00:05
おはようございます、グッドモーニングボイスです。
音質をですね、少し良くしたいと思って、いかにもがらにもないことをやり始めちゃっているんですけれども、
こういう試みというのは、あんまり続かないものなので、
適当に見守っていてくださいといったところなんですが、
今週の土曜日から、先送りしなくなるための1ヶ月チャレンジというのをまだですね、応募を募集しております。
第1期、第2期、2期目なんですね。
こちら1ヶ月のチャレンジなので、1ヶ月の間に小規模コミュニティでですね、
私と倉園圭三さんの方で、何か心が折れそうになったら先送りしなくするために色々とコメントを出させていただいたりすると。
最初にレクチャーがあるんですけどね。
そのレクチャーで先送り明日からやめようって、多分それは思えるようになるかなと思っているんですが、
翌日になると不思議なことにですね、不思議でもなんでもないですが、その種の効果は消え失せてしまうことが多いので、
その防止のためのコミュニティといったものも用意していると、そういった内容になっています。
とはいえですね、最近思うんですよ。
言葉だけで一発変化が起きるのかと言われると微妙かもしれないんですが、やっぱりこれは起こらないとなっていうのもあります。
徐々に起きる変化ももちろんあるんですけれども、私自身の経験ではですね、
やっぱりなんていうんですかね、ちょっと待ってくださいね。
なんていうのかな、あれですね、唐突にそう思えるようになるタイミングがあるとか、
そういった言い回しにぶつかるといったことも実際あるんですよね。
例えば私自身がもうだいぶですね、これ今までに比べれば、最近あんまり話していませんけれども、
私自身のミッドクライシス、中年の危機の中で、体中にジンマシンができたあの頃に比べればですね、
明らかに今私の身体は、まあ心身はですね、楽になっているわけですよ。
これはもうグッドバイブスがその間にある以外の何もなかったんですね。
03:05
グッドバイブスが全てだとまで言い切るつもりはないですけれども、
その前から私はこの家に住んでいて、妻子と暮らしていて、タスクシュートもやっていて、
コロナが入ったとはいえ、コロナでジンマシンになったわけじゃないですしね。
コロナがなくなったわけでもないですしね。
ジンマシンはなくなったわけですよ。跡形もなくですよね。不思議ですよ、本当に。
あれが身体の病気じゃないと言うなら、身体の病気じゃなかったんですが、
私は近いところのクリニックに行って薬もいただいたんですよ。
14日分、それを律儀に飲んでも一向に治んなかったのに、治っちゃってるわけですからね。
これが心身症というものの凄みだなって思うんですよ。
極論、自分で自分のジンマシンを出させているわけですよね。
自分で自分のジンマシンを引っ込めることもできたんだけど、
一体どうやって出して、どうやって引っ込めたのか、全然わからない。
そういうふうに言っていいと思うんですね。
お腹も苦しかったけど、悪かったってわけじゃないですし、
それこそ、あの時にタイミングで行った時に、
そのタイミングでイカメラというものを飲みましたね。
私は麻酔じゃなく飲んだんで、もう本当に辛かったんですよね。
一度やってみたかったっていうところがどっかにあったんですね。
実際見えるわけですよ、自分の胃の中も。
バッチリ今ではデジタルで動画も撮って、
それを後でコンピューターで見せてもらうんで、
自分の胃はなかなか綺麗だなということも見ました。
つまりなんてことないんですよ。
そういう検査をしても何も出てこないのにジンマシンは出てくる。
そして引っ込まない。
けれどもそれがグッドバイブスで引っ込んじゃう。
なんなんだろうっていう話ですよね。
怖さがないっていうのは、こんなに決定的な力を持った場合には、
違いを生むんですよね。
それだけの心の影響というものは絶大だと。
そういう言い方をしてもいいかなと思うんですね。
その話をですね。
さっき、ついさっきですね。
戸畑海人さんの何でも見つかる夜に心だけが見つからない。
にも全く同じ話が出てくる。
で、その前に昼頃に読んでいたヒステリー分析の断片。
ドーラの症例の本ですけど。
ここにも全く同じ話が載ってはいる。
ただ、どうしてもそういうのって自分ごとじゃないんですよね。
だってそんな奇妙な体験は通常しませんから。
私もあんなにジンマシンを自分の体から出てきたのは、
見たほどがなかったですし。
06:02
何ならそれを引っ込める力がある。
何ならそれを引っ込める力が自分にあると。
あれ出してるのも自分だと心だからね。
言ってもいいんだけど。
未だにどうやればもう一回出てくるかは分かんない。
もう二度と出したくはないですが。
どうやればもう一回出てくるのかなんて分かんないし。
自分でやったとはいえですね。
どうやればそれを引っ込められるのかも分かんない。
つまり自分の中には、
明らかに自分では理解できない自分がいるわけですよ。
これは今となっては常識ですよね。
だって無意識って人は言ってるじゃないですか。
無意識は無ですから。
意識できない意識ですから。
それがあるってことは、
自分では制御絶対できない自分がいると。
しかもフロイトに言わせれば、
そっちの方がでかいぞって話なんですよ。
たぶん僕らはこれを本当のトピックで
心信じていませんよね。
これ本気で信じていれば、
例えば、
なぜ先送りを自分はしてしまうのか、
全く許せないとかっていう発想にはならないんですよね。
そして、なぜ自分はこれを克服できないのか、
その些細な問題だと思っている問題が
克服できないのか、全く許せないなどという
発想にもならないんですよ。
もし自分でジンマシン出せないのに、
でも自分が出したわけですよ。
自分で引っ込める方法を知らないのに、
自分で引っ込めたわけですよ。
これを一度はっきりと体験してしまうと、
疑うわけにはいかなくなる部分があります。
無理なんだと。
だってこれ、
どうやったってできないことを
自分がやってのけちゃってるわけだから、
無理なんですよ。
でもよく考えてみると、
そんなことはいくらもありますよね。
例えば自分は、
呼吸の仕方を本当の意味では知らない。
だから、私が知らないでやっている
私の能力がなくなれば、
多分私は呼吸できなくなって死ぬんですよ。
そういうことはいくらもありますよね。
自分、心臓の動かし方を知らない。
だから、知っている自分がやってくれないと
大変なことになっちゃうわけですよ。
心臓止まって死んじゃいますよね。
そういう部分のことを
全体で考えてみたら、
自分よりずっとでかいんですよね。
この知らないでやっている自分というのは、
強大だし、力も強いし、
有能だし、
ということを聞かせることもできない。
ここを無理やりコントロールしようとすると、
例えば、
OCDみたいなね、
脅迫神経症みたいな話になってくるんだと思うんですよ。
コントロール欲求が異様に強いと、
そういう話になって来ざるを得ませんよね。
私が自分で心臓の状態もコントロールするんだと、
そんなことをもう人はいないと思うんですけれども、
なるべく物忘れをする自分、
しない自分は、
徹底的に自分でコントロールしたいとか、
そういった話になると、
無理が出るんですね。
その戸端さんのさっき読んだ本では、
09:02
割と徹底的にPDCAの過剰というものを
取り沙汰されているんですよ。
この辺現代的ですよね。
臨床の本でありながら、
PDCAという言葉が何度も何度も出てくる。
ちょっと出過ぎだなって思いますね。
昨日かき上げ塾やったばっかりなので、
一昨日か、
こういうふうにあまりに重複している言葉は、
何とか動かしたいと思わなくもないけど、
あのPDCAという言葉を
違う言葉に置き換えちゃうと、
ちょっと分かりにくくなってしまうのかもしれませんね。
PDCAが過剰だと。
Pはプランですよね。
諸説あって、
実は全く同じ言葉の定義ではないんですけど、
プラン、Do、ここまでは一緒なんですけど、
アナリティクスとチェック、
この辺ちょっと色々諸説あるんですよね。
実は私、この中のどこにも
ログってないなって、
ちょっと密かに思っております。
計画をして実行して、
分析をしてチェックをする、
そしてまたそれを計画に生かすって言うんだけど、
ログがないなと。
だからですね、
あの本読んでて微妙な気持ちになるんですよ、
戸畑さんの本読んでても。
きっとタスクシュートみたいなものも
このPDCAというものの中に含められているんですけど、
PDCAというものの中に
含められるんだろうなと思うんですよ。
何度も言うけど、
そういうものではないんですよね、
もともとは。
だってログから始まるものなのに、
ログどこにも出てきませんからね、
PDCAの中には。
それに、だけれどもですね、
PDCAにも使えちゃうんですよ。
ここがまためんどくさいんですよね。
ツールなんで、
やろうと思えば何にでもは無理でも、
多くの応用は効きますよね。
その方がいいツールですし、
だからPDCAに使いたいということになれば、
それも可能になるんですよ。
だから余計、
いやあれはもうPDCAそのものでしょうと
言われてしまえば、
そうではないんだけど、
そういう使い方もできますと。
そういう話にはなりますよね。
そのPDCAが、
非常に長けているというか、
それにすがりつくようにして生きてきた人が、
不眠になると。
不眠ぐらいには当然なりますよ。
だって、
寝ない方がいいって思いますでしょ。
そういう人であれば。
そういう価値観を無意識の方に
どんどんどんどん送り込んでいくわけです。
日々ですよね。
毎時毎時。
しかも大事な場面でこそやるじゃないですか。
寝る時間少なければ少ないほど
PをたくさんDoできるんだって
発想があるんだから。
それは眠れなくなるぐらいは。
十分、
臨床のところに行くまでもなくね、
そんな結果にもなり得るでしょうと。
それで、
だから寝る方法は実は
もう難しくは本当はないはずだと思うんですね。
単純に考えればなんだけど、
PDCA辞めればいいわけですよ。
そうすれば寝られるようになる。
これができないんですよね。
私たちは怖い。
12:00
あの、
また、
何度も何度も同じ話をするようで
あれなんですが、
家族ゲームもそうでした。
家族ゲームが一番いいですよね。
家族ゲームで出てきます。
PDCAやるしんいちくんです。
彼が言ってましたね。
その通りのことを言っていたと思うんですよ。
3半歩先が読めないときには
自分は一歩も踏み出せないんだと。
あれは非常に文学的でいい表現だと思うんですけど。
つまり、
全く同じことが書いてありました。
戸綾さんの本にも。
PDCAが回っているときに
一歩も踏み出せない。
PDCAが回っていないときは
不安で不安で仕方がない。
だけどPDCAが回っていない瞬間の方が
私たちの人生では
大いに決まっているのですから。
そもそもPDCAが常に回っているという前提が
おかしいですからね。
ほんのわずかな出来事だって
そうじゃないことは
多々あるはずですよね。
ごく簡単に言うと
雨が降り出しました。
この段階ですでに
プランしていたかどうかは疑わしいですよ。
ここで雨が降る計画だったとか
言ったことは
厳密に言うと
狂わされることの方が多いはずですから。
厳密にやらないと不安だっていうことになれば
この種の話は必ず
Pは無理でも
何か対策を打っておかない訳にいかないんです。
あらゆるものを予報しなければならないんですけど
そんなことは土台できないことですから。
特に難しいのが
やっぱり睡眠といった
あの辺ですよね。
もともとそれが何になるのかが
はっきり決まっていないもの。
もちろん疲労回復っていう
目論みはあるのかもしれませんけど
それにしては8時間は長いとか
6時間でも長いとか
ひどい話になってくると
3時間でも長いって話になりますからね。
何時間寝れば
疲れが取れるのかに対する
決定的なエビデンスみたいなものが
ない訳ですよ。
たぶん寝るというのは
疲労を回復することだけが目的ではありませんからね。
もともと。
この言葉でも相当違和感があるって
思われるかもしれませんけど
たぶん私は疲労回復が
全目的であるという風には
到底思えないんですよ。
そういうような話が
PDCAみたいな
非常に単純な
単純極まりない方法論の中では
救い上げようがないと思うんですね。
自分がやっている全行動を
PDCAにまとめ上げよう
みたいな話をすればですね。
まとめ上がらない部分の方が
圧倒的に決まっていると思うんですよね。
こういう話も
私のタスクシュートを使っている中には
出てこざるを得ないって
言った方がいいと思いますね。
最初から狙って出すってものじゃないので。
つまり例えば
15:01
誰もがそこのところが
やっぱりPDCA過剰に見えるであろう
1分単位で記録するって
1分単位の記録っていうのは
実は表現として不自然なんですよ。
厳密には間を空けないように
記録をするなんですね。
なんで間を空けちゃいけないんですかって
思われると思うんですけど
そうではなく
間を空けないように記録を取ろうとすればですね
必ずどんな人だってですね
無駄なことが始まるんですよ、そこで。
これを発見することが大事だって思うんですよね。
これをしかも
リアルタイムに発見できるんですよ。
例えば僕なんかよくあるんですけど
散歩をするわけですね。
散歩をしたら
その後すぐに
そのまま庭に行って
庭の手入れがしたいんですね。
庭ケアみたいなのが
タスクとしてあるんですよ。
ところが散歩帰ってくると
不意に休むんですね。
休んじゃうわけですね。
ここで
書いていないことの記録が始まるんですよ。
あ、休まないとダメだなっていうのがあるんですよ。
で、何にも書いてなかったものだから
これはプランできないんですね。
散歩してみないと分かんないんですよ。
分かるだろうって言われるかもしれませんが
散歩したまますぐに
庭行けることだってあるんですよ。
その日その日の体調と
天候次第なんですよ。
この種のことを言うと
いまいち何言ってるのか
分からないかもしれませんけれども
これが分かるためには
私でなきゃダメなんですね。
ここが最大のポイントなんだと
僕は思っています。
私自身になってみないと
この感覚は分かんないんですよ。
本当の意味では。
だからタスクシュートの記録って
すごく大事なんですよ。
私自身であるとはどういうことかってことが
実はあそこに現れてくる感じが
私の中にあるんですね。
私の見ている目の前で
私ってどういう人間なんだろうと
それがですね
瞬間瞬間変わるじゃないですか。
事前には決してイメージできていない
私自身というものが
その瞬間にふーっと上がってくるんですよ。
ここは休む。
ここは私は休むんだと。
大橋さんなら休まないかもしれないけど
J松崎さんなら休まないかもしれないけど
私は休むんだと。
ここは譲れないんだっていう
その感じが
リアルタイムに記録を残した瞬間に
見えるんですよ。
これが見えるようにならなかったら
あのツールを使う意味って
僕は急有難なくなるというふうに思うんですね。
ここが無駄だって思うのは結構なんですよ。
俺は無駄なことをするんだっていうふうに
いったん思うのも
まあよしとしますよ。
だけれども何度も何度も
それをやるとなってくると
18:00
それは無駄だっていうだけでは
済まされないと思うんですね。
でもいつもいつもやるというのとも
また違うんですよね。
日によってはやらないんですよ。
だからといって
どっちかに統一することもできないと
私は思うんですね。
こういうのを揺らぎっていうんじゃないですかね。
こういう揺らぎっていうのが
人間であるんだから
生物であるんだから
あるに決まっていると思うんですね。
揺らぎっていうのは
無生物にすらあるんですよ。
無生物って難しいですけどね。
波が揺らぐみたいな話。
海の波がですね揺らぐっていうような話で
じゃあ海は死んでるのかっていうと
微妙な話になってくるじゃないですか。
海には生き物いっぱいいますしね。
とにかく生きている以上揺らぐんですね。
揺らぎっていうのは
いかにも自分らしいじゃないですか。
揺らがないですよね。
揺らがないように設計されている
プログラムとかだったら揺らがない。
この方がいいっていう風に
人が思うとすると
要注意だと思うんですね私は。
それ生きているってことは
捨てようとしていないかって
感じがしますからね。
でタスクシュートっていうのはですね
それをリアルタイムに
ログを撮ろうとするからだけ見えて
リアルタイムでログを撮ろうとして
初めて見えてくる。
それ以外の方法では
間を開けずにログを撮ろうとしなければ
こんなものは出てこないんで
済むんですよ。
散歩、庭のケア、その間少々休んだって
その記録いらないっていう話になってしまえば
これを自覚することなく
済ませることはできるんですね。
でもこれを自覚しないと
私ってものは見えてこないんですよ。
でこれを私昔は
攻めぎ合いって表現してたんですけど
攻めぎ合いって言うと
いかにも時間を
攻めぎ奪い合ってるっていう
感じになるじゃないですか。
本当は攻めぎ合いじゃないなって
思うんですね。
私自身であるとはこういうことだ
っていう感じなんですね。
それをリアルタイムで
掴み取りたいんですね。
後でログを見て
ここで私疲れたから休んじゃったんだな
では全然
切迫感が伝わってこない。
その時はもう休むというのが
私の
言うならば唯一の選択である
って感じがやっぱりあるんですよ。
でその時に
是非ですね
唯一の選択であるというような
選択をいくつか
してみて
記録を取るのがいいと思うんですね。
他の何をしてもいいんだけど
これをするのではなしに
それしかないんだっていう感じと
共に残す記録
それが最もある意味
自分らしい記録になるじゃないですか。
ある意味で
だらだらYouTubeって話
昨日もしましたけど
これ以外は
無くてもいいような行為なんですね。
本人がそう思ってる。
本人がもし
ここはYouTube以外ありえないなって
思うんだったら
それは非常に良いんですよ
21:01
私の感じでは。
これ以外はありえないっていう行為をして
しかもその記録を残そうという
意識の上で
記録すると
これが大事なんですよ。
私がトイレって盛んに言ってるのは
これなんですね。
それがあるじゃないですか。
ここで行けなかったら大変だなっていう
タイミングってあるじゃないですか。
それが自分ってことだと思うんですよ。
自分が生きているっていうことだと思うんですよね。
だからAでもいいしBでもいいしCでもいいし
Dでもいい中でのBっていう記録ではなしに
Bしかない。
それを選ぶのは自分だっていう
その意思と選択が極めて鮮明になったところの記録
これを残したいんですよ。
そしてそれが
残ってるのを後で見るっていうのではないんですよね。
それを残すっていうその瞬間が
とっても大事なんだと
言いたいんですね私は。
この感覚で
仕事ができたとき
非常にいい感じがあるんです。
本当に分かったなっていうのは
そういう時に現れるんですよ。
休むっていうのは自分の体のためだけど
これがですね
人の仕事のために
起こるんですよ時々。
これを今
例えばこのコメントを今付けるしかないと
100日チャレンジで時々起こるんですよね。
このコメント今付けてあげたいと
そしてそれを付けている自分っていうのを
その時には記録しませんけど
でもコメントは記録みたいなもんだから
その意識の上でやるんですよね。
これは全く自分にしかできない感じっていうのが
その時上がってくるんですよ。
仕事であるにも関わらず
まるでトイレに行くような
自然さと切迫感と
必然性っていうものを感じながら
その行為に入っていく。
そういうタイミングを
逃したくないわけですね。
逃さずに捉えていこうと。
これを捉えておくと
自分が自分であることに対する
何て言うんですかね。
かけがえのなさと言ったら
ちょっとよく言い過ぎかもしれませんけど
やっぱり必然性ですね。
こっちをやってもいいし
あっちをやってもいいというような
時間じゃなくて
これをやる。
自分がこれをやるということ以外は
選択の余地は一切ないような
感じがするような
それってつまり自分が本当に
本当に生きているっていうのかな。
イリュージョンじゃない。
そういう感じがする。
そういうことの積み重ねで
なんかですね
タイムマネジメントというようなものは
一番うまくいくんじゃないかなと
思っております。
信じているというのに近い感じなんですね。
これはだから
私の感じではなんですけど
半歩先が読めないと不安だからやる
PDCAとかでは全くないんですよね。
24:00
全くそれとは全然逆。
ほとんど逆のもののような気がします。
今このコメントを読むと
今このコメントをつけるのが
つける以外の選択肢はないからつける。
やっぱりトイレとかの方が
こういう時は分かりやすいですよね。
コメントとかをつけるよりは。
何か半歩先の懸念を払拭するために
私いい成績を取っていないと
さっきそういう本でしたね。
ミッキーさんって方。
いい成績を取っていないと
お父さんに家から追い出されるかもしれないから
大変困った家だなと思うんですけど。
だから勉強していく計画を立てて
勉強しているときは安心できるっていう話なんだけど
これって何の必然性もないじゃないですか。
ある意味危機感だけがあってそこには。
いい成績を取るために勉強しているっていうのは
本人にとっての必然性が全く
全くそこにそういうものが現れてこないですよね。
ただお父さんが非常に理不尽に怒って
とても恐ろしいから
勉強しておくことで
その予防を張っておこうって話ですよね。
何かこう、現実というものがですね
予防線以上の意味を持たなくなってしまってる。
保険というものを買うときって
保険が欲しくて欲しくてたまらなくて保険を買うっていう
そういう必然性は何もないじゃないですか。
買って悪いってことはないかもしれないけれども
保険を買うというのは
つまり未来に何か悪いことを
今現在保険を手に入れてどうこうするっていう部分は
何もない買い物ですよね。
それと似てますよね。
この恐怖からPDCAをするという話は。
これさえやっとけば安心だっていうのは
それをやる実は必然性があるんですよね。
それをやる実は必然性って別にないわけですよ。
今この瞬間においては。
それだと自分はその時空白になってしまいます。
そのような時間を取ることも
僕らはいくらかは必要なのかもしれないんですけれども
いくらかで済ませないと厄介なことになると思うんですよ。
寝るという時には明日寝不足にならないためとか
食べるという時はプレゼン中に空腹にならないためとか
全部先の予防が全てになってしまう。
それってとってもユング的な言い方をするならば
ペルソナが全て。ペルソナって仮面なんだけど
仮面が全ての人っておかしいじゃないですか。
自分の顔はあるんだけど
一度も人に見せたことがありません。
そういう章例もあるんですけどね。
ずっとお面で生きています。
それは明らかに奇妙な話ですよね。
27:00
そうなってしまいかねないようなことは
やっぱりやめられるなら極力やめておくに限ると思うんですね。
実際あの本読んでいて
その前作ではないんだけどその前に出ていた
心はどこに消えたにも登場するんですよ。
あの同じ女性がミキさんという女性がですね。
でも今回の本の方がはるかに最初から最後まで
カウンセリングビシッと書かれていて追われていて
これは大変だよなと。
あんなもんではないというケースもあるんでしょうけど
あれはあれでやっぱ大変だよなって思いますよね。
で、あの大変さを考えるならばですね。
やっぱりこうペルソナというもので
人生回していくということの
あのある種のリスクだと思うんですけれども
そのそれを何て言いますか。
その先送りとかそういった問題が見えるだけで
済んでいる段階で手を打って
手を打つというのかな。
手を打つんではないですよね。
逆なんですよ。
その段階でもうですね。
一切止めにしてそういうことは
一旦やりたいだけのことをやるというのがいいと思うんですね。
そうすると多分
あんまり何にもない可能性が高いと思うんですよ。
あんまりない、何にもない、やることがない。
これが必要なんじゃないかなって思います。
つまり何にもしない時間。
タスクシュートにおいても何にもしない時間。
タスクシュートにおいても
最も記録しにくい時間ですよ。
何もしない。
私最近つけてるんですね。
それこそPなんですけど
何もしない計画というものがあるんですよ。
この時間も何もしないぞと。
あるいは何かをする前ですね。
私は今朝1番で何もしないという時間を取るんですね。
これは結構難しいんですが
結構僕はいるなと思っていて
割と努力しています。
あと仕事始める前ですね。
大沢さんも同じようなことをおっしゃってたんですけど
多分私もトライしてることは全く同じです。
とにかく自分をある意味無にする。
特に頭の中身は無にする。
寝る前ですね。
これも必ずやるようにはしています。
この無の時間を取るというのは
つまりこれがつまり何て言うんですかね。
究極的にはただ生きてるっていうことじゃないですか。
私究極的には第二領域であろうと何であろうと同じだと思うんですよ。
お金を儲けて最終的に何がしたいのかと。
全て満足したと。
無になりたいんじゃないですかね。
全ての目的は叶えたと。
そしてふと一息つきたい。
それだったらやっぱり今すぐできると思うんですよね。