2022-01-27 34:42

【GMV 544】バカにされるのは本当に怖いことか?

「本当」への突破口を見つける
00:05
おはようございます、というか、こんにちは、グッドモーニングボイスです。
朝、なかなかできなくなっているんですけれども、それはどうでもいいことなんですが、
昨日、わりと夜喋ったばっかりで、もはや喋るネタが何にもないような気がしているんですね、今。
正直、これをリテイクするかどうするか、皆さんがもしこれを聞くということになれば、リテイクしなかったんだなということなんだけど、
何のネタも今ないまま来ちゃっているわけです。
こういうことは一度や二度ではなく、もう50度目ぐらいだともっと多いかもしれないんですが、
ネタ何の準備もしていないとはいえ、5回に3回ぐらいはある程度の一定の方向性を持っていて、
5回に2回ぐらいはこういうふうに脳内空っぽ現象で喋っているんですよ。
先日、倉園恵同さんが攻撃のないコミュニケーションという本を、
あれはAmazonのペーパーパックという形だけで読めるもので、今のところKindleでも読めます。
紙でAmazonから注文するのみで、書店で入手することもおそらくは、
できる書店がAmazon書店みたいなのがこの世にあるって話聞いたことがあるんだけど、
アメリカでは日本にはないと思うので、多分あれはAmazonから注文していただくしかないと思います。
その攻撃のないコミュニケーションの中で、準備をしないと、つまり今の私の状態なんですが、
言うのを準備しなくていいのかと、会話やコミュニケーションにおいては思ってすごく楽になりましたという方が、
その後報告をくださいまして、準備しないというのは、
その方は小規模なコミュニティとかで喋ることもされているんですが、
そういうことは皆さん知ってますよね。
社内プレゼントとかもそうだし、小さな会社のファンの発表みたいなのもあるじゃないですか。
会議とかも一切準備しないというのが恐ろしいというお話をしてくださったんです。
何が恐ろしいんだろうと聞いてみたところ、
バカにされるのが怖いと、キーフレーズだなと思い始めましたね。
この世の9割の人は、バカにされるのが怖くて生きているんじゃないかと、
僕もそういうところがあるわけですが、
みんな同じ病気なんじゃないかなと思うようになってきました。
バカにされると死ぬ病みたいな。
ちょっと前に、質問してバカだと思われたくないから質問できないという話も何度かしたことがあると思うんですけど、
03:06
それも全く同じですよね。
あるいは、くだらないツイートをして、
ツイートってくだらないものがたくさん入っていてこそのツイッターなんじゃないかと思うんですが、
バカにされたくないと思っている人もたくさんいらっしゃるんでしょうね。
だからつまり、頭が空っぽのままこういうものに挑んではいけないわけですよ。
そういうふうに私たちは何度も習いました。
そういえば思い出したんだけど、小学校時代も入念に準備をしなさいと、
バカだと思われますよとは言われませんでしたけど、
発表会とかね。
入念に準備をしろってすごい習いますよね。
準備せずにやるっていう訓練が圧倒的に足りないなとも思うんですけど、
アメリカにはあるんですよ。
インプロンプトゥーっていうのかな。
とにかく一切準備せずに喋れと。
結構これもしつこくやらされるんですよね。
全然喋れないと結構アメリカの先生も厳しくて、
とにかく喋れるようになるまでは帰れないぞみたいな、
そういう何かの部活の仕事みたいななと思ったりもしたんですけど、
結構アメリカではそういうのはうるさいんですよね。
即席で喋れっていうのは結構こう訓練されたりもします。
あの辺はすごい日本と違うところで、
割と昔そういう実習みたいなので行ったことがあるんですけど、
幼稚園とかでも幼稚園ですよ。
即席で喋りましょうみたいなの。
結構自分の意見みたいなのを即席で喋れっていうのもあるんですよ。
あったりするんですね。
私日本ではこういうのが極度に少ないなとそう言われて、
そういうふうに考えてみると思ったんですよ。
それはいいんですが、
だからこの即席では喋れないというのは、
ある種思い込みでしかなくて、
別に世界中の人類が即席で喋ってないわけでは全然ないんです。
大体私たちは即席で喋ってますけどね。
いろんなところで多分。
発表会とかじゃないですよ。
いろんなところで喋るときに即席である場合は、
あるじゃないですか。
普通そっちの方が多いですよね。
準備を入念にしてから喋るっていうのは、
何かを相当犠牲にしてると思う必要があるって、
最近私はむしろ思うんですけれどもね。
だって大概即席で喋ってるのに、
ある条件の時だけは念入りにして準備してから喋るわけじゃないですか。
その時には普段やってないことをわざわざやってるわけだから、
一見準備してるからうまく喋れるような気がするかもしれませんけれども、
実は準備している分何かが損なわれたり、
失敗してることもあるに違いないんですよ。
いつもやってないことをやるってのはそういうことですからね。
私たちが即席で喋るということに、
ここまで恐れを抱くようになったと、
重大なファクターとしてバカにされるってのがあるわけですよね。
入念に準備しておけば喋れたであろう、
自分が知識を持ってるとか、
頭が回るということを示せるチャンスをみすみす不意にして、
あるがままの愚かな自分が素手で出てバレると。
06:03
私よく思うんですけど、
入念に準備してるってことって私たちはみんな勘づきますけどね。
つまり入念にこの人準備してるからこうやって喋ってられるんだろうなと思うということは、
その人がバカでないことがそれによって証明されてるとは決して言えないと思うんだけれども、
それはそれとして入念に準備をすればバカだと思われないという、
これはもうある意味、現実がどうかということよりは、
思わないと思えさえすればある意味いいわけですよね。
本当はどうであれ。
例えばそうですね、
まあいいや、とりあえずそういうことがあるかなと思うんだけれども、
一方で僕らは、
準備しないで喋ることができたら楽だと、
その人もそういうふうに蔵園さんの本を読んで思ったということはつまりつらいってことなんですね。
二つあると思うんですよ。
まず準備を入念にするということ自体が結構厳しい。
もう一つは、
バカだと思われるという不安は入念な準備自体では取れないので、今も言ったとおり、
守備よくバカだと思われるという不安は、
取れないので、今も言ったとおり、
守備よくバカだと思われずに済むかもしれませんけど、
結局のところ相手がどう思っているかは、
突き詰めて言うとわからないわけですから、
バカだと思われているかもしれないという恐怖は、
それが恐怖だとすればですけど、
抜けないと、
この二つの苦しさから、
あの本で攻撃のないコミュニケーションで、
つまりそれはバカだという指摘って攻撃なので、
攻撃されるかもしれないという、
想定のもとでする準備は、
コミュニケーションの準備ではなくて、
実は防御と反撃の準備ですから、
当然それは厳しい世界なわけですね。
この厳しさから逃れられると思えただけで、
あの本を読んでよかったですというのが、
感想だったわけですね。
ここまでは本のCMみたいになっているんですが、
私の本じゃないんですけどね、
この入念な準備というか、
ある意味、
それをしないといったことの意味というか、
意気というか、
もちろんそれは攻撃を手放せるとか、
反撃の準備をせずに済むとか、
恐怖感から解放される、
解放されてなかったわけだけども、
その方の場合は、
解放されるというような意味があるわけです。
あるわけですけども、
私がその、
最近少し、
改めて考えるようになってきたのがですね、
ここからが精神分析的なのかな、
なんというか難しいところもあるんですけれども、
あのですね、
どこから行けばいいんだろうな、
一つには、
そうだな、先日、
09:00
あれは何だっけ、
宮崎駿アニメですよ、
千と千尋の神隠しの、
あれを全部、
頭から最後までは、
あの時はテレビでは見なかったんですけど、
懐かしいなと思って、
テレビでちょっと見たんですね。
で、
あの、
あれなんかすごく私は、
精神分析的に見ちゃう癖があるわけですけれども、
ものすごく、
いろんな意味で、
例えばユーバーバーとか、
いろんな意味で、
例えばユーバーバーって2人いるじゃないですか、
違う名前になってましたけど、
どう見ても同じじゃないですか、
あれはいいおばあちゃんと悪いおばあちゃんですね、
いいお母さんと悪いお母さんですね、
つまりヒステリーの話をしてますよね、
ヒステリックな感じもしますよね、ちゃんと。
で、何もかも正反対みたいな、
何もかも正反対な存在が全く同じ存在、
外見的には、
全く同じ存在だってのは、
ヒステリーというか、
いいお母さんと悪いお母さん、
あれはいいおばあちゃんと悪いおばあちゃんかな、
で、いいおばあちゃんと悪いおばあちゃんに
分けて見えるというか、
もう完全に分かれて見えるふにめだから、
もう分かれた存在となってますよね。
あのように見てしまうということが、
私たちの弱点なわけですね。
普通の人の中にいい面と悪い面があるということが、
受け入れられず、
分裂させてしまう。
分裂させるということは、
分裂は絶対しないわけだから、
自分の心の中が分裂したにも
違いないわけですね。
で、あの悪いおばあちゃんの方は、
ちゃんとあの話の中でも出てきたと思うんですけれども、
すごく恐れを抱いてたじゃないですか。
あの、バカだと思われたくないところでは
なかったじゃないですか。
外には危険がいっぱいだよと、
あの、あれ、孫なのか息子なのか、
あれ、千尋自身なんだけど、
要するに外に絶対出さずに、
しかもお城みたいなところの最上階に置くわけですよね。
地上にも着けないようにすると。
そうすることで安全を保つわけじゃないですか。
彼女も一番上にいますよね。
しかもエレベーターで、
無菌培養ってやつですよね。
で、つまり恐ろしいと。
恐ろしいときの彼女は、
人から恐れられるわけですよね。
非常に分かりやすいぐらい分析的だし、
グッドバイブス的とも言ってもいいかもしれないです。
で、ああいうふうになってしまうと、
彼女はそうですけれども、
コミュニケーションができないんですよね。
あの坊やに対してはともかくとして、
基本、人を脅すことしか彼女はやろうとしない。
必ずすぐヤツ先にするとか言うし、
とにかく攻撃のあるコミュニケーションというか、
コミュニケーションをすることが全くないわけです。
全部攻撃になってしまっている。
12:02
あれがつまり私たちが怖いものを見たとき、
あるいは外には危険がいっぱいだと思っているときの
典型的な態度だというわけです。
もちろんあのように、ある程度強ければです。
ただ彼女は強いようでいたけれども、
実は決して何かができたというわけじゃないですよね。
顔をでかくするとか、
嵐を吹き起こすような、
振りをするとか、
あれがまさに僕らが子供の時に見た
劣化のごとく起こった母親の顔だということだと思うんですよ。
この癖が残っちゃっているとも言えるわけですよ、私たちって。
結局バカだと思われたって死なないじゃないですか。
人に怒られても死なないじゃないですか。
私も顔色をうかがう本で書きましたけれども、
怒られるのは怖いというのは、
でも怒られるというのはまさに
湯婆婆じゃないかなと思うんですよ。
ものすごいようでいて、実は何も起きていない。
ものすごいんだけれども、
実際には何か起こすわけじゃない。
人間ならば、
あの湯婆婆は手すら出さないので
偉いものなんですけれども、
殴ったり蹴ったりするというケースもあるし、
だから身体に傷がつく場合については
ちょっと別扱いにする必要が出てきますけれども、
少なくとも心理的なものだけで言うとですね、
ところが私たちは心理的な方をむしろ怖がるんですよ。
だから外には危険がいっぱいだと思っている人は
非常に攻撃的になると。
でもその人は、
その危険が目の前にないと思えば
たちまち穏やかになる。
この表現ですよね。
ヒステリーというのは乖離でもあるから
分裂するわけです。
で、この分裂した時に、
怖いものに対峙した時に
許せなくなるわけです。
なぜならは、
自分を怖がらせた相手だから。
ということはつまり
馬鹿にする奴というのは
絶対に許せない感じがするわけですよね。
だから馬鹿にされるというのは
うかうかと自分がしてしまうということには
到底耐えられない。
そこで外には危険がいっぱいだから
準備万端整えて
絶対に馬鹿にされないように
喋ることができる状態にしておいてから
出ないと一言も発するわけにはいかないわけですよ。
ここはすでに表現の何ていうんですかね、
種みたいなものがあるんですよね。
いつ暴風雨が吹き始めても
いろんな意味でおかしくはない。
暴風雨0.1秒前の状態を
ずっと維持しているような
嵐の前の静けさというんですかね。
平静というのとは全く違って
全く穏やかではないんだけど
まだ今のところ爆発していないから
穏やかに見えるという状態を
保っているわけです。
15:00
この状態を保つために
自分の心を
穏やかに見えるという状態を
保っているわけです。
どうして?という問いが
僕はあるとは思うんですよ。
自分がそうなるということがあるにしても
あるんだけど
なぜこういう状態をとどめているのか
表現するからなんですよ。
相手がね、自分がなんだけれども
相手が表現すると
信じているわけです、僕らは。
それは多分子供の頃に
表現した親というものを
見たからだと思うんですよね。
今見ました、私なんかはね。
結構大きくなっても
母は表現する。
まさに表現するんですよ。
表現するということは
表現する準備が
整っていると言ってもいいわけです。
もちろん当人はそんな自覚は
ないかもしれませんけれども
やっぱり表現する準備
その前段階みたいなものが
完了しているわけです。
あとはスイッチをオンにするだけ。
オンになったら爆発すると。
考えてみると不思議なんですけどね。
なぜならば
このスイッチをオンにして
気分がいいことは何も起こらないから。
にもかかわらずあれほど爆発するのは
今私は母が爆発したときのことを
念頭に置きながらしゃべっているんだけど
あれほど爆発するということは
よっぽどこの爆発準備というものを
ある意味常に整えてしまっているんだろうと。
この爆発準備と
しゃべるために
準備を整えておかないと
馬鹿にされるということの意味って
根底では同じになっているじゃないですか。
そしてここから解放されようというのは
なんだか夢物語みたいに
感じられるじゃないですか。
なので
これを頭の中だけでやるっていうのは
土台無理な話だと思うんですね。
これやっぱり実行してみて
初めてもしかすると
ここでちょっとそういうことが
起きてほしくないんだけど
実行してみて馬鹿にされるわけじゃないっていうのを
少なくとも何回か
自分に擦り込んでいかないと
準備をせずに
いってとんでもない目に会いましたと。
この二つはつながってないんですけど本当は。
自分の頭の中で
つなげてしまったことがあるものだから。
なかなかその
何て言うんですか
逆転してみるっていうことが
まあ難しくなる。
難しくは
やっぱり
難しくはないはずなんですが
難しく感じられて
しまうんですよね。
で、この
準備というか
準備しないっていうために
必要な
準備しなかったという経験
なんだけれども
本当は僕らはその経験を
山のように積んでいるにもかかわらず
今や準備をするという経験の方に
意識して
準備をするという経験の方に
意識を強く置いてしまったので
そしてバカにされるということの意味を
今やあんまり深く考えずに
18:01
そこから来る
嵐のような自分の
自責感
まあ結局罪悪感ですけれども
自罰感ですね。
大変自分が苦しむという経験を
もう
かっことしたものという言い方を
僕はこういうとき使ってますけど
実際ちょっと自分の中で
かっことしている気はしないんですね。
本当にはどんな目にあったわけ
って言われた場合
果たしてきれいに説明できるかというと
怒られて本当はどういう目にあったわけ
って言われてみると
結構ですね
しかも古臭い記憶しか
例えば塾で殴られたとか
あったんですけど
私は中学受験のとき
ひどい塾で結構こう間違うと殴るんですよ。
なんか間違った数だけ殴るとか
わけわかんないことをやってたんですよ。
みたいなそういうことじゃないんですよ。
怒られて怖いっていうのは
あの塾のときの子供の時代の
体育会の教師みたいな人が
ボコボコ殴るっていう
あれと同じことは起きないんでね。
だけれどもああいうのがパッと思い出されて
なんか違うような気がするんですよね。
そういうことではない気がする。
馬鹿にされるっていうのも同じで
馬鹿にされるって考えてみて
パッと思い出すのは
なんか5歳のときに
友達に馬鹿にされたとかなんですよ。
そういうことではないような気がするんですよね。
みんなこの歳になってまで
恐れている
ちょっとした言動で
馬鹿にされるとかいうのはですね
そういうことだとは
さらさら思えないなんですけれども
なんかですね
そういうものを思い出しては
馬鹿にされると死んじゃうと
いうふうに思ってしまうわけです。
そうですね。
このことで
あの
いい例がないから
いつも同じように
Amazonのレビューだの
Twitterで
ビブラタネの話をするだの
なんかですね
いろんな事例を思い出したいんだけれども
出てくる事例が
こうも乏しいということは
実は馬鹿にされる経験って
めちゃくちゃ少ないんじゃないかなというふうに
思えなくもないんですね。
これはややテクニカルな話に
属しますけれどもね。
でも今日はすごく
大げさに
言っているんですけれども
なぜかというと
さっきのユバーバの話もそうでしたけど
あれもアニメですからね。
実際のヒステリーというのは
ああいうもんではないのは
私は従順
意識はして喋っているつもりではあります。
要は
あれはデフォルメというのかな。
大げさに表現してみる。
でも
ああいう感じなんだろうなというのは
わかる気がするんですよ。
それは
セント・ジヒロの心の中の
ドラマだというのが
たぶん立てつけだと僕は思うけれども
どういう立てつけで見たって
それはそれでいいと思うんですけどね。
大事なのはユバーバが2人いることですよ。
絶対2人いるはずはないのに
21:01
つまり
絶対2人いるはずがないものを
2人であるかのように扱うということは
つまりイリュージョンじゃないですか。
あのヒステリーという現象は
まさにイリュージョン以外の
イリュージョンじゃないんだけれども
精神分析で一番最初の
症例として出てきている
私なんかが特に感心させられるのが
症例ドラというやつで
そこら辺の本屋さんに
座りながら売ってないんですけど
売ってばかりないのかな。
身長論拠とかがあるかな。
とにかく症例ドラが私は
非常にわかりやすいなと思うんですよね。
メロドラマみたいな感じなんですよ。
ちょっと
あれですね。
小さい頃にああいうものを見たらダメです
気持ち悪い
気色悪いというのかな。
そういうところがあるんですけれども
なんていうんですかね。
とにかく難しいとかではないんですよね。
大人の世界ってやつなんですかね。
まさにああいうもんだな
というふうに思うんだけど
あの症例ドラなんかを読むと
なんていうのかな。
私は千と千尋みたいな世界を
バッと思い出してしまうんですけどね。
孫とおばあちゃん
子供とおばあちゃん
観光期みたいなのと
思春期みたいなのが
混ざり合ってきていて
現実の厳しさみたいなのと
わがままみたいなものの
入り乱れた感じですよね。
人間ならば
ほとんど全ての人が
境遇によらず経験して
通ってくるのではないかと
その中で特に私たちが
大人になっても
母性を大事に抱え込み続けるのの
一つが若にされると死ぬ
ということなんですよね。
先日も言いましたけど
成人分析というのは
すごく症例主義なんですよ。
こういうもののこじれが
いろんな本当に
問題を生むと
代表格なのが
ジゾイド的
もう一つが
今ずっと繰り返し喋ってるような
ヒステリー的
それをただ本で読むことによって
こんなんだと
これは倉園さんの
攻撃のないコミュニケーションも
そう思うんですよね。
本でただ攻撃のないコミュニケーションは
大事だって思うだけでは
やっぱり無理で
だからこそ実際にやってみると
やっぱり怖くて
入念な準備をしてしまう
っていうような反応
というのとはまた違うと思うんだけど
要するにこういうことですよね。
スキー場に行って
モーグルで
コブのど真ん中に入っていく
というのが一つの滑り方としてあるんだけど
当然怖いっていう人にとっては
怖いですよね。
そこに入ると怯えると
よーく観察してると
本当によく分かるんですけど
怖がらなければ滑れるんですよ。
あれは。
でもまあ
24:01
初中級の人にとっては
当然怖いですよね。
だからスピードがほぼ出ていないにもかかわらず
あのコブに乗り上げた時に
恐怖のあまり
怖いんですよね。
そうするとスキー板だけが先へ進むので
ひっくり返っちゃいますよね。
ああいう感じのことが
私たちが
馬鹿にされるのが怖い時とかに
必ず起きているはずのこと
なったと思うんですね。
あるいは皿を汚したとか
なんとかね
お母さんに怒られるとかいう時に
恐れてることも同じだと思うんですよ。
人によってはとんでもなく
厳しい接観をするっていう人もいるでしょうけど
大抵の人は
どうですか?
あれがあれほど効くっていうのは
やっぱり私たちの心理的なものの中に
まずはどう?
びっくりさせられて
身体反応が出て
その身体反応に対して
私たちが意味をつけて
これは何か非常に
まずいことを自分が
しでかしたんだという意味をつけて
だからこんなに苦しいんだと
実際にはそうじゃなくて
単なる身体反応の苦しみなんだけど
それを晒せればすぐ去っていくんだけど
そういう意味にあった
そしてというのは誰が悪いのか
怒った人が悪いのか
しでかした私が悪いのかっていう構図を
作り始めて
だんだん湯葉子みたいになっていくんですよ
猛烈な嵐が脳内というか
心の中で吹いていくと
このことを
なってんですかね
一つには
精神分析みたいなものっていうのは
普通の人はそれを
何とでもできるんだけど
何ともできなくなってしまったりした人が
織り成す
人間劇みたいなものが
ああいうところに描かれていくと
そういう内容になっている感じが
するんですね
だからなんですよね
だからそれを読むだけで
何かを身につけるというわけにはいかないんですよ
一人一人の心の挙動は
共通項はあるんですけども必ず
大きく違ったところがあって
みんな同じことを考えるんですよ
ある意味では
質問して馬鹿にされるのは
嫌だから質問しない
ここだけ取れば同じなんですよ
ここに対して
そんな馬鹿にされることなんかないし
馬鹿にされるの恐れてたら
ダメじゃないですかっていうのは
ダメじゃないですか
それで効果があるとは
ほとんどの人には思えないと思うんですね
精神分析でもずっと言うのは
お説教臭くなってしまったらダメだ
みたいな話って
いろいろなところで出てくるわけですけど
それは誰もが承知しています
これをただ言葉で言って
心がけを変えなさい
って言っただけで
変わるんだったら苦労はないですよね
それで全てが片付くならば
それこそ先送りとかでも
先送りはいけませんとか
YouTubeに脱線しないようにしましょうって
ただそれを言っておけばいいわけですよね
27:01
ないしはもっと強い調子で
最悪の場合は私が受験時代にやられたみたいに
間違うとその馬鹿の数だけ殴るってやれば
もしかすると
ちゃんと仕事を進めるようになるかもしれないと
でも実際ならないんですよ
私はくだらないケアレスミスをして
そんなに殴られて
殴っている子はこう思っているわけですよね
これほど痛い目に合わせておけば
まさか今後2×4は6なんて
馬鹿なことを書くようにはならないだろう
ところがあんなに痛い目にあっても
急いでいる時はつい2×4は6って
平気で書いちゃうんですよ
もっと遥かに難しい問題を解いていくのは
最中にいいですよ
そしてまた殴られると
でも変化しないんですよ
人間ってのは面白いことに
だから私はこう
馬鹿にされるのが怖いという人が
実際には馬鹿にされることはないとか
馬鹿にされても
実際には湯婆婆のような人が
あれ来るのがせいぜいですと
言ったところで心の中で
ダメなんだろうなって思うんですよ
それだけでは
払拭しきれないものが
ほどの悪いものが
ほどのイリュージョンを
その人は脳内で
やっぱり作り出しているんだろうと
ってなった時に
先送りは一つの視点として
タスクシュートみたいなものが提供されて
ここで脱線すると
こういうことになるんだけど
ここで脱線しなければ
こういう未来になります
っていうのを
がんじがらめにして見せつけて
それでも脱線するんだろう
というのが
がんじがらめにして見せつけて
それでも脱線するんですけれども
それでも脱線するということを
さらに何度か繰り返して
実際そうなったよねというのを
がんじがらめにして見せつけられて
初めて
何かそこで考えると
考えることはたった一つしかなくて
現在の中でしか
自分の行動は変えられない
ということに
不意に気づく瞬間がある
アルコール依存の
私もしたことはあると思うんですけど
アルコール依存の人が
不意に
ああお酒をやめてもいいんだ
って気づいた
っていう話が出てくるんですよ
私はもうあれにすべてが
ある気がするんですね
これこう書くと
こういうふうにしゃべると
いやそんなの当たり前じゃん
って思うと思うんですよ
お酒さほど好きでない人とかにしてみれば
特に
そういう人が多いんですけど
私なんかもそうなんですけど
どうしても
開けられなかった時ってあったんですよね
静電気が嫌で
ああ静電気で痛い目にあえばいいじゃん
って思えれば楽なんですよ
本当に
ああ質問してちょっとバカだと思われたって
いいじゃんって思えれば
さぞ楽だと思うんですね
でも思えないわけですよね
30:01
バカにされるということは
死ぬのに値するほど苦しいとか
辛いとか嫌だとか
あるわけですよね
その人にしてみれば
思い込みだと思ってると思うんですよ
先日話した通りで
頭では分かっているのです
ってやつなんですよね
だから
例えば他人にやってもらうとか
必要が
必要はどうか分かんないけど
やってもらうっていうのが
有効になると思うんですよ
有効だり
自分が思ってたような質問をしましたと
そして
なんかバカにされているように見えましたと
だけどその人は平気でしたと
分かんないですよ
こういうのを見たからといって
でも俺は平気じゃないんだよって思うかもしれない
でもそこで大事にしているもの
というものの正体が
少しはっきりするじゃないですか
こういうことをはっきりさせていくことの中に
現実に近づいていくっていう意味が
きっと含まれていると思うんですね
散々
散々同じ話をしているだけですけれども
絶対にユーバーバンは
二人はいないと
二人いるんだったら
それは夢だと
実際の話は
そういう話だったじゃないですか
千尋は最初夢から覚めようと
頑張っていると
あんなにこれといって
勇気があるわけではない
何でもないのに
彼女は何とかこらえていたじゃないですか
最初の方のシーンで
すげえ脅されたり
手と足が6本もある人が登場してきたのに
平成を少なくとも予想えていたじゃないですか
なぜならば
あれは現実ではないからですよね
夢だからだと思うんですよ
だから彼女が名前を忘れるのは
まずいんですよね
あれはちょっと源氏名が
混ざっているようなシーンで
えぐいことをやっているなと思うんだけれども
戦になってしまうと
怖くなってしまいますよね
いわばだって
いろんな人だって
そもそも境遇自体が
あそこから抜け出せないという
あっちが現実になりました
ということだったら大変ですが
彼女は千尋である限り
これは全部夢のはずなので
何が起ころうと本当は怖くないはずなんですよ
それくらい僕らが
現実を見失わないというのは
すごく大事なことで
結局
くだらないことを言うと
バカにされるというのは
夢なんだと
そういう話を
間違いなく
オッドワイブスでもしているし
もっとずっと遥かに
めちゃくちゃある意味はっきりと
同じくらいはっきりだな
イリュージョンというのは夢というものですからね
そのような現実はないということなので
精神分析でもするんですが
精神分析というのは
起きているときでも
私たちは夢機能を機能させて
33:01
現実を知覚していると
言っているわけですから
意味づけなわけですよね
そのことが私たちには
わからないわけです
わからないから怖いんだから
わからないということが
つまり私たちに置かれている状況で
昨日と話がほとんど
同じになってしまったんですけれども
何とかして
どこかに突破口を見出したいと
そのためのテクニックなんですよ
倉人さんがよくおっしゃるところも
本当にそうなのかと
つまりそれは夢なんじゃないの
という意味ですよね
本当にそれは現実なのかと
バカにされるというのが
本当なのかと
バカにされたというのが
本当だったのかと
という自問を
絶え間なく発しましょうと
少しでも疑わしいところが
あるならば
徹底的に疑ってみましょうという
なんかそこが
現象学みたいになってくるんだけど
そういう話なんだということです
これを繰り返して
何とか頑張っているうちに
不意にこう
実はイリュージョンかもしれないと思ったら
果敢にですね
バカにされても構わないという方向で
行動するんですよ
結局
するしかないんだと思うんです
千尋がやったように
ここで働かせてくださいのシーンは
大事だったじゃないですか
結局
向こうは折れましたよね
あれが夢の正体ということだと思いますね
34:42

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