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おはようございます、グッドモーニングバイブスです。
とはいえ、もうお昼近いんですが、いろいろとハプニングが起こりますね。
学校が始まりましたからね。
学校が始まるとスムーズにいけるかと思ってしまうんだけど、実際にはなかなかそういうわけにもいかないようです。
1月15日の15時からですね、オンラインでグッドバイブス勉強会のシーズン3の第1回をお送りします。
これ、第2回、シーズン2の、先月までやっていたのの改訂版で、仕事がテーマです。
昨日もこの話をしたんですけれども、まだ残石結構あると思いますので、実は私、未確認という状態なんですが、
たぶん、まだそこまでいっぱいいっぱいで満石ということはまだないと思うので、オンラインですしね。
よろしければ、新年から、またいろいろと騒ぎにもなったりもしていますけど、コロナも。
仕事をしていく上で、私も仕事をついさっきまで仕事の打ち合わせをしていたんですが、
仕事というのは、いろんなことが起こるよなといろいろ思うところもあったりしたので、
悪いことばかりでもなくて、結構いいこともいろいろあるんですけど、
そうした問題があるために、揺さぶられるじゃないですか。
欲打つっぽくもなりますし、打つにはならないですけど、欲打つっぽくなったりはしますしね、やっぱり。
激減していますけど、グッドバイ・ウスシって。
でも、なくはなっていないので、そういうことも起こるので、ぜひですね、
たまにはじゃなくて、改めて仕事についてのグッドバイ・ウスシというのを、
インストールしていただければと、そんなふうに思います。
昨日おとといと、マニックディフェンス、総敵防衛みたいな話をしたつもりなんですが、
それは久しぶりに、ドコンジョガイルの娘を読み直して、
あれはマニックディフェンスな人ばっかり登場するので、その話をしたくなったんだけど、
ついでにですね、完成させると犯罪者になりますっていう、なかなかいいタイトルだなと思ったんですが、
あの本は想像以上にですね、やっぱり硬い本で、
勉強になるんですよ。
で、完成させるということもさることながら、
要はあれはですね、
分離の選択ってやつなんだなと思いました。
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グッドバイ・ウスシというところのですね、
昨日もちょっとお話をしたんですが、
後を絶たない感じがするんですね、私。
人生で眺めていても。
いろんなところにそういうものの片鱗が現れますが、
そして、なんて言うんですかね、
やっぱり、
やっぱり、
やっぱり、
やっぱり、
やっぱり、
やっぱり、
やっぱり、
そして、なんて言うんですかね、
今の時代も、それをするのは当然であると。
昔からそうなのかもしれませんが、
当然であるというのが、なかなか反論のしにくいですね、
言い方でなされているんですよ。
それだけに、分離した後その人が、
じわりと孤独な方向に向かったからといって、
何かまずいことが起きているとはあんまり思われないし、
代わりに親身になって誰かがくれるわけでもないというのが、
大きな問題だなと思うんですけどね。
反省させると犯罪者になりますというのは、
そこを親身になる人がいないと困ったことになりますよね、
という話を、ある意味犯罪を軸に書いているんですね。
犯罪といえば、もちろん犯罪なんですけど、
例えば、万引きをした生徒に反省を強いると、
立派な反省文を書かせるということが、
言ってみれば、どれほどその子の孤独に追いやっていくかということを、
まず、そこから割とあの本の中核に入っていくんですよ。
孤独になるというのは、この場合、
孤独を強いるというのとは違うんだけども、
それ以外には選択の余地がないようなやり方で、
結局その人を孤独に追いやってしまうと。
どういうことかというと、
つまり、万引きをした生徒が反省文を書くと、
そのとき、心を閉ざすことになる。
そして、なかなかその心をオープンにする機会というのが、
そのまま得られなくなっていくというのを問題にしているんですね。
こういうことを問題にしている本が、
そもそも今まであまり見たこともなかったなと思うんですよ。
心を閉ざすというのって、
心の問題だからシールも何もないんですけれども、
私たちもよくあるじゃないですか、
オープンマインドとかって言いますよね。
オープンマインドでいきましょうみたいな話もよくなされるんだけど、
そうそう簡単にオープンマインドで行くわけにはいかないよっていう風に、
特にオープンマインドでいきましょうって言われるような人も
言い分としてはそうだと思うんですね。
よく読む会は内向型とかって言うじゃないですか、
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イントロバートとエクストラバート、外向的・内向的っていう、
どっちがいい悪いじゃないですよって盛んに言ってるんですけど、
明らかに僕の感じでは内向性な人はですね、
外向的な人をどっかちょっと見下しているようなところがある気がするんですよ。
でも外向的な人って羨ましいよねっていう、
その独特のコンプレックスをですね、
あそこに滲ませているような表現多いなって思うんですよね。
別にどっちがいい悪いはないだけでなく、
ソースを切り替えるわけにもいかないんですけど、
その内向的って言った時にですね、
心を閉ざしているという部分に関しては、
あんまり問題にはされてない感じがするんですよね。
でも内向的な人が例えば人混みに行くとすごい消耗をするとか、
消耗って言うんですよね、疲れるという代わりにわざわざ消耗という、
例えば人とワイワイやってても、
その後すっかりぐったりして家に戻ると、
これ精神分析では全く違った見方を取るんですけれども、
例えば作り笑顔とかね、
作り笑顔っていうのは結構僕は大事な問題だと思うんですけれども、
作り笑顔をしている人ってつまり内向的なわけじゃないですか。
で、その人が疲れているのは当たり前ですよね。
なぜならその人は警戒しているから、
これが例えば犯罪者みたいな人になってくると一段と進みますよね。
ある意味犯罪者という人は、
その人がどう見えようとどう振る舞っていようと、
多くの場合、内向的になっていくのをある意味強いられていくじゃないですか。
これはどういうことかというと本音を言えなくなっていますよね。
すでに立場上、
あの、私も多くの犯罪者に対して、
立場上、私もこういう時に気を使うって言葉が出てくるんだなと思うんですけど、
間もなく2月ですが、
娘が受験生だったりしますとですね、
だんだん本音を言うというのは難しい時期に差し掛かるわけですよね、
当人にとって。
私も経験があるんですけど、
本音を言うということの意味がですね、
ネガティブになってしまったりしかねないわけです。
それは落ちるかどうか不安ですっていうような本音ですよね、それはね。
この本音に周りがどういう反応をするか、
そしてそれがどれほどの意味を持つか、
不安だったら勉強しろって言われたりするじゃないですか。
このようにして人は心を閉ざすという方法を選択するきっかけを得ますよね。
これが受験だから全然いいんですよ。
これが犯罪だったらもっと遥かに進むじゃないですか。
おそらく早々本音は言えなくなりますよね。
反省文、立派な反省文を書くっていうことがどうして人の心にとって毒かというのを
反省させる犯罪者になりますには延々述べられているわけですけど、
立派な反省文しか書いちゃダメだからですよね。
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私は今回ひどい犯罪を犯しましたが、
この後のことを考えるとまたやってしまうかもしれませんが、
例えば本音だとしても絶対そういうのは書けませんよね。
二度と何とかをしないために何とかかんとかという
無反的なものを書くじゃないですか。
しかもそれがどんどん上手くなるという問題を書いているわけですよ。
どんどん上手くなるということは二度と繰り返してはならないという文言を
何度も繰り返し書いているわけじゃないですか。
僕らはこのことを実はよく知ってますよね。
よくやってるじゃないですか。
ワイドショーとかでも謝罪会見というのを
二度と繰り返さないためにということが何度も似たようなことが
繰り返されては同じ言葉が使われてますよね。
で、僕らはあれをなぜか求めるんですよね。
これは多分罪や罪と罰の問題ですね。
クッドワイブスだけが言ってるわけじゃないですけど罪と罰なんて。
ドッセイフスキーの小説のタイトルなんくらいですから、
いずれにしても罰したいわけですよね。
この人たちが罰されたことを目にしたいってわけですよね。
僕はこういう心理ってすっごく人の心にはあるなってよく思います。
ある種の罪悪感を持ちそうな事態に入ると、
人は他人にその罪悪感を可能であれば投げ、
その人が罰されてシュンとしているところを見たいんですよ。
そういうのってすごくいろんなシーンでよく見かけて、
罰を与えられたという自覚を認識している様を見るまで
流音が下がらないみたいなのが感じられるんですね。
反省文というのはまさに一番いい形式なんですね。
その流音が下がる瞬間まで文章で確認ができます。
ただこれをやることによって反省文を書かされた人は
たぶん絶対反省していないんですよね。
この本を書いた人は警察署のすごい偉い人なんですよね。
すごく説得力があるんですよ。
この人たちは誰一人として全く反省していないんだということを
この立場の人に書かれるとですね、
いかに不毛なことが少なくとも見積もっても不毛なことが
繰り返し繰り返し行われているということが
この方も書いていたんですよ。
本当はこれだったら何もしないのが一番マシなんだと。
これでは犯罪者を再生産してしかも手間暇と費用と
人手をかけてそれをやっているようなもんだと書いていて
たぶんこれはかなりそういう線があるんだろうなという感じがします。
見込みのある線という言い方をしますけど
この場合は見込みがあるというか
結構残念な線ですけど。
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つまり反省を強いるということは
相手が心を閉ざすように仕向けるわけです。
本音を言えないというのはそういうことですよね。
相手が本音を言わないその本音がどんなに聞き苦しいものであっても
本音であるところに意味があるわけで
どんなに聞こえがいい話でも耳障りが良くても
本音じゃない話をずっと聞いていてもしょうがないわけですよね。
この人が出所してその後どうするのかというのがポイントなのであって
立派な反省文を書いたということに意味は一つもないわけです。
それはただ罰死体という処罰意識、処罰感情みたいなものが満たされて
留院が下がったと、すっきりしたと
これを何よりも重視するならそれでいいんでしょうけども
たぶんたとえ建前であっても
これが一番重視されるべきですという人は少ないと思うんですよ。
自分の留院が下がることがこの場合最も大事ですとは別に思ってないと思うんですよね。
でも反省文は書かせると。
たぶん他にやることがないからなんじゃないかという感じもしますけれども
こうやって心を閉ざすと。
ただこれは社会的問題だろうし社会の側の損失でもあるんですけど
本人にとっての厳しさですよね。
つまり心を開けない人になっていくと何が起こるかというとですね
ここが僕ら無自覚なんですが孤独になるんだと思うんです。
なぜなら自分は本音で喋ってないわけですから
人には本音で話してほしいけど自分は本音では話さないっていうのは
だいたい無理があるんでこれをやると相互に本音では話せなくなるわけで
そうすると孤独になりますよね。
そうでなくてもテーマが犯罪だったので孤独になりがちな人々なわけですよ。
だけど私はこれを読んだ時に思ったのは
こうして僕らはスキゾイドを強いられるっていう感じが
スキゾイドってウィニコットの定義では偽りの事故ですからね。
つまり本音でないわけですよ。
本当の自分が隠されている。しょうがないですよそれは。
本当の自分が罪を犯した過度で罰されてバッシングされてるわけだから
本当の自分はオイソレとは出せないわけです。
だから偽りの自分というものを育てる。
そうするとつまり偽りの自分と本当の自分の間の亀裂が深くなって
そしてそれが社会的に確立していって社会的に引きこもるわけです。
社会的引きこもりなのか対人引きこもりなのかはちょっと違うにしても
結局その人が本当の自分の部分では人と接することができない。
そして人はそのことに感づくので何段距離ができてしまうんですよね。
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いろんな人と。これが静かに進行する。
けれどもこのことは問題だというふうには
私たちの社会ではなぜか最近あまり見てないわけですよ。
引きこもりが多いこと自体はすごく問題視されてるんですけれどもね。
なぜかこのことが静かに進行するのはそれほど問題だとは思われてないんですよ。
だって割と簡単なアドバイスとしてそういったひどい人たちとは距離を置きましょうとか
あなたが真に不利益をこむるような人と無理をして付き合う必要はありませんとか
内向的な人は繊細で想像力が豊かで
本当の能力は内向の中で育つんですとかいう話が
非常に強い勢力としてあるじゃないですか。語られている。
マニックディフェンスとなってくれば相手に噛みついて距離を取るというのに関しては
もちろんよくは言われないんですけど静かに離れていく
あるいは立派な反省文を書くことで心を閉ざしてしまうという部分については
あれほど問題にしている本というのはそうそう出会わない気がしますし
あの本はよく売れて読まれているようなんですけれども
似たような論調の本って増えてこないなというのはよく思うんですよ。
むしろ逆のことが書かれているケースの方が多いような気がします。
つまり立派な反省文を書く方が進められちゃうんですよね。
このどっち側から距離を取るにせよ、つまり社会の方から分離するにあたって
反省文を書かせている方は分離させているつもりはないんだと思うんですけれども
実際にはそういう結果にどういう結果になるかをそもそもあまり真剣に検討しているとは思われない
というのがあの本でもう一つ問題視されている部分でした。
心を閉ざしてしまった方は人と距離を取ってしまうんで
その瞬間に心理的な、よく言うあれですよ
心理的な壁を築くというやつを割れ知らずやっていく
そうするとその人は一番支援を必要とするタイプの人なのに
人の支援が非常に得にくくなる。なぜならその人は本音を言わない人になってますからね。
その人が本音を言ってくれないということは周りの人が知っているので
非常に支援をそもそもしにくいんですよ。
このような事態が僕らは犯罪者じゃないですけど
信仰させていく傾向を感じたんですね。あの本を読んでいて
つまり私は別に立派な反省文は書いていませんが
心を開かないというのはこういうことなんだなと
そして心を開かないというのはこういう結末を招いていくんだなと
どうしてもここで対人関係がめんどくさいからしょうがないという気持ちは出てきがちなんですよね
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これをイントロバートって言うんでしょう
だけれどもそもそも対人関係で疲れたり消耗なるものをするのは
この心を閉ざしつつ偽りの自分を駆使して人と関わろうとするからなんですよ
そしてややもするとですね、このやり方が正しいんだという調子なんですよ
このやり方は正しいとは思えないんですよね
他のやり方がどうであるかというのは一旦置いておくにしても
この偽りの自分を前に出しておいてその場をうまいこと高めること
おくみにその場を切り抜けてあるいは盛り上げたりして
家に帰ってからAirPodsとFacebookかYouTubeで充電をするというのは
まずいやり方だろうとは僕は思います今ではね
つまりこれは本当の自分はその寝床にしかいないんですよね
ここで環境としての母親というものを非常に感じさせるんですけど
そのベッドなり書斎なりは環境としての母親なんだと思うんです
その環境としての母親のそばに親なり奥さんなり旦那さんなりがいると
その人たちも環境としての母親なんでしょうね
この話をずっと延々してきたわけですけど
今唐突に持ち出しましたけども
この環境としての母親じゃないところに行くと
僕ら警戒心丸出しになるわけですよ結局
実際に偽りの事故というのが
対人関係におけるトラウマを持っている人ほど
多分うまく対人関係におけるトラウマを持っているじゃないですか
万引きした人なんて絶対に持ちますよねそういうものを
それを親衆というのはそれはさすがに語弊があるとは思うんですよ
万引きを咎められるというのはしょうがないと思うんですけども
でもやっぱりトラウマになることに違いはないですよね
だから心を閉ざすわけです
僕らは必ずしも犯罪を目撃されたわけじゃないけれども
多分親衆があったんですよね
何か嫌な思いをしたことがあり
だから偽りの事故というものを立派な反省文を書く人のように
育てていくわけですね
これを駆使して操るのはでも結構大変なことなので
これは常に警戒してやっていることなので
だから疲れたり消耗したり多分するんですよね
その間ずっと本当の自分というものはそこにいないので
孤独になるのは当然なんです
心理的には
こうして多分孤独が進行していっていると
そしてしかもそのことを社会は良いことだというわけですよ
人を警戒するのは当然であって
世の中にはひどい人がいっぱいいたり
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ひどい企業がいっぱいあったり
つまりハラスメントみたいな言葉がやたらあるということは
そういうことであって
引きこもっていく
必ずしも部屋から出てこないという意味ではなくて
ただ部屋の中でしか本当の自分は
くつろげないという意味で引きこもっていく
社会には出ているんですけれども
社会の中にいるときには
常に本当の自分はそこにはいないかという形を取ると
これが消耗なんだと思うんですね
それを一番ドラマチックで
分かりやすい形になったときが
立派な反省本なんですよ
という話を反省させると犯罪者になる
つまりこの孤独に人を追いやるというのは
その人を犯罪をさせるような方向に追い込んでいるんですよ
ということが書かれている
なかなか怖い本なんですね あれは
あの本を読んでいると非常に淡々としているし
本に書かれていることとはちょっと違うんですよ
本に書いてあることは
いい子を育てましょうというのはまずいという意味では
わりとよくある教育書のようにも読めるんですけれども
いい子を育てるのはまずいというよりは
本音を出せない人を作り出すのは
まずいということを書いているんです
そしてにもかかわらず私たちの社会には
あちらこちらに本音を封印するような仕組みを
ガンガンシステムを作り上げていって
しかもそのことにある種の安心感を得ようとしている
そこが問題の一番問題なんだという
多分あれは指摘をしています
僕らはああいう意識でやっているわけではないんですけれども
Good Vibesなんかもそうなんですけれども
万引きがテーマなわけじゃないからですね
いわゆる非公というような行動を人が取ったときに
まあまあ大体考えつくことってそう多くはないですよね
一つ一つが全て最悪の結果を招くようなことをしている
ということが本には書いてあるけれども
でもあの通りのことを大体行われる気がします
先生が出てくる、生活指導が出てくる、反省文が出てくる
非常に分かりやすい展開
こういう流れになっていくだろうなと
私は子供の頃もそうだったし
成人してからもこの流れで誰かが振る舞いが良くなったり
後世するというのは到底信じられないと思っている
後世という言葉がとても受け入れられる言葉ではないとは思っていましたけれども
でもこれ以外のやり方って
この世の中ではあんまり採用されているようには見えないんですよね
この親身になるとかって言うじゃないですか
24:02
私は先生が親身になってくれたことなんて一度も感じたことがないんですよ
学校の先生に親身になってもらったなというふうには
ただ私は何て言うんですかね
私はそういう非常にスキゾイド的な人間だったので
偽善以上のものはこの世に滅多にないと
ありと思っているようなところがあったので
学校の先生が偽善的だということが
嫌いだという理由には全くならなかったんですね
むしろどちらかといえば立派なものだと思っていたというのが本音なんです
常にある程度形式上を整えつつ
そういうことをするというのは容易なことだとは思わないので
そういう意味では
割と昔から本当に幼稚園児ぐらいの時から
先生には強い裏表があるというのが
比較的敬意の対象になっていたという記憶があります
少なくともそれに対して
なぜ子供というのが腹を立てるというのを
敏感に腹を立てるというのは
僕にはちょっと分かりかねるなという感じは持っていました
つまり人は本音を好かないというのは
本当に子供の時から思っているところで
これは何なんだろう
一つのトラウマだったのかもしれないです
ただあらゆる人がある程度
そういうふうに育っていくところを見ると
この種の本音を出すと嫌な目にあうというのは
ほとんど全ての人が経験してしまうことで
この点は人間社会というものにおいては
よろしいことではきっとないだろうなというのはありました
みんなが嘘をつきまくった方が良くなるという
何かそのトータルでその方がベターだというのは
やはりそれはそれで信じがたいものがありますからね
ただ今ではこれらは全てイリュージョンであって
僕らはそれを恐れすぎている
決して私たちは刑務所にいるわけじゃないので
あそこは良くないんですよ
そういう意味であそこって
僕知っているわけじゃないんですけど
何が良くないかというと
いろんな意味で出所期間を当然早くしたいわけじゃないですか
そのために一番良いのが立派な反省文に相当するものばかりだという
ふうに書かれていて
そのような世界において
人が本音を出すはずはないんですよね
なくなっていく
だからそういうのが良いはずはないんですけれども
ただ私たちの社会は別にそこまでではないと思うんですよ
本音を出したから
ただただちにみんなにバッシングされるとか
本音を出せばずっと損害を招き続けるというような
ある種のイリュージョンを信じきっているという方もいらっしゃいますけれども
それはつまり全ての企業は何らかの意味で
ブラック企業であるという話を
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心の底から信じているというようなケースもないわけではないと思うんですけれども
だから一線を引くんですけどね
一線を引くという表現が
つまり心を閉ざすという意味なんですが
この部分が非常に
何点ですかね
よく言われるというのは奇妙だろうとは思います
この部分はやむを得ずやるというのがせいぜいであって
距離を置くとか
そっと離れるのが
何かこう
何点ですかね
よく言われる
推奨されるというのは
何かしら違う
アプローチがあってもいいんじゃないかなという感じは
今は持つようになりました
これをただただ商用して
これ以外のことになったら
例えば精神が壊れてしまうじゃないかという話をされてしまったら
そこで何も言えなくなってしまいますよね
それが唯一の正しい正解なんですという
1たす1は2ですみたいな答えになってしまって
人と距離を取るしかないんですということになっちゃうじゃないですか
少なくともそこまで言うのは
おかしいんじゃないかなという感じはします
これはまるでですね
食品衛生上
手を消毒してから部屋に入るのが当たり前です
というぐらい当たり前のことにされているんだけれども
そのぐらいうもう言わせないぞという勢いを感じるんですけれども
そんなことを言い出してしまったらですね
人と接している時に
もう嫌で嫌でたまらないだろうし
それをしまくるに決まっていますし
なぜならばニュートラルですらないですからね
最初から偽りの自分で立派な反省文で
ひたすら相手が喜ぶような
嘘ばっかりついていなければ
必ず嫌な目にあって路頭に迷うんだぐらいな
そういう言い方になりかねない
さすがにそれがイリュージョンに過ぎないというのは
20代過ぎてからの私の人生
30年近くになりますけれども
おおむねそういうふうに言える
嫌な目に合わないなんてことはないですよもちろんね
だけれどもあの程度のことっていうのは
ここで語られている精神が壊れるという話には
いくらなんでも盛りすぎなんですよね
そういう気持ちになぜか
なりかけることはあるんですよ
今不意に思い出したんですけど
ある有名な作家さんのところに行って
結構厳しめなことを万々言われて
その後1週間ぐらい落ち込んだという記憶があるんですけれども
こういうのを大行に言うっていうケースって
いっぱいあるじゃないですか
本当にひどい目にあって
30:01
本当に鬱になったみたいな
言い方をすることもできるじゃないですか
でも僕が思うにあんなものは
2秒で忘れるべきことなんですよ
本当にだってどうでもいいことですからね
そしてこれを2秒で忘れるべきことを
一歩間違って本当に欲打つ状態
深刻な欲打つ状態にまできずりこもうというところには
必ず不思議な社会で言われている
世間で言われているようなことを
かなり鵜呑みにして作り出す
イリュージョンみたいなものを使うんですよね
あれやめるべきだと思うんですよ
本当にそういうひどい人が
いて本当にそういうことから
例えば病んじゃって
2年も立ち直れなくなるような人も
いるんですからみたいな話を
思い出してしまうんですよ
どっかで読んだり聞かされたり
そういう知識がなければ
2秒で忘れられる程度のことを
ここまで引っ張るのは
ある意味そういう
有無を言わさない知識の方にも
問題はあると思うんですよね
少なくとも