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おはようございます、グッドモーニングボイスです。
ようやくレギュラーな時間に戻ってきたという、8時半にこれをスタートするというのが、本当は8時にスタートしたいんですけど、大体8時半になっちゃうんですよね。
でも、この辺りがこの番組のレギュラーな時間、私の中ではそういう感じになっています。
で、もう明日ですね、第1回のシーズン3、グッドバイブス勉強会のシーズン3の第1回、仕事、テーマは仕事ですね。
年少ですし、まだね、検討いただければいいかなと思います。
私は多分、明日は久しぶりにタスク習得系の話をしようかなと思います。
タスク習得クラウドにしてからは、まだちゃんとそういう話をしていなくて、もはやグッドバイブスの場でどれほどそれが求められているかというのもあるんですけれども、
だいぶ自分もタスク習得をグッドバイブスらしく使っているから、あれを使わないのがグッドバイブスらしい気ももちろんしますけど、
グッドバイブスらしく使うというのが、今の私のポジションとして適当だろうと思うし、
だいぶですね、もう少なくとも3年前ではありえないというか、絶対受け入れられないようなことも、僕普通にやってますんで。
あれなんですよね、グッドバイブスというのは前から私時々この場でも言う360度変わりましたという、つまり全く変わってないじゃんというのと、
よく思うところなんですが、例えば割り込みというやつを急な依頼と言い直したからといって、
どっちにしてもやるんであれば、それを私が心の中で何と呼んでいようと、あまり頼んでいる側にとって違いがないっちゃないわけですよね。
頼んでいる人には違いがあるかもしれないけど、見ているだけの人からすればたぶん全く違わないと思うんですよ。
私は別に下打ちとかしないかったですし、ただ割り込みというものは割り込みだったし、依頼というものは依頼ですから、
私が受け止める柔らかさみたいなものの差は出てくるんだけど、だからといって行動を記録に残した場合、そこに違いが生まれるかというと全く違いは生まれないですし、
そういうところなんですよね、これは。
一番大きな変化があったとすれば、割り込みを急な依頼というふうに受け止めるようになったという点なんだけど、これだけをタスクシュートで表した場合、もはや何の変化もないです。
何の変化もないんだけど、劇的に変化していると。この辺がグッドバイブス的だなというふうに自分では思っていて、
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そういう話をちょろちょろっとして、他の話もついでにできたらいいかなというふうに思っています。
明日、よろしければお願いします。
昨日収録だったんですね、ぶっちゃけ相談の。
私、ぶっちゃけ相談ではないテーマだったかもしれないけど、
倉園さんに、私のような人間は、自分が怒っているときでも怒っていないものとしているという話をしていただいたときに、
このことを前にどこかですごい考えたことがあるなと思ったんですよ。
いつだったかが思い出せないですけど、多分25、6歳。
この頃の記憶って一番僕の中で曖昧なんですよね。
一体大学時代のことだったのか、大学卒業後のことだったのか。
僕しかも1年ぐらいフラフラしていたもんだから、就職もせずにですね。
今じゃ完全にあれはニートですよね。そういう表現があったとする。
当時はなかったんじゃないかな。なくてよかったんですよ。
ああいう表現の言葉っていろんな意味で、やっぱり結局人を傷つける結果にしかならないような気がしますね。
多分みんな覚えてませんかね。僕が1年間フラフラしていた。
母もしかすると覚えてるかもしれませんけど、でも多分しかとは覚えてないと思うんですよ。
もうなんだかんだ20年以上前の話ですから。
母の記憶もやっぷやになっていますからね。もう75ぐらいで。
で、あの時期に僕はそのことをすごくよく考えた記憶があるんですね。
どうしてそうだったのかって思い出せないんですけれども、
1つよく覚えてるのが、夏目漱石のそれからってあるじゃないですか。
あの中の長井大輔って主人公なんですけど、決まらない主人公なんですけど、
フェミニストとかにもすごい評判悪そうな主人公なんですが、
あれはただそう読んでは僕はダメだと思うんですよね。
この話を今日ちょっとしようと思っているんですけどね。
あれは確かに男女が出てくるし、なんだか女性の人権的な意味ですごくダメな感じなんですが、
でもあの話ってそういうことじゃないと僕は思うんですよ。
やっぱり漱石のテーマっていうのは僕は一貫して男子同性愛がすごく大事だと思うんですね。
テーマの全てがそうではないにしても、やっぱり心とか、
心なんかはあからさまですけどね、そういう表現も出てきますし、
男性の同性愛、ただそれは肉体関係とか恋愛関係というのとは違うんですよ。
それをそれとしてまず長井大輔って怒ってると思うんですよね。
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ものすごくって言ってもいいぐらい。
だけど彼は自分が怒ってるってことを全然気づいてないんですよ。
で、私は本が相当引き込まれまして、
多分最初に読んだのは中学生の頃だったと思うんですけど、
以来30回は読んでると思うんですよ。
すごい自分だなって思ったんですよ。
めちゃくちゃ自分と同じだと、これは。
私はあの人が恋する相手の女性の魅力がよくわからなかったんで、
そこだけがよくわかんないと思ったんですけど、他のところは全く一緒だと。
多分こういう環境に置かれたら自分は全くこういう風に考えてこういう風に行動するに違いないと。
だから女性の、ある種の女性から大変嫌われそうだし、私もそうだと思うんだけど、
本当あれは何回も読んだんですよね、そういう意味で。
全くよくわかるっていう、全く心情がよくわかる人のことを何度も読みたくなるこの心理って何なんだろうとは思うんですけど、
なんかですね、面白い感じ、変な感じがしたんですよね。
明治時代の文言が自分のことを書いてくれるっておかしくないかっていうか、おかしいですよ。
だから非常に、しかも全然好感が持たれそうにない、この心理状態が全部暴露されたら、
すごいバッシングされそうなそういう人間だっていうことが、また非常にいろいろ引っかかったんですけど。
で、あそこに母親が出てこないと思ったんですよね。
ていうか出てこないんですよ。
仮に、いるに決まってるんだけど、出てきたにしてもさぞ影が薄いだろうと。
そこが一つの重大な問題なんだと思うんです。
つまり彼は甘えてるんだけど、甘えられないんですよね。
で、土居武夫さんがそのことをほぼ完全に甘えの構造の中で書いていて、衝撃を受けたんですよ。
それが大学生の頃の出来事だったんですけど、本当につくづくびっくりしたんですよね。
まだ私はフロイトがよくわからなかったんだけど、甘えの構造は言われてることが実によくわかって、
少々腹が立ったんですよ。
なんかですね、非難されてるようにやっぱ思っちゃうんですよね。
どうしても、特にあの時代はまだ大学生だったんで、非難されて当然かもしれないけれども、
非難されると面白くないし、非難はされてないんですけどね。
人の非難に敏感なんですよね、あの時代はやっぱり。
で、イライラしたけども、やっぱりグーの音も出ないってやつですよね。
全くそうだと思ったんです。
全くそうだと思ったんです。
そして永井大輔甘えているし、うまく甘えられないので、すごい怒ってるわけです。
だから要するに寒いのにミルクを差し出されて怒ってる赤ちゃんなんですよ。
全くだからフロイトなんだけれども、そこがまだよくわかってなかったですね。
ドイタケオが精神分析家であるというのはどういうことなのかっていうのが、
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当時よく含み込めてなかったんで、僕そこまで頭のいい大学生じゃなかったから、
頭のいい人ならわかると思うんですけどね、感がすごい鋭い人とかなら。
私はそうじゃなかったから、フロイト読んでたんだけど、
なんか統合していけなかったんですよね。
あの、なんて読むんですかね、彼はすごいお坊ちゃんですよね、永井大輔は。
いい家の家で、お金にも不自由しないというか、お小遣いもらってそれで生活していけると。
あの時代の超上流階級に近いと思うんですけれども、
彼は非常に物足りないものを感じていて、
僕はあそこまで恵まれちゃいませんでしたけどもちろん。
でもまあ困ってないわけじゃないですか、私立大学とか行ってるわけだから。
で、当時私はすごい彼女が欲しいと思ってたんですけど、
あれが要するにそういうことなんですよね。
その話のテーマは心のほうがはっきり現れてますけれども、
あの心の主人公は先生というのにすごい引っ付いていきますよね。
そしてKというお友達がいるんだけど、それは自殺しちゃうと。
完全に男の同性愛の世界だと思うんですが、
つまり甘える相手が男同士なんですよ。
で、そこに恋愛的な感情は全然ないんだけど、
甘えを受け止めてくれるのは全て同性なんですよね、異性ではないんですよ。
あれがどうしてなんだろうっていう、
そしてどうしてなんだろうというか、
非常に恋愛になっちゃうと、それこそ甘々になっちゃうじゃないですか。
そうするとダメなんですよ、たぶん。わけわかんなくなるから。
当然甘えさせて当然でしょうってことになっちゃうから。
そうではいけないんですよね。
少なくとも小説としては甘えさせるべき理由が一切ない。
あの先生とかそうですよね。
あの女性みたいな主人公が来ても追い返したっていいわけですよね。
でも話をして話を聞いてあげると。
あれが甘えなんですよね。
つまりあの先生を母親代わりにしているわけだ。
その場合の母親というのは環境としての母親なんです。
気のたまたまぶっちゃけ相談にうちなる母っていうのは、
どうやって作り出されるのかとか、
母親というものが十分グッドイナフじゃなかった場合、
そういう定義はできないんですけどね。
全ての母親はグッドイナフなんだけど。
グッドイナフじゃない場合、
どうしたって自分の内的な母親っていうのは、
不完全なものになるっていう話があったんですけど。
そうかもしれないんですが、だからこそなんですよむしろ。
だからこそ私たちは環境というものを母親にしてしまうんですね。
人じゃなくたってもいいんですよ別に。
ペットだって構わない。
だからうちなる母親というのは、
昔々優しいお母さんが完璧にやってくれたから、
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私の心の中で優しいお母さんが私を慰めてくれるという話では全然ないんですね。
全然ないんです。
そうではなくて、私たちは環境に甘えますということなんですよ。
はっきり言えばただそれだけなんですね。
環境に甘えずには生きていかれませんと。
甘えさせてくれるものは全て母親ととりあえず呼んでおきましょうという、
そんな程度の話なんですよ。
なんでそこまで父親じゃダメなんだっていう話になっちゃうかもしれないですけど、
それは簡単に言うと甘えさせる、
なんで俺が甘えさせなきゃならないんだよっていうわけにいかないようにするためのからくりなんですね。
からくりっていう言い方は僕はここではすごく正しくないと思ってるんですけども、
グッドワイブズでも一つ意識って言うじゃないですか。
でも倉澤さんはそのためにビッグバンまで持ち出されたじゃないですか。
一つであるという物理的に一つであったことを確実にするために。
本当は確実じゃなくてもいいんだけど、
状況証拠的な話でもいいんですけど、
今はやっぱり唯物的ですし、時代も個人主義ですし、
そうそう納得しないっていう方も大勢いらっしゃると思うんですね。
だから一つだったということが確実になるためには、
一つだったという科学的根拠とかがあれば、
やっぱりそれは引いてきて然るべきなんですね。
これが母子だって同じなんですよ。
一つだったわけです。
母親が鬼のようであろうと、ネグレクトであろうと、
虐待する母親であろうと、とにかく一つだったことは間違いないので、
一つだったら利害は一致するしかなくなるんですよね。
だから絶対に甘えさせるということに意味が出てきちゃったって、
母親は例えば自分を甘えさせるために妊娠中だけど酒を飲んだと、
それでも一体である以上は一体なんだから、
自分が望んでやったことなんだから、
自分にとって良いことである面があったわけですよね。
それが子どもにとってどういう影響であれ、
良かったことにするしかないわけですよ。
ここで別々だっていう主張ができない時代があったと、
なぜならば一つだったからっていうふうに、
言うためには父親じゃちょっと都合が悪いんですね。
だから私この番組で何度か言ってますけれども、
将来、もし父親が子どもを産むということができるようになったら、
これは科学の世界では不可能なことではないと今されてるんですが、
将来もしそれができるようになったら、
この母子一体という観念は、
父母子一体という観念に置き換わる可能性はあると思います。
あると思いますけど、その時には人間の心の構造は、
たぶんかなり根本的に変革を迫られるような気がします。
分かんないですけどね。
いずれにしても、一体であったということがあったから、
なんで俺が甘えさせなきゃいけないんだというのが、
封じ込められなければならなくなるわけです。
なぜならば、その人は自分だからですってことに、
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答えとしてなるわけです。
ぐずる赤ちゃんは自分だったからです。
だってお母さんにとっては自分だったわけですからね。
甘えさせなければいけないわけですよ。
お母さんだって誰かの子供だったわけじゃないですか。
つまりお母さんお母さんがいたわけです。
そのお母さんにもお母さんがいたわけです。
つまりどこかで一つになっちゃうんですよ。
だから甘えさせるということが、
どこかで完全に自分の損失であり、
完全に相手の利得になるということは、
少なくとも人間同士では言えなくなるんですね。
クラザノさんのGood Vibesはこれをさらに拡大して、
地球でもいいですよね。
昔はスウェーフの生物は地球から生まれている、
Made in Earthのわけだから、
Earthが母なわけですよ。
これだったら嘘はどこにもないわけですよね。
だから私がサイコパスで、セクハラで、
パワハラな上司のために何かをしたとしても、
やっぱり自分のためになっちゃうんですよ。
大元をたどればですね。
それに多分いつか一つになっちゃいますから、
どんなに嫌で、どんなに納得がいかなくても、
たぶんどこかでいつか一つになっちゃいますから、
しょうがないんですね。
とことん利己的に振る舞おうとしても、
どこかで利他的なものは利己的なものを含むということを、
一番フロイトの考えかな、
わからないですけど、示しやすい、
示しやすいメタファーとして、
しかも実態を含むような、
情緒性を含むメタファーとして、
母親と子供というものが持ち出されたんですね。
で、ここで異性の話にしてしまうと、
男女だから当然だってことに、
女の人を甘えさせたり、
女の人が男を甘えさせたりするのは、
恋愛上当たり前だってことになるので、
ではここで同性を持ち出すんですよ。
相席みたいな人。
同性だったらどうして俺が甘えさせなきゃならないんだって、
出てくるじゃないですか。
でも甘えさせてしまうんですよね。
甘えさせてしまうと、
親子でもないのに甘えさせてしまう。
親子でもないのに甘えさせてしまう。
あるいは、ケイと私は同性であり、
しかも別に血も繋がってないのに甘えさせてしまう。
ここで甘えというものが出てくるわけですね。
甘えというものはつまり、
エフロイトが言ったんですよ。
なぜなら彼は甘えという言葉を知らないし、
西洋人に甘えという概念は、
西洋人にはこれはですね、
比較文化論ではないっていう、
わざわざ断っている精神物理的な人がいるんだけど、
比較文化論にされちゃうんですよね。
日本の世界には甘えが蔓延しているが、
西洋にはそれが許されないとか、
そういう方になっちゃうんですよ。
ドイタケオさんはそうじゃないって言いたいんですよ。
甘えは世界中に蔓延していて、
なんだけれども、
日本人はそれに敏感に気づいたんだけれども、
ある種の世界の人たちは、
気づきにくい文化に生きてしまっているんだと。
でも、だからといって、
オーストリアとかドイツにないわけじゃないから、
甘えの代わりに、
彼は一時なる沈むとか言い出したんですよね。
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他に言いようがないから。
あるいはフロイトは同性愛と言ったんですよ。
甘えは同性愛だと。
だけど、母親と息子は異性じゃないかって話を
ここで持ち出しちゃダメなんですよ。
母親と息子は異性なんだけれども、
この場合異性愛じゃないんですよ。
やっぱり同性愛的なものなんですね。
つまりそれは単なる愛なんですよ。
単なる愛というのは、
多分分かりにくい文化ってあるんですね。
個人主義が非常に進行すると、
単なる愛というのは、
何かこう、搾取されているとか、
騙されているとか、洗脳されているような
含みがどうしても出てくるんです。
多分、私が蔵園さんの
グッドバイブスに傾倒していることについては、
絶対佐々木は騙されているんだって、
どっかで感じている人はいると思うんですよ。
でも私は、このことは昔から書かれていたと思うんです。
漱石が同性愛で説明しようとしたんです。
だってあの時代は、
個人主義が始まりましたから。
明治維新ですよね。
個人主義が始まって、
それからの主人公は、
全然道を通う関係のないような
地面に線を引いて、
人が地面の所有者になるというのは、
いかにも無理がないかとか、
いろんなことを言っているじゃないですか。
あれ全部個人主義の話をしています。
つまり、人に優遇するとか、
人に便宜を分かるとか、
人のために何かやってあげるとか、
義理認定とか、
全部そういうものが成立しない世界の中でも、
でもそういうものは残っちゃうわけじゃないですか。
しかも心情に沿って動こうとすると、
あいつはバカだって言われちゃうわけですよね。
あるいは搾取されているとか、
騙されているとか、
洗脳されているって言われちゃうわけですよね。
あるいは変な愛とか、
スピリチュアルなことを言い出したと、
ついにおかしくなったに違いないとか、
ついにひどいことが起こって、
耐えられなくなったに違いない、
何でもいいんだけど、
正常じゃなく正気を失い、
まともな人間として機能できなくなったから、
やむを得ず愛みたいなものを頼り始めた、
っていう風に言われてしまうんですよ。
個人主義というものが絶対である世界であれば、
おかしいわけですから、それ。
何の意味もなく人に優遇する、便宜を測るとか、
おかしいわけですから。
先生はKの話を聞いてやる義理はないんですよ。
でも聞いてやる、おかしいんですよ、それは。
お母さんはかなり仲良くしてる。
ダメなんですよ、それも。
友情とかがギリギリ許されるんでしょうけど、
友情とかも何かよくわからない言葉になってしまいますよね、それは。
それはつまり何なんだってことになるんです。
で、エフロイトもやっぱり考え込むんだと思うんですよ。
性愛を、肉体的な性愛を含まない優しさに基づく愛情とか、
長いんですよ、説明が。
なぜそこをそういう風に一生懸命説明しなきゃならないかというと、
多分一つではないからなんですよね、西洋人にとっては。
絶対個人と個人は一つではないからこそ、
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そういう風に愛情を持って、
特に何の理由もないけれども便宜を図るとかはダメなんですよ。
認めがたいと。
多分それは何かの理由が必要だと。
一時ナルシシズムっていうのが一番西洋人にとってギリギリ出てきうるものだったんですよね。
母親の子供に対する愛情であり、子供の母親に対する愛情。
なぜなら一つだったって、ここは確実じゃないですか、一つだったと。
ここが一つだったということが言えればですね、
実は全人類がほぼ一つだったということが十分言えそうじゃないですか。
だって人類はこの世に最初はいなかったわけですから、
いるってことは最初にどこか一つのところから始まったわけですよね。
っていうことが一時ナルシシズムなわけだと思うんですね。
そこから同性愛というところに一気に行けるっていうのは、
やっぱり明治時代でそれを書くっていうのはすごいことだなと思ったんですけれども、
だから女性の影がどうしたって薄くなる。
特に母親の影がですね、心の主人公もお母さんも出てきはしますけど、
ほとんどいないも同然。
これが大事なんだと思うんですよね。
母親の影が薄いということは、
個人主義者としてお母さんに甘えてべったりとか、
つまり甘えから抜け出そう抜け出そうとしてるんですよね。
甘えから抜け出そう抜け出そうとするとですね、
非常に苦しくなってきますよね。
苦しい部分がいっぱい出てくる。
寂しいですしね。
とにかく人に対して根拠もなく仲良くなるってことがとっても難しくなるので、
いろんなところで無理が出てくるはず。
これは多分今の時代も何にもそれほど変わってないと思うんですよ。
けれども彼は先生と接近するし、ケイとも会うことになると。
だから甘えるっていうことはなくならないんですよね。
なくならないんだけど、方法でトラブルは引き起こしますよね。
甘えというものがダメってされてる世界で、
甘えてしまうわけだからトラブルを引き起こすわけです。
自殺しちゃったりとかですね。
そういうトラブルを引き起こす。
長居大輔はもっと酷くて、完全に親に甘えているにも関わらず、
親の言うことを聞かない。だから甘えてるんですけれども。
つまり上手く甘えられないんですよ。
上手く甘えられないということが、まずスキゾイドなわけですよね。
ジゾイド的なわけです。
上手く甘えられないということが、
しかも一番最初この話しましたけど、長居大輔は怒っているわけですよ。
自分を甘えさせて叱るべき不幸のお父さんが、
非常に奇妙なやり方でしか自分を甘えさせてくれない。
なぜならば、彼は江戸時代と明治時代を股にかけたお父さんだから、
どういうふうに子供への愛情を扱えばいいのかが
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さっぱりわからないわけですよね。
そして、新習を繰り返してしまうわけです。
とにかくよくわからない江戸時代風の、
少し明治時代にアレンジしたような道徳を
ガンガン叩き込もうとして、失敗しているわけですね。
だから長居大輔は偽りの事項を完全にお父さんの前に作り上げて、
もう何でもかんでもお父さんのおっしゃる通りです。
あなたの言う通りですって言って、
全然言うことを聞かないという、
目に見えるようなウィニコットの偽りの事故なんですよ。
彼は完全にスキゾイドなわけです。
でも本人はそれで何も問題はないと思っていますよね。
何も問題はないわけですよ。
そうやっておっしゃる通りですと言って、
仕事をしますとか、言う通りの人と結婚しますとか言ってんだけれども、
結婚をするときに、
言う通りの人と結婚しますとか言ってんだけれども、
結婚はしないし、仕事もしないし、金は受け取るし、
しかもそのお金を人に渡しちゃうし、ついでに不倫もしちゃうと。
そういう本当の自分と偽りの自分が全くかけ離れたことをやっていて、
しかもそれ以外の戦略は全くないように見えるんですね。
長居大輔は最初の方に、
怒っている人間というのはすごく見苦しいというふうに書いて、
トロしているわけです。内面のですけどね。
あれがまた非常に昨日指摘された通りなんですけれども、
自分が怒るのは嫌なんですよね。
偽りの自分というのは、
基本的には人とトラブラないようにするための存在ですから、
会社に行ってすげえ嫌いな上司でも、
常に相手が気分が悪くなるようなことを一切言わないとか、
そういうことは私たちはみんなせざるを得ない目もないわけじゃないですか。
友達が本を書きましたと、
1行目から見てこれはダメだと思っても、
すごい良い本だったねとかって言うじゃないですか。
偽りの事故ってやつはですね。
これ全くやらないでいけるかというと、
そこも一つのテーマですけれども、
普通に多くの人がやっていて、
それはやむを得ないものと普通はされているわけですよね。
これは永井大輔はかなり極端にやってるわけです。
その勢い余って、
友達に恋愛している相手まで譲っちゃうんですよね。
勢い余ってというか、もう何かこう分かってないんですよね。
そしてそのことに非常に腹を立てているわけですが、
腹を立てるのは見苦しいということにしているから自分で、
腹を立てているということも全く理解していないまま、
ことが進行していくわけですよ。
そうするとスキゾイドで、
スキゾイドがきついっていう程度だったけど、
やがて結婚話が出た時の矛盾が極めてでかくなっていくので、
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明らかに分裂、消失、パーソナリティですね。
人格障害レベルまで入っているわけです。
やってることがもう完全に矛盾していて、
世の中から朝鮮としている非常にいい指摘があるんですよね。
自分に対して。
自分は金には全く不自由しないが、
同時にやだらと金に不自由している人間なんだというふうに書いている。
あの一行がもう完全に人格障害なんですよね。
彼にとっては。
全く世俗から超越しているっていう顔をしてるんだけど、
世俗から超越しているのは偽りの事故ですから。
本当の自分は世俗にどっぷり浸ってますからね。
そういう偽りと本音の部分というのが亀裂していって、
そのままさらに進行していくわけですよ。
不倫しちゃいますからね結局。
本当にお金に困るようになって仕事を探しに行くんだけど、
彼は仕事をしたいとは全く思っていないので、
そこで物語の最終版では統合出張書を発表すると。
非常にそこの書き方の文学的ですごいなと思ったんですけれども、
統合出張書の発表ってどう書くんだろうと思うんですけど、
彼の頭の中では世界が真っ赤になっていくっていうのが、
一つの赤いものを見るところから契機して真っ赤に変わっていくっていう、
そういうふうに描かれて終わるんですが、
ネタバレしちゃいましたけどね。
これ読まなきゃ全然意味ないです。
ストーリーに意味があるとは到底言い難い程度のストーリーなんで、
意味付けが最後の最後に起こっていることって結局、
意味を僕らはつけているわけじゃないですか。
これも昨日ぶっちゃけ相談でお話してもらったんですけど、
一番最初に、
これは内的な母親じゃないですね。
本当の母親がしてくれることは意味付けです。
あなたは怒っているとか、あなたはお腹が空いているとか、
あなたは眠いとか、全て教えてくれたことなんですよ。
私は頭が朦朧とするとか、血糖値下がってきたとか、
体温に対して外気温のほうが低いとか、
そういう物理的な現象を捉えては泣く、
物理的な現象になっては泣くっていうことしかしてないんだけど、
母親がお腹が空いている、寒い、暑いっていう意味付けをしてくれるんですね。
つまり意味っていうのはコミュニケーションですから、
意味っていうのは私たち人間が勝手に世界に与えて、
それでみんなで生きていきましょうっていうそういうシグナルなので、
みんなで生きていく気が全然ないし、
それができそうにない永井大介にとっては意味ってないんですよね。
世界には意味がないって、
金野さんがグッドバイブスでよくおっしゃる通り、
意味って別にないわけですよ。
外気温が40度だろうと、
40度なんて宇宙の太陽の表面とかすると、
もう冷え切ってるような世界ですから、
僕らの体温よりも高いから暑いという意味が付くわけですよね。
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ということは人間が健全に生きていくっていう基本方針がない限り、
意味ってないわけですよね。
あるいは意味というものが付いているのは全く無駄なものになってしまいます。
別に空が青く見えたりする必然性はないし、
信号が赤く見えたから止まらなきゃいけないとかいう必然性もないわけですよ。
これはあくまでもこの世の中できちんと生きていきましょうねという約束を
受け入れて初めてこういう意味があるわけですよね。
内的な、内的なんじゃない。
本当の母親なり父親なりが最初にやってくれることは
この世界の意味付けというものを自分たちがどうやって、
自分もどうやってできるようになるかと。
赤ちゃんから少し大きくなった子どもは、
もうこの話も何度もしてますけど、
意味付けのしやすいものを見せてもらえるわけですよ。
哺乳品とか茶碗とかママごとセットとか、
すべて物の意味が非常に分かりやすいようになっている。
あそこに緊急救命用具とかを見せても赤ちゃんは全然困っちゃうわけですよ。
意味が分かんないですからね。
意味が分かりやすいものだけを最初は見せてもらうことで
意味付けの練習を繰り返すわけですね。
この一番最初に培った能力というか、
一番最初に自分の心の中に入れて、
多分内的な母親がやってくれるようになった意味付けを
もう無駄だということになったら不倫はするわ、金はないわ。
仕事したくないのに仕事探すしかないわみたいな、
こういう社会で生きていく意味が全くなくて、
つまり偽りの自分でずっとやってきたのに、
偽りの自分の意味、存在意義がなくなって、
本当の自分だけになっちゃった時、
意味付けが崩壊する時があるんですよ。
これはちょっとただこうやって説明してもわけわかんないと思うんですけど、
僕はこういう経験が何回かあるんですよ実は。
学生時代ですね。
僕学生時代酒ばっかり飲んでて、昼から酒飲んでて、
頭が常にもうろうとしてたんですけど、
そうすると意味付けっていうのが外界の環境と不一致になってくるんですね。
意味をそこに見る理由ってないですから。
例えば自分が立っているんだけど、
頭が上なのか下なのかがよくわからなくなってきたりするんです。
だって上とか下って意味ですから。
別に上が上で下が下でなければならない理由って本当はないわけですよ。
脳内では映像っていうのは倒立してますからね。
こういうことってしょっちゅう起こるんです。
ご飯を食べてもご飯の味が全くしないとか。
だって味って意味ですから。
本当はご飯が美味しいという風に感じなければならない理由はないわけですよね。
いろんなそういうものが起こってくるんです。
これが多分逃亡失調症というものの契機なんですね。
意味作用というものが崩壊するというか、
意味作用というものが意味をそれこそなさなくなるんですね。
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だから全てが分裂していって壊れていく。
世の中が統一して見えるとか、
私が見た景色が例えばここは庭だとかいう理由ってないですから。
どこからどこまで庭とかって説明できないじゃないですか。
だからそれが庭には見えなくなっていくんですよ。
そういうことって起こるんです。
僕は永井大輔とかほど深刻だったわけじゃないんで、
酔っ払ってそういう風になるってことがしょっちゅう起こるという程度でしたけれども、
そういう風になっていくんですね。
村上春樹さんが書いた呪いの森の最後もそんな感じがしますよね。
ああいう感じの終わりになってます。
ただ私やっぱりそれからの方が断然恐怖がでかいなって感じはしました。
色っていうのはやっぱり絶大ですよね。
しかも赤っていう。
赤っていうのは空間に広がっていかない色なので、
だから世の中の空って基本的に青く見えるじゃないですか。
空間に広がっていって自然の色だから。
空間に広がらない色が世の中を浸すっていうのは、
完全に知覚と認識のコントロールしてるんですよね。
私たちは多分頭の中で。
多分頭の中で。
まずこれを見て次にそれに色をつける。
絶対色はつけてるんですよ。
色っていうのは世の中にないものですからね。
そういうような話があそこで描かれていて、
詰まるところ彼は怒りがあるんですよ。
あったんですね。
全く自分が認識できていない怒りがずっと彼を支配していて、
最後はその亀裂が自分の偽りの自分と本当の自分の亀裂が最大化して、
最初はスキゾイド戦略で生きてて、
次はスキゾイドのパーソナリティで多分障害を引き起こして、
最後にスキゾフェルミアという病気になっていくという、
すごい話なんですよね。
僕はどうしてもあれはやっぱり男女問題で見るっていうのは、
十分じゃないような気がしていたわけです。
心もそうですよね。
心はちょっとこういうテーマとは違いますけれども、
でもやっぱり甘えというものが、
これは土井たけおさんの考え方で言ってるんだけど、
受け止めてもらえない怒りっていうのが、
僕ら気づかないとまずいけない。
昨日そういう話をもらったんですけど、
全くそういうことなんだなと思うんですよ。
甘えようとしているのに誰もそれを受け止めようとしないと、
ああいうことになっちゃう。
自分すらそれを受け止めようとしない。
そしてないものとして放置してしまうっていうことの悲劇なんだと思うんですね。
心は一応受け止めてくれる人いたんだけれども、
なくなっていくんですよね。
どんどんどんどん。
やっぱりこれ自分で受け止められるようにならないといけないんです。
そのためにはまず自分が甘えようとしていることに気づかないといけない。
36:00
甘えられずにいてイライラしたり怒ったりしているってことも、
分かんないとダメだと思うんです。
分かんないと自分は甘えようとしていないと、
永井大輔がずっと最後までそう思い込んでいたようにですね。
あんなに甘えようとしているのに、
自分は全く甘えていないと思って生きようとすると、
ああいうことになってしまうっていう話を土井さんは書いてくれているわけです。
で、私は全くそうだなと。
だから思ったんですよ。
し、イライラしたんだとも思うんですよね。