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2024-01-09 41:06

生きているからやり直しは効かない【GMV914】

環境としての母親ということの意味。

サマリー

1月9日火曜日の7時26分、このモードはイリュージョンなので、一体何をもってそのモードというのかって謎なんですが、そんなものは寒くて、まだ薄暗い朝って感じです。真昼にここでやっても、なんとかストーブ抜きでもいけるかなぐらいの、ホカホカしているようなレベルで済むのですが、最近本当に暑いんですよ。母親の存在について考えることが重要であり、母親は環境ではなく愛であることを理解する必要があります。環境としての母親は代替えがきかず、それが母親の重要性を示しています。私たちは自らの人生を環境設定しようとする傾向があり、環境としての母親を必要としますが、これを無視してしまいがちです。このエピソードでは、環境都市の母親についての話が中心となっており、エンジニアのガレージへの引きこもりや他人を環境扱いすることについて考察されています。何ですかね、単なる不在として受け入れる、あるべき姿を先に作り出して、抑鬱的に生きられる存在、人は代替えが効くものにしてしまう、相手が生きているっていうことが生きていて欲しいと思うから、正気と狂気の間を行ったり来たりする、その作業中に一定の確信を得ているところが大事なんですね。

寒い朝の感じ
おはようございます。グッドモーニングボイスです。
1月9日火曜日の7時26分です。
すっかりグッドモーニングボイスモードに戻った感じがあります。
このモードはイリュージョンなので、一体何をもってそのモードというのかって謎なんですけど、
というか、ないんですけど、そんなものは。寒くて、まだ薄暗い朝って感じ。
季節の変わりってすごいと思うんですが、今、赤外線のヒーターをつけてかなり接近しているわけですが、
同じ空間で同じ時間にネックの涼しいやつをやらないと、熱中症になる季節がいずれはやってくる。
信じられない感じがするんですけどね。
今、この季節だと、真昼にここでやっても、なんとかストーブ抜きでもいけるかなぐらいな、
ホカホカしてるなみたいなレベルで済みますが、
こんな毛皮じゃないんだけどね、インチキなやつを身にまとっているわけですよ。
これが、夏になると裸になってもダメだろうっていう勢いがあるんで、
これが、夏になると裸になってもダメだろうっていう勢いがあるんで、
最近、本当に暑いですからね。
でも、ちょっと信じられない感じがするわけです。
強くお知らせっていうやつで、強くも弱くもないんだけど、
信じ難い状況
1月20日の東京ライフハーク研究会のゲストに山崎さんをお招きする、この会、山崎さんだな。
お申し込みがいまだゼロという、この1かもしれないけどゼロだというですね、
ちょっと僕的には信じ難い、私としては理解し難い状況が続いていて、
多分、これが理解し難いのは私だけなんだけれども、
ライフハーク会に精神分析を申し込むというのは、僕はもう、あれなんですね。
絶賛でやってるわけですね。
だから、これがつまらないって感じがする。
って感じがする人っていうのは、僕にはなかなか理解できないんだけど、
多分、これが面白いと思ってるのは、僕を含めて5人とかしかいなかったりするんですよ。
この世の中に、今のところ。
だから、これをやっぱりなんとかしていこうねっていうのが、
今年の目標とかではないんだけれども、
なぜなら、今年中にそんなことができるとは僕は信じてないからなんですね。
これは、50代の目標かな、僕にとっては。
精神分析とユング
今、50歳だから、
60になるまでには一定、
70になるまでには一定の結果を出したい。
もしかすると、70になるぐらいになっちゃうかなってのもね。
今回、この40代半ばに、僕が大いに啓発されて、
自分自身が大いに助けられたグッドバイブスを広めるという活動は、
倉園さんと話したことがあるんですよね。
すごい、バクッと。
倉園さんもそういう方の方じゃないんで、
そういう方だった時代もあったんですけど、
5年ぐらいかな、みたいに思ってたんですけど、
5年とか全然とんでもないなって思ってるんですよ、今は。
5年では無理だと。
で、10年かければ、
それもざっくりでしょ。
だから、10年というのはですね、すごい適当なんだけど、
10年かければ、もしかするとな、みたいなものがあります。
そこへ行くとですね、
このJ・マスザキさんを中心としているタスクシュード協会は、
なんか日の出の勢いなんですよね、私の感じでは。
ちょっと他人事みたいにしゃべっちゃってますが、
確かにタスクシュートを広めるというのも、
僕の中では非常に重要なミッションというやつなんでしょうけれども、
ただ、あれは僕の目では結構広まってるし、
広まるだけのこう、
素地と言いますか、
そういう誘引も十分だなって感じを僕は持ってるんで、
この流れをですね、
せき止めないように、
必要な積極性を失わなければ私が、
私としてはね、
このムーブメントは行けるっていうのがあるんだけど、
精神不適の方は、
この初手からめちゃくちゃつまずいてるんで、
こんな考えられないことなんですけどね、ある意味ね。
だって、お好み圭吾さん、
今じゃもう名前知られていませんが、
お好み圭吾さんとか、
北山さんかな?
ちょっと名前が雑だ。
そしてまた土井武夫さんですよね。もう、
ミリオンセラーですからね、彼らは。
まあ、みんながみんなミリオンセラーじゃないけど、
でもトータルの部数ではミリオンを大きく超えているだろうし、
土井武夫さんは一冊でミリオンですから、
そういう時代もあったわけですよ。
精神分析というものの、
えー、なんていうんですかね、
その潜在的な力については。
今の方が、やっぱり驚くべき時代なわけですよね。
河合フェア王だって、精神分析そのものではないかもしれないけど、
やっぱりユング派で、精神力道で、
無意識を扱うカウンセリングで、
まあ、彼だってトータルではミリオンなんてもんじゃないですよね。
もしかすると1000万トータルで超えているんじゃないかぐらいな、
そこまでいかないのかな、わかんないですけれども、
でもまあ、非常によく読まれていて、
本屋さんに行っても、河合フェア王コーナーが作られているレベルだったわけですよ。
多分これ、このままいくと10年後にはどうなってるかわかりませんが、
まあ、でも日本におけるユングの時代があったよねぐらいに、
なってしまう可能性も少なくないと思うんですよね。
で、私はそれは、やっぱりこう、
河合フェア王読んで救われてきた敵人間、
あのね、誰だっけな、誰だっけじゃなくて、
名前ははっきりわかってるんですけど、
どう言えば伝わるか、山田玲司さんという漫画家も、
河合フェア王を相当読み込んでいるんですよね。
そういう感じを十分受ける。
で、今回ちょっと、あの、特集で、正月の特集やってて、
あ、そうなんだと思ったんですけど、
河合フェア王さんも、河合フェア王を読んでなくは絶対ないと思うんですね。
読んではいると思う。
あれはユングだよねっていう感じしかしませんからね。
彼からすると、あれはパクさんのもの作業だったのかもしれないんですけど、
最新、最新作の、昨日賞を取ったというやつですね。
でも、えーと、つまり君たちはどう生きるかですけど、
あれはユングですよね。
ユング、よく知ってる人にしてみれば。
あの、だから、塔が出てくるぐらいですからね。
出てきて、賢者が出てきたら、ユングしかないじゃんっていう、
その賢者はパクさんですって言われても困っちゃうぐらいな感じで、
まあ、遠畑さんなんか完全に、
いやー、ユングだよねみたいなことをあっさり言ってましたけれども、
まあ、これはね、解釈する人の解釈なんで、
正解はありませんから、一切ね。
えー、ユングでもなければパクさんでもないって、宮崎さんに言われても、
なんとも言い返しようはないんですけれども、
状況証拠ってものが、でも、この言う場合、大事ですからね。
人文は状況証拠しかないでしょうから、
非常にこう、
そうなんですけれども、
しょうがないんですけどね。
いやー、でも、
このまま行くと、
まあ、宮崎さんだって永遠に生きられるわけじゃないから、
彼はね、なんか不死鳥のように復活してきて、
素晴らしいんですけれども、
年を取ったらああなりたいなって思うんですけど、
まあ、あれを、
地でやるのは、なかなか大変なことなので、
あのー、まあ、
お友達なのかわかりませんが、
与朗武さんの方も凄まじいですよね。
ちょっと信じられないなっていう、
うちの父の年齢をさらに重担してるのに、
うちの父のあの状況から、状態からして、
なんでああなれるんだろうっていうのはあるんだけれども、
まあ、そういう関係ない話ですけれどもね。
いろいろ諸々をひっくるめまして、
寅県に山崎さんをお招きするというのは、
僕からすると、
非常に大事な作業なんで、
まあ、でも、これは僕だけがでもいいんですよね。
当座はね。
えーと、まあ、5年、
少なくとも5年はかかる。
今年の目標とかでは断じてない。
全然ないですね。
今年中にどうこうできるような話だとは思ってないので、
いいんですが、えーと、
まあ、是非、
ちょっとでも興味がある人は、えーと、
こういうのにも。
これやっぱりですね、先日言った通り、
こういう話をしていくしかないんですけど、
こういうところでも、ちましま、ちましまと。
あのー、
この分析という観念を通じてしか、
私たちは、えー、
ある種の判断、
判定はできないって私は思っているんですね。
例えば、あのー、
まあ、だから1月20日のトラケン来てねってことになるんだけど、
なんでかと言いますと、
んーと、精神分析というものがなしに、
例えば、えー、
自分は壺を買うべきなのか、
それとも蔵座の形像の話を聞くべきなのかの判別ができないって僕は思ってるんですね。
えーと、それを我々は感性でやってるんですよ、多分。
いやいや、壺怪しいでしょっていうだけなんですよ。
でも、この問題って難しいんですよ。
例えば、ずーっと長年、ずーっとうちで引きこもってる人がいるんだけど、
壺を買ったら、もう普通に社会生活やってるよみたいな話があるんですよ、現実の世の中に。
これをどう捉えるんだっていう、
でも、多分、僕らは壺の方は信じられないわけですよ、霊力のね。
だから、いやいや、そんなのたまたまだよって言うんだけど、これは説明にはなってないんですよ。
ただ、たまたまだと言ってるだけなんですよ。
当人に、ここが大事だと思うんですけどね。
当人が外に出られないような状態になったとき、その壺買いたくなるんですよ。
もしそういうものを目にしていたらね。
で、最初はもちろん抵抗すると思いますよ。
でも、出られなくはなったと。
カウンセリング受け入れに行くなんかとんでもないと。
で、なんか佐々木が言っていたから、ハワイハヨーとかを読んでみたけど、全然出られるようになる気がしねえってことは怒っちゃうんですよ。
現実にはね。
まあ、そういうことがあなたに起こるみたいな話をしてるわけではないです。
現実にそういうことはどっかで起きうるってことですよ。
そのとき、たまたまですよ、それこそ。
自分の知ってる人が、いや、そういえばあの人、壺買ったら、社会生活復帰できてたなって思ったら、壺欲しくなるんですよ。
人ってのは。
これが、つまり、判別できないっていう話に、僕の場合は思えるわけですね。
だから、グッドバイブスで、夫婦仲がよく言うんですよ。
夫婦仲がよくなっただの、人魔神治っただのは、嘘なんですよ。
グッドバイブスで治ったわけじゃないんですよ。
ここがすごい大事なんですよ。
グッドバイブスの話を聞いて、僕が治したんですね。
で、それは本当なのって言われたら、そんなこと知ったこっちゃないんですよ。
そんなことが本当かどうかを、信じることはできないから。
私が本当ですと言っても、ビデオを回して、それを見せても、信じることができない人にとって、それを信じることはできないはずです。
いや、それはたまたまで偶然で、本当じゃないんだっていう。
気持ちの中では、本当ではないんですよ。
だから、嘘っぱちなんですよ。
この話を、本当か嘘かが決められると思うところが、問題なんです。
と、僕は思うんですね。
この話を、本当か嘘かを決めることは、絶対できない。
と、僕は思うんですよ。
そこに、精神分析というものの価値があるんです。
あれは、二者でやりますね。
第三者がそこにいてはいけないわけです。
客観的な証拠というものは、決定的瞬間の上では取れないはずなんですよ。
決定的なことが起きる瞬間があるわけですよ。
うつの人が、なぜかこういう気分になれるとか、東英ドイツ科の教官がなぜか起きた。
その瞬間は、多分僕、記録にも残しようがないし、誰もそれを証明することができない。
その二者間で起きる、何かなんです。
まあ、観主観性って、現象学者なら言うでしょうけど、そういうことなんですよ。
この二者の間に起こる主観的な出来事なんですよ。
客観的にも、事実なのかもしれないけど、それは、そうだと信じる人にとってだけそうであって、
そうだと信じられない人にとっては、そういう出来事は目に見えないから起こらないんですね。
起こらないものは、証拠立てようがありませんよね。起きてないんだから。
だいたい、不在の対象とかいう言葉がそうじゃないですか。
そこに誰もいないということを認識するっていうのは、おかしいですよね、本当は。
そこにまして、いるべき人がいないとかっていう言い方って、
母親の重要性
本当はおかしいじゃないですか。いないんだから。いないだけじゃないですか。
いるべき人がいないとか言ったって、無理がありますよね。
しかし、じゃあ、0歳の赤ちゃんがそこに放り出されていて、いるべき母親がいないというのはおかしいかっていうと、そんなことはないですよね。
我々はいるべき母親がいないっていうのは、すごく重大な問題だと捉えます。
日本の社会よりも、アメリカとかだったら、これは本当に大問題になって、お母さん重罪になりますよね、一方で。
だから、いるべき人がいないっていうのはおかしなことではないんだけど、
でも、我々は…、我々というかですね、普通に考えると、そこにいないというのは、たかだそこにいないだけなんですよ。
で、いるべきとか言ったって、例えば今回も災害があったりします。
だから、お母さん絶対にいることが、そこにいることができるかっていうと、それもまた非常に難しい問題でありうるわけですね。
お母さんにはお母さんの事情があるわけですよ。
赤ちゃんはそんなこと知ったことじゃないんだから。
ことを知ったこっちゃないんですけれども だから人の事情は知ったこっちゃないって
いうのは僕らにとっては妄想分裂ポジション なわけですよ
環境としての母親
私たちにとってあなたを含む人々すべて 環境ですってのはつまり妄想分裂
ポジションです我々は環境ではなくて人間 ですからね我々には事情が環境には事情
がありませんだから我々はえっとあ椅子 壊しちゃったとか
iphone 壊しちゃったで済まされる わけですよ iphone の事情とか関係
ないんですね iphone も所詮環境です からね
椅子も環境ですからね壊したら壊したで 新しいの買ってくればいいでも母親は
環境じゃないだからこの環境としての母親 という言葉はとても大事なんですね
母親を壊してしまったらもう母親を買い 帰ることはできないわけです
つまり母親は対象なんですねそのことに 気づくというのはトラウマになるんですよ
赤ちゃんという
心理状態にある人にしてみれば だから対象としての母親というものを見つけ
出してはいけないとそういう表現に近い ことを見に来っとうみたいな人は言うわけ
ですよでこのようなことがですね ライフハッカーにとって僕は必須の
考え方だと信じているんですねだから 山崎貴昭さんを東京ライファー研究会に
呼ぶという無理筋なことをやるわけです 無理だなぁと思ったらしばらく間は空け
ますけれども
どうせ僕は懲りずにやるわけですねなぜなら これを死ぬまでやるつもりでいると死ぬまで
やるつもりでいるぐらいにならないとこんな ことは始められないんですよ結局
で どうしてこういうのが仕事術だのビジネス
所だのに盛り込めた方がいいと僕が思う かというと今の話してだいたい
僕の中での説明は なんか十分だったけど多分不十分だろう
から お話ししていきますがつまり僕らはこういうふうに考えたらいいと思うんですけどね
僕らはこういうふうに考えたらいいと思うんですけどね 僕らはこういうふうに考えたらいいと思うんですけどね
それは つまり僕らは夜中を環境だと思いがちなんですよその時僕らは妄想ブルーレス
Hernanなんですよその時僕らは妄想ブルーレス
numerator favor elbow に近い二というかそういうポジションに片足は 少なくともずっくん
popular favor енных donaker 裕 stock
例えばタスクシュートというリストで dリストですよ今日やるほぼ確実に今日 privileged do kind
やることを書いておきます書いておかなくてもやっほうと思う 書い
ておかなくてもやっほうと思う disappeared
ドイツ
dea
dea
1回ぐらいは行くでしょうから
それだって簡単な話じゃないんですよ本当は
災害とかがあるとね
トイレに行く回数も限られてくる
だからこういうことって簡単じゃないんですけれども
まあでも僕らはまあまあ普通に生きている限りは簡単に書く
食事とか簡単に書くわけですよ
ことの計帳は一旦置いておくとしてですね
朝食は取りますからね
で朝食と書いておく
で朝食取ったら朝食の始めた時間と
大体でいいんですよ大体の終わった時間を書いておく
これがタスクシュートです
タスクシュートじゃなくてもこんなことやろうと思えば
ライフログでもできるんでいいんですが
ここで僕らは現実を環境扱いしているんですよ
現実は環境ですからね
で花々しくなってくるとなんですね
花々しくなってくると僕らは
いやいやいやあの時ね過去にね私はこの人と結婚してしまったんだけれども
あの時しなければシュレリンガンの猫だっけ
量子力学的にねアナザーワールドに行っていたら
私はこんな風に幸せになったんじゃないかなとかって言い出すんですよ
人を環境にしちゃうんですよ
これはとっても大事なポイントの一つだと僕は思う
一つですよ
いっぱいありますこういうことはね
一つ言っておくとこういう話がある
ゲームブックみたいじゃないですか
14ページに行くとか36ページをめくるみたいな脳の人があるんだよね
これの時僕らはゲームブックというものを環境だと思ってますよね
つまり人を背景だと思ってますよ
主人公は誰か自分に決まってるじゃないですか
まあゲームブックだって自分が主人公ですよね
結婚相手なんて所詮は環境なんですよ
乗り換えが効いちゃうわけね
だからアナザーワールドに行くわけですよ
その時全ての出来事が環境扱いされているわけですよ
まあそんなにことをね大事に捉える人はいませんけど
例えば
私が結婚する前のあの段階に戻って
この人と結婚していたらとか言っている瞬間って
まずうちの妻が環境扱いされて当然
うちの娘まで環境扱いしている
生まれないことになりますからね
あのタイムマシンの話ですよ
これはだから架空の話なんだけど
それどころかそれどころかってことじゃないんだけど
例えば大谷翔平のホームランとかもないことになります
阪神タイガースの優勝もないことになります
全部環境ですからね
所詮
僕が中心になり僕の人生だけが重要であれば
すべて周りのものは環境扱いされていくわけですよね
ものはそれでもいいでしょうけれども
人もそうだし動物もそうすべてそうです
僕の結婚後生まれてきたものは
そもそも生まれなかったことになるわけです
戻っちゃうわよ
そうならないとおかしいですよ
他の環境は一切変化しないのに
僕だけが戻っても
そしたら結婚したっていう事実だけが消滅するとかって
おかしいじゃないですか
もちろん
亡くなった人も生き返るわけですよ
この間亡くなった人は大勢いるんで
起きたら災害も起きないことになるわけです
すべて環境に過ぎないわけですから
この発想をとる限りはね
つまり自分がAとBとCの世界を選択できるということは
AもBもCも自分の世界にとっては背景に過ぎないわけです
自分一個だけがこの世で生きている存在であり
他はみんな死んだも同然の存在なんですよ
取り換えがきくってことですね
この状態に
心理的に入っているときに
対象というものは
トラウマの原因でしかないぐらいなもんだって
彼らの事情なんて知ったことじゃないわけですよ
こういう心理状態にある場合はね
彼らの事情というものは
つまり邪魔なわけじゃないですか
邪魔というのも変だけれども
やっぱりね
その事情があるということが
自分を傷つけるってことになるんですね
私にとっては
母親は環境であってほしいという
というのが妄想分裂ポジションにおける重要な
なんつーんだろうな
前提条件なんですよね
これをユニコットは妄想分裂とは呼びたくなかったんです
そうすると悪意を感じちゃいますから
今の僕のしゃべり方も
ちょっと悪意があったような気がして
ちょっと反省点なんですね
そうじゃないですね
ユニコットが言ってるのは
そこに悪意はないんです
タガちゃんからすると環境なんですよ
母親なんてものは
それでいいんです
それはそれで愛なんですよ
環境としての母親と言えば
本当はそういうものは存在しないけれども
そういうふうに赤ちゃんの主観の中では見えている
そうでないと困る
お母さんが
いやー実はお父さんじゃない男の人が好きで
これから駆け落ちしに行くんだよなんてことを
赤ちゃんが知っていてはいけない
ということを知ると
発狂するんです
赤ちゃんは
赤ちゃんだ
それでは生きていけないからね
だからそういうことがあってはならないわけですよ
ある種の条件においては
私たちの心理状態もそれに近くなるわけです
だいたい危機的な状態においてはですね
優しくしてくれる以外の何も望まないみたいな
心理状態になることがあるわけです
それは相手が環境になって
だからそうですよね
結婚生活が十分満足にいって
めちゃくちゃうまくいってるのに
あの時に戻ってとか絶対考えないじゃないですか
この考え方を取り始めるという時に
古い言葉で言えばですけれども
私たちは対抗しているんですよ
対抗というものが始まるわけです
つまり情緒的には赤ちゃんの方向に
スーッと戻っていくわけですよ
その時にこの番組でも繰り返しお伝えしている
当然なんですけど
ヘルプレスネスの感覚がやってきているわけですね
緩べないわけですよ
赤ちゃんなんだから
だって別にお母さんが今のはありえないですけど
私にとってお父さんがあれでね
実は私は自衛隊のあの男の人の方が良かったのよって
うちのおばあちゃんが言い出しても
ああそうなんだ
ふーんみたいな感じじゃないですか
それにトラウマになったりするはずがないですよね
何言ってんだこいつは
とは思うかもしれないけど
別段それがトラウマにあるなぜか
僕はそんなに緩べない存在ではないと感じているからね
ヘルプレスネスだと感じてないからですよ
今更母親がいなくなったからって
私の人生成り立たなくなるわみたいには
なってないから
だからなんてことはないわけですよ
このヘルプレスネスの感じというものと
人生やり直したい感じでものは
おそらく接近している
であろうっていう考え方を一つ選択というか
検討してみることができると思うんですね
ウィニコットの考えを知ってれば
環境としての母親ってのはおかしいわけ
環境としての母親は環境なんかじゃないから
母親はアマゾンでは買ってきて
買ってくるわけにいかないんですね
どんな母親であろうと代替えがきかない
だから環境じゃない
だからこそ環境としての母親という言葉は
素晴らしいんですよ
その矛盾を表現して
わけですね
これをただジェンダーの問題に置き換えては
僕はやっぱりまずいんじゃないかなって思うんですね
男女の役割のことばっかり言っててはいけないんですよ
母親がしてくれることが大事なんではない
先日僕がモテなかった理由のところで
言った通りなんですよ
家事をするから母親なんじゃない
それだったら代替えがききますよ
お父さんがやったっていいしね
生活に余裕があれば
ダスキンにお願いしてもいいわけですよ
掃除をやってくれるから
母親なわけじゃないんですよ
環境になってくれるから母親なんですね
環境にはなってくれませんよね
だから逆に言うと
ダスキンとかお願いするサービスってのは
環境じゃないですか
それは環境でしかないわけ
環境としての母親とは言い難いところがある
だから母親には程遠い存在が
環境でありますという条件においても
情緒的に環境としての母親を我々は必要とするので
ここのところを僕らは
ライフハック時代と言うべきなのか
他の言い方があるのか知りませんが
無視したがるんですよ
そうではなくて
我々は環境設定ができればいいんだって思おうと頑張るわけです
情緒はいいんだみたいにね
全く逆なんですと僕は言いたいわけです
少なくとも
環境都市の母親とは
この環境としての母親っていう表現を使って
ユニコットがこれがいるんだっていう
のを
この環境としての母親という表現を使って
強調しているぐらいには僕らは必須としている
これがなくなると僕らは環境を設定することだけはできるのに
例えば家からあんまり出たくなくなるとか
夜眠れなくなるとか
いろんな事態が襲ってくる気がするんですね
この番組でも何回かはお話ししてるし
ノートにも書いたことがあると思うんですけれども
オグデンという人が書いた話
エンジニア20歳年上の女性としては
エンジニア20歳年上の女性としては
エンジニア20歳年上の女性としては
結婚したエンジニアの話ですよ
エンジニア20歳年上の女性と結婚したという段階で
20歳年上の女性と結婚したという段階で
彼に日かけていたのは環境としての母親なんですよ
彼はお母さんと一緒になるために
彼はお母さんと一緒になるために
結婚したわけですね
よく今時もそうだし
以前からフェミニズムに攻撃されているやり方ですよ
男の人は
セックスできるお母さんが欲しいんだって
日本のってつけてましたけれども
この方は
日本のじゃないんですよ
これは外国の話だから
そんなことは世界中に当然あるんですよ
なんならば女性にだってあるんですよ
こういう発想はね
セックスできるお母さんが欲しいから
男の人と結婚する
全然不思議なことではない
何にも不思議じゃないです
肉体の条件などというのは
このような情緒的な
絶望に比べれば
肉体の条件は大事ですけど
でもこの絶望している気持ちに比べれば
それほど大したことではない
と僕は思うんですよ
20歳年上の成功したエンジニア
って書いてありましたから
オブデンには
相当うまくいってるんでしょう
相当お金もあるんでしょうね
20歳年上の女性と結婚したと
でもこれはそういう人がいなければ
その人の情緒上に
環境都市の母親は
失われているわけですね
だからその人がいるって
感触が必要なんですよ
その奥さんが出かけてしまうと
何も手につかなくなる
だからガレージに
こもることができない
でもガレージにこもってる時は
その奥さんが見えてる必要はない
というか見えるのは不都合
だから奥様がガレージに入ってくると
腹を立てる
多分邪魔だとか言うんでしょうけど
そうではない
大事なのは
ある特定の条件が成立した時のみ
環境都市の母親というものを
意識することができる
そういう意識状態にあるわけです
だからその生身の奥さんが
目の前に現れてしまうと
その人のその意識条件は不成立になる
環境都市の母親が
対象としての
母親になってしまって
その人はイライラしたり
一方は違うと
トラウマになるわけですね
こういうことは僕らは
しょっちゅう意識しているはずなんだけど
なかなかなんかね
自分ごとのようには
捉えられないかもしれない
でも人里全く離れて
相当引きこもって
俺孤独で生きていけるわって
思ってる人でも
無人島に行ったら話が変わると思うんですよ
人誰もいませんみたいな
そこで生活は
生計は十分成り立つとしてもですよ
なんか
アマゾンのちょっとSFですけどね
みたいなのがあって
食料その他は全部届けてくれると
いやそれは夢の世界だわって思う人
いっぱいいるかもしれないけど
僕はそうはいかないと思うんだよね
まあでもしばらくはそうでしょう
30日とか100日ぐらいは
でもその後もずっと誰もいないっていう状態が
延々続いたときに
我々は環境都市の母親というのが
不成立になった時の孤独感とか
ヨルベなさというものを理解するはずなんですね
でもそういう人にしてみると
いやいやでもね
確かにそれだと寂しいかもしれないけど
でも自分は雑踏の人混み行くと
すっげー人が鬱陶しいんですよっていう
これはさっきのエンジニアと何も変わらないですよね
環境としての母親は環境であって欲しいのであって
それが対象になってはいけないと思う
ところが人間というのはですね
自分のことを考えてみれば分かるんですけど
このやり考え方を取る限り
自分自身も常に環境扱いされている
っていう部分を無視してしまうんですよ
自分だけが主体であり
他は全て背景であるっていう風に考えたって
相手の人も全く同じように思っていたら
その差関係は成り立たないんですよね
こういうところに人間関係のややこしさと言われているもので
あっさりと片付けられている問題があるんだけど
私はそれは絶対おかしいだろうと思うんです
自分だけが主体だってみんなが思ったって
うまくいくわけがないですよね
だから一次仮定と二次仮定は異なるわけですよ
つまりこの発想は
子供っぽいんですよ
ほとんど幼児っぽいんです
だけれども幼児っぽいのがいけないってわけじゃないですよ
幼児は幼児でいいんだし
ウッドバイブスでクラルノさんがよく一生懸命強調されているじゃないですか
この世に罪はないと
だいたいクラルノさんがおっしゃるところの
罪のないレベルを考えると
幼児っぽいのが全然罪じゃないですよね
幼児っぽいごときが罪で
彼が言うような話が罪ではないっていうのは無理があるんで
幼児っぽいのは全然罪ではないんですよ
別に悪いわけではない
ただこの幼児っぽいという生き方を通そうとすると
大変苦労することになる
のが非常にあからさまになっていくわけです
だって他の人全てを環境扱いするっていうのは
よっぽどその人が大人になった場合は
よっぽどその人が偉い人で
誰もが黙ってても言うことを聞くぐらいの力を持っていないんだったら
相手はそういうふうに扱ってはくれない
大体見たら自分が主体で周りが環境だって思いたい状態に近づくわけですから
危機が崩れたり調子が悪くなると一層そうなるわけなので
全ての人が環境扱いされているのに
本人は全く至って平穏に生きていけるっていうのは
なかなか難しい話なわけです
奥さんだってガレージに入ってきますよね
ガレージに入ってくるぐらいでイライラしているようでは
自己の主体性と他人への依存
その人の平穏はほぼ保たれない
だからこの快楽現象が
人間社会の中で快楽原則と言うんでしょうけれども
僕は逆だと思うんですよね
これは普通原則に生きているようなもんです
人間社会の中で快楽原則
つまり気持ちがいいか気持ちが悪いか
好きか嫌いかだけで生きていこうとすれば
嫌いなもので充満していく可能性は否定できないわけですよ
だから引きこもっていくんだろうなって気がするし
ウィニコットも引きこもりという表現を使ったんですよね
環境としての母親がトラウマを与えるようになってくると
引きこもる
だからエンジニアはガレージに引きこもってたわけですよ
誰も入ってこないよ
そこに最愛の奥さんが入ってくるのが嫌なんです
しかし最愛の奥さんがいなくなっては困るんですよ
この状態は非常によくあるやつですよね
これを山嵐のジェンマって言ったりするんでしょうけど
僕はあれもダメだと思うんですよね
この簡単に片付けちゃいけないと思うんですよ
ここはもっと
なんていうんですかね
簡単に片付けているっていうのは
さっきの
人間関係の面倒くささっていう表現と似ていて
我々はもっとここを緻密に見ることができると僕は思うんです
自分だけが主体だっていうのは事実に反するじゃないですか
明らかにそうじゃないですよね
自分だけが主体ではない
だからやり直しはきかないわけですよね
大体もきかないわけです
母親は環境じゃない
つまり他人は環境ではないんですよ
他人は対象の数なんですよね
それを交換するということはできないし
ないことにもできないし
入ってもくるんですよ
ここを受け入れてから
現実原則と倫理の問題
始まるのが現実なんだと思うんです
それを現実原則と言うんですよね
どうしてもこういう話になってくると
今度はなんかこうですね
倫理の話みたいになってしまうんですよね
僕はここを倫理にしたくもないと思うんですよね
この辺はもう好みの問題かもしれませんけれども
えーと
その倫理の問題にするっていう感じ
別にそれが倫理的かどうかみたいな話では
また別なんだけど
えーと
一般的に言うところのですね
ここを現実原則って言ったとき
頑張るって感じが出ちゃうんですよね
頑張るようなことではないと思うんです
頑張らなくてもできるんですよ
こんなことは
できないって思うっていうその状態
それがつまりヘルプレスネスな状態なんだけど
そっちに行かなければ
絶対できるはずだと
僕は思うんですね
できてるはずだと
例えば僕らは木を舞いにして
木が環境そのものだとは
思ってないと思うんだけれども
木って代替が効くって
あっさり考えられるっていう人は
ちょっと微妙だと思うんですよ僕は
木は
木って代替は効かないと思うんだけど
でも木は環境に近いじゃないですか
木と自分の関係みたいなものに
近いんですよね
この状態は僕は
別に頑張らなくても
達成できると思うんです
木と人間が違うっていうかもしれないんだけれども
それは
自分のよるべなさみたいなものを
意識しすぎているんだろうな
と思うんですよね
私も昔からずっとその問題で
抱え込んできて
苦労してたんですよ
自分は弱いという
体も弱いし気も弱いし
頭が弱いというのでは
ないんだけれども
いわゆる生き抜く能力みたいな能力
そういう頭の良さでいうと弱いし
地頭が悪いってやつね
地頭は良いって使うんですけど
僕は地頭が悪いっていうのが
気になってたんですけど
気にすることはないんですよね
やっぱり木とかですよね
木を前にして自分の心が弱いと
気が弱いとか
地頭が悪いとか
そんなこと問題にならないじゃないですか
たとえそうだとしても
だから自分はヘルプレスネスだとか
よるべないとか
頼りないって考えるっていうのは
ことさらにそう考えてる感じがするんですよ
やっぱり
何かあったら自分じゃなんともできない
みたいな考え方を持ってるから
だから人々には
環境であって欲しいっていうのが
発生してしまうんだと思うんですよね
僕らは人々を
環境扱いするっていう時は
時にあるし
実はしょっちゅうやってるかもしれないけど
その時その時で弱い
と思い込んでるんだと思うんですよ
つまり赤ちゃん返りになってる
対抗しているっていう感じがするんですよね
ましてその
相手が対象化すると発狂する
少なくとも腹が立つっていうのは
やっぱりおかしいだろうなっていうんですよね
イラッとするってやつですよ
イラッとしてるときは大体何か
これも非常に今時ではやっぱりどうしてもね
人との距離を置こう的な話の通り
定食するんで
ディスカッションのネタになりやすいんだけど
そうじゃないと思うんですよね
イラッとするってことは
対象が気に食わないってことですもんね
つまりそれはお母さんが不倫するのは嫌だ
嫌かもしれないけど
お母さんがいてくんなきゃ嫌だってやつね
いてくれない事情はあるわけですよね
そのようなことは飲み込めるはずだというか
何にも苦労せずに受け入れられるはずだと
その辺もグッドバイブス的なんですけどね
ここにイリュージョンを挟まなければ
別に苦労なくこの事態を受け入れられるはずだ
それはつまり誰かがただいないっていうだけですから
いるべき人がいないってわけではないっていう話ですから
いるべき人なんて
人の欲求と抑鬱的な生き方
もともといないっていう話ですからね
あるべき能力がないとかね
私たちはすぐそういうふうに考えたがるんですけれども
現実というもの
目の前にある現実というものを
何ですかね
単なる不在とか
単なる不在
単なる不在として受け入れるというつもりがなくて
あるべき姿を先に作り出して
それがないことが
悪か罪かいずれかであるって考えたがる
非常に考えたがる
私がここで何かを口走るというか
私がいろんなことでここで話をするっていうことだけでも
そういう事態を引き起こします
だからさっきからジェンダーがどうとかいう話を
僕がエクスキューズ的に挟むことになるわけですよ
本当は一切いらない
何が起こってもそれは
つまりそのようなことによって私たちは
夜辺なく死んでいく存在とか
発狂しなければいけない存在ではないので
妄想分裂は何かが起こっても
プレス的に生きなければいけないわけではないので
結局のところ抑鬱的に生きられる存在ですから
抑鬱的にというのは
お母さんがいなくなりました
悲しいです
これが抑鬱的ってことです
代替えが効かないっていう悲しみですよね
生き物は代替えが効かないということについて
悲しむ能力があるので
それが生きてるってことですから
でなきゃ死んだような世界になってしまいますから
生と死の関係性と正気
あるべきものがないということを
辛いと感じるというのは
いいことなわけです
つまり
本当はそれは全環境に適応できるんで
こうなってくると非常にグッドバイオスに近づくんですけれども
全環境に本当は環境と対象を分けるべき理由は
本当はないですからね
そこまでいくと環境としての母親という言葉の意味が
非常にすっきり通るようになるんだけれども
僕らは人と環境は分けてますから
環境の代替えは効くと思っている
人間の代替えは効かないことを知っている
知っていても
初めて正気と言えるんですよ
人間が代替えが効くと思ってる人は
正気を失い始める
正気を失うということは
ヘルプレスネスの極致だってことですよ
つまり
人は代替えが効くものにしてしまうんだ
そうしないと僕は生きていけないんだっていう
そういう主張ですから
あの子供がそんな子供はあんまり見ませんけど
わーってやってiPhone壊すと
そしたらすぐ新しいの買ってくるんだけど
新しいの買ってきてくれるっていう世界があったら
ものすごい金持ちの
なんかフィクションみたいな話ですけど
なんか昇級書いてる感じってあるじゃないですか
そういう風に人を扱えるようになってしまう
結局AかBの世界を選択できるってのは
そういう話になっていきますよね
相手の人の事情というものが無視され
つまりiPhoneの事情って無視されるわけですよ
いやiPhoneが壊れたらiPhoneが悪いでしょって
自分がたとえ投げて投げたとしても
金槌を叩きつけたとしても
やっぱiPhoneが悪いでしょってことになる
だから新品の良いiPhoneを買い替えてくるわけじゃないですか
そこに抑鬱的なものは挟まらないですよね
いやiPhoneの葬式をしようみたいにしないじゃないですか
でも人はしますよ
痛むってことをするじゃないですか
それは生きてるってことですよねお互いに
こっちは死んでたらそれできないし
相手が生きているっていうことが
生きている方がいいというか
生きていて欲しいと思うから
痛ましいってことになるんですよ
そういう言葉が出てくるはずなんだと思うんですよね
これが抑鬱ポジションのスタートっていう話だと思うんですよ
だから
なんていうんですかね
でも我々は受け入れるしかないじゃないですか
いなくなったことに腹を立てるケースもあるんだけど
いなくなってバカ野郎みたいなね
だからこの痛む流れの中で妄想分裂的になっていくんですよ
僕らは
死んでしまったにもかかわらず生きているっていう
あるべき姿を受け入れられる
受け入れられないみたいなところが出てくるから
あるべき姿になってない現実を受け入れられないってところが出てくるから
私たちはそういう時には
正気と狂気の間を行ったり来たりする
でも物作業は最後必ず正気で終わるっていう風に
一定の確信を得ているところが大事なんですね
その作業中に
もう亡くなりになったけどあの世にいるとか
いろいろな解釈をするために
おそらく宗教的儀式ってものがあるわけですよ
これiPhoneにはやりませんよね
多分やらないと思う
やる人もいるかもしれないけど
僕はやらないです
ピン抜いて初期化して売っ払います
つまりこれができるというのは
それは環境だと思ってるっていう証拠だと思うんですよね
これを言うならばですね
タスクリスト全域に適用しちゃダメだっていう話なんですよ
そういうのがそういう話はしませんが
言ってみれば根底にあるのは
トラケンでしたいのは
そういう話だったりするわけですね
41:06

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