要があるんだってなったときに、正規には一定の正規料金ってあるわけだから、やっぱりこれがですね、どんなに怪しくても微妙でもこれに預かっても預かってくれないと困るんだよってなったときに、つまりですね、私のような昔モテなかったっていう、どの女性も私を預かってくれないってなったときに、とにかく預かってくださいみたいになったときに正規の女性って何ですかね。風俗ってことになりませんかね。
こういうことなんだと思うんですよ、僕は。お金さえ払えば預かってくれる人が登場します。僕は利用したことないんですけど、これがやっぱり風俗と正規が同じかっていうとそうじゃないんですけど、僕が言いたいのは、市民というものはですね、とにかく公共というものを利用しないで困る場合っていうのがあるはずだってことなんです。
こういう社会を築いてしまっている以上、どこに行っても私を相手にしてくれる人がいませんっていうのは困るんですよ。その人が魅力的ではないとか何も持ってないとか関係なかったりするんですよ。
その人の思い込みだったり、何か巡り合わせが極度に悪いだったり、何か訳があってその人の本当の本音の話は誰も聞いてくれない気がするとかね。これを最低限預かれる人っていうのが必要で、それが正規なんですよね。
ところがこの正規が幅を縮めていたり、ある程度の深さまでしか残念ながら対応できませんということになれば、当然非正規がバッコと言われようと何だろうと出てくるに決まってるわけですよ。
何でもやります。うち何でもやさんですみたいな。とにかくこの推奨さえ見てくれれば何でもやりますとかね。私はそれが一番いかがわしくない形で一番深くて一番幅が広いのが、実は精神分析だと思っているわけですね。
その真根っこみたいなことを、つまり精神分析を学ぶということから入るわけですけど、そういうものがこの世の中にはあるんだという認識を持てるんですよ。つまりマッチングするためにはまず対応者がいるっていうことを信じなければマッチングに手を出す気にもならないじゃないですか。
まずマッチングしようっていう気になれるということを先に保証する必要があるんじゃないかと思うんですね。そういう心理状態にハマっている人にしてみれば、誰も自分の話をちゃんと聞いてくれないってなったら精神分析というところではおそらくあなたの悩みが何であれ、またどれほど深い悩みで重い悩みであれ対応できるはずだと。
なぜならば、定義解釈っていうことを技術を持っているからですと。こういうことが言えるというのが私の考えなんですね。これを伝えるというのが絶望というものを一旦引き受ける方法としてある意味優れているのではないかと考えられるようになったわけですよ。
これがノラカウンセリングという問題と正規のカウンセリングっていうところにある問題と精神分析というものの実は非常に今あっさり正規の中に入っているように組み込まれているように見えるけれども、実は非常に非正規的な部分があるのではないかと。それはどうしてなのかということを考え続けてみたところ、こういった結論が何となく私の中で形をなし始めたわけです。
もちろん私は非正規ですから、どんな意味にせよ。これを論文に書いてどこかに発表するとか、何かに訴えてこの論を皆さんと共有するというような話をするというよりは、こういう何かよくわからない研修さん方式のビデオポッドキャストというもので少数の方に語って、ああそういうことなのかなみたいに思っていただければもうそれで十分だと思っております。
相性の重要性
別に論を立てるほど精緻に考え抜いたとか、好きなく理論武装できているとかは思わないんで、ただマッチングと言ってしまったら非常に難しい問題がやっぱりそこには広がってくるわけですよ。
マッチしたいすれば、それを戸田隆人さんは強く意識していたからこそ、野の医者は笑うで、自分がなかなかかかばかしい成果を得られなかった統合出張症の人が、具志堅クリニックとかいうところで、前世療法だか何かよくわかんない数代前のおばあが何とかかんとか言ってるから、このおばあのところでどうたらこうたらって言ったら治ったみたいなそういうマッチングしたわけですよね。
マッチングというのはそういう全てを破壊してしまうような事態を引き起こしかねないわけですよ。どこで線引けばいいんだかわかんなくなってしまう。マッチすればいいって話になってしまったらですね。
でもこういう問題は確かに残るわけです。何よりも大事なのは、でもやっぱり戸田さんがある意味答え出されているんで彼はすごいと思うんですよね。ここには引き受けてくれたっていう実感があるんですよ。
引き受けてくれたと。なぜなのかはわかんないんだけど、具志堅クリニックは自分を引き受けてくれた感じがするってなったら、大きく進展し得るわけです。
統合視聴症は治らないかもしれないけれども、でも大きく進展はする可能性ってあるんですよ。そこが心ってのの、やっぱり他にもいろんな課題というかテーマがあって、野野医者は大変読ませる本なんですけれども、
とにかく臨床診療いくらやってもうまく何かはかばかしい展開が得られてないと。それ自体は展開が得られてないかどうかはまだわからないんですけれども、
でも、もしユーザーさんの方に戸田さんはどうも私のことを引き受ける気ないんじゃないだろうかとか、引き受けられないんじゃないだろうかとか、そういった疑問が続いている限りにおいては、やっぱり進展ってなかなか得られないと思うんですよね。
ある種の、やっぱりそういう意味ではロジャーズなんですけど、クライアントをどこまでも中心に置くんだとか、ある種の懐の深さみたいなもの、そういうものを感じさせる私がって話じゃないですよ。
例えば私はネットを見ていても、必ずしもすごく正規感があるってわけじゃないんですけど、正規感って変ですけど、諸富さんっていう方が、これは山崎さんとの、山崎貴昭さんとのYouTube動画で対談しているのを拝見して知ったんですけど、諸富さんっていうロジャーズ派の人がホームページ作っていらっしゃっていて、
そこがなんかスピっぽいし、一昔前のホームページの作りみたいな感じなんですけど、あの方のまた不思議なビデオポッドキャストなんですけどね、それこそね。
見ていると、なんか引き受けてくれそうな雰囲気っていうのが、なんかにじみ出てると言いますか、そういうものがあるんですよね。
やっぱり私は、話しするならこういう人のところで話したいなって思うような何かを感じるんですよ。
マニュアルとかアセスメントとか、手順に沿ってるとか、倫理観があるとか、規定に沿ってるとか、色々大事だと思うんですよ。
色々な問題がありますからね、ここには。
ただ、システムがきちんとしているとか、倫理規定がきちんとしているとか、安全が確保されているとか、大事なんだけど、大事だと思うんだけど、
何しろ悩みは深くて長いケースが多いわけじゃないですか。
緊急性とか救急って言葉もカウンセリングとは何かで出てきたんだけど、私はやっぱり心理カウンセリングの基本っていうのは、
その人はなぜかその悩みに長いこと取り憑かれちゃってるってことにあると思うんですよね。
色んな理由があって。
じゃなかったら、やっぱり今の時代だったら、それこそ緊急性とか救急性であれば、普通にお医者さんに行きますよね。
なんとか脳を、それこそ脳への薬までできているこの時代なんだから、やっぱりすぐに痛みをとってほしいとか、すぐにこの問題を解決してほしい。
その他にも様々なものがあるわけじゃないですか。
それこそ宗教もあるんだけれども、モテませんとかだって、今だったら恋愛相談とかものすごく色々あるわけですよ。
普通にまず速攻性がありそうなところに探していこうと思えばネットでいけるわけじゃないですか。
にもかかわらず、そういうものとはまた別に何かよくわからないんだけど、悩みがつきないと。
友達はいっぱいいるんだけど、ものすごく孤独だとか。
一応仕事に適応しているんだけど、実はもう毎日毎日会社に全く行きたくないとか。
何かよくわからないんだけど会社に行くたびに奥さんから電話がかかってきて、娘がどうたらこうたら言ってるから家にすぐ帰ってこいと言われて仕事になってないとか。
それが慢性化しているとかですね。
スクールカウンセラーとかに一生懸命相談してるんだけど娘は一向に学校に行く気配はないんだけどとかそういう話が始まっちゃったときに悩み始めてしまったら悩み始めちゃうじゃないですか。
そういうような慢性化した悩みみたいなことが発生したときに、まずは何かよくわかんないけど話を聞いてくれる。
意外とですね浅いとか小さいとかしょうもないからこそ誰も聞いてくれない悩みみたいなのもあるんですよ。
昔の私の彼女できない問題そうでした。
誰に言ってもたまーに口を聞いてくれる女の子にしゃべっても大丈夫だよそのうち彼女なんかできるよって言われて終わっちゃうんですよ。
で何か知らないんだけど普通の人はそれで済むんですよね。
でも私は何かそれがこじれて25年とか30年とかそれで悩む羽目になっちゃったわけですよね。
この悩みにはいろんな問題が実は絡みついていたわけですよ。
だけでなく、例えば私はようやく47、48になって俺の転職だなって先日山崎孝明さんと戸畑海斗さんが、戸畑海斗さんがですねカウンセリングが自分の転職だみたいに言ってたんですけどそうなんだと思うんですよ。
でも大変羨ましいですよね。
彼はあんなに飛ぶように本も売れて30代で転職が見つかる。
もしかして20代ですでにそれが示唆されていた。
私なんか野良カウンセリングみたいな野良カウンセリングの真似事みたいなものを転職にするのに実に48年ぐらいかかってるわけですよ。
それまでやってきたことが何か借銭としないなと思って40何年間も過ごしてきているわけですね。
しかもそれをカウンセリングに話を聞いてもらって見つけたとかですらないわけですよ。
それも倉園慶三さんというある意味野良カウンセラーみたいな人、野の医者ですね。
深い悩みとリテラシー
話をしているうちに自分の転職に展開していく、そっちの方向に行けるようになってるわけだけれども
そういうふうな何かこう自分が何のためにこれをやってるんだろうみたいなことを延々やっちゃうっていう
そして自分がやらなきゃいけない、やれればいいのにと思っていることは本まで本を数十冊も書いていたくせして見つけられずにいたみたいな
そういうなんていうんですかね、それこそマッチングで会えなかったとも言えるんですけど
やっぱり自分の話を聞いてくれる人が結局、というか私の悩みを預かってくれる人がなぜか倉園さんがいらっしゃるまで現れなかったと
いやもう本を書くのがあなたの仕事でしょみたいな、うちの母とかに言わせればバッチリそうなっちゃってるし
うちの奥さんとか娘に言わせればまあ本を書くべきだよ、ただもっと売れないとダメだよねみたいな
そういうもはや悩み相談じゃなくてなんか違う方向に葉っぱ掛けられてるだけだったりするわけですよ
そしてそれは確かにおかしな話じゃないわけですよね
別に相手はおかしなことは言っていない、むしろごく当然常識的なことを言っている
今だったらいやいやそんなのこそ正規の我々に話に持ってきてくださいよって
公認心理師さんに言われるかもしれないけど、だって公認心理師制度できたの2014年じゃないですかと
私もその頃にはほとんどの本出し終わってたんだ
それまではどうなっていればよかったのかっていうことですよね
残念ながら僕がしてたのは残念ではないけど
かわいいはやおさん前世の時代でしたから箱庭療法とかなのかとか
でもなんか箱庭療法とかをしようって思わなかったんですよね別にね
あの話は面白いと思いましたけどなんか箱庭に
なんかね砂利とか水とかそういうものに手を触れるのが大事なんだみたいなことが書いてあるんだけど
別に砂利とか水とかに手を触れるっていうことは
うちの庭仕事とかでもしてるけど一向に自分の悩みみたいなものは
アトピーも含めてですね改善する気配ないなーみたいな
いや改善する気配が全くなかったわけじゃないんだけどなんか全然こう自分の
何て言うんですかね何したらいいんだかわからんみたいなことは続きながら
本とか書く時には目に4冊とか書いてて
何したらいいかわからんみたいなそれ自体が意味不明な悩みだし実存的な悩みは
贅沢な悩みだと贅沢ってのはこの場合
収入がある人間は悩むなに近い話ですよね贅沢ってそういうことですよね
でもやっぱね悩みというのは贅沢かどうかを
考えれば消えるってものではないんですよね
悩んでるっていうのはすでに悩んでしまっているんですよね
本書きながらも悩んでてお金もいただきながらも悩んでて
ファンの方に褒められながらも悩んでて消えないんですよね
そういうもんなんですよ
それを出しに行けすらもしないなぜなら
それを聞かされた方は不快になったりするからですよね
何贅沢なことを言ってるんだと
だから専門家はいつでもどこでも預かれる人ってあって欲しいわけですよ
で幸いにも今の我々市民にはそういう人がいるんですってことなら
これは幸いなんで絶対そうであったほうがいいと思うんです
今後多分ユーザーがマッチング言うならば
いわばリテラシーを上げていったほうがいいと思うんで
どの方向にリテラシーを上げるべきかというとしつこくなるべきだと思うんですよね
コンテナーはコンテインドによって形を変えるという
実はペニスが入れば形が変わり胃袋は食べ物が入れば形が変わり
思考内容というものは思考する存在
つまり考える人が課題を与えられる難題を与えられれば
考えることによって変形するようにですね
コンテナーを変形させるべく努力する必要があると思うんですよ
これが我々が持つべきリテラシーなんじゃないかと
安直にっていうのは変なんですけどあっさり諦めちゃダメだと思うんですよね
そしてあっさり甘えかしちゃダメだと思うんですよ
変わってもらわないとっていう私はCBTなんでっていうところで止まってもらわずに
深いところまで行ってしまったら誰が責任とか言われても
倫理的な話はさておかなくてもとにかく悩まれる必要があると思うんですよ
相談の必要性
コンテナーの方にこれが預かるってことだと思うんですよ
そこで預かってもらわないと悩みが拡散されていってしまうと思うんですよね
松木邦博さんに学んだ言い分をするならば
拡散されてしまうと思うんですよね
パーソナリティ障害みたいになってしまって悩んでる側が
それは誰にとっても多分全然幸せじゃなくて結構不幸なことになりかねないので
そこでやっぱり無理してでもねじ込んででも預かってもらおうと
それはその人にとってはカードBかもしれないけど
戸畑海人さん流に言うとカードBかもしれないけど
構わないから預かってもらおうと一旦はね
そういうことをしていただかないとやっぱり救われないじゃないですかという話を
だから私はそれをそれなりの立場でやるために
3カ月チャレンジというコンテナーを用意して
今日まではなんとか持ちこたえてきたわけですね
来期まもなく12期3年になります
ここまでやってこれたのは良かったかなと
転職なんで3年じゃダメでできれば30年はやりたいとは
30年経つと80過ぎますね
まあ非正規なりにね