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2022-09-02 43:18

【664GMV】AVで寂しさが埋められそうだと感じていた理由

私の内的対象としての母親
00:05
おはようございます、グッドモーニングボイスです。
もはや、ほぼ開き直って下で撮っております。
第664回目、9月の2日の8時8分だと思います。
撮って出しですね、これはもう。
今日はですね、多分、比較的、比較的ですよ。
これはあくまでも全部比較的ですからね。
6日チャレンジでお聞きの皆さんにとっての興味が色濃くない方、
つまりタスクシュートじゃない方の話になると思うんで。
これは聞きにくいという方はですね、今の話を信じるならばですね、
いくらか聞き取りにくくても大丈夫。
何なら後日聞いていただいても全然損はしない。
損はしないというのが多分大事なキーワードだったと思いますので、
損はしないと思います。
精神分析よりの話だってことですよ、シンプルに言ってしまえば。
になる予定です。
なぜこの話をしたいと思ったのかというと、
また急に僕の中でネタが大量に活性しているんですけど、
何一つメモに取らないで、来週はほとんど話さないまま消滅すると思うんです。
それもったいなくないって言われるかもしれないですけど、
全然もったいなくなるんですね。
どうせこれを話す必要がある時には必ず話すことになるんで、
そうやって自己啓発っぽさを感じる、再現性ないよねみたいな話になるかもしれないですけど、
そんなことはないと思うんですよ、最近。
これは倉園さんが信頼するっていう話にも近いんだけど、
僕はそこまで言わなくてもですね、この話はですね、
そこまでいい話に持っていく必要が全然なくてですね、
あるのかもしれないんだけど、
僕の中ではあまり認められるほどのレベルじゃなくて、
どうせ僕の考えつくことにそんなに目当たらしさはないんですよね。
同じような話ばっかりしてるじゃないですか。
つまりネタなんてそんなもんなんですよ。
これもどう捉えるかなんだけど、
メモすることは私もあるんだけど、
どうせメモしてもしなくても僕の頭で考えつくようなことはですね、
このぐらいあるんですよ。
北山さんの本を読むと北山さんの話をしたくなる、
お好みさんの本を読めばお好みさんの話をしたくなる、
土居さんの本を読めば土居さんの話がしたくなるし、
ドーラを読めばフロイトの話をしたくなるんですよ。
藤山先生の本を読むとしっかり、
遠畑先生のお話もしっかり、
河合駿の本もしっかりですよ。
で、倉澤さんのブログとか本とか読みながら、
今日のグッドバイブスを読むとですね、
グッドバイブスワクトリーというコミュニティで、
毎日のように書かれているお話を毎朝ありがたく拝読しているわけですよ。
これを読み、話したくなることもあるんですよ。
03:01
これをメモしてもしなくても、
たぶん結果は同じなんですよね。
大宮殿の本を読めば大宮殿の話をしたくなるんですよ。
で、しかも僕の読むものはそういうものばっかりなんですよ。
本、机の横にサイドテーブルが置いてあって、
そこをきれいにしてはだんだん積読が上がっているという、
誰でも知っているような光景が私の書斎にもあって、
そこに積み上がっていく本というのが決まって今しゃべったような、
土居さんと小谷さんと北山さんとドーラの本とフロイトの本と、
フロイトの本はちょっと重いんで、
あんまり積み重ねていくと倒れるんで、
倒れると結構惨事になるので、
あとは、時々平気で嘘をつく人たちとか、
同じ本がぐるぐる回っているだけなんですよ。
だからここでメモをいくら取っても、
違うものが出てくるわけがないんですね。
世の中ではよく言われるように、
親たらしい発想を持つために、
違う本を読みましょうと言うんじゃないですか。
だから私も最新の農家族の本とかを読むんだけど、
正直、響かないんですよ、今の私には。
だからちょこっと読んでも、
もう何か無理だみたいになって、
2ページくらいで畳んで、
それは書棚にしまっちゃうんですよ。
無いしは、うちの娘というのが好きだから、
1階に持って行っちゃうんですね。
その人は仕事中読まないじゃないですか。
だから出てこないんですよね、そっちの方からは。
つまりそういうことは無理だってことです、私にはね。
というわけで、メモを取っても取らなくても、
どうせ同じだなということなんですよ。
この辺、間隔になってこれたのは、
40代前半くらいなんですよね。
その辺までは、一生懸命読書メモなど、
読書ノートなど、本のノートなど、
ネバーノートにせっせっせっと入れてた時代もありました。
あれはあれで、面白いし、便利なメモあるんだけど、
やるほど、僕に何かフィードバックは戻ってこないな、
ということが分かったので、
よく本を地肉にするとか言うじゃないですか。
無理なんですよね、私には。
何度も読むしかないなという。
書いといて、大事なところを書いとけばって、
2度も3度も読む、無駄を省くっていうのがある。
でもね、それはできないんですよ。
1回目に大事だと思ったことを、
頭に入れた上で読んだ2回目の大事なところは、
違う場所なんですよね、必ず。
全然理解度が変わるんで、
まして精神分析というものがそういうものなんで、
無理なんですよ、そういうことは。
土台、論理的に、原理的にありえないんです。
1回目に大事だと、2回目以降大事だと思える場所が、
最初から読んで大事だと、絶対思えないんですよ。
それはもう、構造上そうなってるんで、
諦めるしかない。
何度も読むっていうのではないんですよ。
これが精神分析の神様みたいな人なら、違うんでしょう。
だいたいそういう人が、そういうフロイトみたいな人が、
06:02
果たしてあれを読むからって話もなくはないしね。
私はそうじゃないから、どう考えたか。
そういう話は、最初から考慮の外ですね。
そうすると、メモリーって実はとっても薄いんですよね。
メモりないわけじゃないですよ、だからといって。
でも、すごい少ないということは言えると思う。
そんな話はいいとして、本題に入ると、
この話はですね、もう一つあった。
もう一つ、相変わらず言い訳見えてるんだけど、
昨日、橋裕三さんとお話しして、
ここから着想を得てるんですよ。
エフタさんという方の、書いている方針みたいなものを紹介されて、
その中でですね、言語化。
今の私には言語化できないものを無理やり言語化するのが、
インターネットのいいところなんじゃないか、みたいなのがあってですね。
これは面白い話だなと思って。
つまり、私が毎朝ポッドキャストやってるのは、まさにこれだと思うんです。
つまり、私には何の資格も持ち入れたという部分なんですけど、
一つわかったんですよ。
アラームが、アラームセットしてあるんですよ。
これが入ると、このアンカーが落ちるということが判明しました。
困るんですけどね。
非常にこの時間帯はいろんなアラームが必要な時間帯なんですよ。
だから収録がどうしても途切れるというわけですよね。
違う時間に収録しろと言われると、まさにその通りなんですけど、
何か難しいこともたくさんありまして、そうでないんだったら、
そもそもこの貧弱なマイク環境を使ってないんですよ。
まあ、いろいろなことが起きますね。
でも、めげずにこのまま進行しますけれども。
エフタさんという方のインターネットでは、まだ言語化できない。
それについて喋るのに十分熟していない段階で喋るのがいいところなんじゃないかと。
それをやっているのが、このGood Morning Voiceなんですね。
つまり、私はこの精神分析などについて語る資格はもちろん全くないし、
この話が正しいと言う故障もどこにもないんですからね。
そう思って聞いてください。
何かの講義とはこれは違うんですよ。
で、受けたこともないから、語ることは良くないことだと、
どの本にも精神分析系のカウンセリング系の本が書いてありますね。
そのタブーを無理やり破っているのがこれなんですよ。
非常に大事なポイントなんで、単に注意事項として喋っているだけじゃないんですよ、私はこれも。
これは、そういうふうに喋る人間は必ず現れるからねっていう意味なんですよ。
だって、絶対そうなるはずですよ。
09:00
あれほどこと細かく設定の話から、治療状況の話から、しかも、
そこら辺でやっているのは、見たことも聞いたこともないような治療について、
そんなことがコマゴマと書かれていて、
しかもこれのインスティチュートという訓練分析を受けたりすると、
多大な時間とおそらく費用がかかるし、大学院卒業相当なんですよ。
ほとんどの人にはそこまで、これほどハーブルが高くしてはいない。
しかも精神分析系のカウンセリング系の本は、
窓口がそこら辺には見当たらない上に、お金もすごいかかるし、
時間もすごいかかるし、その効果もはっきりです。
要するに、アセスメントがはっきりしていないみたいですね。
事前説明が今望まれているほど十分な形では、
おそらく受けられないような原理的なしきたりみたいにしていない。
この種のものが、しかしそんなに素晴らしいものかのように本に書いてあって、
しかも一般書にも出てくる。
だからそれをやっちゃったり、しゃべっちゃったりする人間、
あるいは知りもしないように書いちゃったりする人間が出てくるのは
当たり前じゃないですか。
という話を僕はここでしているわけですよ。
だからこれを止めることは決してできないかもしれない。
ガンガンクレームを入れるとか、ポッドキャストでそういう風になるとか、
聞かなきゃならないですからね。
めちゃくちゃ炎上させるとかはできるかもしれないけど、
僕がこれをしゃべるときは究極的に押しとどめる方法がないと僕は思います。
どんなに何を言われようと私は平気で、
8時になったらしゃべりますから、
そういうものだと思って聞いてほしいというのがあるわけですよ。
僕は全然そんなのわかりません。
気にならなくなっても、気にはなることがあっても、
それによってやめなきゃならないと思うほどの理由を
僕の中で根拠に、何が起ころうとか、
僕がしゃべれるという状態を止めない限りを続くものだという風に
僕の中ではなんとなくこう決まっているんです。
最初はそういうつもりで始めたわけではないですけど、
やっぱり僕がしゃべるという状態を止めない限りは
僕の中ではなんとなくこう決まっているんです。
最初はそういうつもりで始めたわけではないですけど、
でもこういう気持ちってずっと僕はあったと思っていたんですよ。
でもこれによって収益は消えていないし、
これによってビジネスをやっているとも言い切れないし、
これによって何かを支えていないんですよ。
だからこれがどういう結果を招いても減っちゃらないんですね。
何にも問題ないんですよ、僕の中で。
心が傷つくというだけなんですよ。
クラズノケイドウさんによれば心は傷つかないので、
なぜなら物じゃないから、形がないですから。
脳が傷つくと言うじゃないですか。
僕は真言、自言をはっきり言って信じていないので、
脳が心というものと深く関係があるのは、
僕はクラズノさんよりは信じている気がします。
それは分からないですよね、彼に聞いて。
本当の意味で聞いたことはないので。
12:00
少なくとも知覚を司っているのは脳だし、
感情を司っているのは脳なので、
脳というものが意思を司っているのも、
少なくとも意思と科学的に相関関係を持っているのは脳なので、
心と無関係だとは思わないんですよ。
たぶん脳がなくなれば、
私が今思っているような自分はなくなるだろうと思います。
が、同じだと思わないですよ。
だから心が傷つくから脳が傷つくってのはすっげえおかしいと思うんですよ。
もしそんなことを言うのであればですね、
例えばゾウさんを見た場合、
ゾウさんと同じ形のものが脳の中に照射されるかどうか、
そんなことは起こらないんですよ。
そういうものじゃないんですよ、というわけじゃないですか。
作ったってことは、知覚はものじゃないっていうのは、
そして心が傷つくから脳も傷つくっていうのはおかしいんですよ。
もちろんそういうことがですね、
軽ストレスを受けた時に脳に何かの変調を来させるって言うなら、
それは納得できます。
いろんな意味で納得できます。
納得できますけれども、脳と心と1対1に対応したり相関関係を、
これがこうなったらこういうふうに脳はなるんです。
あるいは脳をこういうふうにしたら、
こういう心の動きが働くんですって言うのは、
言おう言おうと頑張っている人もいらっしゃいますけど、
そうはいかないだろうなって私は思いますね。
それで、だからエフタさんのそれを読んで思ったんですけど、
そうだ、私それやってるんだっていうふうに思いました。
つまりこれは言語化しにくい、あるいは言語化しきれない。
今の話でそうだったんですが、
ウニャウニャウニャウニャいろんなことを喋ってるけど、
大したこと喋ってないじゃないですか。
これをやるのにある程度まではですね、
何かをこれから喋るということを決めておいて喋るということをしないんです。
今日はちょっと決めてあげますよ。
今のようなことを思い出せたらいいと思ってました。
メモはないですけどね。
今の言えなくたっていいじゃないですか、別に。
どうせやってることに違いはないんで、
言語化できないことを言語化してますってわざわざ言うことはないんですよ。
聞けばわかりますよね。
ある程度物がわかる人がこれを聞けば、
こいつは十分寝られてない話喋ってんだってな、
絶対わかるはずなんですよ。
だからわざわざ今の喋んなくてもいいと思うし、
喋ってもいいと思うんですよ。
で、何の話をそれでしたいかというと、
最初に精神分析の話。
環境としての母親と、
これね、前にも質問されて、今回もちょっと質問されて、
やっぱりこう、
ちゃんと一応それなりに、
なんていうんですかね、
一応僕なりには喋っておかないとダメなのかと。
15:02
あれ、実は僕の中のことを喋っちゃってるから、
一般的に言われると上に来るとか、
少し当然ズレ感があります。
このズレはたぶん永遠に修正できないです。
私、彼の書いてることが完全にわかるようになる気がしないような、
こういうものなんですよ。
私はこういうものだという意味では、
地元に出ている解説本だって、
50歩一歩とは言いませんけど、
文化学解説から、
私よりマシだとしても、
上に来ると言ってることが完全にわかって、
完全にトレースできてるというケースは少ないし、
読者が、
そうじゃないものに当たる可能性、
十分あると思いますね。
この曖昧さって、
すごい大事だと僕は思いますね。
私にとっての、
二つあるんですね。
母親っていうのが、
この場合出てくるのが、
二つには、
なんて言えばいいんですかね。
とにかく、
文教としての母親というもの、
同時にウィニコットの、
対象、
内的対象としての母親というのが、
あって、
あくまでもどちらかと言えば、
どちらかと言えば、
環境としての母親が良いんですよ。
良いっていうのは、
本来そうであり、
あって欲しいようなものなんですよ。
内的対象としての母親というのは、
あんまりよろしくないんですよ。
学的良いのかっていうと、
そろそろないってこともあるのかとか、
そういう話になってくると、
本当に読んでも読んでも、
よくわかんないんだけど、
僕みたいになるのはあんまり良くないんですよ。
自分の存在感が強すぎるっていうのは、
あんまり良くないんですよ。
私は強すぎるので、
自分の中では、
強いものとして語っているんですよね。
この辺が過去の語りと、
の整合性が、
ちゃんと取れていない部分なんです。
話が非常にややこしくて、
わけわかんないと思われるのは、
本当に申し訳ないんですけど、
私の理解の程度が、
今このレベルなので、
今後多くで読みますけど、
もう5回ぐらいは。
だからすごい、
ここから真似を紹介した、
おそらく私の場合内的、
私癖的になるっていう言い方を、
アルコールに私癖する、
あるいは性的私癖の私癖、
こっちの方が多分近い。
依存的なんですよ。
で、ミニコットが万能な、
内的対象としての母親に、
私癖するみたいな、
そういう、
これミニコットが書いているのか、
その解説書が書いているのか微妙なんですけど、
18:00
この書の表現を取った時は、
そういうふうに大々感じて、
いいんじゃないかなと思います。
で、私はそういうことがあるんですね。
なぜそうなったのかまでは、
ちょっと分からないんですよね。
それこそゼロ歳児とかまで
遡らないのは分からない。
なぜそうなったのかまでは、
分からないんだけど、
私の中にそういうものは、
明らかにあって、
これが私のですね、
いわゆる英国内、
いわゆる英国対象関係論者の中における、
スキー相当みたいな言い方に、
こういう言い方を、
藤山先生という方が多くしている、
北山さんという方もしているんだけど、
北山さんの方にも出てくるような表現なんですよね。
そうなのかと思うんですよ。
私はそれにすごく近いところがあって、
ここを何とかしていきたいなって、
いつもある意味思っているんですね。
こうでありたくはないっていうことなんですよ。
で、
だけど、こうでありたくないって、
どうであるってことかってことなんだよね。
どうであるってことなのよりは、
不可視の、
やっぱり不可視なのですよ。
不可視ってインビジブルって意味です。
見えません。
見えない母親なんですね。
見えない母親ってどういうことかというと、
そもそも赤ちゃんって、
私はこれはアメリカの留学中に習ったんですけど、
生後、直後には、
数日はね、
もちろん個人差ありますよ。
でも少なくとも生まれてすぐには見えないからさ、
お子さんを持った方にはみんなわかると思います。
距離感とか間違ってます。
明らかに。
でもしょうがないんですよ。
自分で動くこともできない存在だから、
目が見えたところであんまり見えないじゃないですか。
でも、もともと見えてない人は、
その、もやーって、
焦点が合っていないレンズを通していると思うんですよ。
お母さんがあってちゃんとは見えてないんですよ。
僕らよくこの辺勘違いするじゃないですか。
ここにお母さんがいる像みたいなのが、
赤ちゃんがわかっているみたいなのが、
そうではない。
少なくとも、生後すぐは。
これは何を意味するかというと、
おっぱいがもらえます。
お世話してもらえます。
抱っこもしてもらえます。
言ってみれば寝かしつけみたいなことだって、
寝かしつけっていうのはまだ早いですけど、
してないわけじゃなくて、
いろんなことをしますよね。
窓を閉めたので、
2回目の中断が起こっているんですけれども、
もうね、
だんだん気にしているから、
こういうことが起きているのは、
もう100も承知なんで、
周りの音とかを気にしているんだけど、
そうすると窓を閉めるしかないじゃないですか。
まだ暑いんですよね。
それも、これも倉園さんの、
宮沢英吉っていう人からの話がされてたんですけど、
21:04
僕、その人のこと知らないんですよね。
で、
どっかテレビのCMで見たことがあるんですけど、
多分顔を言われてもよくわからないんですよ。
僕は多分これね、
言っていてものすごい奇妙なことを言っている、
というような自覚はあるんだけど、
知らないんですよ、本当に。
この話は脱線でね。
倉園さんがビートルズの話をされていたんですけど、
ビートルズはさすがに知っているんですけど、
その中の人の名前は一人も知らないんですよね。
だから、お二人の名前、
誰かと誰か、何だったっけ、
わかんない。
ジョン・レノンでしたっけ。
ちょっとあやふやなんですけれども、
聞いたこともないですしね、結構。
どっかでもちろんカバーっているのも聞いたことあると思うんですよ。
映像の20世紀みたいなのが出てきますよね。
だからもうそういう人たちがいたんだっていうことしか知らないんですよ。
で、何だっけ、
まあ何でもいいんですけれども、
つまりですね、
漢字の漢字の漢字の漢字の漢字の漢字、
何でもいいんですけれども、
つまりですね、
環境としての赤親の話、不可思議なんですよ。
これすごい大事なんです、とにかく。
赤ちゃんから見えてない、
お世話をされる、でも見えてはいない。
つまり、これってどういうことかというと、
ある意味、時々この僕、
鉄格さんの漫画でね、
赤ちゃんがカプセルの中で世話されている、
あれですよ、主観的にはあの状態に近いと思うんです。
この世は私のためにあるっていう状態が、
ここが僕らの出発点なんですよ、ベースにあると思うんです。
この世は自分のためにあるんだと。
で、人がいるっていう認識がないとすれば、
ここに人がいて私の世話をしてくれって絶対思ってないと思うんですね。
とにかくこの世というものは私のための環境なんだと。
これは赤ちゃんの万能感なんですよ。
ナルシシズムの原点っていうのはこういうものだと僕は思うんですね。
で、ここで意味付けがどんどんされているわけです。
倉澤さんがグッドバイブスで、
必要がなかったり、不都合すぎたら手放しましょうと言っている意味付けですね。
意味付けを手放すという意味付けはここで始まります。
これはあなたは何とか、私はお母さんとか、
環境の一つ一つを言ってみれば分節して区切ってですね、
区切れてないと思うんですけど、
区切ってこれはおっぱいとか、
あなたは今眠いとか、いちいち意味を付けて。
これ、もうお母さんが意味を付けてくれているという認識は当然ないわけですから赤ちゃんには。
これを不可視の強調者とかって言うんですよ。
これね、全然意味わかんなかったんですけどね最初ね。
なるほど見えてない、不可視、インビジブル、強調というか強調で本。
つまり世界を描いていっちゃうわけですよ。
24:00
世界を描いていくわけですよ。
そのお母さんなりの描き方をして。
そうですよ、私たちそういう癖が必ずある。
だからフラゾノさんが時々グッドワイブスに言う通り、
僕たちはみんな物の見方が違うんですよ。
これは世界に対する技術の仕方が、
技術の仕方っていう言い方は硬いですけどね、
技術の仕方が一人一人のお母さんが違ってた。
これ、ここでジェンダーが持ち出されちゃうんですよね。
いやそれお母さんなりだなと思って。
でもお母さんであることが多かったですよ。
お父さんだっていいんだろうけど、
初日から始まっちゃうんでね。
もうお腹から出てきた途端に始まってしまうことなんで、
お腹はさすがにお父さんになった時にいかないじゃないですか。
いくらジェンダー平等を頑張ってみてもね、
将来はわかんないですけど、
でも今の段階ではちょっと無理だと思うんですよね。
お父さんから出てきましたって難しいと思うんですよ。
だから出てきた途端始まるこの不可視の強調っていうのはですね、
お母さんである可能性が非常に大いですよね。
むしろ皇族とかの場合、
直ちにウバの手にみたいな、
あれどうしてそうなるんだろうって思うんだけど、
そうするとウバというケースもあると思うんですけど、
私には当てはまらんですね。
そういう風に不可視の強調者がいると。
ここであのカウチが出てくるんですよ。
精神分析の。
あのカウチって寝てるじゃないですか。
寝てるんですよ。
カウチに寝っころがるとソファに寝るんですよ。
で、そこから見えないところに精神分析が座ってるんですよ。
不可視の強調者なんですよ。
そして寝っころがってるってことは、
つまり赤ちゃんじゃないですか。
身動きできないところからスタートするんですよね。
この設定をなんでフロイトがわざわざあんなにこうですね、
頑張って作り上げたのか。
いろんな意味があるんだろうけれども、
ここのところに研究していない精神分析の専門著ってないんですよ。
で、私これ不思議だったんですよ。
この精神分析の設定ではカウチに寝そべって、
見えないところに精神分析が座ってて、
いちいち細かく書いて、
大体図がついてたりするんですよ。
ここソファ、ここ座る場所みたいな。
なんで読者はやっちゃいけないとか、
知ろうとはできないということを、
あんなにいちいち断り書きを入れているくせに、
こんなに設定についてまで徹底的に、
しかも読者としては、少なくとも私が最初に読んだときでは、
読み飛ばしましたからね。
退屈じゃないですか。
この設定について何を知らなきゃいけないのか。
私がこれから訓練受けるとか言うならば、
でも訓練生にはどうせ直接説明されるから、
本に書く必要全然ないと思ったんですよね。
思うじゃないですか。
何のためにこんなことを書いているんだろうと。
これは不可視の強調者だよということを説明しているわけですよね。
すごい大事なんですよ。
環境としての母親なんですね。
27:01
精神分析家は。
私たちは母親といったときに、
イメージ湧いちゃうじゃないですか。
こっちは環境としての母親ではないんですよ。
これも環境としての母親の一部なのかな。
そこの辺のところをちゃんと喋れないんですよね。
読んでも完全に分離できるようなものなのか、
そうでないのか、
完全に分離できたらおかしいと思うんですよね。
とにかく最初はこうやって環境としての母親は
インディジョンで不可視なものかもしれませんが、
私たちは不可視、
つまり姿として、
対象としての母親を捉え始めます。
しばらく。
これが内的対象としての母親といって、
環境としての母親と内的対象としての母親と
両方いるんですね。
私の心の中に。
私の心の中に間違いがあります。
他の人の心の中を私には分からないです。
ミニゴッドが記述していることとし、
あとは信じるしかないです。
彼、小児科医ですし。
とにかく環境としての母親は
世界の不可視の象徴者であると。
世界とはこういうふうに見るんだよということを
私と一緒に書いている。
私と一緒に書いているんですよ。
こうやって書き方を習って、
私が書き始めるんですね。
だから世界が見えたり、
その世界に意味がつけられるということは
既に自立が始まっているということです。
お母さんと一緒って番組がありますが、
お母さんと一緒じゃなくたって、
僕らは世界を記述できるじゃないですか。
そのうちお母さんは亡くなってしまったり、
一緒に住まなくなったりとか、
自分で書けないと困りますよね。
これは窓だと。
取っ手が付いているから取っ手を使えば開けられるとか、
こういうものを全部不可視の象徴者が
一緒に書いてくれるというわけですね。
ここで例の自変的問題って出てくるんですよ。
書けなくなるということが起こると、
どういうことが起きちゃうのかと。
不可視の象徴者というものが一緒にいてくれないと、
著述、つまり世界について書けなくなったら
何が起きるのか。
世界が見えなくはならないんですよ。
見えますが、机は机だし、
つまりそういう物質は入ってきますが、
意味がつかない。
そうすると、例えば何も載っていないテーブルと
1個のバナナのリンゴはやめよう、
皿が3枚置いてあるリンゴは全然違うものだ、
という話が始まってきたりするわけですよ。
記述の仕方というものを知らないと、
こういうことが起きるわけですよ。
あそこにある道路上の上の光っている赤と青と黄色は見える。
だけどそこに何の意味も認められないということになると、
平気で赤でも渡り出したりするでしょうね。
こういうことが起きるはずですよね。
拒否してないから、書いてないから。
一緒にお母さんがいるときは書けるという人は、
一緒にいるときはいいんですよ。
でも一緒にいるお母さんがいなくなってしまうと、
つまり不可視の強調者による環境としての母親は、
自分の中にインストールされる必要があるわけですよね。
真っ先に、かなり早い段階で。
30:00
普通はされていったわけです。
だからむしろ我々は、
そのお母さんの指示に従わないということを必要としたときに、
グッドバイブスみたいな考え方がいるわけですよ。
意味付けを手放しましょうと。
あんまり不都合があるならば、
これできないわけですよ、なかなか。
もう知らないうちに不可視の強調なものなんか、
一切意識もせずに、
バンバン拒否する、意味付けするようになっちゃう。
我々は。
だから意識的にそれをとどめるということをしない限り、
自動的にそれが起こっちゃうんですよ。
で、あれですよ。
この環境としては、
親が意味付けをしてくれたり、
ニーズを満たしてあげたり、
今日はそういうふうに話をすっと出していっちゃいますが、
とにかく環境として、
環境としてですよ、
赤ちゃんケアマシーンに対して、
自分のものをエアコンつけて、
切ってもらって、
ありとあらゆることをやってくれるこの見えない、
見えない存在の事情がいろいろあったりして、
この環境供給っていうんですけどね、
環境供給の途絶っていうんですよ。
すると赤ちゃんがパニックに陥ると。
そうですよね。
静媒維持装置みたいなものがオフになるわけですよ。
オフみたいになって、
空気もこないみたいになったら、
パニックになるじゃないですか。
これがトラウマですよ。
そして、
この状態を探して、
この状態を再現してるんですね、
カウンセリングというのは。
つまり、環境供給としての母親、精神分析家が、
いやいや、もう今日は1時間で終わりだから、
オフみたいにするわけですよ。
途絶される。
そこで患者さんはパニックになると。
こういう状態が必要だというようなことを
ウィニコット2匹とは言うわ。
これが何度も何度も経験されるうちに、
環境供給としての母親というものは、
自分の中にいなきゃいけないし、
そのときに環境供給してくれている子の存在を
憎いと思ったりするということを
学んでいかなくなったりするんですよ。
お母さんの勝手な都合でオフみたいになって、
困るじゃないですか。
そのうちに、しかしこれ、
このお母さん的な人が
供給してくれていたやつなの?みたいに
思うわけですよ、
思うということになっています。
そうすると、その対象を
はっきり認識するようになっていきますよね。
このオフをオンにしている人は誰なの?みたいに。
ていうか、その頃に
人っていう概念があればですけどね。
こういうことが早く起きすぎるとですね、
早く起きすぎたと僕は思うんですね、自分に。
内的対象の母親というものが
存在感を増してくるわけです。
環境供給としての母親というものが
十分にはしていない段階で
33:03
一人で一個の人間としての
お母さんというものを
強く意識してしまって
こっちが私の、そうすると
おばあちゃんはバカじゃないから
こう考えるわけですよ。
このお母さん顔色をご機嫌とんだけ
これになってきたら
かなり何かまずいことが
ほら、好きぞいのなんだ
ていうのが見ることができるので
これに私は当てはまるなって思うんです。
自分はね。
この環境供給としての
母親が途絶するというのは
そこに放置されてしまうということ。
こんな恐怖を思えないくらい
環境供給としての母親というのが
がっちり身につくということは
偽りの万能感に包まれて生きるから
危険なんじゃないの?
って思われるかもしれないけど
おばあちゃんにはこれが必要なんですよ。
これが本当に捉えたら
本当に死ぬんだったら
どっちにしてもこれを
信頼しておくべきなんですね。
黒森さんが先日ホットキャストで
おばあちゃんが
途絶はしないんだと
黒森さんが疑うほうがクレバーだ
って話をされて
クレバーに見えるって話をされて
疑う赤ちゃんは疑わないように思います。
思いますがこれを疑ったときに
何の意味もない。
そういうことってあるじゃないですか。
世の中には。
例えばクレームメール
なんかわけわかんないクレームメール
お前ん家に行くぞみたいな
その精神分析のくだらない話
って思ってるほうが自然なんですよ。
いや来るかもしれないと思うのは
クレバーかもしれないけど
そんなことを思っても
多分何の意味もないんですね。
対策も打ちようがないんですよ。
それと似てるんですよ。この構図。
赤ちゃんの環境としての
母親の環境が途絶する
ということを赤ちゃんが
恐怖に思ってみても
結局できることはないんですよ。
はいはいもできないんだから。
だから信頼しておくほうが賢明なんですね。
一見疑うことができる赤ちゃんがいたら
実に賢いとは思うけど
決してそれは良いことでもないわけですよ。
そしてその良いことでないことが
ガンと強く私の中に入ってくる。
この時には当然トラウマがセットである。
なぜならは環境供給が
豊富になるかもしれないという恐怖感が
常に苛まれているから
こんな真似が起こるわけですよ。
その時に何で期待しようとしても
お母さんにもっと頼ろうと。
この人間が私の環境を
左右してくれて
コントロールしてるんだから
このお母さんにもっと頼らなきゃ
と思うわけですよ。
それは自分の立場が危ういという
気持ちとセット感ですね。
これが進行していって
私に何が起きたかというと
4歳の子が家無き子を
何度も何度も呼ぶみたいな。
本人はなぜなのかが
36:00
よく分かってないんだけど
家無き子にめちゃくちゃ反応がでかいと。
環境が途絶するということが
家から追い出されるということに
セットになっているんですよ。
私の心の中ではね。
そして大きくなったというか
例えば大学生になる頃には
やたら彼女が欲しいという
環境供給としては
不可侵の供助者が欲しいんですよ。
この話はオングデンでは
一番きちんと書いてると思う
結果ですね。
私は彼女が一緒にいてくれれば
意味づけがもっと
生き生きとできるのに
って思ってたわけですよ。
一人きりになっちゃうと
私はやや自閉症気味の感じになる
確かに窓は窓
だから何だみたいになって
すっごく寂しくなったり
ここはドア
ここにドアがある
だから何だみたいになって
例えば部屋に一人でいると
テレビをつけて見る的が
起きないわけです。
テレビをつけて
テレビ番組をやってる
だからどうしたんだろう
って感じになっちゃうわけですよ。
どこか私の環境供給というのが
なんか不思議と途絶えたんでしょうね。
それを練習させるような
多分そう思えるのは
僕にとってだけなんだけど
という女性がいてくれれば
その人に頼りきりになることができて
私は何でもできると
非常に不思議な感じに包まれるんです。
非常にあれが不思議なんですよ。
何にもできないんですよ
そんなことが起きたところで
むしろ重みが増えるだけのような
気がするんですけど
何でもできるような気がしちゃうんです。
例えば赤ちゃんが
お母さんがたぶん
これが大地壁って言うんですね。
存在感が強すぎる
実際には肉体的な関わりがなくても
寝られるはずの状況であっても
肉体的な関わりというものがないと
寝られないというのは
それだけ信用してないんですよ
環境というものを。
これが私に起きたこと
孤独になったら
どうするとか怖くて
これも言葉として微妙なんですけど
フロイトがそう言って
ヘルプレスネスって言うんですよ
自分をヘルプできない感じがする
ヨルベナさんって言うんですけど
まさにそういう感じだった
しょうがないからビデオを見るんですよ
これが刺激なんですね
だから私はフロイトというのは
すでに正しいと思っているんです
ビデオを見るということが
性欲を満たすということに
直結しているという発想って
僕はすごいナンセンスだと実は思っていて
実はですね
これもケースバイケースですごくいろいろな
性欲を満たすために見ているとは
言い難いところがあるんですよ
見ていると落ち着いちゃうんですね
僕はこれは刺激だと思うんですよ
見ていると落ち着く
39:00
なんかね私はあんまり経験がないんだけど
なんかこうタバコすごく吸いたくなった人が
タバコ吸うとあーってか
ああいう落ち着きと同じなんですよね
落ち着くんですよ
これでヘルプレスネス
ヘルプレスネスな自分というものの感じが
どっか行ってすごく安心して
万能な自分が
帰ってきた感じがするんです
そういうビデオを見ていると
ハンザーとかで
今はないですよ
ここまで分析しちゃうと
もう無くなっていきますが
今から30年くらい前
本当そういうのが強かったです
すっごい大変でした
例えば付き合い
付き合ってない
半ば付き合いかけたような人と
全部自閉的に見えちゃうんですよ
人形劇のような
物質が意味を持たなくなる
そういう関係で置き去りにされたような
感じがして
ストーカーになっちゃうんですよ
ポーチがと
なってなかったと信じられないですけど
とにかく不可視の教授者がいてくる
何もできなくなる
オグレンが書いてましたね
成功したエンジニアの
お母さん
20歳年上の奥さんをもらった
その奥さんが家にいるときは
そしてその奥さんが家にいるんだけど
自分がガレージにこもって
作業しているときは
生き生きとしている
不可視の教授者なんですよ
奥様が
で、ガレージに意味を与える
だけれども奥さんが出かけてしまうと
ガレージにすら引きこもれなくなって
奥さんの帰りを待つんですよ
これはやっぱり意味を失うんですよ
だけど奥さんが
ガレージに入ってこようと思ったら
腹を立てる
なんでかっていうと
内的対象としての母親を刺激される
そうすると自分の中に
お母さんがいるわけですよ
奥さんは奥さんでいるわけですから
要するに三角関係がそこで起こって
邪魔になっちゃうんです
私この趣味すっごいよく分かるんですよ
自分が部屋の中で
僕は自動車整備工とかじゃないんで
ガレージには引きこもらないけど
自分が誰かと付き合っていて
付き合っているという事実があるときには
自分一人でいたりもなかった
物でも書いていないから
不正次第になるんですよね
別れてしまうと
それらの行為が一切できなくなるんですよ
だけれども
なんかやたら仲良くなって
じゃあ書いているのを見ててあげるとか
言われると腹が立つんですよ
こういう心理って僕は結構
悪い人は多いんじゃないかと思うんですけど
今のは環境としての母親
内的対象としての母親
っていうので方法説明がつくと思うんですよ
ものすっごいナルシスティックで
エゴイスティックで
どうしてなのか分からない
だから私は当時
ただ性欲が強くて
寂しがり屋なんだと
これ当たっているじゃないですか
この説明で間違っているわけじゃない
ただそうすると何が起きるかというと
42:02
処理して
友達を作って克服して
全然ダメに決まってますよね
今の話の流れからしても
これでうまくいくわけがないんですよ
友達で多少は何とかなりますよ
友達が環境としての
不可視の教書者みたいに
そうはなかなかいかないですよね
そしてそんなことをすると
友達と四六時中一緒にいなきゃ
なんなんだ
そういう時期もありました
つまりこれは今のような分析まで
進む必要があって
私はどうしてもあると思うんですよね
そのために精神分析を受けて下さい
というのは困るんですよ
やっぱり
お金ないし
ちょっと時間作れないし
そういうことを言っていたら
悩むかもしれないんだけど
今度やれたら
いいんじゃないんだろうか
セルフカウンセリング
という言葉があって
決して好意的に受け止められているとは思います
分析会とかですね
僕はこの可能性を模索していきたいな
というふうに今は思っています
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