長い休みの終わり
おはようございます。グッドモーニングボイスです。
1月5日、金曜日、朝8時50分です。
そろそろ仕事始めという方もいらっしゃるんじゃないかと思いますね。
今年は、4日と5日の日をなんとか休みを取ると、かなり連休が延びますよね。おそらく29ぐらいからだと思います。
1、2、3、4、5、6、7、8、8日目でぐらいだと11連休とかじゃないですかね。
そんな感じの方もいらっしゃって、もうそろそろ割と長い休みが終わるのかもしれませんが、
体調に気をつけてやっていただければいいんじゃないかなと。
非常にありきたりのことです。
最近テレビとかをつけると、全く世の中はありきたりではなくなっていて、
これは私が思うに、世の中がありきたりだった時代は少ないんではないかと思うんですけどね。
国内でのニュースは確かに大変厳しい状況の感じですけど、
範囲が海外に広がると、結局直前まではガザの話を延々やっていたわけですよ。
はい。
その前はウクライナでしたよね。
しかも、コロナも完全に終わっていたわけではないし、この3つだけでも非常にあったんですけれども、
本当に探せばいくらもありますよね。
残念ながらと言うべきなのかもしれませんが。
そして、これはファクトフルネスという本に結構長々と書いてあったことですけど、
でも素晴らしいニュースは滅多に流れることはないわけですね。
今回、珍しくJALが全員無事であれ大変よかったですが、
全員無事に降りられたというニュースが、ああいうニュースでも入ることはそう多くは残念ながらなく、
無事いつも降りているんですよ。
4、500人の人がね。
かなりたくさんの飛行機から毎度毎度無事に降りているわけですよ。
私たちはそっちはニュースだと思っていないからね。
何かこう…。
ごくたまにであっても3時が起きれば、
当然我々は3時にはごく稀になろうと何だろうと巻き込まれたい人はいませんから。
3時じゃない方には興味を持たないわけですね。
無事に降りられて当然だと思ってますからね。
そんなニュースを流していたらですね。
もちろんそのニュースサイトは誰にも帰り見られなくなることは確実。
だってあれですからね。
電車でみんなが無事に降りているところを延々流し続けていると、
無事に降りているだけみたいなもんですからね。
そんなのは。
メディアのバイアス
電車だってそうじゃないですか。
電車なんて飛行機よりもいっそそうなんだけれども、
もう何十万人という人が毎日無事に行き来して駅で降りてますけれども、
誰もそのことをニュースにする価値があるとは信じませんよね。
だから僕らの、僕らのというか、
メディアというものには最初からあからさまにバイアスがかかっているんであって、
そこを想像力で補えなんていうのは無理な話なんですけども、
この裏には9999対1以上の差で平穏無事な事態が進行しているんだと想像してもしょうがないんで、
想像するようにはできてませんからね、私たちの脳みそは。
そういうふうにはできてないんで。
そういうことはファクトフルネスの人がなぜかこう、
ファクトフルネスが書きたいのか、そのことが書きたいだけなんじゃないかというぐらい、
そういう話をしてましたけれど、
そうなんですよね。事実そうだと。
で、というわけで、
このメディアではですね、こういう話もちょこっとはするけど、
基本的にこういう話はせずに、いつもと変わらないようにやっていくわけです。
なぜなら、私がいつもと変わってないからなんでしょうね。
私が何かが、私の身にも何かが、あるいは私の親類数字はゼロじゃないかもしれないんですけどね、
実はね、日本海外にも親戚はいるんでね、
全く関係している人がいないなんてことはありえないんじゃないかとは思うんですが、
仕事の関係者とか、あらゆる人を含めればですね、
実際私、大学時代の親友、富山県人でしたし、
今も住んでるんじゃないかなって思うんですよね。
わかんないですけども。
まあ、あの、モテるやつでしたね。
私は大学時代モテなかったんで、どうすればああいうふうには、
あいつはイケメンで、しかも背もめっちゃ高かったんで、
ああいうふうにはなれないんですけれどね。
今日はそういう話も織り交ぜつつですね、
織り交ぜつつ、ちょっと今日はまずお知らせから入らせていただこうと思っているんですけど、
この辺もですね、ご時世や関係なくお知らせなわけですね。
えっと、一つは、あれです。
東京ライファック研究会の1月20日、申し込みが現在ない。
これないというのは、すこぶる問題でして、
まあ、最終的にないとはさすがに思わないんですけど、
いや、なかったらできないでしょっていう。
だからね、やっぱりこの、あれなんですよ。
えっと、すべての関係者は、えっと、すべての世の中の出来事を支えているんですよね。
間違いなく。
だって、なければできないですよ、これは。
ゲストをお招きして、参加者ゼロですよね。
私とね、エフタさんとベックさんとマゾエさんか。
で、聞いてますと。
それじゃ、いつもの食事会と変わらなくなっちゃいますからね。
えっと。
そういう状況でやるわけにはいかないので、
まあ、こちらを聞いていただいている方にはですね、
ぜひ、こう、あの、いろいろとライフハックと精神分析みたいな、
そんなノリで話をされても困るかもしれませんが、
えっと、そういうノリの範囲というのを、これからですね、
えっと、たぶんこれは、役割とか個性とかいうことを持ち出すまでもなくね、
僕しかやんない気がして、仕方がないんですよね。
僕がやらなければ、たぶん、このようなものは、少なくとも日本からは消滅するだろうなって感じがします。
えっと、まあ、そこを言うとね、いかにもベックさん、北信也さんに、
無理に無理をお願いしている格好になってしまっているんだけれども、
そこはしょうがないわけですね。
彼はトーラケンの、えっと、まあ、筆頭ですから。
ここはしょうがない。
もうね、え、諦めていただくより他はない。
え、困った、あの、面倒くさい奴と付き合っちゃったなっていうふうに思ってもらいました。
っていうふうに思ってもらうしかないんですけど、僕のことですよ。
あの、僕はこれに、まあ、今日の話と絡めて意味はあると思っておりますからね。
だから、こういう会合を、ちょっと無理押しでもやると。
でも、これを無理押しでやるために、やっぱり、参加していただく方の存在がゼロではまずいんですね。
まあ、1とかでもやっぱまずいなって思うんですよね。
だから、え、ここはもうしょうがない。
本当は一人でもやりたいものはやればいいと思うんだけど、
現実にはそういうわけにはいきませんから。
あの、なんとか、え、皆さんのお力添えというか、
まあ、あの、それじゃ、貴仏のってるみたいなんですけど、そうではないんですよね。
この会合は、参加してしかも、その参加は、あの、面白いと思っていただかなければ、
ほとんどやる意味はないと思うので、え、
ぜひ、こう、面白いと思っていただけるようにしたいと思いますので、
そういう意味でも、まあ、お力添えをいただけるとありがたい。
そうですね。
えー、合わせまして、告知で、1月28日に、え、
グッドファイブス×タスクシュートと、あ、この話もしなきゃいけないな、
えー、いう、第3弾となります。
負のループという話ね。
これもですね、えー、もしかすると、これを聞いてる人は、
私のことを、ここに持ち出さないでよと思うかもしれませんが、
こういうのを持ち出したときに、しかもセミナーを打とうというときはですね、
最低100人、100人はこういう人はいるっていう想定があります。
なきゃやんないです。
あー、1人の方のためにセミナー開くわけにはいかないのでね、
あのー、私のことだと思われる方は、
ぜひ、えーと、またお力添えいただくと、ありがたいわけですね。
100名は、僕は絶対いると思ってます。
正直言って、日本に、こういうことでお悩みの方は、
1万人は下回らないはずだ、絶対下回ることありえないって思ってます。
だから、1万人に向かってしゃべってるつもりではあるんですよ。
まあ、僕の、これが1万人に聞かれていると、
そういうふうに思うことは、
なかなかそういう、えーと、
とんちんかんなことは考えませんけれども、
えーと、とはいえ、
この負のループでお悩みの人は、
少ないとは絶対思えない、
いっぱいいらっしゃると思います。
その理由を僕は知ってるつもりです。
これはタスクシュートに現れるはずだと思っています。
で、で、
タスクシュートでこの問題、
本来解決できるはずだと思います。
が、えー、なぜかタスクシュートユーザーが、
この問題の解決にタスクシュートを使えないと、
おっしゃる方も、これも意外にいらっしゃる。
意外にいらっしゃるんですよ。
しかも、結構これは、えーと、
慢性化する傾向があります。
ので、えー、やっぱり、
Good Vibesの力添えもいるわけですね。
ここを2つね、掛け合わせて、
解決できないというふうには、
私には信じられない。
だとすると、何か私の、
考え方には根本的な間違いがあるらしい、
ってことになっちゃうんで、
えーと、それは信じられないのでですね、
えーと、
効果あるはずだと、
そういうふうに考えて、
まあ、この負のループっていうのは、
どういうものかというと、
実にこれ、簡単なループです。
朝起きるのは辛いと。
で、朝起きて、辛いまま仕事に行くんだけど、
えー、辛い状態で仕事をするから、
いまいちはかどらないと。
だから、仕事が長引いてしまって、
えーと、家に帰ってきてから、
えー、これが面白いところなんですよね。
僕らはですね、えーと、
自由が一、自分の自由が、えー、
なんて言うのかな、
うーん、損なわれていると思うと。
取り返さねばと考える。
僕はそう捉えてるんですね、
この問題を、一つは。
だから、えーと、
急いで、短い時間の間に急いで、
えーと、娯楽を吸収しなければっていうように、
働くっぽいんですよ。
僕はこういうふうにして、
負のループと刺激
えーと、例えば、
一昔前の話題ではですね、
なんだっけあれ、発言小町。
なんかね、発言小町に走るっていう話は、
少なくないんですよね。
これは、あの、
かの、かのですよ。もう、
別のと言っては失礼なんですけど、
現在も活動中なんで、
あの人、僕の先輩なんだけどね、
ネタフルさんが、えーと、
発言小町ばっかり見てちゃ、
ダメなんですよ、みたいなことを、
えーと、どこかで、
あんまりそういうことを言う方じゃないんでね、
どっかで言ってた気がするんですよね。
あ、その時に、
あ、発言小町なんだ、ここでの象徴はっていう。
別にいいじゃないですか、
Yahoo知恵袋でも、えーと、
それこそ、はてな界隈でも、
当時はよかったと思うし、まだあるのかな。
でもいいんですよね、SNSと言っとけばいいんだけど、
発言小町っていう風に、
えー、別に発言小町でなくてもいいと思うんですけど、
要は象徴なんですよね、これはね。
あの、なんちゅうのかな、
えー、
移動型回帰で、
ディスり合う、
刺激、みたいな感じ。
そういうものでの刺激を、
受けまくってちゃダメだよね、
ネタフルさんと技術ブログ
みたいな、軽い話ですよ。
あの、ただ僕は、
その、ネタフルさんが、
そんな話題を持ち出して、しかも、
発言小町っておっしゃってるところに、
ちょっと驚いたっていうぐらい。
で、しかも、この記憶は定かではない。
他の人かもしれません。
まあ、こういうことを言ってたら、ダメかもしれないんだけど、
ただ、なんとなくね、そういうぐらい、
えーと、有名だったってことです。
ネタフルさんも有名ですね。
まあ、ライフハック界隈のブログとしては、
筆頭で、今でも筆頭なんじゃないですかね。
えー、僕の先輩なんですよ。
もう、存じ上げませんでしたけれどもね。
はい。
まあ、年離れてる、
まあ、同じ大学にいたなどというのはですね、
いてあってても、
ネタフルにこれからなる人だって思わないですからね。
あの、
そんなことは、もちろん、
えーと、
先読みできないわけだから、しょうがないんですけども、
まあ、そういう、
えー、不思議な繋がりもあると。
で、別に不思議な繋がりがあるからなんだってこともなく、
えー、発言小町もなんだってことはないんですが、
要するに、
えー、自由が、
著しく狭められてきているなっていうふうに、
人っていう意見を、
持ち物を感じると、
その自由を、
手に入れられるタイミングで、
グッといっぱい飲み込もうって感じる、
ところがあるのかなって思うんですね。
負のループと心理的な大変さ
だから、あの、
一日中つらい仕事して、
お疲れ様なわけですよ。
その時にやっぱりこう、
何かの反動のようにですね、
えーと、夜遅くまで、
まあ、えー、
小町でなくて全然よくて、
えー、何かのニュースかもしれないし、
SNSでそれこそってこともありうるし、
そういうのかもしれませんが、
やっているうちに夜更かしすると。
すると朝がつらいというループ。
こういうループがいくつかあるんですよ。
いくつかのパターン。
で、それは全部タスクシュートに現れるループなんですよ。
非常に分かりやすく
現れるはずなんですよ。
それを見ている、見て、
見て記録を続けていくうちに、
えー、解消されていくはずである、
っていう理屈が、
私の頭の中にはありまして、
だから記録取るのが大変ですってのを、
ここでの大きな、
記録にはなります。
でも、まあ、その大変っていうのはですね、
えーと、いわば、
重い荷物を背負って歩くのが大変っていうのとは
違うんで、
純精神的なものなんで、
だって、えー、スマホ上でポチポチやるのが、
ポチポチもしませんからね、
スマホなんで、
タッチするのが大変なはずがないので、
大変というのは心理的な問題なんですね。
で、この心理的な大変さというものは、
えーと、
ないんですよね。
イリュージョンなんですよ。
で、だって、
大抵それが大変だとおっしゃってる方の、
10倍ぐらい僕は、
タスクシュートをタップしてますけど、
何にもそれが大変だと、
それによって指がつったとかいうことはないんで、
一回もね。
だから、そんなはずはない。
それは、指の大変さではないってことですね。
心理的な大変さなんですよ。
そしてその心理的な大変さは、
ないものなんですね。
不在論ですよ。
えーと、
心理的な大変さはないんだって話ですね。
えーと、
悪いおっぱいを作り出すのやめましょうって話だけど、
えー、
それは難しいというのであれば、
タスクシュートをつけているうちに消えます。
という話をしてるんですが、
消えませんってことが戻ってくる。
だから、
ここでGood Vibesの力を借りて、
Good Vibesかけるタスクシュートで、
負のループをなんとかするというのを、
1月28日日曜日にやります。
はい。
5時、6時ですね。
6時という形になっているので、
よろしければ、この負のループは、
僕は絶対消せるはずだと思っています。
てか、消えてない、
もともとないものだから。
で、まあこれは、
Good Vibesの方面からも、
明らかに解決できる問題だと思いますので、
えーと、
この両方をかけて、
この問題が解決できないということになってくると、
えーと、
何か私の考え方に、
根本的な問題が、
その根本的な問題は、
ちょっと理解に苦しむような話になっていくんで、
そういう風にはならないと思うんですよね。
そんな話ではないはずだと思っております。
はい。
なので、えー、
よろしければ、
聞いていただくと幸いです。
こういう活動を増やしていきたいわけですよ。
要するに、
合わせて、2月から、2月1日から、
えー、3ヶ月チャレンジ第5期、
第5期をやります。
1年回りましたね。
えー、なんとか2年目を回そうという感じで、
1名様のみの、えーと、
募集とさせていただきまして、
ちょっと若干値段上げさせてもらいまして、
7万円プラス税、だから7万7千円ですね。
で、3ヶ月。
まあ、そんな馬鹿高くはないと思いたい。
わけで、えーと、
こういうところからも、あのー、
いろいろと、
これがまあ、私のある意味やりたいことなんで、
えー、これが続いていれば、
私は一応、
納得して仕事をしていけると、
なところなので、
ひもての品格と精神分析
ぜひ、お願いしたいなと思ってます。はい。
5分お知らせだけで経過してしまった。
あのー、今日はですね、
えー、
まず、さっきの話していた中で言うと、
えーと、
ひもての品格っていう、
書写名すぐ忘れる。
ひもての品格書いたのは、
杉までは思い出せるんですよ。
杉で止まっちゃうんですよ。
えー、今ネットで便利なんで。
はい。
えー、
杉…
あ、 truth.
よかった 調べてよかった 杉田だって出てこなかった
ひもての品格 男にとって弱さとは何かっていう 副題がついていますが
この本なんですけどね またそういう話かよって思われるけど
またそういう話なんですけどね
私のことが書いてあるように思える本なんですよ これは思った本なんですね
だから間違いなく自分のことが書いてあると思った本には
その他に10万人ぐらい似たような人がいるってことです
だってこの本ベストセラーになりましたからね
私だけしか身につまされないようでは 絶対ベストセラーにはならないじゃないですか
このモテない問題で悩んでた 大体普通男はモテませんけど
モテない問題で悩んでいた男は僕らの世代 杉田さんは僕らの世代ですから
明らかに無数にいるわけですよ 無数に
はい
で この問題は僕はモテることとは何の関係もないと今では思っています
これはですね 母親の不在っていう問題なんですね
で この場合の母親というのは
彼女にお母さん役をやってほしいって話ではないんですよ
いや そうなんですけれども そうではないんですね
で ここでよくジェンダー問題になっちゃうんですけど
ここでジェンダー問題に飛んでいかないことが非常に大事
この話 私 さっきの負のループと実は関係があると
しかも相当深く関係していると思ってるんですけど
負のループにハマり込むのは やっぱり僕は母親不在だと
今ではだいぶ認識しているんですね
だから 少し言うと問題が解決しにくいのは
ある意味自然のことかなとは思うんです
グッドバイブスは大いにこの問題に有効だと思いますが
そういう意味では精神分析も有効なんだけど
多分精神分析はそこら辺で有効だと思うんですけど
受けるのは難しい上に
ここに精神分析が解になるという発想を持つのは
グッドバイブスが解になるという発想を持つよりも困難でしょうね
今の時代 実にねじ曲がってますよね 本当に
精神分析ではこの問題を解決するのが
一つの重大な役割のはずなのに
何のためにあるのかすら今ではもうよく分かられていない
僕が驚いたのは最近読み直してですね
精神分析用語が割と至る所にあるんですよ
つまり杉田さんは間違いなくフロイトを相当読み込んでいて
しかもこのひもての品格の問題に
併食していることを意識していらっしゃるにも関わらず
精神分析が答えになるとは思っていらっしゃらない
彼の最終回は精神分析にはないってことなんですよね
僕はここに非常に考えさせられる
僕の目にはこの問題は
精神分析の問題だと考えられるんですよ
精神分析がまさにテーマとしてぶち上げている問題なのに
彼はそうは受け止めていない
だから私が間違っている可能性は十分ありますが
十分そうは思っていないから十分って言い方やめよう
私が間違っている可能性はありますが
でもやっぱりこういうねじれが起こってしまうんだなと
つまり彼の解釈と私の解釈が全然違う
これは全然いいんですよ
精神分析についての杉田さんの解釈と私の解釈は
全く違う感じがします
でもこういうことを知るためにも
精神分析を知るって意味あるなって思うんですね
すいませんちょっと音がどうなるか分かんないんですけど
今ちょっと訳あって移動しているんですが
精神分析ってのは
確かに科学用語と違って用語の一つ一つへの解釈の幅があって
分かりにくいんですよね
人によって考え方が違う
ただ読んでいる人はもうそれを意外と使っちゃうんですよ
対して断りもなく
対して断りもなくというのは
断らずに使う資格がないという話ではないですよ
さらっとした説明でそれを使われると
実は読者は結構置いてけぼりをそこで食らってるんだけど
そのことにあんまり気づかないんですよね
精神分析ってのは
精神分析ってのはそれぐらい日常のありきたりの生活に
がっしりと食い込んでいる概念
がっしりと食い込んでいるところを説明する概念なんで
なんかこうすっごく身近な問題を扱ってしまっているんで
それをですね説明するのに
大して説明しなくても
自分が理解した通りだろうぐらいに思うわけですよ
そしてそれが決してそんなに間違ってるなんてことはありえないんです
例えば長時間っていったときに
長時間っていったときに
人によってイメージしている長時間の幅は相当広いし違ってるんです
なぜなら多分自分にとっての厳しい指導者みたいな人が
父親役だから長時間役だから
それって人によってかなり違いますよね
でも身近じゃないですか
そういう怖い先輩生活指導の先生
自分の父親がそうだったかもしれない
あるいは母親がそうだったかもしれない
ジェンダーがひっくり返ったときのね
ややこしさもあるんだけど
幼稚園の先生がそうだったかもしれない
いちいち人が違う
そして具体的なものを思い浮かべちゃってるんで
長時間というのはつまり厳しい親役でみたいなことを言ったときには
男らしい男の役割の強制と私の悩み
みんな分かったようなつもりで書くんですけれども
この文脈の捉え方次第で
その意味するところは相当違ってくるっていうのを
無視して書いてしまうと
読み手はそこをよく分かったような気になって
すっ飛ばしてるんですよ
僕はそういうことが杉田さんの本で起きたんですね
こんなに私の気持ちについてくるときに
ついて書いてある本なのに
この本の中に長字画とか転移という言葉が
ポンポン出てきていい
ポンポンでもないんだけど
とりあえず出てきていたことに
私は気づいてなかったんですよ
変な話じゃないですかこれは
僕はしかもこの問題は
精神分析が解ける問題だって思ってるにもかかわらず
ここの本の中に精神分析が出てきたことを
忘れてたというか気づいてなかったんですよ
とっても変な話だと私は思うんですね
ちょっとそこ読みますね
引用
引用という形で読むんですけれども
ここを読むとですね
いかにもこの番組を聞いてくださっている方の中には
この下りに違和感を感じる方がいらっしゃると思うんですけど
P44途中からです
フロイトは
もうフロイトはって書いてありますからね
僕こここの本の中にフロイト出てきたなんて
意識してなせんでした
読んだときは意識してたでしょうけど
もう今は全然意識してませんでした
フロイトは
フロイトは
普通の快感原則
人は不快な刺激をなるべく低減し
安定的な状態を欲望する
僕は快感原則に関する解釈が
すでにここだけでも違ってますけどね
フロイトは
普通の快感原則
人は不快な刺激をなるべく低減し
安定的な状態を欲望する
とは異なる
奇妙な欲動が人間の中にあると
仮定せざるを得なくなる
それを他なとする
死の衝動を
死の欲動と呼んだ
まあ
ねえ
そうなのかもしれない
僕にはそうは読めないんだけど
そうではないとは言えない
で
無意識
っていう言葉も出てくるんですね
無意識の中に溜め込まれた在籍感は
これはまあ罪悪感でもいいと思うんですが
長寿が
かっこ倫理
長寿が倫理かな
長寿がかっこ倫理となって
自我を抑えつけ
何々しろ
何々するな
という命令を与えてくる
つまり
人間の脆弱な自我は
人間の自我が脆弱だと
フロイトは言ったかな
人間の脆弱な自我は
長寿がからの倫理的な命令を
常に子供のように恐れ続けている
これがヨルベナさんの部分に
回答するとは思うんですよね
だから長寿がとヨルベナさんは
セットだっていうのは
確かだっていう感じはするんですよ
でその話をしてる気もするんですね
フロイトはそうした長寿がを
厳しい父親とも言っている
まあ言ってたかもしれない
それは理想的な男だったら
そういう意味で
男らしい男から
ここに多分杉田さんの
批判的な視線があるんだと思うんですよね
フロイトに対するじゃなくて
男らしい男
理想的な男らしい男
だけど私は長寿がって母親である可能性も
少なからずあると思う
でもそれが理想的な男らしい男の
母親っていうことはあるかもしれませんけどね
それは理想的な男らしい男からの
無力な子供に対する
命令のようなものであると
でも私は
フロイトが
そう言ってるようにはいろんな
そういう部分がなかったわけじゃないと思うんだけど
思えないんですよ
でタナトスとしての男性嫌悪って
一言で大言動名で書かれるんで
ここすごい強調されてるんですけど
つまり男性嫌悪は
死の衝動だってことになるわけです
まあ死の欲動かな
ことになるんですけど
どうなんですかね
でもこの解釈は
僕の解釈よりも
精神分析らしいかもしれません
ただこういう風に
持ってくと
なんていうのかな
長児が
ウィリアムテルのお父さんみたいに
マッチョで
すげえ
なんかある意味
横暴な男の父親
でもそれは
ある意味ジェンダーでも
確かに男性っていうことになり
その男性に押さえつけられている
脆弱な男の自我っていうものが
この構造の中で自己嫌悪をする
まあまあ
なくはないような気がします
そして何々しろ何々するな
例えばこのするなの中に
男の子は泣くな
っていうやつが入る
ってわけですよね
そういう問題もあるんだと思いますね
でも僕はそうは思わない
もうそれでは解けないなって思ってたんですよ
僕の問題は男らしくないことであったことは
確かですけど
男らしくないなって思ってましたし
それは確かに残念だなと思ってましたけど
男らしく少々なったところで
モテるとは思ってなかったんですよね
別に筋トレとかすることはできるじゃないですか
大学生暇なんでね
あの
何もその男らしい格好をするとか
男らしくなるとかでいるんだけど
そんなほどしたところで
大した結果は出ないだろうなっていう
むしろ僕はそういうある種の
それはですね
多分間違ってます
ある種の方向性を持って
そうしたら多少あの時よりはモテたと思いますね
そういう試みを一切僕がしなかったのは
反省点だったと思うんだけど
僕の問題っていうのは
そういうことではなかったんですよね
だから
まあ杉田さんにしてみれば
その男らしい男とかね
ジェンダー的な役割の強制みたいなものが
日本社会で目につくのかもしれない
それは僕らの世代からして不自然なことではないですね
でも当時の私が悩んでたのは
決してそういうことではなかった気がします
幼稚園の先生への恋愛対象と性的なコンプレックス
やっぱり私がの悩みはあくまでも
不在母親の不在に徹していたというか
とことんだった感じがするんですね
お母さんがいないよってことなんですよ
その中には長自我的なものはあります
つまり理想自我ですよね
どっちかっていうと
理想のお母さんが私を時々厳しくと言っても
そのなんかね
体育会系の先輩みたいなのではないんですよ
もっとこう生活指導の先生みたいなのでもないんですよ
もっとこうあれですよ
幼稚園の優しいけれども
ちゃんとしている女の人みたいな
そういう人
しかも僕はそういう人に厳しくしてほしかったわけじゃないんですよ
そういう人に性的なコンプレックスを抱いてたんです
ここがすっごい大事だったと思ってるんですよね
幼稚園の先生みたいな人なんですよ
この本にも時々出てくるし
感じない男にも出てくるし
大きな大きな大きな誤解だと思うんですけど
日本人の男性はみんなロリコンだみたいなね
これはね私は大きな間違いだと思うんですよね
例えば当時私は幼稚園生だったんですけれども
幼稚園の年中だった時代に先生に恋していたんですよ
しかも極めて性的な恋愛対象だったんですね
今思えば
これは年間趣味に近いじゃないですか
年齢から考えると当時私はおそらく5歳
相手の先生は少なくとも20歳以上
でこの感触っていうのは私の中ではずっと続いていたんですね
母親をよく女性に求められても困るっていうのは
僕もそうだと思うんですよ
僕もそうだと思うんですよ
僕もそうだと思うんですけど
個性の重要性と肉体の役割
私は別に彼女に家事をしてほしいとか思ったことはないんですよ
家事なんて私が全部やっても全然
そういうところは私はライフハックなんで
やろうと思えば全部できるぐらいには思っていたわけですね
家事とかはいいんですよ
女性に女性らしい役割を果たしてほしいとかでは全くないですね
そのようなレベルの話であれば自分でやれますっていう話だった
僕に関して言えばね
いやいや家事なんてないんですよ
家事なんてやりますよっていう
なんなら育児なんてやりますよみたいな
そういうことはどうでもいいんですよっていうね
私が必要としていたのは死の欲動
私が必要としていたのはですね
死に対する恐怖というものをカバーしてくれる存在なんです
カバーというのは生み出す存在でしたからね
自分のことが欲しいって言っても全くないですよ
そういうことではなくて
死が怖いんですよ
死ぬってのはね
当時今もそうかもしれませんが
子の尊重ということが盛んに言われていましたね
今でもその話に単純な
ほとんど僕からすると時々
当時もそう思ってたんですよ
別にグッドファイブス以降そう思うようになったわけじゃない
個人主義崇拝ってのはオカルトだなって思うんですよ
私の軸とか私のやりたいこととか
私の人生ってのは至上のものだっていう風に
決まっちゃってるじゃないですか
だから杉田さんのこのボテの品格などというタイトルで書いてますけど
僕と全然相入れないのは
ここで大事なのは男性の多様性なんだっていう話をされてるんですね
マッチョで男らしい男になるんじゃなくて
ママごととかが好きだったり
なよなよしてたっていいじゃないかと
このメッセージはこのメッセージって大事だと思います
でも僕が言いたいのは知りたいのは
そういう話ではまるでなかったんですね
結論としての話ですよ
この話は私の人生の中で
この方の問題提起に私はめちゃくちゃ共感したんで
この本は私にとっては極めていい本なんだけど
その杉田さんの会ってのは
もうモテなくてもなよなよしてても
あらゆるバラエティが
個性として受け入れられるべきなんだ
これも非常にグッドバイブス的なメッセージの一つだとは思いますけど
私にとっては一歩踏み込みが
というか非常に肝心の踏み込みが
そこにはない感じがしたんですね
そうではなくてね
そのなよなよしてても
なんでもいいというのはその通りだと思うんですよ
僕はそんなのはデフォで受け入れる話で
別にマッチョであるかどうかなんて関係なかったんですよ
だからモテなかったんだ
そのぐらい僕はそういうことに興味なかったんです
私の興味はその個性ってやつですよ
個人主義
そして私というこの
結局それは肉体に入っていく感じがするんですね
僕は
この辺が杉田さんとか
ごく一般的な話だと
どの程度愛入れるかわからないんだけど
僕個人主義ってなった時にはやっぱり
一個の肉体って話になっていくしかないと思うんですよね
先日J.マスザキさんがと
ラスクシュートジャーニーでJさんが
人と人との間に境界線はないんだっていう話をされていて
私あれ非常に大事なポイントだって思うんだけど
あえて境界線をつけるなら
やっぱそこは肉体の一番外でしょ
ifですよ
ここに境界線ないと思うんだけどね
だって我々は呼吸しないとすぐ死んじゃいますから
すぐ死んじゃうところがミソですよね
完結できないんですよ
自己完結できない
少なくとも肉体は
肉体ではなくて
アイデンティティの曖昧さ
私というこのなんかよくわからない
心理的記憶に依存している
アイデンティティに自己完結の線を持つんだっていうなら
それはちょっと違う話になっていくんだけど
僕はそれはもっと線が曖昧なんじゃないかなって思うんですよね
輪郭線が
そのような事故っていうのは
野球とか見てるとすぐ曖昧に外側になっちゃうし
そもそもこの外側がしっかりしているっていうのは
バウンダリーの問題なんだけど
怪しげですよねちょっと
なんか精神的にそれは不安定なんではないか
むしろって思うんですよ
だから自分軸にこだわるっていうのは
僕はアイデンティティが脆弱だなって感じがします
人の記憶というものは
もっと動的でダイナミックなものなので
当然自分の記憶が
自分の記憶が
自分に対する観念も
動的でダイナミックなものになるはずです
だいたいほらこれはタスクシュートなんですけど
朝起きた時の自分の
これからまだ寝てたいぞっていうのと
夜夜更かし
さっきの負のループの時に出てくるんだけど
していたい自分とは
まるで違うことを望んでるじゃないですか
自分というのは
いちいち変転するものなんですよね
ものすごくドロッとした僕のイメージで
アイデンティティが
ものすごくドロッとした
アメーバ状のゼリーみたいな印象なんです
輪郭が曖昧で
私ってこんな感じっていうぐらいのものでしかなくて
それよりはまだ肉体の方が
外輪というのかな
輪郭ははっきりしてると思うんですよ
線が描ける
だけどその線だって
怪しいもんなんですよ
それが皮膚を作っている
構成要素も
どんどんどんどん代謝されて
変化していきますしね
で
被復旧もしてますしね
つまり外と内が
完結なんてしてないんですよ
恋愛欲求と母親
完結してると思っている人がいるとすると
それはかなり単純な
我々はガラス細工ではないっていうような話ね
ほいで
それでですね
僕はアイデンティティというもの
万歳の時代に生きてきました
多分今の30代の方よりも
我々今40代後半から50代の人間は
もうそれのピークだった気がします
なんといってもね
全然認めてくれなくても
個性は絶対だったんですよ
だから学校の先生って面白くて
個性はいいんだ
でもこうしろみたいな
そういうことを平気で言えるぐらい
もうなんていうのかな
あのまあ絶対だったんですね
だから僕はあれはオカルトだと思ったんですよ
個人主義崇拝ってのは
崇拝に近いなって感じがします
これはだからすぐにこう
右派みたいな人たちが出てきて
それが戦後ダメージだったみたいな話になるんだけど
そんなに単純な話じゃないと思うんですよね
結局あれは
何かを崇拝するとその反動が来る
特に敗戦ってのがありましたから
戦争で負ける前は
ああいうのの真逆だったんで
多分そうなったんだと思うんですよね
反動的にって
そういう運動がずっとあったわけじゃないですか
その安保闘争みたいなのを含めて
ずっとその後に僕ら生まれてきて
育っているんで
もうなんか
ある意味それは確定事項みたいな顔をしてたんですよ
そうでなかったことはその後
だんだんだんだん
特にオウムあたりから怪しくなっていくんだけど
とにかくその辺で
一旦個人崇拝みたいなものは
相当頂上
頂上付近まで
クライマックスを迎えるわけですよね
きっと
僕はその空気をどっぷり吸ってるから
当然個性崇拝しかないわけですね
まさかその時代に
僕のようにごく普通の教育を受けてきた人間が
全体主義に走るってわけにはいかないですよね
今更共産主義だの
今更右翼だのっていうわけには
普通の教育を受けてれば
まず受け付けられないもんです
それはもうだって
2歳3歳4歳5歳の頃から
個性の話ばっかり聞かされてる人間が
よっぽど反動的に逆にいかない限り
北朝鮮みたいに日本をしたら幸せになるぞって
信じないですよ
当時まだソ連もあったしね
でそれはそれとしてしょうがないんだけど
この子は滅ぶじゃないですか
絶対に死ぬってことを僕らは知ってるから
まあこれを言ったらかわいはようなんですけどね
死ぬのをずっと知っていながら生きていくっていうのが
人間という心理の難しさみたいなことを言っていて
これタナトスよりいい発想だなって思ったんですけども
つまり個人は肉体なわけで
僕の考えでは肉体はまあ滅ぶわけで
それは非常に怖いわけですよ
この怖さを
なんとかしてくれよっていうところに
僕は母親を求めてたわけです
でこれが僕の恋愛欲求と性欲のほぼ全駆動なんですよ
だから非常にまあ死の欲動ね
死を欲動してるわけじゃないからね
これはね別に死ぬのが怖いって話ですから
だからヨルベナサというヘルプレスネスというのはですね
長寿宮アーシロコーシロという
その命令とかマッチョについていけない弱さではないんですよ
それは
意識してましたよもちろんね
エディプス的な体育会系的なやつですよね
先輩がなんか至極みたいなそれが嫌だって
それはまあそうですよ
でもそういうもので傷つくから
家でいたわってほしいっていう風に杉田さんは書くんだけど
そういうことではないなってやっぱ僕は思うんですよね
そんなのはいかなきゃいいし
別にそれが怖いわけじゃないんですよ
だってめっちゃ暴れることはできるじゃないですか
相手がどんなにマッチョだって
めっちゃ暴れることはできるじゃないですか
なんで僕らがめっちゃ暴れないのかというと
結局その集団でやっていかなきゃなんないと思ってるからですよ
でその集団でやっていかなきゃなんないのは
つまり上司に頭を下げるのと全く同じなんだけど
上司に頭を下げるのはどうしてかっていうと
結局生きていきたいからじゃないですか
結局生きていきたいということは
僕の観点ではですね
この肉体が死ぬのが恐ろしいっていう意味だった
これをいたわってシーンですよ
でそんなの彼女には無理だよねって言われるのは
全くその通りです
だから私は彼女ができなかったんですよ
構造上無理な要求があったんですね
ここには
僕は別にニコライ・スタブローギンの
あれですよ
ステフスキー
悪霊
悪霊の主人公みたいにですね
看護婦とあえて言いますが
看護婦が欲しいって彼が書いてたんだけど
そういうことでは
彼の場合そうなんだと思うんですよね
やっぱり彼も実存の苦悩みたいなのに
あえいでた人として描かれてるから
彼が看護婦が欲しいとか言うのはですね
結局実存の恐怖に一人じゃ耐えられないって言ってるような話だ
これは私は母親が欲しいってのと変わらないと思うんですよね
で子宮回帰願望なんて言葉すらあるんですよ
そしてお母さんのお腹の中に戻りたいです
これは死にたいですってことですよね
私たちの誕生日について考えてみても欲しいんですよね
私たちは誕生日に生まれたことになってるんですよ
誕生日の前に
はい
母体に戻りたいですよ
母体にいた時あれは生前の世界なんですよ
死後の世界と生前の世界ってのは
僕は基本同じだと
大体同じようなもんだと思うんですけど
精神分析の違いと扱われ方
自分がこの世に肉体として生きてない時期だって話ですからね
それはつまりやっぱり母親の体内しかイメージしやすい
イメージを具体的に
自分が肉体だと思い込んでしまった場合
これはグッドバイオス脇に置いて喋ってますけど
自分が肉体だと思い込んでしまった時
生前というもの
死後の世界で
生前というもの
一番具体的にイメージできるのは
僕は子宮の中しかありえないと思うんですよね
じゃなきゃもう母親だったってことになるしかないと思います
いずれにしても
母親と同一化したいんです
これが
母親とセックスしたいという欲望であり
同一化に一番近づけるから
肉体としては
これが
私が女性を求めていた
最大の理由だったように思うんですね
僕はこういう風に
精神分析をして
精神分析を理解してます
だから
長時間のマッチョなお父さんだっていうのは
この文脈では
二次的な話であって
それが戦争とかいけばね
そういう話になるのも
僕の時代にやっぱり戦争ってリアリティはないですよ
もちろん戦争リアリティがないって言ってはいけないのかもしれないけど
でもやっぱり
自分がこうね
徴兵されて戦争行きますみたいな
それを女性にいたわってほしいから
彼女が欲しかったとかではないですね
私の感じで
私の感じでいるものとしては
そんなのでは全然ない
私はやっぱり家がなくなるのを恐怖していたし
家がなくなるというのは
象徴的に母親が
消滅することを恐怖していた
というか消滅してたんですよ
実際の母親はずっといましたよ
実家に帰ったことも
離婚したことも
入院したのはつい最近だけど
とにかくそういうことはなかった
そういうことではないんですね
私はご飯作ってほしかったわけでも
部屋の掃除をしてほしかったわけでも
全くないんです
なんか
そのような話を
ジェンダーでされてみると
僕は
いやそんな話は
私にとっては
なんていうのかな
まあ
さまつなことだなって
家事が大変なのはわかります
でも
だってそれだったら
ライフワーカーですからね
私は
ルンバ買ってきて
バッチリ掃除します
僕はそれが苦になるというタイプの人間では
全然なくて
ご飯も
今ちょっと妻がですね
それこそ実家に戻る
事情がありまして
娘と二人で作ってるんですけど
全然これでいいですよ
全然これでいい
僕は別にそのその間
仕事してたりとか
ゲームしてたりとかないんで
そんなことは関係ないです
そういうことではない
もっとはるかに情緒的な問題
僕が彼女が欲しかった
もっとずっと情緒的な問題です
情緒一遍倒と言ってもいいでしょ
そういうものでした
だからそこでなんですよ
この杉田さんのように
問題提起の部分では
こんなに共感できる話をしている人でも
そしてその人が精神分析を持ち出したとしても
この精神分析が
僕のそれとは
なんかすごく違って見える
しかもすごく接近してるだけに
そこに不思議感がある
こういうことをですね
知るために
精神分析ってのは
意外と扱われてるっていうのを
知っておくのは
だって杉田さんは私と同じ世代です
精神分析の理解
1974年生まれかな
僕より一つ下ぐらいですよ
ほとんど変わらない
つまりこういう人でも
これぐらい教養が豊かな人は
やっぱり精神分析を
ただ読んでるだけじゃなくて
自分の本の中に持ち込んでくる
っていうことに気づかないでいるんですよね
精神分析を知らずに
精神分析というのは大学の教養では学びません
あれは野の医者の
お前も言いましたけどこういうと怒られるかな
野の医者のシステムと
野の医者の解決策ですから
公認精神分析家というものは存在します
国家公認のものではないからね
だからフロイトは
教科書に出てくるでしょう
でも彼は一体何者として出てきているのかが
完全としません
精神分析は心理学ではない
ってよく言われますが
心理学者ではないですよね
つまりフロイトとは何なんだっていう
哲学の教科書でよく出てきます
つまりなんだかよく分かんない人なんです
そうですよね
我々は例えば仏教家とかに行かない限り
釈迦の思想とかを習わないはずです
ほとんど
学校ではね
だから仏教について我々が知ってることって
世俗的に知ってることなんですよ
なんとなく知ってる
フロイトもきっとそうです
フロイトなんて特にそうです
あれはフロイト教みたいなものなんですよ
全然あれは
臨床心理の
まあ臨床心理のソトシのも出てきますが
そもそも我々高校とかで
臨床心理学科なんてないじゃないですか
臨床心理学も学ばないです
しかも日本では
心理臨床学といって見たりもしてます
心理臨床学とは言わないのか
いずれにしても
ちょっとここがひっくり返ったりしていて
そういう事情も僕らは習わないわけです
この辺についてはですね
今度トラケンに来ていただく
山崎孝明さんの
精神分析のある仕方に詳しい
戸畑さんも結構ちょこちょこ書いてるけど
彼は決して分かるようには書いてくれない
ってところありますからね
すごく面白くは書いてくれるけど
読んでも
なんで世の中には
心理臨床と臨床心理と2つあるんだってのは
なんで世の中には
分からないんですよ
2つありそうなんだなってのは分かるんですけどね
そこを面白おかしく書いてくださるんですけども
今のような話もそうですけど
僕ら知らないじゃないですか
そして
なんなのそれって感じじゃないですか
それ両方日本語だから
日本特有の現象なんですよ
でも多分これを学校で習うとすると
臨床心理の専門家にでもならない限り
そういうところは
学ばないと思うんですよ
つまり僕らは
不意に
不意にですよ
本当に杉田さんがね
フロイトはタナトスがとかって言い始めると
不意にそこで実は
よく分からない話をされてるんだけど
なんかよく分かったことを書いてもらってるような気がして
なんとなく読んでいって
実はよく分かってないか
あるいは誤解している
っていうことが起きるんですね
こういうことのためにも
実はですね
人文系の本を読むと思うんですが
精神分析を知っておくと
すごく見通しが良くなるな
っていうのはあります
そんな風な理由がありまして
トラケンでも読んでみていただいて
読んだりしているわけですよ
だからまあ来てねっていうところがオチかな