2021-07-08 25:51

【GMV 413】発達障害ですか?

精神的問題とは困ってるかどうかがとても大切な基準です
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おはようございます、グッドモーニングボイスです。
今日は短めに切り上げたいと思っていますが、
これを言ってうまくいった試しはない気がするんですが、
今日はちょっと用事もあるので、たぶん無理矢理でも短く切るんですけれども、
だからそうだ、CMなしでいきますが、
昨日水曜日なので、
クラズノケイドさんとぶっちゃけ相談というYouTube番組を収録したんですね。
一つCMしますが、これにぜひぶっちゃけて相談してくださいと。
これ無くなると、やっぱりですね、会った方がいいと今のところまだ私感じているんでしょうね。
そういうわけで、何か送っていただければ。
ちょっとしたことがいいんですよね。
そして具体的なことがいいんですよ。
どんなことでも構わないんで、本当に注文つけるのはおかしいんですが、
何でもいいんですよね。
でも本当に日々会ったことみたいなのは、出来事の割には興味深い部分が結構あります。
昨日ですね、この番組はいつか間もなく放映されると思うんですけど、
自閉的という表現が昨日のぶっちゃけ相談で登場しまして、
昨日のじゃないんですけどね、昨日収録したやつで、
私は自閉的に見えるというお話だったんですね。
何を言わんとされているかなんとなく分かるんですけど、
私この発達障害ADHDASDというのは、いろんな捉え方があると思うんですけれども、
非常に微妙な発想だなというのはあるんですね。
悪いというわけでもないんですけどね、私の中では。
一つ確実に言えることは、僕の中ではですね、これは言えるんですよ。
私は自閉的ではないんですね。
ましてASDでもADDでもないんですよ。
これはですね、なぜこんなことを断定的に言えるかというと、
診断基準云々ではないんですよ。
私の考えでは、これは私がアメリカで習った範囲内でありかつ、
いろんな僕が趣味的に読んできている心理学の本を読むその範囲の中で考えるに、
私の考えでは本に並びに周辺の人間が、
自分の中で、自分の中で、自分の中で、
自分の中で、自分の中で、自分の中で、自分の中で、
私の考えでは本に並びに周辺の人が、
その現象で困っていないものはそれではないんですよ。
精神障害という範疇においては。
私は自分が自閉的に見えるかもしれないし、分裂的に見えるとは思いますが、
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そうではないんですよ。今は少なくとも。
なぜなら困っていないからなんですね。
それはおかしいだろうと思われるかもしれないけど、
これはですね、そういうふうに捉えなければむしろいけないものだと僕は思うんですね。
まず、私は困ってないんですよ。これは確実にそういう印象がないんで。
いや、自閉的で大変困る。忘れ物も多いしということで、
この忘れ物多いっていうのはですね、自閉的だけで説明できるようなものでは全くないと思うんですけれども、
とりあえず今回は不注意だったり忘れ物多いという話から入ったとしましょう。
でも、私はそれで困っちゃいないんで。ましてそれのために診療内科に行く気はさらさらないんで。
診療内科とかは興味深いから行ってみたいとは思いますよ。
思いますが、この理由で困ってるから行きたいとは感じないんですね。
であれば、自閉的ではないんですよ。
この話、昨日すればよかったなと今日思ったわけですね。
で、いやいや、お前その自分は困ってないかもしれないけど周り困ってるかもしれないだろうと。
まあ、ありますよね。例えば奥さんが困っていると。
しかし奥さんは若干困っているのかもしれませんけれども、困っているからそれ直せとは僕に訴えてこない。
手相っていうのかな。訴えてこない。
かつまして病院行けというような発想をさらさら持ってない。
ということは周りの人がそれは障害であるというレベルで困っていることにはならないんですよ。
であればそれは障害じゃないんですね。
これを感主観性というか言ったりするんですけれども、減少学的な表現なのかな。
間の主観って言うんですけど、精神障害に限りませんが精神的な問題を扱うに際しては絶対に感主観性というものを言ってくると思うんですね。
客観的にそれが定まるという考え方は成立しない世界なんです。
僕はこれは実は身体の病気でも非常に微妙なんじゃないかと思うんですよね。
この番組で時々取り上げますが、今では違うかもしれませんけれども台湾の方では武道等でも何でもいいから注射は打つと。
注射を打たないとなかなか患者さんの病気は良くならない。
でも気候が効く前に注射を打つと大概治るという話があったりして、これはつまり注射をどう捉えているかによるんですね。
客観的かどうかというのはこの場合病状は客観的なものじゃないですか。
例えば失神とか。失神に危機もしない注射を投入すると注射を打つと治っちゃうと客観的じゃないですか。
ただしその失神は実際には何かのアレルギーで、もちろん武道等には高アレルギー的なものは何もないのは事実ですよね。
でも治るというのは客観ですよね。
こういうことがいくらでもあるはずなんですよね、病気ってのは。
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まして精神的な話はそうなんですよ。
だから困ってないのは病気じゃないんですよ、精神症においては。
自分も困ってない、周りも困ってない、それを病気と捉えることはできないんですね。
さらに非常に客観的に何かを決めたいという人には分かりにくい話を続けますと、
例えば今倉園さんと仕事をしていますと、倉園さんは別にそういうことで困っているという主想はないと訴えはなくて、
かつそれで病院に行きなさいという話はましてないし、自分の接種を受けなさいというふうにもおっしゃらない。
けれどもここに新しい人が登場しましたと、第3者ですね、新しい登場人物。
その人が佐々木さんは忘れ物はひどいし不注意だし、それはもうどうもADDじゃないですかって言い出したら、
ADDである可能性が発生するんですよ。
これはどういうことかというと、さっきの主観性なんですけれども、客観的にはだけでは絶対に決まるものではないんですよ。
だって不注意だとか忘れ物が多いだというものは、ただただその人だけの特性として存在し得ないじゃないですか。
学校に行きました、うちの娘も今日行きましたが、筆箱ないです、不注意だというのは学校が言うことですよね。
家にいる限り発生しないですよね。
つまりこれは関係性の中でなければ、そもそも存在しないはずの問題ですよね。
ということは付き合う人次第で、私は病気である可能性も病気でなくなる可能性も同時にあり得ることなんですよ。
例えば奥さんが変われば、私が何の変化もなくても、私はADDであり得るし、ADDでなくなり得るんですよ。
そういうものなんですね。
私は今例えばコロナがあるので、あまりセミナーとかやらないし、ましてや対面セッションみたいなのもしない。
つまり外へ出ない。
そうすると年社の時刻を間違えるだろう、会場を間違えるだろう、私によくある特性は全然表面化してこない。
この表面化って言い方がすでにそうなんですけど、潜在的にあるだろうっていうのはダメなんですよ。
一切表面化しないようなものはそもそも存在しないんです。
こういう世界においてはですね。
この話はどうしてもなかなか理解しがたいと思われるかもしれないんですけれども、
そもそも最近よく、私も最近脱校しましたけど、潜在さんみたいな話もそうですし、ADDみたいな話は特にそうですが、
関係性があって初めてそれが病気だと認識されるようなもの、病気というか障害あるいは特性と認識されるようなものは、
そもそもそれがどういう関係なのかっていうことがとても大事な要素になっているはずなんです。
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何にも関係性というものがないのに、そのような病気が単独で存在するってことはできないし、
関係性次第においてはそのようなことはそもそも問題にもならない。
問題にならないんだったらそれは問題じゃないんですよ。
問題じゃないんだったらそれは障害のはずはないんですね。
そもそも少々問題があるという程度では障害なんてとても言えないので、
障害というのはあくまでもその問題でみんなが困る。
本人も困る。本人は自覚していないとすれば周りはますます困る。
それが障害というようなものであるので、
だからそこには関係性というものが何らかの形で、
常に先に関係性みたいなものがあって、
その関係性の中でそういうことが見え隠れしてくるというはずのものなんですね。
で、でなんですけれども、
私は現代社会っていろいろといいと思うんですけどね、
でも大変人口的であることは確かですよね。
特に都市とかに住んでいると。
人口的でありかつ、なんていうんですかね、
神経質というのかな。
私は今回脱校した本でもそうだったんですけど、
甘えみたいなことをすごい話題にしました。
で、お前は甘えているとか言われるのをすごい恐れるところがあると思うんですね。
これをテーマにしているんですけど、
これある方がですね、
私のだいぶ前のセッションかなんかで、
自分は繊細でありたいんだっていうお話をされたことがあるんですね。
これはセルフハンディキャッピングとか、
失病利得ってフロイトが言ったことと結びついてくるんですが、
僕はそれを聞いたときにですね、
グッドバイブスではもっとスパッと言ったりしなくもないんだけれども、
それでケースバイケースで変わってくるんですけどね、
すごい考えさせられたんですよ。
これはやっぱり繊細であるべきだっていうのがあるようなと思うんですね、一つには。
それだけでなく、
無神経であるっていうことに対する
羞恥心とか罪悪感もなかなかのものなんだなっていうのをまず考えたんですね。
これはもう全く私がその話を聞いたときにはですね、
すごくある意味では偏見に満ちているとも思うんですね。
私は気がつくがあいつは気づかないっていうのは真実じゃないと思うんですよ、多くの場合。
ほとんどのケースではこの種の話が出るときは、
私は気づくがあいつは無神経だは真実になってるんですけど、
おそらくそんなことはあり得ないと思うんですね。
それよりもでも、私は気づくがあいつは無神経だは
それよりもでも、私が気になるのは
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気がつかないところで笑われてるとか、
気がつかないところから甘えていると指摘されるとか、
こういうことに対する恐怖感がすごい。
これはもう気づいていてもいなくてもすごい。
そのことをむしろ考えていきたい感じが最近するんですね。
とにかく気づいておきたい。
あらゆることに気づいておきたいっていう感じが付きまとうんですね。
これはどの障害がとかどういう特性がとかじゃないんですよ。
みんなそういう感じになるんだなっていうのは本当に思うんですね。
全然関係ないところからもそういう感じが出てくるんですよ。
メモとかね。
注意欠如みたいな話もエリリーだから注意欠如みたいな話も
注意欠如ですからね。
アテンションディフィシットですから。
アテンション、アテンションっていうのは
本当は関係性の中で出てくるはずのものじゃないですか。
さあここに集中しなさいとかって
サッカーでも集中やたら言いますよね。
あれはボールに集中とかポジションに集中とかそういうことですよね。
ところが注意欠如とかいった話になってくると
何に注意するんだそれっていうのがないんですよね。
アテンションデル。
学校で集中できないとかって言うんですけど
これ昔からみんながそうだ
昔からエリリーだったのを見逃していたのは
これもいわゆる気づかない問題なんだけれども
それとも昔と今では違う話をしているのか
そこまでわかんないんですけど
集中できない子だってザラにいたじゃないですか。
私が知る限り
うちの学校、クラスの人数多すぎたんですけど
50人くらいいたんですよ。
半数男子のうちの8割は
明らかに集中している気配はなかったですよ、私の目には。
むしろ一応授業に集中していられる自分は
相当変わっているんだなって当時だって思っていました。
だからなぜこれを今コトサラにすごく問題にしているかというと
例えば会社で仕事に集中できないとかって言うんですよね。
それが問題なケースもあるんでしょうか。
なんかやっぱりそれが問題なわけじゃないんじゃないのかなって思うんですよね。
集中できないとかっていうのは
集中するべき対象が何であるかが決まっていると言わんばかりですよね。
これに集中しなさいと。
それができない奴はダメだっていう話がどこかにあって
だってその人は何にも集中していないかどうかは
わかんないわけじゃないですか。
何かには集中しているのかもしれない。
ただ仕事に集中できない。
会社でそれだったら確かに問題かもしれませんけれども
私は学校に行ってて思ったんですよね。
正常な子供は勉強には集中できないんだと。
勉強に集中できることを正常とみなそうとするから
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みんな病気だって話をしなきゃなんなくなる面が
これはこんなに簡単なものではないんですけれども
非常に単純化して喋ってますけれども
そういう側面もあるだろうにとは思うんですね。
最近時間があんまりないのに
ややこしい話を始めるんですが
移行対象ってことを僕は時々口にしてます。
しょっちゅうしてます。
すごく僕は今これに取り憑かれてるんですけど
これいろんなところできっといいなって思うんで
この話をするんですが
移行ってのは移り行くなんですよ。
移行するんですね。
母親と二人でいる子供が一人でいられるようになるかどうか
これを非常に逆説的なんですけど
これをやらせるうちにこれができなくなるっていう話を
すごくしてるんですね、フロイト派の人たちは。
あの辺オカルトみたいな部分もあるし
ユングの意味ある偶然、セレンディビティって言うんですかね。
もう僕は明らかにフロイト派は先にそういう話をしていたと思うんですよ。
何かアレンジメントみたいな言葉をユングがうまく言い出すまで
なんて言うんですかね。
世の中に浸透させたところでユングの能力って
ユングの能力っていうのかな。
河合海本先生も大きいと思うんですよね。
でもそういう言葉って大事だったんだなとは思うんですよ。
ただ精神分析の世界って偶然を一切認めないみたいなところがあるんですよね。
すべてが必然だっていう感じがあるんですよ。
それってアレンジメントと何ら話は変わらないなって僕は思うんですよね。
異構対象っていう話は結局母親っていうのはですね
最初子供にとっては得体が知れないくらいでかい
ほぼほぼその母親自体とは出会わないみたいな言い方をするわけですよね。
これさっぱりわけがわからない言い方なんだけど
子供の頃って何て言うのかな。
言ってみればそれこそ繊細じゃないですか。
私小学校3年の頃、これも昨日話題に出たんですけどね。
なんかやたらと怖いホラー漫画をいっぱい読む女の子がいたんですよ。
すっごい僕はその子に非常に複雑な気分を抱いたことがあるんですね。
決して好きではなかったんですよ。
大体小学生男子でありがちな子だったんで
すぐあらゆる女子が好きになって
誰とも口聞かないんだけど
その子は別に好きにはなんなかったんですよ。
それだけでも覚えてるんだけど
ましてその子は梅津和夫さんとかね
ホラーばっかり読んでて
私も一冊借りて貸してもらってるっていうのが
すでに何かを感じさせるんですけど読んだんですよね。
その時すっごい当然なんですが不気味な女の子が
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ゾンビですよね。
墓から出てくるわけですよ。
このシーンがですね。
強烈に入ってきて
あれを対象と言うんですよね。
対象なんですよ。
悪い対象とかって言うんでしょうけどね。
とにかく対象とは何なのか
対象としか言えないから対象なんですよ。
あれを女の子という気には当時はならなかったんですよ。
脳裏に焼き付くみたいな。
こういうのをトラウマとか外傷って言うんですよ。
言うんですよ。
多分。それによって僕が
なんか身動き取れなくなったとか
心に傷が付いたとかじゃないですよ。
トラウマってのはきっとそういうことではなく
そのようなものは存在しないのに
普通の現実を圧倒するほど
現実的に感じられてしまう何かなんですよ。
まあ母親なんですよ。だから。
で、とにかくその不気味な女の子ってものがですね。
夢にも出てくるんですよ。
トラウマっぽいじゃないですか。
これトラウマなんですけどね。
すっごい私はその現象に興味を持ったんですよ。
いまだに非常に鮮烈だったという記憶があります。
めちゃくちゃ梅津和夫さんの
ある意味ファンになりました。
全部関係はしないですけどね。
あの人多作家なんで。
ところが大学の頃に読んだ時に
わくったらねえと思ったわけですよ。
これを俺見てあんなに鮮烈な思いを抱いたんだと。
この話は明日に譲りますけれども。
時間がないんでね。
その時に思ったのが
ちょっと自分つまんなくなっちゃったなとも思ったんですよ。
やっぱりこんなものにも
強烈なトラウマを感じられるって面白かったよなと。
これが繊細でありたいっていう気持ちと
多分関係があるんだと思うんですよね。
いずれにしてもあれは対象だったんですが。
大学生の頃の私には
もうすっかり対象ではなくなったんですよ。
意味づけされて絵に描かれている女の子という
名前をつけられる存在になっちゃったんですね。
これが多分私は対象というものの重要性を
よく言われている話なのであって。
そうですね。
うまく説明できる気がしないですよね。
明らかに存在しないのに
現実より存在しているっていうような
言い方をウィニコットって人がするんですけど
すっごく逆説に満ちた感じってあって。
サダコっていうホラー映画でしたっけ。
ビデオから出てきちゃうじゃないですか。
あの感じだと僕は思うんですよね。
なんていうんですかねあれは。
やっぱりうまいなと思ったんですよ。
でも考えてみると
アホくさいじゃないですか。めちゃくちゃ。
それってつまり
現実ではないからアホくさいんだし
でもなぜか私たちの心には
そういうのも現実だと思い込んでしまう
何かがあって。
これ倉園さんがよく言う
グッドバイブスで
怒る時のおかしな行動っていう話あるじゃないですか。
僕はそれは
要するにフロイト派が言う
妄想分裂ポジションだって思うんですけど
妄想分裂ポジションなんですよね。
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だってビデオから人が出てくるはずないですよね。
漫画に描かれている絵の女の子で
トラウマが起こるはずないじゃないですか。
妄想分裂ポジションなんですよ。
敬意というものが見失われている。
ということはどういうことかというと
それについて考えるという能力を
瞬間的にせよ失っている。
だからトラウマみたいな感じになる。
トラウマっていうのは
つまり解消っていう言い方をするんですけど
現実と出会っちゃうみたいな言い方を
またウィニコットっていう人はするんですよね。
私たちは現実と出会ってないんですよね。
現実と出会っちゃうと
そのビデオから出てくる
お化けみたいになってしまって
現実と出会っちゃうということは
それに名前が付けられないみたいな
事態が発生するんですよ。きっと。
昔生まれたばかりの赤ちゃんは
何事にも名前は付けられないじゃないですか。
だからその時代の赤ちゃんは
現実と出会っちゃいけないんだって
言うんですよね、ウィニコットはね。
でも出会っちゃうってことがあるでしょう。
そうすると外傷みたいなことになってしまうわけですよ。
それがアジア性コンプレックスみたいな。
お母さんは私のために
いろいろやってくれるはずだったのに
実は何のことはない。
自分の欲望を満たすために俺を産んだのか。
これが現実と出会うってことですよね。
少女漫画とかによくあるじゃないですか。
すっごい、例えばボシ家庭で
お父さんはいないけど私は幸せですみたいな
少女漫画の主人公がいるんだけど
不意にお父さんを連れてきちゃうんですよね、お母さんが。
これがあなたの新しいお父さんよみたいな。
こんな急展開ってアホ臭いとは思うんだけど
で、その主人公の女の子が衝撃を受けるわけですよね。
これがトラウマですよね。
で、さすがにこういうのを描いてる人って
分かってるんだと思うんですけど
そのお父さん、顔がなかったりするじゃないですか。
上半身しかなかったりしますよね。
コマの上と下が切れてるわけですよ。
顔が認識できないんですよ。
現実が恐ろしすぎて。
私が、吉西貞子ですよ。
あまりにも怖いから。
そのような現実は見たくもないから
出会えないんですよね、現実とは。
で、ネクタイしかないみたいな。
口元とかがしかなかったりするんですよね。
あれを不気味に表現できてるところがポイントだと思うんですね。
で、私は一番ポイントだと思うのが
下半身がないところだと思うんですよ。
この辺がフロイド的かなって思うんですよね。
フェ、ファルスとかって言うんですよね。
フェニスとは言わずファルスって言うんですよ。
男性機能みたいな。
ないんですよ、そのようなものは。
そんな恐ろしいものは見たくもないですよね。
だからないわけです。
で、それでトラウマになると。
でも大体少女漫画というのはそこから
じゃあ精神分析を受けましょうって話には
決して展開せず。
次に起こることは大体
同級生の男の子が接近してきますよね。
あれを私はエリプスって言うんだろうなっていう風に
今、漠然と考えているんです。
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で、話がなぜこういう方向に向かっているかというと
こういうことが勉強に集中できないとか
忘れ物が多くなるということと
明らかに絶対関係するじゃないですか。
この漫画の中でこの女の子が
不注意になっていったりぼんやりしていったり
忘れ物が多くなったりしても
変じゃないですよね。
すごく自然な展開に感じられる。
ここに、いやこの女の子はADDなんだって言ったら
よっぽど不自然ですよね。
あるいはこの女の子は繊細でHSPなんですって
おかしいですよね、話が。
僕は絶対にこの種の話の中には
わかりませんよ、脳の機能の話もあるんだと思うんだけど
いろんなことがあるはずで、そこには。
だから非常にこのアプローチ
つまりこれはですね
親子関係に恐縮されるのが
思春期の話だったらそうなりますけど
大人だったらそうはならない。
必ずしも目に見えるような形で
不倫だとか性愛だという話にはならないけれども
やっぱりここには対象というものは
きっと介在してきているはずだし
少なからぬケースではですね
忘れ物が多いし不注意だとか
物思いにふけちゃうということと
対象というものはきっと関係があると思うし
外象みたいなもの、つまり現実と
出会いたくないような現実と出会っちゃうとか
理想化されすぎている対象になっているお父さんとかね
頭の中にいるとか
そういうことがあるはずだと思うんですね。
あるいはそのお父さんが見当たらなくなったみたいな
駆け足で喋っているんで
わけわからないところが多かったかなと
反省しているので
また時間があるときに一生懸命喋ろうと思います。
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