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2022-01-13 31:18

【GMV534】ひきこもりにおける行為者観察者バイアス

見えないものは見ようとしない
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おはようございます、グッドモーニングボイスです。
Twitterで、520回か何回かのカミカイをいただきまして、大変ありがとうございました。
何がカミカイかというのは、本当に人によって違うんだなと。
私の中では、毎回良い出来だったと思うと、ほとんどないんですよ、これは。
事前に何かを考えずに喋り出すし、いきなり様々な事情で打ち切ってしまうという、これの繰り返しなんで。
カミカイとかは一切なくて、基本的には。
毎回毎回、家族の会話に出来が良い、悪いとかって判断しないじゃないですか。
あれにもう限りなく近づいてきているんで、出来の良し悪しとか考えないんですよね。
ただですね、これすっごい昔、準備してスライド作ってセミナーとかしていた時期もあって、
今もそれに準じないけど、だいぶ緩やかにしていますけど、
準備せずにセミナーをするというのは、あまりまだ本当の意味では出来ていないんですよね。
そんなに念入りに準備するということは全然ないんですけれども、
してしまわなくもないぐらいな感じなんですよ。
家族の会話と比較してですね、昔準備していた頃のセミナーの方が、
あっちの方が聞き手にとっては良かったはずだと言えるような会話、
一回もないと僕の中では思うんですね。
一回もないんですよ、そんなことは。
だから、つくづく人がやる準備とか、僕はものすごく会議的で、
話を聞いててもそうなんですよね。
テレビとかってそうだと思うんですけど、あれは念入りに準備されているに違いないんですけど、
ワイドショーとか、あんまり高く評価されているとは言い難いですけど、
結局生き残っているということは視聴率を取っているということじゃないですか。
ワイドショーとか見ていて思うんですけど、念入りに人が準備してやっていることはどういうことかというと、
家族との会話にいかに近接したものを作り出すかという感じがするんですよね。
あれだったらすごく盛り上がっている家族の会話を取った方が、
マシなんじゃないかと思うくらい近接してくることがあるんですよ。
ごごすまとかね。
うちの奥さん大好きで、ほぼ毎日見てますからね。
NHKニュースとかも見ますよ、うちでもね、普通に。
だけれども、NHKニュースとかも念入りに作られているんですけど、
あれはもうある意味家族間の会話とかとは対極な感じもしますけれども、
あれって多分テレビとして必要性に迫られてみんな見ているのであって、
楽しむために見るというものではおよそないと思うんですね。
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あれですら昔に比べると動画である意味というのが増えているんだけれども、
必ずしもワイドショーって動画である意味ってあんまりないですよね。
面白いことに。
いつも思うんですね、私はこのプロの集団があれだけの予算をかけて、
しかもエリスぐりの人を集めてやることが家族の会話のようなものであるならば、
人気があるのが、自分のような人間がものすごいふんだんな予算とかもかけていないのに、
緊張してNHKのニュースみたいなものを送るということの意味って、
はなはな少ないんじゃないか、なくはないと思うんですけどね、
はなはな少ないんじゃないかなって思うんですよね。
その方が喜ばれるっていうのは、本当にやっている人の思い込みなんではないかと思うので、
極力このポッドキャストのようにいきたいっていう、
何も考えずに喋っている。
だって家族と喋っているときってほとんど何も考えずに喋ってますからね。
これ昔対談本で、ゴリゴさんとの対談本で、
佐々木さん自分の時間がないんですわ、あれはどっちだったかな、
違うな、青い方の記録が続きませんだけ、
そういうようなやつだったと思うんですけどね。
中でクイーンさんがられたのは、準備をせずにはできないはずだっていう論だったんですけど、
僕は本当にあれには同意できないんですよ。
そう思っちゃうから僕もしちゃってたし、今でもしちゃうんだけれども、
嘘だと思うんですよね。準備せずに会話ってしますよね。
そして考えてないですよね、これから喋る中身についてなんて別に。
それで言い淀んで頭の中が真っ白になったことは多分一回もないはずなんですよね。
返す言葉がないとかはあるにせよ。
沈黙そのものが別に問題じゃないですもんね。
あれは価値がないからそうなったっていう論があるんだけれども、
おかしな話だと僕はこれは思うんですよ。
こういう言い方をすると怒られるかもしれませんが、
テレビの中でやっているワイドショーだって価値満載だからあれをみんなが見てるわけでは絶対ないと思うんですよね。
だから私は見ませんっていう人も多いかもしれないけれども、
最終的に多くの人に見られてるのは何かって考えると、
価値満載の情報をみんなで練りに練って届けて出していくっていうものとは違うと思うんですよ。
本当に重大な事件が起きるとそうなるんですよね。
東北の震災のようになるわけですよ。
どのチャンネルを見ても同じことをやるし、これ以外のことはもうできないっていう情勢になっちゃうんだけれども、
普通はそうじゃないわけですよね。
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だから一見ものすごく深刻な様子でも全チャンネルで違うことをやっているときは、
決して深刻なことはその場合に報道されてはいないと思うんですね。
昔、本当に昔ですね、私が小学校、いや違うな、中学年くらいの頃ですね、
田中核英という、今では知らない人もいるかもなので、
一応説明しておきますけど、昔々の総理大臣がロッキード事件で逮捕されたんですよね、確かね。
補借金積んで出てましたけれども、あの裁判がもう本当に全チャンネルで全く同じ画面で、
こうなるんだって思ったぐらいの現象で、僕はそれを見たときが、
生まれて初めて全チャンネルで全く同じ画面で、ほぼ全く同じ言葉で、
つまりチャンネルが8あっても1で全く構わないぐらい統一されたのが福岡県で、
僕が見たのはそれが最初でした。
しかも長い時間その状態なんですよ。
本当にずっとそれやってるんですよ。
あれを深刻な事件って言うんだなって思ったんですよね。
だからバラバラでやってるというときは、基本的にはそう深刻じゃないはずなんですよね。
どのチャンネルをつけても違うことやってますっていう話が飛んでおりますが、
要はそういうわけでですね、これの紙買いをいただくのは大変ありがたいし、
もしそうならそういうことなんだろうなって思うんだけど、
テーマ以外は何も決めないというのが、僕は一番やっぱり妥当なんじゃないんだろうかと思うんですね。
練りに練るっていうことに、多分意味は全くないんじゃないかとすら今は思うんですよ。
練りに練らないとできないようなものならばしょうがないとは思うんですけれども、
私一人で出すようなものでは、そういうふうなことではありえない。
もしそうであるならば、多分そのテーマをやるべきではないと思うんですよね。
絵があったほうがいいから絵を用意するとかは違うと思うんですけれども、
計画的に練ったほうが安心だというのは、
多分しゃべっている側の側が緊張することを少しでも緩和してくれるという以上の意味はないんだとおそらく思います。
これもテーマでもいけばいいかなと思っちゃったんですけれども、
違うことを考えていて、不登校ってありますよね。
引きこもりでもいいんだけど、この二つは違うんですけどね。
こういう問題が起こると、当事者の問題だって僕らは思うんですよ。
例えば不登校の子が出ると、これは子供に問題があるんだってつい思うんですよね。
この観点が非常に精神分析的ではないんですけれども、
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精神分析的という観点というのは、こういうふうなごく単純なものの見方を決して取らないんですが、
本人に問題が全くないという話ではないんですけどね。
また不登校というのは原因が様々なので、
ただ、私たまたまなんですが、不登校の子というのを同じ班の中で一人出たことがあったんですね。
その時つくづく、みんなやっぱりついつい知っているはずなのに、
必ずしもそうでないことを知っているはずなのに、子供の問題だって思っちゃうんだなというのをあの時に実感しました。
子供に問題があるから学校に行かれないと。
これもたまたまなんですけれども、例えば何でもいいんですけどね、原因などというのはね。
それこそ学校に問題があってもいいし、家庭に問題があってもいいんですけれども、
何かあるんですよ、やっぱり多くの場合。
特に低学年の子の場合とかだったら、
必ずしもその子が直接関係ない、直接関係あるんだけど、
その子の原因とは全く言えないような問題があるんですよ。
あれはですね、まずこの番組で時々お伝えする行為者観察者バイアスですね。
行為者は自分の行為の原因は必ず自分の外にあると。
多くは自分の外にあると思うんです。
でも観察者は行為者の行動は当然行為者に原因があると思っているんですよ。
あるいは動機があると。
だから不登校というのは当事者にしてみると、
まずこの自分に問題があるから学校に行けないとは感じてないはずなんですね。
何か理由があって自分の外に原因があって学校に行かれないんですよ。
例えば両親が不中だとか。
両親の不中というのも、じゃあ学校に行かないことによってそれが改善されるのかというと、
むしろ改善より事態は悪化するんですが、子供にそこまではわかんないんですよね。
自分がいないときに親が離婚しちゃったりするというのが恐ろしいので、
これは脳内シュミレーションなんですけど、
うかうか家を離れられない。
だからこの話というのは学校だけじゃなくて、学校が目についちゃうんだけど、
この子は両親から離れられないという現象として本当は見るといいと思うんです。
ところが両親から離れられない子を私たちが見ると、
まず何を思うか。この子は親から離れられない子なんだって考えちゃうんですよね。
一人で学校に行けないんだと、そこに問題があるんだと。
外視でそうじゃないんですよ。
これが観察者のバイアスですよね。
観察者は行為の当事者の要因は全て行為者にあると思うんですね。
その人の心の中の問題だと。
そうでないとは言い切れませんけれども、
この例え両親の胸が原因だとしてもね。
だけれどもやっぱりここには行為者観察者バイアスがあって、
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観察者は周りがどうであるかというのをほとんど無視する癖があります。
行為者は自分の心の中のことをほとんど無視する癖があるんですよ。
こういうすれ違いがあって、不登校というのは大体よく探っていくとというか、
探っていくと間もなく原因がですね、
割とその人の周辺に通常では見られないような問題というものが見つかっちゃうものですよね。
不登校はよくそういう話をするんですけど、
引きこもりもたぶん全く同じだなと最近数例見てですね、
数例、知っている例を考えてみて、
つくづくそう思うようになりました。
引きこもりって完全に行為者観察者バイアスにハマっていて、
見ている人は引きこもっている人だけの問題だと思い込むんですよね。
ものすごいそのバイアスが強いような気がします。
出られないとか内向、内向的なんてもう本当に、
昨日も言いましたけど、まさにそれって感じじゃないですか。
内向性などというものが脳内にあるのかって言ったら多分ないと僕は思うんですよね。
内向的っていうのはその人の原因だって言ってるだけで何も言ってないんですよ。
その人の行動を実は考えているだけで、本人ですらそういう間違いを犯しますよね。
自分には内向的な人間なんだと。
内向性っていうのがまるでこう、
何か備わってるプログラムか何かみたいな言い方をしてますけど、
結果ですよね。
外に行くと疲れるとか、中から出てこないとか、
ただその現象を捉えてその人を内向的って言ってるだけであって、
その人の真理については何もまだ言ってないんですよね。
これ、こう言ってまで、
その人の当事者に原因を起こそうとする、原因を機能するとかいう表現を聖文的には使ったりしますけれども、
要するにその人が理由なんだと、
要するにスピードを出している人を見るとスピードを出すことが好きなんだ、と。
なんだと 急いでるケースの方が多々あると思うんですけどそっちは大体無視されるわけです
それは相当ひどいバイアスだと思うんですよ だって自分急いでるときは大体急がさせられていると思ってるわけですからこれが
こういったバイアスですけども 自分が急ぐのが大好きだから走ってるわけじゃない人の方が多いと思うんですよね
そんなことは100も承知のくせにビューンていくクロームを見ると絶対スピード強だと思っちゃうんですよ
こういうふうに僕らのものを見る癖があるから引きこもりっていう人を見てしまうと 全芸人を引きこもっている人の性格
引きこもるのが好きか外に出るのが嫌いか嫌な思いをしたか このぐらいしか考えてくれないというか考えられなくなってしまう
けどカウンセリングをする人はさすがにそうではないので周りに絶対何かあると多少は思う わけですよね
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というか当たりをつけるわけです で引きこもっている人の話を聞くとですね
たまたま私が最近そういうの数名の方に立て続けに聞いたんですよ まあ多分これ年末年始だからなんですよねそういう機会に恵まれるのは
で皆さんおっしゃることは自分に原因はないんですよ 究極的には必ず周りが悪いんですね
多くはまあ家族が悪いんですけれども社会が悪かったり様々なんですが 要は出て行きたいという意識があってもうでも自分は出ていくという気を失ったと
失わせた原因は外に必ずあるんですよ うちには全然ないんですね
こういうバイアスが思いっきりこれは後遺症観察者バイアスだなと みんなは引きこもっている人に原因を見るし引きこもっている人はみんなに原因を見るし
でえっとおそらくどっちもイリュージョンなんですね イントロバートナルというのは完全にイリュージョンの産物だと僕は思うんですけれども
内向性とかはもう全然関係ないと思うんですね 現に引きこもって特に困っているとか
トラブってるみたいな人は自分が内向的だからなどとは まず開口一番それを言う人はいないですからね
全然いなくはないと思うんですよいっぱい話を聞いていけば ただこの内向的って何もさっきも言った通り何も言ってないので別に
ただそれはその人が引きこもっている状態について 当てはめているに過ぎないわけですから
内向的とはどういう心境なのかとかそういう話 外向的な人の心境と明らかにどっか違うのかとか
変動体のアクティベートの率が変わるのかとかそういう話は一切してませんからね ただ内に引きこもっている人は内向的で外で楽しくしてそうな人は外向的って
そういう現象に名称をつけているに過ぎませんから
この後遺者観察者バイアスが
私たちは多分何かを回避したいんですよ 何かっていうとそれも非常に単純なんですけれども
あれですよ インピンジメントつまり侵襲という事態についての説明をすごく回避したいんですね
侵襲というのはつまり
何て言うんですかねこの侵襲インピンジメント
風船は行けないですね あのやっぱり先日からお話している
あれですね
ドコンジョガエルの娘 あの娘さんはものすごくやっぱり大変な思いをしてきたんで
環境としての母親というものを ものすごくわかりやすい意向対象を使って作り出そうとするんですね
布団なんですよ 布団ですからね布団したらもうお母さんの象徴みたいなものじゃないですか
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布団の中に入るんですよ しかもお母さんの布団の中に
もはやこれは意向対象と呼ぶのすらどうかというぐらい あまりにもわからざまない意向対象ですよね
それも多分高校ぐらいになってからの感じなんですよ
高校生になってお母さんの布団に潜り込んで お母さんが守ってくれるという感覚を取り戻すんです
僕らこれ持ってるんですよ あんなことしなくてもね
持っているからやっていけるんですよ 持っていない人の振る舞いというのがどうなるかっていうのをあのまま
あのまますごいやっぱりそういう意味では精神分析っぽいなあっていうのはすごく感じるんですよ
お母さんの布団に潜り込む ああいうシーンを見せつけられると環境としての母親というのが何を意味しているのかが
ものすごくわかるような気がするんですね 普通3、4歳児でもそこまでわからざまではないですね
例えばうちの子なんかはそれこそ充填したい時みたいなときには
部屋の隅っこの方にある椅子とかに 椅子とかの横っちょ付近にいて
本読むとかそういう感じなんですよ あれは非常にわかりやすいけれども3、4歳だから3歳ぐらいかな
それでもお母さんの布団に潜り込むのに比べるとだいぶ違いますからね
母親らしさっていうのは多分お母さんと本を読んでいるっていう感覚をああやって再生するんですけれども
だから異向対称なんですよね絵本とか椅子とか だけれどもここになって
お母さんの布団を被る それによって心の平衡を保つっていうのは非常に
ものすごく露骨だなと ところがですね
それを見てお母さんがすっごく嬉しそうにというか若干いびつな感じで あの辺も表情として実にうまく描けているなぁと思うんですけどお母さんは
本当に甘えん坊さんなんだからって言うんですよ これを親衆というんです
これが親衆だと僕は思うんですよ こういうふうに言っては申し訳ないかもしれないけれど
環境としての母親というのはあからさまに人間として登場しちゃダメなんですよ ましてこの出方ってどこかアイロニックなものを秘めてますもんね
なんかこう少し少しですけれども 嫌な感じを与えてきてます
きてる感じがあったんですよねやっぱりそう受け止めたんだと思うんですよ 必要なのは環境としての母親であって
人物としての母親ではないんですよ だからイコール実母ではない実のお母さんとイコールではないっていうのは実のお母さんに
守られている感じというものが大事なのであって 実のお母さんそのものが自分の中にいるとか言うことは絶対ないじゃないですか
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そんなことはありえないわけですよね こうやって守られているからこの世の中で
少々無力でも少々ところじゃないけれども 橋も持てなくても立ち上がれなくてもやっていけるというそういう
情緒的な記憶なんですよね 布団被るってのは情緒的な記憶ですよね
布団被ったからといってこの世でやっていけるっていうことにはならないので ところがそこに人物としてのお母さんが出てきてなんかこうちょっと喋っていくと
これがもう親衆 普通の人にとって親衆というのはもっとあからさまに嫌なものですよ
いつまでそんなことやってたとか攻撃されるんですけど そういうあからさまでなくても登場するだけでも
親衆になってしまう つまり環境としてのその人を守るとか
単純ですかね 甘えさせるんですよね
っていうこと以外のことをやってしまったらもう全部親衆なんですよ 僕の感じでは
あのシーンで初めて僕はその初めてでもないけどでも ビジュアルとして親衆というのがしかもあからさまない親衆というのがどういうものかっていうのが
よくビビッドに伝わってきて非常にすごいなって思ったんですよ 意向対象もあるし親衆もある
全くウィニコットの説明している通りの現象が そんなものは自分の経験の中ではもっともっとわかりにくい形でしか体験したことがないので
あんなにわかりやすい絵として 第6巻に登場してきた人たちが本当にこういうふうなことって本当に起こるんだなっていうのを
経験なんていうんですかね 読んで
読んで理解したみたいな感じがします まあ僕のウィニコットの理解とか大いに間違ってる可能性も
てか大いに間違ってる部分があると思うんですけども でもこういうことだろうなっていうのはあの漫画を読んだ時には実感しました
やっぱり僕の経験の中ではねあそこまでわかりやすいのは 僕は母親の布団引っかぶるとかは嫌ですし
母親の親衆というのももっと遥かにわかりやすいわけですよ もっといい成績取ってこいとかあからさまなんでね
もちろんそれはそれで当時としては嫌なんだけど あのように
ただ人物として登場することが親衆になってしまうというようなものでは ものとしてはちょっとわかってないんですよね私の経験にはないんですよ
本当にそうだとは思うんですゼロ歳児とかにとってみれば 母親が生きた母親であり人間でありその人の事情があるなんてことがわかっちゃったら
それはトラウマだと思うんですよ絶対に なんですかえっとそんなことはゼロ歳児はやっぱりわかんないですか
でえっと なぜ引きこもりとか
不登校といった問題がこの後遺者観察者バイアスを引き起こすのか これですごく明らかだと思うんです
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結局 後遺者にとってみればやっぱりどこまでといってもですね
特にそういう状況にあればナルシシズムであるっていうことがもう必須だと思う まあ僕らみんなナルシシズムなんだけど特にそういう状態必要とする
結局かぶってもかぶらなくても物理的な意味としては同じじゃないですか えっとかぶってもかぶらなくても受験が楽になるとか頃のにかからなくなるとかそんな
ことはないですよねでもこの違いは重大で 自分がえっと
環境としての母親とともにあるという感じはすごく大事で えっとただこの環境としての母親があるっていう
まさにこう自分の内面の話で以外はないわけですよね 本当はそういう不安とかいう物理的なものを使っても大した意味は本当はないわけですよね
だから私たちやんないわけですよねそこまでは でもそういう心理状態にあってしかも
守られてない感じがするからこそそういう意向対象に頼るわけですけど その守られてない感じがするっていうのはまさにその人の後遺症バイアスじゃないですか
原因はすべて外にあるわけですよ この原因はすべて自分の内階のことでしかないのに原因は全部外にある
なんなら母親が親習的であると これ母親っていうのはすでに自分の外の存在なので原因は外にあるから出ていけなくなっている
という感じを抱くっていうことが
後遺症バイアスなんですよね結局のところ そしてこれを外から見ちゃうと絶対原因はその人にしかないように見えるわけです
布団被ってないといられない大人などというのを見たらこの人には問題があると思ってしまいますよね
そうなんだけれども思ってしまうんですよねこれが観察者バイアスです つまりお互い見えないんですよそんなものだって環境としての母親なんて見えないじゃないですか
そんなものはいないんですから それは心の中にしかないものなので
環境としての母親というものにどれほど頼っているかということをある意味
後遺症観察者バイアスというのがよく教えてくれてるなと思うんですね 結局後遺症側から見ると全原因が外にあるというのはナルシズムなんだけど
ナルシズムを外から見ると当事者だけに原因があるように見えちゃうんですよね 環境などというものはないわけですから目に見える形では
だからそういうふうに見てしまってすれ違うと お互いが違うものを見ているものだから一番必要なのは環境としての母親
後遺症にとってのですね なんですけどそれが十分にその人の心の中で機能しないようになっている
だけれどもその原因は本人にはないわけですよ だってしょうがないじゃないですか生まれてきて環境としての母親
それはお母さんという意味ではないんですよ環境としての母親がちゃんとしていて初めて 普通に心が機能するようにな動物である私たちがそういう機能が不全なまま
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大きくなってしまったら それ本人の責任ではないですよね
どう考えたって何らかの意味で何らかの意味で社会か何かの責任って言えばそういうことになるんだと思うんです
なんだっけなぁ 松本太陽さん
ピンポン ではないと思うんですけどとにかくピンポンみたいな漫画を書いた方がですね
IQというめちゃくちゃ頭の良い少年が出てくるんですけど その漫画の中では常に段ボール被っている箱なんですよね
常に被っているんですよそれでみんなにキーな目で見られている あれですよねあれもまた一つの環境としての母親の不全を
移行対象で読み補っている移行対象はこの場合はなぜか被っている段ボールなわけですね これがキーに見えるんですよ私たちの目にはね
外から見てしまえば観察者バイアスとして なぜ彼が被っているのかという彼の責任では絶対ないと思うんですね
彼はIQと呼ばれるぐらいで天才的に頭がいいわけですよ まあ非常に何か感じさせられますけれども本人としてはですね
8箱は自分でが好きで被っているはずは絶対ないですでも絶対取ったら人前には食べて られないんでしょう
こういう感じのことを僕らはもっともっとこう あんなにあからさまじゃない形で8お互いにやっているはずなんですよ
箱にそうとするのが僕らみんなだいたい持っているよっぽど自立ができていて 心がもう十全に機能している人でない限り箱に相当に近いものっていうのはみんな
持っているあれがですねえっと青い炎っていう サンデーかなヤングサンデーか伝採しているまああのマン
えっと下野和彦さんかなが漫画家になるまでの 青春物語みたいな書いてるんですけどやっぱりこう
大学に来るときは基本的に仮面ライダーのお目をかぶってしか来ない学生さんがいるつ あれだったらまだみんな受け入れやすいじゃないですか
特に8芸大だし 箱よりもは受け入れやすいんですよねえっとでもそういうことってあるじゃないですか
サングラスとかねあると思うんですよファッションでやってるんでしょうけれども 8移行対象として使っているというようなケースって多々あると思うんです
こういうのも全部私たちはその人が好きでやってると思い込んでるんですけれども 違うんだと思うんですよね
そうせざるを得ない事情がその人の中にあってその事情っていうのはなかなか本人の ある意味深いところというか
幼かった頃まあある意味その行為そのものは幼い行為なんだけれども そういうようなのがあるんだと思うんですよ
ここに多分その人が引きこもっている原因というのか その原因ではないんですけどきっかけみたいなものがあってすごくそこに重要なポイント
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多分隠れているというよりは割とはっきりと存在するのではないかなと 最近話を聞いていて何人かの方にですね話を聞いて思ったんですね
8だから箱とかそういう なんていうんですかね布団とかねそういうもの
ものに あれはもう
本当に露骨ですけれどもあれほど露骨じゃないものが 自分にとってどういうものであるかっていう
最近私はいろいろと考えてみて なるほどなるほどこういうところに
自分の弱いところがあるんだろうなっていうのを感じるんですよそして なるほどこういうものが
8 なんですかね
ジャッキしてくれるっていうの 起動エンジンみたいなものになって環境としての母親っていうのを起動させて自分やってき
てるんだなっていうのを 実感するというかまあそうなんですよ実感するんですよ
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