1. 佐々木正悟のライフハックからの精神分析
  2. 信じる、信じないは選んでない..
2026-01-12 44:19

信じる、信じないは選んでない【1305】

信じない人に信じるように説いても信じられないように、信じる人は、信じて生きている。
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サマリー

このエピソードでは、成人の日の意義やポッドキャストの制作過程について語られています。また、3ヶ月チャレンジプログラムの新しい参加方法や金銭的な価値についても検討されています。信号機や交差点を例に、信じることの重要性や相互信頼について考察します。信頼がなければ運転ができず、無意識のうちに信じている現実にも触れています。信じることや信じないことの選択について議論され、特に人間関係や宗教観における信頼性の重要性が強調されています。赤ちゃんとその母親の関係を通じて、考えることの本質や外部からの刺激をどう取り込むかも考察されます。デフォルトで信じていることの重要性と、それに基づく行動の影響についても議論されています。

成人の日とポッドキャストの制作
おはようございます。佐々木正悟のライフハックからの精神分析、第1305回をお送りします。
多分1305回。直前のタイトルが1303回になってたのはあれは間違いで、後で4回に直しておかなきゃです。
1月12日、多分成人の日の月曜日、9時15分です。
妙に暖かくなったり、やだら寒くなったりしてますが、成人の方おめでとうございます。
成人って今20歳。これ20歳のお祝いなんですか。18歳から選挙権があるんですよね。今の時代って。
なんかちょっとよくわかんないなぁと思いつつですね。成人の日で、お休みにしようかと思ってたんですよ。
一応これ平日ポッドキャストの予定なんで、ただお正月ガンガン休ませてもらって、
あんまり先週ポッドキャスト収録していない上に、今週も3連休で、まあ休めばいいんですけど、
今日ぐらいはたまたま余裕があったということもありまして、やっとこうかなというふうに思いましてやることにしました。
こういうのね、動画とかで撮ればいいんでしょうけど、なかなか動画ね、私今のところは全然うまくやれている感じがしません。
今年は動画に本腰入れる年にできるだろうか、みたいに思っている。まあそういうことを思っている段階ですでにダメなんですよ。
ブログとかの時は何も考えずにいきなり始めて、まあその結果ははかばかしかったとは言いませんけど、
だいたい何も考えずに始める。このポッドキャスト完全にそうなんで、私いまだに何も考えずにやってますから。
1300回ですもんね。まあそれがはかばかしい成果につながっているかと言われるとわかりませんけど、そういうふうにやるのが私なので、
これでいいんですよ。こう動画ができればね、一番いいんでしょうけどね。
なんかね、多分僕見てるともどかしいっておっしゃる方がいるんだけど、それはものすごく大きな誤解だと僕は思っています。
もどかしいとおっしゃるのは、僕がうまくできる前提に立っていらっしゃるんですよ、多分。うまくやればできるんですけど、そうすると多分2回とかで終わるんですよね、今度はね。
1300回も続けているのは、こういうやり方だからであって、これを両立してこそもどかしさがなくなるんでしょうけど、
それをやろうとするから、僕の考えでは人は抑鬱的になって動けなくなるんだと思うんですよね。
そういうふうに何でも頭で考えた一番いいものに人間を合わせようとするということは危険なことなんですよ。
虫とか飼ってみるとわかるんですよね。理想の水槽とかを作り始めると死に耐えていくんですよ。
これは1回くらいは生き物を飼った人は多く経験してるんじゃないかなと思うんですけど、生きてるってことはそういうことなんですよね。
なんかこう、死んだように生きちゃうんですよね。自分の頭の中で考えた通りに結果をしようとすると。
これをなんかかわいはやおさんが昔、うちのこの不登校が1キロ先の学校にも行けない、今はボタン1つで、ボタン1つじゃないんですけどね。
ボタン1つでロケットは月まで行く時代なのにどうして1キロ先の学校に子供を生かせられないんだという訴えをカウンセラーにした。
まあもう追い詰められてるなって感じがするんだけどした人が、つまりそれはロケットは生きてないからだよっていう話をしていたんだけど、そういうことなんですよね。
大層なことをしているようなんですよ。月まで行くってのは大層なことをしてるんだけど、大層なことをしているようで、相手が死んでれば結構何でもできるんですけれども、
相手が生きているとなるとですね、やっぱりそのちょっとしたことですら自分の思い通りになんてできないんですよね。
だから私がこれをやってるのをですね、こうやってこうやってこうやれば素早くしたらいいのにって思う人は多分いっぱいいらっしゃるんでしょうけど、それは私が生きているからできないことなんですよ。
この生きているっていうことが全ての前に出てくるはずなんですよね。
3ヶ月チャレンジの紹介
ということで3ヶ月チャレンジのCMに入るわけですけど、おかげさまでお申し込みと言いますか、ご予約をいただくようになりまして、
1月31日、10日ぐらいまでがいいと思うんですけどね、31日ってことになると直前の日に、まあでも31日でもいいですよ。別に30でも31でも変わりはしないんで、
初回無料セッションというものを今季から、つまり来季からですね、来季からやることにしました。初回は無料でセッションを受けさせていただき、3ヶ月チャレンジ入会への少なくともご興味ある方ですよ。
あの初回セッション無料をやったから絶対入れとかそういうわけではないんで、たださらに段階を設けまして初回セッション無料で入りたいと思った方は、
初月25,000円でお試しいただけます。2月だけですね。2月ちょっと短いんだけどそこはもうご容赦ください。4週あれば別に短いも長いもないんで、
初月だけ25,000円でお試しいただきます。それでさらに気に入ったら残り2ヶ月分5万円を、
税別ですよ。3ヶ月チャレンジということでお支払いいただきます。だから1回目無料で初回1回だけのセッションと1ヶ月だけのお試し期間と、
で、さらにそれで気に入ってから3ヶ月ということなんで、色々と一応手を打ちました。
これが一番安心感が強いんじゃないかと僕が受ける立場だったらですね、まあその全然効果なかったからお金払いませんって言うんでも、まあいいんですよ。はっきり言って別に。
初月やってみてみたいな。それはまあ25,000円ぐらいはお支払いいただいておいてもいいんじゃないかと。つまりそうしないと効果出ないんで本当に。
あの僕これで生きていくということについての確信はもう得ているので、あの人方がお支払いいただかないからと言ってどうこうとは思わないし、これってぼったくれないんですよ。
お互いぼったくれないんですよ。本当に真剣にやろうと思ったらですね、めちゃお互いが苦しくなって、もうこれ無理だなみたいな話になることなんて
山の中に実はありまして、そこを我慢してやっていくっていうか、我慢というのは違うんだよな。
なんかそれでもやっていくとしか言いようがないんですけど、なんて言うんですかね、これは様々ある。しかもそれは様々あります。
なので、ただ辛いだけではないんですよ。辛くない時でもこれでやめてもいいんじゃないかとお互いが思う時もあるんですよ。辛くなくても。
で、お金払うわけですから、じゃあ無料だとどうなるかというと、いいんじゃないだろうかでも続いちゃうんですよね。辞められなくなってしまうんですよ、今度は。
だから無料って怖いんですよね。無料だと区切りが何にもないんですよ。
無料なんだから、いつ辞めてもいつ入ってきてもいいっていうことに結局なっちゃうじゃないですか、無料だと。
だからこれでぼったくるというような話とか、逆にこう、タダで利用させてもらうみたいな話って何かを得してはいないんですよ、これは。
お支払いただかないと手に入るはずのものが手に入らなくなるんで、私が話そうと、レクチャー聞こうと意味が全くないという使い方はできるんで、で、多分無料で使うというのはその最たるものなんですよね。
何度も何度も言っても多分通らないんですけど、これはいかなる意味でも情報価値はありませんから。情報価値ゼロなんで。
だからあの時々50分だと10分損しているとか、75分だと15分得しているとか、そういう可能性は皆無です。
一個もないです、そういうことって多分。
どこで切るかっていうことによって心理的なダメージがどう与えられたり、どう心理的な回復が与えられるってことは促されるとか、そういうことはありますが、お互いにね、これもお互いになんですけど、ありますが、
それはあくまでもセッションが機能している場合の話であって、セッション機能させる最低限のツールの一つが金銭のやり取りなんですよ。
なぜなら私はお金を使わないと生きていけないからですね。私これ、そうなんだよな、その、なんか宝くじとかに当たっちゃって買ってないから当たんないですけど、あるいは株とかやってないから当たんないですけど。
金銭の価値とプログラムの意義
で、一生困らないなってことになると多分、金銭重々におけるこの機能は低下する恐れがあるなと。
松木くん二郎さんは高級車乗っちゃダメでしょ、カウンセラーはみたいなこと、それもどうかと思うんですけどね、私はね。
いや、そんなこと言ったらカウンセラーさんは誰も贅沢な生活ができないことに、まあ僕は別にそんなことはどうでもいい、これもまたもう一つ思うんですよね。
でも松木さんって高級車って絶対買いそうにないなって思うんですよ。まあこれは偏見かもしれませんけどね。
なんかね、そう思うんですよね、スポーツカーとかこの人乗ってるの、イメージが全く、なんかそうなんですね、やっぱ若いですよね。
だからその乗りたくもないものに乗っていてもっていう過程ってあんまり意味ない気もするんですけど。
でもまあね、お金持ちになったらどうですかね。機能させようと真剣に思えば機能するものなんで、真剣に思うことが何より大事であって、真剣に思うためのミニマムのツールの一つがお金っていうことであって、お金だけが繋いでる関係の場合、でもそれすらないよりはだいぶ違うような気もするんですよね。
だからやっぱりあまり奨学では機能しない気がするんですよね。1月1万円未満とかになってくるとちょっと難しくなるのではなかろうかという、私がその昔出した本の印税とかなんかこう入ってきますけどね、年間で3600円とか、なかなか機能してる気がしませんもんね。
頂いているからまあまあ、こういうのだって頂いていると助かるっていう時はあるんですが、しかしこれでは少なくとも初対持ちとしては無理よねっていうのはありますもんね。
だから機能させるための金額としてこの辺がミニマムにセットせざるを得ないなっていう、自分に響くって意味なんですけど、ないとやっぱり響くダメージがあるみたいな、そういうのがいろんな意味で頑張るとか忍耐するっていうのとは違うんですよね。
近い感じとしてコンテーニングというよりは僕の感じではホールディングなんですよね。ホールドオンって感じなんですよ。ロックしましたみたいな。なんかホールディングって本当に抱っこって感じじゃないですよね。ホールドって感じなんですよ。難しいっすねこれもね。なんかスポーツ用語で使う時あるじゃないですか。ホールディングみたいな。なんかそういう感じなんですよね。
スクラムにもやや似てるんですけど、僕ラガーマンっぽさって自分にないと思うので、ただスクラム組むみたいなのってちょっとある気がします。スクラムなんかちょっと違うなぁ。でもスクラム乗る前に中にラグビーボールって置くじゃなくて入れるっていう言い方するじゃないですか。でもあれ触れてないんですよね。ボールそのものにはね。あの入った段階では。ああいう感じがちょっとありますね。
あそこにスクラム空間みたいなんでできるけど、それは別に特に何を意味するというもんでもないですよね。なんかでもああいう感じがするんですよね。お互いガチッとやる。やり合うっていう時のそのガチッという感じでその間に空間ができるみたいな。何人でやるんですかね。スクラムって6×12人ぐらいでやるんですかね。で押し合うんですよね。押さないとダメなんですよね。
お互いで崩れてしまうともう一方的に押し出されてそのままトライですからね。何の話をしているんだろう。というわけで3ヶ月チャレンジ。ぽつりぽつりと試しがいただけるようになりましたので。だからポッドキャストもやんなきゃなっていう。だからやんなきゃなとは全く思ってないんだよな。言うとそういう言葉になっちゃうんですけど、別に僕はただ今日はなんとなくやってるんですね。このなんとなく感で全てやっていくのが正しいというか僕には正しい。
と思うんでそうやってやらない限り動画って多分僕の場合はうまくいかない。うまくはどうせいかないけどまあ僕なりのやり方が確立していかないだろうなとは思うんですよ。それを今模索に模索を重ねているという感じでございますね。はい動画に関しましては。
いい加減本題に入ります。13分も。3ヶ月チャレンジよろしくお願いします。初月は1月の間はお試し1回セッションを無料で受けていただけます。詳しくはウェブサイトの3ヶ月チャレンジという。これもね3ヶ月チャレンジをグーグル検索しても僕のじゃないのが引っかかってくるんで。ちょっといい加減X、X多分固定してあると思ったんだけどな。固定しておきます。
できればノートに一発記事ぐらいは書こうと。書こうというか。いろいろね思うところはあるんですよ。特定商取引のうんたらかんたらも載せとかなきゃなとかって思ってはいるんだけど全く載せないまま13期を迎えようとしていますからね。特定商取引ぐらい載せとけよって話なんだけど。特定商取引と利用規約。利用規約いるかな。なんか結局それってまあ僕はそういうものをじゃあAI作っといてねみたいな感じで。
あのお願いしてAIのやつを少々修正して貼るみたいな。まあね大事なんでしょうね。誰かやってくれないかなって思っちゃいますけどね。やりたいという気持ちがまるでないんですよね。
困ったものだと思わなくもないんですけれどもね。なんて言うんだろう。AIにも言われるんですよ。守らなければ。守るってなんで守るってことにそこまで重要性を持とうとしちゃうのかな我々はと。
交差点と信号機の重要性
本題に入りますとね。やっぱり僕は可能性空間というと交差点。交差点というのは移行対象というものがやっぱり信号機という形で。信号機移行対象じゃねえって言われればそうなんですけど。でも私はこっち側から見た光景と向こうから見た光景が一致しているというあの勝手に信じ込むそここそまさに移行対象らしさと言いますかを感じるわけですよ。
こっちから見たら黄色だからって向こうから見ても黄色だとは限らないじゃないですか。こっちから見たら赤だけど向こうから見たら青かも。そんなことになったら大変なことになっちゃうわけですけど。でもそうじゃないという保証がどこにもないのに見た目上の保証はないのに信じなければ運転はできないんですよね。信じられない人はいるはずなんですよ。いらっしゃるはずなんですよ。
信じられないということはつまり現実原則にのっとってはいないんですよ。このことをあんなに明快に示すものってあんまりないなっていう信じない人間の方がリスクに関して正しい考え方をしているっていう言説が今時ビジネス界には山ほどあふれかえってんだけどそれがいかにデタラメであるかということをあの交差点という空間が物語ってるわけですよ。
だってあれがあるからあれがあるばっかりに世の中で重大事故が絶えませんって話聞きませんからね。交差点はもちろん事故多いですよ。特に右直事故ですよね。しかし右直事故が多いってこと自体が人間の賢明さをよくよく物語ってるんですよね。右直は信号機が一番機能しにくい部分なんですよね。
だから赤信号矢印っていう、まああれクニクの作なんだけど、あの作がクニクでしかないところがやっぱりあれが事態がそもそも事故を結構引き起こしている。だからあそこにこの矢印が消える瞬間に黄色信号に変わる。あの工夫は良かったと思うんですけどね。でもあの黄色信号は実は矢印に対する黄色信号であるということは、まあまあ普通のライバーはみんな理解できてますけど、若葉さんの最初の頃はちょっとね
うってなる瞬間がおそらくあるだろうなっていう気はするんですよね。まあ私一応ですね、あの運転の適性は5Aなんですよ。あの一番高いやつなんですよ。感情的適性も技能的適性もあの一番良いところにあって。で、まあこういうこと喋るとね、あれなんですけど事故るんですけど本当に嫌だな。
えっとだいたい20過ぎぐらいに取ったから、20、30年間無事故なんですよね。無違反ではないです。でもほとんどの時間、時期はゴールドで過ごしているし、ほぼ毎日運転はしてるんで、えっとまあまあ得意な方ではあると思うんですよね。
うちの親父がよく無駄に私にこう運転のアドバイスをしてくるんですけど、父より下手だとは思いません。まあ父は下手ではないですし、ただ流儀が違うんですよね。車って流儀があるんで間違いなく。最初は父のアドバイスってなるほどなと思ってたんだけど、聞いてるうちに、いやそれはあんただからなっていう。すごいやっぱりね、やり方違うんですよね。ハンドル持つ位置も微妙に違うし、あの席と、なんていうかな、ハンドルからね、
車の背もたれの距離感も、私すごい狭める方なんですよ。訳あるんですよ、それに。車結構広くて、それはそれで考え方としてありだなと思うんだけど、そういう違いがあるのに同じアドバイスは実は通らない気が。でもまあ、あのアドバイスは意味がわからないではないんで、まあまあまあまあまあ、腹立たしい時もあるが、役に立つからよしとしようみたいなところはありますけど。
で、そんなことはまあ全然どうでもいいんですけど、何が言いたいかというとですね、こっちから見えてる通りに向こうにも見えるであろうっていう考え方ができることが一つには、やっぱり抑圧ポジションに入れてるってことでもあるし、しかし信号機がないと人間は、あの交差点一つ捌けないんですよね。
譲り合えばいいんじゃないですか。でも譲り合えないんですよ。どっかでやっぱりこう、ここできちいって曲がってやりたいっていう人も出ますし、いろいろですからね。だから、あの信号というのは補助的な対象なんですよ。補助的な対象ってのはやっぱり移行対象だと思う。移行ってのはつまり、母親からの独立の移行機に登場するべき安心毛布とか、それはお母さんの代わりにしたいわけですよね。
つまりその子の独立上の限界を示しているのと同時に、やっぱりお母さんのケアの限界を示してるんですよ。やっぱりもう毛布に車っといてよ、あんたみたいなノリの時代ってあるわけですよ。もうあまりにも手をかけている余裕がないからですね。だから移行対象というのは母子共の限界をそいつが補助してくれる対象なんですよね。信号機ってぴったりだと思うんです。やっぱりその運転手、ドライバーさんたちの限界を補助してくれる存在じゃないですか。あれは。
しかも相互信頼によっているんですよ。お互いが仲良いって話じゃないじゃないですか。しかし別に運転手ってしょっちゅう喧嘩するじゃないですか。内心でチッとか言ってるし。でも相互信頼に基づいてるんですよ。この善意であるということと相互に信頼してるということは僕はイコールじゃないと思うんですよね。母子関係というのは相互信頼に基づくより他ないんですよ。お母さんのこと信頼しないと子供は死んじゃうんで。
だからやっぱり信頼しておくしかない。でもそれは常に母子関係が両者ラブラブであるという話にはなってないですよね。別にね。
で、補助対象がいるんですよね。それが移行対象というものって必ず移行対象あるところに移行空間が発生するはず。どっちかというと移行対象なんかなくたって移行空間は必要なんですよね。
もし信号機がなくたって交差点は移行空間だと思うんですよ。そこは相互信頼ってものが絶対に欠かせない。欠かせないくないと例えば歩行者絶対渡れなくなりますよね。車があるときには。
で、車の絶えない道路ってありますから、歩行者は渡らねばならないわけですよ。で、仮に歩行信号が青で赤だったとしても信頼がなければ渡れないですよね。だってビューンって行っちゃうかと思う。
で、自分惹かれるかもしれない。わかんないですかね。そんなことはね。本当は。で、これが本当の意味で信用できなくなると脅迫的になっていくということになると思うんですよね。
だから、手を洗うのがやめられなかったり、鍵を閉じ間にの確認がやめられないというのは、実は世界に対する不信に彩られているということであって、昔私グッダワイブスの倉田のけいぞうさんとこの話したことがあるんですけれども、
でも万が一ってことがあるじゃないですかって言ったら、倉田園さんがみんなそれを言うんだっていう言い方をされたんですよね。そうなんですよね。みんなそれを言うんだけど、実はみんなはそうは思ってないんですよ。信頼してるんですよ。
してなければ交差点渡れなくなるはずなんで、渡ってる人は不信に道を歩いているかもしれないが、渡ってる段階で車が止まってる段階で信頼はしてるんですよ。
だってアクセル全開にしたら自分死んじゃいますからね。ということは信頼できないんだったら本当は渡ることは決してできないってことになってしまうので。だから、土から離れられないとか水道の前から離れられないということは、本当の意味では渡れないのと同じことが起きているはずなんですよね。
つまり信頼というのは現実原則においてはデフォルトなんですよ。実はデフォルトのはずなんです。何も考えてないっていう段階ですでに信頼はしきっているということになるんで。考え始めたら大変なんですよ。だから初心者の運転で神経質な人って時々いくつかやりますよね。地図教習と高速教習かな。他の人の後ろに乗ることがあるけど、やっぱりすごい神経質な方っていらっしゃるんですよね。
で、だって来るかもしれないじゃないですかとかって言って、例えば方向指示機が出せないとか、出せないんだなっていうのがわかるんですよね。あるいはもうもちろん右折はできないとか。結局その教官がハンドルを横からやって、あれダメなんですけど、まあじゃあ行きましょうって言ってやって、今時は教官優しいですからね結構ね。でもこれって当分判子もらえないだろうなこの状況でっていう感じはしますよね。
デフォルトの信頼
どうしてかっていうと右折ができないからですよね。だってあそこでスピード上げてくるかもしれないじゃないですか。それはそうですよ。確かにそうだ。絶対にそうしないという保証はないんだけど、普通はそうは考えない。で、普通はそうは考えないということに別に意味はないはずですよ。普通はそうは考えない。その言葉に何の意味もないですが、でも普通はそうは考えられないんですよね。どっちかっていうと。
だから信頼というのは僕はホールドオンだって。ロックオンに近いものを感じるんですけどね。ホールディングはされている感じがするんですよ。もうなんかうんは言わせないみたいな。信頼するより他ないんだから信頼してしまってるし信頼し続けておけよみたいな。そういうなんかこう強制力を働かせているものを感じなくはないです。ここを振りほどいてしまうと赤ちゃんは下に落ちると。
だから振りほどけないんですよねやっぱり。どんなに不信感に満ち溢れていたとしても。振りほどいてしまうと赤ちゃんは落ちると。だから信頼しておくより他どうしようもないみたいな。信頼できるかできないかではなくて信頼一択になってしまっている。でもその信頼というのは相互の関係に基づくのであって。
信頼しますかしませんかイエスかノーかみたいな選択っていうことはやってない気が私はします。この話をですね3カ月チャレンジの参加者さんの中に地球の重力とか空気とかそういったものに適応されている方もいらっしゃったんだけど。まあその通りだと思うし我々はそこまでしない方がいいと思うんですよ。
重力がなくなったらとか考え始めることほど危険だと思うんですよね結局ね。そんなこと本気で考え始めたら、いてもたってもいられませんからね。そういう話なんか昔、あの水本太郎さんのふんじたしで出てきましたね。あの地球では反対側では逆さまに立っている人がいると考えると地球に立ってられなくなるじゃないかみたいな話をしてましたけど、子供がそういうことを言い出すことはありますけどね。
そうなんですよね。上と下っていうものは、中小概念にしかないですから、上とか下はないわけですから宇宙にはね。だからその自分が落ちないとか落ちるとか言っている意味もどっちに落ちるんだって話ですよね。空に向かって落ちるわけですよね。地球の裏側だったらこっちから見るとね。空に向かって落ちるっていう概念を僕らは持ってないですよね。つまり地球の重力がなくなるとかはありえないこととして信頼しているわけですよね。
じゃないとどうしようもなくなりますよね。どこまでも上に行くとかね、そういうことになっちゃうんで。これはだから一択ですよね。信頼するしかないみたいな、そういう話になってくる。たまたま割れ落ちたところが自分にとって都合のいい場所だったっていうこの事実を信頼しておくよりはどうしようもなくて、信頼せずにおくとかいうことはできなくて、信頼せずにおくってことを本気で始めてしまうと大変なことになるわけですよ。
不審の病みたいなものにかからざるを得なくなっていくって、これもだから結局何て言うんだろう、単に話を逆にしているだけのような気がするんですよね。結局一択しか選べていないような気がするんですよ。二つのうちの一つを我々は自由意志で選択しているわけではないと思うんです。
この話何を言ってるか伝わっているんだろうかって今ちょっとそれこそ心配になってきたわけですけど、でもやっぱりこれもそうなんですね。僕途中最初に申し上げたような佐々木賞後的な流儀でしかこれできないというのは結局のところ私のデフォルトを言ってるんですね。
デフォルトで信じていることをやっているだけであって、デフォルトで信じていないことはできないんですよね。多分こういうことがその不登校の話であったり、ロケットは生きていない話であったり、生きているということは生きていることの中にデフォルトでの信頼というものを置くべきであって、置くべきとかじゃなくて置いてしまっているものであって。
で、その人その人がどういうものをデフォルトで信頼して、デフォルトでは信頼できないかというものをデフォルトとしても生まれつきではないんですよね。これがね、ややこしいことに最早期の人生を反映してるんですよ。残念ながら。本能で信頼ができるんだったら、我々は悩まないんですよ。我々はほとんど本能ぐらいに思ってますけど、空気があると信じるのは本能に近いと思ってるじゃないですか。でもおそらくそうではないんですよね。
これは経験から学んでいることなんですよ。ただその経験というものを記憶として持ってないので、その時代言葉を知りませんから。つまり言葉を知らない場合は経験から実際学べないんですよ。経験から学ぶというのは必要に応じて修正するって意味になるんだけど、修正ができないんですよ。そういう時に学んだことは。修正ができなくはないんだが、修正すごい難しい。
修正の性がそもそも、修もそうだけど、言葉を残念ながら前提に置いちゃっているので、人を信頼できるとかできないっていうのは学べるんですけど、経験から。しかし人筋ながらいかないっていうところがやっぱあるんだろうなと思うんですね。
信じることの選択
で、これは一見するとなんかモラルっぽくなっちゃうんですよね。選択の余地があるならその通りだと思うんです。人を信じましょうみたいな話。だけどそうじゃないんですよね。信じている人は信じないということが選べてないのに、信じましょうもへったくれもないし、信じない人は一択で信じてないのに、その人の宗教に基づいて信じないようにしましょう。そういうこと言う人はいるじゃないですか。ビジネスの世界とかで。
信じちゃダメですとか、距離を置きましょうみたいな。でもそれはできないんですよ実は。できると思っちゃいけないんですよ。多分それは野郎としてできることではないんです。ただその人は信じてないというだけの話であって、それは宗教みたいなものなんですよ結局は。信じる信じないを選んだ上で信じてないわけではそういう人にとってはないんですね。
人はどんなことで人を騙してくるかわかんないんだから信じちゃダメですとか、あなたがこういい気になって喋ってるんだって笑われているんですよとか、それはその人にとってはデフォルトなんですよ。だから私がこうやって喋っていて、いやもうなんか良くないねとかあの親指の下にサインね、これを恐れて情報発信しない人から見ると、さっきはよくこんなことできるよなと、こうこうこうこういうことがあるよと、いくら僕が言われてもやめないじゃないですか私は。
なぜならデフォルトがその人の発想と真逆を向いているから。で、その人はいくら私がこういうのをやるとビジネス得になるし、どっかで炎上したからってそんなことあなたにダメージ与えませんよとしてもダメなんですよね。伝わらないし聞いては決してもらえない。なぜならその人は私のような信頼感というものがないからなんで最初から。ないものをお互いが喋ってるに過ぎなくなっちゃうわけですよ。
で、こういう時にはお互いがお互いの様子を見合うしかないと思うんです。もしどうしてもお互いの言い分を伝えたいと思うなら、大概は思いませんけど、言葉のやり取りだけで1回でどれほど説得力がある話をしたところで、そろそろひっくり返るもんではないんですよ。
本当にそうだわと思っても翌日情報発信しようとか、Xで投稿しようと思うと手が止まり、これで喋ろうとすると口が止まる、そういう風になってると思うんです。つまり知識では学べないことなんですよね、ある意味。
で、だったら何で学ぶことになるかというとお互いの様子を見ていくしかないんですよ。これで炎上しないんだろうかと。で、炎上しないっていう事実を見ただけでも不十分なんですよ。一見十分そうですけどね。そうではないんですよ。
手を洗わずに物を食べたから直ちに食中毒になることってほとんどないじゃないですか。そんなことは分かってるんだけど、手を洗うのがやめられないという本もありますが、そういうことで苦しんでいらっしゃる方は、それが分かったというだけでは十分ではないですよね。
だから私は、そこを考えても無駄だって多くの方言うんだけど、そうは思わないんですね。そここそ考えるしかないと思うんです。なぜ炎上しないのか。なぜ食中毒にならないのか。考えていけば、考えたからといって手に取るように答えが出てくるわけではないですが、考えることによって、それまで考えずにきたことを無視しなくなっていくというか無視できなくなっていく。
つまり考えるということ自体がホールディングなのである意味では、少なくともホールドしにかかっているので、ホールドするということが、つまりホールドし直すということが多分大事なんだと思うんですね。
ホールドできてないことがいっぱいあるんですよ、私たちは。しょうがないんですけどね。だからといって手を離すと赤ちゃんは落ちる。これは避けなきゃならない。どっちにせよ。だからホールドしなきゃならないんだけど、どうホールドするか。自分は何をホールドせずにきたのかということを、やっぱり考えるより他ないだろうなと。
これを考えると、これは考えるとは言わないという流儀の人もいらっしゃるんだけど、我々というか対照関係の世界ではこれを考えると言うんですよね。考えるというのはつまりコンテインすることだし、ミニコットが言うところのホールドすることなんですよね。多分そうだと思うんです。つまり外側にあるんですよ。
考えというのは頭の中にあるものではなくて、外側にあるものを一旦取り込んでみて、取り込むだけではさっき言った通り不十分で炎上しませんとか、手は綺麗になりますとか、いくら取り込んだところで取り込んだだけではすぐに剥ぎ出しちゃうんで、そういう時には取り込み続けてさらには消化していくっていうそういうこれがコンテインのモデルですけど消化していく。つまりそれが考えるということなんですよね。
赤ちゃんに対してお母さんがそれをやってくれたはずであって、やってくれなければいけなかったはずなんですよね。つまりとにかく水が欲しいと泣く。水がないから死ぬと泣くっていうそれは考えられてないから何もないですよ。とにかく泣いてるんですけど、それに対して母親がその苦痛と泣き声を抱えに行くわけですよね。
するしない、あるいは手放さない、抱き抱えに行くということですね。抱き抱えたところで赤ちゃんが泣きあうわけじゃないわけです。つまりホールドしたりコンテインするだけで十分なわけじゃない。そもそもコンテインしに行くだけでは全然十分じゃないんだけど、でもしに行かないことには何も始まらないので、コンテインしに行くところから始める余裕がないんですよ。
で、この考え、つまり赤ちゃんは何を欲しているのかというこの考えは、お母さんの頭の中に最初からあったわけではないですよね。赤ちゃんの方から発せられてきたものであって、お母さんの頭の中には何もないわけですよ。
他に何かあるのかもしれないけど、今日のお昼の見たいテレビの話とかね、そういうのあるのかもしれないけど、この場合コンテインしに行っている考えというのは自分の外にあるものです。それを抱えに行って考えると、これが消化なんですよね。つまり考えというものは考えられていない考えというのは自分の外から来るんですよ。
これはいわゆるセッションやると、たとえ心理臨床でなくても、こういう時にこそ精神力動は役に立ちますよ、ビジネスにもっていうのがあるんですよ。コミュニケーションにおいて自分の頭で考えたことを相手に伝えるっていう不可解なモデルがあるんですけど、あれをやってみたところで、取材とかでよくやられるんですけど、全然コミュニケーションにならない気がする。
やっぱり赤ちゃんが泣いているのはお母さんが泣いているわけじゃないですから。赤ちゃんが泣いているのはお母さんの喉が渇いているわけじゃないですから。考えられていない考えというのは外側にあって、その外側のものをまず取り込んでみて、自分は何を考えているんだろうじゃなくて、この子は何を欲しているんだろうですよね、考えるということであるならも。
自分の喉が渇いてないんだけどっていうのではないですよね。自分別に頭痛いわけじゃないんだけど、自分泣きたいわけじゃないんだけどって言ったら話にならないじゃないですか。そうじゃなくて、なぜこの子は泣いているんだろうですよね、考えるんだとすると。
で、それを考えるというんだから、考えるための対象は自分の外側から来るわけですよ。考えたことによって自分の中から出ていくわけではないんですよ、アイデアがですね。だからアイデアは外から来たものに対する代謝とかって言うんですけど、取り組みによって出てくるものであって、決して自分の中から出ていくものではない。
この漢字っていうのが出てくると、考えるということの意義というもの、考えただけではしょうがないとかそういうことはなくなるし、騙されないように距離を空けるというのでは全然十分じゃないということが実感されてくるという感じですかね。
途中私が言ったようにセッションというのは決して情報発信ではないんですね。なぜなら素材はセッションを受けに来る人が持ち込むものだからですね。私が情報発信してそれを受け取りさえすれば事態が解決するという解決の仕方は一個もないんです。
なので無料でやるあるいは余計な余計に時間をもらえば自分が得をするなどということは起きないわけですよ。あくまでも自分が苦しみっていうものをそこに持ってきて考えさせるというところまで持っていかないことには話が始まらないからですね。
無理やりでも私とだったらば私に考えさせるっていうことで私に考えさせているときにはその人は考えずに済むってことはないわけです。赤ちゃんはお母さんに向かって喉が渇いたとは言わないですが喉が渇いたから泣くってことをやっているときお母さんがそうかこの子は何か苦しいんだなぁと思って考え始めてくれるとお母さんが優しいからだからといって赤ちゃんの喉の渇きがいきなり癒されるわけじゃないから泣き続けてるじゃないですか。
お母さんがそれに対してよしよしとか言っても大体泣き続けてるじゃないですか。情報発信だけしても無意味なんですよ。自分がそこの情報発信させるというエネルギーをそこで発揮しない限りは情報がただお母さんから発信されるそれを録音とっておいてそれを聞いとけば自分の喉の渇きが癒されるということは絶対起きないじゃないですか。
私はだから情報発信っていうのはそういうもんだと思うんですよね。そういう意味で別に情報発信が無駄だと言ってるわけじゃないんですけどこの場合には情報発信というのは筋違いなのであってお金を払うというのは泣くっていうことに限りなく近くはないんだけれどもやっぱりエネルギーを発するっていうことはお母さんから見れば外側から来ないことには何かを始めることすらできないと。
コンテインにしに行くってのはコンテインを求められているっていうのに対する感知が必要でその感知が感じるにしるですね。ないままいきなり情報だけ発信してみたところでそれは筋違いなものになるじゃないですか。いきなり子守唄歌いだすとか子守唄が無意味なわけではないんですが子守唄を歌いだしてほしいのは眠い時であって腹が減ってる時とか喉が渇いてる時とか熱苦しい時に歌がやってきてもしょうがないんで
歌ってのがまさに情報なんですよ。なもんだから関係ないものが来てもしょうがないわけだから自分が発信しなきゃいけない。その発信は基本は苦しみですからね。だから長い時間やればやるほど得だっていうのはあたかも自分が苦しめば苦しむほど得なんだ。それはそうかもしれないけどそうじゃないですよね。そうではないはずなんですよ。苦しみというものが真剣なものであるならばそんなことがあるはずはないので。
お母さんはいくらかにせよ苦しんでくれないとコンテンツに来ないじゃないですか。泣き声苦しんで泣き声ばっかり聞いてられないみたいなそういうのが必要ですよね。お母さんが苦しむんだったら私泣かないみたいな話ややこしくなるんですけど著しくこういうことがややこしくなるんだけどお母さん苦しんだじゃあやめましょうみたいな。でもそういう気持ちになりますよね。
罪悪観点を持つと。だからここにお金が介在するということがいくらかは少なくとも少なくともいくらかは欠かせないんだと思うんですよ。お母さんが苦しんだらやめますって言ったらその瞬間に終わってしまいますよね。
本音のところでお母さんは苦しくないのか苦しいのか論みたいなある種ボーダーライン的な議論っていうものが起きやすいんですけどこの場合どんな人がやっててもボーダー特性とか関係なしにこういうことが起きやすい。あなたが苦しいんだったらやめましょうと。
だからカウンセリングというのは害してお友達に相談すればいいのにという内容の話がよくカタカラとか第三者はそういう言い方をするんですけどだったら友達は苦しめてもいいのかって話になるじゃないですか。気が咎めやすい人ほどこの選択がそもそもできないわけですよ。
私の話なんかを聞いて相手を苦しめては申し訳ないっていうことでその人は小さな悩みから大きな悩みが大きくなれば余計ですから一切誰にも相談しないってことが起き始めるわけですね。ここでお金を取る正規のカウンセラーの意味ってすごく出てくるじゃないですか。
本当は正規かどうかっていうのはまた別の議論もあると思うんだけど少なくとも正規っていうことには意味があるわけですよ。なぜなら国家があなたの悩みを聞きますってある意味言ってるようなもんだからですよね。気が咎めにくくなるでしょ。そうするとやっぱり自分国民だし国に悩み聞いてもらおう。これは公認っていうものの考え方の基礎にあると思うんですよね。
そういう意味では非正規であっていけない理由は何もないわけですよ。ある意味では。別に悩み国じゃなくてもいいだろっていう人はそりゃいるでしょう。自分国民だとしてもですよね。悩みを国に聞いてもらわなくても別にそこら辺の民間の人でもいいんだよってそれは当然そうですよね。そういうことはいくらもあると思うんです。
極端に言うとうちのプリンター壊れたんだけどプリンター壊れたという悩みは国にプリンターの支給とかしてほしいと僕は全く思いませんからそれはエプソンでいいわけですよ。エプソンに迷惑かかるとかは思わない。思わないのはなぜかというと向こうはそれをサービスとしてお金をもらうからこの形が必要なんですよね。やっぱりないとそれをすることすら困難になって情報接種にしたくなってしまう。
デフォルトの信じ方
そうするとプリンターが欲しいのに向こうから歌が聞こえてくるっていうことになってしまう。だって情報発信なんだから発信源のあの出したいものに左右されるっていうかそれによって決定されちゃうじゃないですか。
それ意味が全くなくなっちゃうと。違うそうではない。この場合には1対1である意味って別にないよね。それではということですね。
なので話をピューって戻しますと一番最初に私のデフォルトの流儀としては自分が普通にやっていてつまりデフォルトで信じていることをやってます。
デフォルトで信じていることをなぜ信じられるのかという問いは成り立たない。それはデフォルトで信じられない人に向かってなぜ信じないのかというのと同じように成り立たない。
でこれを一応一時で変えることはできません。やっぱりこう信じているとどういう行動になるのかっていうのを絶え間なくなるべく側でなるべく繰り返し見て実感しできれば実感は難しいかもしれないが少なくとも何かそういうこう本当にあるのか知りませんけれどもミラー細胞的なもの。
肩に触れているのを見ると自分の肩に触れられているような気がするって言われああいうような体験をしてみないことにはそういう変化って起きないんではないだろうかっていう感じがします。
一時的に言葉の説得でうまくいくってことはもちろんあるんですけどそれは失われがちだしそもそも手に入らないということも多いのでだからこういうセッションみたいなものの発案がなされてきたんだろうなとそんな感じですかね。
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