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おはようございます。先送りせずすぐやる人になるポッドキャスト第747回ですね。
あったかくなりましたね、非常に。もうお昼なんで、おはようございますもないんですけれども。
でもこう、すごく頻度が上がってきたと思うんですよ、多分。このポッドキャストですね。
その理由はですね、やっぱりこのマイクをBluetooth対応のものを一個改めて入手したというのが非常に大きい。
これで上の階でも下の階でもノートパソコンを持っているところで撮れるといった状況になったのがやっぱり非常に良くてですね。
今までは有線のやつで、多分これより音質はいいと思うので、だからなかなか変えられなかったんですけどね。
有線のやつを使っていたので、場所やっぱりどうしても限定しますし、しかもパソコンがないと絶対ダメだったわけですが、
このイヤホンのBluetoothはすごい良くて、すぐ繋がるんですよ、ガジェットを変えても。
ガジェットを変えるとなかなか繋がらなくなるやつもあるじゃないですか。
昔そういうのばっかりだった気がするんだけど、接続を解除するだけじゃダメで、登録そのものを一旦削除してからまた再登録しないと繋ぎ直せないという非常に手間のかかるやつですね。
あれだとすぐ使わなくなっちゃうので、これにしてからガジェットを変えてもすぐBluetoothの中から選択するだけでOKで、
しかも音質は今のところまともだというご報告だけをいただいておりますので、またこれが実に聞きにくいって話をいただいたらまたちょっと悩み始めるとは思うんですけどね。
しばらくこれか優先が使えるときだけ優先を使うというやり方でやっていこうと思っています。
これにしてからとにかく頻度だけは確実に上がったなと、やっぱりこれ非常に楽ですね。
ガジェットを選ばないというのは本当に良いです。
で、えっとですね。
今日は最近の個人セッション、今度からも個人セッションと言っちゃうと思ったんですけど、
個人セッションである方からですね、長田カビさんの漫画を読んだというありがたいご感想をいただきまして、
やっぱりですね、自分だけ読んでいて自分ではこう思うというふうに考えるだけだと、どれほどそれについて確信を抱いていても、
ちょっとやっぱりどこか、この種の不安はあって当然なんだけど、どこか不安になるというか、確信を持ちきれないところがあるわけですよ。
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それが他の人が読んでも同じように解釈することは可能だと言ってもらえるのはとてもありがたいんですよね。
そうか、やっぱりおかしくはないな、これでっていうね。
先日、昨日だ、このポッドキャストで夜がつかむをやけに紹介しましたけど、
あれもあるツイッターでこれも統合失調症なんじゃないっていうのでまさに夜がつかむのシーンを紹介しているツイートがあり、
それをいやこれすごいそうですみたいなことを統合失調症さんの患者だという方が引用リツイートされていて、
これを見てやっぱりそうだよなとは思ってたし、仮に統合失調症でなくてもですね、
いわゆる白外妄想の具体的な、これすごく言ってて、具体的な象徴物っていうのはもう長くて短い鉛筆って言ってるようなもんなんで、
普通ダメな感じの形容詞を並べ立ててるんですけど、でもそういうふうに書いてあるんですね、具体的な象徴物。
でも夜が本当に足をつかんできたらもう具体的な象徴物じゃないですか。
なんだかさっぱりわからんけれども、そういうことになっちゃったとしか言いようがないですよね。
だからああいうふうに漫画で書いてもらうとね、テキストで読んでるとやっぱり具体的な象徴物とか、
ビザーレオブジェクト、機械な対象とか言われてもですね、何を言わんとしてるのかは、やっぱり梅津和夫さんの漫画とかで僕はイメージするより他なくて、
実際に見ることは触れできませんから、なんつえばいいんですかね、
良い方の事例で言えば例えば朝日が神様だったみたいなそういうやつなんだけど、
あるいは朝日に照らされた富士山が神様だったみたいな、その神さんが語りかけてくれたみたいなそういう話なんだけど、
やっぱりこれはなんつうんですかね、
体験することがないわけじゃないにしてもですね、あんまりそれで何かを理解するのはなかなか困難だと思うんですよ、やっぱり。
だから結局漫画とかはいいなって思うな、そういう時でして、
同じようなことを誰かが書いて、別の話で書いてたんですよね、
ガンダムを書いた漫画家の人がですね、古事記を漫画化してるんですけど、やっぱりこの古事記の表記っていうのは結構神話っぽいじゃないですか、
でもあれをなるべく歴史家のように漫画に書いてみると結構イケてる感じがするっていうのにすごく感銘を受けたっていう歴史家の人の感想があったんですけど、
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あれそういう感じの話なんですよね、これは。
見ることはできませんから、夜が掴んでくるところってね、
でもきっとああいう、なんと言いますか、要は妄想性の知覚っていうのがあるんだろうなって思うんですよ。
いやそれがあるっていうのは、割と身近な人が僕に言ってくるから、
一生懸命想像をね、僕想像力は十分ではないんでたくましくしてみるんだけど、
やっぱ分かるはずはないことですから、ある意味。分かったら困るしね。
なかなか分からないことなんで、そういう漫画家があるというのはすごくいいなと。
永田花美さんの、彼女はその母なるものにすごくしがみつきたくなるっていうのをかなり冒頭の方で書かれていて、
これってよく言うじゃないですか、母なるものとか、お母さんに抱っこされてた昔が懐かしいとか、
僕はそういうのも実はそんなに強くはないから、そういうこともあるだろうなぐらいに思ってるんですけど、
やっぱり永田花美さんの切実な感じを出してですね、おっぱいに向かって突進していくような絵が描いてあると、
伝わり方がガラッと変わるんですよ。そしてそこにおっぱいの絵しか描いていないわけですよ。
母親のなんだろうけれど。しかもそれを求めるのが男性じゃなくてですね、女性だってところが、
クラインの内的部分対象って言葉の説得力を急に増すじゃないですか。
僕は精神分析の話をするときに、コミックを特に女性がエッセイっぽく書いているコミックを使うのは絶対いい方法だと思っていて、
そういうセミナーもやってたんだけど、人気があまりにもないので一旦停止しちゃってるんですけどね。
僕が書ければ多分もっといいと思うんですよ。
内的部分対象という言い方って、要するにそれは人全体をイメージできていない。
これがリビドウなんですけどね。私がすごく求めるもの、つまり求めるのがリビドウなんですよ。
リビドウ性欲って言うんだけど、性欲はリビドウの一つですよ。
私たちって面白いじゃないですか。このリビドウっていうのは私は対象とセットだっていうのは当たり前だと思うんですよ。
例えば食欲というものは、僕らのように現代に生きている人間は外に生えているニンジンとかにあまり食欲湧かないと思いません?
人にもよると思うんだけど、僕はニンジン畑とかを見て食欲湧いてきたってならないんですよ。
つまりリビドウというのは対象を選ぶんですよ。
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好き嫌いとかあんまなくても、僕食べ物の好き嫌いとかすごいなくて、コオロギとかイナゴとか話題になってますけど、全然多分食べれると思うんですよ。
昔子供の時食べてたんですよ、イナゴはね。
食欲というのは、でも全くイナゴじゃ向かわないって人いるじゃないですか。いっぱいいると思うんですよね。
そういう人は、いわゆる食のリビドウはイナゴを対象にはできないっていう風に考えるわけですね。
この対象とリビドウのセットって、僕はすっごく大事なことだと子供の時からずっと思っておりまして、
なんで欲だけを取り出すみたいな、機械みたいになっちゃうんじゃないですか。
エンジンがかかるとかっていう言い方するじゃないですか、仕事へのやる気が増すとか、エンジンがかからないとかって言うんだけど、
車だったらそりゃ木回してアクセル踏めばエンジンワンって鳴りますが、
人間なんでね、エンジンは対象によってかわすに決まっていて、向かわないものには向かいっこないと思うんですよ。
最近で言えば確定申告、だからなんですよ。確定申告にやる気が出ないっていう話で悩む。
でも本当はやる気があるわけだから、仕組み化次第で言うんだけど、それはあれと似てるんですよね。
人参嫌いの子に人参グラッセにすれば食べるとか、そういうのがものすごくそこを重視する人もいるんですけれども、
僕はなんかそれやっぱり無理があるだろうと思うし、所詮はグラッセなわけですよ。
だって結局それ、たぶんね、ものすごく人参嫌いな子はそれでも食べないと思うし、
逆にグラッセなら食うっていう子は結局それはグラッセだから食べてるのであって、工夫というには微差でしかないなって思うんですよね。
だから対象関係とその対象にリビドが向かうこのセットというふうに考えてみると、
やる気があるとかないとかいうのはほとんど意味がなくて、どんな対象にだったらリビドが向かっているのかと。
リビドがどこにも向かわなくなるというのはどういう条件なのかっていうふうに、これは普通的な話なんですよね。
リビドが何にも向かえなくなるとか、リビド自体がもうなんかこう枯渇はしないんだけど、対象が。
だから対象喪失っていうわけですよ。
対象がなければリビドは出てこないわけですよ。あるいは機能しないというか。
だから人間なのでやっぱり誰でも彼でも稲穂屋コオロギーでもOKかというとそんなことは全然なくて、
多分稲穂屋コオロギーだったらむしろリビドはこれが多分マイナスのリビドみたいな話にもなっていくんでしょうけれども、
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要するに、かえってそっちじゃ抑圧されてしまうというか、静止させられてしまうと。
そういう対象もきっとあるわけですよね。
だから対象関係論というものが出てくるわけですよ。
で、アルコールという永田上さんの漫画のもう一つすごいのは、
一つは部分対象にリビドが向かうということを絵で示してるってことね。
おっぱいというのは母親のおっぱいなんだけど、母親がそこに描かれてないんですよ。
胸だけになってしまっている。これが内的部分対象ですよね。
そんなもの世の中にはないから内的ですよね。心の中にしかない。
内的でしかも一部ですよね。そういう人間はいないから胸だけの人とかって。
だから内的で部分の対象にリビドが向かっているっていうのをバッチリ絵で描けていて、
そこに変な感じはしないですよね。リアリティがむしろある。
で、大事なのはやっぱりあれが男だと性欲みたいになっちゃうんだけど、
あれが女性なので性欲×自分が子供だった時代の保護されている安心感みたいなもの。
安心感みたいなものとセットになっている感じ。あれがものすごく大事だと思うんですよね。
安心感と性欲みたいなものがセットになっていて、そこにグーッと引き寄せられている自分っていうのが出てきちゃってる。
出てきちゃってるっていうかそういう自分がいて、しかもそういう自分が現在の自分の中心みたいに感じられている。
なんて言えばいいんですかね。僕はそういうゲームみたいなのがあった気がする。
カチャンカチャンって変わっていって、なんて言えばいいんですかね。
縁があっていろんな私がいるわけですよ。子供の頃の私とか父親的な私とかいろんな私がいて、
その中のどれかがスポットを浴びている感じ、それが回っていく感じがするんですよね。
どんな私が出た時の、つまりそれはその私の周数のリビドウが違っているってことなんだけど、
その活性化されたリビドウが違う私とそれに相応しい対象というものがセットになっていて、
だから私が自分が性的な気分になっていて、しかも頼りない感じになっていて、
しかも安心感が欲しいみたいな私、つまりそれは幼少期の私で、
しかも私の例で言うと家無き子を呼んで非常に心細くなった私ですよ。
この私が部分対象としてのお母さんのおっぱいが対象にあると非常に落ち着くみたいな、
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そういうセットをイメージしているわけですね。
そこの目の前に、あまり適切な例が思い浮かばないんですが、
その時に例えば、そういうことは一度もなかったけど、
出版社の編集さんと打ち合わせしているとするじゃないですか、
ほとんど男だったので、男の顔しか今思い浮かばないんですけどね、男性しか思い浮かばないんですけど、
それが仮に女性だったとしましょう。
しかも私の母を強く連想させるような女性だった時に、ちょっと危ないわけですよね。
自分がそういう心細い感じ、本の依頼を受けている時って心細くならないんですよね。
むしろ心強くなっちゃうんで、心細くなったとしましょう。
お金ない時に来るわけですよ、家無き子なんでね。
お金がなくなって、心細くなった時に、私の母が、しかも若くて綺麗だった頃の、
母は知らんのですけど、母を若くて綺麗にしたものを美化したような感じの女性が来たとしましょう。
こういう時に危ないわけですよ。
すごくこの編集さんに依存的な気分になりそうじゃないですか、家無き子だから。
その依存的な気分になった上に、内的部分対象だから、おっぱいを飲んで安心していた頃の自分ってものを思い出すとするじゃないですか。
それをそのままやるっていうか、それをすごくしたくなるとセックハラになっちゃうわけですよ。
しかもこの状態の時にですね、私は物が欠けないような気になってると思うんですよね。
物が欠けないような気になってるのは、4歳とか3歳時だからじゃないんですよ。
そうじゃなくて、4歳とか3歳時って変に自信があったりするじゃないですか。
僕何でもできるような予感があったりするじゃないですか。
そういうのではなくて、物が欠けないような気分になってるというのは、ある意味そういうふうにこじれた甘えみたいなものを前面に出したいわけですよ。
永田上さんその辺すごいうまく書かれていて、こういうのを受け入れてもらえないから自分は仕事に場にも行けないし、漫画を書くこともできないんだっていう。
これってだから、いわゆる悪い意味での甘えみたいに多分人から見ると見えちゃうじゃないですか。
この甘えというのを受け止めてくれる存在がいないと、いつまでもこのヘルプレスネスって言うんだけど、頼りない感じの、心細い感じの依存的な私というものがいつまでも欲求不満のまま自分の中枢に居残って頑張っちゃうわけですよ。
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この私を消そうっていうのがまず間違いなんだけど、この自分をそんなに人生の前面に出してちゃダメなわけですよね。
自分はこのルーレットみたいにまた回って行って下がって行ってもらえばいいわけですよ。少し満足させて。
で、鎧とはこれを不満なままこの昔の自分が頑張っているのを固着って呼んだんですね。
で、このものの二つの見方はすごくある意味違ってて、普通に言うと今自我心理学が盛んだった生もあるけれども、なんとなくね、私が子供に戻ったみたいなイメージになっちゃうじゃないですか。
これを対抗って自我心理学で言うんだけど、対象関係で言うところのいろんな私が出ていくことと対抗するっていうことはやっぱり違うことで、対抗するっていうのは基本一人しかいないわけですよ、私は。
それが幼くなったり大人になったりをしているみたいな感じなんですよ。
しかも自我心理学で言う対抗と発達段階っていうのは段階なので、ここが僕は最初にエリック・エリクソンの発達段階説を聞いた時からずっとこうやっぱりダメなんですよね。納得がいかないんですよ。
これって結局卒業するって感じがあるんですよね。
この説を好む人は大勢います。
幼い頃の子じれを脱却して大人になっていくストーリーみたいな。
そうするとじゃあなんで子供に戻るんだっていう疑問がどうしても湧くのがまず一つと、どうしてもカウンセラーとクライアントの関係に過度な上下関係っていうのかな。
教師と生徒みたいになっちゃうでしょ。
あなたはまだ子供だけれども大人になりなさいねみたいな話になるじゃないですか。
僕はそれが嫌だったから、どうしても自我心理学のこの部分が受け入れられないと思ったんですよね。
言うほど人は社会に適応できたからといって大人になれたわけじゃなくて、たまたまその時調子良くて健康状態も良くて言うんですよね。
自我心理学でも健康状態が悪いと対抗しやすいって。
だったらそれは精神だけの問題にできないじゃんって思うわけですよ。
病気になると子供っぽくなると言うんだったらそれ誰でもなり得るわけじゃないですか。
だから僕は対象関係みたいにポジションっていう方が分かりやすいと思うんですよね。
今自分はどのポジションに入ったのかっていうのを僕は意識する方がまだ対抗よりはだいぶマシな感じがするわけですね。
今はおっぱい飲む私になっちゃいました。
タイミング悪いですよ。
そういうのが企画会議みたいなところに出てくると。
普通出てこないんだけどね。
やっぱりTPを選ぶんですよ。
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だからここにもまたややこしさがあってTPを選んじゃうから畑目にはそんな問題を人が抱えているようにはなかなか見えない。
カウンセリングで特に精神分析で毎日やるとか同じ人と毎日のように1時間会うとかやるのはいろんな自分その中でも特に社会適応性の低い自分っていうのをそこにわざわざ押し出させるためなんですね。
嫌でしょこれ。
普通の人は。
社会適応度の低い自分っていうのは後ろに引っ込ませておいて隠しておいて何なら永遠に出番を与えないぞぐらいな勢いがある人の方が多いと思うんですね。
そういうのがポンポン出てきちゃう人をメンタルが不安定だとかいろいろとパージして攻撃して俺はそういう人間ではないからちゃんとしているからって言いたがるのが人間ってもんじゃないですか。
この辺のことは北山治虫さんがものすごく言ってんだけどいや元気って言われるといや最近全然元気がなくてとか病気ですとかって答える人はまずいないと。
元気ですと答えてしまうと。
そうすると病気であったり器用になっている自分というのは後ろに引っ込んでいくと。
そうならざるを得ないと。
だからこそ精神分析の場というものが必要になってくるんだと。
それは舞台の袖なんだ。
そこに行くと表にいつも出ている自分というものがむしろ引っ込んで裏でにいつも回されている自分というのが出てくる。
そこをケアしていきましょうって話なんですよっていうことは彼はよく書かれていますよね。
そこに行ってもねやっぱり格好をつける人っていっぱいいるわけですよね。
つまりわざわざ袖に行き楽屋裏に行ってるのにそこでも私は一橋のちゃんとした人間ですからってことを強調したがるというそれ自体がもう病理なんだっていう言い方なんですよね。
これは河合駿さんとかが美容院に行った人の夢ってので紹介されてますけど、美容院に行く前に一番良い服を選んで髪もきちんとセットして自分で髪を綺麗に整えてから美容院に行ってやることがありませんと言われた夢を見たと。
そういう話なんですよねこれはね。
だからそれ自体がおかしな行動になってしまっていて、そこに何かすでにこじれたものっていうのが現れてくるっていうような話でもあるわけですよ。
でまた生来に遠回りしてきたんですけど、永田神さんの内的部分対象の話と同時にもう一つ別の本の中で彼女がアルコール依存症になっていく話ありますよね。
でその感想でいただいた中でも私がずっとそれを言いたいんだけど、なんかこううまいタイミングを意識したのとちょっとやっぱり気が引けるってことがあったのが、
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この漫画を読んでわかったのがお酒ってのがこの人にとってのおっぱいになってるんですねっていう。
これがまさに僕がその精神分析をコミックで伝えるって時に伝えたいことの重要な案件で、
喋ってきたつもりなんですけどね、
それがもうある意味一つの全てみたいなところがある話なんですね。
これを人の口から言ってほしいってなかったわけですね、僕はきっと。
だってこれを言うとやっぱりなんかちょっとなんだろうな、今ここでは喋っちゃってますけど、
これを言うとやっぱりなんかねちょっと問題かなーみたいなのがちょっとあるわけですよね。
アルコール依存症の問題っていうのもデリケートだし、
そこに持ってきてこれが性的な話との絡みみたいにどうしても聞こえつつあるじゃないですか。
それはそうなんですけど、なんでアルコールがお酒がおっぱいなのかというと、
つまりお酒を飲むっていうのは大人のやることなんだけれども、
やっぱり永田さんのいつもの問題っていうのは、
結局おっぱいを飲んで安心できていた頃の私に戻りたいという気持ちなんですね。
それと必ずセットになって出てくるのがその頃のお母さんというセットなわけです。
それが彼女が常にいろんなところに求め続けているものなんですけれども。
一つはそういう空想があったんですね。
母なる概念みたいなのによっかかってる。
でもこれ母なる概念によっかかるっていうのはもう完全に自分だけの空想なので、
これで乗り切るのは結構厳しいですよね。
そこで居場所というものを母親代わりにしようとしてバイト始めるとか仕事始めるんだけど、
自分に優しく安心させてくれるためのバイト先っておかしいじゃないですか。
やっぱりこれだと適応度がかなり下がってくるわけですよ。
適応っていう話をするのも文脈上どうしても適応というと適応するのが正しいって感じがしちゃうんで。
だから誤解の元なんで、僕この話をするとき引っかかっちゃうんですよね。
よく言われるんですよ。
こういうことをすごく気にされてる方にしてみると、
佐々木さんはそうやって適応簡単にできるからそういうことを言ってられるけど、
適応って言われると私は傷つきますみたいなケースも少なからずあるわけですけど、
僕は思うにそうじゃないという話をしているつもりなんです。
長田さんが適応しにくくなっているのは、彼女の能力とか性質とか性格のせいじゃないと思うんですよ。
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そうじゃなくて、対象の先が合ってないだけだと思います。
みんなどんな人でも、乳幼児期の私って絶対いると思うんですよ。
ここが僕が思うところのポジション論なんですよ。
自我心理学的に言うと、対抗をそこまでするのは卒業できるって考え方なんだけど、
僕はそういう考え方は成り立たない気がするんですね。
一見適応度がものすごい高い人でも、絶対この乳幼児期の私ってのがいて、
それも結構企画会議とかにも飛び出しきて兼ねないと思うんです。
だからメンタルが安定しているとか不安定だとか言う人って僕はいないと思うんですよ。
そう見えるだけ。
だからその適応できないのは、その企画会議と乳幼児期の私だから適応できないわけです。
その組み合わせだと組み合わせとして良くないわけですよ。
誰がいてもそういうシーンって僕はあると思うんですね。
時間かければ絶対そうなるはずなんですよ。
精神分析の話って結局毎日会えばどんな人でも何かを得られるっていうのは、
逆に言うと毎日やればどんな人でもある意味その場にふさわしくない私ってのが出てこざるを得なくなるって言ってるわけじゃないですか。
言ってるわけなんですよ。僕が考える。
つまり適応度の高い私だけを出すのがメンタルが安定してるっていう発想そのものがもうすでに不安定な発想だと思うんですね。
どんな私がいても大丈夫っていう状態を作り出せるほどいいわけで、
だけれどもやっぱり職場に行って私の安心できる居場所のためにこの職場を使わせてくださいと言うと、
職場によっては非常に適応しがたいミスマッチな感じが出てしまうんですよね。
だから彼女は職場をいくつか変えたんだけど居場所は得られなかった。
彼女はどうしてもそこで抑鬱ポジションの抑鬱状態に入って勘違いしてたんだなって書くんだけど、
僕はそうは思わなかったわけですね。やっぱりそうじゃないだろうって思うんですよ。
でもまあそういうことになっちゃったからとりあえずしょうがないとして、
女性を求める。まさに僕がいつも考えてた通りのことになったわけですよね。
つまり母親のおっぱいを風俗に求める。
これだからつまりお酒にミルクを求めるというのは、
おっぱいを、女性の場合は完全に太高の方が見えるわけですよね。
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どうしても幼かった頃に戻る。
これを男がやると僕がファン座に求めてるのはなんだろうってことになっちゃうんだけど、
性欲じゃないんですよね。85%くらいは。
性欲も入ってきますよ。大人だから。
だけどもしかすると僕は、これはクライアタリーがわりと強調してることなんだけど、
3歳児だって性欲あるでしょみたいな話もあるわけですよ。
こっちの方がわりと強調されることもあるんだけど、
大人だから性欲があるというのはおかしいと思うんですよね。
だから人によってはアルコールに養殖器を求めるし、
人によってはファン座に求めるんですよ。
なぜかってことなんですね。
なぜならば職場って人間関係じゃないですか。
そしてまた風俗もある意味人間関係じゃないですか。
人はだんだんだんだん確実に頼れる方向に向かうはずなんですね。
そうすると物へ向かう。
だから人に依存できない人は物に依存するってよく言われるように、
アルコールとかゲームとかそういった絶対にその関係においてミスマッチって起きないもの。
そっちへと流れるというのかな。向かっていくわけですよね。
その養殖器の自己対処、養殖器の自分ってものを満たしきれないという思いを抱えていて、
しかもその私ってのが繰り返し繰り返し社会の中で登場してしまう人は、
やっぱりどちらかというとそれを人との間でやるとトラブルの元だっていうふうに思うから、
お酒とかギャンブルなのかな。
つまりお金を払えば絶対に拒否されることのないところにそれを持っていくっていうふうになると思うんですね。
僕はこれ対抗で説明するよりは対象関係で説明する方がずっと分かりやすいと思うんですよ。
だって対象を明らかに選んでいますからね。
対抗は自然となんとなく起きてるわけでは全然なくて、
やっぱり対象を選びながら自分がそれを受け止めてもらえる対象というものと、
自分が受け止めて欲しいリビドウというものをセットにして用意しようと頑張っている、
そういう姿が漫画とかではすごくリアルに見えた感じがしたんですよ。
だから私はあれをずっと人に紹介したがるというところがあるわけですね。
ものすごく分かりやすいじゃないですか。
内的部分対象としてのおっぱいがここまで書かれていて、
そしてまず居場所としての職場を求めて、
そしてそれは無理だったからレズ風俗に行きました。
非常にはっきりと何を求めているのかが分かっている行動で、
ある程度漫画を書いて成功してお金に余裕ができたから、
今度はお酒をおっぱいに代わりにしていたら辞められなくなりました。
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辞められなくなりますよね。
それは酔っ払いたいからでもなければ、
お酒が美味しいからでもないですよね。
赤ちゃんの気持ちになって、
お母さんに抱っこされておっぱいを飲んでいれば安心します。
そうじゃないときは不安ですって人が、
お酒をおっぱい代わりにしたら辞められないですよね。
これを辞めろというのは酒を辞めろではなくて、
お母さんに抱っこされたがる私を辞めなさいということですよ。
それができるとは、僕にはあの条件だと絶対思えないんですよ。
あの条件というのは、
生きている条件は畳にはそれほど過酷には見えないかもしれませんけれども、
本人としては、
この寄るべなさを自分の3歳とか2歳で、
この私では生きていけないというところで、
社会と相対さなければいけないというのが、
ものすごく過酷なんですよ。
発達障害のすごい仕事術を書いた借金玉さん。
あの借金玉さんも、
なんとなく書かれてしまっていますけれども、
例えば税務省に税の対応をしていて、
その延滞料も取られましたと。
発達障害なのでこういうのが苦手なんですって言ったら、
大変お気の毒ですが延滞料も含めて全部払ってくださいと言われて、
税務省は厳しいっていうのを書かれてたんだけど、
これなんですよね。
税務省は厳しいんだけど、
それに相対しているのは一般的には成人した大人だと思われているから、
この言い分は厳しくないことになっちゃうんだけど、
厳しいんですよこの言い分は。
なぜならばヘルプレスですが、
2歳児にとってはそんなことを言われるのは厳しいじゃないですか。
で、これをやっぱりどうしても対抗って言っちゃうんですよね。
でも僕にはやっぱりこう、
リビドウが向かう対象関係としての自分が、
動作ない自分が出てきてしまっているっていうようなニュアンスの方が、
どっちでもいいんだけどこれは別に。
僕にはリアリティが感じられるっていうことなんです。
で、やっぱりこのその時過酷だということがあるから、
ここを認めないとダメだと思うんですよ。
こんなものは過酷でもなんでもなくて、
大人なら当たり前なのに、
自分は発達障害だからうまくいかないんだって考えてしまうと、
何も取り除けないじゃないですか。
過酷でないことになっちゃってしまったら、
なんでじゃあできないのかの説明がどこにもないことになりますよね。
過酷だと説明して見て初めて、
誰にとっては過酷なんだろうっていう風な観点ができると思うんですよ。
誰にとって過酷なのかと考えてみると、
それはおっぱいを飲んで生きているのが精一杯な人にとっては過酷だよね。
ではどうしておっぱいを飲んで生きているのが精一杯な人に、
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今のこの借金玉さんは20歳になったのになってるんだろうっていう風に、
展開していかないと何も見えてこないと思いますね。
で、遠帯料を払うというその税務署の、
税務署が過酷だってんではないんですよ。
税務署が過酷に見えるそういう視点があるという風にして捉えてみると、
この問題は発達障害という言葉は、
なかなか上手い言い方ですけど、
何かの発達が障害されていると。
でもそれはやっぱり対抗的なものの見方と似てるんですよ。
この人は乳幼児から発達できない。
でもそんなことないじゃないですか。
借金玉さんは本も書いている。
本乳幼児じゃ絶対書けないですよ。
だから僕はこの人が対抗しているとか、
0歳児から発達が障害しているなんて考えるんではなくて、
0歳児の自分もいるし、
20何歳の自分も30何歳もの自分もいるんだけど、
どうしてもその何らかの理由でですね、
0歳児の自分ができないことを、
0歳児の自分がしなきゃいけないようなシチュエーションが
セットされちゃっているって考えるのが、
分かりやすいと思うんですよ。
そういうふうに考えてみると、
0歳児の自分ではできないことに直面したときに、
何をするかといったら、
何もしないんですよね。
何もしないからこそ延滞していくわけじゃないですか。
この税金っていうのを、
そういうふうに考えると、
税金をたまたま忘れるとかではないなって思うんですよ。
たまたま部屋を片付けられないわけでもないなって思うんですよ。
0歳児だったら、
特側上が来てもうまく対応できないだろうし、
部屋を片付けるって言ってもやっぱりできないだろうし、
じゃあなんでその部屋にいるときに、
本を書くときは0歳児じゃないのに、
どうしてその部屋にいてくつろいでるときは、
0歳児になっちゃうんだろう。
でも僕らだって、
そういうことになるときはあるじゃないですか。
つまり夜眠ってる真っ最中ですよ。
どんなに日頃から、
美容院に行く前に髪をセットするほど、
いつもいつも人前では大人になってなければいけないと思う人だって、
夜の2時に、
2時に寝てる人の場合ね、
夜の2時にぐっすり眠ってるときは、
ほぼ乳幼児じゃないですか。
つまりシチュエーションの問題なんですよ、これは。
マッチングの問題なんですよね。
シチュエーションと、
その時々に出している自分がマッチしているかどうかの問題であって、
乳幼児に戻るからダメですとか、
それは卒業しなければいけませんっていう問題にしちゃうと、
何にもこれ問題が前に進まない。
いろんな自分はどうせ出ちゃうと。
あとは、いつどのようにして出ているかっていうだけの問題で、
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この話がですね、
僕は時間の話にだんだんなっているんじゃないかとも思うんですよね。
夜寝てるとき0歳児になるのはいいわけじゃないですか。
そうすると、
今時の私たちがよく言う中でも一番困った話がですね、
20何歳の自分の時間を23時間にしたいですって、
この要求が無理なんですよ。
つまり、0歳児の自分がいるのはいいですが、
そいつは永遠に出てこないでほしいとか、
寝てるときだけ出るようにしてほしいとか、
そういう無茶な要求をするから、
この問題がどんどんどんどんこじれていくわけですよね。
僕は永田神さんのも、
百金玉さんの本を読んだ時も思ったことがあって、
この人たちは何も問題はないはずだって思うんですよ。
だって仕事はしてるわけだし、
漫画、片山漫画書いてる。何冊も書いてますからね。
私なんか漫画なんて一冊も書けませんから。
で、本も、百金玉さんもそうだけど、
本、あんなに売れる本が書いてる。
どうしてここまでやれる人なのに、
問題だってことにこれはなっちゃうんだろうと思うんですね。
問題一つもないじゃないですか。
何ならば、彼女が職場にいた時もですね、
彼女は永田さんが職場にいた時も、
チキンラーメンみたいなやつ、お湯も使わずに食べるみたいな。
どうしてそれが問題なんですかね。
お湯を使って食べた方がいいと思うんだけど、
私も職場でチキンラーメン食べるのは、
ちっとも問題ないような気がしないんですね。
つまり、職場は彼女が幼い頃の彼女みたいなのを受け止めるという時間を
いくらかでも設けてあげて、
みんなが受け止めるっていう雰囲気を作ることさえできればですね、
彼女は多分、普通にあそこで仕事をするために必要な技能を
全部提供できてたと思うんですよね。
できてるとあの漫画ないから、できてなくていい。
私にとっては良かった面がないわけではないんですけど、
そういう言い方になってしまいますけど、
あの過酷さってのは、僕はすごく間違って提出、
暗出されてしまった過酷さのような気しかしないんですね。
いらんだろそれって感じがするんですよ。
永田さんは何とか居場所に踏みとどまりたいんだけど、
上から冷ややかに眺めている人たちが、
崖っぷちの中で永田さんを見下ろしてるっていうシーンがあったんだけど、
そういう風に見えちゃうって、それはもちろん彼女のイリュージョンなんだけど、
そういう風に見えちゃうということ自体が問題だと僕はむしろ思うんですよね。
だって彼女が無能だったわけでも問題を引き起こしたわけでもないんだから、
普通に働けるように雰囲気を作るなんてことは、
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その気になれば簡単にできることだと僕は思うんですよね。
その気にならないんだとすると、
そうやって冷ややかに上から、崖から落ちていく永田さんを精神的にね、
崖から落ちたようなのを冷ややかに眺めているっていう方を選択するんだとしたら、
どうしてなんだろうなって思うんですよね。
世の中の厳しさを教えたいとか、人にはそういう欲求ってあるんだけれども、
それはつまりその人の長時間の問題なんですけどね。
話がちょっとずれるんで、ここはすっ飛ばしますが、
いらないんですよね、その種のものって。
対して全く何の意味もない上に、何の役にも立たないんですよ。
ただそれは、ある種の人たちの甘えというものを悪いものと言いまして、
その甘えというものを否定するっていうことが、
自分のアイデンティティに沿うっていう気持ちを満足させる上で、
微妙に役に立つぐらいなものでしかないんですね。
もっと対照関係論的に言った方がいいんでしょうけれども、
今私は短い説明にしたかったんで、
ちょっと今自我心理学的な話に持ってって、
しかもこの方が分かりやすいかなと思ってしまったんですけどね。
人それぞれの対照関係の中での心理的なこじれって絶対あるってことなんですよ。
なぜ職場の雰囲気を柔らかいものとか温かいものとか、
もうちょっと言うと甘えを受け止められるものにしておけないのかというと、
その人たちはその人たちの心の中で頑張ってるからなんですよね。
幼い自分というものが肯定されるようでは、
職場として成り立たないって思ってるわけですよ。
ここは職場なんだから、大人の職場なんだから、
子供が働けるような場所であってはダメになってしまうっていう風に考えることにしているんですね。
で、それが大きな間違いだと僕は思うんですよ。
そういうことを考えるから、別に何にも問題のない人がそこにいたのに、
その人を追い出すことになっていくわけじゃないですか。
そうすることによって自分の心の中の幼児な部分というものを否定することになっていきますよね、当然。
僕はそっちがいわゆるADDとか今の発達障害と言われている問題なんだろうと最近は思うんですよ。
その人たちに何にも問題がないんですよ。
ただそこにミスマッチというものが作り出されてしまう。
幼児な自分ってみんな持ってるのに持ってないことに無理矢理してしまうので、
幼児な自分がどちらかというと目につきやすいとか、多分そうですらないんですよね。
幼児な自分がたまたま出した人をたまたまパージすることによって、
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我々自身の職場なり世の中というものを一歩発達障害というものを作り出す方向に向けてしまうんじゃないかというふうにすら思うときはあるんですよ。
そのことがですね、お酒をおっぱい代わりにするアズマ・ヒデオさんの失踪日記が全くそういう話だなって僕は思ったんですよね。
彼も何も問題のない人なんですよ。
何も問題がない人なのに彼は失踪してアルコール依存症になっていく。
あれも完全に彼にとってお酒がおっぱいなんですよね。
だから仕事に行けなくなるわけです。
ところどころで、漫画家の編集さんって厳しいのかな。
僕は編集さんに著者が泣かされるなんて到底信じられないんですよね。
逆じゃないのかくらいに思うほど不思議なんですよ。
だって著者の方が偉い感じに一応なってるじゃないですか。
建前なんだろうけど、一応そういう感じになってますよね。
だからなんでアズマさんが泣かなきゃならないのか。
しかもあんな売れっ子なのにって。
とっても僕は不思議に思ったんですけど。
泣いて帰ったっていうシーンが2回ぐらいかな。
2回出てくるってことは、よっぽど本人は傷ついたと思うんですよね。
これはもう完全に悪い父親に徹底的に、正直これをだから虚勢されたって言うんですよね。
リビドウが対象に向かうことを否定されているわけですよね。
だからお前はもうその幼児に戻ってしまえってこと。
つまりその大人の何らかの形で大人になっている自己対象ね。
それがリビドウを発揮する、つまり漫画家ってことだと思うんだけど。
頭ごなすに完全に否定されると、人は残った自己を出して職部じゃないところに行くしかなくなっちゃいますよね。
だから彼は失踪したんだろうし、ひたすらお酒を飲んで、ひたすら女子高生の絵を描いていたんだけれども、
身体が空いていけなくなるわけですよね、そういう生活には。
どうしてこれでアスマさんが悪いんだろうって思うんですよ。
僕なんかどこも彼は悪くないじゃないですか。
あえて言うならば、彼を多分何の意味もなく泣かせた人が悪いわけですよ。
あえて言うならばね。
その人はその人で、全然違う要求を満たしてるんだけれども、
だからそこは行き違いなんですけどね、結局ね。
だからそういうふうに、僕は思う。
彼にせよ、永田さんの話にせよ、借金玉さんの話にせよ、
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この人たちは何も悪くはないよなと思うんですよね。
病気ですらないと思うんですよ、ある意味では。
永田さんはともかく、あずま秀夫さん、あの永田さんもそうだよね。
別に病名がつくようなこれといった症状はないですもんね。
幻覚見るとかいうわけじゃないですし。
アルコール依存症があずまさんのケースではありますけど、
それは酒の飲みすぎであって、体の病気が先に出てきてますもんね。
なんか手のひらがやたら赤くなるとか、それは肝臓の何かみたいなんですけど、
それ完全に体の病気であって、しかも朝から初中のずっと飲んでるとそうなるよねっていう話でしかないので、
メンタルの問題じゃないだろうっていう風な感じを抱きます。
ただ、そういうことを言っても、編集さんに会って泣いちゃうことはあるのでね。
その時にやっぱり僕は、普通の人がというところまでは遠いとは思うんですけれども、
対象という問題は知っておく価値があるとは思うんですよね。
あれは対象喪失っていうような話になってくると思うんだけれども、
つまりはリビドウと対象はセットなんですよ。
いいおっぱいといい私はセットなんですよ。
これは良い意味じゃないですよ。あんまり良くない意味です。
例えば良いおっぱいの中には良いお酒があるんですよ。
フェアバーンが指摘した部分ですね。
良い対象は私癖的になってしまう。
悪いおっぱいっていうのはママ母とか魔女ですよ。
2は悪い自己対象、あるいは惨めな自己対象はセットなんですよ。
シンデレラは惨めだったじゃないですか。
お掃除を推しとか言われると惨めになるんですよ。
これは完全に子供の観点ですよね。
ご飯の良い手伝いなさいって言うと、
いつもの優しいお母さんはどこ行ったって話になるの。
これは完全に子供の観点ですよね。
ママ母が悪いわけではないですよ。
なんだけれども、悪い対象とこの惨めなリビドウが抑えられている私はセットなんですよ。
こういうセットをいくつかも私たちは当然持っているに決まっていて、
不意に出てしまう。しょうがないんですよ。
不意に出てしまうというのが、
適切なところでだけ適切に出ている場合には適応的だと言われるし、
メンタルが安定していると言われるでしょうけれども、
そんなことはないんですよ。
それはたまたまなんですよ。
たまたまだと私は思うんです。
お金をすごく持っている人は適切に出すという関係を広げることはできますよね、当然。
でもそれはメンタルが安定していることにはならないと僕は思うんですよ。
むしろ全然全くね。
だからむしろお金の力で対象関係を上手にやっている感じになっている人が、
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むしろメンタルを厳しい状態にしていってしまうということは当然あるわけですよね。
そんなことをセッションで聞いた中で思ったんですけど、
やっぱりこれはそうなんですよ。
お酒がおっぱい代わりになっているというのは実に正しいと思う。
もう僕の目にはですね、
永田さんの漫画を読んでいるとおっぱいを吸っていると酔っ払っていく彼女の感じが伝わってくる気がするんですよね。
そんなシーンは描かれていませんけどね。