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2024-02-12 39:49

疲れやすければ「非日常」を生きてみる【GMV934】

『続ける思考』の井上新八さんのお話をヒントにしゃべってみました。
00:05
おはようございます。グッドモーニングボイスです。
2月12日、建国記念日の振替休日ですかね。月曜日、朝の10時16分です。
昨日ね、昨日じゃないな、おとといだ。おとといタスクシュートジャーニー第3回目というのを行って、
井上新八さんをゲストでお招きして、大変好評、ほぼ100名集まっていただいたんですけど、ありがとうございました。
私も聞いていてですね、一部グッドワイブスだなって思って、
それは井上さんにはある意味失礼かもしれないけど、僕はね、そういう感想を抱き、話は大変盛り上がって盛況だったなと思うんですよ。
美容によっては一部タスクシュートだなって思った方もいらっしゃると思うんですね。
むしろそっちの方が多いでしょうね。タスクシュートジャーニーですし、非常にタスクシュートらしいさというものが、
井上さんのタスクシュートはそもそもお使いじゃないので、タスクシュート的だってあれを思うのはタスクシュートを使っている人の観点なんですけどね。
毎日やってないことは習慣にならないっていうのと、そもそも習慣は紙に書き出すものではないっていうのが、非常にタスクシュートのユーザーからすると斬新で、
タスクシュートってライトはちょっと違うんですけど、リピート頻度っていうものを設定できますから。
そして毎日じゃないものもある上に、全部書き出すというメソッドですからね。
私はちょっとここで、これは井上さんとそのうちまたやればいいのかなと思いましたね。
大変興味深いし、僕は彼の言う通りだと思ったんですよ。
ただこれは非常に難しい議論を始めることになるんで。
これはですね、習慣化というものと習慣との違いについて言及しなければならないですよ。
その話を昨日まさにうってつけて、全然関係ない文明なんですけど、福田圭三さんとの書き上げ塾、第10期が第1回スタートしたんですね。
こちらもなかなか普通に成長に続いている感じで、僕の感じではですね、いい感じなんではないだろうかと思っております。
そこでいつも通りと言いますか、初回普通あまり言及されないんですけど、でもそんなことはないか。
書き上げ塾には基本の型というのがありまして、これを文章では極力避けようねと。
僕は全部避けなきゃいけないとは思わないんですけれども、でも極力避ける意識は常に持っている方が僕はやっぱりベターだと思います。
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そういう意味では封印してしまうのが一番手っ取り早いのは確実なんですね。
そういうつもりでいないとノフォーズに増えていくという性感的化っていうやつなんですけどね。
性最近ひどいなって思うんですよ。
昨日倉園さんも言及されてましたけど、関係性っていう言葉、あれは私はおかしいと思うんですよね。
関係の関係性、性全部取るべきだろうと。
関係性が悪くなっているとかって言うんですけど、関係が悪くなっている。
全く意味は変わらない。ただ性つけてるだけっていう。
これももう流行に近いんでしょうけどね。
方向性っていうのも僕も非常に気になるんですよ。
昨日はその事例は出なかったかな。
方向と方向性、そもそも方向性ってなんだって感じがしますね。僕はすごくします。
敵も、敵は昔から結構ひどいんですけど、敵は全部取るべきかというと、そこはちょっと無理があるケースもあろうと思うんですね。
ただ敵もなんかこう1ページに50個とか出てきたらおかしいわけですよ。
でも1ページに50個ペースで喋ってる人は実際はいらっしゃるんですよね。
個人的にはっていうのはまだいいと思うんですが、僕的にはとかっていうのは非常に変だなって感じが私はします。
まあでもそれは方語なら全然スルーしとけばいいと思うんですけど、文章でやっぱり敵がですね、
1ページに50個ペースで出てくるともうなんだかなくていい敵の方が絶対多いだろうという話です。
まあそれの習慣、習慣化と習慣の違いですよ。
なぜここに化がついたんだろうっていうのは考える必要があるだろうと。
で私は取った方が本当は当然いいだろうなと思うんですね。
でタスクシュートは習慣化に役立つ。
これはしょうがないと思うんですよね。
でもそれは習慣になってないっていう意味を案に含んでいるはずなんですよ。
この辺の話が実はこういう話ではない文脈で井上さんとのお話は進行しているなというのを私は感じて非常にいい話だなと思ったわけですね。
またできる機会があったらやりたいかなと思いました。
まあそうは言っても第4回のタスクシュートジャーニーは高梨さんを本来お呼びしてお招きして3月30日だったと思いますね。
やりますと。第4弾になります。
容量が良くない人の仕事術図鑑。
こちらももう大ブレイクして10万部突破したのかな。
私はタスク管理系10万部っていうのはかつて例がない。
私の本では一度もありません。
スピードファックス、チームファックスシリーズが5万だったかな。
あれはすごかったと。
後から振り返ると思いますね。
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正確な数字はちょっと忘れましたけども、あれはよく言ったなって思います。
タスク管理の本とは言えないようなところもありますが、
でも背景にはタスク管理がね、タスクシュートの考え方は随所にあるという本で、
私の本の中ではそれでもタスク管理系で一番いったんじゃないですかね。
あれがね。
なかなか10万いくもんではないんですよ、タスク管理系ってのは。
GTDが有名ですが、あれ確か8万ぐらいだったような気が。
あれはちょっとまた、ちょっと事情が違うと思うんですけれどもね。
分厚いだけでなく、当時としてはお値段もそこそこ高かったし、
GTDの本ってすごくGTDの本じゃないですか。
タスク管理の本の一種だみたいに人は思ってないところがあります。
だからすごく純度の高い本でね、そういう本が7万通線とかいくのはもうそれだけですごいことなんで、
10万いったかどうかは重大な問題じゃないんですけどね。
それはただ関係者目線であって、単に数字の比較だけしていくと、
タスク管理で10万いく本ってのは稀だというのは確実ですね。
そんなところで、緊急報告ではないんですけど、
思うところをただベラベラ喋ってるだけですが、そんな感じです。
かき焼き塾は引き続きお勧めしますが、第10期、1回目が始まったばかりなんで、
第11期の頃には真夏ですね。
そんな感じです。
今日は週刊の話に踏み込むかどうかちょっと悩んでいるんですが、
とりあえずまずタスクシュートの話を全然久々でもなくしますと、
そもそもモーニングルーティーンとかっていう言葉もあるわけですよ。
モーニングルーティーンというのは朝起きて一連の身支度みたいなのを含むんだけど、
井上新八さんは要するにここの中に一連の自分の何でもない週刊というものを組み込んでいて、
しかもそれは何かリストアップしているわけでも何でもないというお話をしていらっしゃったわけですね。
自然とこの話になってるな。
タスクシュートの人たちはみんなこれを概ね書くわけですね。
多分私はここがタスクシュートで密かに一番使われているところかもしれないなと。
つまりモーニングルーティーン。
私は実はそういうものはないんですよ。
もう全然ないわけですね。
私もこのGood Morning Voiceもそうですけど、タスクシュートにあるからやってるんではないんですよ。
週刊に限りなく近いんですね。
私はこれを週刊だとは思ってませんし、
井上さん的に言うと今一時期か、井上さんの言葉を使って言うならばこういったほうがいいですよね。
毎日やってませんからね、これはね。
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週刊になってないんじゃないかと。
厳密にはそうかもしれないなって私も思うんですね。
私はこれも先日少し微妙に違和感を感じられた方が多い。
これも勘だな。
違和感感じられた方多いと思うんですけれども、
タスクというのは全部義務だっていうふうに考えてます。
私は週刊だとは思ってない。義務だと思っているんですね。
義務というとどうしても響きの中にネガティブな要素が多々含まれる感じはありますね。
あるんだけど、私はこのネガティブな要素をすべてひっぺがした義務だって思ってます。
だから嫌だと思うものはタスクリストの上には置かないから、
全部義務だけど嫌な義務は一つもないという状態なわけです。
この義務っていうものが嫌だっていうのにはですね、
それこそ倉園圭三さんのGood Vibesで、
ことたりる、ことたりるって言い方おかしいけれども、
説明は一発でつくと思うんですよね。
これは罪悪感のせいなんですよ。
つまり義務を果たせない罪悪感が将来の罰が待っている不安、
まあ虚勢不安と僕は言いたいんだけど、
いずれにしても不安、恐怖というものがそこにありまして、
それ以外に義務というものは嫌なんですよ。
ということはですね、倉園さんがおっしゃるように、
このように罪も罰もなければ義務が嫌なものであるはずがないんですよ。
だって義務を果たさなかったとしても罰はないんですから。
それじゃ義務にならないでしょうって思うのが、
まさに罪と罰の仕組みを使ったモチベーションの換気の仕方なんですよ。
機関をバネにするとか、罰が恐ろしいから仕事をするっていう、
でもこの罰が恐ろしいから仕事をするというやり方は、
仕事をしている最中、嫌に決まってるんですよ。
これは別にグッドバイブスを教えおこうとか言う必要はないと思うんですよね。
罰が嫌で仕事や勉強したら、そのやってる最中が気分がいいっていうのは無理がありますよね。
せいぜいのところ、一生懸命勉強してテスト100点取りました、罰逃れました、
ほう、やれやれって感じじゃないですか。
村上春樹さんの小説に何か主人公はやたらとやれやれ言ってるんですけど、
この村上春樹さんの小説の主人公は、
密かに普段からずっと緊張しられてるのかなと思うぐらい、
やれやれとかって言うんですよね。
やれやれって思いたくないじゃないですか。
これは別に村上春樹さんが悪いって話ではないですよ。
今たまたまやれやれと言ってみて、村上春樹さんのことを思い出されるぐらい、
彼はよく使うなというのを思い出しただけなんだけど。
まあ、仕事してやれやれとは思うこと多いと思うんですけれども、
やっぱり僕はですね、それは相当罰というものに対する不安が、
結局80点以下は、ムチ打ちとかは絶対ないと思うんだけど、
80点以下を取ったら追試とかね、追試って罰なんですよね、結局ね。
12:01
追試が罰ってのはどうかと思うんだけど、追試罰なんですよ。
だからこれを逃れると、やれやれ、よかったよかったってことになるんですよ。
だから勉強やってる最中、ずーっと緊張を、しかも必要以上に強いられてる。
もちろん解けるかどうかという緊張感とか、難しいという意味で頭が緊張するとかはありますよね。
もちろんね。ここに追加されてるんですよ。
罰額恐ろしいという。
納期に間に合わなかったら、取引先の人からちょっと人格を疑われるぐらいなことを言われる。
恐ろしいことだ。それは恐ろしいわけですよ。
これが追加されているんですね、結局。
この追加分があるから、余計やる気になるだろうという、そういう仕組みなんですよ、この罪と罰による仕組みは。
で、これ嬉しい人は多分僕はいない。
これが嬉しいようでは意味がないからね。
罰が怖いから頑張れって話なわけじゃないですか。
怖いというのはネガティブな気持ちなので、これがあるほうが仕事がはかどるというのは、
よっぽどいろんな意味で辛い状態にあるというのの裏返しですらないと思いますね。
そのまんまだと思います。
なので、私はまず第一にタスクシュートに乗っけるときは、この考えは下り去るべきだと思うんですね。
やってもやらなくてもいいんだというのはそういう意味なんですよ。
やってもやらなくても何の罰も来ない。
代わりにあんまり報酬にも期待しない。
報酬が受け取れないという罰ってものを人は考案してきましたから、
報酬も罰もあんまりここで意味をなさないものにしておく。
これをやるというのがとにかく自分が、ちょっと大げさな言い方になりますけど、
これをやるというのがつまり自分が生きているということの意味だと。
そういう感じにしておくんですね。
そうすると、でも実際そうなるんですよ。
私がよくあんまり品のいい例えだとは思いませんけれども、トイレってのを出しますね。
トイレってのは結局これは義務だと私は思うんですよ。
人体を持っている私たちの義務としてこれをやっておくと、
やらないと死んじゃいますからね。
やらないで生きていくことはほぼ不可能だから我々は絶対しません。
この義務を果たすわけですよ。
そこに果たさない罰とかを意識する必要はないんですよ。
果たした報酬っていうのも若干あるかもしれないけど、それほどいらないと思うんですよね。
これをやるということが私が生きているということの意味だわけですよ。
生きているほうがいいよねと思うからするっていう意味ですよ。
だから生きているほうがいいよねって思うっていうのは、
そういう時に僕ら随所に現れてると思っている。
仕事も完全にそういうものだと思うんですよね。
これをやっているということが生きているという方向に向かっていく。
ここで方向性と言わないほうがいいと思うんですよね。
なんかよくわかんないものになってしまうので、
生きていくという方向を向いているっていうことですよ。
仕事をしなくても生きていけるっていう人はいっぱいいると思うんだけれども、
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私の場合は仕事をした方が生きているという方向に向かっていける感じが強まるわけですよ。
くだくだしく言ってますけどね。
だから仕事をすると。これは義務なわけですね。
で、やらないと死んじゃうという罰が怖いからやるっていう。
やらなくてもそうすぐには死なないですから。
やらないと死んじゃうという罰が怖いからやるという方が、
人は納得するらしいんで、一部の人はね。
だからギリギリこいつをあんまり金を持たせないで、
徳川幕府みたいですけど、死なぬように、生きぬようにしておいて、
ちょっとだけやるという給料の仕方だとバリバリ働くだろうみたいな。
バリバリ働くかもしれませんけど、
その人は潰れるの早いと思うんですよね。
やっぱり江戸時代の寿命は今の人の寿命よりはるかに短いじゃないですか。
結局トータルでは何の得もしていないと思うんですよ。
ああいうやり方っていうのはね。
そんなわけでタスクシュートのリストにあるものは、
嫌なものは一つもないと。
ただ私はこれを習慣だとは思っていないので、
大抵のものはね、習慣のものもありますけどもちろんね。
絶対それは毎日やるよね。
例えば睡眠は私にとっては習慣という意味も大きくありますね。
だけじゃないけどね。
まあ少なくとも毎日してます。
私は絶対に寝るんで習慣になっているだろうと。
お風呂も習慣ですね。
やらなくて死ぬわけじゃないけど、
毎日入りますね私は絶対に。
これも習慣だと思いますね。
井上さんの言うところ。
リストになくてもやるでしょうね。
こういう意味だと思うんですよ。
リストになければ忘れるようなものは習慣とは呼べないと井上さんおっしゃったんだけど、
あれは非常に僕は正しいと思います。
昨日ノートにも書きましたけどね。
リストに上がってないと忘れてしまうとか、
というのは習慣とは言えないと思うだけでなく、
僕はもう一つ大事な意味があると思うんだけど、
一旦そっち飛ばしまして、
だからタスクシュートにあるものに優劣はつかないというのがまず大事なんですね。
全部等価値としてですね。
意味として同じじゃないかもしれないけど、
価値としては同じ等しい義務という話になるわけです。
食事でもトイレでも筆筆でも確定申告の準備でもお風呂でも睡眠でも等価なわけですね。
この等価というのはもう一つ私は大事な意味があると思うんですね。
等価というのは今ここってことになるんだけれども、
これを違う言葉でちょっと説明しようというのは多分今日の趣旨になるんだろうな。
等価というのは今ここなんですよ。
つまり何かのためにそれをやってるわけじゃないってことですよ。
明日の永期を養うために寝るとかではない。
そうすると寝るはサブになっちゃうじゃないですか。
明日の永期を養いさえすれば寝なくてもいいって話になりますよね。
そういう話にはならないということです。
だからお風呂というのは何かのためにやってるわけなんだけどある程度はそうなるんですけど、
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でもそれが理由でやってるわけじゃないんですよ。
等価だからね。
何かの階に属しちゃいけない。下についちゃいけないってことですよ。
なんか綺麗になるためにお風呂に入るわけじゃないんですよ。
まあそうなんだけどね。
トイレとかもそうなんですよ。
だから全部何かの下には来ないってことなんですね。
だから何かの下には来ないというのは必ずそこでよく切り替えてるじゃないですか。
僕はあれも気持ちを切り替えるわけじゃないんでね。
切り替えてるのはわからなくはないんだけど、
切り替えてないんだけどなと思うんだけど、切り替わるんですよ。
全然違う意味。
何かのために何かをすると繋がりますよね、それがね。
例えば何だろうな。
仕事のために英語の勉強するだと、英語の勉強は仕事の階に属することになるじゃないですか。
しかも仕事と英語の勉強は繋がっちゃうじゃないですか。
2つのタスクが繋がりますよね。
仕事というタスクAのために英語の勉強というBが繋がる。
特にこの種の形を取りやすいのが資格試験の勉強とかなんですよ。
資格試験の勉強というものBが上位資格試験に受かることに繋がり、
さらにその資格試験に受かるということは仕事での出世のためになるみたいな。
こういう風になるのを割と今の我々の時代は良しとしてたんですよね。
でもこればっかりやってると、大概の活動は何かの準備期間になってしまうんですよ。
この話も倉園圭三さんが結構前によく出さってましたよね。
この上下関係がタスクの間にできてしまうと、全部それがまず繋がってしまいます。
しかもその階に属しているタスクをやっている間は全然楽しくはないと思うんですよね。
かなり嫌な気分になるんですよ。
落ちるという罰が待っているっていう話になりますからね。
ここで習慣化って話が出てくるわけじゃないですか。
楽にやるためには習慣化だっていう話になっちゃう。
無意識のうちにできれば一番いいぐらい。
つまりこれはやりたくないってことなんですよ。
これ昨日ノートに書いた話なんですね。
やりたくないから習慣化だって話になってるわけですよ。
井上さんのお話は逆でしたよね。
やりたいことしかやらないよっていう話をされてましたよね。
なぜそれをやるのかは問わない。
なんとなくやりたいことは何でもやる。
これが私は非常に井上さんの話の中で最も大事だと思うんですよ。
なんとなくやりたいっていうアレなんですよね。
あまりやる前からクリアにならないのはですね。
意識も無意識もそれには反対しないっていう側面があるんですよ。
やりたくないけどなんとしてもやるみたいなのが一番僕は難しい話になると思うんですね。
意識が分裂するのでそこはすごくクリアになってしまうわけですよ。
やらなければならない。とてもクリア。
例えば出世のためには何とかの試験に受からなければいけないから勉強しなければならない。
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めっちゃクリアになるわけですね。
でもやりたくない。ここも非常にクリアなんですよ。
井上さんの習慣とは全く逆になるんですよ。
井上さんがおっしゃった例えば毎日納豆食べるとかはなんとなくやりたいわけですね。
そういうのばっかりだったわけじゃないですか。
彼の習慣っていうのはね。
多すぎそういうものだ。
つまりなんとなくやりたいっていう話なんですよ。
なんとなくやってみたい。
それはなんでそんなに漠然としているかというと、
意識も無意識も全意識もひっくるめてこれと言った反対の声が出ないようなものはあんまり尖らないんですね。
意識の中で。
これっていうものがないわけです。
で、我々はここがね、すごく昨日そういう話がかき上げ塾で出たんだけど、近代的な問題なんですよ。
近代の問題っていうのは何でもかんでもクリアに従うんですよ。
だから何かをするなら何かのためにならなければいけないということを意識が捉えやすいもの、良いものだって考える癖がついてるんですね。
お金が儲かりやすいとか、そういうのでなかったとしても社会のために役に立つとかね。
すごくいいものにそういうのが見えてくるのはクリアだからだと思うんですよね。
非常にそこがクリアになる。
言語化って言葉もこれも化がつくんだよな。
言葉で説明できるではなんでいけないんですかね。
言葉で説明できるものに良しとしやすい。
それが特に多くの人に納得されるならされるほどより良いっていう話になる。
これが少し行き過ぎたのが植民地主義ってやつですよ。
めちゃくちゃ物事がクリアになっちゃっていると。
何人は何人より偉いからいうことを聞かせるために奴隷化するとか。
そういう話になってしまう。
そうすると私の大好きな人たちをどんどん裕福にすることができるって。
そういうあれは発想でしたよね。
白人とかね。
すっごくありえないぐらい物事を鮮明にしていった結果、ああいうことが起きたんで。
あそこまで行くのまずいよねっていう話で戦後は構築してきている感じなんですけど。
そこをグッとクリアにするっていう方法を持たないようにすると、
なんとなくやりたいっていうのが残る気がするんですよね。
これが井上さんの話になっていた話で、
私がタスクシュートではちょっと違うんだけれども、
似たようなところに行き着くんだよなっていうのを考えて感じていたところだったんです。
つまりあらゆるタスクに価値の上下はない。
何かのために何かはしない。
それ自体はこの言い方がもう少し、それ自体ってやっぱり重々しいですもんね。
それ自体とか言いながら食事とかって言うと、
言ってる言葉と具体例のギャップを感じられてしまうと思うんですけれども、
ものそれ自体みたいな。
哲学用語みたいですもんね。
このそれ自体というのはですね、
タスクリストの上に乗っけていくとそうなってくるんですけど、
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一個一個の独立性がとても高くなっていくんですね。
例えばここに朝食と書いてあって、朝食準備と書いてあると。
もちろんここには因果関係あるんだけど、
準備するから食べられるっていう話なんだけど、
ここをなるべく同じレベルのものに、同じレベルのものにと上げていって、
決してそこになるべく段差をつけないようにする。
そうするとまず第一に朝食準備と朝食は全く異なる行為になって、
ここで自動的に切り替わるんですよ。
変な繋がり方をせずに済むっていう、
いつまで経ってもそれがやめられないとかね、
いわゆるダラダラしてしかも辛いっていうような事態はなくなっていくわけです。
一個一個で完結する。
この完結って大事なんですよ。
完結っていうのはそれが仕事として完了してるって意味ばかりではないんですよ。
とにかく食事の準備が終わったっていうのがはっきりするんですよ。
それ自体というところで終わるんで、
それは決して何かに繋がってるっていう感触を持たないように気をつけていますから、ある程度。
私はそれは義務なので、毎回毎回一回目としてやるんですね。
そういう意味で習慣というのとは少し違うような気がするところがあるわけです。
一つ一つは習慣とかルーティンの産物というよりは、
一回一回やって一回一回で終わるんですよ。
一期一会って言葉の方がですね、僕にはあってはいるんだけど、
これもちょっとぎょうぎょうしいというか、
まあ、古食創前としていると言いますか、
そこって大したものをやってるというつもりはないんですよね。
ただ食事の準備をしてるだけなんですよ。
そういう意味では井上さんの感覚が近いんですよね。
なんとなくやってるっていうのと、
なんとなく義務を果たしているっていう感じなんですよね。
この辺をちょっと、
この辺をそれこそ言語化が難しいっていうやつなんですよね。
言葉での説明が思うように言ってないんです、私の中では。
さっきにちょっと出した無意識ってやつですね。
無意識がですね、反対するようなパターンに入らないように気をつける。
タスクに上下関係を持ってしまうと、
無意識という、もう無意識に反対されているケースがすごく多いからこそ、
タスクに上下関係がつくんですね。
タスクの上下関係というのは、
結局のところ、ここはしょうがない、
こういう言葉だと思ってください。
エディプスなんだということはお父さんが決めてるわけです。
お父さんというのは父親っていう意味ではない、この場合。
父親がお父さんじゃないなら何なんだって感じなんだけど。
例えば、そういうケースは少ないけど、総理大臣とかが決めてる。
つまり社会の方に何かそれに良しとするものがあるから、
例えば会社が存続していけるわけじゃないですか。
タスク関係、タスクの上限というものがつくというのはですね、
27:04
例えばゲームをやるより勉強する方が偉いんだっていうのは、
社会の価値観というものがそのタスクに反映されている。
私はこれをまず廃するべきだっていうのを実際には言いたいわけですね。
タスクというものが自然とお金が稼げるような、
同じプログを書くならアフィリエイトでついでに儲けておく方がいい感じがするっていうのは、
つまりお金を儲ける方が社会で生きていく上で偉い感じがするっていう、
それは誰かがそう決めたからそうなんですよ。
これをタスクにいちいち盛り込ませるというのが結局のところ、
依頼人というものの上下関係をこっちで勝手に感じてしまってるっていう意味なんですね。
お金を10万円くれる連載の、例えば角川さんは、
よくわからない、朗報会のようにしてやってるメールマガジンより偉い感じがするとかね。
そうすると角川さんからの依頼のタスクの方が重要度が高いみたいな、
重たいタスクとかって言うじゃないですか。
それは重要度が高いタスクというものを決めてしまったが、
最後、例えば1回500円しかもらえないメールマガジンより、
こっちの方がずっと大事だって思うわけですよ。
そうするとこの大事なタスクを実行して、
それなりの結果を出さなければならないと感じ始めて、
普段書けもしないようなことを書こうとして、
その前に私は今度新しく出ているAIについての知識が不足しているから、
これを勉強しなければ。
これは喋ってるとちょっと笑い話のように聞こえますけれども、
真剣にみんなこういうことを喋っているように聞こえるわけですね。
これ完全に僕が勝手に脳内で結実させている変な価値観で、
ここにタスクの上下関係というものをつけているのは、
結局のところ依頼人の思い付けをしているっていう話になってるはずなんですよ。
それを我々は変なことだとあんまり思ってないんで、
タスクが重くなったり軽くなったり、やりやすくなったりやりにくくなったり、
っていうのが自然と進行していくんですね。
そしてこの点で非常に大事なのが、
こうして私は食べさせてもらっているって考え方が進行するとですね、
私が私のためにやるタスクが一番価値がないんだっていう風に
考え始めてしまう方が少なからずいるんですよ。
そうすると食事とか睡眠とかお風呂とか、
トイレとかをどんどんおろそかにしてもいいんだと。
で、時間はここをぐっと短くするべきなんだと。
そういうふうにライフハックの世界も進行していったことがありますよね。
自分が一番おろそかにしてもいいことになってしまうんですよ。
依頼人として一番何もくれないのは自分だ。
自分が消費する存在だと思っているから。
だから門川さんが一番偉くて、僕は一番ダメだってことになる。
大きなタスクで生きていれば何をやっても大変ですよね。
30:01
めちゃくちゃ辛いと思うんですよ、この状態はもはや。
自分いない方がいいんじゃないかぐらいになっていくんでね。
で、私はそれは大きな動作があると思うんですよね。
価値の転倒があると。逆になっちゃってると思うんですよ。
そもそもお金って何のためにもらうのかというと、
私が生きていくためだったはずなんですよ。
そうやって生かされてると思うようになって依頼ですね。
私が最も必要のない存在だってことになる。
お金を稼げば稼ぐ。これって非常に不思議ですよね。
究極的な形っていうのはここに1億円ぐらいあって、
私は消滅したみたいな。それだったらもう、
もともと何もなくても同じことになっちゃうじゃないですか。
ここに1億円があります。私は消滅しました。
本当にお金と何かがここにゴージャスにありさえすれば、
人はいないほうがいいって話になりますよね。
私はそういうふうに主張しているように聞こえる言説も
時々聞くんだけど、とても不思議だなと思うんですよね。
その発想。完全に話が逆転していく。
家があれば家に住む人はいないほうがいいみたいな、
そういう話になってる。住む人のために立てたはずじゃないですか。
思想とかはいらないと思うんですよね。
人がそこにいるから家立てるんであって、その逆ってことはありえないと思うんですよ。
その逆だっていうのはただ、
頭の体操をやってるような感じなんですよね。
そういう思考実験をやってみるのは面白いかもしれないけど、
現実ではそういうことはありえないと思いますね。
この先はちょっと違うような話に聞こえるかもしれないですけど、
僕がこの上下関係をタスクにつけて、
このタスク同士を因果関係で何とかのために何とかをするで繋いでいくと、
大きな課題として、
この人はたぶんものすごく疲労というものを
貯めるようになるだろうと思うんですね。
これは切り替えが効かないって言葉で時々表現されているんだけれども、
切り替えって何なんだろうって考えるんですよ。
例えば一番切り替わるのはどんなときかというと、
寝てるときと起きてるときだと私は思うんですね。
このときばかりはよっぽど一貫して繋ごうとする人でも、
寝ちゃったらもう意識の価値観も大きく変わるんで、
大きくずれていくと思うんですね。
このずれが非常に大事だと思うんですよ。
つまり寝てるときって私たちは何かのために何かができなくなるじゃないですか。
寝るのは疲れをとるためなのか。
ついでに睡眠学習して英語ができるようになるべきなんじゃないかとか、
繋がっちゃってますよね。
起きてる時間の睡眠時間は回に従属してしまい、
33:03
しかもある意味では起きてる時間の一部のように扱われてますよね。
それって一日中起きてるのとある意味変わらないですよ。疲れると思うんですよ。
つまり我々には日常があるなら非日常が必要だってことなんですよ。
日常が一日の全域を覆うと、
その人はたぶん正気を失っていくって思います。
例えば一番わかりやすい例で言うと、
めちゃくちゃ厳しい上司がその人の一日を支配しているように
心の中で感じられると、その人は精神的に非常に疲労がたまり、
おそらくは精神的な意味では正気を失い始めていくと思うんですよ。
寝てる時は、
寝てる時間がその上司の仕事のためという位置付けに入っていくと、
寝てる時間も起きてる時間の一部になってしまう。
食事をしてもお風呂に入っても、
その上司のために仕事をしている時間の一部になってしまう。
こうしてあらゆる活動のアクションの色が
同一の色に変わっていくんですよ。
その上司のために生きているって形になっていくんですよ。
そういうふうに生きたくないからお祭りとかをやるわけですよ。
日常と非日常を分ける。これが一番簡単な分け方なんです。
それが一日の中でどこに現れるかというと、
睡眠以外は考えにくいと思うんですね。
睡眠と気象は日常と非日常なんですよ。
非日常がない方がいいっていうのが、
ある種の生産主義、市場主義的なやつなんですよ。
疲れってどうとっているのかっていうのがここでは問題になると思うんだけど、
少なくとも疲れというのが睡眠でとれるのは、
私は寝てるからっていう説明では不十分だと思うんですよね。
あそこはやっぱり日常ではないからなんですよ。
非日常というか日常ではないからなんですよ。
異なる時間が必要なんですね。
私はそういう意味では全ての時間は異なっているほどいいと思うんです。
疲れないって話を割と最初の時から一貫しておっしゃってるんだけど、
これは肉体が疲労することはあっても、
究極的には我々はすぐその疲労からは回復し得るっていう話をされていると思うんですね。
ツイッターを眺めているとよくですね、
疲れが全然取れないとか、ずっと寝てなければならないみたいな話をされている方が
所々でポストしている方がいらっしゃるんだけれども、
私はそういう方のツイートを追っていくと、
いつも非日常がすごく狭められているっていうのを発見する気がするんですね。
これはあれですよ、科学的根拠はないし、
統計的な根拠もないし、何の意味もないことを喋ってるんだけど、
私が自身も昔から疲れやすいなって思ってたんだけど、
今は全然疲れるって気がしないですね。
疲れたなーって時々感じることがある時は、いつもこれが起きてる。
例えば誰かに怒られているみたいなのが怖いっていうのは、
36:03
日常が同じ色で一色に塗りつぶされていくわけです。
その人が怒っているっていうのを気にしている時間帯っていう意味で、
何をやっていても同じになってしまうんですね。
トイレにいてもお風呂にいても怒ってるんじゃないかなっていうのを気にしている。
この生き方が我々を疲れさせる、つまり疲れっていうのはですね、
いわゆる肉体的な疲労とは異なるものだと思います。
ある時間を長く生きすぎていると疲れるんですよ。
だから一期一会がいいんですよ。
全ての時間が独立しているように生きるっていうのが、
僕は理想的だなっていうふうに、何よりも疲れるってことがなくなるなと。
すぐに非日常に入れますから。
つまり本を読んでるってことは、本を読むって方向に、
どうしても上手い言い方がないですよね。
全集中みたいになっちゃうんですよ。
つまりそれは残さないってことなんですって。
無意識も意識も全意識も全部そこに入り込むということによって、
さっきまであったこととは別の世界に入れるというような意味なんですね。
これを発動ごとに、食事なら食事の時間に全域入ってしまえばですね、
その前に起きたことというものは関係なくなるわけです。
これがあるかために私は何かのために何かをするというふうに、
全てのタスク、アクション、時間、行為を繋いでしまうのが、
非常に私だったらもう二度とやらないと思うようになったんですね。
そう思ってやっていると、とっても楽なんですよね。
少々難しいことがセミナー最中とかにね、
少々難しいことが起こったとしても、
そこで厳しいことアンケートで書かれたとかが起こったとしても、
即座に消えてしまうんですよ、私の頭の中では。
本を読めば消える。お風呂に入れば消える。
なんならトイレに行くだけで消えるんですよ。
これができるように、これを切り替えと皆さんおっしゃるんだけど、
これは切り替えというよりはやっぱり日常と非日常というふうに、
分けて考えてしまった方がいいと思うんですよね。
この話も実は睡眠の話のところで、
プラザノさんがGood Vibesの文脈で語ってくださっているんですよ。
もっとこう地理の話が含まれ、川みたいなのが出てきてね、
そうだろうなって思うんだけれども。
要は祭りに日常は持ち込まないってことですよね。
祭りというものは会社に行くっていうのとは全然違う。
で、いやー祭りとか本当無駄だと思うんだよねって人は、
疲れやすくなってないかぐらいは、
ただしてもいいと思うんですよね。
切り替えというのはそういう意味になっている。
本当はだから僕はこれ切り替えじゃないと思うんですよ。
祭りになったら切り替わるじゃないですか。
いやでもね。
で、それはつまり祭りという、我々は生き方も持っていて、
会社に行くっていう生き方も全然違いますよね。
この全然違うっていうのを一日の中にどんどん取り入れるようにするとですね、
よっぽど過酷な状態でもそんなには疲れないんじゃないかな。
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この話をなんで思い出したかというと、
やっぱり先日の井上さんがおっしゃってたんですよね。
映画館には絶対行くんだって言ってたんですよ。
映画館は必要なんだ。
それは彼にとっての映画館が非日常だってことなんですよ。
映画を見るとは言わなかったんですよね。
映画館に行かなきゃダメなんだと。
そうすると音も何もかもシャットアウトされるでしょうっていう、
これまさにこのシャットアウトって話が、
僕は非日常って意味だなって思ったわけですね。
私は映画館に行くという趣味も習慣もそれこそありませんけれども、
非日常というのはそこかしこに随所にある、
少なくとも絶対に譲らないものとして睡眠があるわけです。
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