精神分析の難しさ
おはようございます。ライフハックからの精神分析、第1273回をお送りします。
11月3日月曜日ですが、今日は祝日ですね。 まだ今のところ、このズームで撮るというですね
のを試している最中なんですけど、まぁちょっとやりにくいわけですよね。 慣れるまではこの早く慣れたいなという感じがします。
やらなきゃいいような気もだんだんしてきたんですけどね。
はい、あのー
んーとですね、今日は3ヶ月チャレンジの12期が始まりましたので
あれです。 どうだなぁ、これもずっとただただ構想のままになっているんですけど、本当に困っている面もあるんですけどね。
んー 精神分析の本を読めるようになるという構想があるんですよ。
精神分析がわかるようになると、もう僕は結構ニアリーコールだと思うんですけど わかるようにならなくても、読んで面白いと思えるようになる。
というのを そういう本があれば一番良い。要するに3ヶ月チャレンジって開始時にほぼ必ずと言っていいほど問われるというのを
一つにですね、参加者さんのどちらかさん。 まあ初めて初め、初参加の方に多くなるわけですけど、一冊本を読むとするとどういうのがいいのかっていう問いがあって
これが非常にお答えしにくいものになってしまっているんですね。なぜならば えーと
一つには目的によって
やっぱりお勧めしたい本が変わってくるというのと、もう一つは
えーと なんだろうなぁ
もう一つはですね ああいうものが好きかどうかによって
好きでないのに3チャレンジに入られるということもあまりなさそうな気がする一方でもすごく 好きな人っていらっしゃるんですよね。ああいう議論が。一方でそうでもない人もいらっしゃるわけですよ。
で、すごく好きな人向けの本とどうでもない人向けの本は違うような気がするんですね。 だけどそれはどう違うのかということになってくると
うーん よくわからないなっていうこと。なんかね難しいと言われるじゃない。言われるんですよ。理解しがたいから。しかし
難しいのとは違う気がするんですよね。例えば なんつうんだろうな三角関数がわかりませんとか
関係代名詞がよくわかりませんというのと あのこれは話が全く違うような気がするんですね
だけど難しさっていろいろあるじゃないですか。例えば僕なんかに言わせると最初子供の頃特に なんかね高校生の頃やたらとこう
ヘビーメタルとかを聴いている人たちがいたけど あんなの聞いてもなんかじゃかじゃか言ってる音楽
難しい。英語だしね。さっぱりわかんないっていう感じだったわけですよ でその難しさは精神分析の難しさと
は関係ないしなんか知力とかとも違うような気がするんですね あと例えばなんですがロールプレイグゲームを解くのが難しいとかってあるじゃないですか
あるんですよ。結構ゼルダの伝説とかになってくると 思いっきり知力の問題のような気もするけど割と別にそんなに賢いわけでもない
あの昔私の友達だった人がねバリバリ解いていくわけですよ別に その算数とかではあんな簡単な問題が
それこそその何種のかなえっと リンゴが310円でみたいなああいう問題ですら全く答えられないのにゼルダなら解ける
みたいなそういう結局知力ってのは あんまり測る意味ないなって私は思うんですけど
世の中ではすごい測られたがるものの一つになってるんですけどね 測れてないだろっていうところがいっぱいあるような気がするんですね
あのきつい昨日すごい試合やってましたけどワールドシリーズで めちゃくちゃ判断することいっぱいあるじゃないですか野球なんてサインも超難しいし
でも東大でのプロ野球選手が体制した試しは今のところ全くないんですね 最近時々ねロッテに小林至るっていう選手がいたんですけど
あのロッテですからね当時は結構もう通常 4位か5位かおおむね5位か6位みたいなそのぐらい強くなかったロッテ
オリオンズとかまあ千葉ロッテマリーズだったかな どっちにしてもですね1回も一軍で当番できませんでしたからね
まあ要するに頭だけでできるものでは全くないんですけどそれはそうなんですけど でも東大ではすごかったんですよねあの人は確か
であのまあそれはともかくといたしまして
なんだろう そうだから精神分析って難しくはないんだけど理解しがたいっていうのが僕の中でずっとありました
で理解がようやく進んできたと感じている今でも なんというかある種の難しさがすごくあるなぁと思うんだけど
臨床経験の影響
それは要は知力がちょっと届きにくいからですね頭で考えてもよくわかんないことが えっとすごい言葉を尽くして議論されているからなんですけどもこういう話してても面白く
なんともないんであのもうちょっと具体的に行きますとですね 具体的に行くと突然なんかまた何種だろうな
ピーツ気にくい話になっていくんですよねでもまあだからしょうがないんですけどね あの2つ方向2つか2つではないなえっとですね
難しい要素がいくつかに分かれているんですね一つは言葉の使い方の特殊性ですね 普通そういう言葉の使い方しないよねっていう言葉の使い方あれば超子供目線で見て
いるっていうメタファーが一番正しいと思うんですけど 子供ってそういうものの見方するようなっていうのは確かにいっぱいあって一つはそのものすごく
子供 子供した脳で考えるという世界が展開されている難しさがあると思いますね
でも一つが臨床経験しているかいないかによって楽理解度が変わる難しさというのは 普通の人してないじゃないですか
あの臨床なんてことをですね 特にこうカウンセリング臨床っていうのは今では本当に正規の人しかしちゃダメってことになりました
からそうなってくると ある意味だから人生相談にやたら乗っている人にはわかりやすい部分があると思うんですよ
あのある種の会社における人事の人とかそういう感じ すごくこうあるいはですねあの昔はそうだったんですけど私結構
分かられやすいところにいるのが保健の先生と昔呼ばれていた人 あの子供の人生相談に特に思春期において乗っちゃう人はある種の議論はすごい
わかりやすいんではないかないだろうかって感じがある それって結局
アンチの相談のパターンみたいなものがそこにあると思うんですよね 相談しに来るこのタイプみたいなものかな
そういうものと触れ合ってる気がするんですよ あの世界は
それって別にそのなんつうんだろう三角関数が難しいですって話とは全く違うじゃないですか 例えばこう親が勉強しろと言いまくってきてうるさいみたいな
それって多分 こういう話を繰り返し聞いてる人にはそれはこの子の訴えではないだろうなっていうのがわかる
と思うんですよね でそれはなんていうのかな人の心を読むのかっていうとそういう面もあるけど必ずしも人の心を読むのではなくて
要は親が勉強しろと言って言いまくってきてうるさいっていうのを最初真に受けたとするじゃないですか そしてそういうこう色々探っていくと親は勉強しろとは一切言ってないとかねそういう
ことがわかってくるわけじゃないですか これは一例なんであの常にそうだっていうような統計的な話ではまたないですけど
そういうことってわかってくると思うんですよやっぱり この話と似てるなと思いますねそういう難しさが書かれていますね精神分析の世界って
誤解とその影響
んで で
もう一つが僕が思うのは誤解がものすごく蔓延していて もはや何後何が理解なのかもよくわからないというこれは人文系のところでですね
ある種の権威が確立しきっていないときに発生する難しさなんですよ 今の2つの難しさと絡むんですが
誰に聞いたら正解を言ってくれるのか全くわからない世界で謎解きするほどややこしいことは ないわけですよね
世の中に例えばですね8犯罪解決推移学とか言っていう学問はないじゃないですか なんか刑事コロンボとかあの際私が私は絶対そうは思わないんだけど
あの相棒の主人公のページとかまあ刑事ですよねだいたいねああいうことを刑事 という人たちがしているのかどうか知りませんけど
要するに探偵ものっていうものは推移小説の王道であるにも関わらずシャールコームズの 世界ねえっと
じゃあ探偵学ってあるかというと大変微妙なと思うんですよね 実際には学問をしたからと言ってうまく探偵できるとは限らない
だけどあそこには心を読むとか洞察するっていう話はワンサが出てきますよね 何で穴るかというと答えが答えがわかってたらここは困りはしないんだけど
わかんないようにわかんないように人が知恵を尽くすから 犯人の人がねえっと知能感ってやつですよね
人が知恵を尽くしたり群発的にわかりにくいことが発生するからわかるのが難しいわけ でそれをわかる人とわからん人と結局出るわけじゃないですか
なんか直感的に直感が働くんですよね その直感はでもどう働かせればいいのかっていうのは多分
シャールコームホームズに聞いても無駄だと思うんですよ だってずっと一緒にいるまああれはフィクションですけど
ワトソン博士は結局いつまで経ってもシャールホームズのようには洞察力が働かなかった じゃないですか
なんか観察するんだとか階段の数はとかいろいろなこと言われているけど無駄ですよね そんなこと言ったって僕はあれ無駄だと思うんですよ
ああいうこと言う それは間違ってるだろうって思うんですよ
そういうことではないでしょう多分 なんかこう
やっぱ直感が働くっていうのは全体が見えるっていうことであってでも全体を見ようとしていない時に全体は見えないのであって
あの普通注意っていうのは注意するべきものに向かってしまうので関係ないところには向かわないですよね
観察力とかって言うけどあのワトソン君にいつも登っている階段の数は何段だとか そんなことは意識しない方がいいわけですよ
お前シャールホームズはたまたまその時階段の数数えてたんだろうどうせって感じじゃないですかあんな話は
つまり関係ないことに注意が向くのはすごい若気だほどなんだけど関係ないことに注意が向くっていうのがそのですね
それがたまたまなぜか他の人には説明できないんだけど必要な注意の向け方になるんだ みたいな話だと思うんですね
フロイトが平等に漂う注意という意味不明なことを言ってるわけですけど あれはとても大事ですよね意味不明なのに平等に注意が漂ったらもはや不注意じゃないですか
運転している時に平等に注意が漂ってる奴は事故りますよね だから注意っていうのは平等に漂わないんですよ
階段の数数えてるわけじゃないんですよでも平等に注意が漂っちゃうタイプの人がいて しかもそれがなぜか必要な注意の向け方だったりするわけですよね
だからここにはなんつーんだろ本で読めるわけがないものがどう考えてもあるだろうと思うん ですよ
精神分析の理解の難しさ
つまり本を読む限り階段の数は数えないはずなんですよね 読んでるものに注意するわけだから
なんか拡散するんだけどその拡散は必要な拡散であるみたいなことが起きるように持っていく っていうような話が精神分析にはあってそれは間違いなく臨床化のために精神分析化のための話なんですよね
精神分析化のための話っていうのが常にあるのに 精神分析化には絶対ならない人たち向けに本が書かれているという難しさがあるんですよ
3日でわかるフロイトみたいな本ってあるじゃないですか 3日でフロイトがわかるなら精神分析化には3日で慣れることになるわけだからそういうことはありえないわけで
じゃあ書いてる人は何を書いてるんだろうっていうような本 でも普通にフロイトの本ってそういう本なんですよまず目にするの
あのじゃないともうフロイト全集みたいな 読んでもさっぱりわからないような話がどんどん展開されることになっちゃうんですよね
で私はそのこういうことをいくら言っていてもあんまり意味がないので 精神分析の本を読むための本っていうのはやっぱり一冊欲しいなぁと思って探してみると
これがないんですよね 不思議なことにないんですよ
これ読んでも本を読めるようにならないか これを読まなくても本は読めているかのどっちかになってるんですよ今のところそういう気がするんですね
一番僕がでもやっぱり えっとこれとこれとこれどこれだって思うのが藤山直樹さんの精神分析集中講義の上下か
もうすでに分厚くてたくさん情報量いっぱい しかも優しいんだけど優しくはないこの表現難しいですね
あとはあの土井武雄さんの
甘えの構造を読んでもよくわかんない気がするんですよね正直ねでもまあ甘えの構造かな で北山治さんの本と山崎孝明さんの精神分析のある日方とできれば松木邦博さんの
なんでしょうねー あれかな接触障害の本かなって感じ
あとまあほらもう五六冊上がっちゃうじゃないですか でこれを僕はぐるぐるぐるぐる回ってるうちに何かわかった日がするんですよ
どれかは外せたかっていうと外せなかった日がするんですねこの不便な状況がこれでも めちゃくちゃいい子だと思うか思うんですよ
フロイト全集20巻読んでもこの状況に至ることはなかったんで僕20巻一応なぜか読んだんですよ 全く意味もなく
しかしこの状況に至ることができなかったんですよね ほんとねあのまあ
極度に絞るなら僕だったら松木さんと でもそうは言い切れないんですよねでもまあ僕は松木さんと藤山直樹さんをピンポンしたわけ
ですね これはもうほんとどっちかは欠かすことが僕にはできなくて人にそれが進められるか
ちょっとまた別の問題なんですがあの なんでこのピンポンを知ってようとするかというとやっぱり松木先生はですね先生言ってます
けど僕の先生じゃないのね あの
概念をちゃんと説明してくれるんですね だから例えばえっと
機械な対象とかいうものはだいたい説明は atm とかが喋り出しますとか atm に見張られていると言って怖いこういうのを機械の対機械な対象という統合主張
性の話してますよねそれはわからない なんでその人たちが機械な対象を見るのかということの説明はあってもちょびっとなんですよね
本当にちょびっとなんですよ 藤山直樹さんの本にはちょびっと書いてあるんだけどあれではわからないんですよね
でも松木さんの本にはものすごい丁寧に書いてあるんですよ 要するにこう私たちはものを良いものと悪いものに分けますよねと
である種のものの上に悪いものだとそれを認定したような 投影ですけど被せたものの見方をしますよね
ゴキブリですよもう因を使わないゴキブリです 皆さんはあの虫に悪いものを投影してますよね
いや全員してるか知りませんよでも一部の人は絶対してますよ だから大騒ぎするじゃないですか一番危険な虫はあれではないの
つまり悪いものを投影するというのを多分ね 言われても納得しないと思うんですよ
でも平和堂にものを見てないんですよ僕たち ゴキブリと蝶々見てみれば一発なんですよ
春だったら絶対違いをほとんど見ませんよねその2つに でも人はその2つにものすごい違いを見るじゃないですか
良い対象と悪い対象に分けているわけですよ このものすごく悪い体つまり良い対象と悪い対象に分けるということは
心の中に良い部分良いものと悪いものの見方みたいなものを作って いちいちそのものの上に重ねてるんですよね
フィルターみたいにしてラベルみたいにしてラベル付けって言いますけど フィルターの方がいいと思うんですよね
ラベル付けちゃうと見えなくなるじゃないですか だけどゴキブリにレッテルを貼ってるレッテル貼りとかって言うんだけど
僕あの言い方は正しくないと思うんですよね なんかもっと透明の剣王冠みたいなものをパッと投げてる気が
その透明の剣王冠が私たちがその透明の剣王冠を投げられたものを見るとものすごい気分が悪くなる
っていうことがだってそれは気分を悪くするものの凝集みたいな投影なんで だからそういうものは部分にしか普通起きないわけですよね
で まあここですごい説明しちゃってますけど一生懸命伝わるかどうかを意識せず
あの美音っていう人がということはですよね細かく細かくその なんていうんですかねえっと部分化していけるわけですね
良いおっぱいと悪いおっぱいってなんかこうまだざっくりしてるじゃないですか 美音はそれを弾丸のように要するに細かーい粒みたいにして
うわーっと投げていくみたいなイメージなのかな ちょっとイメージを言葉で説明するのは難しいんですけど
あの表現は実に正しいなと思ったんですよ でとにかく細かく細かくちぎってもう目に見えなくなったような
粒々みたいな悪いやつをうわーっと投げてそういう感じってあるじゃないですか あんまり気持ちよくないんで言葉にはしませんけど
ホラー映画的な世界ですよね 必ずそうなってるじゃないですかホラー映画って
あんまりゴジラって怖くなくないですか一体だから なんかやっぱり1万のなんかこう気持ち悪い
子虫の大群みたいなのがホラー映画では大活躍中じゃないですか あの世界だと思うんですよね
それを今度はATMみたいなのにガッと集めて しかもそのATMはそんなに嫌な対象な上に
上にてかだからなんだけど 自分をこう幼い頃にめちゃくちゃ叱りつけた親みたいな
意味を持っちゃってるわけですよ つまり私たちは自分が好きだ嫌いだ
嫌悪するべきものを嫌悪するために 嫌悪感みたいなものを外に投げられるわけだから
当然長寿がなって外に投げられるわけですよ それどころか何かホラーなんていうのかな
子供の世界ってムーミンとかよくわからん生命体が 日本語とか平気でフィンランドなんでしょうけど
日本語とか平気で喋ってるじゃん つまり僕らは機能を自分から切り離して
対象に持たせることができるわけですよ ことは別に人だけが喋る必要ない
だから猿とかカニとか平気で喋ってるじゃないですか 動漫の世界ではATMが喋ってもいいわけですよ
ATMが見張る機能を持つ 喋る機能を持つ さっきのように嫌悪感という防衛もしている
だからすっげえ嫌なATMがずっとこっちを見ていて しかも喋るわけですよ
お前は人に迷惑をかける ダメな存在だ 会社はやめろみたいな
物を食う資格はないとかね 喋り出すわけですよ
こういう世界があるってことですよね
この話と3カ月チャレンジの参加者さんとか あるいはこれを聞いてる皆さまはあんま関係ない
なんだけどこのようなことが 病理としてあり得るという認識に立つと
我々はもっと正常に近い世界の中で でもこれに近い危ういことを
きっとやってるという認識に立つことは できると思うんですよね
つまり例えばATMがそれを喋るのは さすがに不自然で それはないだろうっていうふうに
心の正常な機能の方が調整かけるけど でも例えば後ろの車の運転手なら
あるかもしれないって考えますよね そうすると後ろの車の運転手が
じーっとこっちを見ていて こいつ早く行けよ死ね みたいに言っているみたいな
これ全然不思議じゃないですよね こういう投影を 後ろの人は実は
ゆっくり走りたいなと思ってる おばあさんかもしれないわけですよ
でも後ろ見て運転手のへんに行かないから そういう投影を後ろの方に投げかけてしまうと
そういう光景を私たちは感じることができません 見ることができなくて
っていう話をしてるわけなんですよ 僕は精神分析というものは
こういう話の集合体だなって思うんですよ
これを臨床に生かそうねっていう話を 心理カウンセリングの場に生かそうねと
僕はそれは 例えば夫婦関係にもザラに起きてることだし
人間関係における投影の例
もちろん会社での上司や同僚との関係でも ザラに起きてることだし
学校でももちろんしょっちゅうだし
どこでもかしこでもっていうのが 起きることだと思うんですよ
例えば産後クライシスとかって あるわけじゃないですか
で 奥さんがゴキブリのように何かを嫌悪する ということがあり得る奥様ならば
当然夫をゴキブリだと思うことは あり得ることだと思うんですね
不思議なことだとは僕は全く思わないんですよ それは
で ということはですね
それはある意味 一つの考え方としてはですけど
心情の範疇だなって思うんですよ それは
夫の態度に全ての原因を持つべきではないと思うんですね
夫の態度は悪いかもしれませんよ この話しょっちゅうするんだけど
この話するとどっちが悪いんだろう になりやすいんだけど
投影にどっちが悪いも減ったくれもないと思うんですよ
だって後ろの運転手に投影するのは 投影する人が悪いのか
それとも後ろの運転手が悪いのかっていう議論に 行ったりと思うんですよね 私は
人間というのは後ろの運転手を ニュートラルに見ることは絶対ないんですよ
自分にとって良い運転手か悪い運転手かっていう 見方はしてしまうもののはずなんですよね
今みたいな だって人間が蝶々良い蝶々
美しい虫みたいな ゴキブリは悪い虫みたいに思うのは
やや愚かしいかもしれないけど しょうがないじゃないですか
それが悪いことだとか言ったって 始まらないと思うんですよね
虫に責任はないとか言っても しょうがないと思うんですよ
そんなこと言ってても
一方で もしかすると蜂とか刺すから 蜂に責任があるんだ
あんまり意味ない議論のような気がする
蜂に責任はないだろうって思う 貝はあっても
投影と責任の議論
僕らはこの2つを切り離せなさすぎる気がするですね
貝と責任を一家させたがるんですよ
貝と責任は分けられるべきものだと思うんですよね
貝があるから責任があるっていうのは
全然合理的じゃないふうに 法的でも何でもないような
法で取り締まらないでしょ ゴキブリとか
クマとか今問題になってますけど
クマを法で取り締まっても しょうがないですよね
彼らには法の世界で 生きてるわけじゃないんだから
だから小クマは可愛いのかとか
クマの肉は美味しいのかとか
売っていいのかとか
でも皇帝とか走ってんの どうすんだみたいな話は
なんて言うんだろうな
どうしてもその議論を 感情的にやりたいという人も
いらっしゃると思うんだけど
無理なものはあり 無理は無理だろうなとも思うんですよね
結局害と責任は 別物なんだと思うんですよ
だから投影を僕らは する生き物なので
投影をするのは良くないことですとか
いうのは無駄な議論だなって思います
投影せずには多分 物何も見えなくなりますよね
見えたとしても自分にとって
メリットもデメリットも何もないものしか 見えなくなると思うんですよ
なんて言うんだろうな
そんなものってあります?
自分にとってメリットもデメリットも 一切ないもの
ないような気がするんですよね
歯ブラシとかメリットあるじゃないですか
だから例えばお風呂好きじゃない人は
間違いなくお風呂にメリットよりも 嫌なものを見てるんだと思うんですね
私メリットしかほとんど見えないから
お風呂って嫌なものに 見えたことはないんですよ
だから風呂キャンセルって 分からないんだけど
人によっては風呂キャンセルっていうのは すごい普通に
ごく普通にあるわけじゃないですか
そこに責任論を持ち込むことに
だから人に優しいなんとかとかが できるわけだし
思わず入りたくなる風呂みたいなのを 設計しようと頑張るわけですけど
まあでもそういう本来問題ではないだろうなとも 思うんですけどね
だからどうしてもこの投影がね
社会の責任なのか個人の 自己責任なのか論に
移っていってしまうというのが あれが残念でしょうがなくて
藤山直樹のインパクト
この投影のメカニズムの方が よっぽど興味深い
どっちが悪いのか論で
そうやっているんですけど社会では
どっちが本当に より責任が重いとしたら
51対49だとしたら どっちが51なのか論みたいな
産後クライシスなんか本当にその議論から
我々はどうも抜け出せなさそうなので
あんまり扱いたくないんですけど
でもまあしょうがないんですけどね 扱わないわけにいかないですよね
しかし本来やっぱり僕は 投影のメカニズムの方が
いかにもこれ人間らしいし こここそがもっとこう
精神分析なものに近づけるんですよ
だからこれに興味がどのくらいあるのかってのは やっぱりポイントになるんですよね
これに興味が強くある人と そうでもないっていうことは
そうでもないっていう場合には やっぱりソーシャリズムに乗っていくって思うんですけど
流れるって言い方はよくないね
だからどっちに興味があるかは すごく個人的な考え方が出ますよね
私は精神分析に圧倒的に興味がよるってことは
つまり僕は社会運動に興味がすごい薄い人間なんですよ
だからこれについてお前もっと社会に興味持てみたいなことを言う人が
昔は結構いたんですよね 私 言われたこと結構あるんですけど
嫌なんだな 多分
やっぱり僕は人を正すっていうことが そこに拒否感があるんですよね
嫌悪感までいかないんだけど 明らかに危機感はあるんですよ
それを自分がやるとは考えられないみたいな
考えたくもないみたいな
なんて言うんだろう 松井雄二郎さんにすごい共感するところがあるんですよね
社会運動はPSポジションですからみたいな 平気で言える
他者操作的だっていう部分 どうしてもそれがダメなんですよね
できないんですよね 技術的なものがあるなと思うんですよ
欠点だと思ってますから それは私と
だってこのサンライズチャレンジで既に他者操作的なわけじゃないですか
だって少なくとも入ってくださいって言ってる段階で操作的なんだよ
僕からすると 操作的なのにことをやっておきながら
操作的なものに危機感があるっていうのは
個人的には良いことだとは思わないので 欠点があるなと思うんだけど
これを直してから行動を取るってことになると
僕の場合下手するとあと10年ぐらいはかかるんで
ここはしょうがないから 基本的に僕がやる仕事としては
これでいいはずだから これでやっていきましょう
僕本書いたりすると売れたりいっぱい出せていたりするので
驚くんですけど我ながら 他の人からすると
読んでて変な印象を持たれることがあるだろうなと思います
こうしなくてもいいですよって言いながら
こうするための本とかを平気で書くんで
そこに僕は他者操作的なものを基本的に極力避けたいという
できれば一切やりたくないっていう
つまり僕の本を読んで他の人が読んだ通りにされるっていうのを聞くと
僕は非常に複雑な気持ちになるんですよね
そのために書いたわけだから そのために書いたと言われても
しょうがないわけだからそうなんですけど
その通りにするのはいいことなんだろうか
この人にとってみたいな問題が
それって聞く答え絶対出ませんから
困るんですよねっていう
いや困るってのもおかしいんですけどね
でもそうしないでくださいっていうのも操作的じゃないですか
だから本当に僕が困ってしまうんですよね
良い子に転べばいいんだけどみたいな
だから強いメッセージが打ち出せないっていうところありますよね
そのような話の中で精神分析の本を理解できるようになるのは
僕の数少ない非常に良いことなんですよ
操作的であることを自分に許可できる良いことの一つなんですよ
これ自体が治療効果っていうのかな
良いことが起きるような気がする
しかも読んでて面白くなる本がいくらか増える
結構増える部分があるんですよ
精神分析的なことがベースになっている本って世の中にいっぱいあるんで
そういうことが分かったからといって別に僕は
本をたくさん読んだらいいって思ってないので
別にそれ自体はお勧めしたいわけじゃないんですけどね
でも僕の場合やっぱり話戻すとピンポンだったわけですね
松木さんと藤山さんのピンポン
藤山さんの方はそういう微細量物質
つまり機械の対象群みたいなものの
なぜそう見えるのかが本当に分かるようには
僕の読解力では僕の知力では無理だったんだけど
しかし藤山直樹さんの場合は東映同一化みたいなものを
そのインパクトをどんと与えてくるという意味では
松木さんの本よりも優れてると僕は思うんですよね
東映同一化というものを理解しないとダメだぞみたいな
そして理解はこうするんだみたいなのが
どんと押し込まれてくるみたいな感じがあるんですよ
こういうふうにある種の特定の概念
ナルシシズムとかそういうものをどんと理解するということで
細かい部分がよく分からなくても精神分析的な雰囲気というのが
ガッと伝わるっていうことがあるんですよね
こういう本って今時ある意味受けない気がするんですね
今の時代って体系的に人は何かを習得するってことがいいなんですよ
しかもそれが技術の力で容易になってきているっていう
僕はそれは錯覚だと思うんだけど
だからことても人が好む傾向が強いんですよね
一から学び直すみたいなのがウケるんですよ
藤森直樹さんのっていうのは何かこう
米東弁の運命みたいにダダダダーンみたいな
これを理解すると米東弁が何か分かる気がするみたいな
そういう感じなんですよね
何でなのかとかその他形式とか三部作とかそういう言い方を
あんまり彼は好かない気がするんです
あるこのフレーズに感動しろみたいな
そうすると米東弁の良さが分かるからっていう
そういう感じがあって
東映ドイツ買ってものに感動しろみたいな
そういう感じがあって
そういう例えばウィニコットの
ウィニコットのこの林翔のこの漢字に感心しなさいみたいな
そういう感じがあって
それがワッと入ってくると
それを読む前とは全然違う感覚が得られる
印象感覚が得られるみたいな
本当に細かいことも書いてあるんだけど
細かいことはですねやっぱり松木さんぐらい
行間を埋め尽くすように書いてもらわないと
結構全然分からなかったりするんですよ
分かるっていう意味ではあれがいる感じがするんですよね
でもそうすると
藤山さんの本の独語館みたいな
読み終わった後は
例えば非常に変な話なんですけど
藤山さんの本って僕定期的に読むんですけど
3ヶ月チャレンジで
なんか最近こう
厳しいなーみたいな時に
ガッと読むんですよね
何でもいいからガッと
そうするとなんかまたやる気になるんですよ
やる気になるとかやれるような日がしてくるんですよ
この辺に矛盾があって面白いんですよ
なんかこうそういう精神分析とか
本だけで読んでやっちゃダメだからねみたいなことを
結構随所にビヒッと言っている藤山さんの本を読むと
やる気になっちゃうみたいなね
学び直しの重要性
そういうことがあるんですよあれは
で僕は松木さんの本はいくら読んでも
そういう気持ちには全然ならないんですよね
なんかこうあクリアになったよかった
みたいな感じがするんだけど
別にだから僕松木くにいろさんの本だけを
もし読んでたら3チャレはもっともっと遅かったと思うんですよね
始めるのに
藤山直樹さんの本と
あと精神分析のある方藤山直樹さんの
学生さんであった山崎隆明さんの本
罪深いってことになっちゃうのかな
でも読んだのは大きかったんですよね
精神分析と中間領域
基本的に山崎隆明さんのスタンスは
野の医者を笑うと基本的に似たスタンスなんですけど
でも野の医者を笑う読んでも野の医者やろうぜって
気持ちにあんまならないと思うんですよね
わかんないけどやってる人はともかくとして
あれを読んだことによって
俺野の医者になるわって思わないと思うんだけど
山崎隆明さんの本って読むと
別にいいんだなみたいな野の医者でもいいじゃん
みたいな気持ちになれるんですよね
そういうものがあるんですよ
あの本には
これは褒めてることにならないかな
僕はとてもよく言ってるつもりなんですけどね
でなんでかって言うと結局精神分析って
本読んでもわかりません
世の中のどこに行ってるんだかも分かりにくいし
どうすればそれを受けるってどういうことなのかも
よくわかりませんって状態で受けられないじゃないですか
何度も言ってることですけど
だからどうしてもそのプロイドの中間領域みたいな話ですけど
中間がいるなって思うんですよね
中間領域ではそれっぽいことが起きちゃうわけですよ
だからそれを専門家の方が用意するってことで
これも山崎隆明さんですけど
手動的には多分ポストってものができたんだと思うんですけど
ポストとのど医者のさらなる中間領域が僕は
でもやっぱりこれ移行対象みたいな
移行空間みたいな話なんでしょうね
中間領域は無限に必要なのかもしれないですね
だからとにかく中間領域がまだいるだろうって思うんですよね
僕はその中間領域を目指している
中間領域を目指すっておかしいんだけど
結果として中間領域的になれればいいなと
そうすると対応する本も本当はいるんですよね
中間領域的な本
だから精神分析入門未満みたいな本
以前でもいいんだけど
以前のほうがいいかな
未満だとなんか絶対届かないみたいな感じがしますもんね
精神分析の本が読めるようになる本みたいな
そういう本に近い内容をしゃべると
今この場でしゃべっているような感じになるわけなんですよ