番組の概要と目的
おはようございます。人生相談のための精神分析的ラジオ、第1216回をお送りします。
7月4日、金曜日、8時42分です。
もはやですね、少し遅れましたけど、暑さ対策となってきましたね。
この番組、さっきちょっと偶然なんですけど、偶然調べたら、偶然調べるっておかしいんですけど、
グッドモーニング・バイブス時代だと思うんですけどね、おそらく。185回ぐらいまでしか遡れなかったんですよ。もっと前があるんですけど、その時が2020年の
受来だったんで、つまり今月ですね。そう考えると、5年目なんですけど間もなく。多分その前に5年ぐらいやってた気がするんですが、まあそれはポツポツだったんでしょうね。
なんか、nokiba talkとか言っていた時代から、数えると10年ぐらいになるのかもしれないんですけど、10年にはならないにしても、7、8年にはなるような気がします。
少なく見積もっても7年にはなってると思うんですよね。 コロナの前からやってたことは確かなので、コロナと共に始めたわけではないですからね。
グッドモーニング・バイブスとか、グッドモーニング・ボイスとか、この時代長かったですね。今のように精神分析に偏るようになりまして、
今どころかそこを変えずにいるわけですけど。 力度にしちゃいたいというのもあるんだけど、知名度を下げる上にめんどくさいことになるから放ってあるわけですけどね。
はい。 という話がしたかったわけではなくてですね、暑くてぼーっとしてるからついついこういう話をしちゃっただけでして、
いやもう本当にこの暑さがね、この番組の今や、麺を握ってるんじゃないかと。それは涼しくなれば当然できるようになるってことなんだけど、
本当に今ネッククラーを2つして、扇風機を直手にして、もうとにかくやばいわけですよ。
これここまで来ないとできなくなってきつつあるという。 それでもまだ最高気温30度の世の中なんで、これが36度とか7度とか言い出した時に、
どうやってやろうかなーって今、そんなこと考えてても無駄なんで、いざとなったら休むしかないんですけど、
本当にこう、とてつもなく暑く感じるようになりました。私、高年期障害が依然として続いてですね、いてですね、そのこともあるんですよ、多分ね。
はい。
で、ようやくちょっと頭がクリアになってきたんで、本題に入りますと、3ヶ月チャレンジが現在11期絶賛募集中でして、
私の3ヶ月チャレンジのホームページ作ったんで、そちらを見ていただけると一番ありがたいんですけれども、
体験談というおかげさまで、体験発表的な、なんだろうな、とにかく3ヶ月チャレンジいいよって言ってくださっている参加者さんの声、これだ、参加者さんの声を
家族関係と心理的影響
掲載もさせてもらいまして、いかにもそれっぽくなってきているわけですよ。あれをもっと拡充させねばと思ってるんだけど、
全くできていないままですが、11期は絶賛募集中です。
でですね、第11期の3ヶ月チャレンジは来月から始まるわけですが、その前に3回お試しセッションというものをやっていただきたくてですね、
これをやったほうがお互いのためにいいだろう、少なくとも参加者さんには絶対これをやっていただいたほうがいい。3回私と話してみて、それだけでも嫌になっちゃうのに、3ヶ月も続くのって嫌じゃないですか。
そのことを考えてみてもですね、やっぱり3回っていうのを、しかもこの3回をやっても3回分はチャレンジに参加さえさせていただければそこに充当できるから、実質無料になるわけですよ。
だからそんなことはないので、興味持っていただいている方はこの3回セッションというのをお試しいただくといいのではないかというふうに思っております。
2万円プラスでですね、で3回です。
先日ですね、とかりつけ心理師っていいんじゃないかっていうのをXでチラッと見まして、それ1回7,700円だと高いから30分にするかなみたいな書いてあったんですけど、
いやいや、もう1回7,000円でも3ヶ月に1回とかならいいじゃんとかって思うんですけどね、私はね。
ただ、3ヶ月に1回7,000円で1回60分やっただけでは、カウンセリングの効果って一体どのくらいあるかわかんないですけど、もう学派によってやり方全然違うと思うのでわかんないんですけど、
僕は3ヶ月に1回、1回だけ、3ヶ月に1回ですからね、これね。
私テキストストロークは無限回ってしていて、結構言うと驚かれるんですけど、でもですね、テキストストロークの数を数えるよりは楽だろって思うんですよね。
読むことも一気に読みますし、余裕で読めると思うんですよ。問題はそこから考えることの方にあるのであって、それ考えればいいじゃんって思うんですよね、別に。
考えた回数が自分の仕事なんですって言われてや、それはそうなんだろうけど、いやもうでも考えればいいんじゃないかなとかって思うんですよね。
考えたからって別にね、そんなに素晴らしいアイディアがバンバンひらめくってことは誰も期待してる人はいるのかもしれないけど、私は心理師さんにそこまでは期待しないですから。
それでも精神力道を数年やっていて、のべで相当数の手書を持った方とかだったらですね、結構いろんなこと考えつかれるっていうのはもう非常に、私としては当たりがつくというか、そういうふうに思うんで、
それだったら、全然テキストだって結構いけるんじゃないかって大抵は思うんですよね。テキストじゃ絶対分析はできないですけど、アドバイスが欲しいとかは結構ですね、じゃあこういう計画を立てましょうとかよりも、ほるかにわかってくれることってあるはずなんですよね。
【佐藤】そうですね、そういうふうに言って、家族関係ってものすごい僕らに影響を与えてますから、この番組ではおなじみ中のおなじみですけど、母親対象とかってのは本当に絶望的なというか、絶大なと言いますか、良くも悪くも影響力がものすごい甚大なんで、そういうことに視点として長けている人が見てくれればですね、
そういうふうに思います。
【佐藤】そうですね。
コミュニケーションの重要性
【佐藤】これはもう、方法の良し悪しを言ってるというよりは、その観点を取らなすぎるっていうことなんですよ。やっぱ歩けなくなった時に、じゃあ歩けるようになる練習をしましょうってのはいいですよ、そりゃ。でも、いや足折れてますけどってことはあり得るわけじゃないですか。話がね、やっぱりね、そこで議論をするのは間違ってるんじゃないかと思うんですよね。
歩けませんといった時に、まず足が大丈夫かを見るっていう観点がいるんですよ。ここで学科的な論争が始まるってのが、そもそも、まず目標行動を定めるっていう前に足が大丈夫かどうかを見ようと。
足が大丈夫かどうかが全てではないんだけど、足が大丈夫かどうかを見ないっていう発想が、世の中でここまで広がってくるから、まあ足が大丈夫かどうかを見る。まず最初にですね、なぜ起きられないのかを考えるっていうところからスタートしましょうというのが力動的であると僕は思う。
一番そこが当てになる考え方を持って、その原因を見に行くということであれば、原因見ても無駄だっていう意見もわからないじゃないですけど、原因見ても無駄かどうかは見てみないとわからないだろうっていうふうには思いますよね。
はい、だからまず記録とか計画とか目標とかを書く前に、まず原因を考えるということをやると、そこから全てを始めようねっていうところですね。
で、今日はまあそういう話をするということにようやく10分経って思いに至ったわけですけど、やっぱ熱いんですよ、熱い。これが原因ですよ。
熱い中でなぜやってるのかというのは別の原因があるんですよね。それは父親かな、まあ父親関係あるなとは思うんですけど、こういうふうに話を進めていかないと、ただただ思いをノートしただけではわからないことってあるんですよ。
人に喋ってみないとわからないこと、とにかく喋るっていうことによってわかることってのが出てくるんですよ。書き留めればいいってものではないと思うんですよね。
なぜなら書いたときには口は使ってないですからね。口神って言うんですよね、口と唇の時期。つまりおっぱいバブバブして飲んでる。口でやるでしょ。泣き喚く口でやりますよね。
何かにつけて口が優先される時代ってあるわけですよ。その時に悩んだことは、その時悩んでるんですよ赤ちゃんは、きっとね。その時に悩んだことは口と大いに関係があるんですよ。手とは関係ないですよ。まだ手は何も握れますけど、握ることしかできませんからね。
グーパーしかできない時代ですから。その時に手はあんまり重要じゃないんですよ。なのに手を使って何かを書いてしまっているというのはですね、言葉を使うべきではない時期。つまり言葉を使っても解決しない悩みってものが、それを言葉で解決しましょうねってやってるのが精神分析の独特の矛盾なんだと思うんですけど。
でも言葉を使ったからといって解決しないんですよ。言葉を使っても罵り言葉しか出てこない時期ってありまして。だから口を使って問題が解決されるのではないか。コミュニケーションが重要なんじゃないかって言っても、コミュニケーションって言っても言葉によらないコミュニケーションですよね。ノンバーバルってやつですね。
だから同じ空間を共有しろって言うんですよね。確かに。匂いとかね。ある精神分析を読んでいると、この人はPSポジションになると匂いが変わるみたいな話が昔読んだことがあるんですよね。
これはちょっとね、僕もうウロ覚えなんで、本当に読んだのか英語を誤読したのかちょっとわかんないですけど、でもね、わかるような、これがオンラインでの限界なんですよね。わかるような気がするんですよね。
レクター博士がそんなようなこと言ってたような気がするんですよね。レクター博士は架空の人間ですけどね。この辺がちょっとね、僕のインチキメソッドなんで。
だからね、インチキじゃないんだけど物語みたいだなっていうのってある。でもね、緊張すると人は汗をかきますからね。ものすごく嗅覚が鋭い人はそれを察知しますからね。
話の話をするときは緊張せずにはできないって人はいっぱいいらっしゃる。私だってそうですけど。
で、私の話をすると、話をどんどん飛ばしていきますけど、暑いから。
あの、あれですよ。親友、最近バウンダリーって言葉が、言葉は私はあんまり使わずにいきたいと思ってるんですけど、自我境界と言ったりする。
わかりにくいじゃないですか、自我境界って。皮膚なのそれ。皮膚なのって言いたくなるじゃないですか、自我境界とか。
可能性空間、意向空間と似てるんですよね。
お砂場にわまごと出すと、キッチンなりの空間がすごくうわっとできるわけですよ。女の子だけじゃないけど幼児にとっては。
しかしながら、その空間はどこまで広がってるんだ。
お砂場までなのか。それとも公園全体なのか。それはないな。公園全体なのか。女の子のお城広がってる空間はどのくらいなのか。
お母さんがいるところまで含むのか。わからんじゃないですか。
そのもの決まりようがんですよ。空間とはどこからどこまでいるのか。
宇宙空間と地球空間はどう違うのかみたいな。わからないじゃないですか。定義のしようがない。
一応清掃犬とかって言ったりしますけど、とにかく定義のしようがないですよね。
空間っていうのは、ある意味心理的なものですから、うわっと曖昧に広がるわけですよ。
自分が作り出した空間でもあり、外在化する空間でもあるとかいう、外にもあれば内にもあるみたいな、何も言っていないような矛盾したことを言うわけですよ。
でもそうですよね。ママごとの空間って、その子の心の中にある空間だから、その子が作り出したものでもあるし、
でもママごとセットがあって初めて成り立つ場合には、やっぱり物理的なものとの無関係には成り立たない。
そしてどうしても、これはしつこいようなんですけど、野球場と交差点があるんですよね。
交差点ってどこからどこまでが交差点なのか。言うけどね、交差点付近に駐車を済むのは駐車違反である。
付近ってなるじゃないですか。法律ってそういうところあるんで。
バウンダリーって私嫌いなんですよね。わけのわからん言葉だと思っちゃうんですよ。
自宅協会とか自我協会とか、どこからどこまでが自我なのかって、皮膚ですかって言いたくついなっちゃうんで。
侵入っていうのも、何がどう侵入してきて、どこからが侵入、侵入という空間はどこからなのかと。
そういうのがね、やっぱり思うわけですよね。排他的経済水域みたいな。
よく喧嘩になるじゃないですか。それはやっぱり定義非常にしにくいからですよね。
感情と侵入感の探求
最近だから立て続けにそういうお話いただくと非常に考えるわけですよね。
考えて不在論を読んだんだと思うんですけど、だから私は不在論を読み出すんですよ。
HSPの本とかを読むということは多分もうないだろうなって感じがするんですね。
誰かが怒ってますと。コンビニの話を昔僕しましたね。
僕自身も経験したんで、あれ六本木だったのね。コンビニであるおじさんが急に煙草のことで激行しだしたんですよ。
もうビクッとするじゃないですか。問題なのはその時自分が怒られてるような気がするって話を始まるかどうかってことなんですよね。
私はその時自分が怒られてるような気がするんだとすると、何でなんだろうって考えたくなるんで。
考えながらやってると自分に何かが侵入してきたような気がする。
やっぱりこの侵入ってのは一番最初の記憶を、これが原因ですよね。探ると母親なんですよね。
決まって母親が出てくる。母親が侵入してきている。
おじさんじゃんって思うんだけど、おじさんなんですけど、でも母親の侵入ってすごい男性的な感じがするんですよ。
何で男性的なんだろうというのを考えてみると、やっぱりそれはおじいさんに行き着くんですよね。
母親の祖父は非常に暴力的だった。母親はよく殴られた。
ひどい話なんですけど、あの侵入が世代を越えてきて、私はおじいさんに直接怒られたことはないんで。
母親が怒っているっていうのは結局おじいさんが、これを内在化というんだと思うんですけど、この場合はおじいさんの長寿がのように。
母親はおじいさんの長寿がに大っ嫌いだって言っていたんですけど、大っ嫌いな親にほど同一化するんですよね。
そういう時の母親は大変子供っぽくなっていたので、やっぱりこれはおじいさんと喧嘩をしている時の気持ちっていうのがまんま出てくるんでしょうね。
だからもののそもり暴力的なんですよ。殴りこそしないけど、殴りさえしなければ何やってもいいだろうとあんたは思っているでしょうぐらいには暴力的なんですよね。
この侵入感というのが、私が六本木のコンビニで感じていた侵入感とおそらく酷似しているんだろうなと、そういうふうに思うんですよね。
ところで、その時に私は侵入されたと感じているならば、いかなる意味でも現実的ではないですね。現実見当を書いていますね。
現実原則と持ちこたえる力
この時私はフロイトが言うところの一時仮定による、フロイトはそういうふうに言ったんですよ。
回復解原則に従う一時仮定と、PSポジションにほぼ一致すると思うんですけど、現実に従う現実原則、これを二次仮定と呼ぶんですね。
Bポジションにほぼ一致すると思うんですけど。
で、ビオン流に言うと非精神病部分っていうのが二次仮定だし、精神病部分優先なのが一時仮定だろうって思うんですよね。
ただ、ビオンはそれは同時に働いているんだ。どっちが優先かという問題なのであって、どっちが働いているかの問題じゃないかのように言ってるんですよね。
この辺がやっぱりビオン的だなって思いますね。私もおおむねそっちに賛同なんですけど、ただ、DポジションとPSポジションはポジションなんで同時に取れないですよね。
ものすごい高速に行ったり来たりしてるって実感はあるんですよ。家庭のいざこだとか起こると、行ったり来たり行ったり来たりするなっていう。
すごい高速、反復横跳びみたいになっちゃうんですよね。PSD、PSDみたいな。
1秒間に何回移動できるでしょうみたいな、そういうノリになっちゃうんで、とても嫌なんですけどね。
ものすごい疲れるんで、反復横跳びみたいな。なんか私は精神の反復横跳びをさせられてるような感じ。
あれなんか傲慢だなって思うときがあったんですけど、昔。私なんか好きじゃないですか、中学高校とか。小学校の頃にやたらさせられた気がする。
まあまあいいんですけど。それでなんだ。
一時過程なんですよ。つまり回復会なんですよね。だから侵入されちゃうんですよ。ここが難しいんですよ。
いやいや、侵入をそのおじさん本当にしてるじゃんっていうかもしれないけど、してないんですよ。だってそのおじさんは天人に起こってたんですよ。
私の中で一時過程が優勢になると、ここでみんなバウンダリーとかHSPとかいう話になるんでしょうけど、それは一時過程優勢か、あるいは精神病部分が強めに出てるんですよ。
それは精神病なのって言われると、ビヨン流に言うとある程度そうなんですけど、部分精神病みたいな言い方になるんでしょうけど、そこは一旦置いといて。
なぜこれが病理状態だとフロイドとかビヨンは言うのかというと、フロイドとかビヨンの考え方は、二次過程を使える状態にあっても一時過程が支配的である状態を精神病と定義してるから。
で、その一時過程優勢支配的っていうのはゼロ歳児にもいいというのは顕著なの。なぜなら二次過程を知らないから。使えないから。
で、いいんですよ、別に。それがいけないとかいいとかいう話ではないんですよ。必要だし、一時過程。
一時過程とは何かっていうと、これは昨日話した通りなんですが、いいものを取り込み、嫌なものは排出する。
で、このやり方だけだと現実に適応しきれないところがある。上手くいくときは上手くいきます。
だから、何でもいいんですけど、私中華料理とか食べに行くと、すぐに、ちょっと汚い話で恐縮なんですけど、トイレに行きたくなっちゃうんですよ、どうしても。脂っこいから。
だから、おいしいものを取り込んで何かを出す。いいんですよ、これで上手くいってくれると。
ただ、これって基本的には無意識任せ、体任せ。全然意識使う人ほとんどないじゃないですか。おいしいおいしいって食べて、何か出す。
かなり体にやってもらえば済むじゃないですか。
この時に、後進期と後門期っていう、冒頭で話したような話が出て、後進で取り込む、後門で出すでしょ。
どっちに意識を集中しているか、その後門のところっていうのがコントロール器なんですよ。出すか出さないかをコントロールしているから。
これが出さない出さない出さないで頑張っている人は、ケチだという話。
だから、後門期的な人っていうのがよく古典的な精神力度ですよ。
これがみんなすごい、何言ってんだこいつらはって思われるんですけど、要するに締まりがいいわけですよ。ケチくさいわけですね。排出しないわけですよ。
で、貯め込み型なわけですよ。だからお金は貯まるよねっていう。そういう人は便器が多いみたいな、そういう話をしてたりするわけですよ。
なんかの占いみたいになっちゃうし、あんまり最近やらないですけど、そういうことが書いてある本も結構昔はありましたね。
だから、功能神器っていうのは口なんで、ちょっとサディスティックな。口は噛むじゃないですか、歯が生えてて。噛み砕き飲み込むという。
何でも自分のもの、なんかジャイアンっぽいじゃないですか。お前のものは俺のもの、俺のものは俺のものなんですよ。口なんですよね。彼は口がでかい。
そういうような話、ラカンとか、それこそレクター博士みたいな。レクター博士なんか噛みついてましたよね。
トマス・ハリスの話にはよく噛みつく人たちが出てくるんですけど、レッドドラゴンとかもよく噛みついてます。非常に行進的な世界ですよ。
食人サリズムと言ったりするわけですよ。人を食う。人を食ってかかるとか、飲んでかかるとかって言いますよね。強気なわけですよ。
何の話をしてるかというと、それが体任せなので、基本一時家庭なので、赤ちゃんはそれしかできないからそれでいい。赤ちゃんがその状態が支配的であっても、それを病理とは言わない。
でも、大人がこれが支配的であれば、あるいはほとんど一時家庭で動こうとしていると、それは病理になっちゃう。
赤ちゃんはほら、例えば何か悪い空腹になった時に泣き喚くと言って涙を出す。言葉を出す。そしてもしかするとおしっこも出す。そういうことによって空腹を撃退できると思ってる。
これは現実に適応できないですよ。あるいは赤ちゃんは空想をする。おっぱいが来たと。夢を見て、ゴクゴク飲んで寝ちゃう。これもダメですよ。
ここで持ちこたえるということが必要になってくるわけですよ。結構でもいい。これは大人になっても難しいわけですよね。
家に帰ってきました。でも疲れて空腹です。でも誰もいるわけじゃないです。電気つけて、キッチンに行って、冷蔵庫開けて、作れるものを作ってて、電子レンジでチリして。
自分のお腹を満たすというために、現実原則、注意、明記、そして注意して、表記して、記憶を使う。こういうことをやるって、現実というものに適応していくわけですよ、人は。
その時どうしても、でも俺空腹だし、今すぐミルクとか飲んでバナナ食っちゃいたいしみたいな、それを持ちこたえないと何が起きるかというと、もうめんどくさいなーと思ってソファーにバサッと身を沈めてですね、テレビをつけると。
ナイターを見ると、私だったらね。そしてビールでも飲むと。全然空腹を満たすという現実原則に向かってないわけです。赤ちゃんが空想してるのと何も変わらないわけですよね、これはね。
だから、これだって、すごく厳密に美音的なことを言うならば、精神病の部分優先になっているわけですよ。
お腹も空いて、お腹も満たしたいなら、自分の能力を、スキルを使って料理をするんですよ。空腹と疲労は持ちこたえること。
この持ちこたえができないから赤ちゃんは、持ちこたえなきゃならないシチュエーションに入るとすぐ泣き出すわけじゃないですか。あるいはすぐ寝ちゃうとか。
そうすると現実には対応できない。ただ赤ちゃんは現実に対応できなくても、母親が現実に対応してくれるから、ここで奥の場合ね、父親でもいいんですよ。
ここで母子ユニットっていう表現が出てくるわけですよ。母と子を配分で結ぶ。子だけでは生きていけない。
父親かもしれないけど、ここは母ってことになってるわけですよ。これはもう象徴なんだよ。象徴なんだけど具体的なんだけど。
そういうものなんですね。だから母子ユニット。母子っていうのの間に配分が入るのは、別々の個体なんだけど2つで1つ。
カンザイでいうらしい2個1っていう。この2個1状態が健全、これをユニットっていう人が1人でいる赤ん坊などというものはいない。
これはもちろん心のことを言ってるんですけどね。心の中で主体。だから私たち精神分析の世界では私たちではない。精神分析の世界では、劇堂とかの世界では、主体というものが私っていうところにいないわけですよ。
あくまでも主体の中にも、母と子がセットになっている。面倒を見るものと見られるものがセットになって、初めての一つの心なのです。
原始的にそういう核があるから、その核に合わせで作られているので、
私は私だっていうのは、私は私なんだけど、バウンダリーなんだけど、
だから怒鳴ってるおじさんが言おうと言いまいと、自分には関係ないことなんですけど、
これは現実原則を確立した上で、侵入というものがされていないという現実を、
お腹が私は空いているから、持ちこたえてここで料理をしようということができるようにならないと、
できるようにならないと、侵入されてしまうわけですよね。
おじさんの声に、私が怒られているのかもしれないと、私とばっちり食うかもみたいな、そういうふうになってしまうわけですよ。
そういうふうにならないためには、ここで持ちこたえて、怖いが、別にこれは私が言われているわけではないし、
社会的にはね、コンビニの店員さんに同情するならば、何か助け舟を出したりしてもいいのかもしれないけど、それはそれとして、
そういうことをできるようになるためにも、やっぱり一旦持ちこたえなきゃならないじゃないですか。
母子ユニットと自己の理解
その怖さとか、納得いかなさとか、理不尽な感じがするとか、そういう気持ちを全部一旦ここで抱えて、心の中で緊張して抱えてですね、
そうしてでも、現実に起きていることは何かっていうのを見に行って、注意と明記と記憶ですよね。
このおじさんは自分の親ではない、母でもない。このおじさんが言っていることは、向かっている相手は私ではない。
これは全て注意力がないとできない。だから赤ちゃんがそこにいたら泣いちゃうでしょ、多分。
わーって言われて、わーって泣いちゃう。それは何が起きているか分からないからですよね。
この何が起きているかが分かっていない状態になってはいけませんよっていうか、ならない力を持ってますよっていうのが力道とか分析で言いたいことなんですよ。
だからまず、歩けませんってことになったら、足がどうなっているのかを、痛いしすぐ歩けるようになりたいっていう気持ちもあるんだけど、そこは一旦持ち応えて、今どうなっているのかを見に行きましょう。
結構ね、これが誰にでもできるようで誰にもできてないんじゃないかって話ですよ。
例えばプロ野球とかでもあるじゃないですか。肘が痛いですと。肘がどうなっているのかを見に行くべきじゃないですか。
ところが意外とそれをせず、いや、ここはもう根性論で頑張って投げるとか言って選手生命縮めるみたいな話はいっぱいあるわけですよ。
これは回復回原則を優先しているんですよ、現実原則に対して。
もちろん現実にピッチャーだから、無理してでも投げなきゃいけないんだってことになってるんでしょうけど、やっぱり現実を見に行くというのは大事なんだ。
現実を持ちこたえて、早く投げたいとか、 ここで自分が出ていかないとチームが負けるとか、
そういう気持ちを持ちこたえて、現実というものを 検討しなきゃいけないんですよ。二次過程に行かなきゃいけない。
ライフハックの意義
意外に僕らは失敗するんですよ、それに。すごく簡単に。 だから赤ちゃんが泣くっていうのは、とても勉強になるわけですよね。
あの姿こそ、私たちなんですよ。 一次過程における。
で、さっきも言いましたけど、何故起きられないのかとか、 何故片付けられないのかとなった時にですね、
我々はライフハックとか仕事術という話をした時に、 基本的には二次過程的に一見ものすごく見えながらもですね、
すごい一次過程的なことをやり出すっていうのが、 この種のことを考える上ではすごいポイントとして大事だなと思います。
ライフハックっていうものを考える時に、ものすごくそれは現実原則的に見えるじゃないですか。
ものが実は結構、なんていうのかな、空想的な感じがするんですよね。 例えば、何が嫌なのかを書き出せば起きられるようになるだろうっていう空想しがちですからね。
そんなことは分からないことですよね。 分からないだけではなく、何が起きているのかは無視してますよね。
早く起きることは良いことだっていう空想を先に立てて、明らかにこれは空想ですよね。万能空想ですね。
早く起きることは良いことだという空想を先に立てて、 私も昔散々パラやりましたけど、4時とかに起きると何か良いことがあるような気がするわけですよね。
で、良いことが起きたことにしちゃうわけですよね。 これはもう完全にある意味精神病水準の考えなんですよ。
万能空想でいいんですけれども、完全に万能的な考え派ですよね。 4時に起きれば良いことがある。
それは定義的な仮説なんですよ、一つの。 絶対的心理みたいなものを4時に起きれば良いことがあるんですよ。
そういうことにしてしまうんです。 だから、何が何でも4時に起きなきゃなんなくならないんですよ。
9時に寝てでもとか、いっぱい寝るんだよ。 あるいは、自動的に光っていくやつとか、音楽が流れるやつとか、
何でもいいんだけど、シャワーすぐ浴びるとか、 何でもいいんですよ、本当に。
それらはでも、なぜ起きられないのかとか、どうして起きなければいけないのかについては真剣に考えてはいないんですよね。
結論が先に立ってしまう。 しかもそれだけではなく、起きられないということが最終的にありえないことになってます。
じゃないとライフアップって結構成り立たないんですよ。 いや、でも結局起きられませんでしたっていうのは結構ダメな感じにするんですよね。
不思議なことに。 結局起きられませんでしたっていうのが現実であれば、やっぱりそれを、そこに注意を払うべきだと思うんですよね。
つまりどこまでもリアリストでなきゃいけないと思うんですよ。 どこかでファンタジーに走ってしまったんでは、意味が全く転倒してしまう。逆転してしまう。
最初から神田のミスローになったら、最初に神に頼んだって言うわけじゃないですか。 起きられますよ。
結局同じことになると思うんですよね。 結局は起きる。結局は片付ける。結局はタスクをする。 結局は確定申告の準備をする。
コツコツだろうが少しずつだろうが同じですよね。 結局はそれをする。することが良いことであるっていうことに先に決まっていたら、
そしてどこかでリアリティというリアリストであることをやめてしまうのであるならば、 最初からある意味ファンタジーの世界に行ってしまってもいいわけですよ。
シャワーを浴びれば絶対起きられるのか?そんなことはないですよね。 音楽を少しずつ大きくすれば絶対起きられるのか?そんなことはないですよね。
少しずつ光が強くなるライトを使えば絶対起きられるのか?起きられない人いっぱいいるじゃないか。
どっか逃げていく目覚ましを使えば起きられるわけではないですよね。 9時に寝れば起きられる。そんなことはないですよね。
つまりそんなことはないはずなんです。 それはどこか現実を無視して、どこかでファンタジーの世界に逃げて、
どこか宗教的なんですよ。って言って、宗教に悪ければ、どこかそれはオカルトなんですよ。やっぱり。
起きられるはずであるという決めつけをどこかで、神様がそう決めましたというのは何も変わらないわけですよ。
起きられないのが現実なのに、どこかでそれを無視しようとしているわけですよ。
ブログを書くのだろうと、本を書くのだろうと、プロジェクトに期限までに間に合わせるのだろうと、全部同じ。
それが確定事項として決まって、小分けにすればできるわけでも、プロジェクトノートをつければできるわけでも、逆算すればできるわけでも、アウトライナーを使えばできるわけでも、ないんですよ。
だって、できることに決まっているんだったら、結局のところ、そこについて考える必要ってなくなっちゃうじゃないですか。
できることに決まっているっていうのは、赤ちゃんのおっぱいが出ることに決まってるって空想してるのと全く変わらない。
お母さんが家を出て行って、パチンコ屋さんに行っちゃってるのかもしれない、ひどい話ではあるけれど、そういう現実はあり得るわ。
でも赤ちゃんにそんなことは耐えられないんですよ。だって命に関わるから。だからこそ、おっぱいをもらってるっていう夢を見るんですよ。
あの、怪獣たちのなんとかっていう、これは松木くねさんの本に出てくるんですけどね。それは、やっぱり夢を見て防衛しようとするわけですよね。
で、怪獣踊りとかいう、怪獣音頭だったかな。一緒に怪獣と踊る夢を見るわけですよね。この怪獣が親を象徴しているのは間違いないですよね。
で、親に罰として夕食抜きってことにされて、部屋に閉じ込められちゃったっていう、ヨーロッパでは時々あるらしいんですけど、そういうことに二三歳児がなるわ。
そうすると、いいもんってことに。子供としてはしょうがないですもんね。いいもんでほどにして、怪獣音頭踊るという夢を見るわけですね。
でもまあ、やっぱり怪獣と別れの時が来るわけ。つまり、防衛しきれないわけですよね。やっぱりお父さんお母さんが本物であってほしいわけですよ。
怪獣と一緒に音頭踊ってる場合じゃないわけですよ。空想するというのは切羽詰まってるってことなんですよ。一時過程の限界を迎えつつあるからこそ、空想が夢になり、夢の世界で自分を慰めるという、私たちは絶対それをやってきてるはずなのかと思う。
私だっていっぱいやりましたもん、それ。親を痛ぶる夢とか、いっぱい見ました。3歳の頃とかね。アンデルセンの童話とか読むわけですよ。
そしてめでたしめでたしの世界に逃げて、なんか親と喧嘩をしたとか、みかんをもらえなかったとか、妹を泣かせて怒られたとか、そういう面白くない現実に対抗するために夢を見る。
で、僕らも見るんですよ。家に帰ってきても誰もいないし、食事も作ってくれる人いないし、お腹は空いてるけどすごい疲れてるし、
だからロッテ巨人とかを見て、何か夢の世界に逃げちゃう。でも防衛しきれないですよね。だって空腹は厳然として残りますからね。
だからそこね、いずれ現実原則というものに向かっていかなきゃならないわけですよ。冷蔵庫を開けて何があるかを確認して、自分が何を作れるかを思い出して、
記憶、明記、注意ですよね。そして食事を作って、自分で自分のケアをして、お腹を自分で満たす。この時に母か子かどっちかだけってことはありえないから、
自分自身の主体というものが一個にまとまることはないわけで、やっぱり二つあるわけだと思うんですよね。力度はそういうふうに考える。
その時に、小分けにしたりレシピを用意したりするっていうのは、ここで初めてやる。まず必要なのは持ちこたえるってことです。持ちこたえればやれるっていう見通しが立てて、持ちこたえるって思う。
赤ちゃんには本当に難しいと思うんです。1歳時に我慢して頑張ってみると、マシュマロテストっていうのがありましたね、昔。あれがまさに持ちこたえテストです。
あの時期を越えてきているから私たちは持ちこたえて、自分で自分のケアができる。この力をもっと使いましょうねって話ですよね。持ちこたえましょう。
セミナーとかでよく、「お質問ありませんか?」って言っても、基本静かになるじゃないですか。下手なことを言って馬鹿にされるんじゃないかとか、こういう気持ちに持ちこたえないと、私たちは空想世界に行ってしまうんですよ。
馬鹿にされるっていう空想を現実のものだと勝手に思い、取り違えて、だから黙っておこうというふうに、このようにして投影が現実化してしまうんです。投影が同一化してしまうんですよ。
みんなは私が馬鹿なことを言うと馬鹿だと思うんでしょうっていう投影を立てて、そして、だから私は馬鹿だと思われないために黙っていますっていうことという現実を作り出して、
ということは、みんなは私が馬鹿なことを言うと馬鹿だと思う人になっていくっていうふうに、現実の価値がじわっと、ミリ単位で下がる。
立つ価値化が起こるわけですよね。これが投影同一化ですよね。その時、ミリコットが言った通り、その現実世界っていうのは自分が作り出したものでもあるし、
みんなが協力して作り出したものでもあるので、内側にありながら外側から来るものでもあるみたいな、何も言ってないような、何か言ってるような言葉が出てきたりするんだと思うんですね。
つまりママごとなわけですよ。ここにお茶碗、プラスチックのお茶碗を出すと、お砂場がキッチンになるっていうのは女の子の空想世界ですけれども、同時にお砂場とプラスチックの茶碗が協力して初めて作り上げられる世界でもあるわけですよね。
野球場も交差点もまさにそういう空間だと思うわけですね。
なので、これは結局ですね、ライフハックっていうのは持ちこたえた後に来るものだっていうだけなんですよ。
持ちこたえる意味があってのものなんですよ。持ちこたえずにはできないものなんですよ。持ちこたえるってことこそ、実はそこが逆説的なんですけど、
持ちこたえる力について
非常にライフハック的な我々の神聖が嫌うものでもあるわけですよ。持ちこたえた後、初めて会社では歯の治療ができるわけじゃないですか。痛みに耐えて。小泉症じゃないですけど、痛みに耐えて。
でも痛みに耐えたくないから麻酔薬っていうライフハックができるわけですよね。
回復解原則でどこまでもやりたい。でも私たちはどこかで原理通り原則に立ち返らなきゃいけない。だって少なくとも一つは忘れたから三つあるわけですよ。
絶対に私たちが現段階では持ちこたえなければならない三つの嫌な人にとっては嫌なこと。一つ、両親のセックスによって自分が生まれたんだから両親のセックスは最高のものです。
一つ、時間は不可逆です。必ず最終的には私たちは終末を迎えるし、基本的にどんなに後悔があっても時間は不可逆です。時間不可逆を喜びましょう。
もう一つあったんだけど忘れました。もう一つも非常になるほどなって思うようなことなんですけれどもね。だから我々は原図原則に従うしかないんですよ。
そのためにはまず、どんなに嫌悪感を催すような発想とかイメージであっても、それに持ちこたえるよりも、そこから原図原則が始まって、私たちはそれをやってきているはずなんですよ。
オットランクあたりに言わせると、すでに生まれた時にトラウマあったでしょうってことになるわけですよ。ここの子宮出たら俺絶対やばいわ死ぬわっていう時に出てこなければ生まれることもできなかったんですよね。
出生外症ですよね。わかんないですよ、そこまでいってくると。
精神分析の臨床の中には、出生時のトラウマというものを2人で分析室の中で思い出す。大体ものすごい暗くて狭いところを何とか2人でくぐり抜けてきたっていうような夢を2人で見るみたいな話になってますけど、私はそこまではわかんない。
わかんないですけど、まあでも脳を持って生まれてくるわけですからね。少なくとも私たちは、しかも出てきた赤ちゃんはみんな揃って泣いてますからね。泣いてない赤ちゃんいたとすると結構やばいと思うんですよ。
結構あのね、生々しい姿で、うおーって泣いて出てきてますからね。でみんな喜んでるわけだけど、いやいやいやいや、やばい世界っしょっていうふうに最初は思いますけどね、いや思わないんですよね。