氷点下の日の始まり
おはようございます。佐々木正悟のライフハックからの精神分析、第1304回をお送りします。
えーっと、1月9日、金曜日、朝の7時22分です。もうめちゃくちゃ早い上に寒いんです。
あのー、氷点下になっております。二宮が氷点下ってのは珍しくて、えー、
まぁあのね、少し早いタイミングで菜の花が咲くというので、菜の花ウォッチングとかをやっているので、
えー、それを売りにしているぐらいの土地ですから、要するに暖かいわけですが、
だからこの二宮が氷点下というのは、劣等は寒いんじゃないかなと思いますね。
はい、えーっとですね、たぶんいつもと音声が違って聞こえるんではないかと、
ちょっとこう、最近AirPodsで、たぶんAirPodsってそういう設計になってないんでしょうね。
あのー、ちょっと娘に怒られたというか、叱られたというか、
あのー、セッションって何セッションも1日に、私今5セッションぐらい最大で、
ミーティング入れると6時間ぐらい使うんですけど、
AirPodsめちゃ便利なんで、ずっと使ってて耳が痛めてしまった関係で、
えーっと、ヘッドホンを、この季節でよかったんですよ。
この季節じゃないとヘッドホンすると、こう、のぼせるんですよ、私今。
高年期障害で、えーっと、顔だけがやたらと暑くなるというね。
本当に、夏暑いから今の時期、あの時代は。
本当にやめてほしいんですけど、しゃーないですよね。
でもこのヘッドホンが今ならば使えるということで、
本当ヘッドホンでやりたくはないんですけどもね、
なんかどういう風に聞こえてるかが結構、
このAppleのAirPodsはめちゃ優秀なんで、
聞こえてる通りに近い音がイヤホンから入って、
まあこういうことをずっとやってるからいけないんでしょうけど、
そんなに大音量とかで私、そもそも、
人の声聞いてるわけで音楽聞いてるわけじゃないんで、
耳痛くなるはずないんですけど、年を取ったということなのかなと。
そういうことばかり喋っていると時間がもったいないので、
さんちゃれのCMをさせていただきますと、
第13期が2月から4月最後までということで、
新しくやりますと。
ビジネスコンサルの方向性
で、まあまあぼちぼちですね。
なんとなく固まってきたかなという感じなんですけど、
個人的にはですね、輪郭としては、
来期特別動かすようなことは金額も全て末置きにしようと思っておりますし、
全てといっても最初、新しく入られる方にはあまり関係ないんですが、
これまでやってきた方で、
今お休みしているという方の再開であっても、
これは継続という扱いにさせていただくので、
そこはですね、継続というものの金額をそのまま踏襲させていただければと思いますが、
今特別継続だからどうこうという、継続には様々なコースはありますけれども、
割引という制度は特に今なくなっていますので、
非常にコースが減ったんですよね。
一時やたら増えたんですけど、また急速に減っております。
難しくするのやめようと思いまして、
あとですね、ビジネスコンサルというのを銘打つようにして、
それを精神力動系で、理屈の上では補うという感じですね。
精神力動の話を中心に置きながら、
ビジネスのコンサルをするというのがメインテーマになります。
特に最初に始められる方はこの立て付けで入られるというのが、
分かりやすいかなというふうに思います。
私の場合、ビジネスと言いましても、
ビジネス全般なんだけれども、
多くの方はタスク管理、先送り、それから対人関係と、
大体対人関係が実は多くなってくるわけですが、
対人関係と言っても、
上司との関係が多くの場合、
集中的ですけど、
残るは同僚にどう思われているかが気になるとか、
いったお話が多くなりますね。
それ自体は別に難しい話ではなくて、
世の中にいわゆる自己啓発本も含めて、
様々なやり方で対人関係と、
最近の傷つきやすいというか、
怒られるのが怖いみたいな話。
怒られるのは今に急に怖くなったわけじゃなくて、
昔からみんな嫌なわけですけど、
嫌だから怒るわけですからね。
なんですが、今の時代特有の問題もあるじゃないですか。
ハラスメントの問題みたいな、
ハラスメントも今急に始まったわけじゃないんだけど、
言葉が与えられましたから、
怒る方も、あるいは注意を与える方も、
すごく気をつけるようになり、
それによってまた起こる様々なややこしい問題が起きたりするので、
こういうものをですね、
いわゆる傷つきやすいとか、
繊細であるっていう観点からではなくて、
力度的に何がそこで起きているのかというのを見ると。
FAQ作んなきゃと思ってるんですけど、3ヶ月チャレンジでも。
例えば私はすぐ母子関係の話。
怒られるってなってくると、
エディフスコンプレックスって言いたくなるんですけれども、
どっちにしてもそういう話をまずします。
これはその人がエディフスコンプレックスで虚勢不安に悩んでいるとか、
虚勢不安ってのはあれです。
お母さんとエッチしようとすると、
お父さんにちんちんを切られるという恐怖っていうのが虚勢の、
これは虚勢恐怖ですが、
そういう虚勢される不安があるために、
何ができなくなるか。
お母さんといい仲になることができなくなるっていう、
この話だけ聞くと、
新人の立場と不安
それと何の関係があるんだって思われるわけですが、
大いに私は会社に行った時に感じる、
上司に怒られる理不尽というのは、
これと深い関係があると自分自身思ったことがやっぱりあります。
つまり、結局心残者というのは、
ニューカマーとか、
アメリカでもルーキーとか言ったりしますね。
だいたいルーキーは先輩に蹴られたりするわけですよ。
非常に理不尽ですね。
しかし、新しく入ってくるという人の立場というものを考えてみると、
その人が入ってくる前からその組織はすでに普通に動いてた。
その業績が悪かったり、ダメになりそうだったり、
様々な普通に動いてたとか言ったって、
今年の私の一押しでは千葉ロッテマリーンズですけど、
ロッテのように、いや全然普通にやれてねえだろっていう。
弱かったでしょ今年はっていうね。
そういうことはありますね。
だから新人さんに期待しますね。
しかし新人さんが期待されていると同時に、
それまでの人にしてみれば、
新人なんか入ってこない方がいいと思っている人もいっぱいいるわけですよ。
だって自分はそこのところでお給料もらって、
ちゃんとやってるわけですからね。
つまり子どもの立場というのは、
常にそういう二重の微妙な立場にあるわけですね。
親というカップル、
つまりお父さんとお母さんというカップルにしてみれば、
お父さんとお母さんが楽しくて、
お父さんとお母さんが一致してれば、
それでいいわけじゃないですか。
お茶飲みに行ったり、お金も二人分あれば足りるわけですから。
特にお父さんの立場からするとそうなんですよ。
ここに新人さんが入ってくるわけですね。
子どもというニューカマーが、
いやお前らが作ったんだろって言えばまさにその通りなんで、
お前らが作ったわけですよ。
ここを組織で考えるわけですよ。
親子で考えるとややこしいんで、
というか親子で考えてても、
しゃあないわけですよ。
3ヶ月チャレンジ的に言うと、
ここを組織で考えるわけですよ。
組織に新しく入ってくる人は、
はっきり言って邪魔なわけですよ。
だから組織の掟に従えと。
もともとお父さんとお母さんがここは、
仲良くして作った家なんだよと。
お前はだからこの家のルールに従うんだよと、
会社が言ってるわけですよ。
だからその新しく入ってくる人にしてみれば、
いやそんなの非常識でしょうとか、
いやそんなのおかしいでしょうって、
実際外から見ればおかしなことを、
組織の掟は一杯やってるものなんで、
はっきり言って家庭ってそういうもんじゃないですか。
外から見ればおかしなことも、
家庭のルールとしてはごく当然のように成り立っているわけですよ。
私が時々持ち出す鍋の中に、
お玉を入れっぱなしにしていいのか、
良くないのか問題なんていうのは、
あんなのは家庭のルールであって、
客観的には決まる理由がないわけですよ。
どっちだっていいわけですよ。
家ごとに決めればね。
だけど新人さんとしては、
私もこの家に関して言うと、
ある意味新人さんなので、
いやいやあの前ね、
うちではね、
突っ込んどいとかないと怒られたんだよって言っても、
うちの奥さんには、
いや突っ込んでおくと汚くなるから、
出しておけとか言われて、
理不尽な思いをするわけです。
ニューカマーなんで。
ルールがどっちか決めるかって問題も、
こういう時あるんだけど、
少なくとも子供はルールを決める立場にはないですよね。
赤ちゃんはルール決められないから。
つまり、
新人さんルールを決められないと。
だから嫌なのお前出て行ってって言われ、
言われないにしても、
それに近い扱いを受けることってあるわけじゃないですか。
本当にそう言われることもありますしね。
これが虚勢不安なわけですよ。
いやそう言われるの怖いから、
ここは腹渡すけど黙っておこうと。
で、もやもやするみたいなことが起きるじゃないですか。
これは私は、
エリフスコンプレックスで十分説明が効くだろうと。
つまりこれは三角関係だろうと。
この会社でいい気持ちになりたいと。
お金をもらって、
できれば、
よく書いてある嘘臭い文言に、
いやうちの職場はアットホームです。
アットホームとか言ってるけど、
全然アットホームでもなんでもないじゃんっていう、
リュウダとかにはそう書いてあるけど、
実は別にアットホームとかどうでもいいと思ってるよね。
っていうような、
そういう話ですが、
そのアットホームなところの、
アットホームな雰囲気で、
しかもお金もくれて、
とてもいい感じ。
つまり母子関係の、
しかもおっぱいいっぱいもらえるときの母子関係。
で、ふわふわやっていたいわけですよ。
これは快感原則という。
快が基本的に追求される原則。
なんだけど、
実はそこでは、
お父さんの言うことを聞きなさいっていう、
社長の言うことかな。
そういうことがあって、
それもしばしば全然聞きたくもないような感じなんだけど、
嫌なら出て行ってくださいと。
これが虚勢不安ですね。
だから、
非常に簡単に、
ある意味では、
その人が傷つきやすいかどうかとか、
いうことを、
あえて問題視しなくたって、
だって傷つきやすくない人だって、
傷ついてるかもしれないじゃないですか。
それは分かんないですよ。
畳からは。
全然平気だよ、
あのぐらいって言って、
家に帰ると大いに落ち込んでるかもしれないわけですよ。
HSPかどうかっていうのは、
この場合、
その説明としては、
十分でないケースもあるわけですが、
でも落ち込んでいるという、
HSPでも何でもないけど落ち込んでいますというのも、
この三角関係を持ち出せば、
かなりの部分、
説明が効くというのを、
3ヶ月チャレンジでは、
検討に入れていきます。
だから、
HSPで検討するって言うんだったら、
それはそれで全然いいわけですよ。
あるいは、
発達障害で怒られるのが怖いとか、
それに対してタスク管理で何とかするっていうのも、
全部、
全然ありなんですよ。
いろんな対応の仕方があるわけです。
いろんな対応の仕方があった方がいいわけですよ。
3ヶ月チャレンジでは、
さすがに3ヶ月かけてこのお値段で、
そこら辺でやっていることとまた同じようなこと、
やるわけにも、
やるわけにはいかないわけじゃないんだけど、
タスク管理だったらね、
安く短期間で済むわけですから、
そっちの方がいいでしょうということで、
タスク管理とかはしません。
もちろんタスクシュートもやりません。
私がやるんでタスクシュートをやるんだろうと、
何らかの形で思われるかもしれませんが、
力動的な知識の重要性
一切やりません。
なので、
あくまでもここでは、
力動的にものを考えていく。
そのためにも、
力動的な、
ごく浅い知識に留まりますが、
表面的な知識に留まりますと言っておきますが、
深くなっていけばいくほど、
必ずしも最初からそれが有効活用できるかというと、
私も最初はこういう話の中で、
より真相的な話にしたいというのは、
すごいあったんですけど、
真相的にするのを、
現実にどういうふうに動いているかを見ていくというのは、
とても骨の折れる作業なんだなという、
当たり前のことに、
だんだん実感を伴って感じつつある中で、
そこまでいかなくても、
十分力動的に見るっていうことが、
快不快原則と社会
今の時代なら役に立つなと。
なぜかというと、
人々は力動的に見るのを、
今は全く良しとしないから、
一つはね。
だからこういうものの見方は、
全く採用されていないので、
ちょっと採用するだけで、
相応の効果が上がるっていうのが一つ。
もう一つは、
現在は、
これは松木国弘さんが本の中でも書いてたりしますけど、
現在は非常に強力な、
一時過程、
快不快原則で生きていらっしゃる皆さん、
私もそうです。
みんなそうです。
だってこんな時代になればそうします。
だって例えばですよ、
あの歯医者さんだって、
もう今、
私が子供の頃に比べても、
歯の治療、
全然痛くなくなっております。
痛かったけど、
嫌だけど。
でも麻酔の注射が痛いんですよ。
あれは歯の皮に刺すのが痛かったんだけど、
その麻酔の注射を刺す前の、
薄い麻酔っていうのをかけてくれて、
全然これだったら、
なんてことないじゃんっていう風になっているんですよ。
今の時代は本当に、
その表面的な快不快原則におきましてはですね、
どことん手が当てられて、
もっともっと当てられるのかもしれないけど、
とにかく文化の全域を、
快原則を追求しているので、
不快をこらえるとか、
不快に持ちこたえる、
我慢するっていうのが、
アホみたいだって、
どうしても我々は思いがちなんですよ。
しゃあないんですよ。
昔だったら、
例えば、
父・貴徳すぐ帰りじゃないですけど、
何か遠くであった。
それを知りたい。
それを辛抱するみたいな、
歌とかまでできるじゃないですか。
つまりそれを辛抱するのが、
どんなに大変で辛いことだったかっていうのが、
あったわけだけど、
今だったらもう、
LINE一発じゃないですか。
秒でやってくるわけですよ。
どんな知らせであるにしても。
つまり我々は、
持ちこたえるための、
様々な生活上の困難というものを、
持ちこたえる理由と、
力を失っているはずなんですよね。
しょうがないんですよ、これは。
こういう世の中を形成している以上は。
昔なんて、
サドキビ舐めちゃいけないところで、
サドキビ舐めて、
子供が貼り付けにされるみたいなね。
あまみお島とか、
そういう恐ろしいことがあるぐらい、
甘いものを一つ手に入れるのでも、
偉いものを我慢させられたわけじゃないですか。
今の時代は甘いものなんて、
甘いものをどうやって我慢するかで、
我々はみんな困ってるわけじゃないですか。
今度は甘いものを我慢するっていうのの、
我慢が耐えられないから、
カロリーゼロで甘い。
要するに人工甘味料ですよね。
そういうものが開発されて、
こうやってどんどんどんどん、
我々は快不快原則、
現実というものは、
極力現実の辛さというものは無視して、
とにかく快追求で生きていけば、
それでこと足りるんだっていう、
人生を歩むようになっているのに、
でも苦しいことは現実には起きちゃう。
それを持ちこたえなきゃならないということも、
現実には起きちゃう。
こういう世の中にあってですね、
力度などというものが、
人気が出るはずはない。
だって力度っていうのは、
精神分析がそうですけど、
最終的にはこのどうにもならなさというものの、
絶望を抱えましょうみたいな、
そういう話をするんですよ。
多くの場合する悲しいことを、
本当に悲しめるようになるとか、
腹立たしいことを本当に起これるようになるとか、
さらにそれを現実原則に沿って、
抱えてはいるが、
それを放散しない、
外に出さないし、
アボイラント回避しないとか、
そういうことを言い出すわけですよ。
ある意味そういう、
気まじめな宗教みたいなことを言っちゃってるわけで、
そんなものに、
それほど人気が集まる理由はないし、
無視されがちだと思うんですね。
その途中で出てくるややおかしな、
いいおっぱいとかいう言葉だったり、
悪いものを拝説するとか、
そういうところに噛みつかれるわけですよ。
そういうことを言ってる、
昔の変な人のダメな考え方なのね、
ということで一層されるわけですよ。
やっぱり、
深い理解の模索
普通に持ちこたえるってことを、
我々はしたくないわけですから。
誰だってしたくないわけですから、
そんなことは。
普通に持ちこたえるということを、
誤魔化さないとかね、
行動化しないとか、
性的なもので誤魔化さないとか、
様々あるんですけれども、
そういうことを言っていくわけじゃないですよ。
その前にまず、
なんでこれが苦痛なんだって話から入るわけですね。
先ほどの虚勢不安は大変苦痛です、
ルーキーにとっては。
そういうものはなぜ苦痛で、
それがそもそも会社でどうして起きるんだっていう、
起きるんですよ、
必ずと言っていいくらい起きる。
なんで起きるのかっていうような話をしたりします。
それが3ヶ月チャレンジでやっていくこと。
だから、
力動的な知識というものが、
常に土曜日、
今度からは平日の、
できれば夜、
できれば午前中という方がいらっしゃればですけど、
やっていきたいかなと思っております。
要するにグループレクチャーというもので、
力動的な知識の本ですけど、
最近3ヶ月チャレンジの参加者さんが、
ザイロンの読書会という、
朗読会みたいなもんなんですけど、
ザイロンの読書会ってなんだよって思われるかもしれませんけど、
企画されていて、
今週の土曜日にやるんですけどね。
そういうものも含めて、
とにかく力動的な知識というものを入れていく。
3ヶ月かけて少しずつ。
少しでいいんです。
別に体系的にカウンセリングになりたいとか、
カウンセラーになりたいとか、
ましてここでやるのが治療的心理カウンセリングではないので、
別にそこいう知識が必要なわけではないんですよ。
だけど一部の知識だとしても、
十分仕事をする上での苦労といった、
まあありますよね、それはね。
ものを理解する、
少なくとも理解する一端になるというのは、
とにかくこの3チャレではですね、
理解というものをまずとても重視するようにしていますし、
していきたいと。
前と同じなんだけど、
基本的には。
その思いを固めているという感じですね。
頭では分かっているってところまで行くのをまず目指します。
頭で分かっていることに情緒をついてこさせるっていうのは、
最近私が考えるところになってきました。
頭では分かっているところまで行っても、
しょうがないように思えるのかもしれないんですけど、
そうではないんですよね。
頭で分かっているっていうのは、
答えは知っているってことになるんで、
あとはもうその答えなるものに一旦情緒を合わせてみると、
ここが難しいんですよ。
難しいとされ感じられている。
いろいろな理由で難しくなってくるし、
ここから深い話になっちゃいがちなんですけど、
ここで過度に深めないっていうのが、
割と最近大事なんだなというふうに、
過度に深めないなんて言ったって、
何をもって過度とするのか、
そんなことが可能なのかっていう課題はずっとあります。
その方針だけ考え、方針だけはっきりさせておけば、
その方針にのっとってできるのかっていうと、
そんなことはありません。
ミスが多いな私はと思いますけれども、
それはある意味仕方がない。
なぜならば、こういう試みが世の中において、
ほとんど行われていないという現実があるんですよね。
世の中にカウンセリングがないって話じゃないですよ。
世の中に精神分析もありますよ。
ただそれらは心理療法に近いものだったり、
心理療法そのものだったりします。
つまり基本治療に近いものです。
精神分析そのものは、
心理療法ではないんだっていう意見もありますし、
私はそっちの方に考え方近いんですけど、
とはいえこれは精神分析でもないので、
つまり前例とか参考に完全にできるものは何もない。
多分に手探りなものです。
深入りっていうのの難しさについては、
私はもう嫌というほどずっとここのところを思い知っているんですが、
深く入らなければできないのかっていうと、
それはまだ分からないなっていうのは結論が出せないんですよ。
私としてもですね。
深く入らないとできないんだったら深く入らないでいる。
現在の活動の中でそこまで深入りしてないなっていうのもあるわけです。
それが全部無駄に思えてしまうじゃないですか。
でもそうも思えないわけですよ。
極めて力道の、それこそ三者関係の神経症水準における、
そんなに深く入りしていない話。
つまり少し前であれば、
多くの人が普通に心象で知っていたような話をしているだけなんだけど、
一定のところまで来ることができるというケースは、
割と普通にあって、
それはそれで、これが理想とするべきなのかと思うんだけど、
でもこれを理想とするということは、
じゃあ深入りしそうになった奴は全部撤退するのかということになってくると、
そもそもそれが事前に察知できて、
全部適切なところで切り上げるなんてことができるのかっていうと、
そういう話をしていると非常に倫理的に怪しい話になっていくんで、
この辺にしますけれども、
難しいんですよ、そこのところはですね。
ただ深い深いと言っているときの深いとは何を意味するのかというと、
それは非言語水準の記憶を扱うかどうかって話だと私は認識しています。
無意識って言ってもいいですが、
必ずしもそれが絶対無意識とは限りませんが、
ただ非言語水準における、
つまり言葉が使えなかった頃の記憶を扱うのかどうか、
それを扱うのかどうかなどといっても、
そもそもそれ扱ってないとどうやったら言えるのか、
扱ってるとはどういう意味なのか、
どこからを扱ってるというのか、
今は扱ってないとはっきり言えるかというと、
非言語水準の無意識の記憶を扱ってるも扱ってないも、
そんなこと分からないわけですけれども、
分からなくていいのかって言われるかもしれないけど、
分かるんだったら無意識とは言えないよねってこともあるんですよ。
無意識なんだから、
それはないんですからね、どこにもね。
目に見えないところじゃなくて、
感知もできてないから無意識なわけですよ。
それを扱ってるとか扱ってないって言ったって、
そんなことが分かってるってことがそもそもおかしいわけですよ。
それが扱ってませんとか言ってる段階で嘘つきだし、
扱ってますって言ってる段階で嘘つきなんで、
だって扱ってるかどうかが分かったら、
無意識じゃないじゃんってことになっちゃいますからね。
あれですよ、冷蔵庫の扉を開ける前に、
冷蔵庫に来ないに電灯がついてるかついてないかを、
どうやって確かめるか問題みたいなもんで、
あれはできますけどね、今機械があるか。
無意識の影響
でも無意識はできません。
機械で探ることができるものではない。
無意識がおそらく意識されていない水準の認識、
知覚、記憶が存在するという、
ただそれだけであるならばおそらく存在するでしょう。
それは。
そのようなことならば言えますけれども、
それ以上のことについて、
特にいわゆるセッション中に起きている事柄について、
全部記述できるというのは既におかしいわけですよ。
記述心理学という言葉が世の中にはあるんですけどね。
そんな感じで3ヶ月チャレンジについての大体のあらましは、
これで述べられたかなという感じがいたしまして、
今日は大体それぐらいでいいかなとは思っております。
短いんですけれどもね。
もうちょっとしゃべろうと思うのは、
今の話の中で、
例えば、今神経症ってさらっと言いましたけれども、
私自身、
最近ずっと思うのは、
昨日も言いましたけど、
適応という意味におきまして、
適応している、つまり仕事している、
家庭生活が崩壊しているわけではない。
僕が言ったことについては、
私より先行ってる人はいっぱいいるようなって思うんですよ。
私自身も別に適応してないとは言えないような、
思うんですよ。
さっき言った、
非言語水準における記憶を扱うのかどうかって言ったって、
例えば私自身は非言語水準における記憶で動かされてるわけですよ。
私たちは生きているっていうのは不十分で、
私はそれによって生かされているって、
それってのは無意識に近い何か。
そういうことをオグデンって人が言ってるんですけど、
これだっていうふうに私は思ったんですよね。
つまり、私たちは生命活動を行ってますけど、
仕事も生命活動の一環ですけど、
どうしてそれをやっているのかとか、
なぜその仕事をやっているのかとか、
そもそも今日どうやって起きたのか一切知らない。
ていうか、知ったとしても、
それをコントロールできるわけでは全然ない。
なので、いきなり起きて、いきなり何かを喋って、
いきなり呼吸しちゃってるし、
つまり私たちはコントロールしてやってることなんて、
ほとんど何にもない。
一つもないのかもしれないっていうふうに、
とりあえず思った。
っていうのが私、
最近一生懸命朝起きて思うことなんですね。
責任とか罪悪感とかって、
世の中にはあるじゃないですか。
でも私はその責任とか罪悪感だって、
実際には感じてるものじゃない。
感じさせられてるものに過ぎない感じがするんですね。
同じことについて罪悪感を覚える人もいれば、
覚えない人もいて、
覚えろ覚えろって言われても、
覚えることができなければ覚えることはできないし、
覚えるな、
罪悪感なんて手放せっていくら言われたって、
手放せない人にとっては手放せない。
つまりそれって、
その本人がやっていることとは言い難い、
本人に感じられていることではあるかもしれないけど、
仕事と創造性
本人がその罪悪感を感じようとしたり、
感じまいとしたりしているわけでは、
決してないような気が、
最近深くするわけですね。
でもこういうことが思いっきり仕事に関係してきちゃうわけですよ。
どんなにその仕事というものが、
仕事だけを意味するように見えたとしても、
例えば私が原稿を書くということにおいては、
原稿を書くということだけが問題なように思えるんだけど、
実際には、
たとえそれが原稿を書く上で、
さほどの妨げにもプラスにも何もならなかったとしても、
母の顔はちらつくんですよね。
一瞬でも。
一瞬でも、
うーんっていう感じで母の顔が出てくる。
そうすると書きやすく感じたり、
書きにくく感じたり、
ここを書くから結局…
あ、すみません。
ちょっとアラームが鳴っちゃったんで。
話がちょっと覚えてないんだけど。
母親ね。
母親の顔がちらつく気がする。
気がすると原稿が書きやすく感じられたり、
書きにくく感じられたりする気がする。
で、いろんなやり方があると思うんですね。
例えば、そこで力度ってものは感じるんですよ、結局。
書きやすくなったとか書きにくくなったとか、
一瞬にしても、
親の顔が出てきたために書きやすくなったとか書きにくくなったって起こるんだけど、
対応の仕方いろいろありますよね。
構わず書き続けるというのも一つの書きにくくなったとしても。
で、書きにくくなった中で書くのは、
いいことじゃないかもしれないけど、気分の問題以外にもね。
一旦ここで気分を変えてからまた書く。
そうするとでも、気分を変えるためにかかる時間があるだけでなく、
その時の、やっぱり書いてる時のノリみたいなものってあるんで、
変わっちゃいますよね。
変わっちゃうと非常に書きにくくなることが別の理由であるわけですよ。
他の人の顔が出てきたりしてね。
で、母親の顔なり父親の顔なりが私の心に思い浮かんでる時は、
まあまあいいんですよ。
だけども、顔が浮かぶんではなくて、それを編集さんに投影してしまう。
そしてその投影に気づくことは全然ない。
編集さんが母に見えるとかいうことはないんですよ。
ただ、その母の顔がちらついた時にはすでに書きにくくなるってことが起きるわけだから、
その母の顔の中でも顔というか、
母の中でも一番私に悪影響を及ぼしそうなものを編集さんに投影してしまえば、
まあ、書けなくなりかねないですよね。
最悪の場合、その編集さんに向かって、
いや、その条件ではちょっとこの仕事は引き受けられませんと。
このように言うのはいいですよ。
このように言うことそれ自体は別に問題じゃないと。
何の問題もないと思います。
今や本を書くのが自分の全性形を握ってるなどという人は多分ほとんどいないと思うんですよ。
危険極まりないからそんなことやってると。
でも今の話はそうじゃないですよね。
本を書くための条件の問題とか、
本を書く上での時間管理の話も一切ないですよね。
母親の影がちらついたかどうかが書くかどうかを全て決めてしまってますよね。
精神分析の必要性
そういうことは起こり得てると僕は思うんですよ。
しかも本人は、本人はっていうのは私はってことだけど、
一切気づくことができないっていうことがあり得るというか、
おそらく起こってるんですよ。
そういう理由で私が本の依頼を断るなり、
途中で書くことを諦めたというケースはおそらくあったと思ってるんですよ。
これはできれば避けたいなと。
なぜなら実の母は私に本を出すなとは全く思ってないし、
結局このような力動の動きというものに人生で左右されるんですけれども、
でも左右されない方がおそらくいいなと思うんですね。
だったらどう対処するのかって話になってくると、
さっき言ったように心のどの深さまで入っていくのがいいのかって話になってしまうんで、
この課題を何とかするために発明されたのがおそらく精神分析だと今私は思うんですね。
そうじゃないのかもしれないが、でもやっぱりそういうことなんではあるまいかと思ってるわけですよ。
それってつまり無意識とか催眠の話って生まれるでしょうしそうなんですけれども、
私はこれやっぱ対象の問題だと思ってるんですね。
でフェアバーンっていう人が言った、
リビドーは対象気球的であるっていうのはものすごく僕の中では重大な発言だと思うんです。
これでだいぶ昔からのいろんな課題が私の中ではクリアになったなって、
最近ずっと別にフェアバーンの話とかしませんけれども、ちょっと変わった人なんですけど、
フェアバーンという人がやっぱり私は途中で必ずあそこの人に興味を持つ時が来る時が多いなっていう。
クラインの前にフェアバーン。
フェアバーンはメラニー・クラインのかの有名なPSポジションの妄想分裂ポジション。
分裂ポジションって言葉を最初に言ったのは確かやっぱりフェアバーンだった気がするんですよね。
ちょっと最近僕記憶が曖昧になるのが早いんで、かくたる言い方できないで申し訳ないんですけど、確かそうなんですよ。
このフェアバーンって人、スポットランド?ちょっと忘れたな。
また変わったな。違うな。違う違う違う。
そこはなんて言ったっけな。
まあいいや。
割とそういう驚々しいものが好きそうな人の好きそうな。
なんて言ったっけ。有名な場所ですよね。
まあいいや。
そのフェアバーンが言った、リビドーは対象気球的である。
これがリビドーは性欲であるみたいな誤解をよくロイト受けてたけど、
リビドーってものがただエネルギーですみたいな。
生きるための生命エネルギーなんですみたいな。あるいは性的エネルギーなんですみたいな言い方だと、
ただエネルギーなのかよって感じがしますよね。
でも対象気球的であるってなると話が全然違ってきて、
子供の時から実に不思議なことがあるもんだと思ってたんですよ。
これうまく説明できないんですけどね。
例えば我々が何かを壊したいと思ったとするじゃないですか。
そうすると心の中に壊すべきもののイメージと壊したいという気持ちは両方セットで来るじゃないですか。
あれ私子供の時すっごい不思議だと思ったんですよ。
だってそのまんまその空想続けたら自己破壊になっちゃうじゃないですか。
僕ここがね多くの人がなぜ復讐心といったものを容易に燃やせるのかっていうことの一つの大きな謎だったんですよね。
小学校高学年ぐらいの時にこの謎をすごい考えた時が、
私はその当時から性的欲望がどうしてもサディスティックになりがちだったんでこのことすごい考えたんですけど、
なぜ自分で自分を壊したいんだ自分はっていう。
だって空想の中で誰かを嫌な奴をぶっ飛ばす空想とかしたと仮にしますよね。
それって嫌な奴の空想自体を自分がしてますよね。
心の中で嫌な奴の空想をしてぶっ飛ばしてるんだからスッキリするじゃないかもしれないけど、
それって絶対自分で自分を殴ってるところがあると思うんですよ。
だって例えば空想だとはいえ自分の空想を自分で痛めつけるということは、
その空想の持ち主は誰か自分なんで、
例えば自分の脳内イメージを自分で傷つけた時、
傷つくのが一番傷つきそうなものは何か。
自分の脳なのではないかっていうのが私はすっごい気になった。
それはある種の自傷行為なんじゃないだろうかっていう風に感じたことがあるわけです。
いや別にそれだから辞めたってわけじゃないんでバンバンやってたんですけど、
バンバンやってたからって別に脳に傷つかないんですけど、
なんか最近のストレスが脳を傷つけるとかなんとかそういう話がビジネス書中心によく出てくるんですけども、
ああいうことを気にするんだったらこういうことも気にしようよっていう風に私はよく思ったんですよね。
つまり心の中の出来事が物質的な傷つきを生むとでも言うならば、
空想的なやり取りの中でその物質的な部分は絶対傷つかないということはなぜ言えるのか、
非常に疑わしい話をしているような気がしたんですね。
何よりも謎なのはしかし、その欲求はその対象をなぜ必要とするのか。
僕よくファン座の話して品種を変えますけれども、
性的に際どい絵はなぜ性欲を刺激できるんだろうっていうのは私はやっぱり不思議だったんですよね。
そしてなぜ絵が必要なのか、これも大変不思議だなと思ってたんですよ。
絵と関係ないじゃないですか、性欲ってしばしば。
食欲も同じなんですけど、食欲ってでも性欲ほど対象気球的だろうかビジュアルでっていうのが私は結構謎なんですよ。
例えばすごい美味しそうなホットケーキというものは私は結構風味でくる人間で、
実際食べてみて食欲が湧くっていうことがすごい多いんで、
女の子っていうのはうちの娘だそうなんですけど、ちょっと食欲がイマイチになる時ってありますよね、ダイエットと関係なくてね。
その時に私がよく食べれば食欲が湧くからって言い方をして、
この食べれば食欲が湧くっていうのは人間結構ある人にあるんですよね。
ビジュアルで食欲があっさり湧いちゃう人はそれでいいんだと思うんですけど、
食べないと食欲がなかなか湧かないっていう、つまりビジュアルと食欲がリック弱い人って私弱いんですよ。
だからあんまりメニューに興味ないんですね。
性欲と食欲の違い
実際食べ始めれば大体何でも、食欲は旺盛な方なんで、大体何でも食べられるっていうところがある。
ところが性欲って逆なんだなっていうのが私は性行為の乏しい性行為で非常に思い知ったんですよ。
性欲は男においては、少なくとも私においては逆に出る。
実際にやれば強まるっていうもんではない。
むしろ絵の方によって強められるということの方が多い。
そしてこれは謎だと思ったんですよね。
だって絵を見て満たしていたら意味不明ですからね。
絵を見て食欲満たしていたら人は飢えちゃうじゃないですか。
ダイエット簡単じゃないですか。
見てればいいわけだから。
そんなことできないじゃないですか、食欲に関しては。
まあそれは命に関わるからなんでしょうね。
この理微動は対象気球的であるっていうのは非常に、
一本は違うと人間が内階で完結できてしまいがちな大きな理由になってるなっていう、
そこまでいけないですけどね、多くの場合はね。
母親の影がちらつく。
母親に向かってしまっている力があり、
その力が原稿を書くということと関係が残念ながらあって、
その力がダムによってせき止められ、ブレーキをかけられたりエンジンをかけられたりすると。
これが対象関係の基礎中の基礎だと思うようになったんですよね。
この基礎中の基礎がだけでもですね、
私たちは仕事をする上でですね、
気をつけなければいけないポイントって実に多い。
人が怒るとか怒られるとか、機嫌を良くする悪くするとか、
顔色を伺うとかいった話っていうのは、
これに比べると私ということにずっと非常に執着があって、
そういう本まで出したわけですけど、
いやそれはすごく重要なこととは言い難いなっていうのを最近思い知り始めました。
顔が見えていてその人の機嫌が悪いとなってくればですね、
それは明らかに認識できるものであって、
つまり無意識の話じゃないじゃないですか。
やっぱり厄介なのは本当の意味で厄介なのは目に見えないし、
それこそ不安は匂いもしなければ形もないみたいな、
あのビオンが言ったような話に限りなく近いんですけど本当にそうですよね。
不安というものは実態がどこにもない。
よくよく我々は不安だ不安だってめちゃくちゃ言いますけれども、
不安というものは実態は何にもないわけですよ。
そしてしょっちゅう無意識の領域で不安というものが暗躍している気がするんですよ。
不安で人はどこかに行くのをやめるし、不安で人は何かを始めるし、
そのことが不安で夜眠れもなくなるみたいなこと、
朝起きることができなくなるみたいなことがいろんなことが起きますね。
これらを私はやっぱり知識でというか、
やっぱり言語と理屈で捉えていきたいというふうに、
言語と理屈は非常に弱いとされるんですよ、この種のことではですね。
そうなんですよ、そうなんですけれども、
でも私はレズルが他にないなって感じるんですよね。
やっぱり収容で行きたくないっていうところがあります。
体感的訓練というのは非常に、いわゆる宗教的な世界では非常に重視されます。
おそらく言語で行き着けないところが多いんでしょう。
でもここを言語でやるしかないわけじゃない。
言語でやるしかないわけじゃないんだけど、
少なくとも私はそうやって捕まえていきたいというのがありまして、
そのために一番迫ってるのが精神分析であり、
力度であって分析であって対照関係論だっていうふうにやっぱり改めて思っているわけですね。
その時に私はその一番の根底の元にフェアバーンがそういえばいたなというのを最近思い出しました。
つまり離微度は対照気球的であるってやつですね。
離微度は単なるエネルギーじゃない。
何かに向かうエネルギーっていうセットになってる。
なんでなんだろうっていうのが私はすごく不思議だったんですけれども、
それを説明していったのがあのメラニ・クラインのいいおっぱいってやつだと思うんですよ。
母親と言わなかった。
部分対照だってことですよね。
そこに向かう。我々はそれに向かうっていうそういうエネルギーを抱えていて、
しかも多種多様に抱えていて、
そのある種組み合わせの中で活力なりあるいは活力の停止、
つまりやる気のなさみたいなものに直結している。
だからやっぱり私は思うんですよ。
やる気があればいいってもんじゃないと思うし、
やる気がないという状態は結局のところ仕事をする社会人として現実原則に生きる我々は困るんだけど、
でもやる気がないということは少なくとも批判されるべきものではないなとは思いますね。