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おはようございます、グッドモーニングボイスです。
思うところもいろいろありまして、シーズン2にしようかなと思ってもいたりするんですが、
だからといって何にも変わりそうもないなと思うところもあって、
私のっていつもそうで、自分の中では若干の変化が常にあるんですけど、
いわゆる外に反映されている気配はあまりしないということもとても多いんですね。
450回も来たことだし、ここらで特に理由はあまりはっきりしないんだけど、
自分の中での変化を若干反映させて、若干多いですが今日は。
シーズン2にしようかなと思いながらも、めんどくさいなということで今週もそのまま来ちゃってますけれども、
他のですね、ボイシーとかの話も聞かされたり、これあるんだろうな、きっと。
ラリコとかですかね。
でもなんかですね、僕は大体やり慣れたことをひたすらやるということ以外のことをあまりしたいというモチベーションが上がってこないんですよね。
すごい時間がかかるんですよ、そういうのを実際にやるとなってくると。
ということでどうなるかどうなるかというか、変化はあまりないんですが、
シーズン2という言い方をすることだけはあるかもしれません。
予告でもなんでもないです。
別に聞いている方にはあまり意味ない話ですね。
今日は心の傷というキーワードについて考えてみようと。
これはグッドワイブスと無関係ではないんですね。
なぜならグラズノケイゾーさんが心は傷つかないと、これは本にもはっきり書かれたりしていたと思うんですよ。
少なくとも言葉にされたことは何回かあって、
面白いよなと思ったんですね。
普通にみんな使いますからね、心の傷という表現は。
なぜ心が傷つかないかの理由もグッドワイブスらしくとても分かりやすく、
心には形がないから、実体がないというか物理的なものではないという言い方でもいいと思いますけど、
傷って物理的なものですからね、原理的、普通に考えると。
それも非常にですね、じゃあ傷ってなんだよということになってくると、
実は簡単じゃないような気もするんですけれども、そういうことです。
物理的なものではない、これは確かですよね。
で、脳には傷つくじゃないかという表現があるんですよ、これへの反論として。
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唯一と言っていいくらい僕が反論として聞いたことがあるのはですね、
なんと残っている反論はですね、とはいえ心は傷ついた感じがすげえするから、
なんと言われようと受け入れないというぐらいの、これはもうロジカルな話ではないんですね。
これはイリュージョンがあるというのと同じで、ここはもうそう思うということにしかけるぐらいの勢いなんですよ。
イリュージョンがあるというのは、例えば夢は存在するみたいな話なんです。
夢ってあれですよ、遠い将来のゴールとかいう話ではないです。
夜見るやつですね。見るっていうぐらいだから。ないのはもう確実ですが、そうは言っても存在するっていう、そういう言い方ですね。
夢の中に出てきた人とかは要するにいないわけですけれども、いるというふうに信じるくらいな感じですね。
こういう話は最後の最後まで残るといえば残りますよね。
仏教的な話ですよね、究極的に言うと。
無ですとかって仏教では言うけど、信じられませんって話をしているわけですよね。
仏教は宗教なんで、信じられませんということになったら、それ以上はないわけですよ。信じられないわけですから。
先日私も歯医者に行きまして、痛みはイリュージョンなのはわかっているんだけどみたいなことをいくら言っても、
あんまり治療中は意味なくて、麻酔してもらわないと僕じゃ到底耐えられない。
このじゃあ耐えられないってどういう意味なんだよっていうこともあるんですけれども。
麻酔をするということは、反応はあるということにもなるんですけれども、
逆に言うと反応しかないわけですよね。
痛みという言い方をしてみたところで、麻酔をかけてしまえば痛みというものは感じなくもなってしまうわけだから、
それはなかったも同然になる。
私一回だけ全身麻酔ということを経験しているんですね。
30分の間に内視鏡を検査をして、その間全身麻酔だったと。
無いです。何にも無いですよ。
寝たなと、寝たのかどうか分からないですよ。
何か変な苦いものを噛んでいるなと思って、次の瞬間には終わっていたんですよ。
本当に全く無いんです。寝ている感じとは全く違いますね。
時間感覚が消失します。
あれの体験は私にとって結構大きくて、
あれで私は時間というものは実在していないんだというのを確信した気がするんですね。
逆にびっくりしたのは、自分の意識が明快に繋がっている感じがするんですよ。
明快に。途切れた感じが全くどこにもなかったんですよね。
ふっと目が覚めたら終わっていたってやつで、
いつ寝たのかの意識も全く僕はなかったから、
その間30分というのはとんでもなくて、
ゼロ秒ですよね。文字通りのゼロ秒。
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0.1秒とかではないんですよ。夢を見たというのも一切ない。
完全に空白だったんですね。
あれでも私は時間というものは実在していないんだというのを私はそう信じたんですよね。
分かんないですけれども、少なくとも意識がでっち上げているものであることは100%間違いないなと、
私の経験の中で言えば、あるという認識を作り出していない限りはなくなっちゃう。
そういうものでしかなかった。
これはウッドワイブスの前に経験したことだった。
知る前に経験したことだったので、
ウッドワイブスの時にあの経験を真っ先に時間というものは存在しないと言われた時には全くそうだとは思いました。
心が傷つかないというのも、私はむしろ心理学を5年もやったのでアメリカで、
むしろ心が傷つかないというのは受け入れやすいんですよ。
心というのは非常に解釈的なものであって、
全然実体的なものではないんですよね。
その心脳って心と脳みたいな話をしますけれども、
例えば心のこういう状態の時に脳は間違いなくこうなんですという記述は現在のところほとんどできない。
ものすごく明快なものはできますよ。
真っ赤な光をガーッと当てられている時にどうなっているかというのは、
大体どんな人でもこうだというのは言えますけれども、
微妙な、もっと遥かに微妙な、何かそこはかとなく悲しいみたいなのを脳の状態見て、
URIでこういうのを見ていたら、この人は今何となく悲しいに違いない。
当たらないですよ、全然。
つまり脳と心というのは、一元の心脳は対応しているんだというふうに、
そういう証拠はいろいろあるから、対応しているんだろうなというコンセンサスは大体取れていると思うんですけど、
どういうふうに一対一対応している、一対一なのかそもそもということもありますけどね、
ということになってくると、それは非常に微妙なんですよね。
大体私たちって、FMRIが進んでしまったせいもありますが、
局所的にものを考えるじゃないですか、脳に関しては。
ここが光ったとか、最近これでも言いますよね、返答体モードみたいな、返答体がみたいな言い方をしますよね。
つまり場所と位置にひも付けちゃってる。
だけど例えばモチベーションみたいなものとか、やる気とかですね、流れなんですよ、どっちかというと。
ここからここにこういう流れが強い時みたいな感じなんですよね。
そうすると、局所なのか流れなのかだけでも実は結構いろいろあって、
そういう話を延々としていくとですね、全部のコンセンサスは全然取れてる感じにはならないんですよ。
大体人によっては、ありもしないものを見たりもするわけですけど、
ありもしないものを見ているかどうかを脳を探れば分かるのかというと、
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すっげー細かく探ればもしかすると分かるのかもしれませんけど、
じゃあ何見てるのかまで言えるのかというと、多分とんでもないですよね。
とんでもないですよね。全然今のところは分かんないと私は思います。
少なくとも脳だけ見て、この人が今何を見て何を感じ、どういうふうに思って、
次に何するのかまで全部言えるかというと、無理だと思うんですよ。
だから何にか関係しているみたいなことは当然あるんですけれども、
どう関係しているのかまでははっきり言うのは難しく、
つまり心が傷つくと脳が傷つくは別のこととしてとりあえず考えておいたほうがいいんじゃないかと思います。
脳は物質ですからね、なんだかんだ言って。傷は絶対つきますよ、そりゃ。
外から傷つくってことはあるわけですから。フェニアスゲージーはないですけど、
アナークってこともあるわけですからね。
もう一つ思うのは、今みたいなことを喋ってつくづく思うんですけど、
そんなものを客観的に明らかにしないほうがいいと思うんですよ。
できるってことになるとしちゃうでしょうけれども、
じゃあ心が傷ついたこと、脳が傷ついたことによって証明するのは、実証するのはいいことなのかというと、
一見傷つきやすいと思っている人はそれは歓迎するべきことだと思われるかもしれませんけど、
もしですね、自分は深く何かで傷ついたんですって経験をしたのに、
いやあなたのも全然傷ついてませんよってFMRIとかで言われちゃったらどうするのかと、
この経験は全く傷ついてないから、何をされたにしても問題ないんですって言われたら、
そういうことはあり得ることですからね。
こういう傷がつくことになってますなということになってしまったら、
全ての人がそうならない限り、そうではないことにされるわけですから、
こういうことっていうのもそれなりにあることで、
私は何でも客観的に明らかにするということは、とっても危険なことだと思うんですね。
だからそうでなくても微妙な問題に、あんまり明快なものを持ち込まないほうがいいような気がします。
ここまでは余談でしてですね、心の傷って何なんだろうと考えたんですよ。
細かく背景から掘り起こしていくと、今まで喋ってきたようなことを全部喋り直して2時間みたいになるので、
すっとばすとですね、東映ドイツ化が起こったとき、これがまず私たちが心が傷ついたと言っているときだなと、
最近これに関してはむしろ何の証拠もないのに、僕は大体の一定の確信を得るようになりました。
だからこれ実証可能な話じゃないですからね。しかもそんなことを精神分析家が言っているということですらないです。
僕が勝手に言っていることだということだけはご了承ください。
東映ドイツ化というのは、特に最近こうなんだなということがわかったのは、
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妻とやり合ったときにですね、妻が自分の心の中のお母さんに、
自分の心の中のお母さんと自分、多分ですね、僕の心の中よりも妻の心の中におけるお母さんというのはちょっと良くないんですね。
これは別に不思議なことではないです。
そのお母さんと自分の関係において、お母さんになっちゃうわけですよ。
そうすると当然、私は小さかった頃の妻になってしまう。
怒られまくるわけですよね。怒られまくるためにこの配役を、配役ですよねこれは。
キャスティングです。東映ドイツ化というのは後ほど言いますけれども、配役なんですよ。
だからこれは演劇なんですね。
とにかく妻、お母さんになると。
私もちょっと驚いたんですけれども、自分が娘に本気に近い怒り方をしたというとき、ないわけじゃなくてするとき、自分の母そっくりになっちゃうんですね。
このことすごいですね。僕は一つの衝撃とともに思い出すんですよ。
これってマナ文だ。マナ文に決まっているとも言われそうですけれどもね。
それこそ別に精神分析じゃなくても、行動科学でもバンデューラだ。
アルバート、Aバンデューラが言った通りですね。観察学習というものがあります。
だから私たちが繰り返し繰り返し目撃したものはそのやり方を学ぶんですね。
これはやっぱり内的対照というもんだよなと思うんですよ。
怒り方って自分がインストールしているんですね。
それはどっちかというと好きなことじゃないから、いい経験じゃないから、若干に背を分割していきますよね。
自分の心の中で。
だから怒ったお母さんと怒られているときの自分のセットでインストールしておいて、
しかもそれは無意識の方面に追いやってあるわけですよね。
これが出てくるわけです。怒るときには。
だから東映ドイツカが怒るんですよ。
だいたい腹を立てるときは、その度合いが強ければ強いほど東映ドイツカが起きて、
インストールしてしまった自分の母になってしまう。私の場合。
当然怒られている自分の娘や昔の私ですよね。
こういう構図になってしまうんですね。
それが一瞬で怒るから、まさか自分ね、怒ったときの母とかすげえ滑稽だと思ってたんですよ。
17、8の頃から。だから二度と絶対自分が親になったらああはならないぞと思ってたんですけど、
娘がたぶん1歳か2歳の頃だな、なんかあったんですよね。
気がついたらそっくりの口調で。
で、私あれ意識的にやれと言われてもできないです。恥ずかしくってできないんですよ。
私は激下手な人間なんですよ。なかなか自分であるってことを忘れるっていうのが部分的にも下手で、
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なんかやっぱりね、こういういかにも自分らしい喋り方なんて、
これはこれで大好きなわけでは決してないので、演劇とかできる人羨ましいなとかってよく思ったんですよ。
特に女の子ナッパするときとかね。
絶対ね、自分のままでいくよりはもっとかっこよくいけるはずだとか思ってたんだけど、いけないんですよね。
ところが母のようになりたいと思ったことは少なくとも怒るときなんかなかったけど、
母そっくりなんですよね。
で、やれと言われてもできないんですよ。
だから本当にとえどいつかで無意識の役割を担うんだなと。
で、これが妻に怒る。
そうすると妻が私に怒る。
その時の妻は私の義理の母になりますよね。
義理の母になる。
ってことはもう全く怒られてて怖がる必要は本当はないわけですよね。
義理のお母さんが怒ってるのは妻の小さかった頃に決まってるんで、僕関係ないんですよ。
こういう言い方あれなんですけど、間違いなく関係ないんですよ。
何の関係もないんですよ、これ。
だから怒られても怖いと思う必要は全くないし、
自分が責任を負う気持ちになる必要すら全くないんだっていうのはあれでわかったんですね。
これが怒るときが心が傷つくと言ってるときです、多分。
この体験非常に不愉快なものなので、不愉快に決まってるわけですよ。
だって自分が不愉快だから分割して無意識の方に追いやってた経験がほとんどのはずですからね。
母親にまつわるものだけじゃありません。
多分ご両親にまつわること、先生にまつわる嫌な思い。
嫌な思いでばっかりなんですよ、基本的に。
よかったら分割する理由がほぼないわけだから、悪いからこうしてあるわけですよね。
特に私たちのごく普通の健常な、健常なっていう言い方をしちゃいますが、
いわゆるカウンセリングを常時必要とするようなわけじゃない人間が
同英同一かというものが体験するときは大体あんまりいいことじゃないんですね。
だから演劇っていうのが、さっき途中敗役って言いましたけど、
できるっていう人はこの種の訓練を別途積むんだろうなと。
自分が好きな人になることもできるわけじゃないですか。
私はそういうことをする必要はないわけですよ。
自分がいい体験だったら全部自分の中に入れときゃいいんであって、
わざわざ無意識のほうに追いやっておく必要はないわけですからね。
嫌な体験ばっかりだから、真に迫って怒ることができるとか、
真に迫ってすっげえ嫌な気分になることはできるんですよ。
そのとき他人になっちゃうんだけど、自分自身でいるというときは大体いいときなんですよね。
たぶんここがポイントなんだと思います。
分析なり考えながら、自分自身の体験によって
カウンセリングなりを常時必要とするという人は、
いいときの自分までどこか分割されているってことがあるんでしょうね。
そういう経験がやっぱりあるんだと思うんですよ。
良い母親の内的対象という表現があるんですけど、
良い母親だったら内的対象にする必要がないんですよ。
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やっぱり。内的対象っていうのはたぶん無意識感があるんで、
無意識の方面にいってるって感じがあるんで、
いい母親なのにどうして無意識のほうに追いやられなきゃならないのか。
そこにやっぱり何かあるんですよね。問題が。
とにかく問えどいつかっていうものが行われると。
特に嫌なのが、やっぱり妻に怒られたとき、
妻はギリのお母さんになっちゃう。これが嫌ですよね。
なぜ嫌か。私は勝手に解約を振られて、
しかももう全然自分じゃないものに、
お前怒られたときの私、やんなさいってことですよね。
止まったもんじゃないというか、
大変理不尽なものを感じるのは、これが理由だったと思います。
僕はこれを逆に常に考えてて、自分の母に怒られてるときの、
もちろんそういう部分もあるんですけど、
僕の中ではそっちが持ち出される。
だから両者で解約をやっちゃうんですよね。
要するに私の中では、私の実の母に怒られている子供だった頃の私、
対、妻は私から見ると、私の母。
だけど妻から見れば、妻のギリの母になっている。
私のギリの母になっている。妻の実の母になっている妻と、
子供だった頃の自分が私に投影される。
ここでまずスムーズにいかないわけですよね。
だってお互いがやろうとしている役がちょっと違うんで、微妙に違うんで。
私はどっちかというと、子供だった頃の私でスタートしちゃってるんですけど、
いつしか妻の小さかった頃にさせられていくわけですよ。
だって向こうからすると、しっくりこないわけですよ。
人の子供が怒ってたり、自分の子供が怒らない。
だから自分の子供にならない部分は全部排除されていくんですよ。
ここでまず怒られるわけですよ。
私が何か言うじゃないですか、それはろくなことじゃないわけですよ。
要するに何も言っちゃダメなわけですね。
私の妻が子供だった時、それも怒られた時のように反応しない以外の反応は、
全部攻撃の対象になっていくわけですね。
だからこれはオカルトじゃないんですよ。
これを繰り返しやっていれば、必ずそういう構図にはめられていくはずなんですね。
何しろ口答えという表現になっちゃうわけですから、
いやそういうつもりじゃなかったとかもダメなわけですね。
言い方がそもそもダメなわけですね。
こういう風に考えていった方が、私が経験してきたことにピタッとマッチするなと。
人に怒られている時、大体こういう感じだなという感じがするんですね。
したんですよ。
これが一つ、正しさというものと関係して心が傷つくという現象は、
こういうことなんじゃないかと。
もう一つが、もっと正しさと関係ないわけではないんだけど、
怒られることばかりが傷つくじゃないんで、
もう一つ心が傷つくというのが、
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ウィニコットが言ったところの環境途絶ってやつなんですね。
この環境途絶と内的対象の関係っていうのも、問題として一つあるなと思ったんですけど、
一つに言えることはですね、どっちも本当の自分じゃないということ。
内的対象の母親なんて、どう考えても自分じゃないですよね。
自分なんだけど、母親役をやっちゃってますからね。
つまり、強引に自分じゃない人間の役を、しかもほぼ無意識のうちにやらされている時が、
傷つくということと関係があるんだと思うんです。
傷を思い出すんですよね、これどっちかというとね。
もう一つが、やっぱり傷を思い出すんですけど、
環境の中にいると思ってたんだけど、いきなりそいつが途絶する。
このですね、環境としての母親っていう観念はあるんですよね。
環境としての母親っていう観念は、実は絶対に必要なもんだというのはよくわかったんですけど、
なるほど、これの意味は理解しがたいなと思ったんですよ。
例えばなんですが、小さい子がお砂場遊びで遊んでますと、
それが母親なんですよ。
そういうことなんだなということがなんとなくわかったんですよ。
お砂場遊びで遊んでますと、友達と遊んでますと、
友達と遊んでますと、そこに母親はいないんですよ。
だけれども、そのお砂場遊びで安心して遊べるということは、
その遊び場、ママごとのセット、大体お母さんが買ってくるんですよね。
用意されているものは全部お母さんなんですよね。
環境としての母親なんです。
こういうことなんだなと。
生まれてきたばっかりの赤ちゃんはこればっかりだという、
この中にしかいないということをユニコットは言ったんですね。
だから、内的対象としての母親なんてそこにはいないんだという話なんですよ。
内的対象としての母親みたいなのを作っちゃうことも私たちはありますけど、
作るわけですよね。
作るまではどうなっているんだということが、
クラインの説明の中にはないわけですね。
その前どうなっているのかというと、
環境としての母親に包まれているんだという言い方なんですよ。
その時、母親は実体としてはいないんですね。
ただ、環境としての母親がそこで常に環境を供給し続けてくれると。
で、これが途絶しちゃいけませんよという話なんです。
ただ、ユニコットという人は逆接的なんで、
途絶もしなきゃいけませんよというのをアンに言ってるんだけど、
とにかく母親はそこにいないと。
ついでに言うなら赤ちゃんもいないと。
つまり、セットで一人なのであって、
どっちかだけがいることは絶対ないという言い方なんですね。
例えば、おままごとの水なり、お椀なりも全部お母さんなわけですね。
だけれども、ちょっと大きくなってきた頃、
まさにおままごと遊びができるようになってきた時には、
子どもの方でも少しは自分でその環境を作り出せていくわけですよ。
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だけれども、子どもはそのことに最初は気づいちゃいけないって言うんですね。
気づくとお母さんがいないことがわかっちゃうじゃないですか。
お母さんがあくまでも作ってるものなんだけれども、
それは全部赤ちゃんは自分が作ってるものだと勘違いしているって言うんですね。
勘違いしているということは、
誰が作ってるのか実は全然わかってないってことなんです。
わかっちゃダメだよっていう話なんです、これは。
わかるってことは、自分一人ぼっちだということに気づいちゃうんで。
それは新しい展開なわけですよね。
そこまでまだ行ってないのに、そういうことに気づいちゃダメですと。
その時におままごとセットっていうのが出てくるわけですよ。
自分がそれを用意しているのか、お母さんが用意しているのか、
微妙な段階があって、少しは自分が用意しているってところから始まるしかないじゃないですか。
自分が用意しているわけだから。
お母さんがましてそこにいないって時も出てくるので、
段々増えてきますよね、そういう時間は。
この環境が途絶すると傷つくんですよ、心は。
心の傷というか、そういう意味で環境が途絶しましたということに気づいちゃいました。
ということが心の傷。
これなんですが、これと私たちは一体何の関係があるんだろうと、
僕もずっと思っていたんですね。
例えばなんですけれども、こういうおままごとをしている時に、
今お母さんに包まれていると。
そこにお母さんいないんだけど、お母さんに包まれていると。
お友達とおままごとして遊んでいると。
ずっとそうやっていて、お母さんの中にいるからすっかり安心しきって砂場で遊んでいて、
気がつくと真っ暗みたいな。
これが途絶ですよね。
途絶というのはセットがそこからなくなるとかそういうことではなくて、
砂場はなくならないですよね。
あるんですよ、物理的には。
でも心理的になくなってしまう瞬間というのが来ますよね。
場合によっては。
気がつくと真っ暗で、誰もそこにはいないと。
そしたらもう子供はさっきまでの心理というものを全く維持できなくなりますよね。
そこにおままごとセットがあろうと、砂場があろうと、全然何にも機能しなくなる。
何にも機能しなくなる。
つまりそれに心理的な何かがそこにあったんだけれども、なくなっちゃうわけですよ、不意に。
エニコットが多分言っているのは、こういう心理状態に精神病の人はなるんだということを言っている。
急に叫び出したり、急に泣き出した時にはきっとこういうことが起きているんだと。
私たちにはこういうことが本当の意味では起きないんですよね。
本当の意味では私たちは環境としての母親が完全に途絶されるということはほぼない。
よっぽどひどいことに直面すると怒るんですけど、ほぼない。
だから環境としての母親というものは途絶しない。
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まして小さい子供の場合、まず途絶しないんだけど、たまに今みたいなことが起きますね。
真っ暗い中で自分一人で遊んでいる、夢中になって遊んでいると。
で、めちゃくちゃびっくりしますよね。
これが傷つくということです。
ということを経験すると子供は何をするようになるかというと、
こういう目に二度と会わないようにするために、状況をモニタする能力というものを発展させるわけですよね。
まだ夜真っ暗になっていないか、友達はいなくなっていないか、
お母さんはちゃんといるのか、家まで自分は帰れるのか。
これが偽りの事故と、ユニコットが呼んだものです。
フォールスセリフですね。
これがないということはあり得ない。
私たちは、つまりこれは絶対ありますね。
自分を世話する自分って言うんですね。
自分を世話する自分は本当の自分じゃないですよってここでは言っているわけです。
自分を世話する自分、環境をモニタしている自分というのは偽の自分だと。
これは本当の自分、つまりそこで楽しく遊んで夢中になっている自分のためにいるのであって、
逆になっちゃいけない。
でも人によっては逆になっちゃうじゃないですか。
こういう時にグッドワイブするように言うと、世の中を信頼できているかとか、
だからエリック・エリクソンも信頼VS不信というのが01歳児にあるんだということを言ったんですけれども、
そういう信頼ですよね。
親を信頼できているのかとか、そういう話です。
自分を信頼できているのかとか。
だって自分で家に帰らなきゃならないですからね。
不信感が強くなれば強くなるほど、このモニターは強めなければならなくなるのは当然なんですよ。
友達がすぐ帰っちゃうんじゃないだろうかと思うと、まももとに熱中している場合ではなくて、
常時友達の動向に気を配ってなければいけない。
たぶん心が傷つきやすいと言っている人はこれを言っているんだと思うんですね。
人の顔色を伺うという話を私も本にして10月に出るのでよろしくお願いするんですが、
要するにこれなんですよね。
これなんですよね。
このことが心配であればあるほど、人の動向に気を配っていないようにはいかない。
何が起きるかわからないということが問題なんで、
気がついたらとっぷりという状態を避けたいわけですからね。
だから心の傷というのは思い出すものであって、
それは環境が途絶したという実態に直面したということ。
そうするともう自分は亡くなってしまうんですよ、極端に言うと。
極端に言うとですね、それまでやっと自分が作り出してきたもの、
つまりおままごとセットですけれども、
そういうようないかにも子どもらしい弱い感じの自分という、
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自分がそこで遊べる空間、可能性空間みたいな言い方を見に来たらしているんですけど、
そういう空間がいきなり消失して、現実に直面して、ものすごく驚くと。
これを避けるために、自分を世話する自分というものを用意して、
熱中するのはいいんだけど、心を起きなく熱中できるように自分を二つに分けるんですね。
外を見張る自分と、そこの中で遊ぶ自分と。
でもこれをやりすぎると何が起きるかというと、
絶えず外に気を配り続けている人というものが主体みたいになってしまう。
私はこういうことがどうしても文明みたいな世の中では進展しやすいだろうなと思う。
常に見張る自分みたいな方が優勢になりやすい。
これは脅迫神経症の始まりにもなるだろうし、いろんな問題の…
だからウィニコットも同じようなことを言うんですけど、
ホールズセルフというのは全ての病理の源泉にあるんだと。
それはまあまあたぶんそんなところなんでしょうねっていうぐらいなんだけど、
まあまあたぶんそんなところなんだろうなっていう感じがやっぱりします。
そういう人っていっぱいいらっしゃるわけじゃないですか。
HSPの人もある意味そうですよね。
要はちゃんとしていることが何より大事なんだということになっちゃうんです。
本末が逆転するんですよね、どうしてもこの話、
この心理状態をあまりにエスカレートさせると。
結局何時から何時まで遊ぶとか、金がなったら帰るとか、
そっちが目的化していくわけです。
その方が安心なことは確かです。
大変なことは起こりうるわけですからね。
真っ暗になったところで熱中して遊んでいたら。
でも真っ暗なところで熱中して遊んでいるのが本当の自分じゃないですか。
そこでその人は言ってみればミニコットが言うところの生きているわけですよね。
そうじゃなくてお友達が帰る時間を確認する。
その時間になったら帰るように自分は常に準備している。
それは死んでいるんですよね。
彼の言葉を使うならば死んでいるんですよ。
明らかにそういうのってありますよね。
例えば会社の忘年会とかでも、
仕切ることが目的みたいな人っていらっしゃるじゃないですか。
そういう風になっていっちゃうわけですよね。
どうしても。
まるで人生の儀式みたいになっていく。
だからオブセッションというのはそういう病気なんだと思うんですよ。
全て何か本末転倒なものが出てきて、
手を綺麗にするというのは、
手を綺麗にすることが別に目的なわけではないんだけど、
手を綺麗にすることが目的化するんですよね。
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そうすると終わらなくなってしまうわけです。
家計簿なんかでも、やっぱりそうですよね。
お金を使うということが、あるいは稼ぐということでもいいんですけど、
生きているということですよね。
それを記録するというのは、
そっちに使えるものですよね。
家来ですよね。
家来と主人が逆転しちゃうわけですね。
心を傷つけたくないからなんですよ、これは。
そうやってとっぷりと日が暮れてしまったことに気づかないというのは、
幸せなことですよね、ある意味では。
それは不幸なんだって考え始めると、
フォールズ政府が強くなりすぎてしまう。
それがつまり、
この2つを合わせて考えてみて思うのは、
私たちって結局、ある程度は、
何て言うんですかね。
何かの役をやるというか、
何かの役をやるというか、
何かの役をやるというか、
それは、
何かの役をやるということなんですよね。
何かの役をやるというか、
何かの役をやるというか、
何かの役をやるというか、
生き生きとしているという言い方になるんですけど、
ちょっと違う言い方ないかなと思っているわけですが、
環境としての母親というのもそうで、
1人になると何をしていいんだかわからなくなる話あるじゃないですか。
一方で、1人にならないと何もできないという人がいらっしゃったりするじゃないですか。
どっちも環境としての母親とミニコットが呼んだものがない、少なくとも亡くなりかけているという問題だと思うんです。
1人でママごとをしていられるという子は、2人か3人でもしていられるわけですよ。
1人になれるわけですよ。
この能力がないと、常に人がいるときにはその人の動向に気を回してしまうんです。
その人自身は何も熱中してやることができなくなっていく。
これと、本当に1人になったときやることがないというのが同じことだと思うんですよ。
フォールスセルフが強くなりすぎている。
この問題、心の傷とはちょっと別のところにありますけれども、
多分、1つの解決というのかな、1つミニコットが提出しているのは、
誰かしらになる、ただし自覚的になるという感じなんだなと思います。
仕事ってまあまあそうですよね。
将棋指しというのはいないわけじゃないですか。
それは将棋指しというものを演じるわけですよね。
演じているときに将棋指しになっていることはすっかり忘れていましたというのは大したものだけど、
まあそうはならないですよね。
私もこれを喋っているときそうはならないです。
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やっぱり演じていますよ。
ポッドキャストを喋っている自分というものになっています。
まずこれは人工的に作り出しているものですし、やめようと思えばすぐにやめられるわけじゃないですか。
おかしいですよね、これやめられないと。
ここが東洋ドイツ科と違うんですよね。
東洋ドイツ科は気がつくとそれになっているという感じなんですよ。
つい最近発見したと私が考えるぐらいであって、自覚症状がゼロなんですね。
怒られていたときの自分になっていたんだなというのは後から考えて考えてようやく発見できるレベルで、
あるいは相手は実の母親の怒っているときになっていたんだというのは多分相手は気がついていないんですよね。
つまりそれは演劇に近いものなんだけど違うものなんですよ。
演じているつもりはないんですよね。
こっちが東洋ドイツ科だと思うんですね。
マンハゴトというのは子供ですら演じているということを知っていますよね。
これを知っててやるというのが多分大切なことなんだろうなと思うんです。
知っててやっているんだけれども、いつしか本当の自分がそれに十分入れるようになる。
だからやめられるんですよ、すぐに。子供はすぐやめますよね。
親が呼びに来たりすれば。
これって野球選手とかなんでもそうなんですけれども、演じているはずなんですよね、人工的に。
これをやっていることが自分で自在にできるようになる。
だから仕事をやるというのが孤独でなくなる一つの重要なファクターになるんだと思うんですが、
私も物を描いていて、特に締め切りに追われているぐらいのときに、孤独感とか考えませんからね。
完全にその締め切りのことに頭は集中できますから。
それって要するに物描きになっているわけですよね。
でも私はイコール物描きという存在ではないですよね。
本を書いていなくたって私を辞めるってことはないので、
この東映同一課とは違う役割というものを自分が入ることができるようになったらですね、
多分傷つくっていうことから、傷つくってこととは対極に近いところまで行くと思うんですよ。
傷つくというのは結局この種の役割を剥奪されるか、出なければ東映同一課に入ってしまっているか、
そのどっちかが非常に起こりやすい、起こりそうだということを常に心配しているっていう、そういうことなのかなと思います。